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大山(だいせん)
 
大山(だいせん)は、鳥取県の大山町・伯耆町・江府町・琴浦町・米子市・倉吉市・北栄町・岡山県真庭市にまたがる国内有数規模の標高1,729mの成層複成火山。

出雲国風土記によれば古くは「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、奈良時代の養老年間に山岳信仰の山として開かれたと言われ、山腹に大神山神社奥宮や大山寺・阿弥陀堂がある。明治の廃仏毀釈まで大山寺の寺領として大いに栄え、一般人の登山は禁止されていた。

古来より日本四名山に数えられた。また、登山家 深田久弥選出の日本百名山の一つであり、日本百景にも選定されている。

大山の主峰は剣ヶ峰(けんがみね、1,729m)。中国地方の最高峰であり、中国山地から離れた独立峰である。

山容は東西約40km、南北約35km、総体積120平方キロメートルを越える。

なお、大山とは一般的に主峰の剣ヶ峰〜三鈷峰と外輪山の烏ヶ山・矢筈ヶ山・甲ヶ山・勝田ヶ山・船上山を総称しての名称でもあるが岡山県との境にある擬宝珠山・上、中、下蒜山や皆ガ山なども含めて表すことも多く、専門家には同じ山系に位置づけられる。

現存する大山に関する最も古い記述は出雲風土記の国引き神話で、三瓶山(島根県)と同様に縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとある。出雲風土記中には「火神岳(ほのかみだけ)」と記されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  
大山と山麓
 

大山(だいせん)は複雑な表情を持つ山だ。出雲から見れば、長く裾野を引く優美な富士形に見える。

南と北は壮大な大岩壁が連なって、いかにもけわしく豪快なアルプス的山容を見せる。南壁、北壁と呼ぶ。

『出雲国風土記』は、この山を火神岳(ひのかみのたけ)と書く。

国引きの神話で、高志(こし)の都都(つつ)の三埼に大綱を掛けて国来(くにこ)、国来と引き寄せて縫い合わせた三穂の埼を、しつかりとつなぎとめた加志(かし)(杭)が火神岳であった。国引きの綱は夜見嶋(よみのしま)であるという。

今の長大な弓ヶ浜は、古代、まだ島であったことを知る。

島というより、多分、丹後の天ノ橋立のような砂州であっただろう。

古風土記は奈良時代の初め、和銅六年(713)に元明天皇の詔(みことのり)によって選進された。

そのころの地形がこのようであり、大山に火の神が祀られていたらしいことも想像させる。

ついでに言えば、古風土記で一国分の完本が伝存するのは、出雲だけだ。

播磨、常陸、肥前、豊後は一部を残すが、他の諸国分は失われた。種々の古書に引用された逸文が残るだけである。

…小山 和著「古道紀行 出雲路」より

 
 
阿弥陀堂(重要文化財)阿弥陀如来及び両脇侍像
 

桝水高原から北(右)へおよそ4キロ、再びブナの林の中を抜けて行くと大山寺(だいせんじ)がある。

安来(やすぎ)の清水寺(きよみずでら)、平田鰐淵寺(がくえんじ)と共(とも)に、山陰の天台三大寺と称された地蔵信仰の大寺院──大山寺を訪れる人々を観察していると、たいてい本堂へ参詣して引き返すようだ。

大山寺本堂の南、南光河原を隔てた山腹の深い林間に、重文阿弥陀堂が秘められている。

この参道の美しさ、幽寂の雰囲気は秀逸だ。

大山の夏山登山口にも当たり、登山シーズンには山行きの人々に行き合うことも多いが、5月中旬の阿弥陀堂参道には人影もなかった。

石段道沿いに、金剛院、蓮浄院、やや上の右手に洞明院、円流院などの塔頭寺院が、茅葺き屋根のまま、江戸時代の面影を残して静まっている。

1山3塔42院を数えた中の、西明院の名残がここで、道の左右に残る低い石垣は、明治維新に亡びた院坊の跡だ。

蓮浄院は文豪・志賀直哉が滞在した宿坊である。

今は精進料理の坊として名高いが、当院へ滞在中の文豪は大山へ登ったようだ。

 

志賀直哉は代表作『暗夜行路』の終章で、主人公時任(ときとう)謙作を大山へ登らせ、神秘の世界を見せる。

「謙作は不圖(ふと)、今見てゐる景色に、自分のゐる此大山がはっきりと影を映してゐる事に気がついた。

影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、恰度(ちょうど)地引網のやうに手操られて来た。

地を嘗(な)めて過ぎる雲の影にも似ていた」。

(岩波書店刊・志賀直哉全集から)

 

大山の山影を平地に見るこの夜明けの光景は、主稜西端のピーク、弥山(みせん)からの眺めである。

志賀直哉は「山影が手操りよせられてくる」光景を見たに違いない。

 
私は急に、宿坊へ泊まり、夜明け前の大山へ登ってみたい誘惑を強く感じた。

それは強引で、泡立つような強い誘惑だった。

登山装備の用意さえあれば、まだ山開き前の弥山へ私は登ったかもしれない。

 

