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出雲大社遷宮

 
平成の造営遷宮
 
御祭神の大國主大神様のお住まいの御本殿は古くより「天下無双の大廈(たいか)」と称えられますが、平成12年の境内の八足門(やつあしもん)前での巨大な御柱の顕現によって、語り継がれた往昔の高さ16丈の「天下無双」の御本殿が明らかとなりました。

現在の国宝御本殿は、延享元年(1744)に御遷宮御造営され、以来、文化6年(1809)、明治14年(1881)、昭和28年(1953)と三度にわたり御遷宮御修造がお仕え継がれてきました。

そして、このたび、「平成の御遷宮」をお仕え継ぎいたします。

平成20年4月20日には大國主大神様を仮のお住まいの御仮殿(現拝殿)にお遷し申し上げる「仮殿遷座祭」をお仕えいたします。

御修造がととのいます平成25年5月にはもとの御本殿にお還りいただきます「本殿遷座祭」をお仕えいたします。

また御修造は、御本殿のみならず、境内境外の摂社・末社等も、御本殿御修造に併行して、またその後の平成28年に至る間、お仕えさせていただきます。

なお、この御本殿の御修造の間、ご参拝の皆々様には御仮殿にてご参拝いただきます。

また、皆々様のお願いごと等のご祈願の日々のお取り次ぎのおまつりは、庁舎前に臨時建設の仮拝殿にてお仕えいたします。

出雲大社ホームページ「平成の大遷宮」より

 
 
出雲大社の千木・鰹木
 
千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)は、今日では神社建築にのみ見られる、建造物の屋根に設けられた部材である。

千木は屋根の両端で交叉させた木であり、鰹木は屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた木である。

どちらも元々は上流階級の邸宅にも用いられていたが、今日では神社にのみ用いられ、神社建築の象徴のようになっている。

千木は古代、屋根を作るときに木材2本を交叉させて結びつけ、先端を切り揃えずにそのままにした名残りと見られる。

千木・鰹木ともに元々は建物の補強のためのものであったと考えられている。

鰹木は、形が鰹節に似ていることが名前の由来であると云われる。鰹木は「堅緒木」「堅魚木」「勝男木」「葛尾木」などとも書く。

出雲大社を始めとして出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣っているものが多い。

また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
 
県指定文化財 紙本着色 杵築大社近郷絵図(17世紀)(北島家蔵)江戸時代初期の出雲大社と港町杵築を描く鳥瞰図。
 
 
江戸時代の慶長14年(1609)造替時の出雲大社境内(部分)。中央の本殿は1609年完成。豊臣秀頼造営で、高さ19.6m、中央左下の三重塔・鐘楼など寺院建築は、16世紀前半、戦国大名尼子経久の造営になるもの。
 
 
寛文年の出雲大社と港町杵築を描く鳥瞰図。
 
  
寛文年度の出雲大社の造営遷宮
 
造営遷宮
 
造営遷宮とは、新しく社殿を建て替え、旧社殿から新社殿へ祭神をお遷しすることである。

なぜそのようなことをするのか。

たとえば、寺院は基本的に倒れたり、火災にあったりしない限り建て替えられないから、法隆寺のように世界最古の木造建築物として残ることもあるが、一般に神社は定期毎に、また建立されてから一定の期間を過ぎたり、または倒れたり、壊れたりなどした時に、立て替えを行い、神様の霊験をパワーアップしようとする。

そのため、寺院と神社とでは、建築構造において基本的に考え方が異なり寺院は柱が朽ちないように、礎石の上に柱を立てるが、神社は祝詞に「底つ磐根に宮柱太敷く立て、高天原に千木高知りて」との文句があるように、柱を地面深く埋めて立ててその上に屋根を覆う構造をとってきた。

したがって、神社は年数が経つ内に柱が朽ちはじめ、寺院のように百年二百年と建物を維持することができなくなるのである。

こうした構造上の問題もあって、神社は定期的に、または朽ちたり壊れたりした時には臨時的に、建て替えられてきたのである。

なお、現在では伊勢神宮を除いてほとんどの神社は、柱が朽ちないように礎石を敷いているため、百年以上も前の神社建築が各地で見られるが、そのような寺院のような建築構造を用いても、なお現在も造営または修造遷宮が神社で行われているのは、遷宮を行う意義が、やはり神様の霊験を新たにしてパワーアップさせるのが第一で、構造上の問題はその次の問題であるからであろう。

