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石見銀山は、1526年に九州博多の豪商神屋寿禎によって発見されて以来、1923年の休山まで約400年にわたって採掘された、日本を代表する鉱山遺跡です。2007年第31回のユネスコ世界遺産会議で世界文化遺産に登録されました。
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〒694-0305 大田市大森町イ826(銀山公園内)
TEL : 0854-89-9090・FAX : 0854-89-9089
 
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TEL:0854-89-0120・FAX:0854-89-0706
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石見銀山遺跡の魅力

 
『石見銀山図解』石見銀山絵巻と呼ばれるこの絵巻は、鉱山の作業風景をうかがい知ることができる貴重な資料。
精錬風景…銀鉱石をより分け砕き、溶かしている場面(中村俊郎氏所蔵)
 
知らなければ、まったくわからない。……でも、知れば知るほど興味が湧く。
 
石見銀山遺跡に観光バスでやってきて、

大森の古い町並みを通り、観光のお店を探索し、「龍源寺間歩(りゆうげんじまぶ)」を歩いて、またバスで帰って行く……。

そんな「石見銀山観光」をした人は、きっと言うだろう。

「石見銀山遺跡?……たいしたことないよ。洞窟みたいな坑道と古い町並みしかないからね。……なんであそこが世界遺産なんだろう」と。

そう、何の知識もなく、ドヤドヤと大人数であわただしく行って帰るだけでは、石見銀山の価値はわからない。

公開されている龍源寺間歩は、何も知らなければただの洞窟だし、周辺も、ただの田舎の山でしかない。

しかし、内容を知れば知るほど興味の湧いてくる場所でもあるのだ。

石見銀山には、現在、600以上の間歩や露頭掘りの跡が見つかっている。

その中で唯一、一般に公開されているのが『龍源寺間歩』だ。

とはいえ、公開しているのは人口から150mほどだけ。

その先は通り抜けが出来るようにと新しく作られた通路から帰ることになる。

予習無しで歩いてもまったく面白くないこの「洞窟」を、興味深いものにするために、いくつかのポイントを知っておこう。

人が2人、並んで通るくらいの幅しかない坑道を歩くと、左右に、あるいは斜め上に向かって、枝分かれしている細い穴がいくつもある。

石見銀山が本格的に採掘をされ始めたのは1526年。

 
初期は山肌に露頭している鉱脈を掘っていたようだが、露頭している鉱脈には限りがある。

そこで後に行われたのが、龍源寺間歩のように鉱脈に対して直角な坑道を掘り、その左右に伸びる鉱脈を掘り進めるという方法。

つまり、枝分かれしている穴こそが、鉱脈を掘り進めていった跡なのだ。

 
よく見れば岩に色の違う筋が走っているのがわかるはず。

それが鉱脈だ。

よほど不自然な体勢で掘っていたのだろう、人間がひとり、ようやく通れる程度の柵い穴まである。

また、間歩の中を歩いていると、ときおり、ポンプで水をくみ出す大きな音が響くことがある。

地下水を外に排出している音だ。

鉱山にとって地下水との戦いは切り離せない。

上の写真の『石見銀山鉱山図解』は、上下巻の絵巻物で、江戸中期の銀山の様子をうかがえる貴重な資料。

上段中央を見ると、木製のポンプで水を吸い上げているのがわかる。

左側には排水用の穴が続いている。

その下に描かれているのは、内部に空気を送っている場面。

農業用の「唐箕(とうみ)」という、穀物に混じる籾殻(もみがら)などを吹き飛ばすために作られた道具を改良し、新鮮な空気を送っている。

もちろんすべてが人力だ。

龍源寺間歩でも『石見銀山鉱山図解』の一部をバネルにして展示しているが、ここに、柄山(がらやま)と呼ばれる屑石の捨場で人々が拾いものをしている図がある。

この中に、女性や子供の姿があるのを見て、「かわいそう」と連呼する人を見かけた。

子供が強制的に働かされている、と感じたのだろう。

確かに、時代劇などでは、江戸時代の鉱山は、劣悪な環境の中、罪人などが重労働をさせられているイメージがあるが……。

「そもそも、江戸時代というのは、封建制度であって、奴隷制じゃないんです」

とは、石見銀山資料館の学芸員である仲野義文さん。

「一部には無宿人を使っていた例もありますが、これは都市部に増えすぎた人口を村に返す受け皿。決して強制ではないんです。だいたい、鉱山で働くには、鉱石を見つけたり石目を読んだりという技術が必要です」

鉱山を経営する立場としても、素人ばかり集まっても困る、というわけだ。

誰でも良いから労働力が欲しい、となるのは、削岩機などが導入されて単純作業が多くなる、後世の話。

逆に、江戸時代の大森の代官所では、技術を持った質の高い労働力を確保するための政策を行っていたほど。

柵内(さくのうち)と呼ばれる銀山の中心地域には、鉱山で働く者だけではなく、その家族が集団で生活していた。

その中で、2歳〜10歳の子供がいる家に対し、代官所は「子供養育米」として、1日3合の米を支給したというのだ。

「江戸時代の技術というのは、親方、子方の世界」と仲野さんの言うように、ともに生活をしながら働くことで学ぶことは多い。

子供も含めた家族全員が柵内に住み、よい後継者ができることを期待したのだろう。

つまり、いうまでもないが、前述の柄山捨場に描かれたのは、自発的に鉱石を拾う人々。

銀の含有率が少ない柄山捨場に良質の鍵(鉱石)が落ちているので、非番の人夫や女性、子供が拾っている図なのだ。

何でもないように見える山が、ほぼ丸ごと貴重な遺跡である。

『石見銀山鉱山図解』を見ると、当時の灰吹銀(はいふきぎん)の製法もよくわかる。

まず、掘り出された銀鉱石は不要な部分を除き、高温で溶かしながら比重の軽い鉄やケイ酸を取り除き、「貴鉛(きえん)」と呼ばれる鉛と銀の合金を作る。

これを銀と鉛に分離させる時に使うのが「灰吹法」

灰を敷き詰めた炉の上で貴鉛を溶かすと、酸化された鉛は灰にしみこみ、灰の上には銀だけが残される、というものだ。

『龍源寺間歩』の出口から10分ほど歩いた『出土谷(だしつちだに)』からは、2001年の調査で、この灰吹銀が発掘された。

発掘跡には看板があるが、気づかなければ、単なる平地にしか見えないだろう。

谷の入口には、鉱山の神を祀る『佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)』がある。

周辺には区画整理をされたような石垣と平地があり、建物が密集していたであろう往時の賑わいが想像できる。

そのほか、山内の各所にはこうした精錬所や生活集落の跡も点在。

近年の発掘調査で、様々な遺構が見つかっている。

1993年からの調査で発見されたのが、仙ノ山(せんのやま)『石銀(いしがね)地区』の遺構。

銀山初期から続くものと思われ、製錬所跡や坑道、住居や道、寺、墓などが出土し、その広さはなんと20万平方メートル。

また2003年、大規模な間歩のひとつ『釜屋間歩(かまやまぶ)』を調査していたところ、すぐ近くに数段の石段が発見された。

草や表土を取り除いてみると、石段は遥か上の斜面まで続き、想像もしていなかったほど大きな遺構が現れた。

それが岩盤加工遺構だ。

しかし、400万平方メートルといわれる銀山遺跡の中、こうした調査が行われたのは 4000平方メートルと、わずか0.1%に過ぎない。

残り99.9%の山の中には、どのような遺構が埋もれているのか、まだまだ計り知れないのだ。

銀を運んだ街道は積出港へと続く

 

石見銀山は柵内だけで完結するものではない。

周辺地域を含め「銀の生産から搬出に至る産業システムの総体が今もよく残っている」のも、世界遺産に登録された理由だ

 
戦国時代、毛利氏が支配した石見の銀は、日本海の港から各地に積み出されていった。

それらの港と銀山を結んだ『銀山街道』は、最近の調査で2つのルートが確定された。

温泉津(ゆのつ)を経て沖泊までの約12キロを結ぶ『温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)』の途中には、小さな嗣(ほこら)や道標が残る。

