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大田市観光協会 
〒694-0305 大田市大森町イ826(銀山公園内)
TEL : 0854-89-9090・FAX : 0854-89-9089
 
石見銀山ガイドの会
TEL:0854-89-0120・FAX:0854-89-0706
大田市産業振興部(観光担当)
島根県大田市大田町大田ロ1111番地  
TEL 0854-82-1600・FAX 0854-82-9150(直通)
 
 

石見銀山とは ?

 
石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)であり、大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。

鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。

日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国によって史跡に指定。

2007年(平成19年)6月28日にニュージーランドのクライストチャーチで開催されていた世界遺産委員会でユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。

一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている。

2007年には日本の地質百選にも選定されている。

初期には仙ノ山山頂付近から自然銀に富む福石(ふくいし)が主に産出し、開発が進行するにつれ地下深くなり、銀を多く含む黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱などの永久鉱床(えいきゅうこうしょう)の採掘に移行していった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

石見銀山遺跡がもつ顕著な普遍的価値 世界遺産について

1. 世界的に重要な経済・文化交流を生み出した
16世紀石見銀山では、東アジアの伝統的精錬技術である灰吹法を取り入れることによって銀の現地生産を軌道に乗せ、良質な銀を大量に生産しました。

石見銀山で用いられた技術や生産方式は、この後国内の多くの鉱山に伝わり、日本史上まれな銀生産の隆盛をもたらしました。

こうして日本で生産された大量の銀は、貿易を通じて16世紀から17世紀の東アジアへ流通しました。

そして、この頃金銀や香辛科を求めて自らの文明圏を越えて世界に活動範囲を拡げつつあったヨーロッパ人が東アジアの貿易に参入し、東西の異なる経済・文化交流が行われるようになりました。 ↑top                               

2. 伝統的技術による銀生産方式を豊富で良好に残す 石見銀山の誕生〜掘る〜
石見銀山では、採掘から精錬までの作業が、すべて人力・手作業で行われました。

このような作業を行う製錬工房が銀山現地に多数集まることによって、高品質の銀を大量に生産することができました。

このことを証明する600カ所以上もの露頭掘り跡や坑道跡が今でも銀山山中に残っており、また、これらに隣接して、かつて製錬工房と生活の場であった平坦地が約1,000カ所以上も残っています。

江戸時代の石見銀山では従来の伝統的技術によって銀生産が続けられました。

しかし、明治維新を迎えた19世紀後半以後になって、ヨーロッパの産業革命で発展を遂げた新技術が導入されましたが、銀鉱石が枯渇したため鉱山活動が停止していきました。

その結果、今日、石見銀山遺跡には鉱山開発の伝統的技術の跡が良好に残されました。 ↑top

 
石銀遺跡…吹屋(製錬所)の礎石、道跡、炉跡
石銀遺跡は仙山の山頂付近、標高470mの所にある鉱山遺跡です。近年の発掘調査によって戦国時代の末から江戸時代初期、ここに町があったことが分かりました。鉱山といえば鉱石を掘るための長いトンネル(坑道)を思い出しますが、開発が始まった頃は露頭掘りといって、地表に露出した鉱脈を掘っていました。その場所が石銀地区です。当時、石銀では銀の採掘や製錬を仕事とする人々が生活していました。人が住んでいたのは16世紀末から17世紀初頭にかけてですが、その後山腹からトンネルを掘る技術(坑道掘り)が進むと人々は山頂から平地へと住居地を移したので、石銀はそのまま放置され、当時のままの状態で残っていたというわけです。
 
3. 銀の生産から搬出に至る全体像を不足なく明確に示す 石見銀山街道を歩く
石見銀山遺跡には、採掘から精錬まで行われた鉱山跡を中心に、これを外敵から守った城跡が周囲の山々にあり、銀鉱石や銀、銀山で必要とされた物資を輸送した二本の街道が銀山から港までつながっています。