さて、遷宮には、定期的に建て替えて、そのたび毎に祭神を旧社殿または仮殿(立て替えの期間中だけ、祭神をお遷しするところ)から新社殿へお遷しすることを、「式年遷宮」という。

その代表は、20年毎に造営遷宮が行われる伊勢神宮があげられる。

また、伊勢神宮は、旧暦9月の神嘗祭の日にあわせて遷宮を行うことから、「祭典遷宮」ともいう。

出雲大社の場合は、約60年毎に建て替えられてきたが、必ずしも定期的ではないため、式年遷宮ではなく、また特定の祭典の日にあわせて遷宮をするのでもなく、新社殿が出来上がったら、良き日を選んで祭神をお遷しすることから、出雲大社の場合は、「造替遷宮」、または単に「造営遷宮」といった。

 
出雲大社(杵築大社)創始の神話
 
神社の創始に関しては、8世紀初頭に律令国家によって編纂された史書「日本書紀」の神代巻や「古事記」のいわゆる「国譲り神話」にも、大国主命(大已貴命・大物主命、所造天下大神・大穴持命などの複数の呼称がある)が、天神に芦原中国を譲渡する代償に、巨大神殿の建造が約されたという神話が語られている。

この時、天神が、出雲国造の遠祖である天穂日命に、巨大神殿に居住することになる大国主命を祀らせることを約している。

『日本書紀』神代巻や『古事記』においては、出雲に関係した神話は、日本の国家形成にかんする神話上、特別な位置付けで大きな比重をもって語られる。

出雲大社巨大神殿創始の神話もその中に位置づけられるわけだがそのクライマックスに、出雲大社巨大神殿創始の神話が位置づけられる。

いわばこの話は、日本古代国家形成に関する神話に象徴的に現れているといえる。

 
古代の杵築大社とその社殿
 
『日本書紀』斉明天皇5(659)年是歳条にも、天皇から出雲国造に神の宮を修造するよう命じているが、これが出雲大社であるとする考え方が強い(一方、これを、出雲国意宇郡の熊野大社であるという説もある)。

733年に編纂が完成した地誌『出雲国風土記』には、出雲国四大神のひとつ「所造天下大神」として特別な位置付けがなされ、その神殿の高大さの由来や用材の採集地についても記されている。

また、出雲国造が、新任ごとに都に上り、天皇に奏上した「神賀詞」(出雲国の神々の祝福の詞を天皇に申し上げる儀式。出雲国造の天皇に対する服属儀礼とする説もある)にも大穴持命を祀っていることを述べている。

このように、古代における、この高大な社の主祭神は大国主命であり、両者が不可分に結びついていたことがわかる。

平安時代に国家によって作成された『延書式』(律令格の施行細則)神名帳によれば、10世紀初め頃の出雲国には、国家から幣帛をうけることができる格式を持った式内社が187座あり(これは大和国・伊勢国についで全国で三番目に多い)、そのうちの首位にあたる明神大社は、意宇郡の熊野大社と出雲郡の杵築大社の二社であった。

このように、出雲国において首座にあった杵築大社は、平安時代中期(10世紀後半)に成立した「口遊」(貴族の師弟の一般教書)にも、当時の常識として、東大寺大仏殿よりも高く、当時の日本で最も高い建造物を持つ社として、記されている。

17世紀初めころに編集された「杵築大社旧記御遷宮次第」(鰐淵寺旧蔵文書)には、1391に年に書かれた文書を典拠にして、景行天皇の時三十二丈(約98m)、その後十六丈(約40m)、次に八丈(約24m)、「今」(1391年頃)は四丈五尺(13m強)とだんだん低くなってきた様子が記されている。

