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大社の建築
出雲大社はむかしは杵築の大社(おおややしろ)とよばれ、延喜式の神名帳にもこの名で記載されている。しかも「大社(おおやしろ)」とよばれているのは、当社だけなのである。むかしから山といえば富士、花といえば桜を指していたように、大社といえば、人はみなわが出雲大社を想いうかべたのである。
われわれ日本の古い伝承では、アマテラスオオミカミはその第一の御子アメノオシホミミノミコトの御子ニニギノミコトをして、オオクニヌシノカミの奉献したこの国土に降さしめて統治することを命じ、第二の御子のアメノホヒノミコトにはオオクニヌシノカミを祭神とする天日隅宮(あめのひすみのみや)の祭祀をつかさどらしめたという。天日隅宮とは当社の古典でのよび名であり、アメノホヒノミコトは出雲国造即ち大社の宮司家の祖先だとされている。大社の造営にあたっては柱は高く太く、板は広く厚く、千尋の縄で180組に緊縛したというのが古伝であるから、古くから広大豪壮な建築であったと思われる。
ところで『万葉集』には「社」の字をモリともヤシロともよませている。欝蒼と樹の茂ったモリは即ち神の坐します社であった、ということなのである。
山科ノ石田ノ社(もり)ニ手向セパ
ケダシ吾妹ニタダニ逢ハムカモ
神奈備(かむなび)ノ伊波瀬(いはせ)ノ社ノ喚子鳥
イタクナ鳴キソワガ恋マサル
がその例である。
木綿(ゆふ)カケテ斎フコノ神社(もり)超エヌベク
念ホユルカモ恋ノ繁キニ
の場合のように、神社はまたモリとよまれてもいるのである。
ヤシロという言葉をそこで正確に知っておく必要がある。シロという言葉をもった語としてはたとえばシロ(田代)がある。田とすることのできる場所のことである。ナエシロ(苗代)とは苗を育てる場所である。アジロ(網代)は網を張る場所である。ミタマシロ(御魂代)といえば御魂の憑りつく物のことである。とするならば、ヤシロとは屋代であり、臨時に屋根をしつらえて神祭りをする場所のことである、とこのように言うことができる。収穫を感謝する霜月祭りの夜は、祭りに集う人たちの着衣に霜がおり、寒さはひとしお身にしみる。神は人の期待と要請にこたえて祭りの庭に来臨されるのであるが、祭りがすめばまたもとの高天原に戻られる。屋代の屋はそこへ来臨する神に侍するべく相集った人々のために、臨時にしつらえられるのがおそらくは最初の形で、その屋は祭りがすめば撤去されるのであった。奈良県の大神神社や埼玉県の金鑚神社が拝殿だけをもち、神の坐します本殿をもたぬというのは、こうした古いヤシロの姿が今日に伝えられているのである。大神神社では秀麗な山容の三輪山を神奈備即ち神体として、金鑚神社は御室岳を神体として祭祀が今日も執り行われているのである。
スサノオノミコトは高天原から追われて出雲の斐伊川の上流、鳥髪というところに降り、大蛇を退治してイナダヒメとの聖婚ののちは、再び天上に戻るということなく、「吾ガ心清々シ」と申されて、出雲の須賀の地に宮を営まれたという。むかしから祭りのたびに招迎されては高天原から降り、祭りがすんで再び高天原に戻るを例とする神は、やがてわれわれの社会に常在することを要請され、地上に留まるものと考えられるようになるにつれ、神の住居としてミヤ(御屋・宮)が営まれ、これをヤシロとよぶようになってくるのである。国々に散らばる多数の神社はモリでありヤシロであって、ミヤとはよばれない。ところが出雲大社はその起源からして、祭神オオクニヌシノカミの坐しますところ、即ちミヤとして営まれているのである。天日隅宮とか厳神之宮、或は天の下造らしし大神の宮とか、出雲大神宮とか、このようにつねに「宮」と称されていたということは、注意して注意し過ぎるということばない。出雲大社がわが国で最も古い社であり、したがって世の神社とはそのカテゴリーにおいて異にするものがある、ということなのである。