さらに、かつて銀山の操業によって栄えた鉱山町や港町は、今日でも地域住民の生活の場となっています。

このように、石見銀山遺跡は、銀の生産から搬出に至る鉱山運営の全体像を不足なく明確に示しています。

また、石見銀山遺跡とその周辺では、かつて製錬に必要とされた膨大な木材燃料の供給が、森林資源の適切な管理の下に行われたことにより、今日でも豊かな山林を残しています。

このように鉱山に関係する遺跡と豊かな自然環境が一体となって※文化的景観を形成する例は、世界的に極めて貴重です。

※文化的景観→人間が自然と共生する中で育んできた景観地  ↑top


石見銀山の歴史

1. 銀山の発見
銀山の由来を記した「石見銀山旧記」によれば、鎌倉時代末の延慶2年(1309)、周防固守大内弘幸が、日頃信心する妙見神のお告によって、銀山を発見したと伝えている。

しかし、この時の発見は、地表に露出した「粋銀」(とじぎん)、つまり自然銀を採取する程度で、坑道を掘り、製錬をするという本格的な開発ではなかった。

そのため、足利直冬が銀山を領有する建武延元年(1334−40)の頃には、自然銀は悉く採り尽くされてしまったといい、それから暫くその歴史は空白状態となる。 ↑top

2. 神谷寿禎の発見と開発
足利直冬時代以来途絶えた銀山も、大内義興領有時代の大永6年(1526)、筑前国博多商人神谷寿禎という人物によって再び発見されることになる。

この寿禎は博多の豪商神谷の3代目で、2代主計は、天文7年(1538)大内氏が派遣した遣明船において総船頭を勤め、勘合貿易の中心的な人物でもあった。

さて、「銀山旧記」によると、寿禎は、出雲大社付近の鷺銅山へ向かう航海の折り、仁摩の韓島沖から、南方向の山(銀峯山)から明るい光りがあるのを見つけて銀山を発見したという。

早速出雲国鷺銅山の山師三嶋清右衛門に相談し、3月20日、吉田与三右衛門、同藤左衛門、於紅孫右衛門の3人を連れて温泉津から銀峯山に登り、初めて間歩を開き、大いに銀鉱石を掘り出したという。

採掘された鉱石は、近隣の馬路村の灘、古柳、鞆ヶ浦の諸湊から積み出された。

これを契機に銀山へも諸国の人々が集まり、まるで「花の都」のように繁栄したと伝えている。 ↑top

3. 灰吹法の伝播
採掘された銀鉱石は、当初銀山では製錬は行われず、鉱石のまま博多あるいは朝鮮半島に送っていたようである。

当然輸送コストも掛かるため、高品位の鉱石以外はその対象にならなく、無駄も多くなる。

そこで現地での製錬の必要性が高まり、天文2年(1533)寿禎は、宗丹、慶寿という禅門の2人を博多より招き、灰吹法という銀精錬技術を導入する。

この灰吹法という技術は、既に紀元前からあったものといわれ、日本への伝播は石見銀山がその最初と考えられている。

また、伝播経路については、中国または朝鮮の何れかとされているが、はっきりしたことは分からない。

しかし、『朝鮮王朝実録』によると、天文8年(1539)朝鮮人柳緒宗が倭人(日本人)に鉛を精錬して銀を造る技術を教えたとして処罰されたという記述から、概ね朝鮮からの伝播とする考え方が支配的であるといえる。

灰吹法の導入は、石見銀山での銀産を飛躍的に増加させると同時に、各地の鉱山に伝播され、日本はかつてないシルバーラッシュを迎えることとなった。 ↑top

4. 日本銀と大航海時代
灰吹法の伝播によって、日本は銀の輸入国から一転銀の輸出国となる。

最近の調査では、天文5年(1536)以後、諸外国の記録にも日本銀の記述が頻繁に登場することが分かってきた。

日本にキリスト教を伝えたフランシスコ=ザビエルも、1552年ロドリゲス神父宛の書簡で「カスチリア人は、この島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる。…日本の島々の外に銀のある島などは発見されていない。」と記し。

