大社の総称社として知られる旧官幣大社。島根県出雲市大社町に建つ。『日本書紀』に天日隅宮、『出雲国風土記』天日栖宮、所造天下大神之宮として登場する。
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出雲大社年表

天皇 年号 西暦

垂仁 23 前4 出雲神宮を造営。
斉明 5 659 出雲国造22代出雲臣叡屋に令して厳神之宮を修造。
元正 霊亀2 716 出雲国造24代出雲臣果安は神賀詞を奏す。
聖武 神亀元 724 出雲国造25代出雲臣広島は神賀詞を奏す。
聖武 天平5 733 出雲国造広島は出雲風土記を編上す。
孝謙 天平勝宝2 750 出雲国造26代出雲臣弟山は神賀詞を奏す。
称徳 神護景雲元 767 出雲国造27代出雲臣益方は神賀詞を奏す。
桓武 延暦4 789 出雲国造29代出雲臣国成は神賀詞を奏す。
桓武 延暦14 795 出雲国造30代出雲臣人長は神賀詞を奏す。
嵯峨 弘仁2 811 出雲国造33代出雲臣旅人は神賀詞を奏す。
嵯峨 弘仁13 822 仮殿式遷宮。
仁明 天長10 833 出雲国造34代出雲臣豊持は神賀詞を奏す。
清和 天安3 859 出雲杵築神を叙正三位。
清和 貞観元 859 出雲杵築神を叙従二位。
清和 貞観9 867 出雲杵築神を叙正二位。
円融 天禄元 970 源為憲の『口遊』に、建築物の規模を「雲太・和二・京三」と表現する俚謡を掲載す。
一条 永延元 987 正殿式遷宮。
後朱雀 長元9 1036 正殿式遷宮。
後冷泉 治暦3 1067 正殿式遷宮。
鳥羽 天仁元 1108 神殿の梁柱傾き顛倒す。
鳥羽 永久3 1115 官宣旨により造営覆勘使が派遣されて正殿式遷宮。
崇徳 保延7 1141 神殿顛倒。
近衛 永治2 1142 官宣旨により杵築大社造営が沙汰さる。
近衛 康治元 1142 在庁宮人解状に「天下無双の大厦、国中第一の霊神」と記さる。
近衛 久安元 1145 杵築大社造営覆勘使が派遣されて正殿式遷宮。
二条 応保元 1161 三月会を初めて行う。
高倉 承安2 1172 神殿顛倒。
高倉 安元元 1175 仮殿式遷宮。
秋野鹿蒔絵手筥を御奉納。今に伝えて国宝に指定さる。
後堀河 家禄3 1227 仮殿式遷宮。
四条 嘉禎元 1235 神殿顛倒。
後深草 宝治2 1248 正殿式遷宮。
後宇多 弘安5 1281 仮殿式遷宮。
後醍醐 正中2 1325 仮殿式遷宮。
後醍醐 元弘3 1333 王道再興を勅願あらせられ、神宝の神剣一振を勅望せらる輪旨二通を賜る。今に伝えて重要文化財に指定さる。
御所蔵の「谷風の琵琶」を御奉納。
後村上 興国4 1343 出雲国造家は千家と北島の両家に分派す。
後亀山 元中3 1386 仮殿式遷宮。
後小松 応永3 1396 三月会再興さる。
後小松 応永19 1412 仮殿式遷宮。
後土御門 応仁元 1467 仮殿式遷宮。
後土御門 文明18 1486 仮殿式遷宮。
後柏原 永正16 1519 出雲国守尼子経久が仮殿式遷宮に際して境内に、大日堂・三重塔・輪蔵・宝庫を建立す。
後柏原 大永2 1522 尼子経久が一万部の法撃経を僧千百人に読詞せしむ。
後奈良 天分19 1550 仮殿式遷宮。
正親町 天正8 1580 仮殿式遷宮。
毛利輝元が銅鳥居を寄進す。
後陽成 慶長14 1609 仮殿式遷宮。
豊臣秀頼が堀尾吉晴、片桐且元をして造営せしめ、秀吉愛用の剣山振と銅製鰐口を寄進す。今に伝えて重要文化財に指定さる。
明正 寛永7 1630 徳川家光が50万両を以て修造せしめ、1646年後光明天皇正保3年に造営なる。
後西2 寛文2 1662 徳川家綱は銀二千貫目を寄進して造営を行わしめ、両部習合の弊習を出雲藩主松平直政の請を入れて排し、唯一神道の旧制に復せしむ。