杉や樅(もみ)の高木(こうぼく)をまじえたブナ、ミズナラの新緑がまぶしい。

あいにく空は灰白色の雲に覆われてひととき周囲は暗くなったが、その暗い空に映(は)える緑のみずみずしさは、ひときわ鮮烈な印象を与えた。

林の下かげにシロバナヘビイチゴがひっそりと咲き、亡び去った院坊の石垣に、山吹が黄金(こがね)色の花を群れ咲かせている。

登っても、登っても、石段道は林の中に消えて果てがない。山岳仏教天台の奥深さである。

蓮浄院からおよそ15分、登り着いた山腹の右に、阿弥陀堂が清楚な側面を見せ、沈み込むような重い静寂につつまれていた。

石段遥からまっすぐに深い森へ消え入るような細道は、そのまま大山へ続く夏山登山道である。

阿弥陀堂は方五間(ま)、宝形造り柿葺(こけらぶ)きの重厚な古建築。

当寺には慈覚大師円仁和尚が大唐留学から帰国の後、五台山に修得した「引声(いんじょう)の阿弥陀経」の秘曲を伝えた、という伝承がある。

秘曲の修行道場として、二十四間(けん)四面という巨大な常行三味堂があった。

すこしまぎらわしいから書いておくと、寺院建築で一間(ま)、という場合は柱と柱のあいだ、柱間(ま)で規準は十尺(3.03メートル)。一間(けん)という場合は規準尺度で六尺(1.818メートル)。

だから二十四間(けん)四面の御堂は柱間(ま)にして実に十四間(ま)、一面43.6メートル余の大建築となる。

東大寺大仏殿が正面57メートル、側面50.5メートル ── 比較してその大きさが偲ばれよう。

常行三味堂は享禄2年(1529)、大洪水に流出した。流された古材を拾い集め、天文23年(1554)に再建したのが今に残る阿弥陀堂で、総円柱、細部に鎌倉様式、室町様式が混合しているけれども、総体的な印象に藤原時代の優雅な雰囲気をたたえている。

堂内は内陣、外陣の結界がない。簡素な須弥壇に安置された金色(こんじき)に輝く巨大な阿弥陀三尊像と、いきなり向き合うのである。

はじめて堂内を拝した時、私も妻も一瞬息がとまる思いがした。圧倒的な何かの「力」を感じたのである。

単なる造形を超えた、神秘な何かが、そこには立ち込めていた。

照明はない。明け放した入口からさし込む外光に、黄金の仏だけが浮き立ってみえた。

その仏は中尊2.46メートル、衣の裾が台座へ豊かに垂れている──裳懸座と言い、中国の唐代に流行した古い型式を伝えたものだ。

裳のかかる台座から仏体が切り離されているのは、時代の新しさを感じさせるけれども、肉置(ししお)きは厚く、張りがある。

身光、頭光を重ねて雲中奏楽菩薩の浮彫をはめ込んだ光背も壮麗だ。

この如来が仮に立ち上がれば、5.5メートルを超える巨人になる、と言えば大きさが実感できるだろうか ?。

左右に侍立する脇侍は向かって右の観音菩薩が左手を肘(ひじ)から曲げて蓮華を持ち、左の勢至菩薩は反対に右手で蓮華を捧げている。

いずれも像高2.73メートルの立像(りゅうぞう)で、13の種子(しゅうじ)をはめた精巧な舟形光背を負う。

天承元年(1131)、京の大仏師良円の造像銘があるそうだから、藤原時代後期の秀作。

観音は宝冠に弥陀を戴き衆生の一切の苦難を除く。勢至は智をつかさどると言われるが、この菩薩は宝冠の中に宝瓶(ほうびょう)を戴いており、その中に前生の父母の遺骨を秘めている、ということはほとんど知られていない。

親孝行な菩薩であり、化現して月になるといわれる。以上は饒舌(じょうぜつ)に類するが、三体そろって国の重文。

堂内に鎌倉時代の古鐘がある。『大山雑記』は、阿弥陀川の河口、海へそそぐあたりに、弥陀の小像を抱いて沈んでいたとしるしている。

何となくロマンティックな梵鐘で、名は竜鐘 ── 一種の沈鐘伝説として興味深い。

…小山 和著「古道紀行 出雲路」より

 
宝牛(たからうし)・別名「撫で牛」
大山寺(だいせんじ)
 