さきにいささか述べるところが有ったように、神話の時代はさて措き、人の代となって始めに出雲大社が登場してくるのは、第11代垂仁天皇の御代のことである。御祭神が天皇に夢のうちに教を垂れて、天皇の悩みとされるところの、天皇の御子ホムチワケが唖であることも、大神の宮を天皇の御殿のように立派に建造すれば、御子の口はきけるようになるであろうということであったので、天皇はその宮殿にまけぬ壮大な社殿を造営したというのである。神話にいう天日隅宮建造の話も、実はこの垂仁天皇のときの話をば、神代に推し及ぼしたものであったのかもしれない。
大社の造営は社伝では、日本書紀の斉明天皇の五年の条に見るところの、出雲国造に命じて厳神之宮を修造せしめたことであるとしている。この記載は大社のことではなくして、意宇部の熊野大社のことであろうと今日ではいわれている。
大社の社伝では、本殿の高さは上古は三十二丈、中古は十六丈、斉明天皇の第二回の造替から今日のように高さ八丈、方六間四面の規模となったという。そしてこの高さが八丈に達しないときは仮殿式とよび、八丈の高さをもつ正殿式の社殿と相対して考えてきている。現在の本殿の造られた延享元年(1744年)まで、25回の造替があり、その後は文化6年(1809年)、明治14年(1881年)、昭和28年(1953年)と3回の修理を加えて今日に至っているが、この間、中世の弘安5年(1282年)から慶長14年(1609年)までおよそ330年の間は仮殿式であった。この意味で仮殿式から正殿式に戻った寛文7年(1667年)の造営というのは、大社史上まさに特記すべき造営であって、このときの松江藩主松平直政公の篤信と熱意あってのことであるが、第68代尊光国造の苦心は察するにあまりがある。尊光国造の遺した国造館日誌とそれに収められた寛文造営の記録は、世の関係学者の注目するところとなっている。
現在の本殿の高さは八丈(24.2メートル)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さである。ところがこの本殿は昔に遡及すればする程高く、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったというのであるから、人は半ばは驚き、半ばは疑うというのが実際である。およそ物ごとは、簡単なものから複雑なものへと推移する。飛鳥朝から奈良朝にかけての寺院の瓦の推移を見てもこの感を深くする。建築にあっても同様で、小さいものから大なるものへと推移し発達を見せるのが例であるべきであるが、大社の古伝はこの逆だというのである。しかしながら、大社本殿の背後に秀麗なただずまいを見せる八雲山が、大和の三輪山のように、かつては大社の神体山であったとすれば、この三十二丈説もあながち、全く根拠のない無稽の話だとはいえないであろう。八雲山は古くは「蛇山」とよばれて幽遠な印象を与えるのみならず、むかしも今もかわることなく禁足地として、たち入ることば許されていない。
しからば十六丈説はいかがであるかというに、これまたあながちに架空の説とはいえないのである。明治41年と翌二年にわたっての、建築史学の伊東忠太博士と神道学国史学の山本信哉博士との間で、大社の高さをめぐつて白熱の論戦がかわされた。伊東博士は建築技術の上から言って、古い昔にそのように高い建造物はあり得ないというのであるが、そのとき山本博士は伊東博士の説に反対して十六丈説の根拠として挙げたのが、平安初期の天禄元年(970年)につくられた『口遊』の解釈である。『口遊(くゆう)』とは当時の社会常識を幼童にも講習しやすいようにまとめたものであるが、その中で「謂(い)フココロハ大屋ヲ誦スルナリ」として、「雲太 和二 京三」と記してあるのである。太・二・三という記しざまは『口遊』のうちの他の用例からして、順位を表わしていると思われる。そしてこの『口遊』には今案ずるにといって「雲」は出雲国城築大明神神殿、「和」は大和国の東大寺大仏殿、「京」は京都の大極殿八省を指すとして注を施しているのであるから、杵築の社の本殿の方が、東大寺の大仏殿よりも高いということをいおうとしているのだということになる。東大寺の大仏殿の高さは十五丈というのであるから、わが出雲大社は社伝の通り十六丈あったとする説は、このようにして無稽な説だとはいえなくなるのである。
