| 千家国造家に蔵する寛文元年の日記で三月会のことを見るに、御本殿内の国造の座は、御内殿すなわち御神体の鎮まります小円殿と、その大前にある神饌を供する大懸盤との間に、小内殿を背にして設けられることとなっている。
つまり祭の時に神饌は国造に対して供えられるのであり、国造に故あるときは神前に供えるのが例であったのである。
このことば何を意味するのか。
国造は祭神の憑りましであり、憑りましであるが故に、国造は祭神として在るということなのである。
こういうところから出雲国造は御杖代とよばれてきたのである。
この御杖代というときの杖を、われわれが日常歩行のたすけとするところの杖と解しては、真義から遠いといわねばならぬ。
およそ神の降臨出現をねがうとき、神を招き迎える聖具として、榊に鏡・剣・玉を結びつけるのであった。
天の岩屋にこもられたアマテラスオオミカミを、再びお迎えするために、古事記によると、
「天香具山ノ五百津ノ真賢木ヲ根掘ジニコジテ、上枝ニハ八尺ノ勾玉ヲ、中ツ枝ニハ八タノ鏡ヲ取り繋ケ、下枝ニハ白和幣、青和幣ヲ取り垂デテ」
云々とあり、天孫の降臨するときにあたっては漁に鏡・剣を三種の神器としてもたしめられたとある。
景行天皇が西国に臨幸されたときには、土地の豪族が天皇を迎えるのに賢木を根掘じにして、上枝には八握剣をとりかけ、中枝には鏡、下枝には瓊をつけて出迎えたという。
これは天皇を現人神として見たてていることなのである。
榊そのものが神の憑りしろであり、鏡・剣・玉はまた神霊を招迎するがための聖具なのである。
そこで神祭には榊を神籬として、これに鏡・剣・玉をとり繋けて、憑りつく神霊を招祷するのである。
現行の神社祭式でも、祭礼には二本の榊を社頭神前に立て、向って右の榊の上枝に玉を、中枝には鏡を、そして左の榊には剣をとり繋けるのを例とするのである。
これを単なる神前の修飾と見るのは、祭儀の実相を謬るものなのである。
国造家の家紋とするところの剣花菱は、剣と鏡・玉の三種の招ぎしろをあらわしている。
そして国造は祭神オオクニヌシノカミの憑りたまうところの榊であり、神籬なのである。
この剣花菱の家紋をつける国造は、いつでも祭神の憑りたまうものとして、別火の潔斎を日々厳重にかさねているわけなのである。
国造のための別火、それは国造襲職にあたり、熊野大社の神から授かった火切臼と火切杵とから鑚り出した聖火であり、
この聖火は国造の一生を通じて、国造館の鑚火殿に大切に管理し、これを絶やすということばない。
この聖火はこうして国造の代替わりごとに熊野の神から授けられるのは、国造の生命は永遠にして不滅だということを、象徴するものにほかならないのである。
剣花菱の家紋は肥前の龍造寺氏が用いていた。
龍造寺氏は藤原秀郷の流れを汲む。出雲国造家とは何の関係もない。
また花菱紋は甲斐の武田氏の家紋であるが、武田氏はよく人の知る通り清和源氏の義光流である。
アメノホヒノミコトの後商たる出雲国造家とは流れを異にする。
この国造家の家紋たる、亀甲を以て剣花菱をつつむ形はつまり、国造には祭神イズモノオオカミがつねに憑りついていて、祭神と国造とがいつも一体として在るのだということを、象徴的にあらわしている図案なのである。
この意味に於て、亀甲剣花菱の家紋を着用できるのは、本義的には出雲国造だけに限られている、と申してよろしいかと思うのである。
国造家の紋章はこうした意味において、出雲の伝統を理解するのに、欠かすことができない、重要なファクターにほかならないのである。 ↑目次に戻る
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