また、急勾配の難所だった『降路坂(ごうろざか)』手前には、馬を乗り換えるための宿場があり、今も小さな集落を形作っている。

「こんな山の中の集落なのに、海神を祀る『水上神社』があるんですよ」

案内をしてくれたのは、街道のルート確定調査をした郷土史家の多田房明さん。

海からさほど離れていないとはいえ、ここまで奥まった場所で海の神というのも不思議。

それだけ港との関わりが深かったのだろう。

「この西田集落では、田んぼで刈り取った米を乾燥させるのに、三角錐状に立てた木材に稲を立てかけて干していました。これは海で魚をとる綱を干す方法と同じで"神様が教えてくれた"との伝承が残っています」

ヨズク(フクロウ)に似ていることから「ヨズクハデ」と呼ばれるこの方法は、今も西田の秋の風物詩。

  

銀山から港まで、広大な範囲にまたがる『石見銀山遺跡』。

知識を持って見れば、風景のひとつひとつが、多くのことを語ってくれるはずだ。

 
…自由人別冊「羅針盤」より
 

石見銀山観光一覧

  
 
三瓶山(大山隠岐国立公園)
「国引き神話」では、三瓶山は国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされている。男三瓶、女三瓶、子三瓶、孫三瓶などの峰が室の内と呼ばれる火口を囲んで環状に配列している。室の内火口には室の内池と呼ばれる火口湖がある。火口はこのほか奥の湯火口があり、ここに三瓶温泉の泉源がある。麓には浮布池と姫逃池がある。
島根県大田市三瓶町
 
三瓶観光リフト
女三瓶や大平山の斜面に広がる約300haの大草原。ここが東の原です。三瓶観光リフトを利用すれば、約20分で大平山休憩所から室の内の絶景を眺める事ができます。
島根県大田市三瓶町
 
三瓶室の内(さんべむろのうち)
三瓶山は、男三瓶、女三瓶、子三瓶などいくつかの峰が環状に連なっていますが、これらの峰に取り囲まれた中央の凹地が「室の内(むろのうち)」と呼ばれます。大平山は、室の内から噴出した溶岩などが堆積してできた山と考えられ、大平山の頂上からは、男三瓶、女三瓶、子三瓶が室ノ内を取り囲む、自然林の一大パノラマが広がるため、紅葉もまた圧巻です。
島根県大田市三瓶町
 
亀の湯
三瓶温泉街から東に数分歩いたところにある公衆浴場。泉源より湧出した温泉を浄化しないでそのまま入浴できる。湯の花が混入するので濁っている。泉質はナトリウム、カルシウム、ナトリウムなどを含む含土類食塩泉。神経痛・筋肉痛・慢性消化器病・切り傷・やけど・慢性皮膚病・リューマチ・アレルギー疾患・消化器病・婦人病等に効能があります。
島根県大田市三瓶町志学
 
鶴の湯(薬師湯)
三瓶温泉街の中にある公衆浴場。観光案内所が併設されています。泉質はナトリウム、カルシウム、ナトリウムなどを含む含土類食塩泉。神経痛・筋肉痛・慢性消化器病・切り傷・やけど・慢性皮膚病・リューマチ・アレルギー疾患・消化器病・婦人病等に効能があります。
島根県大田市三瓶町志学
 
湯元旅館
岩風呂、家族風呂とも泉源に近いため地下から湧き出す湯を沸かさず、そのまま使う。飲用しても慢性胃カタルなどに効能。山菜と刺し身が美味。予約が必要。
島根県三瓶町志学931-5
国民宿舎さんべ荘
中国山地の霧の海を一望できる。自然そのままの源泉露天風呂(釜風呂、樽風呂、五右衛門風呂)、ジェット風呂、サウナなどを楽しみ、ホロホロ鳥鍋、天領シヤモすき焼き、自慢の手打そばも賞味。
島根県大田市三瓶町志学2072
 
四季の宿 さひめ野
全客室より中国山地の大パノラマがごらんいただけます。 自慢の創作和会席は旅行誌でも人気料理として取り上げられています。
島根県三瓶町志学2078-2
 
三瓶山自然林
男三瓶山の北斜面から室の内にかけての森林で、123.23haの範囲が国の天然記念物に指定されています。高木が茂る森林は、足を踏み入れると広々とした奥行きを感じる別世界。耳を澄ますと、野鳥のさえずりと木の葉のざわめきに満ちています。
島根県大田市三瓶町
 
指書(ゆびがき)の名号石
北の原に「南無阿弥陀仏」と刻まれた指書の名号という岩(名号岩)があります。伝説では、明光上人がこの地を訪れたとき、怪物に脅かされていた村人を救うために、墨を含ませた指先で岩に文字を書き、怪物を封じたと伝わっています。
島根県大田市三瓶町
 
三瓶自然館サヒメル
三瓶山の自然に包まれた博物館。館内は、大迫力の映像・大型ドーム映画とプラネ タリウム、地下から出現した「三瓶小豆原埋没林」の巨木展示、天体観測施設など盛りだくさん。島根県の大地の成り立ちと生き物を紹介した展示も充実しています。
島根県大田市三瓶町
 
姫逃池(ひめのがいけ)
古くは姫野ヶ池、姫沢の池ともよばれ、長者原の一角に50メートル×180メートルのこじんまりとした姿で水をたたえています。ここに咲く数千本のカキツバタの群落は県の天然記念物に指定されており、5月中旬〜6月にかけて満開になります。紫の花が悲恋の伝説の娘、白い花が若者の化身といわれ、いくつかの伝説があります。
島根県大田市三瓶町
 
定めの松
三瓶西の原の入り口にある樹齢300年の対立性の一里塚松で、大田市の文化財に指定されています。江戸時代の初め石見銀山の初代奉行、大久保石見守長安が交通の便利を狙って一里ごとに榎(エノキ)を植えたのが始まりといわれています。
島根県大田市三瓶町
 
浮布の池(うきぬののいけ)
三瓶山からの土砂が谷をせき止めてできた天然の堰止湖です。浮布池の名前の由来とされる伝説があります。「村の娘が青年に恋をしました。しかしそれは大蛇の化身。大蛇にとりつかれた娘を心配した弓の名手が矢を放つと見事に命中。大蛇は池に逃れました。化身と知らぬ娘はその後を追って飛び込み、やがて衣だけが浮いてきました。」
島根県大田市三瓶町
 
小屋原温泉 熊谷旅館
四方を山に囲まれ、眼下を三瓶川が流れる。和室と大広間の、小ぢんまりした一軒宿。湯船につかると体に小さな気泡が数多く付く食塩性炭酸泉で、疲れや痛みも和らげる。旬の食材を使った手料理を味わえる。
島根県大田市三瓶町小屋原1014
 
三瓶小豆原埋没林公園
約3500年前の縄文時代の三瓶火山の噴火により埋もれた杉が、そのままの状態で発見され、保存展示されています。縄文杉の大きさは圧巻!!(国定天然記念物)
島根県大田市三瓶町
 
池田ラジウム鉱泉
雄大な三瓶山のふもと。静かな山の中の温泉宿。浴場は2力所で、宇ごろな料金で宿泊・入湯ができ、長期滞在の静養や湯治に向く。宣伝は−切せず、口コミによる来訪客がほとんど。
島根県大田市三瓶町池田2660-2
 
三瓶ダム
平成6年に完成した多目的ダムです。ダムの近くにはさひめ湖の水を循環させるために設けられている噴水があり、見る人の目を楽しませてくれます。また、ダムの完成によってうまれた「さひめ湖」の周囲にはオートキャンプ場やテニスコートを備えた浮島ゾーン、水に親しみながら遊べる水辺の広場ゾーンなどが魅力的です。
島根県大田市三瓶町
 
物部神社(もののべじんじゃ)
式内社、石見国一宮で、旧社格は国幣小社。宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮および彌彦神社と共に有名であるが、なぜか宮中が行う11月22日でなく、11月24日に行われる。社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。
島根県大田市川合町川合1545
 
