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出雲大社の神事と年中行事

 
   
神在祭「神迎神事」は陰暦10月10日、稲佐の浜にて執り行われる。
  
 
神事が執り行なわれる稲佐の浜には、四本の笹竹を建て、注連(しめ)縄が張られた斎場の前には、篝火(かがりび)が焚かれる。
 
  
午後7時、それまで海側から吹いていた風が急に向きを変えた。祭事の場を覆っていた煙と火の粉が海側へと向きを変える。太鼓の音とともに辺りは緊張の空気に包まれる。祝詞(のりと)が上げられ、粛々と御祭りが始まる。居並ぶ神職の先には「龍蛇(りゅうじゃ)様」と「ひもろぎ」が鎮座している。「龍蛇様」は海から上陸される八百万の神の先導役。「龍蛇様」は海から上陸される八百万の神の先導役。神々は、2本の「ひもろぎ」に宿る。
   
  
およそ30分。浜での神事は終わり、いよいよ出雲大社へのご案内が始まる。ふたつの提灯が先頭になり、「龍蛇様」と2本の「ひもろぎ」はそれぞれ白い布垣で覆われる。
  
  
笛と太鼓を鳴らしながら、神々の滞在地でもある出雲大社へ向かい、ゆっくりと神々の導きが始まる。
  
  
『神迎の神事』が行なわれる神楽殿前にも多くの人が集まっている。行列が出雲大社境内に入り、静かに見守る拝殿と本殿の脇を通る頃、神楽殿の明かりは一気に消え、「ウォー」という神職の合図をきっかけに笛と太鼓で神々を迎える。「龍蛇様」と「ひもろぎ」が神棚に鎮座され、静かにお祭りが執り行なわれる。神事はおよそ20分。本殿の東西に、19の社が連なる十九社。ここは神々の宿舎とされている。神楽殿での神事が終わり、ふたつの「ひもろぎ」はそれぞれの十九社へと納められる。その後、神楽殿前では御神餅(ごしんぺい)が配られ、御神酒(おみき)をいただく。神迎の夜が静かに更けていく。

…いずもる「神迎神事」より

 
出雲大社の神事と年中行事
 
出雲大社では年間72回の祭祀が執り行われる。

この72度の祭りの中には、5月14日より16日までの大祭礼のように、勅使も下向し、社頭殷賑をきわめる祭りもあれば、国造の祭りである11月23日の古伝新嘗祭は、祭り自体が古い伝統と歴史とを背負うものとして、内外の研究者の注目の的となっているものもあり、或はまた12月27日の御饌井祭は、11月17日の御饌井祭とともに、大社の御饌を炊ぐ用水の祭りであって、大社創剏とともに始められた古い祭りであると思われるにかかわらず、ひっそりと執り行われるこの祭りを参拝者でそれと気づくものもきわめて少く、たまに立ちとどまって見ている者も、祠官のうち鳴らす琴板や国造の百番の舞を、不思議そうにながめているだけ、という祭りもあるのである。

大社は、それこそ長い歴史をもっている。それだけに数々の祭儀も変遷を免れず、今日では廃絶したものもなしとはしない。

たとえば三月会がある。三月会は山陰無双の節会、国中第一之神事だといわれていたもので、祭りの日は3月1日より3日まで、規模の大きいことば千石千貫の祭りと世によばれていたことでも知ることができる。

鰐淵寺に蔵する「杵築大社御遷宮次第」には、文武天皇の大長7年にこの祭りは始まったとあるが、この大長という年号が見えるのは中世以降の史料だけ、つまり偽年号なのである。

文武天皇の御代にかかる年号が存したという事実はない。

だから要するに、この三月会の起源は古いのだということ以上に、これを確めることはできないのである。

中世は頭役を国中の地頭に巡役せしめて、祭儀執行の経費を負担させて、盛大に執り行ってきたのであるが、世は戦国に入るとようやくその相続は困難となり、廃絶を免れなかった。

出雲を領有した尼子晴久はその再興をはかったものの、むかしの盛儀に復することができず、近世は毎年50石を以てこれに充てて明治の御世を迎えた。

そして4年の神社制度の改正により、長い歴史と伝統をもつこの三月会は廃され、代って明治5年5月14日官幣大社列格とともに、この日が勅使下向の例祭日と定められ、3月1日は古伝祭を執り行って、むかしの三月会の古儀をしのぶこととなっている。

大社の年中行事の主要なものを、以下暦日を追って挙げてみると、おおかた次の通りである。

  
出雲大社祭事表(目次)
 1月  1日 大御饌祭(寝籠神事)天神祭 命主社総参向 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭 伊奈西波岐社造拝 御飯供祭
 2日 大御饌撤饌
 3日 上官総参向(振鈴神事)三歳社祭(福迎神事) 大歳社祭
 5日 説教始祭
 13日 因佐社祭 下宮祭
 15日 御粥祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 18日 乙見社祭 阿式社造拝
 28日 素鷲社祭
 旧1月1日 福神祭(子刻参籠)
 旧1月28日 福杓子祭
 2月  1日 月始祭
 節分 節分祭(豆撒神事)
 11日 橿原神宮造拝
 15日 湊社祭
 17日 祈穀祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 3月  1日 月始祭
 春分 祖霊社祭
 28日 宇治門神社祭 久多美門神社祭 北民社祭 南民社祭 東十九社祭 西十九社祭
 4月  1日 月始祭 教祖祭
 3日 杵都築森祭
 15日 春祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 16日 春祭
 29日 天長節祭
 5月  1日 月始祭
 10日 遷宮記念祭
 13日 因佐社祭 例祭前夜祭
 14日 的射祭 例祭(勅祭) 天神祭 饗宴式 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭 上宮祭
 15日 二之祭 天神祭 御田植神事(尻振舞)御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 16日 三之祭 天神祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社
 18日 御神楽祭
 6月  1日 月始祭 涼殿祭(真菰神事) 乙見社祭 出雲井社祭
 30日 大祓式 祓社祭
 7月  1日 月始祭
 8月  1日 月始祭 天神祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 5日 御神楽祭
 6日 教会記念祭
 14日 神事祭(身逃神事)
 15日 爪剥祭 天神祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 9月  1日 月始祭
 13日 困佐社祭 下宮祭 大歳社祭
 15日 秋祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 秋分 祖霊社祭
 29日 湊社祭
 10月  1日 月始祭 杵都築森祭
 6日 三歳社祭 素鷲社祭
 8日 出雲井社祭 伊奈西波岐社参向
 13日 阿式社参向
 15日 熊野大社鑚火祭(亀太夫神事)
 17日 神宮遥拝
 25日 困佐社祭
 旧10月(神在月)
 10日 神迎神事
 11日 神在祭 天神祭 龍蛇神祭 東西十九社祭 上官祭(この両十九社祭と上官祭は十七日まで奉仕)御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 15日 神在祭 天神祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭
 17日 神在祭 天神祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭 神等去出祭
 26日 神等去出祭
 11月  1日 月始祭
 7日 命主社祭 宇治門神社祭 久多美門神社祭 北民社祭 南民社祭
 17日 御饌井祭
 23日 献穀祭 御向社祭 天前社祭 筑紫社祭 釜社祭 古伝新嘗祭 饗宴式
 12月  1日 月始祭
 15日 謝恩祭
 20日 御煤払
 27日 御饌井祭
 31日 大祓式 祓社祭 除夜祭
   毎甲子日 甲子祭
 