また、リンスホーテンの『東方案内記』にも「この国には幾つかの銀山があり、ポルトガル人が毎年その銀をシナに運んでいってヤパン人の必要とする絹その他の品物と交換する。」と、東方貿易における日本銀の様子を伝えている。

これら日本でのシルバーラッシュは、銀の国際的な相場を大きく変動させた。

例えば、16世紀前半までの日本では金1に対して銀が5−6であったが、シルバーラッシュ以後は金1に対し銀が10と、産銀量の増大によって金に対する銀の価値が低下している。

しかも、中国では金1に対して銀が7−8と、日本よりも銀が高かった。

当時マルコ=ポーロの『東方見聞録』に触発され、大航海時代を迎えたヨーロッパでは、従来ムスリム(イスラム商人)に独占された東方の産物、即ち中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料などを、彼らの手を経ず直接貿易することを画策していた。

とりわけトリデシリヤス条約(1494)によってアジアへ進出したポルトガルは、この東方貿易における決済として、シルバーラッシュによって安価となった日本銀に目を付け、その獲得を目指して日本の近海に姿を現すようになっていった。

その結果、天文12年(1543)には種子島に鉄砲が、天文18年(1549)にはザビエルによってキリスト教が、それぞれ伝えられることとなった。 ↑top

5. 銀山の争奪と毛利氏の支配
銀山が本格的に開発された時代は、日本では「下克上」に象徴される戦国時代。自己の勢力拡大のため多額の軍資金が必要とされた戦国大名にとっては、石見銀山はまさに争奪の的となった。

当初銀山の領有は、周防国の大内義興の手によっていたが、享禄4年(1531)2月、石見国川本の温湯城主小笠原長隆が、矢滝城を攻め落とし、ついには銀山をその手中に収めた。

しかし、天文2年(1533)には再び大内氏が奪還するところとなり、さらに天文6年(1537)出雲国の尼子晴久が大内氏から銀山を奪うなど、争奪は目まぐるしく展開していった。

やがてこの争奪の構図も、大内義隆の滅亡後、その跡を継いだ安芸国吉田郡山城主毛利元就と、出雲国尼子氏の両氏へと移っていった。

毛利元就の石見国進出は、弘治2年(1556)吉川元春の邑智郡阿須那への着陣をもって始まる。

3月には尼子方の山吹城主刺賀長信を攻め落とし、石見銀山をその手中へと収めた。

元就による銀山の最初の支配は、永禄元年(1558)9月、尼子方で須佐高矢倉城主本城常光によって奪還されるまでの僅か2年6ケ月。この間銀山から毛利氏に上納された銀は、莫大な額であったといわれている。

元就はこの石見銀をもとに、いわゆる「御取納」丁銀を鋳造し、永禄2年(1559)銀48貫目(約180kg)を、即位式の用立として朝廷へ献納した。

翌3年正月27日即位式は無事終了し、朝廷では毛利氏の勲功に対し、綸旨と女房奉書を元就、隆元両氏に下賜し、元就を陸奥守に、隆元を大勝大夫にそれぞれ官途を授けた。

その後、本城常光を策謀によって自刃せしめた元就は、永禄5年(1562)再び銀山を尼子氏から奪還して、ついに長い争奪の歴史に終止符が打たれる。

途中豊臣秀吉との共同管理となるが、関ケ原の戦いまでの約38年間、毛利氏による銀山の支配は続く。 ↑top

6. 徳川氏による銀山の直轄化
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いによって勝利した徳川家康は、それから僅か10日後の9月25日、石見銀山周辺の7ヶ村に禁制を発して、石見銀山の直轄化を図った。