漢女神社(あやめじんじゃ)
石見第一の宮である、大田市の物部(もののべ)神社の境内には、摂社(せっしゃ)として漢女(あやめ)神社があり、拷幟(たくはた)千々姫命(ちぢひめのみこと)が祭神として祭られています。この祭神は、朝鮮半島南部の安耶加羅(あらかや)国から来て、機織(はたおり)術を教えたとされていますが、もしかしたら、同一神かもしれません。
島根県大田市川合町川合
 
泉弘法温泉
江戸時代中期、諸国霊場行脚の仙光坊が静間川河畔に湧き出る霊泉を発見し、湯治場を開いたことに始まる。低張緩和性冷鉱泉の湯を岩風呂の大浴場と家族風呂で楽しめ、山菜や魚介の素朴な古里の昧でもてなす。
島根県大田市川合町川合4247-1
 
清滝(きよたき)
刺鹿(さつか)地内を流れる江谷川の上流にあり、雨ごいの霊瀑として市杵姫命(いちぎひめのみこと:弁天様)を祀っています。
島根県大田市久手町刺鹿江谷
 
城山温泉旅館
城山のふもとに湧く温泉を利用した湯宿で、緑を望む高台にある。低料金と親切がモットー。清潔なタイル張りの浴場が男女別に各1つ。宿泊、休憩は予約が必要。自慢は、角寿司。
島根県大田市大田町大田イ934
 
立神(たてがみ)岩・立神島
この神様は蛇の神様であり、腰から下の病気に霊験あらたかだと伝えられています。
島根県大田市波根町
 
掛戸松島(かけとまつしま)
絶壁と奇岩からなる景勝地です。鎌倉時代に、当時潟湖であった波根湖を排水するために、湖と海との境に横たわる丘陵地を、有馬次郎左衛門が7年かかって切り割ったものと言われています。
島根県大田市久手町波根西
 
珪化木(けいかぼく)
第3紀(2000万年前)の火山噴出物のため押し流された樹木が埋没して珪化したもの。波根西海岸の机島を中心に東西と北方の島30アールとその周辺の海域約3ヘクタールが国の天然記念物に指定されている。
島根県大田市久手町波根西
 
静之窟(しずのいわや)
この静之窟は、漁家のなくなった浜辺、垂水山麓が海に突き出した所に、海蝕によってできた大きな洞窟です。満潮時には、窟のほぼ半ばまで潮があがるとされる、暗い大きな洞窟の中を、じつと目を凝らして見ると、奥の方に歌碑(千家尊福氏(せんげたかとみ)の揮毫(きごう))が建っているのが見えます。昔むかしには、大汝(おおなむち)の神様と少彦名(すくなひこな)の神様が、国造りに苦心をなさりながら、ここにお住まいになったのであろうか、そんな想いにさせる別世界の雰囲気をもっています。
島根県大田市静間町魚津
 
韓神新羅神社
韓神新羅神社に祭られている神様は、主祭神が素戔鳴尊、配祀神が、大屋津姫命、抓津姫命といわれています。その由来は、素戔鳴尊の御子神である大屋津姫命、抓津姫命、五十猛命の三神は、父神とともに、新羅にいらっしやつたが、新羅の国の風俗が不祥になったので、この大浦へ、父神とともに埴土(はにつち)の船に乗り、渡りなさったというものです。
島根県松江市宍道町白石638
 
五十猛(いそたけ)のグロ
韓神新羅神社の下に、三地区が集まり「グロ」と呼ぶ仮屋を立てます。1月11日に大竹を小屋の中央に神籬(ひもろぎ)として立て、その周りを、桧や竹やむしろを材料に小屋を作り、お祭りをし、16日にはこわして、トンド焼きをするものです。祖霊が神木を伝わって降臨なさり、神籬は焼かれて、祖霊は昇天するといわれています。
島根県松江市宍道町白石638
 
波啼寺(はていじ)
本尊は十一面観音菩薩、石見観音霊場二番札所。元は通称・堂床にあった東光寺が前身で、本尊の観音は海中から出現したとも、また大和の長谷寺からゆずり受けたともいう。
島根県大田市仁摩町宅野1315
 
韓島(からしま)
韓島は、周囲800メートル、老松が茂る無人島ですが、ここには韓島神社が祭られています。江戸時代の神社の記録にも、ここが人麻呂の歌う「韓の崎だ」と書かれているそうです。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)で、命が朝鮮半島への往来の途中に、ここに立ち寄ったという言い伝えがあり、江戸時代には、大森銀山の代官が供え物をするなど、航海の守護神として大事にされています。
島根県大田市仁摩町宅野
 
坂灘遺跡(さかなだいせき)
坂灘の一帯は縄文遺跡と弥生遺跡が混在している。この絶景の海岸は、縄文時代に魚介類を狩猟して暮らすには、絶好の場所であったのだろう。スサノオがこの一帯の海岸に上陸し、子孫のオオクニヌシとスクナヒコナが稲作を日本全土に広めていったという神話からも、ここは日本の稲作の発祥地だろうか。
島根県大田市仁摩町仁万坂灘
 
満行寺(まんぎょうじ)
真宗寺院最大の古刹。本尊の阿弥陀如来像は、銀山山吹城主の子・昭珍が諸国行脚のとき入手という。境内4,500?、本堂は12間四方の堂々たるもの、12月の報恩講には近隣最大の賑わいあり。
島根県大田市仁摩町馬路487-1
 
仁摩サンドミュージアム
大小6基の総ガラス張りのピラミッドが並ぶ、琴ヶ浜の「鳴り砂」をモチーフに造られた博物館です。世界最大の1年砂時計『砂暦(すなごよみ)』が一際目立ちます。隣接のふれあい交流館では、ボヘミアンガラスの展示販売や、ガラス工房の創作体験を行っています。
島根県大田市仁摩町天河内975
 
湯迫温泉旅館
歩くとキュツキュツと鳴る「鳴き砂」の琴ケ浜海岸と、超大型の砂時計のある「仁摩サンドミュージアム」が観光名所の町で、温泉宿はこの1軒だけ。浴場から眺める庭園の四季の移ろいが、旅情を高める。
島根県大田市仁摩町天河内853
 
石見城跡
銀山柵内から北西5kmにあり、標高153mの岩山山頂部を利用した16世紀の山城跡。日本海に近い平地部の南端にあって、仁摩方面を守備するための重要拠点でした。1565年ごろに温泉津や石見銀山の権益を持った近隣地域の領主温泉氏が軍事的拠点としていたとみられています。
島根県大田市仁摩町大国
 
石見銀山世界遺産センター
石見銀山の歴史や鉱山と暮らしの学習施設。17世紀初めの「吹屋」や銀山最大級の坑道「大久保間歩」の坑内などのさまざまな再現模型、CGを駆使した映像、出土遺物などの多彩な展示を通して、石見銀山の歴史や鉱山技術など、世界遺産としての価値が深く理解できるものとなっている。
島根県大田市大森町イ-1597-3
 
城上神社(きがみじんじゃ)
城上神社は、もともと高山の隣に位置する城上山山頂に祭られていた。永享六年に大内氏が銀山の守護神として愛宕山に移し、その後、天正五年に毛利氏が現在地に遷宮した。境内に「亀石」とよぶ御神石が示巳られているが、神社が山頂にあった時、海亀の姿をした石を奉納して海の安全を祈ったと伝えられる。拝殿の鏡天井にある極彩色の「鳴き龍」は迫力満点。
島根県大田市大森町イ1477
 
石見銀山資料館
江戸時代初期、2代目銀山奉行竹村丹後守が山吹城下から陣屋を移して以来、石見銀山付御領と呼ばれた天領支配の拠点となったのが、大森代官所である。文化12年(1815)に普請された堂々たる表門をくぐると、そこは石見銀山資料館となっている。銀山に関する貴重な資料が数多く展示されており、ぜひ見学をお勧めしたい。
島根県大田市大森町ハ−51−1
 
