出雲大社トップ
出雲大社歴史
神々の国ご案内
国譲(神楽)
大国主大神
出雲大社本殿
出雲大社摂末社
出雲大社宝物
大社の祭と行事

出雲大社遷宮
出雲大社結婚式

北島国造館結婚式
奇しき御柱の顕現
出雲大社参拝観光
出雲大社宿泊
出雲市観光

筑紫社(つくしのやしろ)

本社の瑞垣内、御本殿の西側に南面して鎮座で「延喜式内社」です。御祭神は多紀理比売命(たぎりひめのみこと)です。この神は天照大神と素箋鳴尊とが天安河(あまのやすかわ)を中にしてご誓約なされた時にお生まれになった三女神のうち第一の女神であり、大国主命の御妻となられて味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と下照比売命(したてるひめのみこと)をお生みになりました。福岡県の宗像大社に祀られている神であることから、筑紫社といわれています。この社の造り(他の社に比べ最も丁寧に造られている)といい、御神体の西座といい、古い時代の北九州と出雲の関係を知るうえで大切な社です。今の御社殿は延享元年(1744)10月の御造替です。

御向社(むかいのやしろ)

本社の瑞垣内、御本殿の東側に南面して鎮座です。「出雲国風土記」にも「御向社」の御社名がみえ、また「延喜式内社」です。御祭神は大国主神の嫡后である多紀理比売命(たぎりひめのみこと)です。古事記では、須勢理毘売命が父の須佐之男命に大国主神を紹介したところ、須佐之男命は大国主神を蛇室に寝かせたり、百足と蜂の部屋に寝かせたりして大国主神を試しました。しかし、その度ごとに須勢理毘売命は機転をきかせて大国主神を助けました。また、大国主神の国造りを助けられた神でもあります。今の御社殿は延享元年(1744)10月の御造替です

天前社(あまのさきやしろ)

本社の瑞垣内、御向社の東側に並び南面して鎮座で、「延喜式内社」です。御祭神は蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)と蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)です。大国主命はお若い頃、兄神である八十神(やそがみ)たちからさまざまないじめを受けていました。特に、八神比売(やかみひめ)をたずねる途中の手間山(伯者と出雲の国境)で、真っ赤に焼けた大岩を落とされた時は、生死の境を越えるものでした。この時、天神の命により天降られて大国主神の治療と看護に尽くされた二人の女神が、蚶貝比売と蛤貝比売です。
その古代の治療法は、蚶貝比売が赤貝の殻を焼いてこれを砕いて粉をつくり、蛤貝比売が蛤の汁でといて身体に塗り付けました。すると、大火傷をしていた大国主神は息を吹き返され、歩かれるようになったということです。今の御社殿は延享元年(1744)10月の御造替です。

素鵞社(そがのやしろ)

本社の荒垣内、御本殿の後、北の八雲山の麓に南面して鎮座で、御祭神は素箋鳴尊(すさのうのみこと)です。尊はイザナギノミコトの三貴子(天照大神、月読尊、素箋鳴尊)の中の一柱であられ、天照大神の弟神にあたられます。やがて出雲国に天降され、肥河上において八岐大蛇を退治されて人々をお助けになり、次いで奇稲田姫を御妻として大国主命をお生みになられました。その後大神に国づくりの大任をお授けになったことは、人々によく知られるところです。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。

釜社(かまのやしろ)

本社の荒垣内、御本殿の東方に西面して鎮座で。御祭神は宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)です。この神様は、須佐之男命の孫にあたる神様で、食物を守る神様です。このあたり一帯の北山山地を宇迦山とも呼びますし、「宇迦」とは穀物を意味する古語といわれております。食べ物を粗末にしていませんか。物があふれる今日と違い、古代人にとっては食べ物は人間の生命に直結する大切なものでした。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。

氏社(うじのやしろ)

本社の荒垣内、御本殿の西方に東面して鎮座する南北に並んだ二社です。北側の御社には天穂日命(あまほひのみこと)が祀られています。天穂日命は大国主神に国を譲るように朝廷から差し向けられた使者でしたが、大国主神に私淑(手本として慕い、尊敬し学ぶこと)してしまった神です。南側の御社には国造出雲臣宮向宿祢命(いずものおおみやむきのすくねのみこと)が祀られています。この国造は天穂日命の17世の神裔(孫)で、この時はじめて「出雲臣」の姓を賜ったといわれています。今の御社殿はいずれも延享5年(1748)5月の御造替です。