私は蓮浄院下の駐車場へ車を置いたまま、歩いて大山寺橋を渡った。

この川は奇妙な川だ。普段は水のない掴(かれ)川で、金門から元谷へと続き、峨々としてそびえ立つ大山北壁へ達するが、川尻がない。

途中で消えてしまうのである。

大雨の時は激流になり、佐陀川へそそぐと聞いたが、私は水流を見たことがない。

掴沢、というには幅が広い。室町時代の末期、巨大な常行三味堂を押し流したのが、この掴沢の洪水だった。

橋を渡れば大山の町の上部へ出て、石敷の参道がゆるやかに登り、左に五つの山内寺院がある。

右の近代的な建物は大山寺宝物館霊宝閣。

大山寺一山の秘宝を収蔵すると共に、常設展示もしている。

白鳳時代の金銅観世音菩薩立像三躯、中国末代の精巧な金銅観世音一躯の四重文仏のほか、重文鉄製厨子その他、多くの古仏があって、仏教古美術行脚には欠かせないだろう。

中に大変美しい金銅の半跏踏下(はんかふみさ)げ地蔵尊があった。

頭部残欠を残して焼失した菩薩に、仏体を補作して継いだと問いている──焼け残った頭部へ、体部を補作して継ぐということは数例あるが、私はその行為に昔の人の深い尊信、そして仏を焼いたことへの言い難い畏怖(いふ)と悔恨(かいこん)を見る心地がする。

大山寺本尊は地蔵菩薩で、地蔵信仰の中心だったのである。

大山寺縁起は、出雲ノ国玉造の猟師依通(よりみち)が美保ノ浦で金色に輝く狼を見かけ、これを追って大山へ入り、まさに矢を射ようとしたところ、忽然(こつぜん)と矢の先に地蔵菩薩が現れた。

依道は驚倒し、殺生の罪を深く悟って僧になった、と語っている。

西行法師作といわれる『撰集抄(せんじょうしょう)』では、養老の頃(717〜723年)、俊方(としかた)という猟師が大鹿を追いつめ、鋭く矢を放った。彼は多くの鹿を得たが、帰ってみると、射放した矢はすべて安置してあった地蔵尊に深く突き立っていた。

『撰集抄』は西行を作者に仕立てた偽書とわかってはいるが、鎌倉時代の作と認められてもいる。依道、又は俊方の法名を金蓮と呼び、大山寺開山としている点は縁起も『撰集抄』も同じだ。

金蓮は地蔵示現の山へ草庵を結び、地蔵菩薩を安置して深い信仰生活に入った。これが大山寺のはじめである、と。

地蔵菩薩が、いつ頃から日本に知られていたのか興味があって、調べたことがある。

地蔵はインドの地母神に発し、地神として現れるけれども、文献に確認できる最古は宝亀二年(771)、興福寺地蔵堂建立だった。

後代成立の伝承は別として、飛鳥時代に、地蔵信仰の痕跡を探しあてることはできなかったのである。

造像の遺例としては南大和室生寺、明日香の橘寺、京都広隆寺像が古く、いずれも平安初期、弘仁時代(810〜823年)の作。

大山寺縁起が『撰集抄』のいうように宝亀年間のことと仮定すれば、どうやらここが地蔵信仰発祥地である。

貞観八年(866)、慈覚大師が大山寺へ登って顕密の大法を伝え、秘曲「引声の阿弥陀経」を伝授した。以来天台宗に列したと寺伝にある。

引声の阿弥陀経はどういうものかよくわからない。

ただ、グレゴリー聖歌に優るとも劣らない、と高い評価を受ける仏教声楽・声明梵唄(しょうみょうぼんばい)は慈覚大師が唐から持ち帰られた。

大師の『入唐求法(にゅうとうぐほう)巡礼記』に、帰朝早々綵帛使(さいはくし)を大山寺に登らせ、綵帛(色絹)を捧げ、金剛般若経五千巻を転読させた記載がある。

入唐留学に先立ち、行旅の安全を大山寺へ祈願、無事帰国したことへの奉謝であった。

慈覚大師は天台密教(台密)を大成なさったかただが、貞観六年(864)1月14日のご遷化─寺伝に年代の錯誤があるけれども、以上の伝承は初期の声明梵唄が当寺へ伝えられたことを想像させ、比叡との密接な結びつきも伺わせる。