勝源寺(しょうげんじ)
大久保石見守長安と、竹村丹後守道清が大旦那となって、1601年に建てられた。当時、石見銀山は江戸幕府直轄の領地、「天領」と呼ばれ、幕府から任ぜられた奉行・代官の下、一大産業都市として栄えていた。勝源寺は、そんな奉行・代官の菩提寺として、人々の尊敬を得た。
島根県大田市大森町イ−430−1
 
 
 
熊谷家住宅(重要文化財)
代官所跡から南西50mにあり、町の通りに面して建つ大森銀山地区最大の商家建築。熊谷家は金融業などを営みながら、町役人や代官所の御用商人を務め、19世紀には大森の中で最も有力な商家の一つとして栄えました。現在の建物は1800年の大火後の再建ですが、その後順次整えられていった屋敷構えの変遷の様子や生活ぶりがうかがえる貴重な商家建築です。
島根県大田市大森町ハ-63
 
井戸神社(いどじんじゃ)
享保の大飢饉から石見の人々を救い「芋代官」と慕われた大森代官「井戸平左衛門正明」を祀る神社。石見各地の旧道のほとりや寺院の境内などに、「井明府之碑(いみょうふのひ)」とか、「泰雲院殿義岳良忠居士(たいうんいんぎがくりょうちゅうこじ)」などと刻まれた石碑をよく見かけます。
島根県大田市大森町イ1372
 
西性寺(さいしょうじ)
「左官の神様」と尊敬された松浦栄吉が還暦を迎えた大正時代中頃の鏝絵「鳳凰」がある。西性寺の経蔵には、ほかの三面の壁にも大輪の牡丹や菊が彫刻されています。
島根県大田市大森町イ-1510
 
妙蓮寺(みょうれんじ)
石見銀山の最盛期である江戸時代の初め、慶弔15年(1610)に本妙院施上人により創建されたと伝えられている日蓮宗の寺院。代官阿久津修理義守墓所「県指定文化財(史跡)」もあります。
島根県大田市大森町イ483-1
 
観世音寺(かんぜおんじ)
岩盤を刻んだ石段を登っていくと、朱色の門の両側に仁王様がカッと目を見開き、傍らには十六羅漢が静かに立ち並んでいます。大森代官所の祈願寺で真言宗の寺院。幕末には儒学者佐和華谷が住持。
島根県大田市大森町イ-1383
旧大森区裁判所(町並み交流センター)
明治21年に竣工した建物で、当島根県に設置された七つの区裁判所の一つ、邇摩・邑智の二郡を管轄した裁判所。建物は和風を基調とした木造の平屋で瓦葺。戦後、法務局支部、同出張所を経て、大田市の公民館となった。旧法廷が一部復元され、町並み交流センターの施設の一部として無料公開されています。世界を動かした銀の話から町並みの保存の様子がよくわかる映像を無料でご覧になれます。
島根県大田市大森町イ-490
 
武家屋敷旧河島家
旧河島家は1800年代初めに建築された住宅で、平成二年に復元されました。唯一公開されている武家屋敷の遺宅で、中には隠し部屋もあるといいます。
島根県大田市大森町ハ118-1
 
栄泉寺(えいせんじ)
井戸平左衛門がこの寺でさつま芋のことを旅の僧侶から聞いたといわれる曹洞宗の寺院。慶長年間(1596年)の創建で、文化4年(1807年)に再建されたと言われています。
島根県大田市大森町イ−1542
 
羅漢寺 五百羅漢
岩盤斜面に三カ所の石窟があり、中央窟に石造釈迦三尊仏を、左右両窟には250体ずつの石造羅漢坐像を安置しています。1757年羅漢寺住職と大森代官所役人が発願し、石見銀山や日本全国の江戸幕府直轄地の有力武士や町人などの寄付を得て1766年に完成しました。三基の石橋や一基の祈念塔を含め、石見銀山の石工技術をよく表した貴重な石造作品です。
島根県大田市大森町イ80
 
銀山公園
石見銀山遺跡の銀山エリアと大森エリアの中間にあり、休憩所、駐車場、遊歩道などが整っている。ガイドを依頼できるインフォメーションや荷物預かり所もある。平成20年10月から、龍源寺間歩方面への路線バスの運行は廃止になりました。銀山公園から龍源寺間歩へは徒歩での移動となります。なだらかな登りの木陰の中を、土道が続いております。往復約5Kmを歩くことになりますので、歩きやすい格好でお出かけください。
島根県大田市大森町イ824-3
 
大久保石見守長保逆修墓
大久保石見守長安は、もともと甲斐武田氏の蔵前衆として活躍していましたが、武田氏滅亡後、徳川家康に見いだされ、初代石見銀山奉行に任じられました。関が原の戦いに勝利した徳川家が石見銀山を直轄することになった慶長6年(1601)、初代銀山奉行となり、その卓越した知識と経営的手腕によって、江戸時代初期のシルバーラッシュをもたらしたことで知られています。逆修塚は、生前に自分の法名を付けて建てた墓のことで、功徳(くどく)が大きいといわれています
島根県大田市大森町
 
下河原吹屋跡
発掘調査によって初めて発見された17世紀初頭(江戸時代初め)の銀精錬遺跡。朝鮮から伝わった、鉛の合金を熱し、鉛を灰に染み込ませて銀を取り出す「灰吹」法と呼ばれる精錬法で銀を取り出していた。跡地には平成3年に検出された、銀鉱石を砕いた要石や、選別のために水を溜めた跡がある。
島根県大田市大森町銀山地区
 
西本寺(さいほんじ)
寛永8年創立、初めは天台宗であったが、現在は真宗に改宗されています。門前には「山吹城城門西本寺」と書かれています。山吹城とは要害山山頂にあった城のことです。
島根県大田市大森町ホ-209
 
豊栄神社(とよさかじんじゃ)
創建月日は不明。もとは洞春山長安寺。主祭神は毛利元就。明治3年に豊栄神社となる。正月と 4月28日の佐比売神社例祭の午後、神主がやって来て祭りを行った。氏子はなく、信徒総代という形で大森から2人、銀山から1人が出て寄付を集め、運営していた。昭和初期まで、7月の終わり頃に例祭があった。水上の堂原(荻原)神楽や大屋神楽が催された。
島根県大田市大森町イ824-3
 
極楽寺(ごくらくじ)
本山清浄葦院31代住職良休上人の開基、毛利元就より地所を拝領した。元亀2年(1571)に勅願寺となり、極楽寺の号を賜る。寛永年間(1624〜4生)に再建され、享保年間に改修(1716〜36)、明治12年に再々建。境内仏堂として、薬師堂があった。青貝天井は旧山吹城天守閣の天井をそのまま移したと伝えられていたが、昭和14年の火災で焼失した。
島根県大田市大森町イ1383
 
清水谷製錬所跡
山すそに傾斜を利用して造られた明治時代の先端技術による精錬所の遺跡。明治期(1895〜1896年)に稼働していた清水谷製錬所跡の発掘調査の結果、建物の基礎と考えられる石列や、モルタル等で補修された道路の側溝、石組みなどが発見されました。また、大量の骨灰皿(キューペル)が検出され、灰吹法での銀の試金用に用いられた可能性が高いと見られています。
島根県大田市大森町銀山地区
 
清水寺(せいすいじ)
「清水寺縁起」によると、推古天皇の命によって上官太子が仙ノ山山頂の石銀に一仏堂を建てたのが始まりで、古くは「天池寺」と号していた。神屋寿禎の銀山発見伝承や安原備中の釜屋間歩開発伝承にもこの寺の観音様が登場、銀山開発と縁の深いお寺だ。その後清水谷に移り、明治時代に現在地へ移転している。
島根県大田市大森町ニ92
 
山吹城跡(やまぶきじょうあと)
清水寺の眼前にそびえる要害山(標高414m)の山頂に築かれているのが、山吹城である。この城は、銀を産出する仙ノ山に対峠し、銀山支配の拠点であったため、銀山攻防戦の表舞台となった。要害山山頂には、階段状に整備された大規模な郭跡(建物を建てるための平坦面)が広がっている。石垣や空掘、登って来る敵めがけて石を落とした竪掘も認められ、何度も落城を繰り返した激しい銀山争奪戦を想像することができる。
島根県大田市大森町
 