これら個々の大きさの時代がいつ頃で、大きさを示す数値そのものの信憑性がどうであるかについては、現在のところ確言できない。

ただ、現状では太古から中世に至るまで伝承と史実が混じりながら巨大な社殿の情報が伝わったと考えるしかない。

『左経記』という都の貴族の日記には、長元4(1031)年、出雲国司橘俊孝が、杵築社が転倒したという報告をしてきたことが記されている。

翌年、俊孝は、朝廷に対して再建に必要な経費・労働力に関する諸要求を行ったが、法外な要求ゆえに疑われ、結局、杵築大社神官らと結託しての倒壊詐称が発覚し、佐渡へ流罪となっている。

このように、詐称が行われえた事実は、平安時代においては、杵築大社の社殿が巨大であるということが一般常識であったことを示している。

また、現在知られる古記録・古文書類においてま、2世紀から13世紀までの間に、少なくとも5回の転倒記事を確認することができ、このことが、当該期の社殿の巨大性を裏付けていると考えられている。

出雲大社境内遺跡から出土した巨大社殿の痕跡は、同伴した土器の年代から、13世紀初頭の頃の神殿跡であろうと考えられている。

日本史上の時代区分では古代末から中世にかけて、いわゆる平安時代後末期から鎌倉時代にかけてということになる。

この巨大建造物遺構の発見意義の一つは、伝承や記録に加えて、少なくとも古代末・中世のある時期そうした事実があったという物証を具体的に明示したことにある。

さらに、より重要なことは、その存在より以上に、時代を超えて、出雲大社巨大社殿が意識され続け、実現しようとされ続けたことにある。

 
発見された建物遺構と巨大社殿の造営
 
2000年の発掘で出現した建物遺構の全貌は、13世紀前後のいわゆる巨大柱、14世紀後半、16世紀後半、17世紀初頭の柱・礎石・柱穴など複数の大小遺構である。

本書で取り上げる史料は、概ねこの遺構の時期と重なり合う。

先述のとおり、いつ頃から巨大な社殿が造営されたかはわからない。

出雲大社関係の古文書類に、社殿の造営が具体的にみられるようになるのは、平安時代後期(11世紀後半)以後のことである。

この文書類において、今日までに、正殿遷宮と称される巨大社殿の造営がみられるのは、7回である。すなわち、1067年、1114(5)年、1145年、1190年、1248年、1667年、1744年である(これに、比較的小規模な造営事業を加えれば、現在判明するだけでも20回以上の造営事業が行われたものと考えられる)。

 
中世的造営体制の成立
 
平安時代後期から鎌倉時代(11世紀後半から13世紀半ば)にかけて、杵築大社の造営は、地方行政機関である出雲国衙から出雲国司(在京)を通して国家に造営許可の申請を行い、それをうけて国家命令が出されるというしくみになっている。

太政官(弁官局)などから出される国家命令を根拠に、国衙が一国平均役とよばれる臨時目的税を出雲国内から徴収して、仮殿造営を経て正殿造営に至る造営事業を完遂するという形である。

杵築大社関係者にとっては、それこそが、理想的な造営形態であると考えられたようである。

このような造営形態がとられるようになるのは、1067年に遷宮が行われた、いわゆる康平・治暦の造営の頃からである。

このことから、杵築大社が出雲国の鎮守神(一宮)として位置付けられたといえる。

永久2(1114)年に正殿遷宮が行われた造営事業では、事業中途の1110年、造営用の巨木100本(そのうち最大のものが長さ30m、口径2m以上)が、杵築大社の西方にある稲佐の浜に漂着した事件があり、造営が急速かつ円滑に完成している。

この時の出雲国司は藤原顕頼であり、その祖父為房は、当時、国政の最高実力者であった白河上皇の側近中の側近であり、蔵人頭(天皇の秘書局の長官)を勤める要職にあった。後に「寄木の造営」(よりきのぞうえい)といわれるこの時の造営は、むしろ特殊事例であり、この造営開始直前に、出雲国で起こった源義親の反乱事件鎮圧の事後措置として、地域に村して国家の威信を示すという意味合いを含んでいたと考えられる。

久安元(1145)年正殿遷宮が行われた保延〜久安の造営事業は、造営期間があしかけ5年という円滑な造営であった。

これは、後の時代まで理想的な造営と考えられたようで、この時の造営記録は、中世の造営記録の中でももっとも詳細なものである(鎌倉中期「杵築大社造営遷宮旧記注進」北島家文書)。

