出雲大社のご祭神、大国主命(おおくにぬしのみこと)はダイコクさまの呼び名で親しまれていますが、記紀では実に七つ(古事記五つ(大国主神・大穴牟遅神・八千矛神・葦原色許男神・宇都志国玉神)日本書紀七つ(大己貴神・大物主神)もの名前があります。このようにたくさんの神名で登場する大国主神話は、単に出雲だけを舞台とせず、伯者(鳥取県西部)、大和(奈良県周辺)、さらに高志(新潟県)にまで広く及んでいます。
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出雲大社のご祭神、大国主命(おおくにぬしのみこと)はダイコクさまの呼び名で親しまれていますが、記紀では実に七つ(古事記五つ(大国主神・大穴牟遅神・八千矛神・葦原色許男神・宇都志国玉神)日本書紀七つ(大己貴神・大物主神)もの名前があります。

このようにたくさんの神名で登場する大国主神話は、単に出雲だけを舞台とせず、伯者(鳥取県西部)、大和(奈良県周辺)、さらに高志(新潟県)にまで広く及んでいます。

さて、ダイコクさまの呼び名は、神仏習合の時代(室町時代以降)に仏教の「大黒天」と大国主神の「大国」を同じ神様(仏様)として信仰し、このように呼ばれるようになったと言われています。

ここで、ご存知の方も多いと思いますが「因幡の白兎」神話のあらすじをお話しましょう。

大国主神が多くの兄弟神とともに因幡の国の八上比売(やかみひめ)のもとを訪ねるとき、因幡の国の気多というところの海岸で毛をむしられた一匹の兎を救う説話である。

はじめ兄弟神は兎に対して海の水て体を洗い風にあたるようにと教えた。

兎はその教えのとおりにやったらかえって痛みがひどくなった。

そこへ、大国主神が兄弟神の荷物を背負って通りかかり「なぜ泣くのかと尋ねたら「わたしはもと隠岐の国に住んでいました。

この本土に渡ろうとして海にすむ鰐(さめ)にわたしの一族とどちらが多いか比べようと言いました。

鰐は多くの一族を連れてきて隠岐からこの気多まて並びました。

わたしは海の背を一つ二つと飛びこえてもう一足でこの本土に下りようとするときにわたしは言いました。

「お前たちはわたしにだまされましたね」というと、鰐は私をとらえ、このように毛をむしり裸にしてしまいました。

先にお通りになった神様たちは海の氷て身を洗えと教えてくたさいましたので、そのとおりにしましたらかえって痛みがひどくなりました」と答えた。

大国主神は「それでは水門の真水で身を洗って、蒲の黄色の花粉をとって、その上にころがりなさい」と教えた。

兎はそのとおりにすると、もとどおりの身体になった。

兎は大変喜んで「あの多くの神様は 八上比売を得ることはてきないてしょう。

きっとあをたが八上比売と結婚されるでしょうと申した。この予言とおり大国主神は、八上比売と結婚した……
いかがでしたか?

「因幡の白兎」神話。実は、大国主神はこの後が大変で、多くの兄弟神(八十神)の迫害にあいます。

ちょっと続けますよ。

先ず、大国主神は伯者の国、手間山で大きな猪退治をする際、八十神たちの策略にあって、猪に似て赤く焼いた大きな石に組みついて火傷を負い死んでしまいます。

ここでは母神の要請で高天原の神産巣日之命(かみむすびのみこと)が蚶貝比売(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむがいひめ)を派遣し、この二姫の介抱で生きかえります。

次に八十神たちは大木を切り倒し、それにくさびを打って木の股を作り、そこへ大国主神を入れてくさびを抜いてはさみ殺します。

ここでも、母神がくさびを抜いて生かし、紀伊の国の大屋毘古命(おおやびこのみこと)(五十猛神ともいう)のもとへ逃がしてやります。

その後、大国主神は母神の言われるとおり、須佐之男命のいる黄泉の国に行き、美しい娘神、須勢理比売(すせりひめ)に出会って相互に好意を持つようになります。

その後も大国主神の試練は続けられ、蛇の室やムカデと蜂の室に入れられたり、かぶら矢を野に放ち、それを探させている中に火を放って焼き殺そうとしたり、須佐之男命の頭の虱(実はムカデ)をとらせるなど多くの試練が加えられます。

しかし、これらの試練も須勢理比売の助け(野の煙火からの脱出は一匹のねずみの知恵による)などによって難を逃れます。

そして宇迦橋でもお話した「須佐之男命は逃げる大国主神を迫って比良坂まで来ると、須佐之男命は「今持ち逃げた太刀・弓矢で、多くの神々を倒し、大国を支配する神となり、また、現し国の人々の魂を導く中心者となって、娘須勢理比売と結婚し、宇迦の山に宮殿を作って、そこに住むようにと諭した」と出雲大社創生につながるのです。

…物語ろう出雲国大社より

 
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出雲の神といえば、一般的にはすぐに、縁結びの神と慕い、福の神と貴び、ダイコクサマという愛称で呼ぶのであるが、原初にはオオナムチノカミと讃えていたオオクニヌシノカミのことである。

神は神としての神がらを錬磨して、なお一段とその神格を高め、その神名にふさわしい神となるようにつとめ、生きとし生けるもののために、貴い霊威を与えておられるのであって、オオナムチノカミは斯様にして愛の神となり、オオナムチノカミと仰がれているのである。

オオナムチノカミほど多くの苦難を克服された神はない。

人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。

あの神像に見られる福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。

神像に「笑」をあらわしたものが他にあるかを知らないが、ダイコクサマにはそれがあらわされている。

心に動揺があれば、顔にいろいろな表情があらわれてくる。

たとえば、心も健康でない時には笑顔はなかなかにあらわれないのだし、和を忘れて人に接する時には、特に笑顔が見られる筈もない。

日常を春風にも似た和やかな顔ですごせるということは、その人が修錬によって養った人がら、即ち人徳のあらわれである。

笑顔ほど、修養を積まねばあらわすことの出来ないものはなく、笑顔ほど貴いものはないと思われるのである。

この神が、譲りに譲ることをもってその神がらを錬磨されたのであるが、そのなかで、最も大きな譲りはといえば、所謂国土奉還であろう。

譲るということは自己の欲に打克つことにほかならないのであるから、まことに難行苦行といってよい。

そうであるからこそ"誠意"があらわされるのであって、オオクニヌシノカミが今日も天下無双の大厦と称される出雲大社に鎮まられ、国中第一の霊神として厚い祭祀をうけておられる所以は、実にこの譲りの精神によるということを悟らねばならぬのである。

人それぞれに我執があって、自己のものを他に譲るということは、言うは易くして行うに難きことであるが、この譲るということは、他をして立たしめるのみならず、やがては自らもまた立ち栄える所以ともなるのである。

こうした人生の妙理をダイコクサマは身を以て教えられているのである。

オオクニヌシノカミがスクナヒコナノカミにむかって、「われわれが造れる国は美しく完成しているだろうか」と問いかけられたことがあった。

そのときスクナヒコナノカミは「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」と答えられている。

この会話からしてこの神が自らの使命を自覚し、その期待に応えようとして研鎖修養を尽くされていることの一端が知れるのである。

こうした瞬時も怠ることなき反省によって、真の「神に成る」ことに努力をされたのがオオクニヌシノカミなのである。

「成る」ということは完成を意味する。われわれの立場にあって考えてみるならば、会社に勤務しているだけでは真に会社員に「成った」と言い得ないし、神職がその資格を得て奉職したとしても、神職に必ずしも「成った」ことにはならぬ。

そこには自覚と反省とが伴わねばならぬ。

結婚式を挙げたばかりの夫婦が、それだけで夫と「成り」、妻と「成った」とも申されぬのであって、それぞれがそれぞれの使命を自覚し、使命に対して不断の反省を尽くして修錬をかさねるところに、それぞれにふさわしい人がらが「成る」ことを教えられているのである。

人間が生きるということは、こうした自覚と反省の持続がなければならず、それが持続される時には、その人の人がらが完成するのであり、多くの人々から慕われる人間として栄える道を歩むことになるのである。

「成れるところあり」と同時に他方、「成らざるところあり」ということは、人間の一生にあっては常に存在する道理であり、それが故に、われわれは「成らざるところ」を「成る」ように、修理固成(つくりかためな)さなければならぬのである。

そしてそれによって真に意義ある人間の一生が、積極的に展開していくものであるということを、オオクニヌシノカミは教えられているのである。

人間が人間として生きることの意義を、誰にもわかるように、身を以て示されているのである。

オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから、「縁結びの神」と讃えられているのである。

大地は人間の生きていくうえに、欠くことの出来ない限りない生命を生み出し育むのであり、その意味で大地は「母なる大地」と呼ぶのにふさわしいのであるが、この大地が秘めている生成の力を、むかしから「ムスビ」という言葉であらわし、「産霊」という文字をこれにあてている。

人間の生命も勿論、このムスビによって生まれ、そして育っていくという生命観を、日本人は独特な信仰として持っている。

ムスビとは生成の意であり、ムスビのヒは、神秘なはたらき即ち霊威を意味する言葉である。

いのちあるものを積極的に生成せしめるはたらきの根源に、この「ムスビ」の霊威を見ることができるとするのである。

そしてこの神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える"えにし"を結んでいただけるのである。

そこでこの神を仰いで「縁結びの神」と慕ってきたのである。

この神をウツシクニタマノカミとかオオクニタマノカミ、更にはオオモノヌシノカミと申すのも、国土創成にあたって、こうしたムスビの霊威をあらわされたことによるものであるが、特に顕世に対する幽世を主宰される神として、「カクリヨシロシメスカミ」と畏敬するわけは、むかしから幽世事をカミゴトと訓んできたごとく、神のはたらきの根源であるムスビのはたらきを、人のいのちの生死を一貫して見そなわす神と仰いできたからなのである。