吉岡出雲の墓
大久保石見守に仕え代官として石見銀山はもとより伊豆、佐渡金銀山の開発にあたり功績を上げた吉岡隼人の墓
島根県大田市大森町
 
宗岡佐渡の墓
毛利時代には石見国大森銀山の代官を務め、後に佐渡金銀山の開発に中心的な役割を果たした宗岡弥右衛門の墓。
島根県大田市大森町
 
佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)
石見銀山の坑道の1つである龍源寺間歩の出口の約200m東に位置する。東南方向に100段の石段を上がると、巨石の上に社殿が鎮座している。祭神は金山彦命。さひめ山とは、三瓶山の古名。神亀3年(726年)に朝廷の命令で、三瓶山に改名させられたとされる。三瓶山は、古代出雲や物部氏に関係が深い山とされている。「さひめ」の『さ』は穀物霊や、鉄を表しているとの説がある。別名は山神社といい、鉱夫や里人からは「山神(さんじん)さん」と呼ばれていた。
島根県大田市大森町銀山地区
 
龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)
江戸時代の中期正徳5年に開発された代官所直営の問歩で、「永久」「大久保」「新切」「新横相」とともに『五力山』と呼ばれていました。間歩の長さは600mに及んでおり、石見銀山では大久保間歩に次ぐ大坑道でした。入口から157mまでの壁面には当時のノミの跡がそのまま残っており、また二十余りの絹押し坑道(鉱脈に沿って掘り進んだ横穴)や垂直に100m掘られた竪坑(たてこう)を見ることができます。
島根県大田市大森町ニ-183
 
仙ノ山(せんのやま)
「石見銀山遺跡」の全景を、もっとも広く見通せる展望台です。山吹城跡、大森の町並みのほか、矢滝城跡、かつての柵内の境界であった尾根、仁摩の港や、神屋寿禎が航海中に光る仙ノ山を見たという韓島の沖合、馬路高山、三瓶山の西を通る尾道街道や、視界が極めて良好であれば島根半島までを見ることが出来ます。
島根県大田市大森町
 
本間歩(ほんまぶ)
「大量の銀は、釜屋間歩ではなく、本間歩の奥の福石場で掘られたはず」。島根県立三瓶自然館の中村唯史主任学芸員は、仙ノ山・福石鉱床の地下で銀の富鉱帯を採掘した福石場を研究。江戸期の採掘場所を記した坑内実測図に釜屋間歩は描かれず、本間歩の奥に位置する二つの福石場こそ、シルバーラッシュの頂点を極めた現場と読み解く。
島根県大田市大森町
 
釜屋間歩(かまやまぶ)
備中出身の安原伝兵衛が夢のお告げで発見したと言われる間歩。慶長年間に発見、採掘され、石見銀の産銀量を飛躍的に増やした。平成15年度の発掘調査では岩盤を加工したテラス(平坦地)や坑道、またテラスをつなぐ階段などが発見された。
島根県大田市大森町本谷地区
 
大久保間歩(おおくぼまぶ)
坑内には江戸時代と推定されている縦横に走る坑道や、明治時代の開発で坑道を拡幅(かくふく)した様子など見ることができます。同銀山を支配下に収めた徳川家康によって、初代の奉行に任命された大久保長安が、槍を持って馬に乗ったまま入ったという伝承から、大久保という間歩名になったそうです。
島根県大田市大森町
 
矢滝城跡(やたきじょうあと)
銀山柵内から南西2.5kmにあり、標高638mの山頂部を利用した16世紀の山城跡。北側には石見銀山街道温泉津沖泊道が通る降路坂があり、さらに進むと矢筈城跡があり、石見銀山を防備するための要衝を押さえています。
大田市温泉津町西田〜祖式町矢滝
 
矢筈城跡(やはずじょうあと)
銀山柵内から西2.5kmにあり、標高479mの山頂部を利用した16世紀の山城跡。東側の尾根伝いには石見銀山街道温泉津沖泊道が通る降路坂があり、さらに進むと矢滝城跡があります。1557年頃に毛利氏が銀山の山吹城を押さえて尼子氏を攻撃し、この城をはじめ周囲3カ所の城から撤退させたとみられる記録があります。
大田市温泉津町西田〜仁摩町大国
 
瑞泉寺(ずいせんじ)
落慶法要の数年前のこと、琴ケ浜で松江藩の御手船「源徳丸」が沈没しました。その様子を、仁摩町馬路・琴ケ浜で毎年開かれる伝統の盆踊りの「源徳丸」口説きでは……前略、おもかじきかず綱もイカリも役にはたたず…中略…やがて浄土の港に入るさらばさらばと相果てました。この源徳丸の材を使って、山門は建てられたと伝えられています。
島根県大田市温泉津町西田624
 
琴ヶ浜(ことがはま)
延長2Km。この海岸は、歩くとキュッキュッと琴の音のように鳴り、美しい微小貝を含んだ「鳴り砂」の浜として知られています。音は最も美しい音色のミュージカルサウンドで、気の遠くなるような大自然の営みが生み出した「妙技」「至宝」とさえ言えるでしょう。
島根県大田市仁摩町馬路本郷
 
鵜の島天目洞
島根県の西部に当たる石見地方は美しい海岸線で知られています。大田市から益田市まで約100キロにわたる海岸線は険しい岩場だけでなく、広々とした砂浜もあり、変化に富んだ景観を見せてくれます。仁摩町の鵜の島周辺の海岸には自然景観に富んだ奇岩や洞窟が連なっております。陸路から訪れることはできませんが、遊覧船で巡ることができます。
島根県大田市仁摩町
 
鞆ヶ浦(ともがうら)
銀山柵内から北西6kmの日本海沿岸にあり、石見銀山開発初期の16世紀前半、銀・銀鉱石を 九州の博多に積み出した港。銀山開発間もないころ、博多から銀鉱石を求めて多くの商船が来航し、繁栄したとの記録があります。江戸初期には漁村化し、その後大規模な開発もなく、中世港湾の形態を残すこととなりました。
島根県大田市仁摩町馬路
 
金柄杓井戸(かなびしゃくいど)
その昔、泉の水の美味しさに感動した大森代官がお礼に当時高価だった金属製の柄杓を奉納したため、このように呼ばれるようになったと伝えられています。今日でも道床山の伏流水が岩の聞から湧き出しており、昭和61年に島根の名水百選・くらしの清水に選定されました。
島根県大田市温泉津町湯里
 
銀山街道
石見銀山から二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物質の輸送路。鞆ケ浦道は輌ケ浦が銀・銀鉱石の積出港であった16世紀前半、銀山柵内から日本海へ出る最短の搬出路。温泉津沖泊道は、温泉津沖泊が外港となった16世紀後半、銀の搬出と諸物資の搬入のために利用された道。途中には土橋や切土の道普請の跡や、往来の人々の交通安全を祈った石碑・石仏などが残り、銀鉱石の搬出や交通に関わる伝承もあります。
島根県大田市温泉津町
 
忠左衛門堂(ちゅうざえもんどう)
この神様は蛇の神様であり、腰から下の病気に霊験あらたかだと伝えられています。忠左衛門とは実は梅雨左衛門が正確な名前で、「つゆ」がいつしか「ちゅう」になまってしまったものらしいのです。同様な信仰を銀山街道沿いでも見ることができます。坂根谷(大森町)にも雨宿りできるくらいの大きな窪んだ岩があり、福原にも同様な「梅雨左衛門」の祠があり、石東地域特有な民間信仰のようです。
島根県大田市温泉津町
 