平安時代初期には、既に中央へ名の聞えた霊山として発展していたことを知る。

霊宝閣の裏手も美しいブナ、ミズナラ、イタヤカエデなどの自然林である。

林を抜けると荒々しい石の堆積する涸(かれ)川だ。

南光河原と呼ぶ。河原の対岸に阿弥陀堂の森が見える。

石敷参道は高く急な石段へ続く。登りついた宝形造りの大堂が大山寺本堂に当たるが、もとは密教の教主大日如来を安置する大日堂であった。

明治維新の神仏分離で、大智明権現と尊崇された本尊を大日堂へ移して、本殿を大神山神社へ引き渡したのである。現存の御堂は昭和26年の再建。

本堂前、向かって右手に大きな牛のブロンズ像がある。宝牛(たからうし)とも、撫で牛とも呼ぶ。

この牛を撫でて願掛けをすれば、一顧は必ずかなうといわれる。

一願不動、一顧地蔵などは多いが、一顧牛は珍しい。

実は江戸時代、当寺祭礼に牛馬市(いち)が立った。山村に強固な信仰基盤を持ち、牛に緑が深かったのである。

江戸時代の牧牛は、大山寺が信徒の基盤とする中国地方の山間部に盛んであり、牛市は大山市(いち)と石見の阿須那市(いち)が最もにぎわったという。

阿須那は中国山地のただ中、三次(みよし)の北西、邑智郡羽須美村(現美郷町)に今も阿須那の地名が残る。

広島県境に近い山の村だ。

昔は輸送、農耕の主役であった牛を大切にする気風が、牛の説話を生み、宝牛の信仰になったのであろう。

私は牛の脚部を撫でながら、盛大な牛市が立った頃の、当寺の賑わいへと心が漂い流れてゆくような気がした。

老婆が一人寄って釆て、口の中で何かとなえながら伸びあがり、牛の腰をさすって合掌した。「あ、腰が痛いんやな」と思いながら、私は愕然(がくぜん)とした。

ご利益というものを信じない私が、無意識に、牛の足を撫でている……歩き疲れて、脚がすこし痛かったのである。

…小山 和著「古道紀行 出雲路」より

 
 
大山御幸(みゆき)大山寺を彩る時代行列
 
山岳信仰に帰依する修行道場として栄えた古刹を舞台に、毎年5月、博労座駐車場から、大山寺参道、そしてココ大山寺を舞台に繰り広げられる御幸(みゆき)は、古の装束をまとった男たち、また煌びやかな御輿が参道を練り歩くこの地方独特の時代行列。

平安時代に始まったと言われる大山寺の祈願法要で、地元の人からは「大山さん」と呼ばれ親しまれるなど長きに渡り受け継がれてきた伝統行事です。

 
金門から望む「賽の河原」
佐々木地蔵
大神山神社(おおがみやまじんじゃ)
 
大山寺本堂石段下から左へ分かれ細道を行くと、大神山神社奥宮参道へ突き当たる。

この参道は、阿弥陀堂参道と並んで大山で最も美しいと私は思う。

石敷の小道は、ゆるやかな登坂となって林の中へ吸い込まれていく。

ブナ、カエデ、ミズナラ、ミズキ、ところどころに杉の巨木もまじえ、緑のトンネルをつくつている。

道の両側、数十メートルが疎林となっているのは、社家・院坊の跡であろう。

私は本堂前の石段は登らずに、この石敷遥から本堂へ、そして奥宮へと登ることが多かった。

参道へ入ってほどなく、高い台座へ安置された佐々木地蔵と姿のよい不動尊石仏がある。

佐々木地蔵は初め木彫だったそうだ。

鎌倉時代初期の武将佐々木四郎高綱像との伝がある。

この人は源頼朝の挙兵当初から参陣して鎌倉幕府の創業をたすけ、備前の守護となったが、出雲、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)など山陰諸国にも恩賞地を持ち、大山寺信仰圏に強い影響力を持っていたと思われる。

父は近江源氏佐々木秀義、母は源為義の女(むすめ)、鎌倉初代将軍頼朝にとっては従兄弟に当たる。

大病して大山寺へ祈願、平癒したため当山へ厚い信仰を寄せたという。

石敷の小道は約1.2キロ、途中で右へ分岐する枝道へ入れば、数十メートルで金門の奇勝がある。

切りわけとも呼び、岩壁を鋭く切り割ったような高い断崖が左右へ立ちあがる。そのあいだから、豪快な大山北壁がくつきりと姿を現すのである。

それはまるで、ドラマティックな一幅の絵だ。

もと大山寺の行場として断崖上に五大虚空蔵堂、求聞持堂、文殊堂などがあったとも、大智明権現の正門として御金門の額を掲げたとも伝えている。

今は東の岩壁にただ一尊、地蔵菩薩のレリーフを残すだけではあるが、北壁の展望はここが最も美しい。

賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。

そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。

このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。

もとの石敷参道へ戻って左へとれば、一塊の大きな自然石へ弥陀の名号と半肉彫りに尊形を刻む吉持地蔵を過ぎ、木立が次第に密生して、やがて左へ石段を登る。

この広い石段は上部左右へ豪壮な袖石垣を設け、いかにも僧兵が現れそうな構えである。

登りついた正面に、入母屋造り妻入り、軒唐破風(のきからはふ)付きというユニークな拝殿があり、左右へ各八間の長廊下を付属している。

まことに珍しい、長大な建物な建物──文化二年(1805)に再建された江戸時代後期の建築ではあるが、本殿、幣殿とともに国の重文指定を受けた。

神仏混淆(こんこう)の時代、大山寺一山の本尊とされた大智明権現本地の地蔵菩薩を奉安し、牛馬の守護神として厚く信仰された社である。

明治の神仏分離令で本地仏を大日堂へ移したことは前述した。その時、社殿は大山の山神を祀る山麓尾高の大神山神社へ引き渡され、その奥宮となった。

尾高の大神山神社は『続日本後記』に、「承和四年、伯耆国無位大山神、授位」の記載があり、二宮明神とも、大仙(だいせん)権現とも呼ばれたから、大山寺にゆかりの深い神社だったに違いない。

祭神を大己貴神としるしているけれども、『続日本後記』にある通り、当初は大山の山神を祀ったものであっただろう。古風土記に、火神岳(ひのかみのたけ)としるされていたのが思い出される。