平安時代が終り、世は鎌倉時代に入ったばかりの頃、杵築の大社を参拝した寂蓮は、
出雲大社二詣デテ見侍リケレバ、天雲タナビク山ノナカバマデ、カタソギノミエケルナム、此ノ世ノ事トモ覚エザリケル。
といって、
やばらぐる光や空にみちぬらむ 雲にわけ入るちぎのかたそぎ
とその驚きを歌に詠んだのであった。千木の先端が垂直に切りおとされているのを、「ちぎのかたそぎ」と申したのであって、しかも本殿背後の八雲山の、およそ半ばはどの高さであったというのである。八雲山の高さはおよそ三十六丈というのであるから、十六丈という社伝の必ずしも訛伝ではないということの、一つの傍証とも言ってよいであろう。
大社には「金輪造営図(かなわのぞうえいず)」とよぶ、むかしの神殿の図というものを伝えている。本居宣長に従って学んだ千家国造家出身の、梅の舎千家俊信が宣長に示し、宣長がこれを「玉勝間」十三の巻に収めたところから、広く世に知られるようになった古図である。
此図、千家国造ノ家ナルヲ写シ取レリ、心得ヌコトノミ多カレド、皆タヾ本ノマヽ也。今ノ世ノ御殿モ、大カタノ御構へハ、此図ノゴトクナリトゾ。
と宣長は書きつけている。
この金輪造営図の意味するところは、大社の神殿があまりにも巨大であるため、建造に必要な長大にして且つ太い柱材を得ることができぬがまま、3本の柱を鉄の輪で緊縛して、巨大な高楼を支える1本の柱とした、ということを表わすものなのである。江戸時代に建造された現東大寺大仏殿や、今日遣る封建大名の城の天主閣の柱には、こうした手法になる柱が高い屋根を支えている例を見るところから、この金輪造営図は近世になってのものだという批評を聞くこともあるが、建築学の福山敏男博士は、この図様の合理的なことや、用語の古さなどからいって、上代以来鎌倉期の初めまでつづけられた正殿式の神殿の平面図の一つであろう、と申されて十六丈説を積極的に支持され、三十二丈の神殿の復原図を作成し、これを発表されたのであった。
大社はまこと「天下無双の大厦」であった。それだけにまた、平安中期から鎌倉初期まで200余年の間に前後7回も顛倒のことがあったと伝えられている。長元4年(1032年)8月には風もないのに神殿が震動して材木は中より倒れ伏し、ただ乾の隅の1本のみは倒れず、とある。中より倒れ伏したというのはつまり折れたということなのである。隅の1本は倒れずにあったというのは、掘立柱であったがためである。顛倒の事例は康平4年(1061年)、永治元年(1141年)とつづき、神殿が小規模となってからは、こうした不祥のことはなくなっている。
さきにも言及した千家国造家に伝える「出雲大社近郷図」によって大社の神殿を見るに、今日の大社神殿に見るような、周囲の回椽を支える椽束を欠き、回椽は9本の柱から持ち出されて空中に浮かぶという姿をとっている。したがって9本の柱には水平貫を通して固定するという手法を執らぬが故に、横からの風圧に対してはきわぬて脆弱なる構造というべく、顛倒を免れぬ所以である。
伊勢の神宮は20年ごとに正確に造営を繰り返しているが、大社では、遷宮造替の間隔はきまりがなく不規則である。30年から50年を超えたこともあった。これというのも巨大な聳えるばかりの用材は容易には得がたいということもあって、神宮のような式年遷宮は営むことができず、腐朽による倒壊の危険がさしせまったときとか、顛倒によるやむを得ざる事態に直面するまでは、造替はさし控えねばならなかった、ということなのであろう。掘立柱の神宮と違って、大社は慶長14年(1609年)の豊臣秀頼による造営のとき、柱の下に礎石を置くこととした。爾来、大社の遷宮は屋根の葺き替えだけということになっている。