厳島神社(いつくしまじんじゃ)
石見の覇者となった毛利元就が、永禄11年(1568)温泉津町小浜に宮島から遷座、造営しました。毎年2月14日、厳島神社では、伝統ある「御日待祭」が行われます。小浜の大火事を治めたと言われる白鷺の伝説に由来する火祭で、この日、厳島神社の境内の火は、一年間の安全を祈って翌朝まで燃やし続けられます。神社内にある波ウサギの鏝絵も見ものです。
島根県大田市温泉津町
 
浅原才市生家
石見国大浜村字小浜(現島根県大田市温泉津町小浜)に生まれる。。才市は生涯を下駄職人として過ごした。その仕事の合い間に、「口あい」と称せられる、信仰を詠んだ自作詩、約10,000首もの数を、かんな屑に書き綴っていた。才市を妙好人として取り上げたのは、鈴木大拙であり(『日本的霊性』)、後に『妙好人浅原才市集』を編纂している。
島根県大田市温泉津町
 
小浜温泉・才市の湯
夕方4時頃から8時30分ごろまでの営業。JR温泉津駅から近い位置にあり、温泉街のそれとはちょっと違う雰囲気の庶民的な温泉です。
島根県大田市温泉津町小浜ロ103-3
 
 
安楽寺(あんらくじ)
昭和の妙好人といわれる浅原才市にゆかりの深い寺院。境内入口に才市の法悦句を刻んだ碑があり、数々の遺品も保存される。毎年六月五・六日に顕彰法要が行われる。
島根県大田市温泉津町小浜イ-1105
 
野口雨情の詩碑
「おれは河原の枯れススキ」や「夕焼け小焼けで日が暮れて」など、かつての時代に忘れえぬ流行歌や童謡を残した野口雨情が、昭和18年4月に温泉津の俳人、山口打聴(やまぐち だちょう)さんらの招きで、奥さんと二人で温泉津を訪れています。このとき野口雨情が作詞した温泉津小唄はビクターからレコードになりました。
島根県大田市温泉津町
 
温泉津湾
日本海、一本釣り漁の基地港として有名。かつて石見銀山の積出港として北前船が出入りした温泉津港は美しいリアス式海岸の入り江の奥に開かれた天然の良港です。季節風の影響が少なく波静かで、水深も深いため大型船も楽に入港できました。
島根県大田市温泉津町
 
庄屋屋敷
毛利輝元の家臣で鵜丸城の初代奉行として温泉津にやってきた内藤家の屋敷。その後代々庄屋を務め、回船問屋や酒屋なども営んできたという内藤家400年の歴史を伝える屋敷と土蔵群。特徴のあるなまこ壁、玄関に掛けられた大きな縄のれん、格子窓や中二階の虫籠窓(むしこまど)などが往時の隆盛ぶりを今に残しています。
島根県大田市温泉津町温泉津
 
龍御前神社(たつのごぜんじんじゃ)
温泉街を見下ろす岩山にあり背後の岩は龍が大きく口を開けた様に見える。石見銀山華やかなりし頃、頻繁に温泉津港に出入りした北前船の守り神として信仰を集めてきました。温泉街を見下ろす岩山にあり、背後の巨岩は龍が大きく口をあけたように見えます。境内には、船主から寄進された石灯籠や船絵馬が残されています。
島根県大田市温泉津町温泉津イ736
 
旅館ますや
ぬくもりのあるおちついた和風旅館。岩風呂風大浴場でくつろぎ、日本海の活魚を主材としたオリジナル会席料理コースでもてなす。入浴と会席料理をセットにした休憩も、予約で受け付ける。
大田市温泉津町温泉津ロ32
 
旅館のがわや
和風造りの旅館。大正元(1912)年の創業だが、近代的な設備。男湯に斐伊川の石、女湯に地元の福光石を使う岩風呂があり、24時間入浴できる。名物・タイの奉書焼き、イカソーメンが好評。野生のタヌキも見られる。
島根県大田市温泉津町温泉津ロ30
西楽寺(さいらくじ)
大阪石山合戦への顕如上人からの依頼状が残されている寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸時代初期に建てられた規模の大きな堂々とした寺院で、同時期に再建された本堂は、現在も格調高く威厳を放っています。慶長8年(1603)に西楽寺と名を改め、その後十二世の一成住職が天保2年(1831)に再建しました。温泉街の中にひっそりと聖域を作っています。
島根県大田市温泉津町温泉津イ-727-1
 
恵こう寺(えこうじ)
戦国武将細川幽斎が百歌連歌の会を開いた逸話や、石見銀山初代奉行大久保長安の殺生禁断の制礼や逆修墓があることで知られる古刹。本堂裏手には、数多くの墓標が一つ屋根の下に並ぶ廟式の墓地があります。刻まれた越前屋、佐渡屋、境屋、泉屋などの屋号から、これらの墓地が廻船問屋のものであり、北前船を介して全国各地と交流していたことがうかがえます。
島根県大田市温泉津町温泉津ロ14−3
 
旅の宿 輝雲荘
泉源をそのまま引いた「たぬき湯」、麦飯石温泉のヒノキ風呂と二種あり、家族風呂としての利用も多い。温泉街の中心部にあり、離れや掘りゴタツ付きの部屋もある。焼きたてのタイ塩焼きが好評。
島根県大田市温泉津町温泉津ロ203
 
薬師湯
島根で唯一、全国に僅か12箇所しかない最高評価の「オール5」で認定された薬効豊な天然温泉は、万病に効くと評判。自噴湧出。レトロな施設と屋上ガーデンテラスで飲むコーヒー(無料)も好評。
島根県大田市温泉津町温泉津イ7-1
 
旅館 後楽
JR温泉津駅から車で約3分。古びた風情の外観に郷愁が漂う。岩風呂は24時間使え、料理はタイやヒラメの姿造りなど海の幸が中心。家庭的なもてなしをモットーとするサービスが気楽で親しみやすい。
島根県大田市温泉津町205-1
 
なかのや旅館
温泉街から少し外れた静かな宿。春はウグイス、初夏はホトトギスの声が部屋に聞こえてくる。石州瓦から湯が流れ落ちる浴場は、24時間いつでも入浴OK。日本海でとれたイカを使った名物イカソーメンやアワビのステーキが好評。
島根県大田市温泉津町温泉津ロ12-2
 
龍澤寺(りゅうたくじ)
旅の途中に立ち寄った木喰五行が、特殊なノミ跡をしるして刻んだ木彫り仏が安置されている寺として有名。温泉街を北側へ少し上っていく坂道にひっそりとたたずむ。
島根県大田市温泉津町温泉津イ-706-2
 
旅館廣島屋
天然の洞穴に湯が湧き、珍しい自然石のサウナ式内湯を設ける。毎岸から500mのところに湧出するラジウム泉。ギックリ腰、神経痛などの療養に向く。料理は手作りの家庭的な魚料理が中心。タイの塩焼きが好評。
大田市温泉津町温泉津ロ205-10
 
円満風呂 山県屋
薬師如来をまつる温光寺のそばで、温泉街のそぞろ歩きに便利。5人が入れる家族風呂(岩風呂)は1つだが、外湯の「元湯」、「薬師湯」に近く、下駄ばきで出かけるのもー興。海鮮料理(会席)が好評。
島根県大田市温泉津町温泉津ロ205-6
 
元湯温泉
永禄9年(1566)発見されてから千三百年の歴史を持つ元湯は、温泉津に長らく湯治場としての評判をつくってきた由緒ある温泉です。 現在でもその薬効の高さから入湯客が絶えません。また、伝説ではタヌキが発見したという言い伝えもあり、共同浴場・元湯の正面には、タヌキと蓮の花のレリーフが飾られています。
島根県大田市温泉津町温泉津ロ208-1
 
浅原才市像(あさはらさいちぞう)
元湯の前に広がる石だたみの広場、その中央にあるのが妙好人浅原才市の像。
島根県大田市温泉津町温泉津温泉街
 
もりもと旅館
自然の岩石風呂で、薬効豊かなかけながし温泉でおくつろぎください。浴室は家族風呂1つのみ(当日先着順)。
島根県大田市温泉津町温泉津ロ1-1
 
金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)
温泉津の町が眺望できる金刀比羅山に鎮座。文政五年(1822)5月、富沢小兵衛という農夫が山の畑地から金山彦命(かなやまひこ)の神体をクワの先端にあてて掘り出し、温泉津港に入っていた船主たちから資金を集めてお祭したのが始まりとされています。
島根県大田市温泉津町
 
