| 古老の相伝する旧聞異事を記載するのが、風土記撰述の大きな眼目の一つであることば、これまで瘻々繰返してきた。
ところがこの風土記は、古事記や日本書紀に見える古伝承ではあっても、事は出雲に関するものについて極めて冷淡なのである。
たとえば日本書紀に見えるイザナギノミコトとイザナミノミコトとが泉津平坂(よもつひらさか)で、夫婦の契を絶ったというが、この泉津平坂とは古事記では出雲の国の伊賦夜坂だと言っている。
しかるに風土記では意宇郡に伊布夜(いふや)の社三社を挙げているとは言え、ここでの絶妻の誓については言及することなく、黄泉の入口にあたるということについては全く口を閉ざして語ろうとはしない。
また古事記ではスサノオノミコトが高天原から逐われて、肥の河の川上鳥髪(とりかみ)の地に下り、ここで足名椎・手名椎に出会って八岐大蛇のことを聞くのであるが、風土記では仁多郡の鳥上山の記述に地理や産物を言うのみ。
古事記の神話に言及することなく、八岐大蛇の話は風土記に全く見ることができない。
「八雲立つ出雲」は古事記はスサノオノミコトの詠んだ歌とするが、風土記ではヤツカミズオミツヌノミコトが歌われたところとする。
つまり、中央での伝承にかかわらず、出雲では出雲人の伝承を大切とし、出雲での伝承にどこまでも忠実であろうとしたのである。
ざればたとえば意宇部忌部の神戸の条に見る如き、「道路駱駅」とか「繽紛燕楽」とか、漢文学の豊かな教養をば示すことばあっても、古伝については舞文修飾を避け、在るがままにこれが再現を期しているのである。
つまり、出雲人(ひと)の心の直截なる表現を期したのである。
そのよき例が意宇郡の国引きの詞章である。
もしこれが、たとえば常陸風土記の童子女松原(おとめのまつばら)の記載の如く「山ハ寂寞トシテ巌ノ泉旧(ふ)り、夜ハ蕭条トシテ烟レル霜新ナリ」と書かれているのであれば、文は美麗なりとは言え、実は『文選』を読むにひとしいではないか。
丹後風土記に有名な水江浦嶼子(みずのえのうらのしまこ)が伝承を見るが、「賎妾(やつこ)ガ意ハ天地卜畢(お)へ、日月卜極マラントオモフヲ」の一段、さながら『遊仙窟』を見る思いがするというべく、丹後人(ひと)のナマの気息(いぶき)からは遠い、と言わねばならぬ。
出雲風土記が国引きの詞章をば、口承そのままに採録して、あえて文を舞わすことのなかったということなのであって、国語を尊重し、わが文芸の語調の古雅なるを愛した編纂者の高い識見に、あらためて敬意を表せざるを得ない。
出雲風土記は出雲人(ひと)の心をそのままに筆に収めようとする。
その一つに黄金の弓箭の譚がある。嶋根の郡加賀の潜戸の条である。
加賀の神埼に窟あり、高さ一十丈、周囲五百二歩、東西北の三方に通じた窟があり、サダノオオカミの生まれましたところだという。
しからばこの神の生誕の事情はいかがというに、この神の生まれるとき、側にあった弓箭が喪せたので、母神のキサカヒヒメノミコトがわが子はマスラガミの御子であるならば、喪せた箭が出てくるようにとお祈りになると、角(つの)の弓箭が水のまにまに流れてきた。
そのとき生まれたばかりのサダノオオカミがこれを見て、これは神の子にふさわしからぬ弓箭であると仰せになると、この次には間もなく黄金の弓箭が流れてきた。
大神はその弓箭をもって「この窟は真暗だ」と申され、箭で射通しなされたのでできたのが、今の潜戸である。そこで大神の親神にあたるキサカヒヒメノミコトの社がここに在るのであり、今もこの潜戸といわれる窟の内を潜りぬけようとするものは、必ず大声で叫びながら通過しなければならぬ。
もし無言で通過しようとすると、神が出現して親風を起すので、船は必ず覆る、というのがここの伝承であり、この地が加賀といわれる所以は、サダノオオカミが生まれたとき、「闇キ岩屋ナルカモ」と申されて、黄金の弓を以て射たとき光り輝いたので、加賀というのだという説明を施している。
この潜戸は東西約200メートル、高さ30メートル、水深は8メートルの巨大な窟であり、大神がハッシと射たてた箭は、この潜戸の洞門からおよそ500メートルをへだてた的島をも射通した、というのである。
生誕したばかりの神が、初めに流れてきた角の弓箭をば神の御子が持つにふさわしからずと、これを拒否する凛然たる威厳、堅固な巌をも黄金の弓箭で射通す超人的な腕力と強い意志、奇巌峭壁の海岸にいかにもふさわしい雄大な譚である。