先祖代々の伝来とか子々孫々ということは、日本人の独特の感情から発する言葉であるが、生み生かされている人のいのちの、正しい継承と永遠性を念願する心に応えていただける神と慕うのも、矢張り、この神を措いては他に求むペくもなく、生みの子の八十続きに至るまで、顕幽一如、顕幽一貫の幸栄を、この神のムスビの霊威にわれわれは寄りすがるのである。

オオクニヌシノカミは辛苦の道を厭われぬだけでなく、かえって、そこにあらわれる難難や迫害、危難や試練に堪え、神としての神がらを切磋されて「ムスビの神」と成られたのである。

その愛は広く天下国家のためにみちびかれるのみではなく、厚く人ひとりひとりのうえにもうるおうのである。

我執の多い凡夫のわれわれのうえに、この神の歩まれた道を考えるならば、人間は修錬によって本質を錬磨して、あらゆる苦難を克服する体験を積み重ねなければ、人に慕われるような人格を養うことは出来ない、ということを教えられているのである。

生み生かされた人生を、たくさんの人びとと心と心とを互に睦び合いながら、幸福にすごさせていただくために、オオクニヌシノカミが身を以て示された道を、神習う道として、笑顔をもって明るく、強く歩みつづけさせていただきたいものである。

 
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オホナムチ スクナヒコナノツクラシシ イモセノ山ハ ミラクシヨシモ

これは万葉集の代表的な歌人である柿本人麿の歌である。

大伴家持・生石村主真人(おおしのすぐりまひと)たちも人麿と同じ意識をもって、この国土創成の神を"オオナムチノカミ"と歌い挙げているのであるが、古事記とか日本書紀に伝承された国土創成の伝承では、国生みをなされたのはイザナギノカミ・イザナミノカミであるのに、何故に万葉歌人たちは、出雲人が祖神と仰ぐ"天下造らししオオナムチノカミ"をば、この国土創成の神と語り継いできたのであろうか。

わたくしには、出雲の神は出雲という特定の地域だけにあって、人々の安全と幸福と繁栄を保障されたのではなく、この国土に広く霊威をあらわし、人々の期待に応えられた神であるから、としか言いようがない。

記・紀によっても出雲の神が活躍されている伝承が、その多くの部分を占めている。

この神が記・紀では、オオクニヌシノカミという神名に統一されているけれども、別の神称として、アシハラシコオノカミ ヤチホコノカミ ウツシクニタマノカミ クニタマノカミ オオモノヌシノカミ オオトコヌシノカミなどと呼ばれている。

このことは出雲の祖神オオナムチノカミが、この国土に広く霊威をあらわされたことを物語っているのであって、この国の祖神にも劣らない霊威をあらわされていることが知れるのである。

八百万(やおろず)の神というように、数えきれないほどの神々が存在されるけれども、オオナムチノカミほどに多くの神名を持たれている神は他にはないことから考えても、この出雲の祖神は他の神々に見られない、極めて顕著な霊威をあらわされているのである。

昔から各国々には「一の宮」が祭祀されているが、そこに祭祀されている神のほとんどが、出雲人が祖神と仰ぐオオクニヌシノカミか、またはその神統につながる神々である。

この「一の宮」はその国中の霊験貴い神を祭祀して、政治を行うという由緒ある神社であるから、国内崇敬の中心であるばかりでなく、地域社会の繁栄と安泰の原点となっていたのであり、いかに出雲の神が国土創成に活躍されていたかを知ることができるのである。

こうしたことから、万葉人が出雲の神を国土創成の神と讃えていることは、まことにとうぜんの意識といわなければならない。

しかしこの頃では、出雲の神が説かれる場合に、古代にあっては、集団の抗争にあたり、征服した集団が被征服集団の祭祀する神を、怨霊の崇り神と畏怖し、厚く鎮祭することはあたりまえであるとして、出雲の神も矢張り被征服集団であって、それの祭祀する神は、怨霊の崇り神と決めつけるような説をたてるものもあるけれども、国土創成の神と讃えられ、一の宮に祭祀されて崇敬される神が、怨霊の崇り神と重なり合うとどうして考えねばならぬのだろうか。

不可解な論議である。

日本書紀に「オオナムチノカミ・スクナヒコナノカミト力ヲアワセ心ヲ一ニシテ 天下ヲ経営り給ウ マタ 顕シキ蒼生及ビ畜産ノタメニ即チ其病ヲ療ムル方ヲ定ム マタ 鳥ケダモノムシノ災異ヲ攘ワンタメニハ即チ マジナイノ法ヲ定ム 是ヲ以テ 生キトシ生ケルナベテノモノ恩頼ヲコウムレリ。 」とある如くに、出雲の祖神に対する尊崇と畏怖は、万葉人が素直にあらわしている意識と異なるところがなく、出雲の神の霊威は言い継ぎ語り継がれ、その時々に清新な生き方を生きとし生けるものの上に、広く厚く与えられる愛の神として、意識されているのである。

 
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遠い遠い昔のことである。

日本海に入ってくる南からの暖流によって、漂い運ばれてきたものは、やがて、出雲の肥の河の対岸に細長く浮ぶ出雲御碕に着いたであろう。

そこには出雲御碕と肥の河の河口とに囲まれている神門の入海が広がっていて、日本海の荒波からはさえぎられた静かな処であった。出雲人と自称するようになった人々は、この神門の入海に漂着して最初の集団を組んだにちがいない。

彼等はこの地帯を基点として海撈・狩猟の生活を営みながら、稲作を開始したであろう。

そのうちに新しい生活の場を求めて移動する集団が生じ、肥の河や神戸川を遡って南方の山深く入った集団があったり、神門の入海を東方に進んで意宇川の流域に及んだ集団もあったことであろう。

こうして本源の地を離れて分岐した集団が各地に定住存在して、別箇の独立集団を構成したであろうが、それと共にそれらの集団のつながりを保つためこ、所謂精神的支柱としての集団の祖神を祭祀することが、求められてくるようになる。

海撈・狩猟という移動性の著しい生活から、定着しての生活となって営むものは農耕である。農耕の作業はその内容からして共同で行うことが必要である。

従って集団的な生活が組織されねばならず、そうなればその集団を構成する人々の相互のつながりが、深められねばならぬことになってくる。

集団を支え、集団を活力あるものにするためには、中心駒な存在が必要となるのであるが、その本源的なものは集団の人々の血族的な結合にまさるものはなく、そのために祖先を祭祀することが行われるようになる。

集団を構成する人人は氏族として血縁関係を保ち、祖先を氏神として祭祀し、その祭祀は集団の首長が専修して相互の連帯感を強めるように祈り、集団の営みの安全と繁栄を念じ、人々の幸福をこいねがうことになるのである。

このようにして人びとはおのずと、それぞれの集団の祖神をば、求めるようになったことと思うのである。

出雲人が独特の伝統を言い継ぎ語り継いで、その祖神に対する独白の信仰を記している出雲風土記には、記・紀に見られぬ数多くの伝承があり、そうした伝承のなかに、出雲の神たちの生き生きとした姿が見られる。

出雲人が祖神と仰ぐのはスサノオノカミ、その四世の孫とされるヤツカミズオミツヌノカ、その六世の孫オオナムチノカミという神統譜につながる神たちであると言える。

この神統譜については、記・紀にも別伝として幾種かの系譜を挙げているが、これは如何に解すべきであろうか。

何れが正しく、何れが誤りと速断することば出来ないのである。

何故ならば、

人間の精神生活にあっては常に神への期待が念願となってささげられているのであって、たとえば、わたくしたちが祖先の意志を実現しようと努力しても、一代の間にこれを完全に実現することが出来ず、子や孫に更に曾孫に期待してその意志の完成を念願するのが常であるように、祖先の意志は親から子、子から孫へと血脈のつながりのなかに求めつづけられて、やがてその念願が全うされるという精神的なつながりを大切にしてきたのであって、こうした意味において、出雲の神々もまた、スサノオノカミから、ヤツカミズオミツヌノカミヘ、ヤツカミズオミツヌノカミからオオナムチノカミへと、血脈を通してその神意がうけ継がれてきたのであるから、人々が神に寄せるそれぞれの期待と念願とによって、出雲の祖神の神統譜にいくつかの種類や型が生じてくるのである。

そこでいくつかの神統譜のうち、どれか一つが正しくて、他は誤りだという関係にはないのである。

そのどれもが正しいのである。

出雲風土記の頭初に登場するヤツカミヅオミツヌノカミの国引きの詞章に、此の国は初め小さく狭く創成されているから、国の余った処から引き寄せて広く国造りをしたい。…(要旨)

と雄赳びして「国来国来(くにこくにこ)」と引き寄せ、然る後には、「国造りを訖(お)えた」と歓喜せられたということからしても、この神を出雲の創成の祖神と仰ぐにふさわしいことである。

またスサノオノカミには、「この国は小さい国ではあるが美しい国である」との言葉があり、国引きの詞章の「この国は初めは小さく狭く」というヤッカミズオミツヌノカミの言葉が対応するように、スサノオノカミは国引きした神に先立つ原初的な、創成の神とされているのであるから、矢張り、このスサノオノカミは祖神と仰ぐにふさわしい神である。

更にオオナムチノカミは「この国は大きからず小さからず」とされながらも、国引きのことの後に、イホツスキスキトリトリテアメノシタツクラシシオオカミと讃えられているように、国土を創成された後に、アマテラスオオミカミに対して、

「わたくしが国造りして治めている国は、奉還いたします。わたくしは出雲に青垣山をめぐらして鎮まり、いつまでもいつまでもこの国を愛しっづけます」

と申して、眼には見えぬ幽り世の世界から、その霊威をあらわすことを約束して、出雲大社に住居されることになったという言いつたえからみても、この神もまた出雲人の祖神と仰ぐのにふさわしい神なのである。

出雲人がスサノオノカミやヤツカミズオミツヌノカミ、さらにはオオナムチノカミを祖神として敬愛して措かなかったことは、出雲風土記の伝承によって明らかにされるのであるが、