大山寺本堂前はかなり賑わっていたが、奥宮には取材中一人の人も来なかった。

深閑として、奥宮境域は大山寺の別天地、という感が深い。

大山寺衆徒(しゅうと)三千、と先に書いたが、元弘三年(3321)二月、隠岐還流の後醍醐天皇が島を脱出、名和庄の豪族名和長年(なわながとし)を憑(たのん)で船上山(せんじょうせん)へ籠(こも)られた時、峰続きの大山から衆徒七百が駆けつけている。

寺記は別当信濃坊源盛が衆徒を率いて参陣したとしるし、この人は名和長年の弟としている。

船上山に龍られた後醍醐天皇は、山上から各地の豪族、有力寺院へしきりに討幕の綸旨(りんじ)をだされた。

豪族は興亡が激しいためそうした古文書を残さないが、後出の鰐淵寺に後醍醐天皇御願文、名和長年の執達状が現存し、山陽道尾道(広島県)の浄土寺に綸旨一通が残る。

大山寺は数度焼けて古文書を失ったが、船上山からは最も近い大寺院として、多分綸旨を賜り駆けつけたのだろう。『太平記』船上合戦の段にも、「大山ノ衆徒七百余騎」とある。

大山の衆徒は信奉する大智明権現─今の奥宮に肩を接して群れ集まり、精祈して出陣した……そんな風景が見える。

木立の中に、私は七百余の僧兵が充満し、祈祷の声が四囲に谺(こだま)したであろう光景を想像した。その繁栄はもうない。

日雀(ひがら)であろうか、澄んだ鳥声が二声、三声、耳に快く響くばかりで、奥宮の静寂は限りなく深い。息づくような微風には冷えびえとした湿気があった。

私はその静けさをすこし惜しみながら、石敷の小道を戻った。どういうわけか、これほど豊かな大自然の緑の中に、野鳥の声は乏しかった。

大山の山腹にはヒガラ、コガラ、シジュウガラなどカラ類が多いのだが、まだ暖かい山麓から登って釆てはいないのかもしれない。

このあたりは標高約770メートル、初夏というよりも、まだ春めいた風が吹いていたのである。

…小山 和著「古道紀行 出雲路」より

 
 
大山夏山開き祭
 

本格的な夏山シーズンを迎える6月には、夏山の安泰を祈念し、自然と人間との結び付きを高めることを目的とし、夏山開き祭が開催されます。

その前夜祭では、2000本のたいまつ行列が大神山神社奥宮から博労座まで続き、参道は松明の光のウェーブに照らされます。

翌日の早朝、大山頂上の弥山で夏山登山の安全祈願が行われます。ふもとの博労座ではフリーマーケットや、コンサートなどのイベントが開催されます。

前夜祭 6月3日(土)  

18時30分 〜 大神山神社でザイル祭とあわせて神事を行います。

19時30分 〜 本格的な夏の到来を告げる美しい炎のウエーブ2000本の「たいまつ行進」が行われます!

(大神山神社〜博労座までの約1キロ)

山頂祭 6月4日(日)

10時〜大山頂上で登山者の安全祈願「山頂祭」の神事が営まれます。

(登頂は各自自由)

 
 
大山登山
 

夏山登山道から1,710メートル。ピークである実質上の山頂弥山にある山頂小屋付近までは登山可能であるが、そこから一等三角点地点や最高点の剣ヶ峰方面へは、稜線が両サイドとも崩落しており縦走は禁止されている。

これは特に鳥取県西部地震以降、山肌の崩落が激しくなって危険なためである。

しかし、毎年無謀な縦走を試みる人が後を絶たず、死傷事故も発生している。地形は毎年変化しており、過去の情報が通用しない場合があることを銘記されたい。

登山コースは数種あるが、大山寺や下山キャンプ場から入る夏山登山道が一般的で登山者も最多である。

ついで元谷〜ユートピア避難小屋ルート、また船上山〜甲ヶ山・野田ヶ山に至る縦走路もオススメだが経験者向きである。

公共交通機関でのアプローチはJR米子駅から大山寺行きのバス(1日8往復)のほか大山るーぷバス(臨時)、JR大山口駅から大山寺行きのバス(1日6往復)、自家用車では大山寺付近の駐車場(スキーシーズン以外は無料開放)から徒歩での登山が一般的。

 
 
大山のブナ林
 

大山の亜高山帯にはブナの天然林が広がり、そこより低い場所ではミズナラやシデを中心とした植生が広がる。

また、イヌワシやクマタカやヤマネなどの野生動物も多数生息していることから国指定大山鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積5,156ha、うち特別保護地区2,266ha)。

一帯は大山隠岐国立公園に指定され、8合目以上には国の特別天然記念物ダイセンキャラボクの日本一の群生地、中腹には西日本一のブナの原生林があり、新緑・紅葉の季節には、崩落した岩壁とのコントラストが素晴らしい景観を生み出している。