また水のまにまに流れ来る弓箭は、瀬見の小川で川遊びをしていたタマヨリヒメが、丹塗の矢を得られたという賀茂伝説を想わしめるものがある。
出雲の地はその海岸線の変化は大きく、島根半島の岩石海岸は男性的な壮絶さをもって海にせまっている。
加賀の潜戸の譚はこうした味わいを強く感じさせるものがあるが、中ノ海や宍道湖をめぐる一帯の地ま、少女の黛眉(まゆ)びきにも似たなごやかな半島の山なみで、青松も美しい。この島根半島は、海の彼方から引き寄せて本土に結びつけた陸地だ、と見たてたところから生まれたのが、風土記の冒頭を飾る国引き伝承である。
そこにくりひろげられる風景は、鋤をとり農作にいそしむかたわら、大漁の網の綱を引く漁村の平和な日々である。
しかしながらこの国引き伝承は、一面からすればきわめて雄大にして宏壮な構想である。
海の彼方新羅から、さらには能登の珠洲埼から、引き寄せ縫い合わせたのが、島根半島だというのである。
またこうして引き寄せるとき、綱を結びつけんがために大地にシッカとつき堅めた杙が、東は伯耆の大神山即ち大山であり、西は石見と出雲との堺にきわだって聳える三瓶山であり、風土記では佐比売山(さひめやま)とこれを呼んでいる。
また引き寄せた綱は今に遣って東は夜見の島、西は薗の長浜だという。
夜見の島は今日、米子から境港に長くつき出た砂嘴の半島となっている。
大山や三瓶山に登山して、北の方島根半島を眺めるときは、脚もとに長く展開する蘭の長浜や夜見ケ浜は、いかにも巨人の手繰り寄せた綱が横たわっているとしか思えない。
国土をば綱をもって引き寄せるという気宇の宏大な、スカッとした構想は、わが民族本来のものであって、たとえばその年の稔りが豊饒なれと神に祈る祈年祭(としごいのまつり)は、わが民族が悠久の苦から繰り返してきた祭りであるが、この祈年祭にあたり神に奏す祝詞は、「狭キ国ハ広ク唆シキ国ハ平ラケク、遠キ国ハ八十綱打チ掛ケテ引キ寄スルコトノ如ク、スメオオミカミノ寄サシ奉ラバ」云々と、国引きをうたっているのである。
わが国民性を人よんで島国根性といい、偏狭さを嗤うのであるが、儒仏の外来思想に染まらぬ以前の、わが国民性の本然の姿は、この国引きの詞章がいうように、どこまでも高朗であり、宏大であったということを想うのである。
こうしたわが国民性の本来の姿を人々の眼にハッキリと印象付けるものは、白木造り、直線的に太く逞しく、この世のものとも思われぬ豪壮にして且つ高朗な、六間四面、高さは八丈、雲に入る千木を有った出雲大社の本殿である。
この大社の建物については、別途章をたてて論及することとする。
国来(くにこ)、国来と遠い海の彼方から、国の余りを引き寄せたヤッカミズオミツヌノミコトの話から、遠い出雲人はこの神が素晴らしく大きな巨人と考えていたのではあるまいか、とこのように思うのである。
日本の国内には大昔、ダイダラボッチという巨人がいて、その足跡がどこそこの窪地だという話が各地に伝えられている。
常陸風土記の那賀郡の条にも…今日の貝塚のことであろう…むかし巨人があってその食べる貝が積って岡となっている。
今は大櫛(おおくし)の岡といわれ、その巨人の踏んだ跡は長さ三十余歩、広さ二十余歩、尿の穴址(あと)は二十余歩もありと記している。
古事記や日本書紀にいうスサノオノミコトもまた、巨人の面影が濃厚であるといってよい。
大蛇を退治するため、クシイナダヒメを櫛としてその髪に挿したという。
その鬚髯を抜いて播き散らすと杉となり、胸の毛は槍、尻の毛は薪、眉の毛はクスとなったという。
このスサノオノミコトのところから、その女スセリビメを正室としてむかえ、生大刀・生弓矢をもって悪神邪霊のことごとくを「坂ノ御尾ゴトニ追ヒ伏セ、河ノ瀬ゴトニ追ヒ撥ヒテ」国作りをなされたのがオオクニヌシノカミである。
日本書紀にも「国ノ中ニ未ダ成ラザル所ヲバ、オオナムチノカミ独(ひと)リ能(よ)ク巡(めぐ)り造ル」と見えている。
オオクニヌシノカミはこうしてこの国土を造られた神として崇められていた、ということを知るのであるが、出雲風土記ではオオクニヌシノカミをよぶに、「天ノ下造ラシシ大神(おおかみ)」と最大級最上級の敬称を以てしている。