オオナムチノカミは、スサノオノカミの「汝大国主トナッテ宇迦ノ山本二底津石根ニ宮柱太シリ、高天原二氷椽高シリテオレ」との詔命に従って、名実共にその神名にふさわしい神がらを錬磨され、あらゆる苦難にも打克ち蘇生されて、オオクニヌシノカミと仰がれる霊威をあらわし、出雲の祖神の霊威のすべてを象徴する祖神となられたのである。

父尊統は、その著「出雲大社」に言う。

人が子から孫へ、孫から曾孫さらに玄孫へと、血のつながりの無窮の発展を考えるということは、祖先のなしとげようとした志を、自らが承けて実践し、自らにおいて十分には実現し得なかったその志を、やがて子孫に期待するという、こういう考え方が日本人の胸の底にはいつもあるのではあるまいか。

子孫への血のつながりとは、人により意識や認識に、多少の差異は免れないものがあるとはいっても、こうした理念の展開への期待であるということができないのであろうか。

われわれはいつも、親は子にその志は実現され、自己は子孫においてその志は実を結ぶものと考えたいのである。

これが子の親として、子に対し期待する心の常である。

こうした意味で、親子はいつも一体であり、血のつながりの子孫は、祖先と一つになるのである。と。

こうした父と子との生命の継承という日本人の心情のいたすところ、出雲の祖神はやがてオオナムチノカミ一神に統一されるようになってくると共に、出雲人の出雲国の歴史の古いこと、その祖神の霊威を畏敬することの広く厚いことからして、古事記や日本書紀においては、出雲の祖神が大きな存在となって物語られ、その神称も「オオクニヌシノカミ」と讃えられるようになったのである。

そして、出雲風土記の出雲郷の条には「ヤツカミヅオミツヌノカミノ国引キ給ヒシ後二天下造ラシシ大神ノ宮奉へマツラントシテ諸々ノ皇神タチ宮処二参集ヒテ杵築キタマヒキ」とあって、出雲人の漂着した本源地に出雲大社が創建され、祖神オオクニヌシノカミはこの社に住居されることになった。

記・紀の伝えるところ出雲大社創建についての経過は、多少の異なりは見えているが、矢張り諸神によって宮造りされ、その規模は柱は太く、板は厚く、階段の橋は海辺までにかけるという、豪壮な結構であった。

古事記・日本書紀はオオクニヌシノカミの国譲り、即ち国土奉還の代償としてこの宮造りが営まれたとするのであって、これからさきの記・紀の記述には、出雲の神々の顕世(うつしよ)における顕著なはたらきはこれを示していない。

しかし顕事(うつしごと)には、そのはたらきは華やかにあらわされることがないように見えるとは申せ、実は華やかな顕事の深底にあって、生きとし生けるもののはたらきを、然(しか)あるベく導かれる幽事(かくりごと)の主宰の神となられて国の安泰を守護し、人々の幸福を保障する霊威をあらわしつづけられているのである。

今日もむかしと変ることのない霊威を発揮されながら、精神生活の大きな支えとなって、人々の期待に応え、深い信仰をうけられているのである。

オオクニヌシノカミは、このように椽の下の力持ち的な愛の神なのである。

この長い日本の国の歴史を支えた人々はといえば、必ずしも歴史の表面の華やかな舞台に活躍して名を遺した人々だけではない。

むしろその蔭にあった名もなき人々の大きなはたらきによることが多いのと、同様であろうと思われるのである。

出雲大社創建によってオオクニヌシノカミの祭祀は、出雲人の首長となった出雲国造の祖のアメノホヒノミコトが、これに専ら仕えることになったのであるが、この神はアマテラスオオミカミの第二子であると記・紀は伝えている。

アメノホヒノミコトは天孫降臨に先立って天つ神の使者として、オオクニヌシノカミと談合し、葦原の中つ国を言向けするために出雲に派遣されてきたが、オオクニヌシノカミに婚びへつらって三年も復命報告しなかったといい、あたかも反逆したかの如くに記されている。

しかしこれは中央の神話伝承であって、わが出雲ではこのようには伝えていなかった。

出雲国造が代替りにあたり、天皇の大前で御代を寿ぐために奏上してきた「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやっこのかむよごと)」では、オオクニヌシノカミを和み静めた、といって、あくまでも出雲の伝承を主張しているのである。

記・紀の記載が、オオクニヌシノカミとアメノホヒノミコトとの関係を、即ち祭祀される祖神と祭祀する集団の首長というつながりを、敢えて否定する筆づかいであるところに、中央神話の構成に或る種の作為がうかがわれる。

こうした作為から逆にわれわれとしては、出雲と中央とのつながりの緊密さを窺うことができるように思うのである。

出雲国造神賀詞の精神が端的にこのことを示唆している。

わが家は、このアメノホヒノミコトを祖と仰いで83代と受継ぎ、神代の遠いむかしからひとすじに、出雲大社の祭祀に専修しているのである。

 
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イズモという国の名は、漢字で「出雲」と表記するのでなければ、雲と関係のあるよび名であるとは、とても思いつくこともできない。

しかし古事記では人のよく知るように、スサノオノミコトが詠んだという、

八雲立ツ 出雲八重垣 妻籠ミ 八重垣作ル ソノ八重垣ヲ

と、五・七・五・七・七の形式の整った歌を記録している。

その整った形式からしてこの歌は、遠い神代のむかしの制作ではなくて、すぐその後は万葉集にひき続くような、比較的新しい時代のものであると言われているが、とにかく、若い夫が新妻を迎えての新居、その新居が八重と湧きあがる雲により、さながら八重の垣を思わすばかりにとり囲まれている清新にして美わしい情景を、詠っているのであって、

 此ノ立チ出ル雲、八重垣ヲ成セリ、吾夫妻籠ラム
 此ノ宮ノ料ニ、雲モ八重垣ヲ作ルコトヨト作給ヘルナリ。

と宣長も古事記伝でこのように申したあと、特に注意を喚起して、

凡テ雲ノウヘノミヲ云り。然ルニ妻ヲ隠ムタメニ、今吾、此ノ宮ノ垣ヲ造ルトイフ意ヲ兼テ看ルハ、ヒガゴトゾ
と、「この神詠はどこまでも雲に即して読みとらねばならぬものである」と言っている。

出雲国風土記では、このスサノオノミコトの神詠は、出雲の国引きをしたヤツカミズオミツヌノミコトの詠むところとして、

出雲(いずも)卜号(なず)クル所以ハ、ヤツカミズオミツヌノミコト、八雲立ツト詔り給ヒキ、故、八雲立ツ出雲トイフ。

といっている。上代の出雲人(ひと)はみなこのように考えていたのであろう。

イズモというよび名は、雲と強い結びつきのあるということを語っているのである。

たとえば雨あがりのあと、空高く八十尺の出雲大社の高閣をとり囲んで湧きあがる雲の、えも言われぬ壮大さ、美しさば、文字通り八雲立つ雲の八重垣を、今に思わしめるものがある。

スサノオノミコトは、出雲は簸の川の川上で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、大蛇の尾から神剣天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得た。

このとき、この大蛇の居る上に常に雲気あり、ためにこの名があるのだという。

出雲から献られた神剣であるが故に、雲と深いつながりが有るのである。

ここに至っては、雲そのものが、上代人の心の上に及ぼすイメージというものにつき、考えるところがあらねばならぬ。

スサノオノミコトが八岐大蛇を退治(神楽)して、新妻を迎える宮を作るべき地として、出雲の国の須賀の地を選んだのであるが、その須賀の宮を造られたとき、その地から「雲立チ騰リキ」と古事記は言っている。

また天孫の降臨にあたっては、「天ノ八重タナ雲ヲ押シ分ケテ、稜威(いつ)ノ道別キ道別キテ、天ノ浮橋ニウキジマリソリ立タシテ」、日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の嶺(たげ)に天降りましたとあり、ヤマトタケルノミコトが病篤く、まさに死せんとするとき、「ハシケヤシ、吾家(わぎへ)ノ方ヨ雲居立チ来モ」と詠まれたという。

雲からうける心象には、なにか霊的なるものの動きやはたらきを、上つ代の人は直観的に感じとったのである。

万葉集からはこうした例がいくつも挙げられる。

たとえば天武天皇の晩年、草壁皇子に皇嗣を期待するむきには、大津皇子の存在は好ましからぬが故に死を賜わるのである。

この大津皇子の死(つみ)なはえ給いし時、磐余(いわれ)の池の陂(つつみ)にて涕(なみだ)を流して作りませる歌だというのが、

百伝フイハレノ池二鳴ク鴨ヲ今日ノミ見テヤ雲隠リナム

であり、藤原光明子の立后をはかるために、陥しいれられたのが左大臣長屋王であるが、「神亀六年己巳左大臣長屋王死ヲ賜ヒシ後倉橋部女王ノ作レル歌一首」という詞書をもって、

天皇(おおきみ)ノ命(みこと)カシコミオホアラキノ時ニハアラネド雲ガクリマス

が採録されている。

巻三にはさらに、大伴坂上郎女が尼理願の死去を悲嘆しての歌として、

留メ得ヌイノチニシアレバシキタヘノ家ユハ出デテ雲隠リニキ

がある。

額田王(ぬかだのおおきみ)が天智天皇の都遷しに随って近江に下るとき、大和の三輪山が視界から隠れるのを痛みて、長歌の形に、「シバシバモ見放(さ)ケム山ヲ情(こころ)ナク雲ノ隠サフベシヤ」と詠いあげ、その反歌が、三輪山ヲシカモ隠スカ雲ダニモ情アラナム隠サフベシヤ)である。

この雲に、大海人皇子と額田王との愛情のからみあい、そして愛する人の上に危難の及ぶことなからんを希う、強い意志的な人間の霊魂の力というものを読みとるのが、土居光知氏である。