霊元 寛文5 1665 造営工事に際して、クリス形鋼曳・硬玉製勾玉が摂社命主社境内の大石の下から発見さる。今に伝えて重要文化財に指定さる。
霊元 寛文6 1666 毛利綱広が鍋島居を寄進す。銘文に「素箋鳴尊者雲陽大社神也」と記す。
霊元 寛文7 1667 正殿式遷宮。
徳川家綱50万両を奉納し、出雲藩主松平綱隆を修覆奉行となす。
中御門 享保10 1725 造営につき諸国勧化を幕府が許可す。
桜町 延享元 1744 正殿式遷宮。
遷宮の時まで在来の本殿を存置して仮殿を設定せず。本殿以外の諸建物を撤去移動して新本殿を造営し、遷宮後に旧本殿を除去す。
光格 文化6 1809 神殿を修造し遷宮す。
これに先立ちて幕府は1000両を寄進し、諸国勧化を許す。遷宮入用金として金500両を寄進す。
仁孝 天保8 1837 幕府は諸国不作につき黄金三枚を奉納して五穀成就世上安全を祈願す。
明治 明治4 1871 5月14日付を以て「官幣大社」に列せらる。神領を上地して新規に境内地約五万坪が設定される。
神社制度改正により古伝新嘗祭は出雲大社にて執行となる。
三月会廃止さる。
明治 明治5 1872 出雲国造80代千家尊福は出雲大社大宮司に補せらる。
5月14日を例祭日と定める。
明治 明治6 1873 出雲大社敬神講を組織して全国の氏子崇敬者を結集す。
明治 明治8 1875 祖霊社を創建して敬神講員の祖霊を鎮祭す。
明治 明治10 1877 神社制度改正により千家尊福が出雲大社宮司に任ぜらる。
明治 明治12 1879 千家尊福は神道事務局副管長に選ばれる。
出雲大社敬神講を出雲大社教会と改称し、その神殿及教務局を出雲大社庁舎より千家国造館大広間に移転す。その式典に際して、尊福が「開論文」を宣読して「出雲大社教」の誕生を期す。
明治 明治14 1881 正遷宮を奉仕す。
権宮司制が旨遷せらる。
明治 明治15 1882 神官教導職兼務が禁止されたにより、尊福は宮司職を出雲国造81代千家尊紀に譲り、出雲大社教会の派名允許によって「神道大社派」と称し、管長職に就く。
明治 明治40 1907 皇太子殿下御参拝。
明治 明治44 1911 出雲国造82代千家尊統が宮司に任ぜらる。
明治 明治45 1912 御剣一振が御寄進せらる。
大正 大正6 1917 勅祭社に定められ、例祭5月14日に勅使差遣せしめらる。
皇太子殿下御参拝。
昭和 昭和7 1932 出雲大社教特立50年祝祭を行う。
昭和 昭和9 1934 勅使館・斎館・社務所等の新築、神苑拡張等が完了す。
昭和 昭和13 1938 大社国学館を設立す。
昭和 昭和18 1943 仮殿を造営するも昭和20年に中止す。
昭和 昭和21 1946 神道指令により国家管理を離れ、宗教法令によって宗教法人となる。
昭和 昭和22 1947 出雲国造83代千家尊祀が宮司に就く。
行幸を仰ぐ。御親拝ありたり。
昭和 昭和26 1951 国有地たりし境内を無償にて譲渡さる。
出雲大社教は出雲大社敬神講の姿に復し、出雲大社宮司千家尊祀が出雲大社教(いずもおおやしろきょう)の国造職を兼任す。
昭和 昭和28 1953 正遷宮を奉仕す。
勅使参向して奉幣祭を斎行す。
昭和 昭和30 1955 拝殿・庁舎・鑚火殿を復興するため、高松宮を総裁に戴き、地鎮祭を行う。
昭和 昭和31 1956 大社国学館を再興す。
昭和 昭和34 1959 拝殿竣功す。
昭和 昭和38 1963 庁舎竣功す。
昭和 昭和40 1965 行幸啓を仰ぐ。御親拝ありたり。
昭和 昭和42 1967 皇太子・同妃殿下御参拝。
「おくにがえり会館」竣功す。
昭和 昭和44 1969 「彰古館」を開設す。
昭和 昭和54 1979 出雲大社教特立百年祝祭を昭和57年に迎えるにあたり、神楽殿造営の地鎮祭及仮殿遷座祭を奉仕す。
 