やきものの里「やきもの館」
江戸時代中期に築窯された登り窯を復元。全国でも最大級の15段という巨大さにびっくり。温泉津焼を産んだ登り窯の見学と土ひねりや絵付けなどの陶芸体験(やきもの館)も楽しめます。
島根県大田市温泉津町温泉津イ-22-2
 
森山窯
師匠河井寛次郎先生に「陶工になる前に立派な人間になれ。焼物は繰返しのみでなく、創造の意欲を忘れてはならない」と教わったことを基本に作陶に励んでいます。釉薬は並釉、呉須釉、鉄釉、灰釉等々その他の釉薬も使っています。急須・湯呑・コーヒー紅茶碗皿・皿・鉢・花瓶
島根県大田市温泉津町温泉津イ-3-2
 
椿窯
釉薬は父が河井寛次郎師より直伝で受け継いだものを椿窯なりに工夫したもので、育歪、呉須、辰砂を主体に、温泉津長石をべ−スにした釉薬と合せて使って居ります。呉須辰砂椿紋大皿・窯変天目茶碗・練上扁壺
島根県大田市温泉津町温泉津イ-12-2
 
(有)椿窯
河井寛次郎氏が温泉津焼へ荒尾常蔵氏を技術派遣しました。昭和44年、荒尾父子は温泉津へと移り住み、窯を築き作陶器、日本古来から愛された椿の花に因み窯名を椿窯と名付けたといいます。現在では「棟上げ」「釉裏紅」「耀変」などの作品を作っています。棟上茶碗・花入・皿
島根県大田市温泉津町温泉津イ-12-2
 
金剛院(こんごういん)
細い路地の奥に槇の大木を前にして本堂だけが建っています。高野山真言宗、千手観音菩薩を本尊とし、もとは温泉津温泉の中心地にありましたが、宝暦10年(1760)現在の地へ移転しました。
島根県大田市温泉津町温泉津イ758
 
愛宕神社(あたごじんじゃ)
愛宕山からは波の美しい温泉津湾や赤瓦の町並みが風情豊かに望まれます。大久保石見守は海が眺められる愛宕山と温泉街の中の恵こう寺に、逆修塚を建てています。県指定文化財の謎の梵鐘は、もともと隠岐郡海士町勝田山源福寺の鐘でしたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して供出され、返還の時に間違って温泉津に運ばれたと伝えられています。
島根県大田市温泉津町温泉津沖浦
 
西念寺(さいねんじ)
毛利元就が九州の立花城を攻めた際に手柄のあった然休上人を開基とした浄土宗の寺院。境内は狭かった谷の岩盤を毛利家の手勢が手掘りで切り拓いたものと伝えられています。西念寺の中庭には、元就手植えの紅梅があったなど、元就ゆかりの地の一つでもあります。
島根県大田市温泉津町温泉津イ787
 
ゆうゆう館
温泉津湾のほとり、温泉街の入り口に建つ和風の外観が美しい観光案内所。1階は休憩室や町の案内資料、特産品などを整備しており、温泉津の歴史をパネルで紹介しています。2階は歴史資料室となっており、豪商や武士の日用品、港で使われていた道具などが展示されており、古き良き時代の香りを漂わせています。
島根県大田市温泉津町温泉津イ791-4
 
恵比寿神社(えびすじんじゃ)
沖泊の繁栄を今に伝える貴重な建造物。1526年、筑前国那賀郡芦屋浦の住人によって建立されたと伝えられています。また、1592年に爆風によって湾内の多くの船が被害を受けたとき、この神社に祈ると直ちに嵐がおさまったという伝説もあります。本殿は16世紀に遡る古建築で、かつては檜皮葺きで、蟇股(かえるまた)を持つなど、華麗な建物でした。
島根県大田市温泉津町
 
温泉津沖泊(ゆのつおきどまり)
銀山柵内から西方8.8kmの日本海沿岸にあり、石見銀山を毛利氏が支配した16世紀後半、銀の積み出しと石見銀山への物資補給が行われた港。港の両岸には船の係留施設があり、先端の両丘陵には軍事上の必要から築かれた山城跡があります。
島根県大田市温泉津沖泊
 
鼻ぐり岩
温泉津町にある沖泊の湾内には、船を係留するための鼻ぐり岩が多数残されています。鼻ぐりとは、牛の鼻輪のことですが岩に穴を開けたもののほか、杭のように岩を立てた棒状のもの、臼石の形をしたものと形状はさまざまです。かつては一体に四百余りもあったといいますが、現在はこの沖泊地区に見られるだけで、自然の風景に溶け込み、その歴史を物語っています。
島根県大田市温泉津町
 
櫛山城跡(くしやまじょうあと)
温泉津湾の北西に位置する櫛島(くしじま)(標高38m)には、かつて櫛山城が築かれていました。櫛島の由来としては、承久の変(1221年)で隠岐の島に流罪となった後鳥羽上皇が途中の嵐のため漂着し、世話になったお礼にと、古老へ櫛をあげたことから櫛島となったという言い伝えがあります。
島根県大田市温泉津町
 
櫛島キャンプ場
後鳥羽上皇が隠岐に流される時に大嵐にあってここに漂着され、島人に愛用の櫛(くし)を授けられたという伝説が残っている。沖泊から海岸遊歩道で約10分、入り江の多い複雑な海岸線が望めます。岩場あり、砂場ありの変化に富んだダイナミックなビーチで、海水浴、キャンプファイヤー、磯釣りなど、快適なアウトドアライフが楽しめます。
島根県大田市温泉津町温泉津337
 
大崎鼻
温泉津湾の西側は磯釣り適所が多くあり、特に大崎鼻近辺は絶好の磯釣りポイントとして人気が高い。クロアイ、ヒラマサ、イシダイ、スズキ、チヌなどの底物と魚種も豊富。
島根県大田市温泉津町
 
沖の蛇島(へびしま)
石見福光海岸の突出部にある小島。日本海側のウミネコ繁殖地の南限地としてしられており、昭和52年に県の天然記念物に指定された。ウミネコは毎年11月から12月頃に島の近海に姿を見せ、4月頃に産卵する光景を見ることができる。
島根県大田市温泉津町
 
願楽寺 紫白庭(しはくてい)
JR温泉津駅から南へ1キロ「紫白庭」と名付けられた庭園で有名な山間の古刹です。天明の大飢饉のとき、寺の蔵を開いて住民の命を救った住職に、住民たちが感謝して庭を造園したと言われています。山水が落ちる滝池には緋鯉真鯉が遊び、つつじの咲き乱れる初夏、紅葉の秋の美しさは格別です。
島根県大田市温泉津町上村83
 
ヨズクハデ
刈り取った稲束を天日干しする為に立てられたもので、稲束を掛けた姿がヨズク(フクロウ)に似ているのが呼び名の由来と言われている。西田地区の『ヨズクの里』は、平成3年に「島根の60景」「日本の米作りの里100選」に選ばれ、秋の水稲の刈り入れ時期になると、西田の田園を飾る「秋の風物詩」となっています。
島根県大田市温泉津町西田地区
 
福光(ふくみつ)の石山
石見銀山の五百羅漢座像などの石仏や墓石には、この福光石が用いられています。大田市温泉津町福光の石切り場は、約450年間に及ぶ石の文化を窺い知ることのできる石山です。 膨大なのみ跡が山容を変え、福光石の採石場として唯一、今も操業が続けられています。
島根県大田市温泉津町福光
 
高野寺(たかのじ)
「西の高野山(こうやさん)」とも称されますが、寺の名前は高野寺(たかのじ)である。創建 弘仁5年(814年)の古刹で開基は 弘法大師である。温泉津の観光名所の一つで、毎年5月上旬に「つつじ祭り」が開催されます。寺全体で3000本からのツツジの木が植えられています。また火渡りなどの行事が行われます。石見銀山天領七福神 寿老人が祀られる。
島根県大田市温泉津町井田ハ-480
 