この事実をフェルナンドゲレロは『日本諸国記』で

「これによって内府様(家康)は、今までの日本国の支配権を獲得したすべての人の中で最大となるであろう。

なぜなら彼は毛利(輝元)殿から、銀の鉱床がその地にある7ヶ国を没収し…」と、

石見銀山を手中に収めたことの重要性をそう表現している。

徳川家康は、豊臣秀吉の政策を踏襲して、貨幣原料の供給地としての鉱山を直轄領とした。

石見をはじめとして、佐渡、生野、伊豆など日本を代表する金銀山は、すべて徳川氏の直轄領となった。

こうした鉱山から家康の蔵に納められた金銀は莫大で、ジョアンロドリゲスは『日本教会史』で、

「現在はすべての領主が金銀の立派な宝物を所蔵している。1609年にわれわれが駿河にある内府の宮殿にいたとき、出納係長は貯蔵されている量の報告を行い、銀貨だけで8300万テールすなわち8300万クルザードの銀貨があり、その他にも多量の金があった。それより減少することはなく、むしろ年ごとに増加していった。」と、当時家康の元に納められる金銀の様子を伝えている。

なお、「久能山御蔵金銀請取帳」によると、金2千両入のが470函、銀10貫目入で4950函、他に銀銭550両という膨大な額の金銀が、家康の遺産として記録されている。 ↑top

7. 大久保長安の支配
禁制を発した後、同年10月中旬には、家康の信頼を受けた代官頭の大久保長安と彦坂小刑部が、尾道より「温泉銀山之者」(「石見銀山」のこと)の案内で銀山へと入り、11月18日付で毛利氏から銀山を接収した。

翌6年(1601)には大久保長安が初代銀山奉行となり、彼の支配は慶長18年(1613)まで続いた。

銀山の支配を任された長安は、「直山制」と呼ばれる。

公費投入による間歩の開発を行うと同時に、公納方法として「荷分法」(石見銀山では「鍵分」という)、出鉱に対して一定率の歩合を決めて問歩役を徴収する方法を採用するなど、毛利氏時代の銀山支配の方法を刷新し、第2次シルバーラッシュを創出させた。

「当代記」にも「石見国金山(かなやま)も倍増して、四、五千貫目納められ、これも先代森(毛利)輝元の時は僅かなり。」と、このことを記している。

特に、慶長7年(1602)安原伝兵衛によって開発された釜屋間歩は、一年に3600貫の運上を出したと伝えられ、その功績によって伝兵衛は、翌8年8月徳川家康より御目見得を許され、「備中」の名と、辻ヶ花染の胴服を拝領した。

「銀山旧記」によると、安原伝兵衛は天正年中(1573−92)に、備中国(岡山)早島より銀山へ居住し、間歩の開発をするも、その成果は芳しくなかった。

そこで日頃信心する銀山清水寺の観音へ祈願し、7日目の明け方に銀の釜を授かる夢を見て、その事を大久保長安に話したところ、開発資金の供与を受け、先の釜屋間歩の発見になったという。

また、長安は運上銀の輸送路についても、従来の温泉津湊を利用した海路輸送を改め、中国山地を縦断し、山陽側の尾道へと陸送し、そこから瀬戸内海を通り大坂へと輸送するという、新しい輸送ルートを画策した。

長安自身の石見銀山への滞在は都合6度といわれ、実際には遠隔地から手紙で現地の役人に指示をした。

また、移動にあたっては「佐渡国石見国諸国金山へ、年中に一度あて上下、路次中の行事移しきことなり、召遣の上郎女房七八十人、その次合二百五十人同道の間」(「当代記」)とあるように、相当数の同行者があったという。

慶長17年(1612)には、銀山は家康からその子秀忠の管理となり、実質的な銀山の支配は長安から竹村丹後守へと移り、長安の死後の翌19年より、竹村丹後守が2代目銀山奉行に就任する。 ↑top

