| よく見れば岩に色の違う筋が走っているのがわかるはず。
それが鉱脈だ。
よほど不自然な体勢で掘っていたのだろう、人間がひとり、ようやく通れる程度の柵い穴まである。
また、間歩の中を歩いていると、ときおり、ポンプで水をくみ出す大きな音が響くことがある。
地下水を外に排出している音だ。
鉱山にとって地下水との戦いは切り離せない。
上の写真の『石見銀山鉱山図解』は、上下巻の絵巻物で、江戸中期の銀山の様子をうかがえる貴重な資料。
上段中央を見ると、木製のポンプで水を吸い上げているのがわかる。
左側には排水用の穴が続いている。
その下に描かれているのは、内部に空気を送っている場面。
農業用の「唐箕(とうみ)」という、穀物に混じる籾殻(もみがら)などを吹き飛ばすために作られた道具を改良し、新鮮な空気を送っている。
もちろんすべてが人力だ。
龍源寺間歩でも『石見銀山鉱山図解』の一部をバネルにして展示しているが、ここに、柄山(がらやま)と呼ばれる屑石の捨場で人々が拾いものをしている図がある。
この中に、女性や子供の姿があるのを見て、「かわいそう」と連呼する人を見かけた。
子供が強制的に働かされている、と感じたのだろう。
確かに、時代劇などでは、江戸時代の鉱山は、劣悪な環境の中、罪人などが重労働をさせられているイメージがあるが……。
「そもそも、江戸時代というのは、封建制度であって、奴隷制じゃないんです」
とは、石見銀山資料館の学芸員である仲野義文さん。
「一部には無宿人を使っていた例もありますが、これは都市部に増えすぎた人口を村に返す受け皿。決して強制ではないんです。だいたい、鉱山で働くには、鉱石を見つけたり石目を読んだりという技術が必要です」
鉱山を経営する立場としても、素人ばかり集まっても困る、というわけだ。
誰でも良いから労働力が欲しい、となるのは、削岩機などが導入されて単純作業が多くなる、後世の話。
逆に、江戸時代の大森の代官所では、技術を持った質の高い労働力を確保するための政策を行っていたほど。
柵内(さくのうち)と呼ばれる銀山の中心地域には、鉱山で働く者だけではなく、その家族が集団で生活していた。
その中で、2歳〜10歳の子供がいる家に対し、代官所は「子供養育米」として、1日3合の米を支給したというのだ。
「江戸時代の技術というのは、親方、子方の世界」と仲野さんの言うように、ともに生活をしながら働くことで学ぶことは多い。
子供も含めた家族全員が柵内に住み、よい後継者ができることを期待したのだろう。
つまり、いうまでもないが、前述の柄山捨場に描かれたのは、自発的に鉱石を拾う人々。
銀の含有率が少ない柄山捨場に良質の鍵(鉱石)が落ちているので、非番の人夫や女性、子供が拾っている図なのだ。
何でもないように見える山が、ほぼ丸ごと貴重な遺跡である。
『石見銀山鉱山図解』を見ると、当時の灰吹銀(はいふきぎん)の製法もよくわかる。
まず、掘り出された銀鉱石は不要な部分を除き、高温で溶かしながら比重の軽い鉄やケイ酸を取り除き、「貴鉛(きえん)」と呼ばれる鉛と銀の合金を作る。
これを銀と鉛に分離させる時に使うのが「灰吹法」
灰を敷き詰めた炉の上で貴鉛を溶かすと、酸化された鉛は灰にしみこみ、灰の上には銀だけが残される、というものだ。
『龍源寺間歩』の出口から10分ほど歩いた『出土谷(だしつちだに)』からは、2001年の調査で、この灰吹銀が発掘された。
発掘跡には看板があるが、気づかなければ、単なる平地にしか見えないだろう。
谷の入口には、鉱山の神を祀る『佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)』がある。
周辺には区画整理をされたような石垣と平地があり、建物が密集していたであろう往時の賑わいが想像できる。
そのほか、山内の各所にはこうした精錬所や生活集落の跡も点在。
近年の発掘調査で、様々な遺構が見つかっている。
1993年からの調査で発見されたのが、仙ノ山(せんのやま)『石銀(いしがね)地区』の遺構。
銀山初期から続くものと思われ、製錬所跡や坑道、住居や道、寺、墓などが出土し、その広さはなんと20万平方メートル。
また2003年、大規模な間歩のひとつ『釜屋間歩(かまやまぶ)』を調査していたところ、すぐ近くに数段の石段が発見された。
草や表土を取り除いてみると、石段は遥か上の斜面まで続き、想像もしていなかったほど大きな遺構が現れた。
それが岩盤加工遺構だ。
しかし、400万平方メートルといわれる銀山遺跡の中、こうした調査が行われたのは 4000平方メートルと、わずか0.1%に過ぎない。
残り99.9%の山の中には、どのような遺構が埋もれているのか、まだまだ計り知れないのだ。
銀を運んだ街道は積出港へと続く
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