| 出雲国造が出雲国内の諸神を祭っていたことは、『延喜式』所載の「出雲国造神賀詞」に記されている。
「願書」は、そうした神代からの遺風をもって、院政期以降、出雲国造は「出雲国惣検校職」を朝廷や鎌倉幕府から委任されてきたことを伝える嘆願書であった。
ところが、それは歴史事実というよりも出雲大社の理念が先行するものであった。
実は、出雲大社が証拠としてあげる院庁下文や鎌倉将軍からの御教書には、「出雲国惣検校職」なる役職名は見えない。
つまり、その役職名が見られるのはこの「願書」だけであった。
一方、それとともに添えられた「両国造願書附属勘文」(「両国造願書附属勘文案」、国272)「出雲国惣検校職」なる役職名は記されず、史料が忠実に転記されていた。
たとえば、『東鑑』には、「出雲国杵築大社惣検校職」なる役職名があった。
これは、鎌倉時代に中原資忠が武功により大社の惣検校職になったことがあったが、出雲氏しか遷宮を執行することができない慣例から、
遷宮を機に中原の惣検校職を停止し、当時の国造へ惣検校職を還補させた事件を記した箇所に見られる役職名であった。
すなわち、『東鑑』にある「出雲国杵築大社惣検校職」とは、出雲大社の総支配権をもつ役職名を意味するもの、すなわち出雲大社における役職名であり、
出雲国内の諸社に対しての総支配権を意味するものではなかった。
また、同「勘文」には、古来、いわゆる出雲大社の宮司は、国造職・神主職・惣検校職を兼ねてきたと説明しているが、ここでいう「惣検校職」も出雲大社内の役職を示したものであって、
出雲国内の諸社やそれらの社家にまで及ぶ権限を示したものではなかった。
(なお、「国造北島広孝訴状案」〔国242には、いわゆる出雲大社の宮司は、神職・国造職・神主職を兼ねていたとする。神職とはまさに御杖代のことで、神同前を意味するという。国造職とは官職のことで、神主職とは大社の惣検校職を指す。)。
このように、両国造連名の「願書」にあった出雲国内の社家を総て支配することを意味する「出雲国惣検校職」なる役職名は実在しなかったのである。
ならば中世以来の両国造の権限とは如何なものであったかというと、出雲大社の総支配権をもつ「出雲国杵築大社惣検校職」なる役職名を兼ねていたということになる。
ところで、この「願書」は佐草自清が作成したもので、「勘文」は彼と松江藩儒黒沢石斎が相談して作成したものであった(「江戸御年頭礼帳」)。
つまり、自清は一人で作成した「願書」を通じて出雲大社の理念(出雲国造=「出雲国惣検校職」)を主張したものといえよう。
その後、出雲大社は、藩主松平綱隆から、幕府老中衆は大社側の「願書」を尤もである、と認知された6月18日付の報告書を受け取った。
つまり、出雲大社の主張が幕府に承認されたのである。
なお、さきの「御条目御改使」は、「願書」「勘文」とともに「永宣旨」下賜をも嘆願していた。
出雲大社としては、出雲国造の地位や権限を幕府と共に朝廷にも認めてもらおうと、当初から計画していたのである。
その結果、翌年の寛文7年(1667)5月7日、霊元天皇の綸旨、すなわち「永宣旨」が下賜され、
8月23日に、それが両国造名代長谷正之と佐草自清に渡されたのである(千家和比古氏前掲論文参照)。
この「永宣旨」は、出雲国造へ永久に神主職と大社惣検校職を付与することを承認されたもので、実在しなかった「出雲国惣検校職」なる役職名については、当然の如く言及されていない。
ところが、この給旨に、出雲国造が「神賀詞」を奏上してきたことが記されていたことから、
出雲大社は、この給旨で出雲国造の「出雲国惣検校職」が認知された、と受け取ったのである。
なぜならば、「神賀詞」は、前述した如く、出雲国造が出雲国内の諸神を祭ってきたことを明記した史料であったからである。
その翌年の寛文8年5月11日、松江藩奉行垂水十郎右衛門は、出雲大社役人の佐草自清と長谷正之に宛て、
今後出雲国内社家の装束着用については、吉田家か出雲大社の「御免除」なくしては、在所においても着用してはならないことを指令した。
出雲大社はこの指令によって、出雲国内の社家に堂々と裁許状が発行できるようになったのである。
当時の出雲国造千家尊光は、この書状を重視し、神前にそれを納めたという。(国284)
また、この間題で奔走した佐草自清も、随筆の中で、「両国造ハ、出雲国神社惣検校職、永宣旨井江戸御奉書ヲ以、松江御所被仰、」(『雑事随筆』〔国学院大学所蔵〕所収)と記した。
自清は、松江藩がさきの「願書」で示した出雲大社の理念、
すなわち両国造が「出雲国神社惣検校職」(さきの「願書」には「出雲国惣検校職」とあって、「神社」の二文字はなかった。意図するところは同じ。)であることを、
「永宣旨」とさきの老中奉書をもって認知された、と考えたのである。
その結果、出雲国造=「出雲国神社惣検校職」は、出雲大社の理念ではなく事実として定着し(国301)、出雲国造の正式な相続とは、「大社国造職并出雲国神社惣検校職」をもって相続すること、とされるようになったのである。
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