| 寛文7年(1667)3月30日、出雲大社は朱塗りで仮殿式の旧本殿から、白木で正殿式の新本殿へ出雲大神を遷座した。
この遷宮を機に、出雲大社から仏教色は取り払われ、出雲大社周辺域の東西八町、南北六町からも仏教施設が取り除かれた。
これにより出雲大社周辺は「神道之地」と呼ばれるようになったのである。
また、その間に出雲国造の地位を永遠に不変不動のものとするため霊元天皇のお墨付きを賜ったり(「永宣旨」下賜)、出雲大社の地位を伊勢神宮に次ぐものと幕府に認めさせたりもした。
すなわち、出雲大社や大社町の基盤は、この時期に完成したものといえる。
北島国造方上官佐草自清は、こうした基盤作りに奔走した代表的人物であった。
彼は、正殿式遷宮が無事に成就した後、江戸へ下向し、林羅山の息子春斎(鷲峯)を訪ね、『大社再興記』の執筆を依頼した。
従来、出雲大社の祭神は、中世の神仏習合期に鰐淵寺の影響もあって、素戔嗚尊として知られていた。
しかし、『出雲国風土記』や記紀には、素戔嗚尊が出雲大社の祭神として明記された箇所はない。
そこで神仏習合による仏教側の考えを改め、正史である『日本書紀』の記事をもって出雲大社の祭神を定めようとする考えが起こつた。
それを万民に知らせるため、林羅山の三男で幕府儒官の林春斎に、正殿式遷宮の再興記事と共に、祭神は大己貴神であることを、『大社再興記』に明記してもらったのである。
さらに禁中の楽人から舞楽を伝授してもらい、狩野派の落合安成に依頼して禁中の楽屋と同様の左方右方の舞の屏風を作成してもらった。
これによって、出雲大社の大祭三月会に禁中同様の舞楽が奉納されるようになったのである。
自清は元禄8年(1695)9月7日、出雲大社の再興を見届けて80歳の天寿を全うした。
彼の息子直情(宝永7年(1710)7月12日歿)の碑文には、父自清を「寛文年時、大社一新、自清有功労、至干今、人称之、」と記されている。
つまり、大社やその周辺の人々は、寛文の正殿式遷宮の頃に出雲大社や現在の大社町が一新したのは、佐草自清の功労があってのことだと知っており、それが長く言い伝え称えられていたのである。
自清は松江藩儒者黒沢石斎(林羅山の弟子)と出雲大社の公式文書を作成する能吏であったばかりか、松江藩藩主や江戸幕府寺社奉行からも信頼を得た人物であった。
そもそも、彼は千家国造方でも別格の東上宮家出身者であった。
そのため、出雲大社内での信頼度は他の上官に比べ高かったものと思われる。
しかも、出雲大社に儒家神道を導入し、出雲大社や出雲国造の祭祀研究、さらに出雲国内の神社を調査研究するなどの学者でもあったことから、彼の発言には説得力があり、大社内外から一目置かれていたのである。
したがって、出雲大社と他社との争論では必ず彼が出雲大社を代表して参加し、また、このような人物がいる限り、他社は出雲大社に向かって積極的に争論を構えることはなかったようである。
だが、彼の死後とともに時代の流れは急展開した。佐陀神社と神職支配をめぐつての争論が勃発したからである。
神社条目をめぐつて佐陀神社との神職支配をめぐつての争論を説明する前に、当時の神職免許について確認しておかねばならない。
現在、出雲大社をはじめ神社本庁に所属する神社の神職になるためには、神社本庁から神職免許を取得しなければならず、戦前は、それは内務省などの管轄であった。
それ以前の江戸時代となると、京都の吉田家と白川家が管轄した。
寛文5年(1665)7月11日、江戸幕府は全国の神社ならびに神職を管理統制するために五箇条からなる法令を発布した。一般にそれを「諸社禰宜神主等法度」と言い、「神社条目」とも言われる。
その法令は、出雲大社にはその年の暮の12月25日に伝達された(千家和比古氏「出雲国造家の『永宣旨』は一通であるか両通であるか」(『日本歴史』5一8、平成3年)参照)。
この法令で問題となったのは、第二条と第三条である。
それを下記に挙げてみよう。
一、社家の位階、前々より伝奏を以て昇進を遂ぐる輩は、いよいよ其の通りたるべき事。
一、無位の社人、白張を著すべし。其の外の装束は吉田の許状を以て之を著すべし。
第二条は、社家の位階を京都の公家を通して天皇から賜っているものは、今後もその通りにせよ、というものである。