この時、出雲国司であった藤原光隆は、後に杵築大社領の領家となるが、1170年頃には、さらに社領を後白河上皇に寄進し、ここに天皇家を本家とする杵築大社領が成立し、杵築大社およびその社領が本格的に荘園化する。

建久元(1190)年の遷宮になる建久の造営については、具体的な記録が極めて僅かなために、その造営の経緯は不明である。

この時期は、治承・寿永の内乱(1180〜1185年)による平氏政権の崩壊や、奥州合戦(1189年)による奥州藤原氏の滅亡を経て、鎌倉幕府が成立してくる、いわば体制的には非常時にあたるが、ちょうどこの一時期、杵築大社を祀る出雲国造出雲氏も、鎌倉の新権力によって、杵築大社神主・惣検校職を剥奪されている。

建久の造営の詳細がわかる史料が殆ど残されていないのもそれ故であろうと考えられる。

その後、出雲氏は、これらの職に復するが、領家が任命権を持つ両職のうち神主職は、領家に近しい中原氏と交互に任命されることになる。

このことに対し、出雲氏は、相伝の国造職と神主職との一体を主張し続け、建保2(1214)年、土御門院庁(杵築大社およびその社領の本家であり、領家の上位にある)において、この主張が認められている(建保2年8月日「土御門院庁下文」北島家文書)。

しかし、承久の乱(2121年)を経て、配流となった土御門院の裁定が実施された痕跡はない。

平安時代以来の造営形態が、実態としてともかくも推持されたのは、宝治2(2148)年完成の宝治の造営までである。

この造営は開始から22年にわたる長期間を費やして行われたものである。

すでに、理想とされる造営システムに滞りが出てきたものとみられ、造営着手から本殿の柱立・棟上までにあしかけ7年もの歳月を費やしている。

この時は、本来、造営事業とは直接的には無関係であった鎌倉幕府も、造営途中から、出雲国内の幕府御家人に役を課して財政的な支援を行っている。

この時完成した社殿や境内が、「出雲大社并神郷図」(重要文化財・千家家蔵)に見られる宋塗り柱を持つ社殿群ほかである。

 
中世的造営体制の変容
 
文永7(1270)年正月、この社殿が焼失すると(「帝王編年記」文永7年正月2日条)、約50年にわたって、仮殿の造営さえ滞る。

この時期になると、従来の造営システムが作動しなくなる。

(出雲国の)知行国主の命令を基に国衙機構が造営を実施しようとするが、目代の主導権が滞り、造営が頓挫を繰り返す(年未詳「沙弥(佐々木泰清)書状」千家家文書)。

これに先だって、13世紀半ばには出雲国造が出雲守護佐々木氏と提携しながら国衙機能の一部である国衙祭祀権を吸収していくが、14世紀初頭には中原氏を圧倒して杵築大社の神主職を独占し、仮殿造営権を獲得することになる。

また、この過程で、鎌倉幕府が、事実上の造営主導権を行使するようになり、国衙の機能を利用しながら、出雲守護をはじめ出雲国内の有力御家人を造営奉行に任じて、正殿造営を完成させるべく事業を続行する。

しかし、仮殿完成(1324年)後、正殿造営継続中に幕府が滅亡し、以後、正殿造営は未完のままとなる。

建武新政期から南北朝動乱期に入って、天皇から造営命令が出されるが(建武元(2234)年7月5日「後醍醐天皇綸旨」出雲大社文書、正平12(1357)年9月18日「後村上天皇綸旨」北島家文書)、結局、正殿造営は行われず、14世紀半ば過ぎには、仮殿の老朽化さえ問題になった(応安3(1370)年8月28日「杵築大社神官等連署申状」千家家文書)。

この間の1344年、出雲国造出雲氏は、千家家と北島家に分立することが確定し、以後、両家で造営・祭祀が分担されることになった(康永3年6月5日「千家孝宗・北島貞孝連署和与状」千家家文書)。

