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門神社(みかどのやしろ)
本社の瑞垣内、御本殿の前面に東西に相対して鎮座です。東の社には宇治神(うじのかみ)。西の社には久多美神(くたみのかみ)が祀られています。本殿の門番の役として、中に災禍・穢れが入らぬように守られる神です。今の御社殿は延享元年(1744)10月の御造替です。
文庫(ぶんこ)
天日隅宮文庫と呼ばれ、寛文の造営時(1664年)、神道及び和漢の書籍を収蔵したことに始まり、明治7年には一般にも閲覧を許して、近代的な図書館活動の先駆をなした建物です。もとは、今の彰古館の場所にあったものです。現在は、吉兆幡などの収蔵庫として使われています。
彰古館(しゅうこかん)
大正3年(1914年)の建造で、宝物殿ができる前は、文庫の古文書や宝物を収蔵展示していました。
今は、一階にはだいこく・えびす像が展示され、二階には出雲大社の信仰に関する資料が展示されています。
青銅の神馬・神牛
銅鳥居と庁舎のちょうど中間に銅製の神馬と神牛が祀ってあります。わたしたちは銅製の神馬のことを「かねおまさん」と呼び、子宝を授かる安産の神様として知られています。
これは、寛文7年(1667年)、防長二州(山口県)の藩主毛利綱廣公が奉納されたものです。馬は神霊を招く尊い動物であるといわれています。綱廣公の命を受けて神馬の製作にあたったのは、京都の名越弥七郎という名人です。弥七郎が神馬を製作するにあたっての出来事をお話しましょう。
神馬の製作依頼を受けたとき、弥七郎の妻のお腹には赤ちゃんが宿っており、大変困りました。それは当時、出産は汚らわしいこととされていたからです。尊い神馬を製作するにあたっては、清らかな身であらねばなりません。「この神馬が完成するまでは出産を延ばしてください」と日夜大国主大神に祈願しました。そして、神馬が完成した直後、通常子供を宿してから10ヶ月で出産ですが、13ヶ月目で元気な男児が生まれたのです。母乳もたくさんあったのですくすくと育ちました。現在も名越家は続いているそうです。
青銅の神馬はこのように、弥七郎の誠の心が届いて出雲大社境内へ奉納されました。出雲大社へ参拝したひとたちは、子宝を授かる安産の神馬として、その鼻の辺りを撫でながら祈願されます。こうして、二百年以上にわたる人々の信仰のため、神馬の鼻は神々しいまでに光を放ち輝いています。最近は特に、進学、結婚、就職等の願いを絵馬に託して、神馬の小屋につるされる姿もたくさん見られます。
宝物殿
ここで出雲大社の境内を一周したわけですが、今度は宝物館に入ってみましょう。この宝物殿は現代建築の鉄筋コンクリート製で、外観は出雲地方の農家のわら屋根をモチーフにデザインしたものです。ちょうど、拝殿に向かって左手(西側)には出雲地方の田圃の稲架をデザインした庁舎がみえますが、共に設計は菊竹清訓氏によるものです。一階は祈祷などの受け付け、二階が宝物館になっています。
宝物館の中には、刀剣や装飾品に混じって、国宝に指定されている「秋野鹿蒔絵手箱」のレプリカが展示されています。この手箱は、貝殻の埋め込みや金銀の研ぎ出し、蒔絵が措かれた化粧道具入れです(1175年製作)。そのほかには…
■慶長14年(1609年)の造営図
■命主社(出雲大社東方200m、出雲大社摂社)後方から出土した「クリス型銅戈」と「勾玉」
■金輪之造営図
■高知県の山中から病気平癒の御礼にと寛永通宝15枚を入れて流し、稲佐の浜に着いたと伝えられる願開船。などなど……。どうぞご覧ください。
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