神社や寺院には、江戸時代以前からそうした伝統をもつところがあった。
幕府はそうした神社には、従来通り公家を通して社家の位階を下賜されることを認めたのである。
たとえば、伊勢の雨宮では公家の藤波家などが伝奏であった。
宇佐八幡宮では烏丸家が、石清水八幡宮では広橋家が、住吉大社では観修寺家が伝奏を務めていたのである。
そして、出雲大社は柳原家が伝奏を務めた。
つまり、出雲国造は柳原家を通じて天皇から位階を賜っていたのである。
したがって、第二条の意味するところは、今後も出雲大社社家の位階については、伝奏を通じて昇進を遂げることを幕府が認めた点にあった、ということになろう。
この点では出雲大社にとって不利益は認められない。
しかし、次の第三条は、出雲国造の出雲国内における地位が揺るぎかねない問題を率んでいた。
第三条は、伝奏を通じて位階の昇進を遂げてこなかった社家が対象となっている。
出雲国内で出雲大社以外に伝奏を以て社家の位階昇進を遂げてきたのは、日御碕神社(伝奏白川家)のみであった。
すなわち、この二社以外の出雲国内の社家は無位の社人であった。
その無位の社人に対して幕府は、彼らに白張という簡易な白装束の着用しか認めず、従来通り風折烏帽子や狩衣などを着用したければ、吉田家から発行される裁許状を取得しなければならない、と命じたのである。
出雲大社はこの第三条に異議を唱えた。
なぜならば、出雲国内の諸社の社家に対して、従来から出雲国造が風折烏帽子や狩衣の着用を認める免許状を発行してきたからである。
ただし、井上寛司氏によると、出雲国造が出雲国内の社家に対し裁許状を発行するようになったのは、近世初頭から出雲国内の社家に対し吉田家が裁許状(「神道裁許状」)を発行し始め、それに刺激を受けてからだとされる(「中世未・近世における『神道』概念の転換−日本における『神道』の『宗教』化の1過程1」〔『大阪工業大学紀要』48−1「近世初頭における出雲大社の『神仏分離』」〔『国学院雑誌』104−11〕いずれも平成15年刊、参照)。
つまり、出雲国造は、吉田家に対抗して、出雲国内の社家に裁許状をいままで以上に発行するようになったといえよう。
ところが、この条目によって、今後は伝奏を通じて位階昇進を遂げる社家以外は、皆一様に吉田家の裁許状を受けなければならなくなったため、出雲大社にとっては吉田家と対抗する上で不利になったばかりか、出雲国内の社家の支配権までもが危ぶまれるようになったのである。
この不安は年が明けて早々の2日に起きた。松江藩奉行垂水十郎右衛門は、松江城での1月8日の出雲国内社家対象の年頭御礼での装束着用について吟味するため、国造名代の佐草自清と長谷正之(千家国造方上官)を松江に呼び出したのである。
そこで両国造名代は、出雲は古来より出雲国造の裁許状を以て装束着用の慣例があることを伝えたところ、のちの2代藩主綱隆が了承したため、年頭御礼は従来通りに執行されたという(「江戸御年頭礼帳」赤塚家文書、参照)。
だが、こうした事件は江戸城でも起きた。両国造名代である向孝里(北島国造方上官)は、寺社奉行井上正利から1月15日の御年頭の独礼(一般の社家の年頭御礼は1月6日であった。だが、出雲大社は本願から上官へ年頭御礼使が交替してから、今後席順を伊勢神宮の次にするよう要望したため、幕府は出雲大社にだけ15日の独礼を認めたのである。)では神社条目にしたがって風折烏帽子と狩衣を着用せよ、と指摘されたのである。
神社条目が出雲大社へ伝達された時、向孝里はすでに江戸へ出発し、その内容を知らされていなかった。
だが、そもそも両国造名代は、将軍秀忠以来江戸城での年頭御礼では衣冠を着用するのが慣例であった(『御造営日記』寛文4年3月20日条に、「独礼の社家23人の内(衣冠10人、狩衣13人)、伊勢衆も長官などの夫者タルニヨリ狩衣也、大社ハ夫者タリトイヘドモ従先年衣冠也、」とある。
そこで向は藩主直政に依頼して急遽狩衣を支度したという(「江戸御年頭礼帳」)。
このように、神社条目発布以後の社家の装束着用について、松江藩では慣例が遵守されたが、幕府では神社条目を遵守するように命じられたのである。
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