神在月(かみありづき)旧10月
 
陰暦の10月を神無(かんな)月という。

全国の神々がみな出雲大社に集まり、国々では神さまが留守になるので、むかしから10月を神無月というのだという。

そこで出雲では全国の神々が来られるからこの月を神有(在)月とよんでいる。

この言葉は室町時代の辞書『下学集』に見えているので、かなり古くからこういう信仰が人々の間にはあったと思われ、また十月という文字を組みあわせると「有」という字になるというので、大社の古い手箱の散らし紋にも、亀甲紋の中に「有」の字が描かれている。

神在祭(かみありさい)旧10月11日〜17日
 
神々を迎える「稲佐の浜」の浜辺には、御神火が焚かれ、龍蛇(海蛇)を神々の使者としてお迎えする神迎えが行われる。

神事が終わると、その中央の神籬(大榊に細長い弊をつけたもの)に宿られた八百万(やおろず)の神々をご案内して、3km余りの道程を神官を先頭に全国から集まった何千人の信者たちが行列して出雲大社に向かう。

全国の神々は陰暦10月11日から17日までの7日間大社に集まり、幽事(かみごと)すなわち人には予めそれとは知ることのできぬ、人生諸般の事どもを神議(かむはか)りにかけてきめられるのだと信じられている。

男女の縁結びもこのときの神議りによるものであるという。大社ではこのとき神在祭を執り行う。

大社の本社から西方800mにある上宮(かみのみや)が神々の会議所で、大社境内東西の十九社がその宿舎とされ、ここでも祭りが行われる。

この祭事の期間は神々の会議や宿泊に粗相があってはならぬというので、土地の人はこの間にあっては歌舞を設けず楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず、ひたすら静粛を保つことを旨とするので、「御忌祭(おいみまつり)」ともいわれている。 ↑目次に戻る

 
神迎神事(竜蛇祭(りゅうじゃさい))旧10月10日
 
この神在祭の間は風波ははげしいのであるが、このとき海蛇が波に乗って稲佐浜に浮かび寄ってくる。

これを「竜蛇さま」といって、八百万(やおろず)の神が大社に参集されるについて、祭神の使として来るのだと信じられ、祠官はあらかじめ潔斎して海辺に出で、竜蛇さまを玉藻の上にうけ、曲げ物に載せて大社の神殿に納めるのを例としている。

竜蛇さまは豊作や豊漁、家門繁栄のしるしとして、大社の教信徒は貰いうけて帰る。 ↑目次に戻る

 
神等去出祭(からさでさい)
 
出雲地方では大社の神在祭が終ると、引きつづき八束郡の佐太神社で神在祭があり、簸川郡神立の万九千社(まくせのやしろ)より神々はそれぞれの国に還られるといい、大社では17日と26日の両度にわたり、神等去出祭を執り行う。17日は大社からおたちになる日、26日は出雲の国を去り給う日ということなのである。

出雲で御忌祭の行われる神社はすべて七社、出雲大社を筆頭に佐太神社、神魂神社、朝酌下神社、朝山神社、万九千社に神原神社である。

この七社のうち出雲大社を除いてはすべて、出雲風土記に記すところの神名備山並に神戸里に近いところに位置している。

神名備山とは神のこもり坐す山という意味である。ナパルとはこもる、隠れるという意味の古語である。ここに御忌祭の本義を解き明す鍵があるように思われる。

出雲の国では大社に次いで社格も高く、神威も著しい佐太神社の神在祭では、10月の11日より16日までを上の物忌と20日より25日までの間を下の物忌という。

下の物忌は特に厳重な潔斎で、神官を始め祭祀関係者は社外に出ることば許されず、一般民家も作事や臼つき、物縫いまで固くいましめられている。

そして25日は神等去出の神事をつとめる。即ち夜10時頃に神離につづいて行列が社を出発して、神社の背後の朝日山という神南備山に登り、朝日山の尾根つづき、立ち木の生い茂った山の頂近く、恵曇の海が眼前に広く展開する山の他に舟をうかペ、神を送り出すのである。万九千社でもむかしは神名備山の麓で火を焚いて、神を送るという慣行があったという。

このように考えてくると出雲の神在祭と祭りにともなう御忌みは、もともと他国から集まる神を迎える祭儀ではなくして、神名備山に坐す神霊を麓の里に迎えるがための祭儀であったのではなかろうか。

御忌みは聖なる山から降りて来られる神霊を迎えるがための物忌みなのである。

ところが出雲大社の近傍には、神名備山はない。そこで大社と深い関係にあった大庭の神魂神社が想い合わされる。

大庭の近くには西北にあたり、美しい山容をもった茶臼山があり、この茶臼山が出雲風土記にいう神名備山である。

そこで大社の御忌祭は神魂の社の祭儀が移されたのではあるまいか、という見解を出す人も少くはない。いかにもと思われる考え方ではあるが、大社の祭りは他の六社のそれとは、意義を別途にするものがあるように思われる。

すなわち11月23日の夜に執行される古伝新嘗祭との関係である。 ↑目次に戻る

 
八百万の神々のよりしろは、東西の十九社から拝殿にうつられる。
神饌が供えられ祝詞が奏上せられる。
終わるのを合図に、禰宜は楼門の扉を「オタチ」と唱えて打つ。この時、神々は大社を去り給うのである。
拝殿へうつられる
神主一同のお待ちする
拝殿の正面へ奉安し
神饌が供えられ
祝詞が奏上せられる
その終わるのを合図に、禰宜は楼門の扉を「オタチ」と唱えて打つ。このとき、神々は大社を去り給うのである。
 