ブナ林(ぶなりん)とは、温帯に見られる落葉広葉樹林の典型的なものである。

日本では、九州地方の山地から北海道南部の平地にかけて分布する、ブナを中心とする森林のことである。

ブナ林は、日本では温帯の植物群落の代表である。本州中南部では、平地は照葉樹林帯であり、常緑広葉樹林が成立するのが本来の姿である。

それより寒い地域、標高の高い地域では、落葉樹が優占する森林が出来るが、この森林の代表がブナ林である。ブナの他、ミズナラなどを交えた森林である。

常緑樹林と比べて葉が薄いため、森林内が明るく、見通しがよい。しかしながら、日本のブナ林では、林床をササが覆う場合が多い。

それも太平洋側ではスズタケなど、2mにもなるものなので、歩くにはやっかいな森である。

日本の森林で、古来の姿を保っている場所は少ない。いわゆる原生林というのは、本当に数えるほどしか存在しない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  
 
ダイセンキャラボク
 

イチイの変種として、キャラボク(伽羅木 Taxus cuspidata var. nana)がある。

常緑低木で高さは50cm〜2m、幹は直立せずに斜に立つ。根元から多くの枝が分かれて横に大きく広がる。 雌雄異株で、花は春(3〜5月)に咲き、雌木は秋(9〜10月)になると赤い実をつけ、味はわずかに甘い。

本州の日本海側の秋田県真昼岳〜鳥取県伯耆大山の高山など多雪地帯に自生する。

鳥取県伯耆大山の8合目近辺にあるキャラボクの群生地は天然記念物のダイセンキャラボクとして知られる。 また朝鮮半島にも分布する。

名の由来は、キャラボクの材が、キャラ(伽羅)という名の香木に似ていることによるが全くの別種である。

キャラボクとイチイを比べた場合。全体的にはイチイの方が葉が明らかに大きい。

イチイとの最大の違いは、イチイのように葉が2列に並ばず、不規則に螺旋状に並ぶ点である。ただし、イチイも側枝以外では螺旋状につくので注意が必要である。

イチイ(一位、櫟、学名Taxus cuspidata)は、イチイ科イチイ属の植物。またはイチイ属の植物の総称。常緑針葉樹。別名をアララギ。北海道や北東北ではアイヌ語由来のオンコと呼ばれる。

同属にヨーロッパイチイ(T. baccata)があるが、本稿においては特に注記しない限りは日本に生息するイチイ(T. cuspidata)についての説明である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
 
大山スキー場 ホームページ
 

大山スキー場(だいせんスキーじょう)は鳥取県西伯郡大山町大山にあるスキー場の総称で、以下の4つがあり、大山スキー場管理組合が統括している。

上の原スキー場

降雪量も多く、気温の低さを利用してスノーマシンによる人工雪で天候に左右されないゲレンデ整備が可能。

5本のリフトにより、2本のコースが設定されている。

豪円山スキー場

降雪量も多く、おおよそ12月下旬から3月下旬まで滑走可能。

大山観光開発が運営している。

4本のリフトにより、1本のコースが設定されている。そのうち2本は大山スキー場への連絡用リフトである。

大山国際スキー場

降雪量も多く、気温の低さを利用してスノーマシンによる人工雪で天候に左右されないゲレンデ整備が可能。

親会社は日本交通 (鳥取)。

9本のリフトにより、5本のコースが設定されている。

初級者ゲレンデ テクニダスコース パラダイスコース リーゼンコース チャンピオンコース

中の原スキー場

降雪量も多く、気温の低さを利用してスノーマシンによる人工雪で天候に左右されないゲレンデ整備が可能。

4本のリフトにより、4本のコースが設定されている。

大山スキー場管理組合(事務局 : 0859-52-2315) 豪円山 : 0859-52-2311 / 中の原 : 0859-52-2447 / 上の原 : 0859-52-2521 / 大山国際 : 0859-52-2321

 
 
桝水高原
 

大山西側の裾野になだらかな丘陵が続く桝水高原は、春から秋にかけては桝水高原観光リフトを利用して弓ヶ浜半島を一望する絶景へとご案内。冬は高原スキー場として、スキーやスノーボードなど四季を通じて高原リゾートを楽しめる。

名物は大山地域の郷土料理「大山おこわ」。

 
 
大山おこわ
 

大山山麓地域に伝わる郷土料理で、味の主役は、自然の恵み豊かな大山の原野に育つ季節の山菜や野菜。

JR米子駅の駅弁としても発売されるなど、すっかり地元を代表する名物料理として定着しています。

地域によりその呼び名も違い、一部では深山おこわとして親しまれたり、またシンプルに五目おこわと呼んだりと、様々。具材に関しても、特に固定されている訳ではなく、家庭により使うものも多種多様。季節においしい地元の素材という点だけで、後は各家庭オリジナルだそうです。

地元で収穫される天然の山菜は、蒸してもほのかに香るほど野手溢れる滋味が格段に優れていて、蒸し上がりを一口頬張れば、米の一粒一粒から大自然のうま味がジュワッと口いっぱいに染み出します。