動乱が収束にむかいつつあった14世紀後半になると、新興の武家権力室町幕府が、造営命令を出し、出雲国内から段銭(たんせん)を徴収して造営にあたるよう守護京極氏に命じるようになり、守護から守護代と国造が造営事業を具体的に実施するよう命じられている。(応安元(1368年)9月9日「室町幕府御教書」出雲大社文書、本書47文書)。

このような事情で、中世において巨大社殿の造営が行われたのは、宝治2(1248)年の正殿造営までであったと考えられ、それ以後は、仮殿造営を行った後も、正殿の造営が完成しない状態が続き、結局、仮殿の修造が繰り返されることで、仮殿が事実上の正殿になっていったものと考えられる。

この時期になると、杵築大社の主祭神は素箋鳴尊であると認識されるようになっている。

すでに平安時代の都においては、主祭神が素箋鳴尊と認知されはじめていたようで、9世紀頃に編纂された「先代旧事本紀」や長寛2(1164)年に書かれた「長寛勘文」などにその旨記されている。

しかし、このような認識を示す古文書が出雲地方において現れるようになるのは、14世紀に入ってからである。

素箋鳴尊と巨大神殿との関係は、気性の激しい同神が、「異国降伏・朝家泰平」(侵略から国を守り王家の安泰)のために働くので、社壇を高く広く設けるのだとしている(貞治4(1365)年「国造北島資孝代時国申状案」北島家文書)。

戦いの絶えない鎌倉時代末から南北朝期の時代状況に合致した主祭神と巨大社殿の論理が考え出されているが、併せて、出雲国造の祖先神である天穂日命が皇祖神天照大神と素箋鳴尊によって生み出された神であるという神話とも連動しうることが注目される。

室町時代に入ると、応永12(1405)年に出雲守護京極高光が、出雲の有力国人松田掃部入道にたいして、室町将軍(足利義持)から造営命令が出されたので、両国造と談合しながら造営を行うように命じているが(応永12年10月13日「出雲守護京極高光施行状」出雲大社文書本書60文書)応永19(1412)年には社殿が完成し、遷宮が行われている(年月日未詳「杵築大社造営覚書」佐草家文書)。

以後、1442年(?)、1467年、1486年に遷宮が行われたことが記録に散見するが、詳細は不明である(17世紀初頭「杵築大社旧記御遷宮次第」鰐淵寺旧蔵)。

戦国時代に入り、守護京極氏に代わって出雲国支配権を掌握してきた戦国大名尼子氏は、杵築大社の造営を主導するようになる。

尼子経久が永正16(1519)年に、その孫の尼子晴久が天文19(1550)年に、それぞれ造営を完成させ遷宮を行っている。

経久は、出雲国内から人別五文の臨時税を徴収して造営にあたった。

このころから、造営事業に本願聖が関与するようになり、後には神社内の庶務を行うようになる。

16世紀〜17世紀半ばまでの杵築大社境内には、宋塗り柱を中心に、周囲に三重塔や鐘楼、大日堂など寺院建築も建ち並び、仏教の影響が濃厚に見られるようになった(「杵築大社近郷絵図」北島家蔵)。

また、安芸国の戦国大名毛利氏が尼子氏を滅亡(1566年)させて後の天正8(1580)年には、毛利輝元が造営を完成させている。

 
近世三度の出雲大社造営遷宮
 
出雲大社は、江戸時代に三度の造替遷宮を行った。

最初の造替遷宮は、慶長年間、すなわち太閤豊臣秀吉が亡くなつて、1600年の関ヶ原の戦いを境に、出雲国が、毛利氏の手を離れ、堀尾氏の領国となって後の慶長141609年には、大阪城主の豊臣秀頼によって造営が完成し、高さ19.6mの本殿が完成している。