 倭方(やまとべ)二西風吹キアゲテ雲離レソキ居リトモ吾忘レメヤ

というのは、吉備の黒姫が仁徳天皇の大后の嫉妬のため、仲隔てられた天皇の上に寄せる慕情の直截なる表白として、古事記に収められた歌謡であるが、ここにいう雲には、黒姫の全身全霊をこめての愛がうたいこまれている。

こうして天空にうかぶ雲は、ときには単なる雲ではなくして、わが上代人の心情の上に語りかけてくる何かが、或はその心情を托することのできる何かが、雲の上には有ったと理解することができるのではあるまいか。

このように雲というものの有つ特殊の性格を看てとってきた眼には、イズモということばの表記に、ことさらに「出雲」と雲の字を宛てたということば、そこにただならぬ何かが有るのではないか、と思わざるを得ないのである。

 
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日本の神々の物語はまず、イザナギ・イザナミ二柱の男女神の国生みから始まる。

女神は火の神を生んだが故に身を焼いて、身まかってしまうのであるが、「ソノ神避リシイザナミノカミハ出雲国卜伯伎(ははき)国トノ堺ノ、比婆(ひば)ノ山二葬リキ」と古事記にいう。

比婆の山は死者の国黄泉の入口にあたるというのであろうか。

この黄泉を訪れた男神、この男神を追う女神、男神は千引(ちびき)の石もて黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞えて、追ってきた女神に離別を言い渡すのであるが、この黄泉比良坂とは今の出雲国の伊賦夜(いふや)坂がそれだという。

黄泉比良坂は黄泉の国の入口であり、坂を塞やる千引の石の向い側ま、死者のいる黄泉なのである。

ところでイザナギノミコトから、「汝命(いましみこと)ハ海原ヲ知ラセ」と事依さしをうけたスサノオノミコトは、「僕(あ)ハ妣(はは)ノ国根ノ堅洲(かたす)国二罷ラムト欲(おも)フ」といって啼(な)き騒ぐので、高天原から追放されてしまうのであるが、のちにオオナムチノカミがスサノオノミコトを訪ね、ここでミコトの女スセリビメを知るのである。

そしてスセリビメを背負い逃げ帰ろうとするオオナムチノカミを追って、ミコトは黄泉比良坂にまで到るのであるが、この坂で遥かに遠方を逃れゆくオオナムチノカミにむかって、大声でよびかけるのである。

汝はオオクニヌシノカミとなり、我が女スセリビメを嫡妻として、宇迦の山本に地底の岩に宮殿の柱を太く掘り立て、天空高くタル木を上げて壮大な宮殿を造り、そこに居れ、と。これ即ち出雲大社の創剏譚であるが、ここで吾人はまた黄泉比良坂というよび名の地を見る。

根の堅洲(かたす)国といって極遠の地を表わすこの国は、即ち死者の国黄泉なのである。

ここに塞(さや)り石として在るのが千引の石、つまりは上代人の葬送に際し眼のあたりにするところの古墳の石室と、羨道の入口を閉ざす閉塞石なのであるが、こうした古墳築造の技法が、この物語の下地に生きているとするならば、出雲という地は即ち、黄泉に擬せられていたと言ってよいのである。

つまり霊的な何かを感じさせるものが、そこには有る、ということなのである。

日本書紀の斉明天皇の5年(659年)の条に、

 狐、於宇(おう)ノ郡ノ役丁(えよぼろ)ノ執レル葛ノ末ヲ齒ヒ断リテ去ヌ。又狗、死人ノ手臂(たたむき)ヲ言屋(いわや)ノ社二齒ミ置ケ

という異変を記して、これは「天子ノ崩リマサム兆ナリ」としている。

言屋とは今日の八束郡東出雲町揖夜の地であって、ここには揖夜神社が鎮まる。

この地はもとの意宇郡であるから、ここにいう狐の異変もまたこの言屋の社か、またはその近くでの変であったのであろう。

それはともかくも、黄泉の国の入口にあたる黄泉比良坂は、出雲の伊賦夜坂であるという伝承とこの苫屋の社とは、深く結びあうものがあると言ってよい。

出雲風土記出雲の郡宇賀の郷の条に、脳(なずき)の磯の記載がある。

 磯ヨリ西ノ方二窟戸アリ、高サ広サ各六尺許アリ、窟ノ内二穴アリ、人入ルコトヲ得ズ、深浅ヲ知ラザルナリ。夢ニコノ磯ノ窟ノ辺二至ル者ハ必ズ死ヌ。故(かれ)、俗(よ)ノ人吉ヨリ今二至ルマデ、黄泉ノ坂、黄泉ノ穴卜号(なず)ケイヘリ。

いかにも出雲そのものの有つ神秘さを、窺わしめる記述である。

また島根の郡の加賀神崎(かがのかんざき)に窟あり、佐太の大神の生誕の地であるが、今の人この窟の辺を行くときは、大声をあげて叫びながら通過しなければならぬ。もし密に行けば神現れて飄風起り、行く船かならず覆るという。

つまり出雲というところは、神秘な、ときにはうす気味わるい地と考えられていた、ということなのである。

イザナギ・イザナミ二柱の神の絶縁の話でも、或はまたスサノオノミコトの根の堅洲国から逃れるオオナムチノカミが、五百引の石をもてその室の戸を引き塞えたという話も、ともにこれ、人を石室に葬り、羨道を石を以て塞ぐ手法であって、大和の人のもとよりよく知るところであるにもかかわらず、黄泉比良坂の所在をあえて出雲に求めをところに、古く大和の人々が出雲の地にどういう心象を抱いていたかということを、窺う素材とすることが出来る。

日の神アマテラスオオミカミが天の石窟に隠れたため、高天原はもちろん、葦原の中つ国はすべて闇くなり、夜ばかりが続き、万の妖(わざわい)がそのため発生するを見たと言うのである。

この記述は日の神の死去を意味し、日の神は墳塋の石室に籠ったということなのである。

ここで催されたのが石窟前の盛大なる祭典であり、八百万の神の歓喜(よろこ)び咲(わらい)い楽(あそ)ぶさまにつられて、窟から再度日の神の出現を見るのであるが、このときアメノタジカラオノカミは窟の入口に注連(しめ)縄を張りめぐらし、日の神に「コレヨリ内ニナ還り入リソ」と申したという。

このときの注連縄は黄泉比良坂の千引の石にあたる。

また窟に入られるとき、日の神はみずから、「磐戸ヲ閉シテ幽居(かくりま)シヌ」と書紀は記している。

換言すれば、出雲も大和も同じような葬送習俗を有ち、手法をひとしくする。

にもかかわらず、天の窟屋伝承が及ぼす大和の心象はきわめて明るく、黄泉比良坂より彼方とされる出雲の心象は蛆(うじ)たかれころろぎ、いかにもしこめき国と懼れかしこみ、でき得れば忌み避けたい国であるという心象のもとに、記紀神話では構想され、記述されていると言ってよいであろう。

日本神話は大きくいって三部の構成を持つ。

高天原神話と出雲神話、それに筑紫神話と、それぞれ物語展開の舞台を異にしつつ人の世へとつながって行く。

高天原神話はイザナギ・イザナミ二柱の神の国生みと天の窟屋の物語りが、出雲神話は高天原を逐われたスサノオノミコトの大蛇退治とオオクニヌシノカミの国譲りが、そして筑紫神話は天孫の日向は高千穂の嶺への降臨と、山幸彦の海神(わたつみ)の宮訪問譚が、それぞれの神話伝承の中核をなしている。

こうした三部の構成を順序を逐って記述し伝える古事記に対し、日本書紀の神代巻は高天原神話に筑紫神話を直接させて、出雲神話はこれを本書の記載からはずして、ことさらに一書に云くとして掲げるにとどめるのである。

国家発展の正史としての日本書紀にあっては、精霊のはたらきや死を示唆する出雲神話は、おぞましく且つ忌まわしいものと映っていた、と言うことができるであろう。

ここに書紀としての意図的な修飾や作為が見られる、といってよい。

 
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出雲大社の御祭神オオクニヌシノカミには五つの御名があった、と古事記は伝える。

オオナムチノカミ、アシワラノシコオノカミ、ヤチホコノカミ、ウツシクニタマノカミというのがそれである。

これというのも、それぞれの御名で伝えられていた伝承を、オオクニヌシノカミという一つの名のもとに総合したことを物語る、と考えられるのであるが、このヤチホコノカミについては高志の国のヌナカワヒメ、さらには嫡后スセリビメとの間にかわされた五首の唱和歌がある。

ヌナカワヒメのもとから戻ってきたヤチホコノカミにむかって、スセリビメの嫉妬があまりにもきついので、ヤチホコノカミは次のように歌ったというのである。

ヌバ玉ノ 黒キ御衣(みけん)ヲ マップサニ 取り装ヒ沖ツ鳥 胸見ル時 ハタタギモ コレハ適(ふさ)ハズ 辺ツ波 ソニ脱(ぬ)ギ棄(う)テ ソニ鳥ノ 青キ御衣ヲ マツプサニ 取り装ヒ 沖ツ鳥 胸見ル時 ハタタギモ 此(こ)ハ適(ふさ)ハズ 辺ツ波 ソニ脱ギ棄テ 山県ニ 蒔キシアタネ春(つ)キ 染木ガ汁二 染(し)メ衣(ころも)ヲマツプサニ 取り装ヒ 沖ツ鳥 胸見ル時 ハタタギモ 此(こ)シ宜(よろ)シ イトコヤノ 妹(いせ)ノ命 群島ノ我ガ群レ往(い)ナバ 引ケ鳥ノ 我ガ引ケ往ナバ 泣カジトハ 汝(な)ハ言フトモ ヤマトノ 一本薄(すすき) 項(うな)傾(かぶ)シ 汝ガ泣カサマク 朝雨ノ サ霧ニ立タムゾ 若草ノ 妻ノ命(みこと)事ノ語言モ 是ヲバ