換言すれば遠い出雲人は、オオクニヌシノカミとはこの天地の創造神であり、偉大なる神として考えていたのである。
ダイダラボッチやヤツカミズオミツヌノミコトとは、また違った意味での巨人である。
このオオクニヌシノカミはオオナムチノカミといった。
この御名の「ナ」とは土地という意味である。地震のことを古くはナイといったが、その「ナ」とは大地のことを指す。
またウツシクニタマノカミという別名をもつが、これはつまり国土霊のことである。
古事記や日本書紀では、イザナギ・イザナミの二柱の神が国土を生み成したという。高天原から下って天の浮橋に立たし、国土を修理り固め成した二柱の神には、巨人の面影がただよっているが、オオクニヌシノカミにもまたこうした面影が纏綿する。
前に述べたように、出雲ではオオクニヌシノカミは天の下造らしし大神とよばれていた。
このことからわが国で初めての神話学者ともいうべき高木敏雄は、次のように推定する。
古事記や日本書紀という、大和朝廷の立場で編纂した神話の体系では、天地の開闢や国生みという伝承が重要な意義を有って構想されているが、出雲にもこうした物語が本来有ったのであろう。
出雲にも国生みに類する話が存したのであるが、古事記や書紀の編纂に際しては意図的に脱落せしめられたのであって、ヤッカミズオミツヌノミコトの国引きもこうした伝承の一つであろう。
天の下造らしし大神というよび名もまた、そのように解すべきではあるまいか、というのである。
日本書紀の欽明天皇の16年(555年)の条に見える次の記述、即ち、
夫ノ邦ヲ建ツル神ヲ原(たず)ヌレバ、天地剖(ひら)ケ判(わか)レシ代、草木言語(ものがたり)セシ時ニ、天降り来マシテ国家ヲ造り立テシ神ナリ。
この記事でいうところの国家造立の神とは、どの神を指すのか、古来学者の間でいろいろ論議がかわされてきているが、卜部兼方の『釈日本紀』はオオナムチノカミであるとし、江戸時代の谷川士清の『日本書紀通証』や、明治になっての著作で最も基礎的なといわれる『日本書紀通釈』はスサノオノカミであるとする。
諸家の説はこのように一致を見ないけれども、古来からの権威ある書紀の研究は、いずれも出雲の神にそれを求めようとしていることは、十分に心すべき点なのである。
天の下を造らしし大神たるオオクニヌシノカミであるが、この神がその神名とする「国(くに)」ということにつき、これを謬りなく把握することがなければならぬ。
ここでいう「国」とは、ステート(state)という意味の「国」ではない。農耕地ということなのである。
日本書紀によるに、アマテラスオオミカミは弟神にあたるツキヨミノミコトに命じて、穀神たるウケモチノカミにつき食物を求めしめられたところ、ウケモチノカミは「首ヲ廻(めぐ)ラシテ国二嚮(むか)ヒシカバ則テロヨリ飯出ヅ。又海二嚮ヒシカバ則チ鰭(はた)ノ広物、鰭ノ狭物亦ロヨリ出ヅ。
又山二嚮ヒシカバ則チ毛ノ鹿(あら)モノ、毛ノ柔(にこ)モノ亦ロヨリ出ヅ」と、口より吐き出したというのであるが、魚類と海、動物と山という結びつきに対するに、飯と国という結びつきである。
したがってここでいう国とは当然農耕地でなければおさまりがつかない。国とは飯が生産される場所なのであり、農耕地、とりわけ水田ということになるであろう。
こう見てくることによって、オオクニヌシノカミというのは、水田の穣りを人々に約束し保障する偉大なる霊格ということになるであろう。
こういう偉大なる霊格であるが改に、オオクニヌシノカミはわが古典(出雲風土記)にあらわれるときは、常に大国主神と表記され、大国主命と記されるということは絶対にないのである。
あたかもアマテラスオオミカミは常に天照大神と表記されることと相呼応する、厳たる事実なのである。
古事記や日本書紀に記載されている出雲神話では、スサノオノミコトとオオクニヌシノカミとの二柱が物語の中核となるが、出雲風土記でもまたこの二柱に関係する伝承が際立って多い。
意宇の郡安来の郷ではスサノオノミコトが天地のかぎり広く巡行され、この地に釆てわが心は安く平らかになった、と申されたので「安来」というのであると伝え、大原の郡の御室山に巡り来られて、ここに御室を造らせて宿り、佐世の郷では佐世の葉をかざして踊り、その木の葉が落ちたので「佐世」というのであるという。