大社の本殿は切妻造の妻入、正面・側面とも柱間が二間、屋内の中央にも「心ノ御柱」とよばれる柱があり、すべて柱は9本、いわゆる田の字型の間どりとなっている。遠き世の住居の構造なのである。正面の柱間が二間で、正面の中央に柱があるのであるから、入口はいきおい片側に寄らざるを得ない。大社では正面向って右の柱間を入口とするので、そのために階段も右に片寄っている。ところで切妻造平入り、柱間が正面は三間、側面は二間、正面中央の柱間に入口を設ける伊勢の神宮にあっては、階段もまた中央にしつらえることができるのと大きく違う点である。神宮は高床の穀物倉の形式を踏むのである。
大社の内部は、中央の心ノ御柱と右の側柱との間に間仕切壁があって、入口の扉を進むとこの間仕切に衝き当るので左に向きをかえ、さらに右に向きをかえて奥に入り、ここで始めて間仕切壁のうしろの御内殿の神座に相対することになる。御内殿の神座は南面せずして西のかた稲佐の浜の方向に向く。したがって正面の参拝者に対して、祭神は横に向いているということになる。まことに不思議な構造であるといえよう。
しからば、どうしてこういう不思議なことになっているのか。これについては、関野貞博士は、古代住宅の様式を大社が忠実に伝えているからであると説明した。即ち入口の扉を入った室が玄関で、その左手が客間、その奥が家族の居間であり、御内殿は主人の居間いろりなのである。古来、囲炉裏を囲んで、どういう座が昔からきめられているかを考えてみればよい。囲炉裏の四周、最上席で主人だけが坐ることのできる横座は、たとえば南の入口から入って右手に炉があるとすれば、横座は必ず西に向いて在るということになるのである。こうした横座にあたる位置に、御神座が設けられていることがわかるであろう。そこでもし炉が、南の入口から入って左手に設けられていたとすれば、横座は東の方向に向くということになるであろう。神魂神社がこの形式をとることば、またよく人の知るところである。大社が神魂神社の様式をとらずに、神座が西面しているというわけは、大社の西方稲佐の浜を通して、遠いむかし、西方九州方面からの文化の流れということを思わねばならないであろう。オオクニヌシノカミが筑前宗像の奥津宮に坐す神、タギリビメノミコトを娶して、御子のアジスキタカヒコネノカミを生んだという古事記の伝承が、ここに想い合わされてくるのである。
大社の境内摂社三社のうち、本殿から西方に坐す筑紫社がとりわけ建築が丁重であり、大社の注連縄(しめなわ)は一般の社の場合と違って、向って左を綯始めとし、向って右が綯終りとなっていること等々は、いずれもわが大社にあっては西の方向を尊重するという、むかしからのしきたりが生きていることを語るものである、と先に述べたのであるが、このことと無関係ではないであろう。
大社本殿の9本の柱については、その長さ・太さをそれぞれ異にしている。中央にある「心ノ御柱」は長りさ六間半、径三尺六寸、正面と背面の中央の柱は「宇豆柱」とよばれて、長さ八間半、径二尺八寸八分、左右両側にある6本の側柱は長さ六間半に径二尺四寸、ということになっている。このように太さや長さが一様でないのは、柱の位置による構造上の役割や精神的意義を別にするがためなのである。位置による構造上の役割は、大社の平面図や本殿の写真により、これを理解するに困難はないが、ここにいう精神的な意義とは、しからば何であるか。
