| 江戸時代の大森は、邇摩郡佐摩村の内に発達した町場であり、また石見銀山領150余村を支配した代官所の所在地として、領内の政治経済の中心であった。
町の名は城上神社の境内に生い茂った木々に由来するといわれ、古文書には慶長7年(1602)頃に初めて現れる。
また、その史料では初代奉行大久保長安から現地の役人に、大森町の建設についての指示があったことが見えるので、おそらくこの頃になって意図的な町づくりが行われたものと推察される。
江戸の初期には、銀山が依然政治の中心地であったが、御銀蔵の移転に伴い、次第に大森町がそれに代わる新たな中心地となっていった。
もっとも、いつ代官所が今日の場所に置かれたかについては不明だが、一説には2代目奉行竹村丹後守は、城上神社付近に居を構え、その際益田氏の居宅であった三宅御土居の一部を移築したともいわれている。
やがて、支配施設関連が大森へ移転すると、銀山領4万8千石の政都として一段と発展していった。
大森町にとって一つの転機となった出来事があった。寛政12年(1800)3月24日に起こった大火、いわゆる「寛政の大火」である。
栄泉寺向の油屋友七という紺屋の裏より出火した火災は、武家61軒、社家4軒、寺院5ケ所、町屋219軒、土蔵26棟の、実に町並みの3分2を焼失させた。
これを契機に代官所では「今般火災後普請、町並みは瓦茸、板茸に致すべし、茅茸は一統相成らず由、仰せ渡され候」と、家普請に際しては茅茸を禁止するようになる。
一方銀山町は、江戸時代以前の古文書には「佐間銀山」と記され、佐摩村の一部であったことが分かる。
『コックス日記』に見る「Plate Soma」(ソーマ銀)が、「佐間銀山」つまり石見銀山で作られた銀だとされる所以である。
銀山の範囲は、江戸時代では「惣廻り弐里半四十八間、東西壱里、南北弐拾丁」で、「垣松」として2千本が銀山を取り囲むように植えられていた。
近隣の村から銀山へ入る道には、「口屋」と呼ばれる番所が10カ所(後8ヶ所)置かれ、人や物資の出入りが厳しく検査された。
銀山発見の初期には、仙ノ山山頂の石銀や南側の本谷を中心に銀の生産が行われ、と同時に人々の生活の場としての集落が形成された。
まもなく栃畑、昆布山、大谷など銀山の各谷にも集落が形成され、鉱山労働者、武士、商人、手工業者など多種多様な人々が居住するようになり、銀山は都市としてめざましく発展した。
天文8年(1539)には「大水出来侯て、昆布山の頭よりつえぬけ侯て、千三百余人流れ侯」とあり、産銀量の増大によって急激な人口増加があったことが分かる。
また、銀山最盛期の慶長から寛永には人口20万人、寺院は100ヶ寺を数えたという。
実数はともかく相当数の人口を擁していたことは想像に難くない。
毛利氏支配の頃には、山吹城下の吉迫に「休役所」が置かれ、その周辺には支配関連の諸施設や、銀山役人の居宅、店などがあったと思われ、地名にも「御文庫」「エンショウグラ」「下屋敷」「京店」「魚みせ」などが残る。↑top
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