十九社(じゅうくしゃ)

本社の荒垣内、御本殿の東西に相対して鎮座で、それぞれ十九の扉がついています。出雲大社神在祭の期間、全国の神々がお泊りになる社です。旧暦10月10日の夕刻、出雲大社西方の稲佐の浜で全国の神々をお迎えして(神迎祭)から翌日11日から17日までの1週間(神在祭)は、この社の全ての扉が開かれ、おまつりがおこなわれます。今の御社殿は延享5年(1748)2月の御造替です。

門神社(みかどのやしろ)

本社の瑞垣内、御本殿の前面に東西に相対して鎮座です。東の社には宇治神(うじのかみ)。西の社には久多美神(くたみのかみ)が祀られています。本殿の門番の役として、中に災禍・穢れが入らぬように守られる神です。今の御社殿は延享元年(1744)10月の御造替です。

文庫(ぶんこ)

天日隅宮文庫と呼ばれ、寛文の造営時(1664年)、神道及び和漢の書籍を収蔵したことに始まり、明治7年には一般にも閲覧を許して、近代的な図書館活動の先駆をなした建物です。もとは、今の彰古館の場所にあったものです。現在は、吉兆幡などの収蔵庫として使われています。

彰古館(しゅうこかん)

大正3年(1914年)の建造で、宝物殿ができる前は、文庫の古文書や宝物を収蔵展示していました。
今は、一階にはだいこく・えびす像が展示され、二階には出雲大社の信仰に関する資料が展示されています。 

青銅の神馬・神牛

銅鳥居と庁舎のちょうど中間に銅製の神馬と神牛が祀ってあります。わたしたちは銅製の神馬のことを「かねおまさん」と呼び、子宝を授かる安産の神様として知られています。
これは、寛文7年(1667年)、防長二州(山口県)の藩主毛利綱廣公が奉納されたものです。馬は神霊を招く尊い動物であるといわれています。綱廣公の命を受けて神馬の製作にあたったのは、京都の名越弥七郎という名人です。弥七郎が神馬を製作するにあたっての出来事をお話しましょう。
神馬の製作依頼を受けたとき、弥七郎の妻のお腹には赤ちゃんが宿っており、大変困りました。それは当時、出産は汚らわしいこととされていたからです。尊い神馬を製作するにあたっては、清らかな身であらねばなりません。「この神馬が完成するまでは出産を延ばしてください」と日夜大国主大神に祈願しました。そして、神馬が完成した直後、通常子供を宿してから10ヶ月で出産ですが、13ヶ月目で元気な男児が生まれたのです。母乳もたくさんあったのですくすくと育ちました。現在も名越家は続いているそうです。
青銅の神馬はこのように、弥七郎の誠の心が届いて出雲大社境内へ奉納されました。出雲大社へ参拝したひとたちは、子宝を授かる安産の神馬として、その鼻の辺りを撫でながら祈願されます。こうして、二百年以上にわたる人々の信仰のため、神馬の鼻は神々しいまでに光を放ち輝いています。最近は特に、進学、結婚、就職等の願いを絵馬に託して、神馬の小屋につるされる姿もたくさん見られます。

宝物殿

ここで出雲大社の境内を一周したわけですが、今度は宝物館に入ってみましょう。この宝物殿は現代建築の鉄筋コンクリート製で、外観は出雲地方の農家のわら屋根をモチーフにデザインしたものです。ちょうど、拝殿に向かって左手(西側)には出雲地方の田圃の稲架をデザインした庁舎がみえますが、共に設計は菊竹清訓氏によるものです。一階は祈祷などの受け付け、二階が宝物館になっています。
宝物館の中には、刀剣や装飾品に混じって、国宝に指定されている「秋野鹿蒔絵手箱」のレプリカが展示されています。この手箱は、貝殻の埋め込みや金銀の研ぎ出し、蒔絵が措かれた化粧道具入れです(1175年製作)。そのほかには…
■慶長14年(1609年)の造営図
■命主社(出雲大社東方200m、出雲大社摂社)後方から出土した「クリス型銅戈」と「勾玉」
■金輪之造営図
■高知県の山中から病気平癒の御礼にと寛永通宝15枚を入れて流し、稲佐の浜に着いたと伝えられる願開船。などなど……。
どうぞご覧ください。