石見銀山観光詳細

 
重要伝統的建造物群保存地区
 
 
城上(きがみ)神社拝殿の鳴き竜 ↑ 目次
 
祭神は、大物主命(おおものぬしのみこと)で、重層式拝殿で入母屋造り(いりもやづくり)瓦葺きの江戸の亀井戸天満宮様式の建物です。

拝殿の鏡天井には三瓶山麓の絵師梶谷円林斉守休(かじたにえんりんさいもりやす)が極彩色で天井絵「鳴き竜」を描いています。

永享6年(1434年)、大内氏によって仁摩町馬路(にまちょうまじ)の高山から大森町愛宕山(あたごさん)に遷座され、天正5年(1577年)に毛利(もうり)氏によって現在位置に遷座、造営されました。

寛政の大火により類焼し、文化9年(1812年)4月に現在の拝殿が再建されました。

鳴き竜とは……? 絵の真下に立って手を叩くと、共振してリーンリーンと響く。描かれたのは、寛政の大火後文化15年(1818年)である。約180年も昔からずっと鳴き続けている。

 
 
大森町町並み(国の重要伝統的建造物群保存地区) ↑ 目次
 
灰吹法という革新的な銀の精練法によって屈指の産銀量を誇った石見銀山。鎌倉時代末期に発見された当時は、山肌のいたるところに露銀が輝く文字通りの宝の山であったという。

戦国時代、領有をめぐる諸将の激しい争奪戦が繰り広げられた後、江戸時代には幕府直轄の天領として最盛期を迎える。その銀山とともに栄えた町が大森である。

今は約二百軒の商家や民家が街道沿いに軒を連ね、五百四十人ほどの心優しい人々が暮らす静かな町。

当時のにぎわいと喧噪(けんそう)、そのはるかな記憶を求めて、大森の町並みをそぞろ歩けば、心は時を超えて旅をする。

大森は不思議な雰囲気を持った町だ。ある人は時が止まった町と言うし、またある人は住んでいる人の活気が伝わってくる町と言う。

きれいな町並みというには、いささか古びているし、これといった大きな建物や観光名所なども見当たらない。でも、なぜか心を引きつける大森…。

通りに面して並ぶのは、白壁の商家、格子戸、焼き杉板をめぐらした民家など。障子戸や縁側が直接通りに面している家もある。そのほとんどが二階建てで、狭い路地を挟んで向かい合うように、同じような大きさの家並みが連なる。

しかし近寄ってよくよく見ると、二階の木づくりの手摺りの模様や造作が違っていたり、季節の花や手すさびの細工などを見てもらえるようなガラスの飾り棚を造り付けていたり、軒や玄関のまわりの表情に特徴を出すなど、それぞれに趣があって、見ていて飽きさせないのが面白い。

また少し歩みを進めると、先ほど日に留まったような商家や民家とはやや様子の異なる建物がいくつかあることに興味が移る。

こちらは通りに面して土塀があり、立派な門が付いている。門の中には中庭、その奥に母屋という具合。これは武家屋敷で、それら屋敷の中にも上級武士の家、中級のもの、下級のものと区別があるという。なるほど、付近の商家や民家と見比べると確かに威厳を感じる。

しかし、このように武家と商家、民家がひとつ通りに混在して建ち並んでいるというのは、ちょっと不思議な感じだ。

代官所勤務、銀山の守護という重要な役職にあった武士の居丈高なイメージが、この家並みを見るに、少しばかり薄らぐ。庶民に近い暮らしぶりがうかがえるのである。

ほんとうのところはどうだったのだろうか。

大森の町並みの中を歩くと、こんな具合に好奇心や想像力が豊かになる。景色の小さな表情ひとつひとつさえも、それぞれの深い意味を持っているかのように思えてくるから不思議だ。

この大森の町並みは、昭和62年12月に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

 
 
羅漢寺・五百羅漢(ごひゃくらかん) ↑ 目次
 
銀山で働く坑夫の安全と供養のためにつくられたと言われる。福光村の石工、坪内平七一門の手によって二十余年間の歳月が費やされて完成したもので、説法をしているもの、天空を仰いでいるもの、布袋和尚に似ているもの、太っているもの、痩せているもの、等様々の面相と姿態は、その中にあなたの姿が必ずある。
 
 
龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ) ↑ 目次
 
正徳五年(1715)の開発で、他に永久、大久保、新切、新横相間歩とともに代官所の直営で「五か山(ごかざん)」と呼ばれていました。

江戸時代(近世紀)の開掘(かいこう)の長さは600mに及んでおり、石見銀山では大久保間歩に次いでの大坑道です。良質の銀鉱石が多く掘り出されました。

江戸時代の坑道は高さ1.6m〜2.1m位で、幅は0.9m〜1.5mあり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。

また、156.7mまでの坑道には鉱脈にそって掘り進んだ穴が左右の壁面から20数坑あり、抗口から85m地点には排水のための垂直に掘った竪坑(100m)を見ることができます。

龍源寺間歩から大久保間歩へ行くには、谷が異なるので、バスか自家用車を利用する。↓

 
 
大久保間歩(おおくぼまぶ) ↑ 目次
 
大久保間歩は、石見銀山の初代奉行である大久保長安の名をとってつけられた間歩です。

標高約310mの本谷地区に位置するこの間歩は、江戸時代から明治時代にかけて開発され、その規模は他の間歩に比べて群を抜いています。

高さは最大で5m、長安が槍を持ち馬に乗ったまま入ったという伝説があるほどです。この写真は現在入ることができる最終地点の坑道です。

ライトアップがされ、ブルーに輝く坑道は幻想的な空間を創りだしている。側面には横木を掛けた穴がたくさん見え、その奥にはすごい広さの場所があるといわれているが、残念ながら大変に危険だそうで、以上は入る事ができない。

大久保間歩を15分ばかり登ると釜屋間歩がある。↓

 
 
釜屋間歩(かまやまぶ) ↑ 目次
 
備中国早島生まれの山師安原伝兵衛は、安芸(あき)の銀山から戦国大名毛利氏の招きにより石見へ来たといいます。

関ヶ原の戦いの後、毛利氏は防長二カ国へ移され、石見銀山は徳川氏の支配となりました。

時代の転機を知った安原伝兵衛(やすはらでんべい)は、日頃から信仰していた清水寺(せいすいじ)に新しい銀鉱の発見を祈願します。

清水寺は真言宗のお寺で、初め天池寺と号し、銀山の仙ノ山山頂に七世紀ごろに創建、八世紀末に清水寺(せいすいじ)と改まって清水谷(しみずだに)に移転したといわれています。

慶長八年(1603)、伝兵衛が七日七夜祈ったその暁に、清水寺の本尊の観世音菩薩が夢に現れ、この夢のお告げによって釜屋間歩(かまやまぶ)を掘り当て、同年、銀3600貫(13.5トン)家康に納めました。

釜屋間歩を30分ばかり登ると石銀(いしがね)遺跡がある。↓

 
 
石銀(いしがね)遺跡…吹屋(製錬所)の礎石、道跡、炉跡 ↑ 目次
 
石銀遺跡は仙山の山頂付近、標高470mの所にある鉱山遺跡です。

近年の発掘調査によって戦国時代の末から江戸時代初期、ここに町があったことが分かりました。

鉱山といえば鉱石を掘るための長いトンネル(坑道)を思い出しますが、開発が始まった頃は露頭掘りといって、地表に露出した鉱脈を掘っていました。その場所が石銀地区です。

当時、石銀では銀の採掘や製錬を仕事とする人々が生活していました。

人が住んでいたのは16世紀末から17世紀初頭にかけてですが、その後山腹からトンネルを掘る技術(坑道掘り)が進むと人々は山頂から平地へと住居地を移したので、石銀はそのまま放置され、当時のままの状態で残っていたというわけです。

 
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