古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)の意義
 
古伝新嘗祭は、明治4年の神社制度改正以前は、陰暦11月申卯の日に出雲国造自ら大庭の神魂神社におもむき、その年の新穀を神前に供し、自らもこれを口にして神恩を謝し、併せて国家の隆昌と五穀豊穣とを祈念する祭儀で、国造の奉仕する年間の祭りにあって、最も重要な意義を有つ祭典であった。

陰暦11月といえば、陽光の衰えてくるときである。

年間を通して活動してきた国造の霊威もまた衰えを見せてくるのであって、こういうときにあたり、国造が神との相嘗をすることによって、清新にして活発な生命力にみちた神の霊威をば、国造がその身につけ、かくすることによって、新らしい年にむかってのはたらきが約束され、保障されるという、いわば出雲国造の霊威の復活の為の祭りが、その本義をなすのであろう。

このためであろうか、新嘗祭は、国造代替りの火継式と、きわめてよく似た儀礼となっている。

新嘗祭はこのように国造の祭りなのであるが、もう一つ、国造がオオクニヌシノカミに代り、オオクニヌシノカミがそのむかし祭っておられた神々を祭るという大きな別の意義がある、ということが言われている。

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熊野大社の鑽火祭(さんかさい)
 
こうした宗教的に深い意義を有つ祭りであるから、その規模もまた大きく、新嘗祭に先立つ1か月余も前の10月15日から早くも始まるのである。

即ち国造は熊野大社に参向して、新嘗祭に用いる火燧臼と火燧杵とを、熊野の神から拝受するのである。

鑚火祭という名で執り行われる。

この新嘗祭は、古くは国造自身が熊野大社に参向してこ血祭典を執行してきたのであるが、中古以降は熊野の地が山あいに在り、積雪の状況やさらには冬季の山路が険阻であるなどのことから、国造の火継式と同様に、この新嘗祭もまた、大庭の神魂社で行われるようになったと、わが出雲国造家では伝えている。

そこでこの新嘗祭は、今日でも「大庭の神事」とよばれているのであるが、大正4年の大正天皇即位の御大典を記念して、この年からこの伝統神事を旧儀に復せしめ、神魂社から大社の拝殿にこれを移すこととしたのである。 ↑目次に戻る

亀太夫神事
 
さてこの鑚火祭であるが、大社からは予め用意しておいた長さが1mもある長方形の餅を2枚、熊野に持って行くのが古来からのしきたりとなっている。

この餅をうけとるために、熊野から亀太夫という社人が出る。

亀太夫はこのときこの餅の出来ばえにつき、かならず口やかましく、言葉を荒ららげて苦情を言いたてるのが例であり、大社の社人はこれにつき一々謹んで申しひらきをする。そこで出雲では口やかましくいろいろに文句をつける人のことを、むかしから「亀太夫」とよんでいる。

この亀太夫神事の由来について、人々の興味をひくところから種々の解釈がなされている。

中古以来熊野の社人が火燧臼、火燧杵を大社に持参していたのであるが、この社人を大社側では熊野の神の代理者として優遇したので、熊野側がいつとはなしに増長するようになったに違いない。

それでこのような神事が、今日まで続いているのであろうというのが、一般の考え方である。 ↑目次に戻る

 
悪態祭り意味
 
しかしながら、この亀太夫の悪態は、各地の祭儀の模様から推して、一種の悪態祭りにほかならないと、私は理解している。

即ち亀太夫神事の要点は、いろいろ苦情を言いたてる亀太夫に対し、陳弁にこれつとめて、亀太夫に言い勝つというところに、主眼が置かれているのである。

出雲の安来市の清水寺では節分の夜、参拝者の間で相互に悪口のやりとりがあるので、喧嘩祭ともよばれている。

相手に言い勝てば豊作だと信じられているから、そのやりとりはなかなか真剣である。

ただし悪態をついて相手をやりこめても、やりこめられた方は決して手出しをしないということになっている。

石川県は能登の鳳至郡鵜川の菅原神社では、その秋祭りに伝兵衛という者の子孫と、鍛冶屋の子孫だというものとが正座につき、神官の出す膳部につき悪口をいい、当屋にあたったものが弁解にこれつとめ、神官が仲裁に入ってやっとことがすむという。

亀太夫神事とよく似ている。祭礼がすめばお互に、ことしの悪口はきつかったといって談笑するさまは、亀太夫神事の場合と全く同じである。

悪態祭りは年占なのである。悪態に言い勝つと、言い勝った方に神は味方をし、神が人の願いをきいてくれるという信仰から出てくる一つの儀礼なのである。言い勝った方に吉運は恵まれるのである。 ↑目次に戻る

 
火燧臼(ひきりうす)・火燧杵(ひきりきね)
 
この10月15日の鑽火祭で、熊野の神から国造は火燧臼と火燧杵をいただくのであるが、そも出雲大社にあっては、古伝新嘗祭を始めとする諸々の祭典の奉仕にあたって、つねに火燧臼と火燧杵から鑽り出した聖火を以て神饌を調理し、国造を始めすべての祠官は、この聖火によって潔斎をしなければならないこととなっている。

火燧臼は檜で造られ、幅は四寸に長さは三尺一寸五分、厚さは一寸の厚板であり、火燧杵は卯木の細い棒で、直径四分五厘、長さ二尺七寸とむかしからきめられている。

この火燧臼の上に火燧杵の一端をあてがい、両手で錐をもむように力をこめてもめば、摩擦熱で発火する。これを神聖な神火とするのである。

いうまでもなく遠いむかしの発火法である。この場合、両手でもむことをせず、轆轤を使えばより平易に神火を得ることができる。伊勢の神宮では轆轤によっているが、轆轤による方法は両手でもむ方法よりも新らしいやり方である。

大社の発火法は古代さながら、と申してよいのである。 ↑目次に戻る

御忌祭(おいみさい)
 
この熊野大社での鑽火祭から1か月余の日時をおいて新嘗祭があり、その間に、神在祭という名のもとに御忌祭が執り行われる。

とするならば、御忌祭は国々の神々を迎えるがための御忌みであることには違いはないが、本来は、鐙火祭から始まって、古伝新嘗祭に至るまでの長期の御忌みであったのではあるまいか、とこのように思うのである。

長期にわたる物忌みは、わが国ではけっしてめずらしいことではない。関東では12月8日を事始め、1月8日を事納めというところがある。正月の元旦をはさんでの物忌みのことである。