この歌謡は女神の嫉妬に手をやいた男神が、それでは大和へ行くと言って、黒い御衣を着ては鴨のように頸をのべ身をそらし、胸をつくろい、袖を引きあげて見ては気にいらぬといって、青い御衣に着がえて再び前のような動作を繰り返し、三度めにやっと茜色の御衣に満足して戸口の方に歩み出で、片脚を馬の鞍にかけて女神の方を見やると、女神は項(うなじ)を傾けて泣き出すのである。

そしていよいよ馬に鞭をくれて出発しようとすると、女神は態度を一変して酒杯をささげ、男神をひきとめようとする、こうした情景が眼前にうかんでくる。

このような情景をうたいこむには、実際に眼でもって直視しているのでなければできないことだとして、この歌謡を土居光知氏は、夫婦喧嘩を題材とした古代演劇と見るのである。

畳句や連句に富む長歌であり、この長歌の歌詞は、劇を演じつつ同時に自己の姿を眺め、自己を意識している人の表現だと、土居氏は読みとるのである。

この長歌で第一に気づくことば、海浜近くに女神の家があったに違いない、ということである。

沖つ鳥が胸の羽毛を嘴でつくろっているのである。気にいらぬ御衣は辺つ波の寄せる砂浜に投げ棄てるのである。

このあと機嫌を直した女神は男神にむかって、「汝コソハ男二坐セバ、打チ廻ル島ノ崎々、カキ廻ル磯ノ埼落チズ、若草ノ妻持タセラメ」云々と歌いかけるのである。

磯、海浜、島の崎々が主たる関心の対象となっていることを知る。

男神のさきの歌に「ヤマトノ一モト薄」というのがあった。

この「ヤマト」については「山処之(やまとの)ナルベシ」といい、また「山本之ニテモアラムカ、倭ノ国之ト云ニハ非ジ」と宣長は言うのである。

海浜に対する山なのであって、宣長のいう通りにこれを解さねばならぬであろう。

ではあるがこの歌謡の詞書きとして、「ソノ夫ノ神ワビテ、出雲ヨリ倭国(やまとのくに)二上リマサムトシテ、束装(よそひ)シ立タス時ニ」云々とあって、男神の胸には出雲に対する大和が十分に意識されていた、としてよい。

出雲神話のハイライトの一つ、オオクニヌシノカミの国譲り伝承であるが、この伝承の舞台はタケミカズチノカミとアマノトリフネノカミとの二柱の神が、日本書紀ではアマノトリフネノカミに代えるにフツヌシノカミを以てしているが、要は高天原から折衝の使者として派遣された神は、出雲の国の稲佐の浜に降り、十掬(とつか)剣を抜いて逆さまに浪の穂に刺し立て、剣尖に趺(あだ)みて、「汝ガ心ハイカニ」とオオクニヌシノカミに問いかけるのであった。

オオクニヌシノカミの御子コトシロヌシノカミはといえば、三保の崎に鳥狩り魚猟りに出かけていたのであるが、この子神は父の大神にむかって「恐(かしこ)シ、コノ国ハ天ツ神ノ御子ニタテマツラム」といって、乗ってきた船を蹈み傾けて「天ノ逆手ヲ青柴垣(あおふしがき)二打チ成シテ隠リキ」と古事記は記している。

逆手をうってその船を神霊のこもる青い柴の垣となして、その内に隠れたというのであるから、要するに入水して身を隠したということなのであろう。

海浜の塩騒の聞こえる物語りなのである。

出雲風土記は8世紀初めの、記紀とならぶ古典である。

この風土記の冒頭を飾るのが「国引」の段である。

「国引」は神代の大むかし、造りはじめの出雲の国がいかにも小さいのを残念に思った神さまが、海の彼方の国などからあちこちの出鼻出鼻を牽いてきて、それを本土に縫いあわせ繋ぎあわせて、出雲の国を大きくなされたということを述べたものである。

意宇の郡という地名の由来に結びつけて語られているのであって、文学的に見てもすぐれた伝承であり、むかしは小学校の国語読本にも、この物語は収載されていた。

意宇(おう)卜号(なず)クル所以(ゆえ)ハ、国引キ坐(ま)セルヤツカミズオミツヌノミコト詔(の)リタマハク、八雲立ツ出雲ノ国ハ狭布(さぬ)ノ稚(わか)国ナルカモ。初(はつ)国小サク作ラセリ。故(か)レ作り縫ハナト詔リタマヒテ、タクフスマ志羅紀(シラギ)ノ三崎(みさき)ヲ、国ノ余り有リヤト見レバ、国ノ余り有リト詔(の)リタマヒテ、童女(おとめ)ノ胸組(むなすき)取ラシテ、大魚(おおき)ノ支太衝(きだつ)キ別ケテ、三搓(みつより)ノ綱打チ掛ケテ、霜黒葛繰(つづらく)ルヤ繰ルヤニ、河船ノモソロモソロニ国来国来(くにこくにこ)卜引キ来縫ヘル国ハ、去豆(こず)ノ打絶(うちたえ)ヨリシテ八穂米杵築(やほねきずき)ノ御埼(みさき)ナリ。……今ハ国引キ訖(お)へツト詔り給ヒテ、意宇ノ杜二御杖衝キ立テテ、意恵(おえ)卜詔り給ヒキ。故、意宇(おう)トイフ。

この国引の段には、こうした国引が四通り連続的に記されていて、その口調のよさからして、むかしから口詞されてきた詞章であることを思わしめるに十分である。

若い女の胸のように艶々しい広い鋤を手に、あたかも大魚の鰭(きだ)を切り落すようにスパッと志羅紀の岬をたち截り、三本瑳の太い綱をつけて、掛け声も勇ましく国よ来い国よ来いと呼ばわって、そろそろと牽いてきて縫い合わせたというのであるが、そのときの綱が東は夜見の島、西は薗の長浜という砂丘であり、牽き綱のために地中にうちこんだ杭が、伯耆の大山と石見の三瓶山だという。

この国引の詞章の上には海の潮香のただようのを、人は誰しも感じとらずにはいられぬことであろう。

オオクニヌシノカミが出雲の三保の崎に坐したとき、波の穂に小舟に乗り蛾の皮を内剥(うつは)ぎにした衣服をまとって、海の彼方からより着く神があった。

スクナビコナノカミである。この大小二柱の神が心を一つに力をあわせ、この国を作り堅めたという。

スクナビコナノカミが常世(とこよ)の国にわたって行かれたのち、オオクニヌシノカミがこのあと、どの神と協力して国作りを進めたらよいかと思案しているとき、海をてらして依り来る神あり、この神は大和の三輪山なるオオミワノカミであると古事記はいい、神光海を照らして忽然に浮び来れる神は、オオクニヌシノカミの幸魂・奇魂であり、三輪山の神にほかならぬと日本書紀は伝えている。

要は海の彼方からの霊威なしには、国作りは成しがたいということを、言わんとするのである。

オオクニヌシノカミそのものもまた、海と深い結びつきが考えられることの一端をば、さきに記したのであるが、天孫に国譲りをすませた後のオオクニヌシノカミは、出雲は杵築の大社に鎮り坐すこととなった。

そこで古事記は次のようにいう、

水戸(みなと)ノ神ノ孫クシヤタマノカミ、膳夫(かしわで)トナリテ天ノ御饗(みあえ)ヲ献リシ時二ホキ白(まお)シテ、クシヤタマノカミ鵜二化(な)リテ海ノ底二入り、底ノ赤土(はに)ヲ咋(く)ヒ出デテ天ノ八十平瓮(やそひらか)ヲ作リテ、海(め)布ノ柄(から)ヲ鎌(か)リテ燧臼ニ作り、海蓴(こも)ノ柄ヲモテ燧杵二作リテ、火ヲ鑚り出デテ云ヒシク、

このときクシヤタマノカミの申された言葉はといえば、次の通りであったという。

コノ我ガ燧(き)レル火ハ、高天ノ原ニハ神産巣日(かみむすび)ノ御祖ノ命ノ、トダル天ノ新巣(にいす)ノ凝烟(すす)ノ八拳(やつか)垂ルマデ焼キ挙ゲ、地(つち)ノ下ハ底ツ石根二焼(た)キ凝(こ)ラシテ、タク縄ノ千尋(ちひろ)縄打チ延(は)へ、釣スル海人ノ口大ノ尾翼鱸サワサワニ控(ひ)キ依七騰(あ)ゲテ、拆(さき)竹ノトヲヲトヲヲニ天ノ真魚昨(まなくい)献ル。

魚撈のいとなみが、流麗な口詞の詞章のうちによみこまれているのである。

南面する出雲大社本殿にあって、祭神の神座は西に向いておられることは、よく人の知るところである。

また瑞垣内東西に三摂社あり、本殿を中央に東に御向社と天前社、西に筑紫社である。

この三社の順序はむかしから筑紫社、御向社、天前社となっていて、しかも社殿の基礎工事や建築資材は筑紫社が最も丁寧であり、美材を以てこれにあてている。

大社の西は稲佐の浜である。即ち大社の祭神の関心は西の方、海の上にあることを示唆するものである。

西の方、海の方向を尊重するが故に、大社の注連縄の張り方がまた世の神社とは逆となるのであって、大社では西方の海の方向、即ち本殿に向って左が、綯始めとなるのである。

 
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出雲の神々の祖とされるスサノオノミコトは、青山を枯山に泣き枯らす神であり、天上より追われたときは、霖雨に苦しめられ、笠蓑(かさみの)を着けて下る神であり、風雨甚だしくとも留まり休むことができなかったという。

そして出雲の簸の川上に八岐大蛇を退治て、奇稲田(くしいなだ)姫を救い、須賀の地に新居を営み、その孫フハノモジクヌスヌノカミはオカミノカミの女ヒカワヒメと婚してフカフチノミズヤレハナノカミを生み、この神はアメノツドヘチネノカミを娶ってオミズヌノカミを生むという、長い神統譜を古事記は記している。