 
出雲大社の歴史

大社の総称社として知られる旧官幣大社。

『日本書紀』に天日隅宮、『出雲国風土記』天日栖宮、所造天下大神之宮として登場する。

『延書式』神名帳には杵築大社とみえ、長くこの名で呼ばれてきた。1871年(明治4年)に出雲大社と改称された。祭神は大国主大神。

創祀は『古事記』『日本書紀』などによると、大国主大神は素箋鳴尊の子(6世の孫とも)で、葦原中国の国造りにあたり、やがて天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨のとき、国土を譲って出雲国多芸志の浜に身を隠した。

大国主大神の国譲りを喜んだ天照大神は、天日隅宮を築き、その子の天穂日命を奉仕させたのが起こりという。

いまも天穂日命を祖とする出雲国造家が、連綿として祭祀を継承している。

『延書式』に名神大社として唯一大社に列し、出雲国一の宮として朝廷の崇敬が厚く、867年(貞観9年)に正二位の神階を受けて、鎌倉中期以降には12郷7浦の広大な社領を有した。

現在の御本殿は大社造りの名で呼ばれ、伊勢神宮の神明造りとともに古典的神社建築様式を伝え、国宝に指定されている。

境内は、約16万平方メートル。御本殿を中心に拝殿、東西十九社、宝物殿、摂社8社、末社3社などが配される。

祭礼は、5月14日からの大例祭をはじめ、神在祭、古伝新嘗祭など年問72におよび、古代以来の祭儀を伝える。

 
御祭神
 

出雲大社の祭神はオオクニヌシノカミであり、この祭神の祭祀にあたるものはアメノホヒノミコトであるということは、日本書紀の神代巻が判然とこれを記すのであって、天つ神がオオナムチノカミにむかって「汝ガ祭祀ヲツカサドラン者ハ、アメノホヒノミコトコレナリ」と申されたところ、オオナムチノカミは「敢テ命二従ハザランヤ」とおこたえしたとある。

オオナムチノカミとはいうまでもなくオオクニヌシノカミであり、アメノホヒノミコトとは、神代伝承ではアマテラスオオミカミの弟神であり、千家国造家の祖にあたる。

大社の創建は遠く神代のむかしに遡る。日本神話の体系のうち、その中核として構想された国譲りの段で、皇神アマテラスオオミカミがオオクニヌシノカミのため、出雲の多藝志の小浜につくられたという天の御舎、天日隅宮がのちの大社なのである。

古事記には「天津日継知ラシメス、トダル天ノ御巣如シテ、底ツ石根二宮柱フトシリ、高天ノ原二氷木タカシリテ」云云と、その壮大堅牢なさまをうたい、日本書紀は「其ノ宮ヲ造ル制ハ、柱ハ則チ高ク太ク、板ハ則チ広ク厚クセン」とあって、千尋の縄を以て結いて180結にした重厚にして堅固な宮つくりのさまを伝え、出雲風土記は「ヤツカミズオミツヌノミコトノ国引キ給ヒシ後、天ノ下造ラシシ大神ノ宮奉へマツラムトシテ、諸ノ皇神タチ宮処ニ参り集ヒテ杵築キ給ヒキ」と、出雲の神々が力をあわせて造営したのだと言っている。

オオクニヌシノカミはこの宮にあって幽れたる事、神の事を治め、顕露の事は皇孫の治すにまかされるようになされた、というのが古くからの言いつたえなのである。

このことをむかしから顕幽分任という言葉であらわしている。

出雲の神話伝承は、その全体の構成の中核ともなるべき二柱の神があり、この二柱の神の物語を軸としてその物語の展開を見せている。

一柱はスサノオノミコトであり、一柱はオオクニヌシノカミである。

ついては大社神域の荒垣正面に建つ碧銅の鳥居は、寛文6年(1666年)6月毛利輝元の孫綱広の寄進にかかるものであるが、これには、

「ソレ扶桑開闢シテヨリコノカタ、陰陽両神ヲ尊信シテ伊弊諾伊弉冉尊トイフ。コノ神三神ヲ生ム、一ヲ日神トイヒ、二ヲ月神トイヒ、三ヲ素蓋鳴トイフナリ。日神トハ地神五代ノ祖天照大神コレナリ、月神トハ月読尊コレナリ、素義鳴尊ハ雲陽ノ大社ノ神ナリ」

と刻みこまれていて、祭神はオオクニヌシノカミではなくして、スサノオノミコトであると考えられていたことを知る。

また大社には後醍醐天皇宸筆の"神剣勅望の綸旨″(重要文化財)を伝えている。

もと千家国造家の所蔵のものであって、天皇が鎌倉幕府を倒し、以て王道の恢弘を念じ、隠岐を脱出し、伯者の名和長年に迎えられて船上山に駐輦中のことである。

この3月14日に天皇は出雲大社に、王道再興の祈念をこらすべく命ぜられたのであったが、越えての17日、大社にむかしから伝えるところの神剣二口のうちの一口につき、その献納を勅望なされた、その綸旨なのである。