8. 銀山の衰退
銀山の最盛期は慶長〜寛永期で、「銀山旧記」によれば「士稼の人数二十万人、一日米穀を費やすこと千五百石余、車馬の往来昼夜を分かたず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連なり」と、たいそうな繁栄ぶりを伝えている。

また、銀山と不可分の関係にあった温泉津も、銀山で消費される米、餅米、大豆、小豆、たばこなどの生活物資、また銀製錬に使用される鉛、或いは小浜村では石見国西部の三隅、益田などから銀山で使用される炭が陸揚げされ、銀山とともに周辺地域も発展した。

しかし、寛永期(1624−44)の中頃を過ぎた頃から漸次山も衰退し、産銀量も大幅に減少するようになった。

この頃になると鉱石の品位も低下し、加えて間歩も地中深くへと延びるようになっていた。しかも地下水の湧き出しによって坑内各所に水が湛えて深刻な問題となっていた。

そこでこうした問歩内に湛えた水を排水するため元禄6年(1693)、山師一同の懇願によって、幕府から銀200貫目の拝借を受け、その資金をもとに銀山一帯の坑内水処理のため、柑子谷(仁摩町大国)に泉山が掘削された。

次いで正徳5年(1715)には、銀167貫目の拝借を受け、銀山休谷に新切山を開削するなど経営的な努力が図られたが、漸次衰退の一途をたどっていった。

江戸時代後期には産銀高も50貫目程度になり、明治維新を迎えた。 ↑top

9. 大森鉱山と石見銀山の終焉
明治時代になると、銀山の経営は民間の手に移り、明治6年(1873)からは松江市の安達惣右衛門が、明治19年(1886)からは藤田組(現同和鉱業株式会社)によって開発が行われた。

同27年(1894)には、当時の資金で20万円という巨資が投入されて、清水谷に製錬所が作られたが、翌年4月の操業開始から僅か7ヶ月で閉鎖となった。

その後、主力を適摩郡大国村の柑子谷へ移し銅の生産を中心に操業したが、大正12年(1923)600年間という長い歴史に幕を閉じた。

その後、戦時下の昭和18年(1943)より、永久坑道の取明が行われたが、水害のためついに再開されることはなかった。

※神谷寿禎の名称は「国史大辞典」によった。 ↑top


世界遺産.石見銀山遺跡の全体像

鉱山遺跡と鉱山町 石見銀山の誕生〜掘る〜江戸時代の通貨制度
 
江戸時代の大森は、邇摩郡佐摩村の内に発達した町場であり、また石見銀山領150余村を支配した代官所の所在地として、領内の政治経済の中心であった。

町の名は城上神社の境内に生い茂った木々に由来するといわれ、古文書には慶長7年(1602)頃に初めて現れる。

また、その史料では初代奉行大久保長安から現地の役人に、大森町の建設についての指示があったことが見えるので、おそらくこの頃になって意図的な町づくりが行われたものと推察される。

江戸の初期には、銀山が依然政治の中心地であったが、御銀蔵の移転に伴い、次第に大森町がそれに代わる新たな中心地となっていった。

もっとも、いつ代官所が今日の場所に置かれたかについては不明だが、一説には2代目奉行竹村丹後守は、城上神社付近に居を構え、その際益田氏の居宅であった三宅御土居の一部を移築したともいわれている。

