| 出雲の神といえば、一般的にはすぐに、縁結びの神と慕い、福の神と貴び、ダイコクサマという愛称で呼ぶのであるが、原初にはオオナムチノカミと讃えていたオオクニヌシノカミのことである。
神は神としての神がらを錬磨して、なお一段とその神格を高め、その神名にふさわしい神となるようにつとめ、生きとし生けるもののために、貴い霊威を与えておられるのであって、オオナムチノカミは斯様にして愛の神となり、オオナムチノカミと仰がれているのである。
オオナムチノカミほど多くの苦難を克服された神はない。
人生は七転び八起きと言うけれども、この神の御一生は、それに似た受難の連続であったが、常に和議・誠意・愛情・反省によって、神がらを切磋修錬され、その難儀からよみがえられたのである。
あの神像に見られる福々しい笑顔は、こうした修行によって得られたところのものなのである。
神像に「笑」をあらわしたものが他にあるかを知らないが、ダイコクサマにはそれがあらわされている。
心に動揺があれば、顔にいろいろな表情があらわれてくる。
たとえば、心も健康でない時には笑顔はなかなかにあらわれないのだし、和を忘れて人に接する時には、特に笑顔が見られる筈もない。
日常を春風にも似た和やかな顔ですごせるということは、その人が修錬によって養った人がら、即ち人徳のあらわれである。
笑顔ほど、修養を積まねばあらわすことの出来ないものはなく、笑顔ほど貴いものはないと思われるのである。
この神が、譲りに譲ることをもってその神がらを錬磨されたのであるが、そのなかで、最も大きな譲りはといえば、所謂国土奉還であろう。
譲るということは自己の欲に打克つことにほかならないのであるから、まことに難行苦行といってよい。
そうであるからこそ"誠意"があらわされるのであって、オオクニヌシノカミが今日も天下無双の大厦と称される出雲大社に鎮まられ、国中第一の霊神として厚い祭祀をうけておられる所以は、実にこの譲りの精神によるということを悟らねばならぬのである。
人それぞれに我執があって、自己のものを他に譲るということは、言うは易くして行うに難きことであるが、この譲るということは、他をして立たしめるのみならず、やがては自らもまた立ち栄える所以ともなるのである。
こうした人生の妙理をダイコクサマは身を以て教えられているのである。
オオクニヌシノカミがスクナヒコナノカミにむかって、「われわれが造れる国は美しく完成しているだろうか」と問いかけられたことがあった。
そのときスクナヒコナノカミは「美事に完成したところもあるが、またそうでないところもある」と答えられている。
この会話からしてこの神が自らの使命を自覚し、その期待に応えようとして研鎖修養を尽くされていることの一端が知れるのである。
こうした瞬時も怠ることなき反省によって、真の「神に成る」ことに努力をされたのがオオクニヌシノカミなのである。
「成る」ということは完成を意味する。
われわれの立場にあって考えてみるならば、会社に勤務しているだけでは真に会社員に「成った」と言い得ないし、神職がその資格を得て奉職したとしても、神職に必ずしも「成った」ことにはならぬ。
そこには自覚と反省とが伴わねばならぬ。
結婚式を挙げたばかりの夫婦が、それだけで夫と「成り」、妻と「成った」とも申されぬのであって、
それぞれがそれぞれの使命を自覚し、使命に対して不断の反省を尽くして修錬をかさねるところに、それぞれにふさわしい人がらが「成る」ことを教えられているのである。
人間が生きるということは、こうした自覚と反省の持続がなければならず、それが持続される時には、その人の人がらが完成するのであり、多くの人々から慕われる人間として栄える道を歩むことになるのである。
「成れるところあり」と同時に他方、「成らざるところあり」ということは、人間の一生にあっては常に存在する道理であり、それが故に、われわれは「成らざるところ」を「成る」ように、修理固成(つくりかためな)さなければならぬのである。
そしてそれによって真に意義ある人間の一生が、積極的に展開していくものであるということを、オオクニヌシノカミは教えられているのである。
人間が人間として生きることの意義を、誰にもわかるように、身を以て示されているのである。
オオクニヌシノカミは、生きとし生けるものに生きる力を与える「母なる大地」的な神であるところから、「縁結びの神」と讃えられているのである。
大地は人間の生きていくうえに、欠くことの出来ない限りない生命を生み出し育むのであり、その意味で大地は「母なる大地」と呼ぶのにふさわしいのであるが、この大地が秘めている生成の力を、むかしから「ムスビ」という言葉であらわし、「産霊」という文字をこれにあてている。
人間の生命も勿論、このムスビによって生まれ、そして育っていくという生命観を、日本人は独特な信仰として持っている。
ムスビとは生成の意であり、ムスビのヒは、神秘なはたらき即ち霊威を意味する言葉である。
いのちあるものを積極的に生成せしめるはたらきの根源に、この「ムスビ」の霊威を見ることができるとするのである。
そしてこの神がこうしたムスビの霊威をあらわされるが故に、生きとし生けるものが栄える"えにし"を結んでいただけるのである。
そこでこの神を仰いで「縁結びの神」と慕ってきたのである。
この神をウツシクニタマノカミとかオオクニタマノカミ、更にはオオモノヌシノカミと申すのも、国土創成にあたって、こうしたムスビの霊威をあらわされたことによるものであるが、
特に顕世に対する幽世を主宰される神として、「カクリヨシロシメスカミ」と畏敬するわけは、むかしから幽世事をカミゴトと訓んできたごとく、神のはたらきの根源であるムスビのはたらきを、人のいのちの生死を一貫して見そなわす神と仰いできたからなのである。
先祖代々の伝来とか子々孫々ということは、日本人の独特の感情から発する言葉であるが、
生み生かされている人のいのちの、正しい継承と永遠性を念願する心に応えていただける神と慕うのも、矢張り、この神を措いては他に求むペくもなく、
生みの子の八十続きに至るまで、顕幽一如、顕幽一貫の幸栄を、この神のムスビの霊威にわれわれは寄りすがるのである。
オオクニヌシノカミは辛苦の道を厭われぬだけでなく、かえって、そこにあらわれる難難や迫害、危難や試練に堪え、神としての神がらを切磋されて「ムスビの神」と成られたのである。
その愛は広く天下国家のためにみちびかれるのみではなく、厚く人ひとりひとりのうえにもうるおうのである。
我執の多い凡夫のわれわれのうえに、この神の歩まれた道を考えるならば、
人間は修錬によって本質を錬磨して、あらゆる苦難を克服する体験を積み重ねなければ、人に慕われるような人格を養うことは出来ない、ということを教えられているのである。
生み生かされた人生を、たくさんの人びとと心と心とを互に睦び合いながら、幸福にすごさせていただくために、
オオクニヌシノカミが身を以て示された道を、神習う道として、笑顔をもって明るく、強く歩みつづけさせていただきたいものである。
…千家尊祀著「出雲大社」より
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