元旦には祖霊を迎える。そのためのつつしみの生活の始めが、事始めということなのである。

干葉県館山市の安房神社は古い由緒をもつお社であるが、ここでは旧暦11月の下旬から10日ないしは7日の間、髪を結わず針もとらず、高話しすることも遠慮して日を送る。

土地ではミカリまたはミカワリというが、つまり日々の生活態度をあらため、神迎えすることのできる清い身に変るという意味の、「身変り」から出てきた言葉にはかならない。

出雲の御忌みも本来は、こうして国々の神霊を迎えるという意味をもった言葉であり、国造にあっては新嘗祭にそなえての事始めが、10月15日の熊野大社での鑚火祭なのである。 ↑目次に戻る

古伝新嘗祭の神事
 
11月23日の古伝新嘗祭の祭場は大社の拝殿、舗設は境内末社の釜社の祭りから始まる。

釜社から神釜を祠官は担ぎ出し、祭場の敷薦の上に安置して夜を待つ。

午後7時、拝殿の様に祠官が出て斎館にむかって「オジャレマウ」と三たび唱える。

お出であれと申すという意である。

この声がかかると、国造は神職を従えて斎館を出で、祭場に参進する。

ついで国造は拝殿中央の高間にしつらえられた祭壇に上り、一揖してその側に伺候すると、祠官は祭壇中央に軾を敷き、権禰宜は国造の座前に海驢(あしか)の敷皮を敷く。

敷き了るのを待って権禰宜は御飯と醴酒とを載せた膳を捧持してこの敷皮の上に置き、国造はこの御飯をまず捧げて拝席にすすみ、立ちながら四方に向ってこれを献じ、次は醴酒を以てまた同様の儀礼を行う。

このときの御飯は新玄米にて炊ぎ、醴酒は新白米で醸したものを土器に盛り、箸をこれに添える。この神饌を炊ぐときの火は、熊野大社から拝受した火燧臼と火燧杵とで鑚り出した神火であること、言うまでもない。

↑目次に戻る

 
 
海驢(みち)の敷皮
 
この舗設について考うべきは海驢の敷皮である。

どうしてここに海驢が用いられるのであるか。

日本書紀神代巻の海宮遊幸章を見ると、海神の宮を訪れた山幸彦を迎えるに、海神は八重席薦を敷いてこれを迎えたという。

ところが日本書紀の一書には海驢皮八重を舗敷いて山幸彦を坐せしめたといい、別の一書には山幸彦は真床覆衾の上に寛坐たともいう。

真床覆衾というのは床に就くときに寛を覆うもので、高天原から天孫ニニギノミコトが天降られるとき、この真床覆衾に包まれて降ったという。即ち幼童の姿を想像しての伝承なのである。

また海神の女豊玉姫が御子を産んだとき、その御子を真床覆衾に包んで海辺に置き、海宮に戻ったという詰もある。

真床覆衾はこのように若々しい生命の出生と深い関係のある聖具なのである。

この真床覆衾にあたるものが、右に見るように八重席薦であり、海驢なのである。

このように見てくるときは、古伝新嘗祭が出雲国造の生命力の更新をはかる祭儀にほかならないということが、いよいよ明らかとなると言えるであろう。 ↑目次に戻る

 
国造の相嘗の式と百番の舞
 
新嘗祭の眼目は国造の相嘗の式にある。相嘗は御飯ついで醴酒と、それぞれについて行われる。

ついで国造は火燧白の表に「新嘗祭御燧白」と墨書し、裏には年月日を書きつけ、認め了ると真名井にあった小石二個を土器に盛り、箸を添えた膳を権禰宜が敷皮の上に置き、国造は左の手に土器を、右手には箸を持ってこれを噛む。

国造は本座に復し、膳部並に敷皮は撤去されて、国造の百番の舞となる。初中終の三番は立って舞い、その余は坐して舞うこととなっている。

この舞にあたっては、国造は古伝の唱語を微音にてとなえ、祠官は琴板をうち鳴らして神楽歌をうたう。

神楽歌は前の五十番は「ア・ア・ウンウン」、後の五十番は「皇神をよき日にまつりあすよりはあけのころもをけころもにせん」である。尊き神の祭りをよき日に営むことができたので、明日からは平素の衣服に着かえて勤労にいそしもうという意味であろう。

ア・ウンウンは神楽歌の調子であり、このとき歌われる神楽歌は『後拾遺和歌集』に見える弓立の歌である。

相嘗は神嘗祭の眼目であるといった。相嘗とは神にたてまつったものを、神と共同の食事をするということである。

われわれの社会でも食事を共にするということは、めずらしいことではない。

談笑のうちに食事を共にすることによって、互に心と心とが融けあい通いあい、連帯と共同意識との高揚を見ることは、常日ごろ体験するところである。

国造はこうした神との共同食事により、神に近づき神威をいただき、神霊をその身に承当することとなるのである。

すなわち国造の霊魂の再生であり、再誕である。再生であり再誕であるからして、この直後に歯固めの神事が執り行われるのである。 ↑目次に戻る

歯固(はがため)神事
 
われわれの社会では産立飯或は産飯ということがある。

出生した生児と産婦に供する飯のことであるが、この飯を手伝人や近隣の女衆にも食べてもらう習俗はひろく世間に行われ、多勢に食べてもらえばもらうほど、生児はよく育つともいう。

この産飯の膳に一箇または数箇の小石を、氏神の境内や川、軒下などから拾ってきて膳に載せるのである。

ウブイシともいう。

このウブイシのことを産神さまの御正体だというところも少くない。

このウブイシと国造の歯固めの石とは、けっして無縁ではないであろう。

歯固めの歯という文字は、人の寿齢を意味することもある。

年歯という言葉もある。歯序といえば年齢によるところの順序である。

であるから、歯固めといえば社伝にいうように、国造の長寿を祈念するための儀礼であると説明することも、あながちに間違いというわけではないであろう。

『江家次第鈔』といえば平安朝の有職家大江匡房による、恒例・臨時の儀式礼法にっいての研究書について、一条兼良がこれに註を施したものであるが、歯固めについて次のように言っている。

歯トハ人ノ年齢ヲ謂フナリ、歯固メトハ延年固齢ノ義ナリ

されば新嘗祭にあたり、国造がこの式を行うのは、祭神に奉仕する国造の寿齢を祈るための儀礼にほかならぬとしても、新嘗祭が国造の霊威の再誕再生の祭儀であるという意味を、無視することができぬとすれば、この歯固めの式は産石というわが国びとの古くからの習俗との関連を、まずは思わねばならぬところである。

そこで産石は産神の正体だという考え方をもち来たれば、およそこういうことになるであろう。

即ち再誕した国造の若々しい生命力の成長を見守るのが、この歯固めの石であると。

この石は大社の真名井から得たものであるとすれば、この感を一段と深くするのである。真名井とは聖なる井であり、いつの世にあっても人の生命力の根元を涵養するのが清冽な水なのである。 ↑目次に戻る