 
 
大山フィールドアスレチック ホームページ
 

森の国は自然体験施設。

西日本最大規模のアスレチックや広場でしっかり遊べるし、いろんな自然体験プログラムやキャンプなどで楽しめます。

森の国 大山フィールドアスレチック [営業時間 9:00〜17:30] 〒689-3319 鳥取県西伯郡大山町赤松634(大山観光道路沿い 県道24号線沿い)TEL 0859-53-8036 FAX 0859-53-8004

  
 
大山乗馬センター ホームページ
 

大山乗馬センターはこんなところ

大山乗馬センターは初心者OK、上級者OK、外乗トレッキングOK、競技会OK、馬のことなら何でもの施設です。

めいっぱい自然を満喫するのなら乗馬にチャレンジしてみてはいかがでしょう。

豊かな大自然に包まれる国立公園大山(だいせん)のふもとで、サラブレッドと過ごすゆったりとした時間。

このかけがえのない充実感こそが乗馬の醍醐味なのです。

まずは馬場内で基本をマスター。すこし慣れてきたら大山ふもとの林間トレッキングコースへ出かけましょう。

「大山乗馬センター」は、初心者から上級者までじっくりと楽しんでいただける大山で唯一の施設です。

【施設概要】

屋外馬場2面(3000m2 1500m2) インドア馬場(800m2) 完備

トレッキングコース有り 厩舎35頭分

レストラン 宿泊用コテージ3棟 完備

【インストラクター】

全国乗馬倶楽部振興協会 認定指導員6名 など

大山乗馬センター 〒689-3319 鳥取県西伯郡大山町赤松2459-130(大山観光道路)TEL 0859-53-8211 FAX 0859-53-8245

 
 
大山まきばくるみの里 →ホームページ
 

のどかな風景が続く大山放牧場内にあるレジャー施設。

周辺では数多くの牛が放牧され、間近にふれ合うことも可能です。

牛舎での授乳体験、みるく工房での乳製品作りといった各種酪農体験も人気で、併設するレストランには、新鮮なミルクをたっぷり使ったフードメニューも充実しています。

名物ミルクソフトは来場の記念に欠かせない必須アイテム。

 
 
奥大山(だいせん)
 
大山(だいせん)の南壁を望み、大山南山麓に広がる鳥取県江府町を奥大山と称す。

大山や烏ヶ山(からすがせん)の火山活動と2万年から数十万年という年月がつくりだした渓谷に特徴がある。

奥大山地域には、ブナをはじめとする森とおいしい豊かな水がある。

また、自然と大山や烏ヶ山を望むパノラマや紅葉を楽しめるスポットがいっぱいです。

 
 
休暇村 大山鏡ケ成
 

休暇村 大山鏡ケ成は大山主峰の南側に位置し、蒜山高原へ抜ける蒜山大山スカイラインの入口で、山陰、山陽観光の拠点。

 
 
鍵掛峠(江府町御机)
 

秀峰大山南壁の圧巻大パノラマを新緑、紅葉の中で楽しむことができる景勝地で、その雄大さを写真に納めようと多くの人が訪れる。

 
 
烏ヶ山
 

標高1,488m。大山山系では特異な山容を持ち、急峻な登山道はアルペン的な気分も満喫でき、山頂から眺める大山の東壁は絶景。

 
かまこしき渓谷(江府町助沢)
 

長い年月をかけて奥大山の水量の多さと流れの速さによって形成された特異な浸食地形が見どころ。大瀑布が奇岩の間を白い水煙を上げて流れ落ちる様は豪快かつ優美な風景を描く。

 
 
奥大山チロルの里
 

森林浴・遊歩道散策・キャンプ・登山など高原の自然がいっぱい。

 
 
エバーランド奥大山
 

「奥大山スキー場」ふもと「 」で飲む地ビール「ブナの森から」は最高。

木谷沢渓流(江府町御机)は、エバーランド奥大山前の駐車場からわずか300歩ほど。大自然の懐に飲み込まれたような別世界にたどり着くことができます。

 
 
棚田から見る大山南壁
 

江府町御机からの大山。心に染みいる景観である。田植え時期に棚田に水が張られた風景をぜひ見てみたい。

 
 
江尾十七夜 奥大山の夏の終わりを彩る ホームページ
 

伯耆(ほうき)の国江美城(えびじょう)は、文明16年(1484年)蜂塚安房守(はちづかあわのかみ)の草創と伝えられ、二代三河の守(みかわのかみ)・三代丹波守(たんばのかみ)・四代右ヱ門尉(うえもんのじょう)と蜂塚氏一門の居城でありました。

初代城主以来代々鉄穴(カンナ)及び鉄山(製鉄)と開田稲作作りの技法を家伝とし、また、この鉄山・稲作地帯を守護する強力な武力集団としても特色ある蜂塚一門でありました。

盂蘭盆十七日の夜には城門を開放し、町民や農民たちを自由に場内出入りを許し、無礼講として盆の供養と豊年を祈る踊りと力くらべの力角で一夜を明かすことを常としていました。