「心ノ御柱」に次いで太い正面ならびに背面の「宇豆柱」は、その柱の中心は側面隅の柱の中心を結ぶ線より外側に持ち出され、その頭部は棟木の下に達している。こうして宇豆柱の中心が隅柱の中心を結ぶ線より大きくずれて、梁で載られることなく、実直ぐに棟木を支えているが故に、大社本殿の姿そのものが豪壮無比の観を人に与えずにはいないのである。こうした中心のずれは、神魂神社本殿は大社よりも著しいものがある。ところが大社に伝える金輪造営図では、このずれは神魂神社のそれよりもまだ大きく、柱の中心からほぼ五分の四近くが外に持ち出されている。そこでこの宇豆柱は、伊勢の神宮の棟持柱と同じ役割を有って棟を支えていたのであって、当初にあってはおそらくは、現に神宮に見るように、建物から離れて独立に立っていたものと推定されるのである。大社の建築が、古式にできるかぎり忠実であろうとしている、一つの証拠になるといってよい。このことは逆にいうと、金輪造営図が、決して新しい時代の制作にかかるものではない、ということになるのである。現在の大社は、拝殿は本殿に正対せず、心ノ御柱と宇豆柱とを結ぶ線よりも若干東にずれて位置している。これというのも参拝者が拝殿から北方に視線をむけて、宇豆柱を通して祭神を拝するという形をとっているのであって、宇豆柱がいわば祭神の象徴というように考えられているのである。
ところで金輪造営図にあっては、心ノ御柱は「岩根御柱」と記され、棟持柱にあたる宇豆柱についてはその名の記入を欠く。慶長造営のときの平面を写したという『匠明』の大社の図には、岩根御柱について「ウズノ柱」という記入がある。このことばわが大社にあっては、中心の柱にだけもともと固有の名が与えられていたのであったが、ある時期になって神宮の「心ノ御柱」の名に倣って中心の柱を「心ノ御柱」とよぶこととし、祭神に対する崇敬の念と、眼を見張るばかりに豪壮雄偉なる棟持柱に対する異敬の念とがからみ合い、ここに「宇豆柱」という名が、生まれるようになってきたのであると思われる。
杵築と気多
金輪造営図には正面階段にあたるところを図示して、「引橋長サー町」という記入がある。意味するところまことに深い。
大社の位置は背には八雲山、左右に鶴山と亀山をひかえ、前面は平坦な砂地、地下水は質がよろしくないので、御手洗の水は八雲山から引いているのである。社伝によると今の本殿の位置はむかしはもっと前方で、ただ今の拝殿のあたりであったという。戦後拝殿を新築するとき、地下を掘り下げたところ掘立柱が出土し、その下方はもとは海であったことが証明された。
おそらくは、今の島根半島が島であったころ、本土との間の海峡…西村英次博士は、いみじくも素箋鳴海峡と名づけた…を通過する船は、日の御碕から杵築の海に入り美保へとぬけたことであろう。その内海の入口に鎮座する大社に一町の引橋が架けられてあったというのは、稲佐の浜から一町はども長い桟橋ができていた、ということなのであろう。福山敏男博士は、高さ32丈の大社神殿の復元を考えられたが、これを桟橋と考えることもまた可能なのではあるまいか。
島根半島が陸続きではなかった遠いむかしの素箋鳴海峡、この海峡の入口を通過する船を見守る位置にあるのが、杵築の大社であるとするならば、この杵築と地理的景観が酷似するのが能登の気多である。能登半島と本土とを結ぶ邑知潟の地溝帯は、そのむかし日本海と七尾湾とを結ぶ海峡であった。この海峡の入口に鎮座するのが能登の一ノ宮気多神社である。祭神は大社とひとしくオオクニヌシノカミである。第10代崇神天皇の御代の創祀という社伝はともかく、遠いそのむかし、日本海流に乗って越路方面にまで発展した出雲の人々が、郷土と同じような景観の地を見い出して、ここにオオクニヌシノカミを祀ったということも、肯けることである。ヤッカミズオミツヌノミコトの国引きの詞章にも、出雲の美保の埼は、高志の都々の三崎から引いてきたものであるといっている。能登半島の珠洲岬のことである。
神明造と大社造
大社に対比される神社建築は、伊勢の神宮の様式すなわち神明造である。