釜(かま)の神事
 
歯固めの式が了ると国造の百番の舞となる。

このあとは「釜の神事」に移る。

この日の午後、末社の釜社から拝殿に移した神釜についての祭りである。

この釜の神事に先立ち、国造は祭壇に上り一揖して神釜の前に進み、再拝拍手して復座するのを待ち、禰宜が神釜の前に進み、竹の棒に前は瓶子を、後は稲束をくくりつけたものと青竹の杖とをうけとり、神釜の前に一揖する。

そしてその後でこの稲束と瓶子とをくくりつけた棒を肩に荷い、青竹を杖として「あら、たぬし」と賀詞を唱えながら、この神釜の周囲を三たび廻るのである。

廻り了って神釜に一揖して禰宜は復座する。これが釜の神事の次第なのである。

釜社の神釜は、社伝ではウカノミタマノカミであるという。宇迦即ち穀物の神霊にほかならない。

この地方の領主尼子誠久の釜が、戦国争乱の天文九年(1540年)正月21日、突如として鳴動したのでこれをあやしみ、出雲の一の宮たる当大社に奉納したのが始まりだと伝えているが、要は釜を通して穀物の神霊を祭り、五穀の豊穣を祈念する祭りなのである。

新嘗祭とは本来別個の祭りが、新嘗祭に付属したのである。

そのため、この古伝新嘗祭が神魂神社で執行されていたときには、国造は神殿から庁の舎に下殿して、庁の舎と国造の別館の両所で行われるのを例としていたのであったが、大社で新嘗祭を営むようになってから、大社の拝殿で行われるようになったのである。

神魂神社の両官秋上氏が、稲束と瓶子とを竹の棒の先に振りわけて荷い、青竹を杖に「あら、たぬし」と神釜を三たび廻るのであったが、大社に移ってからは、上記のように大社禰宜職が奉仕することとなった。

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神おろし
 
釜の周囲を廻ることば、神おろしのための所作なのである。

かつては山村や農村で大事を決めようとするとき、人が輪をつくって中央に人を坐わらせ、この周囲を廻って単調な唱え言を繰り返すうちに、中央の人の発する言葉から神霊の意見を聞こうとしたのであった。

こうした所作に厳粛みを多少なりとも加えたいと思うときには、中座の者に御幣などを持たせたりしたものである。こうした民俗学の知識を釜の神事にあてはめることば、必ずしも不稽な推察ではあるまいと思う。

この釜の神事が仮りに神おろしのためのものであるとするならば、それではいかなる神を迎えようとするのであるか。

大庭の神魂社では国造の祖先アメノホヒノミコトが天降るときに、乗ってきたと伝える釜の周囲を、両官の秋上氏が廻るのである。

ここでは明かにアメノホヒノミコトを神降ろししようとしているのである。

国造家出身の学者千家俊信もその著『出雲国式社考』で、神魂社のカモスという言葉は祖先の意だと述べている。

この神魂社で行われるのと同じ祭儀が大社の釜の神事であり、しかも祭儀の日が同じだということから、大社の社伝では神釜はウカノミタマノカミだというけれども、もともとは神魂社と同様に考えねばならないものであろう。

元来がウカノミタマノカミは穀物神であり、アメノホヒノミコトも穂即ち稲穂の神格であるのであるから、両者は相通ずるものを有っているのである。 ↑目次に戻る

禰宜の装束と稲荷の祭儀
 
この釜の神事でとりわけ人の眼をひくのは、禰宜が稲束と醍酒を入れた瓶子とを、竹の棒の先にくくりつけて、振り分けにして荷うという姿である。

こうした姿は、京都の聖書院や高山寺などに所蔵する、鎌倉時代の熊野曼荼羅に見ることができるのである。

即ち紀伊熊野の稲持王子の神像と同じ姿なのである。

またこの稲持王子とは京都伏見の稲荷の神の姿でもある。

稲荷とはいうまでもなく穀物の神である。国学者はイナリとは稲成りの約言であるというが、もともと稲荷のニはリと通ずるのである。

新潟県の糸魚川から姫川を遡った山中の小谷村は、名高い深雪地であるが、この小谷はオタニではなくてオタリとよぶ。

稲荷の社について北畠親房の『二十一社記』に、次のように記している。

むかし京都の東寺に弘法大師が任していたとき、弟子の実恵が東寺の南大門のあたりを徘徊していると、老翁老嫗のただ人とも思えない人が多数、稲を荷って行き疲れた様子で南大門で休息しているのを見た。

不思議と思って問いただすと、東寺の鎮守の稲荷の神であったという。

ここに見える稲を荷った老翁老嫗はいみじくも、釜の神事で稲と瓶子とを振り分けにした禰宜の姿なのである。

しかもこの祭りの日は月こそ異なれ、稲荷祭は中卯の日であり、神魂社の釜の神事は同じ中の卯の日なのである。

偶然の暗合とは言えないものがあるであろう。

釜の神事はこのようにして、古伝新嘗祭にいつの頃からか付け加わった稲荷の祭儀であり、意味するところは穀物霊の祭りなのである。

『貞観儀式』の正月八日講最勝王経儀を見ると、東西二寺が雑穀を漆器二十二具に盛り、山城の国の宮人は稲を荷って参列するのであった。

その年最初の最勝王経講讃の儀である。

最勝王経は法華経・仁王経とともに護国の経典として、むかしから尊ばれてきた経典である。

この経典の年頭最初の講讃に、宮人は稲を荷って参列するのである。

釜の神事における稲穂の振り分けは、稲の豊穣の祈念をあらわすものであり、稲の豊かな稔りは国家の安泰の象徴にはかならない。

新嘗祭に釜の神事が付け加わるようになった宗教的な意義は、このように理解することができるように思う。

釜の神事は、古伝新嘗祭という大きな意義を有つ祭儀に、いつの頃かに付け加わったものであることば、以上のようにその祭儀の実相に徴して明かなのであるが、このことを端的に語るものが国造の百番の舞である。

すなわちこの百番の舞は釜の神事の直前に実修されるのである。釜の神事の後ではない。

新嘗祭の祭儀は百番の舞で完結したということを示しているのである。しからば百番の舞とは何か。

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百番の舞の手草
 
百番の舞とは、国造が榊の小枝二本を左右の手にもち、神前に向って手で大きく空中に円を描き、描いて拝礼の思い入れをしたのち、これを国造のななめ背後に控えている祠官にわたす、この所作を百たび反覆するのであるが、この榊の小枝は手草ではなくして神霊の憑りしろなのである。