こういう神名の上に水や河、淵との関係が指摘できる。

またオカミノカミとは蛇神なのである。

つまりスサノオノミコトに、水の神としての霊能を見る所以である。

奇稲田姫を喫(く)わんとした八岐大蛇は頭尾各八岐にわかれ、松栢を背上に八丘八谷に匐いわたるという。

風雨に増水溢流しては稲田をおし流す大河を神話的に言いなしているのである。

大蛇を退治るということば、治水に成功して稲田の秋の穣りを保障することにはかならぬ。

スサノオノミコトは換言すれば豊饒な穣りを約束する農神であり、稲田を潅漑する水の神ということになるであろう。

この神の系譜にオカミノカミの名を見出すが、蛇は沢や稲田にかかる用水に棲息するのであって、言いかえればまた水の神でもある。

三輪山のオオモノヌシノカミは美わしき蛇となって聖女に通うのであるが、この三輪の神はオオクニヌシノカミの幸魂・奇魂であるともいう。

雄略天皇はこの神の形を見まく欲され、少子部連螺羸をして捉えしめたところ、大なる蛇の電(かみ)ヒカリヒロメキ、眼の赫々(かがやく)ばかりなるを得たという。

オオクニヌシノカミの御子にタケミナカタノカミがあり、諏訪の神となるのであるが、この神も後世には蛇体と思われている。

年ごとに来たりては八乙女を喫わんとする八岐大蛇、この暴戻から免れたいと思うのは、稲田を管理する農民の心底からの希(ねが)いでなければならぬ。

したがって紫電一閃、この大蛇を屠るスサノオノミコトは、農業社会の安全と平和を保障する霊能者にほかならないのである。

オオクニヌシノカミは根の堅洲国なるスサノオノミコトのもとから、嫡妻たるべき女とともに生大刀・生弓矢を持ち帰る。

この大刀と弓矢はその名の示す通り、死者を蘇生させる霊能を有つ聖具であったであろう。

オオクニヌシノカミはスクナビコナノカミとともに病を療す方を定め、鳥獣や昆虫(はうむし)の災いを攘う禁圧(まじないやむる)の法を定め、百姓(おおみたから)今に至るまですべて恩沢を蒙るという。

またこの神が皮を剥がれた白兎に教えて、蒲黄(がまのはな)をもってもとの体に恢復させたという譚(はなし)、また兄神に欺かれて焼石を抱きとめ、焼死んだとき、蚶貝(きさがい)と蛤貝(うむがい)の二神が貝を焼き母乳をまぜて身に塗り、再生せしめたという譚、いずれも人々のくらしに身近な民間療法といってよい。

上つ代の農民たちの日常生活が、この物語には纏綿しているのである。

高天原神話を起点として展開する記紀神話は、国家の成り立ちの根本を明かにしようとする。

神器の授受、天孫降臨、さらにはアマテラスオオミカミから皇統の一貫連綿するを説くその体系からすれば、出雲神話は人々の日常のくらしをそのままに反映するものであるが故に、また出雲は大和からすれば顕に対する幽であって、精霊の活動著しく、死の世界との繁りを思わしめるものあるが故に、書紀では本書の記載をはばかられたのである。

 
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風土記は古事記や日本書紀とならんで、わが古典中の古典といわねばならぬ。

古事記のできたのが和銅5年(712年)の正月、日本書紀はそれから8年目の養老4年(720年)5月に撰進を見たのであるが、風土記は和銅6年(713年)5月2日の制令、即ち、

畿内七道諸国郡郷ノ名ハ好字ヲ著ケヨ、其ノ郡内二生ズル所ノ銀銅彩色草木禽獣魚虫等ノ物ハツブサニ色目ヲ録セ、及ビ土地ノ沃項、山川原野ノ名号ノ由ル所、マタ古老ノ相伝フル旧聞異事ハ史籍二載セテ言上セヨ

にもとづいて、諸国でその編纂に着手したのが風土記である。

今日現存するのは常陸、播磨、出雲、肥前、豊後の五国の風土記と、諸書に引用する数十カ国の逸文とだけである。

このうち首尾ともに完全に伝わるのは、わが出雲風土記のみであり、その勘造の日付は天平5年(733年)2月30日、編纂責任者はわが出雲国造家の祖出雲臣広島である。

広島は秋鹿郡の人、神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)の支援協力を得てこれを完成したと明記している。

こうした事情の明瞭にわかるのは、五国の古風土記の中で、わが出雲風土記を措いて他にはない。

このように今から1250年も前の風土記が、完全な形で今日に伝わっているということは、世界でもまことにめずらしい奇蹟である。

ところが古典の価値をことさらにおとしめ、これに誹誘讒誣を加えることを以て科学的方法なりとする風潮の、異常に高まりを見せた終戦直後の世相の中にあって、この出雲風土記もまた後世つくられた偽書だとする論が唱えられ、たちまちにして世にひろまったのであった。

風土記の撰進は出雲国造家の遠祖の最も力を致せるところ、後商として遺憾にたえぬ次第であった。

昭和28年、幸いにして志をひとしくする大家新進の学者諸賢の協力を得て研究書を上梓し、偽書説は根抵からこれを覆えすことができたのである。

天平5年の2月には30日という日はないとする偽書説の有力な論拠も、正倉院文書の中にこの日付の文書が見つけ出されて、完全に破綻を見たのである。

まだ物資の乏しい時代であり、学術出版の著しく困難であるときであっただけに、このときの想い出は尽きることを知らないが、要はこのときの出版書『出雲国風土記の研究』(出雲大社御遷宮奉賛会 昭和28年7月 694頁 A5判非売)の刊行は、遠祖出雲臣広島の志にいささか応えることが出来たか、と私は思っている。

 
記述の特色 目次に戻る
 
出雲風土記の編纂者は、豊かな学問と教養を身につけていた。

中国には晋の周処の編になる風土記の残篇には、晋の周処の編になる風土記の残篇には、越や魏、蜀の各地の飲食についての習俗や慣習が記されているが、風土記にはたとえば玉造の湯について

川ノ辺二出湯(いでゆ)アリ。出湯ノ在ル所海陸ヲ兼ネタリ。

仍リテ男女老イタルモ少(わか)キモ、或ハ道路二駱駅シ、或ハ海中二洲(す)ヲ沚(は)テ、日二集ヒテ市ヲ成シ、繽紛トシテ燕楽ス。一夕ビ濯フトキハ形容端正、再ビ浴スレバ万ノ病悉二除ク。古ヨリ今二至ルマデ験ヲ得ズトイフコトナシ。政、俗人(よしひと)神ノ湯トイヘリ。

と記し、嶋根郡の前原(さきはら)の埼の宴遊については、

陂(つつみ)卜海トノ間ノ浜ハ東西ノ長サ一百歩、南北ノ広サ六歩アリ、肆松蓊欝(まつしげ)り浜鹵(なぎさ)ノ淵澄メリ。男女時ニ随(よ)リテ叢会(つど)ヒ、或ハ愉楽(たのし)ミテ帰り、或ハ眈遊(えら)ギテ帰ルコトヲ忘レ、常二燕喜)うたげ)スル地ナリ。

と、素朴な日常の間にあっての、人々のたのしみとするところに、筆を惜しむということがない。

また各部の条下に載せる、山野のあらゆる産物についての記述も、一見ただの羅列にすぎぬように見えるけれども、『文選』の西京賦や南都賦の記載のしかたを追うものであり、玉造の湯の条に見た「駱駅繽紛」という語句もまた『文選』の南都既に見るのであって、四字六字の句を交互につらねる修辞形式は、六朝文学の特色であることを思えば、編纂者の学力が容易ならぬものを有っていたということを、あらためて確認できるのである。

また風土記各郡の草木禽獣の記述にあっては、草はすべて薬草が挙げられてあり、山や島の記述に付記された草木もまた、その大方が薬草であるということば、編纂者のこの方面の知識の卓抜なることを思わずにはいられない。

オオクニヌシノカミが人々や家畜のために療病の方法を定めたという古伝承が、思い合わされる所以であり、こうした木草学への関心ということば、常陸や播磨等の風土記に比して、出雲のそれが別して強いものを有っている、といってよい。

祭神オオクニヌシノカミに奉祀するものとしての自覚と、責任感とを眼のあたりに見る思いがする。

編纂者の風土記の記述について発揮された心がまえの一、二について特に言及しておきたい。

その一は上記の本草関係の記載である。

風土記のできあがる直前の天平2年4月、太政官から「国内ヨリ出ストコロノ珍奇口味等ノ物ハ、国郡司蔽匿シテ進メズ。マタ乏少ナルニヨツテ進メザルコトアリ。自今以後、物乏少ナリトイヘドモ駅伝ヲ限ラズ、便ニマカセテ言進セヨ」という通達が諸国に出ている。

ところで郡内所生の産物については、和銅6年の制で、風土記の記述にあたり、第一に要請されているところであったが、これを詳細に報告することば、中央へ上納せよという下命と直ちに結びつく。

従って諸国の国司郡司はこれが秘匿につとめることとなるのであるが、出雲風土記はその詳細な報告を敢えてこころみているのである。出雲臣広島の心意気というものを、思わざるを得ないのである。

次に右和銅6年の制では、土地の沃、山川原野名号の由来、古老相伝うる旧聞異事を報告せよということを要求してきているのである。

ところが出雲風土記は、国全体の地勢をまずは概観し、四至を明らかにして国名の起源に及び、神社、郡郷駅、神戸の数を列記したのち各説に入り、意宇部以下9郡61郷の一々を記し、海岸の浦については、船舶停泊の可能数を掲げる。

そして各説の記述が終るとあらためて国全体の記事に及び、道度の項を特にたてて郡家・郡界・河川を起点とする道程・道順、橋の長さと幅、渡舟数に至るまで注記し、別に軍団・烽・戍の名称と位置を挙げ、末尾は「国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等出雲臣広島」の署名を以て終るのである。