飯石の郡の須佐の郷ではミコトはこの地に来られて、「この地は狭い土地ではあるが住みよい所である。
そこで自分の名は石や木にとどめることをせず、この土地に名を留めておこう」と申して、御自身の魂をここに留め、御各代(みなしろ)の田として大須佐田、小須佐田をお定めになったので「須佐」という地名は起ったのだといっている。
このように国巡りの話はそれぞれ国讃めの話なのであって、その地を讃美するということば、その地の精霊の魂を祝福することであり、神威の高い神が祝福されることにより、その地の繁栄と幸福とは約束され保障されるのだと人々は信じ、心のなごみと安らぎとを得ることができたのであった。
こうした国巡りは天の下造らしし大神、即ちオオクニヌシノカミの場合はとりわけ、一段と広範囲に出雲九郡の各地に伝えられている。
意宇の郡出雲の神戸の条ではこの神は、「五百津鋤鋤猶(いほつすきすきな)ホ取ラシニ取ラシテ天ノ下造ラシシ オオナモチノミコト」という、注目すべき呼び名を掲げている。
農民たちの手にするを鋤を手にして、天の下を造った神というのである。
つまり農耕神であり、農耕の大きな成果を約束する神にはかならぬということなのであるが、同時にまた汗にまみれて農作業にいそしむとき、農民たちが手にする鋤には、この神が手を添え力をかして支援してくれているのだ、という期待と安心とがこの神に感覚的に寄せられていたことを知るのである。
神門の郡朝山の郷では稲山や稲横山があって、大神の御稲であり、大神の稲積であると註が付けられている。
ここにいう大神とは言うまでもなくオオナムチノカミのことであり、出雲大社の祭神オオクニヌシノカミのことである。
嶋根の郡手染(たしみ)の郷ではオオナムチノカミが、この土地は大層丁寧に国作りをなされた地であると申されたので、「手染」というのだと伝え、仁多の郡という部名の起りは、オオナムチノカミが「この国は大きくもあらず、小さくもあらず、川上は木の穂刺し交(か)い、川下は河芝生がよく繁り這(は)いわたっている。
まこと湿地の多い小国である」旨を言ったので、仁多という名があるのだと記し、三処(みところ)の郷は「コノ地ノ田好シ、故ニ吾ガ御地(みところ)ノ田」としようという言葉から、その名を得たといっている。
すべてこれ古老の相伝にかかる旧聞異事にほかならない。
このような伝承が在地の人に伝えられているということば、換言するならば人々の日常のくらしの背後こ、眼にこそ見えね、神とのつながりが現にそこにある、ということを確信していたのであって、即ちいつも日常性のうちに神の気息を感じとっていた、ということなのである。
オオクニヌシノカミの嫡后スセリビメノミコトは夫の神にむかって「汝コソハ男二坐(いま)セバ、打チ廻(み)ル島ノ崎々、カキ廻(み)ル磯ノ埼落チズ、若草ノ妻持タセラメ、吾ハモヨ、女ニシアレバ、汝(な)ヲ除テ男ハ無シ、汝ヲ除テ夫(つま)ハ無シ」云々と歌いあげたと古事記は記している。
風土記にあってもオオナムチノカミの艶福ぶりについては、これを隠そうとはしていない。
嶋根の郡の美保の郷ではヌナガワヒメを娶してミホススミノミコトを生み、出雲の郡宇賀の郷ではアヤトヒメに求婚し、神門の郡の朝山の郷では、この地のマタマツクタマノムラヒメノミコトのもとに、朝ごとに通ったといい、八野(やの)の郷ではヤヌノワカヒメノミコトを娶えんがために屋を建てたので、八野というのだとする。
滑狭(なめさ)の郷では、スサノオノミコトの御子神であるワカスセリヒメの社のもとに、妻問いのためにかよったのであるが、その社の前の磐が滑らかであったので、この磐はずいぶん滑(なめ)しい磐だなと申された。
そこで滑狭(なめさ)という名が起ったという地名起源説話を記している。
こうした神の妻問いを、もしも興味本位の眼で見るときは、上つ代の人々の思惟思考を誤って解釈することとなるであろう。
神の妻問いと神婚は、その地の秋の稔りを保障し約束する聖なる儀礼なのである。
御子神の誕生は穀物の饒かな結実を意味する。
神の妻問いを伝える上つ代の人々の心の裏からは、天候に支配されて、あたかも賭ごとにも似た農作業の無事成功することを、ただいちずにひたむきに捧げる祈りの熱さを感じとらねばならないのである。
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