| 私は蓮浄院下の駐車場へ車を置いたまま、歩いて大山寺橋を渡った。
この川は奇妙な川だ。普段は水のない掴(かれ)川で、金門から元谷へと続き、峨々としてそびえ立つ大山北壁へ達するが、川尻がない。
途中で消えてしまうのである。
大雨の時は激流になり、佐陀川へそそぐと聞いたが、私は水流を見たことがない。
掴沢、というには幅が広い。室町時代の末期、巨大な常行三味堂を押し流したのが、この掴沢の洪水だった。
橋を渡れば大山の町の上部へ出て、石敷の参道がゆるやかに登り、左に五つの山内寺院がある。
右の近代的な建物は大山寺宝物館霊宝閣。
大山寺一山の秘宝を収蔵すると共に、常設展示もしている。
白鳳時代の金銅観世音菩薩立像三躯、中国末代の精巧な金銅観世音一躯の四重文仏のほか、重文鉄製厨子その他、多くの古仏があって、仏教古美術行脚には欠かせないだろう。
中に大変美しい金銅の半跏踏下(はんかふみさ)げ地蔵尊があった。
頭部残欠を残して焼失した菩薩に、仏体を補作して継いだと問いている──焼け残った頭部へ、体部を補作して継ぐということは数例あるが、私はその行為に昔の人の深い尊信、そして仏を焼いたことへの言い難い畏怖(いふ)と悔恨(かいこん)を見る心地がする。
大山寺本尊は地蔵菩薩で、地蔵信仰の中心だったのである。
大山寺縁起は、出雲ノ国玉造の猟師依通(よりみち)が美保ノ浦で金色に輝く狼を見かけ、これを追って大山へ入り、まさに矢を射ようとしたところ、忽然(こつぜん)と矢の先に地蔵菩薩が現れた。
依道は驚倒し、殺生の罪を深く悟って僧になった、と語っている。
西行法師作といわれる『撰集抄(せんじょうしょう)』では、養老の頃(717〜723年)、俊方(としかた)という猟師が大鹿を追いつめ、鋭く矢を放った。彼は多くの鹿を得たが、帰ってみると、射放した矢はすべて安置してあった地蔵尊に深く突き立っていた。
『撰集抄』は西行を作者に仕立てた偽書とわかってはいるが、鎌倉時代の作と認められてもいる。依道、又は俊方の法名を金蓮と呼び、大山寺開山としている点は縁起も『撰集抄』も同じだ。
金蓮は地蔵示現の山へ草庵を結び、地蔵菩薩を安置して深い信仰生活に入った。これが大山寺のはじめである、と。
地蔵菩薩が、いつ頃から日本に知られていたのか興味があって、調べたことがある。
地蔵はインドの地母神に発し、地神として現れるけれども、文献に確認できる最古は宝亀二年(771)、興福寺地蔵堂建立だった。
後代成立の伝承は別として、飛鳥時代に、地蔵信仰の痕跡を探しあてることはできなかったのである。
造像の遺例としては南大和室生寺、明日香の橘寺、京都広隆寺像が古く、いずれも平安初期、弘仁時代(810〜823年)の作。
大山寺縁起が『撰集抄』のいうように宝亀年間のことと仮定すれば、どうやらここが地蔵信仰発祥地である。
貞観八年(866)、慈覚大師が大山寺へ登って顕密の大法を伝え、秘曲「引声の阿弥陀経」を伝授した。以来天台宗に列したと寺伝にある。
引声の阿弥陀経はどういうものかよくわからない。
ただ、グレゴリー聖歌に優るとも劣らない、と高い評価を受ける仏教声楽・声明梵唄(しょうみょうぼんばい)は慈覚大師が唐から持ち帰られた。
大師の『入唐求法(にゅうとうぐほう)巡礼記』に、帰朝早々綵帛使(さいはくし)を大山寺に登らせ、綵帛(色絹)を捧げ、金剛般若経五千巻を転読させた記載がある。
入唐留学に先立ち、行旅の安全を大山寺へ祈願、無事帰国したことへの奉謝であった。
慈覚大師は天台密教(台密)を大成なさったかただが、貞観六年(864)1月14日のご遷化─寺伝に年代の錯誤があるけれども、以上の伝承は初期の声明梵唄が当寺へ伝えられたことを想像させ、比叡との密接な結びつきも伺わせる。
平安時代初期には、既に中央へ名の聞えた霊山として発展していたことを知る。
霊宝閣の裏手も美しいブナ、ミズナラ、イタヤカエデなどの自然林である。
林を抜けると荒々しい石の堆積する涸(かれ)川だ。
南光河原と呼ぶ。河原の対岸に阿弥陀堂の森が見える。
石敷参道は高く急な石段へ続く。登りついた宝形造りの大堂が大山寺本堂に当たるが、もとは密教の教主大日如来を安置する大日堂であった。
明治維新の神仏分離で、大智明権現と尊崇された本尊を大日堂へ移して、本殿を大神山神社へ引き渡したのである。現存の御堂は昭和26年の再建。
本堂前、向かって右手に大きな牛のブロンズ像がある。宝牛(たからうし)とも、撫で牛とも呼ぶ。
この牛を撫でて願掛けをすれば、一顧は必ずかなうといわれる。
一願不動、一顧地蔵などは多いが、一顧牛は珍しい。
実は江戸時代、当寺祭礼に牛馬市(いち)が立った。山村に強固な信仰基盤を持ち、牛に緑が深かったのである。
江戸時代の牧牛は、大山寺が信徒の基盤とする中国地方の山間部に盛んであり、牛市は大山市(いち)と石見の阿須那市(いち)が最もにぎわったという。
阿須那は中国山地のただ中、三次(みよし)の北西、邑智郡羽須美村(現美郷町)に今も阿須那の地名が残る。
広島県境に近い山の村だ。
昔は輸送、農耕の主役であった牛を大切にする気風が、牛の説話を生み、宝牛の信仰になったのであろう。
私は牛の脚部を撫でながら、盛大な牛市が立った頃の、当寺の賑わいへと心が漂い流れてゆくような気がした。
老婆が一人寄って釆て、口の中で何かとなえながら伸びあがり、牛の腰をさすって合掌した。「あ、腰が痛いんやな」と思いながら、私は愕然(がくぜん)とした。
ご利益というものを信じない私が、無意識に、牛の足を撫でている……歩き疲れて、脚がすこし痛かったのである。
…小山 和著「古道紀行 出雲路」より
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