やがて、支配施設関連が大森へ移転すると、銀山領4万8千石の政都として一段と発展していった。

大森町にとって一つの転機となった出来事があった。寛政12年(1800)3月24日に起こった大火、いわゆる「寛政の大火」である。

栄泉寺向の油屋友七という紺屋の裏より出火した火災は、武家61軒、社家4軒、寺院5ケ所、町屋219軒、土蔵26棟の、実に町並みの3分2を焼失させた。

これを契機に代官所では「今般火災後普請、町並みは瓦茸、板茸に致すべし、茅茸は一統相成らず由、仰せ渡され候」と、家普請に際しては茅茸を禁止するようになる。

一方銀山町は、江戸時代以前の古文書には「佐間銀山」と記され、佐摩村の一部であったことが分かる。

『コックス日記』に見る「Plate Soma」(ソーマ銀)が、「佐間銀山」つまり石見銀山で作られた銀だとされる所以である。

銀山の範囲は、江戸時代では「惣廻り弐里半四十八間、東西壱里、南北弐拾丁」で、「垣松」として2千本が銀山を取り囲むように植えられていた。

近隣の村から銀山へ入る道には、「口屋」と呼ばれる番所が10カ所(後8ヶ所)置かれ、人や物資の出入りが厳しく検査された。

銀山発見の初期には、仙ノ山山頂の石銀や南側の本谷を中心に銀の生産が行われ、と同時に人々の生活の場としての集落が形成された。

まもなく栃畑、昆布山、大谷など銀山の各谷にも集落が形成され、鉱山労働者、武士、商人、手工業者など多種多様な人々が居住するようになり、銀山は都市としてめざましく発展した。

天文8年(1539)には「大水出来侯て、昆布山の頭よりつえぬけ侯て、千三百余人流れ侯」とあり、産銀量の増大によって急激な人口増加があったことが分かる。

また、銀山最盛期の慶長から寛永には人口20万人、寺院は100ヶ寺を数えたという。

実数はともかく相当数の人口を擁していたことは想像に難くない。

毛利氏支配の頃には、山吹城下の吉迫に「休役所」が置かれ、その周辺には支配関連の諸施設や、銀山役人の居宅、店などがあったと思われ、地名にも「御文庫」「エンショウグラ」「下屋敷」「京店」「魚みせ」などが残る。↑top