国造の舞は神霊をこの小枝に憑らしめて、その遷座をはかるための儀礼であると思われる。

なぜならば、この舞のときに歌われる歌が神上げの歌であるからである。

こうして国造が祭るところの神の遷座を見とどけたあとに、釜を憑りしろとした神事が始まるのである。

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御饌井祭(みけいさい)
 
この古伝新嘗祭が無事了えると、大社では御饌井祭を措いては特記すべき祭りはない。

御饌井祭は大社では前後二度、いずれも国造の自祭である。

さきには11月17日、あとのは12月27日、いずれも早朝より大社拝殿西側の御饌井に、神紋も鮮やかな神幕を張りめぐらして装飾し、神僕を供えて、国造の祝詞奏上のあと三十番の神舞を以て了る。

この間にあって、祠官は琴板をうち鳴らし、前半はア・ア・ウンウンを唱え、後半は神楽歌をうたうこと、古伝新嘗祭のときと同様である。

御饌井は祭神の御饌を炊ぐ水を得るところ、さきの御饌井祭は近づく古伝新嘗祭にそなえての祭儀であり、あとの祭は数日後に訪れてくる新らしい年の大御饌祭にそなえての祭儀である。

それだけにこの祭りを重視して、国造みずからが親祭するところとなっているのである。 ↑目次に戻る

 
 
新春・初詣
 
出雲の新春は初詣でから始まる。

大晦日の晩から大社の八御門の前につめかけた善男善女は数千人、その中には京阪神から、東京から、山陰の海岸沿いに北九州方面から、はるばるとやって釆た人も少くはない。

元日の午前零時、開門をつげる太鼓の音とともに参詣者は大波の寄せるが如く、八脚門を通って本殿前に押し寄せ、拍手をうつ音がひきもきりない。

伊勢の神宮と並んで格式の高い出雲大社では、参拝者は、平素は八御門を通り瑞垣の内に立ち入ることば許されていない。

正月五か日だけは全国から数十万の参拝者に八御門は開放され、参拝者はおのもおのも、こうして楼門の前で新年の幸せを祈ることができるのである。

大阪から京都から、大社行きの臨時列車が特発されるのも、このときである。 ↑目次に戻る

 
大御饌祭(おおみけさい)
 
大社ではこの歳旦に、大御饌祭が執り行われる。

玄米御飯その他種々のものを神前に供えて皇室の弥栄、国家国民の繁栄と世の安穏と平和とを祈る祭儀である。

このときの神前の御饌はこの日終日供えたままとし、翌日になってこれを撒下するのが吉例となっている。

そこでこの神事は世に「寝ごもり神事」とも言われている。 ↑目次に戻る

三歳社(みとせやしろ)の福柴(ふくしば)
 
大社本殿と神楽殿の間を、本殿背後の八雲山から流れてくる素鵞川の清流を漸上すること数丁、深い山の冷気に包まれて右手に見えてくるのが境外摂社三歳社である。

正しい社名は大穴持御子神社(ムチミコノカミノヤシロ)、延善式内社でコトシロヌシノカミを祭神としているのは、この社名から申して、オオナムチノカミの御子神として、コトシロヌシノカミの名が最も高いからであろう。

このコトシロヌシノカミのほかにタカヒメノミコトとミトシノカミとを合祀する。

この社に参詣する人は平素は少く、いつもは山あいにひっそりと鎮まっているのであるが、正月三日の日は未明よりこの山道を参拝者が絡繹(らくえき)として続き、絶えるということがない。

参拝者はここで福柴をうけることにより一年間の幸せを身につけて帰るのである。

福柴というのは二岐にわかれた裏白の羊歯である。二岐にわかれた枝は幸せをもたらすという信仰がむかしからある。

仁明天皇の承和2年(835年)の2月21日という日、清原夏野が一本の芝草に両枝あるのを見つけて、天皇に献じたことがあった。

天皇はこの日侍臣に酒を賜い禄を賜わること差ありと、正史に見えている。この三歳社に参拝する人は、一年の幸せをその身に迎えることを祈って山道を登るのである。 ↑目次に戻る

 
吉兆(きっちょう)さん・番内(ばんない)さん
 
この三日の日にまた大社の町では、笛や太鼓の鳴りものも賑やかに、「吉兆さん」と「番内さん」が町内を練り歩く。

吉兆さんというのは「歳徳神」と大きく縫いとりをした高さ10メートル、幅1メートルあまりもある赤や白の金欄の幟旗であって、その尖端には日・月をえがいた扇と、その上に金色の剣が立っている豪華なものである。

吉兆さんは各町内にそれぞれもっていて、三日の朝は当番の家から笛や鼕のはやしとともに、威勢のよい神謡に乗って町内の若衆に担ぎ出され、大社の八脚門前に立てて新年の幸せと世の幸福の祈念をこらし、そのあとで町内を練り歩いてその福を撒くのである。

この吉兆さんが町を練っているとき、いっしょに町内を歩き廻るのが番内さんである。

白や赤の大きい鬼の仮面をかぶり、金欄の神楽衣裳を身につけ、孟宗の青竹のささらをもって地面をたたき、ふりかざしながら、「悪魔はらい、悪魔はらい」と大声で呼ばわり町内を駈けめぐる。

番内さんになる人は町内の厄男で、こうして門ごとに門さきで地面を力いっぱい叩くことによって、自分とその家との厄を祓い去るのだと信じられている。

関西に多く見る亥子や亥子搗き、或はトウカンヤといって、村の子供たちが藁の束ねたもので、地面を搗いて廻る行事を思わせる大社町の習俗で、慶長の頃から始まったという。

元日の大御饌祭が広く日本を対象とした祭りだとすれば、三か日のそれは大社地もとの祭りであって、大社地もとの人々のこうした信頼と期待の上に、出雲大社二千年の信仰と歴史は発展し展開してきたのである。

歳旦は1月1日の早朝のことである。

旦という字は太陽が地平線からその姿をあらわし始めた、そのときの形をかたどってできた字である。

歳旦はその年のまさにあらわれ始めた瞬間であり、精神的にも清新の気の充溢し再生しようとするそのときのことである。われわれ日本人はむかしから、ものごとの始めを大切にする。

歴史の始まりに神代伝承を置くというのも、そのあらわれであり、親を見ればその子の人となりがわかるというのも、こうした考え方からなのである。

元旦をむかしから祝ってきたわけも、ここに求められる。

出雲大社では元旦に大御饌祭が執り行われることのほかに十干のはじめの甲と、十二支のはじめの子とを組み合わせた甲子の日を重視して、甲子祭を営む所以も、物のはじめを尊ぶというところにある。