墨痕雄揮、闊達にしてとらわれるところのなき雄勁な筆蹟は気高き気品おのずとそなわり、帝皇の真蹟という名にそむかない。

この綸旨から、このときの天皇の御心事を拝察するに、おそらく次のようであったと思われる。

即ち三種の神器のうちの勾玉は、『増鏡』にも神霊は御躬から離つことなく、隠岐へ奉持されたとあり、御鏡はもともと伊勢の神宮に遠い昔から鎮まりますのであるが、御剣がこの場合欠けているので、この草薙剣はもとスサノオノミコトが、出雲の地に得てアマテラスオオミカミに奉献されたという古伝承を想いうかべられ、出雲大社から神剣を再び求めようとされたのである。

とするならば、天皇は出雲大社の祭神をスサノオノミコトと、思いなされていたのかもしれない。

長い大社の歴史にあっては、祭神がこのように、あるときはスサノオノミコトと考えられていたときがあったのである。

大社ではときの出雲国造孝時は、大社伝来の神剣二口のうちの一口を献じた。

大社にのこされた神剣については、明治になって教部省の命があり、大宮司千家尊福はこれを調査して、無銘、鍔元から切刃先まで二尺三寸五分、装束の金物は銀四分一、鞘は金梨地に墨の蒔絵であると報告している。

正月元日、宮司は本殿奥深く参進し、この神剣を捧持して高椽に出る。

神官一同はそのとき神庭にびれ伏してこれを拝する。大饌祭のあとの神事である。

この神剣は右のような次第で、皇位無窮のしるしと結びつく。神剣拝戴の儀は宝祚の永遠の儀を確認しあう、という意味を有つものである。

 

日本神話のなかに登場した出雲大社が、ついで人の代になって古典のうちにその名を現わしてくるのは、第11代垂仁天皇のときになってである。

古事記は次のように言う。

天皇の皇子ホムチワケは真事とわず、即ち生れながらの椏であった。

このことば、天皇の深く悩みとされるところであった。

たまたま夢で出雲の大神の崇がその原因であって、大神の宮を天皇の宮殿のように造営されるならば、皇子は必ず真事とうようになるであろうと告げ知らされた。

そこで天皇は曙立(あけたつ)王と菟上(うなかみ)王との二王を皇子に副えて、大神に拝礼せしめんがため出雲に下らしめ、簸の川の申に黒木の巣橋を作り仮宮に坐さしめた。

ときに出雲国造の祖キヒサツミが青葉の山を飾り、その川下に立ちて皇子をもてなそうとしたところ、皇子は口をひらいて、川下に青葉の山の如きは、山と見えて山にはあらず、出雲のアシワラノシコオノオオカミを祀る神官の祭場であろうかと問うたので、さてこそ皇子が真事とわれたと、一同大よろこびしたというのである。

 

この説話で吾人の注意をひくのは、出雲大神の託宣として、我が宮は天皇の宮殿と等しなみでなければならぬとあったという条である。

社殿の千木が雲に入らんばかりの壮大さ、豪壮さば、神話伝承が伝える通りのその当初からのものではなかったであろう、ということなのである。

古事記の記述を信頼して、大社神殿の造営は垂仁天皇のときからであるというのも、遡りすぎた推測であろう。

大社の造営は遠い神代に起源をもつのだといって、古事記では「天ツ神ノ御子ノ天津日継知ロシメサム、トダル天之御巣如シテ」云々と、ここでも天皇の宮殿の壮大さとの等しなみを強調している。

そして垂仁天皇の条もまた同様であった。

この点に出雲の神はあまりにもこだわりすぎているように見える。

ということから、こうした等しなみでなければならぬという要請は容易には実現を見ることができなかった、とこのように解釈しても謬りではないであろう。

大社の造営記録として、垂仁天皇の条についでわが古典に徴することのできる古いものは、日本書紀斉明天皇5年(659年)の条に見る「是ノ歳、出雲国造ニ命セテ厳神之宮ヲ修ラシム」という記載である。

しかしこの記載は、先にも述べたように「狗、死人ノ手臂ヲ言屋社二噛ヒ置ケリ」云々と、意宇郡言屋社の異変の記述に先立つ詞章であるところから、この厳神の宮は杵築の即ち今日の出雲大社ではなくして、同じ意宇郡なる熊野大社のことであろう、と推定した福山敏男博士の説に従うものが多い。