大社造は、神の住居がそのまま神殿となったのであるが、神明造は、当初から御神体である神鏡を奉安するという目的からできたものであるから、大社造とはおのずとその目的を異にしている。その構造は倉であるが故に、床は高くして出水にそなえ、通風もよい。内部には間仕切も天井もない。入口は正面に一つ重厚なる扉を有ち、柱は正殿を始め付属の社殿や門垣に至るまで、礎石の上に据えず、すべてその根もとを地中に掘立てている。しかしながら、掘立柱は原始時代の竪穴住居の特色だからと言うので、古い時代の形式をそのまま伝えているのだと思うのはやや早計に失する。奈良時代の平城宮も掘立柱なのであり、一般庶民の住居にあってはさらに時代が下っても、掘立柱のままであったのである。
神宮正殿の高欄の上につけられた、黄・赤・黒・白・青と五色の居玉の色彩は、まこと荘厳華麗であり高貴性を感ぜしめずにはおかない。この宝珠は唐朝建築の影響だといわれ、またその通りであろうが、こういう事実は掘立柱の下限という問題とも併せて、神宮の建築様式は一般に言われているように古代そのままの姿を今日に伝えている、とは一概に言いきることのできないものを覚えるのである。様式としては、大社造が最古の神社建築なのである。
大社では、妻側の中央の柱を宇豆柱といい、高い棟を支える棟持柱の役を担っていたが、神宮では両妻に棟を直下に支える棟持柱が他の柱よりも太く、建物の壁から少しく離れて独立して立ち、棟木をうける先端は建物の側にわずかながら傾斜して、神宮正殿をして一段と荘厳ならしめている。香川県出土銅鐸の高床建物にもこの棟持柱は見ることができるので、1〜2世紀の建造物の手法をうけるものだという説があるが、しかしこの神明造の棟持柱は、力学的に言ってそれほどの機能を有つものではない、と言われている。ところが、高床式の倉が校倉造であったとすると、校倉造では、葺の張り出した部分の荷重は壁に直接かかるが故に、別に棟を支える手段として棟持柱が必要になる。したがって、神宮正殿の建てかたは、校倉造の遣制ということになるわけである。
以上のような次第で、神宮正殿は、古制が純正に保たれていることばこれを認めねばならぬとしても、それも式年遷宮制度の創められたという天武天皇の御代までは遡って考えられるが、これをさらに遡らせての遠い昔の遣制を忠実に伝えていると言うのは、危険にすぎると思うのである。神社建築としては、わが出雲大社の方が古い形式を踏襲している、と私は思っている。
神社建築といえば、直ちに人は神明造を思いうかべる。家庭内の神棚もまた、神明造様式のものが最も多い、しかしながら、神明造は江戸時代までに全国に四社あるのみであって、明治の時代を迎えて、神明造は全国的に行きわたるようになったのである。このために古来からの社殿も、時代の流行に幻惑せられ、神宮の形式に追随して改築されたものが少なくはなかったことは、今から思えば遺憾なことであったと言ってよい。
大社造の発展
上代にあっては神の社は、即ち住居から発展したのであって、天地根元造を一歩進めた原始家屋の形式で、出雲大社本殿がまさにその適例であった。
この、住居建築の妻入のまま改善の工夫をこらしたのが、大鳥造の本殿形式である。大阪府堺市鎮座の大鳥神社は切妻造妻入、周囲には椽も勾欄も欠くきわめて素朴な印象を与える。本殿内部は中央の柱がなく、内陣と外陣とを仕切り、入口は中央にとる、言わば大社造の延長において考えることのできる様式をもつ。そしてこの内陣と外陣とを前後に一間ずつ拡張し、大鳥造の方形の平面を長方形にひきのばしたのが、住吉造である。
こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造は、神鏡を収蔵する倉の形式を踏むものとして、住居から展開を見せた大社造以下、大鳥造や住吉造とくらべ、性格を異にする神社形式であることが、理解されるであろう。
そして起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて、春日造や八幡造、さらには権現造等々となって行くのである。
…千家尊祀著「出雲大社」より
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