文書の形式として完備しているのみならず、地理的記載に異常な熱意を注いでいるのが、他の風土記には見ることのできぬ、出雲風土記の大きな特色である。

こうした出雲風土記の特色は、天平時のわが国と新羅との緊張関係とけっして無関係ではないであろう。

天平4年、東海、東山両道と、山陰、西海二道にそれぞれ節度使が置かれて防衛体制を固めた。前者は陸奥、出羽の蝦夷に備えるものであり、後者は新羅からの予想される来寇に対する、防衛正面たることを意図してのことである。

出雲の浦々の船舶停泊可能数も、これを兵船と読みとることが必要であろう。

風土記の精細な道程と、起点からの距離数値は、兵力を移動せしめる重要な資料である、としなければならない。

こうした国家の難に備えることを期した当時の緊張した時勢と、それに対処することあらんを期した出雲臣広島の気持の高まりとを、この風土記から見てとることができるのである。

 
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古老の相伝する旧聞異事を記載するのが、風土記撰述の大きな眼目の一つであることば、これまで瘻々繰返してきた。

ところがこの風土記は、古事記や日本書紀に見える古伝承ではあっても、事は出雲に関するものについて極めて冷淡なのである。

たとえば日本書紀に見えるイザナギノミコトとイザナミノミコトとが泉津平坂(よもつひらさか)で、夫婦の契を絶ったというが、この泉津平坂とは古事記では出雲の国の伊賦夜坂だと言っている。

しかるに風土記では意宇郡に伊布夜(いふや)の社三社を挙げているとは言え、ここでの絶妻の誓については言及することなく、黄泉の入口にあたるということについては全く口を閉ざして語ろうとはしない。

また古事記ではスサノオノミコトが高天原から逐われて、肥の河の川上鳥髪(とりかみ)の地に下り、ここで足名椎・手名椎に出会って八岐大蛇のことを聞くのであるが、風土記では仁多郡の鳥上山の記述に地理や産物を言うのみ。

古事記の神話に言及することなく、八岐大蛇の話は風土記に全く見ることができない。

「八雲立つ出雲」は古事記はスサノオノミコトの詠んだ歌とするが、風土記ではヤツカミズオミツヌノミコトが歌われたところとする。

つまり、中央での伝承にかかわらず、出雲では出雲人の伝承を大切とし、出雲での伝承にどこまでも忠実であろうとしたのである。

ざればたとえば意宇部忌部の神戸の条に見る如き、「道路駱駅」とか「繽紛燕楽」とか、漢文学の豊かな教養をば示すことばあっても、古伝については舞文修飾を避け、在るがままにこれが再現を期しているのである。

つまり、出雲人(ひと)の心の直截なる表現を期したのである。

そのよき例が意宇郡の国引きの詞章である。

もしこれが、たとえば常陸風土記の童子女松原(おとめのまつばら)の記載の如く「山ハ寂寞トシテ巌ノ泉旧(ふ)り、夜ハ蕭条トシテ烟レル霜新ナリ」と書かれているのであれば、文は美麗なりとは言え、実は『文選』を読むにひとしいではないか。

丹後風土記に有名な水江浦嶼子(みずのえのうらのしまこ)が伝承を見るが、「賎妾(やつこ)ガ意ハ天地卜畢(お)へ、日月卜極マラントオモフヲ」の一段、さながら『遊仙窟』を見る思いがするというべく、丹後人(ひと)のナマの気息(いぶき)からは遠い、と言わねばならぬ。

出雲風土記が国引きの詞章をば、口承そのままに採録して、あえて文を舞わすことのなかったということなのであって、国語を尊重し、わが文芸の語調の古雅なるを愛した編纂者の高い識見に、あらためて敬意を表せざるを得ない。

出雲風土記は出雲人(ひと)の心をそのままに筆に収めようとする。

その一つに黄金の弓箭の譚がある。嶋根の郡加賀の潜戸の条である。

加賀の神埼に窟あり、高さ一十丈、周囲五百二歩、東西北の三方に通じた窟があり、サダノオオカミの生まれましたところだという。

しからばこの神の生誕の事情はいかがというに、この神の生まれるとき、側にあった弓箭が喪せたので、母神のキサカヒヒメノミコトがわが子はマスラガミの御子であるならば、喪せた箭が出てくるようにとお祈りになると、角(つの)の弓箭が水のまにまに流れてきた。

そのとき生まれたばかりのサダノオオカミがこれを見て、これは神の子にふさわしからぬ弓箭であると仰せになると、この次には間もなく黄金の弓箭が流れてきた。

大神はその弓箭をもって「この窟は真暗だ」と申され、箭で射通しなされたのでできたのが、今の潜戸である。そこで大神の親神にあたるキサカヒヒメノミコトの社がここに在るのであり、今もこの潜戸といわれる窟の内を潜りぬけようとするものは、必ず大声で叫びながら通過しなければならぬ。

もし無言で通過しようとすると、神が出現して親風を起すので、船は必ず覆る、というのがここの伝承であり、この地が加賀といわれる所以は、サダノオオカミが生まれたとき、「闇キ岩屋ナルカモ」と申されて、黄金の弓を以て射たとき光り輝いたので、加賀というのだという説明を施している。

この潜戸は東西約200メートル、高さ30メートル、水深は8メートルの巨大な窟であり、大神がハッシと射たてた箭は、この潜戸の洞門からおよそ500メートルをへだてた的島をも射通した、というのである。

生誕したばかりの神が、初めに流れてきた角の弓箭をば神の御子が持つにふさわしからずと、これを拒否する凛然たる威厳、堅固な巌をも黄金の弓箭で射通す超人的な腕力と強い意志、奇巌峭壁の海岸にいかにもふさわしい雄大な譚である。

また水のまにまに流れ来る弓箭は、瀬見の小川で川遊びをしていたタマヨリヒメが、丹塗の矢を得られたという賀茂伝説を想わしめるものがある。

出雲の地はその海岸線の変化は大きく、島根半島の岩石海岸は男性的な壮絶さをもって海にせまっている。

加賀の潜戸の譚はこうした味わいを強く感じさせるものがあるが、中ノ海や宍道湖をめぐる一帯の地ま、少女の黛眉(まゆ)びきにも似たなごやかな半島の山なみで、青松も美しい。この島根半島は、海の彼方から引き寄せて本土に結びつけた陸地だ、と見たてたところから生まれたのが、風土記の冒頭を飾る国引き伝承である。

そこにくりひろげられる風景は、鋤をとり農作にいそしむかたわら、大漁の網の綱を引く漁村の平和な日々である。

しかしながらこの国引き伝承は、一面からすればきわめて雄大にして宏壮な構想である。

海の彼方新羅から、さらには能登の珠洲埼から、引き寄せ縫い合わせたのが、島根半島だというのである。

またこうして引き寄せるとき、綱を結びつけんがために大地にシッカとつき堅めた杙が、東は伯耆の大神山即ち大山であり、西は石見と出雲との堺にきわだって聳える三瓶山であり、風土記では佐比売山(さひめやま)とこれを呼んでいる。

また引き寄せた綱は今に遣って東は夜見の島、西は薗の長浜だという。

夜見の島は今日、米子から境港に長くつき出た砂嘴の半島となっている。

大山や三瓶山に登山して、北の方島根半島を眺めるときは、脚もとに長く展開する蘭の長浜や夜見ケ浜は、いかにも巨人の手繰り寄せた綱が横たわっているとしか思えない。

国土をば綱をもって引き寄せるという気宇の宏大な、スカッとした構想は、わが民族本来のものであって、たとえばその年の稔りが豊饒なれと神に祈る祈年祭(としごいのまつり)は、わが民族が悠久の苦から繰り返してきた祭りであるが、この祈年祭にあたり神に奏す祝詞は、「狭キ国ハ広ク唆シキ国ハ平ラケク、遠キ国ハ八十綱打チ掛ケテ引キ寄スルコトノ如ク、スメオオミカミノ寄サシ奉ラバ」云々と、国引きをうたっているのである。

わが国民性を人よんで島国根性といい、偏狭さを嗤うのであるが、儒仏の外来思想に染まらぬ以前の、わが国民性の本然の姿は、この国引きの詞章がいうように、どこまでも高朗であり、宏大であったということを想うのである。

こうしたわが国民性の本来の姿を人々の眼にハッキリと印象付けるものは、白木造り、直線的に太く逞しく、この世のものとも思われぬ豪壮にして且つ高朗な、六間四面、高さは八丈、雲に入る千木を有った出雲大社の本殿である。

この大社の建物については、別途章をたてて論及することとする。

国来(くにこ)、国来と遠い海の彼方から、国の余りを引き寄せたヤッカミズオミツヌノミコトの話から、遠い出雲人はこの神が素晴らしく大きな巨人と考えていたのではあるまいか、とこのように思うのである。

日本の国内には大昔、ダイダラボッチという巨人がいて、その足跡がどこそこの窪地だという話が各地に伝えられている。

常陸風土記の那賀郡の条にも…今日の貝塚のことであろう…むかし巨人があってその食べる貝が積って岡となっている。

今は大櫛(おおくし)の岡といわれ、その巨人の踏んだ跡は長さ三十余歩、広さ二十余歩、尿の穴址(あと)は二十余歩もありと記している。

古事記や日本書紀にいうスサノオノミコトもまた、巨人の面影が濃厚であるといってよい。

大蛇を退治するため、クシイナダヒメを櫛としてその髪に挿したという。

その鬚髯を抜いて播き散らすと杉となり、胸の毛は槍、尻の毛は薪、眉の毛はクスとなったという。

このスサノオノミコトのところから、その女スセリビメを正室としてむかえ、生大刀・生弓矢をもって悪神邪霊のことごとくを「坂ノ御尾ゴトニ追ヒ伏セ、河ノ瀬ゴトニ追ヒ撥ヒテ」国作りをなされたのがオオクニヌシノカミである。