この甲子の日は60日に1回めぐってくる。そこで甲子祭は年に6回、年によっては7回、通常の神供のほかにそのときどきの五穀の種子を供えて、五穀豊穣を祈る。五穀豊穣はつまりは人の幸せを意味する。

2月17日の祈穀祭ともまた精神的に相通いあうものをもつ祭儀である。 ↑目次に戻る

 
例祭…出雲大社最大の賑わいのある祭り
 
俗に「大例祭」といい、5月14日から3日間行われる。

14日には、天皇陛下のお祈りを直接伝えるために派遣される「勅使」が代参し、松の馬場では的射祭、流鏑馬神事が古式にのっとって行われる。

この3日間は勢溜、下り参道、神苑などで露天が立ち並び、田植え囃子や伊勢神楽、各流派のお茶席もあり、優雅な和服姿の人たちがそぞろ歩く。

他にも相撲大会などがあって、出雲大社の最大のにぎわいのあるお祭りである。

 
涼殿祭(すずみどのさい)
 
6月1日まず本殿に於て祭典を行い、終って宮司以下の祠官は本社東方200メートルの出雲森に参向して祭事を執行し、宮司は神幣を奉じて本社正面銅鳥居の東側にある御手洗井に至り、ここで祭事は終るのである。

この間、出雲森から御手洗井に至る間、道筋には真菰を敷き立砂を盛り、宮司はこの上を踏んで歩くのである。

宮司は出雲森から神霊を迎え、これを奉じているが故である。

神が踏みしめた其菰であるというので、篤信の人々は宮司の通り過ぎたあとは争ってこの裏菰をいただいて帰る。

療病の夏を息災にすごすことができるからだという。

そこでこの涼殿祭を世間では「真菰(まこも)の神事」とよぶ。涼殿祭というよりはこの方がわかりやすい。この祭りをば涼殿祭とよぶ由来は、今日となっては明らかではない。 ↑目次に戻る

 
 
神幸祭(しんこうさい)の道見
 
こうして大社古来からの祭りには神秘的なものが多いのであるが、8月14日の神事祭は、次いで翌日行われる15日の爪剥(つまむぎ)祭とともに、神秘的な神事の一つである。

神幸祭は、明治4年の神社制度改正以前は陰暦の7月4日深更に、社家のうちの上官別火氏の奉仕するところであったが、改正以後は8月14日の深更とあらためられ、禰宜がこれにあたることとなった。

この祭儀はまず8月10日朝からの潔斎より始まる。

禰宜は斎館に参籠して大社相伝の火燧杵(ひきりきね)・火燧臼(ひきりうす)で忌火を鑚り出し、この忌火でもって調理した斎食で、別火の生活を神事の終了するまで続ける。

そして11日夕刻には稲佐浜に出て海水で身を潔め、神事祭前日の13日の夜は「道見(みちみ)」を行う。

道見というのは参籠中の禰宜が斎館を出で、先頭に2人が高張提灯二張をもち、禰宜に附き添うように騎馬提灯持ちが一人、禰宜の背後には献饌を捧持する1人が従い、こうした行列で大鳥居を出ると、ここで禰宜は人力車に乗って町通りをぬけることおよそ4km、海岸の摂社湊社に詣で、別火氏の祖先神と信ぜられている赤人社に詣り、稲佐浜に戻って塩掻島(しおかきしま)に至り、四方に向って拝礼し、前の2社と同じ祭事を行いすまして斎館に帰るのである。

こうして次の日の神事の道筋の下検分をすませるのである。

翌14日は大社祭神オオクニヌシノカミの神幸である。

境内の諸門は悉く開放され、午前一時、禰宜は狩衣を着、右手には青竹の杖、左手には真薦で造った苞(しほ)と火縄筒、素足に足半草履を履き、本殿前で祝詞を奏して神事となる。

前夜の道筋をそのままたどり、二社の参拝と塩掻島の塩掻きをすませて国造館に入り、大広間に南面して設けられた祭壇を拝し、そののち本殿前に帰着、再拝して神事は終る。 ↑目次に戻る

 
爪剥祭(つまむきさい)(身逃神事)
 
神幸祭の翌日が爪剥祭である。

穂、瓜、茄子、根芋、大角豆、水の7種の神饌を供えて祭りが行われる。

この祭事に先だって14日の夜、出雲国造は行列をととのえて館を出で、一族の家に宿るのが吉例であったが、今日は儀式のすみ次第、その夜のうちに帰館する。国造を迎える社家では広間を潔め荒薦を敷き、八脚机をそなえて国造を迎える用意をする。

オオクニヌシノカミを迎えるということなのである。

この神事の途中、もし人に出逢うことがあれば再び大社に戻り、出直しをすることになっているので、町内の人々はこの夜は早くから門戸を閉ざし、宅内にひっそりと謹しんでいて、外に出ることを避けている。

この神事は他の社では例を見ることのない、特殊な神事であるところから、古来いろいろに解釈されてきた。

陰陽道にいう方違(かたたがえ)に擬する考えもある。

しかしこの祭儀を見つめてみると、斎戒を目的として自宅より別の処に出るというところに眼目がおかれているように思われる。

むかしから自分の家で斎戒を致さず、他家に行ってするという例は少くはない。

白河上皇や鳥羽上皇の熊野御幸は名高いが、この御幸のために予め上卿の館におもむいて、斎戒をなされた実例の数々を、記録に徴することができる。

この神事を大社では「身逃げの神事」とよぶが、他家にてなされる潔斎ということの意義が判然としなくなってからの、宛て字にはかならないと思う。

問題は潔斎を目的として、どうして自宅より別の処に出るのか、ということの精神的意義・宗教的意義は何かということでなければならぬ。

けだし出雲国造は国造の館内に"お火所"(斎火殿)という、聖なる神事の場をもちながら、何故に他家に出かけて潔斎をする必要が有るのか、ということである。

他家に出て食事をするということば、出雲国造からすれば聖から俗への転換である。

そのあと国造が国造館に戻って"お火所"で厳重な潔斎を積んで、再び聖に還帰するのである。国造は国造館にあって聖のままであるよりは、ひとたび俗になり、俗から聖に還帰することが、潔斎をしてより一層効果的ならしめるという考え方が、この身逃げの神事の基本的な考え方ではあるまいか。