しかしながら大社の社伝では、神代創建の大社は、垂仁天皇のときの菟上王たちの派遣による修造を以て、第一回の造替とし、斉明天皇の五年の記載を以て第二回の修造としている。

ついで嵯峨天皇の弘仁13年を以て第三回とし、昭和28年(1953年)に至るまで28回を数えるのであるが、第三回以前は、造替の間隔あまりにも長期にすぎ、問題の多いということばこれを認めざるを得ないと思う。

 
出雲国造家
 

出雲大社の成りたちを考えるにあたっては、出雲国造家のことについて触れざるを得ない。

出雲国造家が大社の祭祀を使命とするようになったのは、さきに言及するところがあったように、遠い神代における天つ神の言依さしにもとづくものである。

大社と国造家とは一体不二の関係にある。

『令義解』といえば、律令政治が熱意をもって実施されていた仁明天皇の承和元年(834年)に施行を見た、わが令についての注釈書で、奈良時代から平安時代初期にかけての諸家の説を公的に定めたものであるが、その『神祇令』に「天神地祇」の解釈として、

天神トハ伊勢、山代ノ鴨、住吉、出雲国造ノ斎ク神等コレナリ。

地祗トハ大神、大倭、葛木ノ鴨、出雲ノ大汝神等コレナリ。

とある。

天神といい地祗というのは神についての分類で、天神とは高天原から天降られた神、ならびにその系統の神のことであり、地祗とは、もとからこの国土に土着の神のことである。

この場合、出雲の国造が祀る神とは、意宇郡の、意芋川の川上なる熊野大社の神であり、オオナムチノカミとはいうまでもなく出雲大社の祭神たるオオクニヌシノカミを指す。

およそ祭神に奉祀する神官の館というものは、南面する神社の神座ないしは本殿にむかって、左側に神社に接して営まれるのが例であり、古いお宮であればある程、こうした例にはずれるということばない。

わが出雲国造家もまた同様であって、大社の西隣りに地を接して国造館が建てられている。風土記の秋鹿部の佐太神社は、神名火山といって神の坐します山とされている朝日山の楚に鎮座して、旧藩時代は大社に次いで高い神威を誇る旧社であったが、ここの神官朝山家の館もまた、社殿にむかって左側に位置している。

わが出雲国造家に伝わり、平安朝の巨勢金岡筆といわれる近郊古絵図は、実際は鎌倉期のものであろうとされるが、この古絵図にも国造館は只今の私の家にあたる場所に、はっきりと描かれている。

このようにアメノホヒノミコトの子孫である出雲国造家は、神代からの伝承そのままに、忠実に大社の祭神オオクニヌシノカミに奉祀してきて、今日に至っているのであるが、右の『令義解』に見る天神地祗の説明では、熊野大社の神に出雲国造はつかえているのだというのであるから、解釈に苦しむむきも少くはない。

出雲国造の本質の地は意宇郡なのである。風土記にいう出雲郡杵築の郷ではない。

天平5年(733年)2月30日の勘造と明記された出雲風土記は、巻末に監修の責任者としては、

国造帯意宇部大領外正六位上勲十二等 出雲臣広島

と、その撰述について責任を有つのは出雲の国の守ではなくして、郡司たる出雲臣広島が、責任を有つものであるといっている。

出雲では実質上最大の実力を有つ者は出雲の国の守ではなくして、国造であったのである。

また風土記は各郡ごとにその撰録の責任者の署名を有つが、意宇部の条では、

 郡司主帳 無位         海 臣
      無位         出雲臣
 少 領  外従七位上勲十二等  出雲臣
 主 政  外少初位上勲十二等  林 臣
 擬主政  無位         出雲臣

とあって、大領・少領・擬主政・主帳と、意宇の郡衙は出雲国造家の同族で固めていたと言って過言ではない。

令制では大郡の場合郡衙の定員は大領・少領・主政各一名、主帳二名であったにもかかわらず、意宇部では定員外の擬主政が置かれ、しかもこれが出雲国造家の出身だというのである。

この勢威の高さが思われると言ってよい。

これより先、文武天皇の2年3月には、筑前国の宗方郡と出雲国の意宇郡とは特に例外として、三等親以上の者でも、郡司に連用できるという特例が公布されている。

出雲国造の勢威に対する朝廷の手厚い配慮なのである。

こうした配慮は、出雲国造家がアメノホヒノミコト以来の名門だということのほかに、そのもち斎くところの熊野の神に対する朝野の畏敬にもとづくもの、とこれを解さねばならぬであろう。