それを「慶長度の造営遷宮」と称した。

次の造替遷宮は、寛文年間、すなわちいわゆる武断政治から文治政治に代わった徳川四代将軍家綱の時代である。

それを「寛文度の造営遷宮」と称した。

そして最後の造替遷宮は、延享年間、すなわち新田開発を盛んに奨励し、米将軍とも称された徳川8代将軍吉宗の時代である。

それを「延享度の造営遷宮」と称した。

現在の出雲大社御本殿は、その時に造営された建造物である。

なお、文化年間にもう一度造替遷宮を行う予定であったが、江戸幕府の経済が破綻していたため中止され、壊れた箇所を修理する「修造遷宮」に変更された。

その後も、出雲大社では、明治・昭和の二度、遷宮が行われたが、いずれも修造遷宮であった。

なお、現存の御本殿を造営する時も、幕府は既に財政難っており、全国の社寺の造替や修造の援助を停止していたが、出雲大社は特別に造営許可を受けて建てられた社殿であった。

しかし、造営費は前回の寛文度のそれと較べ、幕府から僅かな援助しか受けられなかった。

そこで、出雲大社は、神主自身が造営費を賄うための募金活動として、日本全国を巡り歩いて募金できる許可を幕府へ申請した。

幕府も出雲大社への造営費援助ができない代わりにそれを許可し、かつ政治的に支援した。

たとえば、幕府は老中の命令として、出雲大社神主に限って関所をフリーパスにさせ、宿泊地を各地の庄屋や旅籠などに協力を求め、浄財等の運搬も援助することを約束したのである。

出雲大社側はそれを「日本勧化」と称し、出雲大社の上級神職である上官を中心にして全国各地を巡り歩き、募金活動を行うと共に、布教活動をも同時に行った。

これにより出雲大社の名が全国の人々に広まり、多くの信者を得ることが出来た。

ところが、実際の浄財は思うようには集まらず、島根県古代文化センターの岡宏三氏のご教示によると、最終的に松江藩が造営費の大半を援助したのであった。

 
記紀・風土記を通じて見た出雲大社創建の由来
 
出雲大社を造営するにあたり、江戸幕府から造営費を全額援助してもらうためには、出雲大社が特別なお宮であることを理解してもらわなければならない。

そのため、出雲大社の神主や出雲の国を統治する松江藩の藩主や藩士は、江戸幕府の寺社奉行を説得して、造営費捻出を実現化させようと、出雲大社の歴史を多くの古典から勉強し、その結果、江戸幕府は出雲大社を建替える責任がある、とまで主張するようになった。

ではなぜ、江戸幕府は出雲大社を建替える責任があるのか。

出雲大社側はその根拠として、『古事記』『日本書紀』(この二書を総称して「記紀」という)や『出雲国風土記』などの古典に見られる出雲大社創建の由来や祭神の御神徳などをあげた。

 
古事記の場合
 
その根拠を確認するため、まず『古事記』から出雲大社の創建譚を見ることにしたい。

『古事記』では、天つ神が伊邪那岐大神(いざなきのおおかみ)と伊邪那美大神いざなみのおおかみに国を生み、神を生み、人々が住めるように国を修理つくり固め成せ、と命じたとある。

そこで両神(「はしら(=柱)」とは神様を算える語)は、高天原から地上に降りられて国や神などを次々にお生みになった。しかし、伊邪那美命天つ神からご命令を賜って以降、両神は「神(カミ)」から「命(ミコト)」へ改称した)は火の神をお生みになったため、大火傷をされてお亡くなりになったのである。

日本の神様は、ユダヤ・キリスト教の神様のように、粘土で人の形を作り、その鼻の孔に命を吹き込んで人男、アダムを作ったり、その肋骨から女イヴを作ったり『旧約聖書』はせず、お母さんが赤ちゃんを産むようにして、国や神を胎内から生み出される。

そのため、胎内から火の神が生み出された時、空気に触れて発火し、母の伊邪那美命はその火で大火傷をされ、それが原因でお亡くなりになったのである。

これにより、両神は天つ神のご命令である国作りが遂行できなくなった。

そこで伊邪那岐命は、そのご命令をなんとか遂行するためにと、黄泉国死者の国から伊邪那美命を連れ戻そうとされたのである。しかし、結局果たせなかった。

『古事記』では、それ以降国作りが未完成のまま出雲神話に入っていく。

国作りが未完成のままでは、最終目的である天照大御神がお孫さんニニギノミコト、天皇の祖神を天上の高天原から地上の国葦原中国へ降臨させるこれを天孫降臨ということができない。