 
1. 銀の生産が行われた銀山柵内(ぎんざんさくのうち)ハイビジョン撮影ストリーミング映像
石見銀山遺跡の中核。採掘から精錬に至るまでの銀の生産活動が一貫して行われた鉱山跡。
仙ノ山と要害山を中心にした320ヘクタールの範囲で、17世紀に周囲に柵を巡らしていたことからこの名があります。ここには16世紀から20世紀に至る生産活動の痕跡が、関連する生活、支配、信仰の痕跡とともに現地にほぼ完全な形で残っています。
山中には600カ所以上の採掘跡が残り、これにほぼ隣接した小規模な平坦地が1,000カ所以上残っています。この平坦地は、選鉱から精錬までの作業と生活が営まれた職住一体の空間です。柵内には多くの寺院・神社や、おびただしい数の墓石があり、生産活動に伴って人々が集住した様子を伝えています。謁炭誠跡(要害山)、休役所跡、柵列跡、※番所跡からは支配の様相がうかがえ、時間的経過の中での機能の変化や場所の変遷を知ることができます。また、明治時代以降、1923年の休山までの鉱山遺跡が残り、近代化後の生産の様子も伝えています。
※番所→銀の不正持ち出しの監視や物資の課税徴収のために設けられた施設。柵内の要所の出入口に設けられ、最も多いときには10カ所を数えた。
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2. 代官所跡 ハイビジョン撮影ストリーミング映像
大森の町並みの北東側にあり、江戸幕府が現地に置いた支配拠点施設の跡。2,600平方メートルほどの敷地に、瓦葺き平屋建ての表門と左右の門長屋の建物が現存しています。この建物は1800年の大火後の再建です。敷地中央の建物は1902年建築の旧邇摩郡役所ですが、現在石見銀山資料館として利用され、石見銀山の調査研究、資料の保存管理・公開展示、ガイダンス機能の一翼を担っています。
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3. 矢滝(やたき)城跡
銀山柵内から南西2.5kmにあり、標高638mの山頂部を利用した16世紀の山城跡。
北側には石見銀山街道温泉津沖泊道が通る降路坂があり、さらに進むと矢筈城跡があり、石見銀山を防備するための要衝を押さえています。1528年には戦国大名大内氏が拠点とし、3年後の1531年には当地域の領主小笠原氏がこれを奪い銀山を支配したとの記録があります。
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4. 矢筈(やはず)城跡
銀山柵内から西2.5kmにあり、標高479mの山頂部を利用した16世紀の山城跡。
東側の尾根伝いには石見銀山街道温泉津沖泊道が通る降路坂があり、さらに進むと矢滝城跡があります。1557年頃に毛利氏が銀山の山吹城を押さえて尼子氏を攻撃し、この城をはじめ周囲3カ所の城から撤退させたとみられる記録があります。
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5. 石見(いわみ)城跡
銀山柵内から北西5kmにあり、標高153mの岩山山頂部を利用した16世紀の山城跡。
日本海に近い平地部の南端にあって、仁摩方面を守備するための重要拠点でした。1565年ごろに温泉津や石見銀山の権益を持った近隣地域の領主温泉氏が軍事的拠点としていたとみられています。
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6. 大森銀山重要伝統的建物群保存地区 ハイビジョン撮影ストリーミング映像
鉱山に隣接して川沿いの谷間に発展した鉱山町。
全長約2.8kmほどの町並みで、北東側の大森地区と南西側の銀山地区の二地区に分かれます。これは江戸時代の行政区分である大森町と銀山町に依っており、後者は銀山柵内の中に含まれます。江戸時代に入り、初代奉行の大久保長安が大森町の建設をはじめたのを契機に、支配中枢の代官所も現在地に移転したことから、次第に大森の比重が大きくなり、※石見銀山附御料150余村の中心として発展しました。建物の多くは1800年の大火後の再建ですが、江戸時代はじめの土地利用の形態を引き継いでいます。武家・商家・寺院などの混在がこの町並みの大きな特徴です。
 ※石見銀山附御科→石見銀山周辺の幕府直轄地 
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7. 宮ノ前(みやのまえ)地区
大森の町並みの北東端で、代官所跡の北東側100mにある銀精錬の施設跡。
発掘調査により16世紀末〜17世紀初頭を中心とした道路跡や建物跡が発見され、建物跡の一つは小規模ながら内部に24基もの炉跡が集中し、精錬専用の工房跡とわかります。仙ノ山から3kmほど離れた位置にあって、産出銀の品位を高めていたと推定されます。
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8. 重要文化財熊谷家(くまがいけ)住宅 ハイビジョン撮影ストリーミング映像
代官所跡から南西50mにあり、町の通りに面して建つ大森銀山地区最大の商家建築。
熊谷家は金融業などを営みながら、町役人や代官所の御用商人を務め、19世紀には大森の中で最も有力な商家の一つとして栄えました。現在の建物は1800年の大火後の再建ですが、その後順次整えられていった屋敷構えの変遷の様子や生活ぶりがうかがえる貴重な商家建築です。
(平成18年4月から一般公開)
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9. 羅漢寺五百羅漢(らかんじごひゃくらかん)
大森地区の南端側、銀山柵内の蔵泉寺口番所跡近くにある信仰遺跡。
岩盤斜面に3カ所の石窟があり、中央窟に石造釈迦三尊仏を、左右両窟には250体ずつの石造羅漢坐像を安置しています。1757年羅漢寺住職と大森代官所役人が発願し、石見銀山や日本全国の江戸幕府直轄地の有力武士や町人などの寄付を得て1766年に完成しました。3基の石橋や1基の祈念塔を含め、石見銀山の石工技術をよく表した貴重な石造作品です。
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日本世界遺産へ「石見銀山遺跡」ハイライトジャパン
石見銀山街道
石見銀山から二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物質の輸送路。
 