延喜式神名帳に記載を見る187座の出雲国の社のうち、明神大という社格で国幣にあずかるのは、熊野坐神社と杵築大社とだけであり、天平の出雲風土記にも、大社と書かれているのは熊野と杵築の両社のみ、しかも両社を列記するときは、熊野は常に杵築の前に上位として在り、この道に記されるということば絶えてない。

 

王朝時代に朝廷から授けられる神階も、熊野が杵築よりもいつも一階だけ上位であることを例としていた。

これというのも、熊野の神にむかしから斎いていたのは出雲国造家であった、という認識から出てきた事実なのである。

熊野の神は、しからばどういう神であるか。

風土記「イザナギノマナ子二坐ス熊野加武呂乃命」、のちに述べる出雲国造神賀詞には「イザナギノヒマナ子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」とあり、この日本の国を生んだイザナギノミコトの聖なる御子神たるクシミケヌノミコトということである。

クシとは神奇という意味をあらわす言葉であり、ミケヌとは御饌主であり、総じて神秘にして且つ偉大怒る穀霊・穀神という意味であって、農作の豊饒を保障する神霊なのである。

 

熊野の社から意宇川を少しく下れば視野は黙然と開け、むかしの条里制のあとも著しい意宇の平野がひろがり、その彼方には紺碧の中海が美しい。

意宇の平野を灌いで中海に入る意宇川が、熊野の山あいから平野部に顔を出すその渓口にあたるところが大庭である。ここに「大庭の大宮」とよばれる神魂神社がある。

この神社の社地に接して国造家の古い墳墓と国造家の別館があり、世が明治になるまでは毎年の新嘗祭と、国造の代替りの火継式のときには、出雲国造は杵築の地からこの地の別館に移り、潔斎をかさね、神事は別館の上手の丘なる神魂社で、執り行われてきたのであった。

この社は出雲風土記にも延善式の神名帳にも収載を見ることがない。

それというのもこの社は、いわば国造の館の邸内社としてつくられたものであって、陰暦11月の末に行われる新嘗祭には、熊野の谷あいは雪に埋れて往き来が困難であるところから、熊野の神をこの地に迎えて国造の神事に支障なからんことを期したのであろう、と言われている。

現在の社殿は天正11年(1583年)に再建された典型的な大社造で、雄勁にして古雅なただずまいと、社殿内部の彩色豊かな大和絵は美しい。

 
祭神はイザナミノカミである。祭神はこのようにイザナミノカミだというのは、後の世の思考の致すところであって、イザナミノカミを葬ったという伯耆と出雲との境である比婆山を、飯梨・母理の山地に設定したことと関係があろう。
 

かつては国造の別館があったというこの大庭の地、出雲国造の代替りの火継式、さらにはむかし、出雲国造の祭りである新嘗祭が執り行われたこの神魂社、こういう条件を勘案すれば、この地を措いてほかに出雲国造発祥の地を求めることは、むずかしいと言わねばならぬ。

意宇川の渓口部から、これまた神の坐しますという意味で、風土記には神ナビ山といわれた茶月山にかけて見る、移しいばかりの古墳群は、かつてのこの地帯の豪族、わけて出雲国造とは深い関係にあった古墳に違いない。

この地に営まれた風土記の丘に立って展望すると、そぞろ懐古の想いがこみあげてくるを覚える。

 
意宇と杵築
 

出雲の文化は出雲の東部、むかしの意宇郡から起って、やがて西部へと発展して行ったということが明らかとなっている。

即ち東部の古墳は古墳時代前期に属する方墳や前方後方墳を主体とし、円墳や前方後円墳は少く、それがあってもその多くは中期から後期にかけてのものだといわれている。

ところが出雲の西部、今日の簸川郡や出雲市方面は中期以降の古墳が多く、しかも方墳や前方後方墳は減少して、円墳や前方後円墳が増加するという。

東部が西部に比し古く開け、文化は東より西へと発展して行ったということなのである。

 

そして方墳系の墳墓は、大陸や朝鮮のそれと関連性が強いと指摘され、円墳系古墳が大和文化の進展を示唆するものであるとすれば、出雲の古代史の解明の手がかりの一つを、ここに見出すことができる。

あたかもスサノオノミコトが韓郷つまり朝鮮半島と往来されたという神話伝承や、ヤツカミズオミツヌノミコトが志羅紀(新羅)の三崎を国引きされたという伝承があるということ、そこに出雲国造の祖であるアメノホヒノミコトが高天原から出雲に遣わされたという話は、以上の考古学的知見といかにもよく整合するかに見える。

 