日本書紀にも「国ノ中ニ未ダ成ラザル所ヲバ、オオナムチノカミ独(ひと)リ能(よ)ク巡(めぐ)り造ル」と見えている。

オオクニヌシノカミはこうしてこの国土を造られた神として崇められていた、ということを知るのであるが、出雲風土記ではオオクニヌシノカミをよぶに、「天ノ下造ラシシ大神(おおかみ)」と最大級最上級の敬称を以てしている。

換言すれば遠い出雲人は、オオクニヌシノカミとはこの天地の創造神であり、偉大なる神として考えていたのである。

ダイダラボッチやヤツカミズオミツヌノミコトとは、また違った意味での巨人である。

このオオクニヌシノカミはオオナムチノカミといった。

この御名の「ナ」とは土地という意味である。地震のことを古くはナイといったが、その「ナ」とは大地のことを指す。

またウツシクニタマノカミという別名をもつが、これはつまり国土霊のことである。

古事記や日本書紀では、イザナギ・イザナミの二柱の神が国土を生み成したという。高天原から下って天の浮橋に立たし、国土を修理り固め成した二柱の神には、巨人の面影がただよっているが、オオクニヌシノカミにもまたこうした面影が纏綿する。

前に述べたように、出雲ではオオクニヌシノカミは天の下造らしし大神とよばれていた。

このことからわが国で初めての神話学者ともいうべき高木敏雄は、次のように推定する。

古事記や日本書紀という、大和朝廷の立場で編纂した神話の体系では、天地の開闢や国生みという伝承が重要な意義を有って構想されているが、出雲にもこうした物語が本来有ったのであろう。

出雲にも国生みに類する話が存したのであるが、古事記や書紀の編纂に際しては意図的に脱落せしめられたのであって、ヤッカミズオミツヌノミコトの国引きもこうした伝承の一つであろう。

天の下造らしし大神というよび名もまた、そのように解すべきではあるまいか、というのである。

日本書紀の欽明天皇の16年(555年)の条に見える次の記述、即ち、

夫ノ邦ヲ建ツル神ヲ原(たず)ヌレバ、天地剖(ひら)ケ判(わか)レシ代、草木言語(ものがたり)セシ時ニ、天降り来マシテ国家ヲ造り立テシ神ナリ。

この記事でいうところの国家造立の神とは、どの神を指すのか、古来学者の間でいろいろ論議がかわされてきているが、卜部兼方の『釈日本紀』はオオナムチノカミであるとし、江戸時代の谷川士清の『日本書紀通証』や、明治になっての著作で最も基礎的なといわれる『日本書紀通釈』はスサノオノカミであるとする。

諸家の説はこのように一致を見ないけれども、古来からの権威ある書紀の研究は、いずれも出雲の神にそれを求めようとしていることは、十分に心すべき点なのである。

天の下を造らしし大神たるオオクニヌシノカミであるが、この神がその神名とする「国(くに)」ということにつき、これを謬りなく把握することがなければならぬ。

ここでいう「国」とは、ステート(state)という意味の「国」ではない。農耕地ということなのである。

日本書紀によるに、アマテラスオオミカミは弟神にあたるツキヨミノミコトに命じて、穀神たるウケモチノカミにつき食物を求めしめられたところ、ウケモチノカミは「首ヲ廻(めぐ)ラシテ国二嚮(むか)ヒシカバ則テロヨリ飯出ヅ。又海二嚮ヒシカバ則チ鰭(はた)ノ広物、鰭ノ狭物亦ロヨリ出ヅ。

又山二嚮ヒシカバ則チ毛ノ鹿(あら)モノ、毛ノ柔(にこ)モノ亦ロヨリ出ヅ」と、口より吐き出したというのであるが、魚類と海、動物と山という結びつきに対するに、飯と国という結びつきである。

したがってここでいう国とは当然農耕地でなければおさまりがつかない。国とは飯が生産される場所なのであり、農耕地、とりわけ水田ということになるであろう。

こう見てくることによって、オオクニヌシノカミというのは、水田の穣りを人々に約束し保障する偉大なる霊格ということになるであろう。

こういう偉大なる霊格であるが改に、オオクニヌシノカミはわが古典(出雲風土記)にあらわれるときは、常に大国主神と表記され、大国主命と記されるということは絶対にないのである。

あたかもアマテラスオオミカミは常に天照大神と表記されることと相呼応する、厳たる事実なのである。

古事記や日本書紀に記載されている出雲神話では、スサノオノミコトとオオクニヌシノカミとの二柱が物語の中核となるが、出雲風土記でもまたこの二柱に関係する伝承が際立って多い。

意宇の郡安来の郷ではスサノオノミコトが天地のかぎり広く巡行され、この地に釆てわが心は安く平らかになった、と申されたので「安来」というのであると伝え、大原の郡の御室山に巡り来られて、ここに御室を造らせて宿り、佐世の郷では佐世の葉をかざして踊り、その木の葉が落ちたので「佐世」というのであるという。

飯石の郡の須佐の郷ではミコトはこの地に来られて、「この地は狭い土地ではあるが住みよい所である。

そこで自分の名は石や木にとどめることをせず、この土地に名を留めておこう」と申して、御自身の魂をここに留め、御各代(みなしろ)の田として大須佐田、小須佐田をお定めになったので「須佐」という地名は起ったのだといっている。

このように国巡りの話はそれぞれ国讃めの話なのであって、その地を讃美するということば、その地の精霊の魂を祝福することであり、神威の高い神が祝福されることにより、その地の繁栄と幸福とは約束され保障されるのだと人々は信じ、心のなごみと安らぎとを得ることができたのであった。

こうした国巡りは天の下造らしし大神、即ちオオクニヌシノカミの場合はとりわけ、一段と広範囲に出雲九郡の各地に伝えられている。

意宇の郡出雲の神戸の条ではこの神は、「五百津鋤鋤猶(いほつすきすきな)ホ取ラシニ取ラシテ天ノ下造ラシシ オオナモチノミコト」という、注目すべき呼び名を掲げている。

農民たちの手にするを鋤を手にして、天の下を造った神というのである。

つまり農耕神であり、農耕の大きな成果を約束する神にはかならぬということなのであるが、同時にまた汗にまみれて農作業にいそしむとき、農民たちが手にする鋤には、この神が手を添え力をかして支援してくれているのだ、という期待と安心とがこの神に感覚的に寄せられていたことを知るのである。

神門の郡朝山の郷では稲山や稲横山があって、大神の御稲であり、大神の稲積であると註が付けられている。

ここにいう大神とは言うまでもなくオオナムチノカミのことであり、出雲大社の祭神オオクニヌシノカミのことである。

嶋根の郡手染(たしみ)の郷ではオオナムチノカミが、この土地は大層丁寧に国作りをなされた地であると申されたので、「手染」というのだと伝え、仁多の郡という部名の起りは、オオナムチノカミが「この国は大きくもあらず、小さくもあらず、川上は木の穂刺し交(か)い、川下は河芝生がよく繁り這(は)いわたっている。

まこと湿地の多い小国である」旨を言ったので、仁多という名があるのだと記し、三処(みところ)の郷は「コノ地ノ田好シ、故ニ吾ガ御地(みところ)ノ田」としようという言葉から、その名を得たといっている。

すべてこれ古老の相伝にかかる旧聞異事にほかならない。

このような伝承が在地の人に伝えられているということば、換言するならば人々の日常のくらしの背後こ、眼にこそ見えね、神とのつながりが現にそこにある、ということを確信していたのであって、即ちいつも日常性のうちに神の気息を感じとっていた、ということなのである。

オオクニヌシノカミの嫡后スセリビメノミコトは夫の神にむかって「汝コソハ男二坐(いま)セバ、打チ廻(み)ル島ノ崎々、カキ廻(み)ル磯ノ埼落チズ、若草ノ妻持タセラメ、吾ハモヨ、女ニシアレバ、汝(な)ヲ除テ男ハ無シ、汝ヲ除テ夫(つま)ハ無シ」云々と歌いあげたと古事記は記している。

風土記にあってもオオナムチノカミの艶福ぶりについては、これを隠そうとはしていない。

嶋根の郡の美保の郷ではヌナガワヒメを娶してミホススミノミコトを生み、出雲の郡宇賀の郷ではアヤトヒメに求婚し、神門の郡の朝山の郷では、この地のマタマツクタマノムラヒメノミコトのもとに、朝ごとに通ったといい、八野(やの)の郷ではヤヌノワカヒメノミコトを娶えんがために屋を建てたので、八野というのだとする。

滑狭(なめさ)の郷では、スサノオノミコトの御子神であるワカスセリヒメの社のもとに、妻問いのためにかよったのであるが、その社の前の磐が滑らかであったので、この磐はずいぶん滑(なめ)しい磐だなと申された。

そこで滑狭(なめさ)という名が起ったという地名起源説話を記している。

こうした神の妻問いを、もしも興味本位の眼で見るときは、上つ代の人々の思惟思考を誤って解釈することとなるであろう。

神の妻問いと神婚は、その地の秋の稔りを保障し約束する聖なる儀礼なのである。

御子神の誕生は穀物の饒かな結実を意味する。

神の妻問いを伝える上つ代の人々の心の裏からは、天候に支配されて、あたかも賭ごとにも似た農作業の無事成功することを、ただいちずにひたむきに捧げる祈りの熱さを感じとらねばならないのである。

 
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出雲風土記の伝える古伝承から、天平時代の出雲人(ひと)が出雲の地で仰ぐ神々に、何を希み、いかにして心のゆたかさ、安らかさを得ていたかということを知るのである。

古事記や日本書紀の記録する中央の大和の神話伝承の面影を、風土記の神々からは看てとることはできない。

どこまでも人々の日常のくらしに即した神々の物語が、そこには展開しているのである。

中央神話で見たような、たとえば天地の剖判開闢というがごとき、理論的にしてかつは理性的な省察は、出雲の人々の上では、問題として切実に意識されるということはなかったのである。

…千家尊祀著「出雲大社」より