こうした推測の成り立つ所以を思わせるのは、この身逃げの神事に膚接して、次に爪剥祭を迎えるという事実があるからである。

では身逃げの神事のあとのこの祭儀を、どうして爪剥祭とよぶのであるか。

今でこそツマムギと濁音でよむが、古くはすべてツマムキと清音でよんでいた。

ツマとはタマシイのタマ(魂)のことであり、ムキとはマキでマクの活用語、求めるとか招くとかいう意である。

すなわちツマムキとは魂迎えということであり、霊魂の憑りくるのを待ち迎えるための神事にほかならない。こうして魂迎えを営むために、国造は予め他家に出て潔斎することを必要としたのであった。

この祭儀が、古来霊魂の濁りくるといわれている8月15日に執り行われるわけは、ここに求められるのであり、神饌がすべて精進物で、魚や鳥を含まないわけは、ここにあるのである。

この爪剥祭を、祭神オオクニヌシノカミは神話伝承の上では艶福の事が多いということと結びつけて、「妻覓き」が儀礼化したものと解した説を見たことがあるが、これは全く見当違いの解釈だといってよい。

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大社の神紋
 
出雲大社に参拝する人は、八脚門に二重亀甲に剣花菱の木彫紋がはっきりと眼にうつることであろう。

しかしこの紋は出雲国造家の家紋であって、大社の神紋は二重亀甲に有文字紋である。

有文字の意味については、先に言及した。

この亀甲紋は平安朝の末ころから盛に用いられた紋様であって、平安朝の諸絵巻、たとえば伴大納言絵巻や吉備大臣入唐絵巻等には、この紋章がしきりに用いられていると、沼田頼輔博士はその名著『日本紋章学』で述べている。

そして家紋として用いられるようになったのは、南北朝時代からだというが、亀甲が.このように人々に好まれたのは、亀そのものが瑞祥とされていたからなのである。

しかしながら大社の神紋として亀甲が用いられたのは、これとはまた別の理由があるからでなければならない。

もと大社の禰宜広瀬鎌之助は、亀甲紋はオオクニヌシノカミの神徳が六合にあまねきをかたどるのであり、かつ出雲は日本の北に位し、北方は玄武すなわち亀がその主として在るところであるがためである、と説いた。

沼田博士もこの広瀬説を採っている。

大社がこの亀甲紋であるところから、出雲国内の美保神社を始め多くの社ではこの亀甲紋を神紋とし、そのため、出雲特有の紋章であるかと思う人もまた少くはない。

梅鉢の神紋は、天満宮の神紋である。そこで菅公道真の子孫なる高辻家や唐橋、久松家で梅鉢を家紋とすることば当然として、大和の筒井氏や斎藤氏が梅鉢を家紋とするのは、菅公崇拝の気持の致すところであった。

同様に大社崇敬の豪族朝山氏が亀甲を家紋に用いる、という例もまた存するのである。

大社と出雲国造家とは一体不二の関係にある。大社の神紋にっいて述べた上は、国造家の神紋についてまた考えるところがなければならぬ。 ↑目次に戻る

 
国造家の神紋
 
千家国造家に蔵する寛文元年の日記で三月会のことを見るに、御本殿内の国造の座は、御内殿すなわち御神体の鎮まります小円殿と、その大前にある神饌を供する大懸盤との間に、小内殿を背にして設けられることとなっている。

つまり祭の時に神饌は国造に対して供えられるのであり、国造に故あるときは神前に供えるのが例であったのである。

このことば何を意味するのか。国造は祭神の憑りましであり、憑りましであるが故に、国造は祭神として在るということなのである。

こういうところから出雲国造は御杖代とよばれてきたのである。

この御杖代というときの杖を、われわれが日常歩行のたすけとするところの杖と解しては、真義から遠いといわねばならぬ。

およそ神の降臨出現をねがうとき、神を招き迎える聖具として、榊に鏡・剣・玉を結びつけるのであった。

天の岩屋にこもられたアマテラスオオミカミを、再びお迎えするために、古事記によると、「天香具山ノ五百津ノ真賢木ヲ根掘ジニコジテ、上枝ニハ八尺ノ勾玉ヲ、中ツ枝ニハ八タノ鏡ヲ取り繋ケ、下枝ニハ白和幣、青和幣ヲ取り垂デテ」云々とあり、天孫の降臨するときにあたっては漁に鏡・剣を三種の神器としてもたしめられたとある。

景行天皇が西国に臨幸されたときには、土地の豪族が天皇を迎えるのに賢木を根掘じにして、上枝には八握剣をとりかけ、中枝には鏡、下枝には瓊をつけて出迎えたという。

これは天皇を現人神として見たてていることなのである。

榊そのものが神の憑りしろであり、鏡・剣・玉はまた神霊を招迎するがための聖具なのである。

そこで神祭には榊を神籬として、これに鏡・剣・玉をとり繋けて、憑りつく神霊を招祷するのである。

現行の神社祭式でも、祭礼には二本の榊を社頭神前に立て、向って右の榊の上枝に玉を、中枝には鏡を、そして左の榊には剣をとり繋けるのを例とするのである。

これを単なる神前の修飾と見るのは、祭儀の実相を謬るものなのである。

国造家の家紋とするところの剣花菱は、剣と鏡・玉の三種の招ぎしろをあらわしている。

そして国造は祭神オオクニヌシノカミの憑りたまうところの榊であり、神籬なのである。

この剣花菱の家紋をつける国造は、いつでも祭神の憑りたまうものとして、別火の潔斎を日々厳重にかさねているわけなのである。

国造のための別火、それは国造襲職にあたり、熊野大社の神から授かった火切臼と火切杵とから鑚り出した聖火であり、この聖火は国造の一生を通じて、国造館の鑚火殿に大切に管理し、これを絶やすということばない。

この聖火はこうして国造の代替わりごとに熊野の神から授けられるのは、国造の生命は永遠にして不滅だということを、象徴するものにほかならないのである。

剣花菱の家紋は肥前の龍造寺氏が用いていた。龍造寺氏は藤原秀郷の流れを汲む。出雲国造家とは何の関係もない。

また花菱紋は甲斐の武田氏の家紋であるが、武田氏はよく人の知る通り清和源氏の義光流である。

アメノホヒノミコトの後商たる出雲国造家とは流れを異にする。

この国造家の家紋たる、亀甲を以て剣花菱をつつむ形はつまり、国造には祭神イズモノオオカミがつねに憑りついていて、祭神と国造とがいつも一体として在るのだということを、象徴的にあらわしている図案なのである。

この意味に於て、亀甲剣花菱の家紋を着用できるのは、本義的には出雲国造だけに限られている、と申してよろしいかと思うのである。

国造家の紋章はこうした意味において、出雲の伝統を理解するのに、欠かすことができない、重要なファクターにほかならないのである。 ↑目次に戻る

…千家尊祀著「出雲大社」より

 
 
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