西部出雲への前方後円墳の進出は、大和文化を背景に有った意宇の勢力の、斐伊川、神門川下流平野への発展を意味するもの、としてよいであろう。

意宇野川を始めとする東出雲の河川は、出雲大川といわれた斐伊川と較べ、河勢はいかにもおとなしい。

西出雲の農業経営に大きな脅威を与えたのは斐伊川である。

古事記にいう簸の川がこれであって、八岐大蛇神話成立の基盤なり背景なりは、東出雲勢力の西出雲への進出である。

簸の川の溢流は大蛇が稲田姫を喫うことである。紫電一閃、大蛇を退治たスサノオノミコトは治水の成功者を意味する。

このスサノオノミコトの血すじをひくのがオオクニヌシノカミである。

とするならば、オオクニヌシノカミはまた、稲田の豊饒の穣りを約束し、保障する農業神であるとしなければならぬ。

ところでオオクニヌシノカミは、日本書紀ではスサノオノミコトと稲田姫との間に生まれた御子神であるとしている一方では、同じ日本書紀に収録された一書の説として、稲田姫との間に生まれた御子神は清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさろひこやしましぬ)であって、この神の五世の孫がオオクニヌシノカミだとする。

古事記もまたスサノオノミコトからオオクニヌシノカミに至るまで、六世の神を挿入している。どちらが正しいのかという疑問が当然出てくるであろう。しかしながらそのどちらも正しいのである。しからばその理由は如何、ということになるであろう。

人が子から孫へ、孫から曾孫へ、さらには玄孫へと血の繁りの無窮の発展を考えるということば、祖先のなしとげようとした志をば、自らが承けついでその志を実践し、また自らに於ては十分に実現し得なかったその志を、やがて子孫の上に期待するということなのである。

血の繋りというのは、志の完成への期待なのである。

こういう意味に於いては、父祖は即ち我なのであり、我は即ち子や孫なのである。我と子孫との間に何世もの人物が挿入されようとも、その実は一つのものなのである。

江戸時代、幕府から『本朝通鑑』編集の命をうけた林春斎の、その編集所での事務日記たる『国史館日録』の寛文7年6月12日の条に、出雲大社社人談として次のような話を録し、驚きを隠そうとはしない。

即ち、今の国造はアメノホヒノミコトより以来血脈相承して絶ゆることなし、毎世国造疾めば則ち未だその死せざるに、家督は家を出て別社に行き、神火をうけつぐ。父死して子が代り国造となれば、其の族は前国造のために服喪することなく、新国造の襲職を慶祝する。即ちこれアメノホヒノミコトは永生に存して不死だ、ということを表わすのである、といっている。

あたかも歴代の天皇が天孫そのものだという信仰と同じように、代々の出雲国造は国造家の祖アメノホヒノミコトとして、祭神オオクニヌシノカミの奉祀をつづけて、今日に至っているのである。

志の継承にほかならない。

 

熊野の神は、クシミケヌという名の示すように穀霊であった。

熊野という地名のクマもまたカミという言葉と、もともと結びあうものがある。

即ちカミとクマとは同じもので、音韻の変化にすぎない。

能登の羽咋郡に神代の神の社があり、延書式神名帳に見える。

同じ頃の『和名抄』石見の国邑智郡と淡路の三原郡とに、それぞれ神稲郷(くましろのさと)が見えている。

クマとカミとは相通ずる言葉なのである。

 

さてこの意宇郡にはまた、オオナムチノカミ即ちオオクニヌシノカミとのゆかりを有つ神話伝承が多い。

たとえば大庭に近い山代郷には正倉が置かれ、その御子のヤマシロヒコノミコト坐しますが故に山代というのだといっている。

このオオナムチノカミは風土記ではたびたび「五百津鉗なほ取り取らして天下造らしし大神」とよばれ、その御子神にはアジスキタカヒコネノミコトがある。

この御名からして、農耕具として欠かすことのできぬ組と密接な関係を有つ神だと言うことができる。

このことば熊野の神を漠然と穀霊であり、穀物神だと考えていた段階から進んで、農具としての組を特にとり出して、穀物神としての性格・機能を表出しようとしているのが、オオナムチノカミ即ちオオクニヌシノカミなのである。

この組を鉄製農具と考えるときは、それだけ農耕技術の一段の進歩と発展とを、ここに見ることができると言ってよい。

斐伊川や神門川下流の沖積平野が、即ち今日の出雲市を中心とする地帯が、農耕地として開拓され、「出雲は新墾」と出雲が開拓地の代名詞のように言われてくる五世紀末葉になると、こうして新しく拓けてきた土地での作物の豊饒を、ひいては民生の安定を保障する神として、オオクニヌシノカミが人々の意識を強く占めてくるようになるのも、またおのずからの勢いである。