10. 鞆ケ浦道 鞆ケ浦道を歩く
輌ケ浦が銀・銀鉱石の積出港であった16世紀前半、銀山柵内から日本海へ出る最短の搬出路。
全長7kmほどの距離があり、銀山側の畑口(はたぐち)と吉迫口(よしざこ)が出入り口で、全行程を通して勾配があり、山中を抜ける狭い道がよく残っています。途中には土橋や切土の道普請の跡や、往来の人々の交通安全を祈った石碑・石仏などが残り、銀鉱石の搬出や交通に関わる伝承もあります。
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11. 温泉津沖泊道 温泉津沖泊道を歩く
温泉津沖泊が石見銀山支配の拠点とされ、その外港となった16世紀後半、銀の搬出と諸物資の搬入のために利用された道。
全長12kmほどの距離があり、銀山の坂根口を出入り口とし、そこから急な勾配の降路坂付近を越えると、西田、清水、松山を通り、途中二手に分かれて温泉津と沖泊に至ります。石畳や土橋がよく残り、道標・石仏などがあるほか、西田の火伏せ観音、清水の金柄杓の井戸があります。
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港と港町
 
石見銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾と、これに隣接して発達した港町および港湾集落。
 
12. 鞆ヶ浦(ともがうら) 鞆ケ浦道を歩く
銀山柵内から北西6kmの日本海沿岸にあり、石見銀山開発初期の16世紀前半、銀・銀鉱石を 九州の博多に積み出した港。
銀山開発間もないころ、博多から銀鉱石を求めて多くの商船が来航し、繁栄したとの記録があります。江戸初期には漁村化し、その後大規模な開発もなく、中世港湾の形態を残すこととなりまし た。湾の両岸の船の係留施設、海上交通の安全を祈った神社、方形区画の地割りを引き継ぐ谷部の集落、銀鉱石貯蔵や支配管理施設の伝承地、船舶用に供された井戸などが残っています。
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13. 沖泊(おきどまり) 温泉津沖泊道を歩く
銀山柵内から西方8.8kmの日本海沿岸にあり、石見銀山を毛利氏が支配した16世紀後半、銀の積み出しと石見銀山への物資補給が行われた港。
港の両岸には船の係留施設があり、先端の両丘陵には軍事上の必要から築かれた山城跡があります。湾に続いて浜があり、奥の谷部に16世紀まで遡る方形地割りの集落があります。銀山にゆかりのある航海安全の神社、船舶用に供された井戸、集落の火除け神である小祠が残っています。
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14. 温泉津重要伝統建造物群保存地区 温泉津温泉と温泉津の町並み
日本海に面したリアス式海岸湾入部にあり、沖泊と隣り合わせの港町。
16世紀後半になり石見銀山とその周辺地域の支配の中心地となって活況を呈しました。また、古くからの温泉のある町であり、銀山支配の現地代官や著名な戦国大名、文人墨客などが逗留しました。全長800mほどの町並みで、港から東へ向かう谷筋の通りと枝分かれする4本の枝筋に沿って、家屋が建ち並びます。江戸時代前期の配置状況と変わらず、間口の狭い短冊状地割りを引き継いでいます。特に狭い谷部の土地利用は、かつての石見銀山と関わりながら発展した町の様子をよく伝えています。
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温泉津温泉と石見銀山遺跡

知らなければ、まったくわからない…? 石見銀山の誕生〜江戸時代の通貨制度

 
観光バスでやってきて、大森の古い町並みを歩いて、またバスで帰っていく……。

そんな「石見銀山観光」をした人は、きっと言うだろう。

「石見銀山遺跡」?…たいしたことないよ。洞窟みたいな坑道と古い町並みしかないからね。なんであそこが世界遺産なんだろう」と。

そう。何の知識もなく、ドヤドヤと大人数であわただしく行って帰るだけでは、石見銀山の価値はわからない。

公開されている龍源寺間歩は、何も知らなければただの洞窟だし、周辺もただの田舎の山でしかない。

しかし内容を知れば知るほど興味の湧いてくる場所でもあるのだ。(自由人別冊羅針盤より)

総面積400万平方メートルのうち、調査済みはたった0.1% ! …… ↑top

 
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