四代城主右ヱ門尉の永禄8年8月6日(1565年)に至り、毛利方三千の大軍を迎え討ち、尼子との信を守って、血戦敢斗の末、蜂塚一門は全員城を枕に討死して果て、四代八十余年の家運つたなく江美城は落城の悲運にその幕を閉じたのでございます。

この十七夜の踊りは、落城の後、毛利の支配下となった城下の住民たちが、蜂塚氏在城の頃を慕い悲しみ、また、毛利の非情に物云う如く、くる年もくる年も盆の十七日の夜を忘れず、城跡の草むらに集い、念仏の心を抱いて踊りを伝えて五百年の歳月が流れております。

この哀しくもゆかしい物語が、今もなお、江尾十七夜として続いているのでございます。この、こだいぢ踊りは、歴史とともに無形文化財として指定を受け、保存会も結成され保存伝承につとめている処であります。

この五百年の伝統をもつ江尾十七夜をその歴史とともに素朴に、素直に楽しく伝承するために、広くみなさまのご理解ご協力とご参加を賜りますよう切にお願い申し上げる次第であります。

主催→江尾十七夜実行委員会 お問い合わせ→江府町観光協会 TEL.0859-75-6007

 
 
江尾のこだいぢ踊り
 

文明年間、蜂塚安房守によって築城されて以来、四代にわたって蜂塚氏の居城となったのが江美城である。

城主安房守は孟蘭盆17日の夜に城内を解放し、城下の百姓、町人を集め、踊りと相撲の会を催すのを常としていた。

この夜は全くの無礼講で、武士も丸腰になり、百姓、町人も同じ輪の中で一晩中踊り明かした。

城下の住民たちは、日頃のいかめしい武士達と親しくつきあいができるのを、この上ない喜びとしており、武士達も在所の娘達と夜露に濡れ、踊りあかすことは、年中の楽しみの一つでもあった。

蜂塚氏はその後、四代右衛門尉の代になり毛利軍に攻略され、城は焼け落ち、城主峰塚右衛門尉は自刃して果て、家臣達もことごとく運命を共にした。時に永禄8年8月8日であった。

土地の住民達は、悲しい運命に果てた城主を慕い、来る年も来る年も盆の17日の夜を供養踊りに踊り明し、今に伝えているのである。

現在こだいぢ踊りは、江尾を中心に各地で踊られており、各部落によっては、盆の中1日を定めて、一晩村を挙げて老若男女が踊り明かし、先祖の霊をなぐさめ、近郷近在からも若者達がこれに参加して一層賑わいを深めている。

特に盆の17日はこだいぢ踊り発祥の地「江尾の十七夜」として、近郷はもちろん、岡山、島根の各県までその名を広めて一大行事となり、踊りを中心として角力等も催され、町内外の客で振っている。

近年(戦前ごろまで)までは東祥寺の間庭で踊られていたが年々盛んとなり、踊り場がせまくなったので隣接の公民館の庭に移し、各部落からそれぞれ揃いの姿で連を組み、踊るようになった。

現在では江美神社下の上ノ段広場で踊られている。

【道具】

大太鼓、音頭取、太鼓打、踊り子大勢

【衣裳】

浴衣、編笠、草履

【歌詞】

 
いつも七月盆ならよかろ  踊りするとて殿に会う

月といっしょに出るときゃ出たが  月は山端に妾しゃここに

去年おとどしゃ踊りもしたが  ことしゃお墓で灯をともす

 

「日本民謡大観」及び「日本民俗辞典」等によると、こだいじは越後の新保広大寺の僧のロマンスを唄いはやした「広大寺節」のことで、「こだいじ」「こだいじん」と呼ばれ、寛政(1789〜1800)の頃、越後から全国的に流行した、はやり唄である。

この歌が流行し出すと、飴売人、旅芸人、芸者なども前面白く謡いまくるうちに技巧的になり、歌詞の各所にサーエ・ヤンレなどを付加、七七七五の中間に七五や七七を入れた字余り型や、長編の口説型にも発展。歌詞もさまざまに創られた。

このように変貌しつつ、幾度も流行した広大寺節は、種々の名で全国に残り、北海道の道南口説・岩手の広大寺坊主踊・東北〜関東の飴売節・北陸や飛騨の古代神など酒盛り唄・祝い唄・盆踊唄・神楽せり唄等に用いられた。

そして、中国地方においては「こだいじ」・「こだいず」,「せぎ唄」・「サーノエ」等と呼ばれ、神楽せり唄、盆踊唄として唄われている。

日野郡では江府町をはじめとして、日野町、日南町の一部でも踊られている。

このように「こだいじ」は越後の「広大寺節」が変化して伝えられたものであるが、西伯郡会見町に伝わる「小松谷の盆踊り」は「江尾のこだいぢ踊り」とメロディー・踊り方・踊りにまつわる伝説も似ており、何等かの影響を及ぼしたとも考えられる。

(国学院大学日本民謡研究会・こだいじ踊り調査報告書より)

 
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