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出雲大社の祭神はオオクニヌシノカミであり、この祭神の祭祀にあたるものはアメノホヒノミコトであるということは、日本書紀の神代巻が判然とこれを記すのであって、天つ神がオオナムチノカミにむかって「汝ガ祭祀ヲツカサドラン者ハ、アメノホヒノミコトコレナリ」と申されたところ、オオナムチノカミは「敢テ命二従ハザランヤ」とおこたえしたとある。
オオナムチノカミとはいうまでもなくオオクニヌシノカミであり、アメノホヒノミコトとは、神代伝承ではアマテラスオオミカミの弟神であり、千家国造家の祖にあたる。
大社の創建は遠く神代のむかしに遡る。日本神話の体系のうち、その中核として構想された国譲りの段で、皇神アマテラスオオミカミがオオクニヌシノカミのため、出雲の多藝志の小浜につくられたという天の御舎、天日隅宮がのちの大社なのである。
古事記には「天津日継知ラシメス、トダル天ノ御巣如シテ、底ツ石根二宮柱フトシリ、高天ノ原二氷木タカシリテ」云云と、その壮大堅牢なさまをうたい、日本書紀は「其ノ宮ヲ造ル制ハ、柱ハ則チ高ク太ク、板ハ則チ広ク厚クセン」とあって、千尋の縄を以て結いて180結にした重厚にして堅固な宮つくりのさまを伝え、出雲風土記は「ヤツカミズオミツヌノミコトノ国引キ給ヒシ後、天ノ下造ラシシ大神ノ宮奉へマツラムトシテ、諸ノ皇神タチ宮処ニ参り集ヒテ杵築キ給ヒキ」と、出雲の神々が力をあわせて造営したのだと言っている。
オオクニヌシノカミはこの宮にあって幽れたる事、神の事を治め、顕露の事は皇孫の治すにまかされるようになされた、というのが古くからの言いつたえなのである。
このことをむかしから顕幽分任という言葉であらわしている。
出雲の神話伝承は、その全体の構成の中核ともなるべき二柱の神があり、この二柱の神の物語を軸としてその物語の展開を見せている。
一柱はスサノオノミコトであり、一柱はオオクニヌシノカミである。
ついては大社神域の荒垣正面に建つ碧銅の鳥居は、寛文6年(1666年)6月毛利輝元の孫綱広の寄進にかかるものであるが、これには、
「ソレ扶桑開闢シテヨリコノカタ、陰陽両神ヲ尊信シテ伊弊諾伊弉冉尊トイフ。コノ神三神ヲ生ム、一ヲ日神トイヒ、二ヲ月神トイヒ、三ヲ素蓋鳴トイフナリ。日神トハ地神五代ノ祖天照大神コレナリ、月神トハ月読尊コレナリ、素義鳴尊ハ雲陽ノ大社ノ神ナリ」
と刻みこまれていて、祭神はオオクニヌシノカミではなくして、スサノオノミコトであると考えられていたことを知る。
また大社には後醍醐天皇宸筆の"神剣勅望の綸旨″(重要文化財)を伝えている。
もと千家国造家の所蔵のものであって、天皇が鎌倉幕府を倒し、以て王道の恢弘を念じ、隠岐を脱出し、伯者の名和長年に迎えられて船上山に駐輦中のことである。
この3月14日に天皇は出雲大社に、王道再興の祈念をこらすべく命ぜられたのであったが、越えての17日、大社にむかしから伝えるところの神剣二口のうちの一口につき、その献納を勅望なされた、その綸旨なのである。
墨痕雄揮、闊達にしてとらわれるところのなき雄勁な筆蹟は気高き気品おのずとそなわり、帝皇の真蹟という名にそむかない。
この綸旨から、このときの天皇の御心事を拝察するに、おそらく次のようであったと思われる。
即ち三種の神器のうちの勾玉は、『増鏡』にも神霊は御躬から離つことなく、隠岐へ奉持されたとあり、御鏡はもともと伊勢の神宮に遠い昔から鎮まりますのであるが、御剣がこの場合欠けているので、この草薙剣はもとスサノオノミコトが、出雲の地に得てアマテラスオオミカミに奉献されたという古伝承を想いうかべられ、出雲大社から神剣を再び求めようとされたのである。
とするならば、天皇は出雲大社の祭神をスサノオノミコトと、思いなされていたのかもしれない。
長い大社の歴史にあっては、祭神がこのように、あるときはスサノオノミコトと考えられていたときがあったのである。
大社ではときの出雲国造孝時は、大社伝来の神剣二口のうちの一口を献じた。
大社にのこされた神剣については、明治になって教部省の命があり、大宮司千家尊福はこれを調査して、無銘、鍔元から切刃先まで二尺三寸五分、装束の金物は銀四分一、鞘は金梨地に墨の蒔絵であると報告している。
正月元日、宮司は本殿奥深く参進し、この神剣を捧持して高椽に出る。
神官一同はそのとき神庭にびれ伏してこれを拝する。大饌祭のあとの神事である。
この神剣は右のような次第で、皇位無窮のしるしと結びつく。神剣拝戴の儀は宝祚の永遠の儀を確認しあう、という意味を有つものである。
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