オオクニヌシノカミは古典にはいつもオオクニヌシノカミとして登場し、オオクニヌシノミコトという名では登場することば、全く無いのである。

即ちオオクニヌシノカミはいつも人々には宗教的な対象として考えられ、この神に寄せる人々の期待と信頼とに厚いものであったか、ということを知るのである。

 

出雲風土記によると、神戸の里は意宇部のほかに出雲郡と神門郡とにそれぞれ置かれている。

神戸の民は神社に所属して、その公課は神社の管理と維持のために寄せるのである。

意宇部の熊野の神に対する崇敬は、やがて杵築に祀られるオオクニヌシノカミへと拡げられ、高められるようになって、意宇の郡のみならず、杵築に近いところにも神戸の里が増置されるようになってきた、ということを物語るものである。

意宇部の郡司職大領を兼帯していた出雲国造が、意宇の大庭から杵築に移ったのは、しからばいつの頃か。

なにぶんにも遠い上代のこととてわが国造家にも確な伝承もなく、記録もまた十分に伝わっているわけでもないので、これを決定するのはまことにむずかしい。

わが家には、そもそもの始めから杵築にいたのであって、意宇から移ってきたのではない、という云い伝えもあるのである。

ところで平安中期の法制集『類聚三代格』に収載する延暦17年の太政官符により、出雲国造が意字の大領兼帯を命ぜられたのが慶雲3年(706年)で、それから延暦17年(798年)まで約90年の長きに及ぶということを知る。

わが家の記録『出雲国造伝統略』によると、慶雲3年といえば23代、国造出雲臣帯許のときのことである。

明治まで意宇の大庭に国造別館が設けられていたように、この当時もこの地にこうした施設があって、意宇の郡司として民政上の責任をはたしていたのであろうが、延暦17年の兼帯の解任ということの裏には、杵築の社の神威の発展隆昌ということが、郡司の職の兼帯ということを妨げるものがあったという事情が、十分に思われるのである。

そこで考えるに、帯許のときに兼帯を命ぜられたというのであれば、このときを以て出雲国造の意宇の大庭から杵築への移住はなされた、とすべきであろうかと思われる。

近年島国也家所蔵の文書寸が上梓されたが、この文書の附録に収められた『出雲国造世系譜』こま、26世国造果安の条に「伝へテ云フ、始祖天穂日命斎ヲ大庭二開ク、此二至り始メテ杵築ノ地二移ル、云云」と見えるところから、これに拠って説をたてる人が多い。

しかしながらこの北島家の『出雲国造世系譜』に対して、わが干家家の『出雲国造伝統略』を見るに、23代の国造出雲臣帯許の条には、

天武天皇ノ白鳳八年国造卜為り、職二在ルコト三十年、慶雲三年意宇部ノ大領ヲ兼帯ス、類聚三代格云、慶雲三年以来令国造帯郡領云々。

とあり、類聚三代格の太政官符を根拠に兼帯の事実を特記しているのはつまり、千家国造家の考え方として、杵築移住をこの帯許のときに擬していたときがあったのだ、ということなのであろう。

ではあるが厳密にいうと、この天武天皇の白鳳8年という記述はすこぶる怪しい。

そも天武天皇の時代に白鳳という年号は存在しなかったのである。いかにも日本書紀によると、天武天皇の2年に備後から白雉の貢進はあったが、このため改元されたという形跡は全く見えない。

もともと白鳳という年号は孝徳天皇の御世のそれであって、次の斉明天皇の末年に終っていた。

類衆三代格巻二の太政官実に「白鳳ノ年ヨリ淡海ノ天朝マデ」云々とあることから、われわれは、奈良朝の宮人は天智天皇朝以前を白鳳と認めていた、ということを知るのである。

従って『伝統略』が、天武天皇の白鳳八年国造と為り云々といっているからといって、これを古いオリジナルの伝承であるとは到底思えない。

おそらくは、白雉という年号の異称として白鳳という年号があるのだ、ということがわからなくなり、白雉と白鳳とは全く別個の年号であると見られるようになった降れる世の制作である、とこのように理解するのが正しいのであって、『伝統略』の記述をそのままに信ずるというわけではないけれども、ともあれ、わが国造家の伝承として、過去のある時期に杵築移住の年代を推定して、先に記したように考えたことがあったのであろう、とこのように思うのである。

…千家尊祀著「出雲大社」より