そこで、天孫降臨の前に国作りを完成させておかなければならない。つまり、『古事記』では、伊邪那岐命と伊邪那美命が果たせなかった国作りを完成させる神を、天孫降臨の前に登場させる必要があった。

そこで、選ばれたのが、出雲大社の御祭神大国主神であったのである。

大国主神は、少名毘古那神すくなびこのなのかみとともに国を作り、大三輪の神奈良県の大神神社祭神を祭ることで国作りを成し遂げた。そこで天照大御神は、御自身の子供が統治するべき国作りが完成したので、大国主神にその国を譲るように便者を派遣し、その条件として、大国主神を祭る「天の御舎」、すなわち出雲大社を創建し、出雲国造の祖神がその祭祀に当たることを提示したのである。

つまり、『古事記』では、出雲大社は高天原の天つ神の代表神天照大御神が、国つ神の代表神大国主神のために創建された神社、と伝えられているのである。

 
日本書紀の場合
 
次に、『日本書紀』では、出雲大社の創建譚をどのように伝えているのであろうか。

『日本書紀』の神代巻は、本書とそれ以外の話を記した複数の一書あるふみから成っている。

本書では、伊弉諾尊と伊弉冉尊は国作りを完成させたが、『古事記』のように伊弉冉尊が亡くなった、という記事はない。

つまり、『日本書紀』本書では、両神によって国作りが完成したとあるので、『古事記』のように大国主神のような国作りの神が、両神以外に出る幕がないのである。

そのため、『日本書紀』本書所収の出雲神話には、『古事記』のような面白味はない。

その点に『古事記』と『日本書紀』の違いがあるといえよう。

とはいえ、『日本書紀』本書にも一書にも、出雲の神はいわゆる国譲りの神として登場する。

例えば、『日本書紀』本書では、天つ神の国譲りに応じ、その後大己貴神(『古事記』の大国主神にあたる神)は「モモタラズヤソクマデ」に身を隠されるが、『古事記』にあったような出雲大社創建譚は記されていない。

『日本書紀』で出雲大社創建譚が見られるのは、先の本書と同じ段の第二の一書に出てくる。

それによると、大己貴神は、天つ神の使者から国譲りを持ちかけられたが、納得がゆかずそれを許可しなかったため、「皇祖神」である高皇産霊尊たかみむすひのみことは、大己貴神に、今まで大己貴神が統治していた目に見える世界顕露の事は、今後天つ神の孫スメミマ、のちの天皇に譲り、大己貴神白身は今後は目に見えない神の世界神事・幽事を統治するように、との条件を提示した。

これを「顕幽分治」とも「顕幽分任」とも称す。また、高皇産霊尊は、大己貴神のお住まいとして天日隅宮、すなわち出雲大社を建て、出雲国造の祖神が大己貴神をお祭りする、という条件も付け加えた。

大己貴神は、そうした条件を納得し、幽冥の世界へ身を移されたのである。このように、『日本書紀』では、その一書に、天つ神の代表神高皇産霊尊が、国つ神の代表大己貴神のために出雲大社を創建したことを伝えていた。

なお、『日本書紀』では、天照大神ではなく、高皇産霊尊のみ「皇祖」と称されている。その皇祖神から出雲大社が創建されたことは、注意すべきであろう。

 
出雲国風土記の場合
 
一般に出雲の神話を「出雲神話」と呼んでいるが、学界では最近、記紀の出雲神話と風土記の出雲神話を明確に区別するようになってきている。

つまり、記紀にない記事を風土記の記事で補って説明を加えることは、果たして正しい説明になるのであろうか、といった疑問があるからである。

そこで記紀の出雲神話を「出雲系神話」とし、風土記の出雲神話を「出雲神話」と区別するようである。

また、記紀神話においても編纂意図の異なる『古事記』と『日本書紀』を、相互に補い合うことが果たして良いものだろうか、本来の『古事記』や『日本書紀』の意図から離れるのではないか、という疑問が出てきたことから、最近では記紀の間に「・」を付けて、「記・紀」神話と記すようである。

では、最後に、『出雲国風土記』における出雲大社創建譚も見ておこう。

風土記では、天つ神の代表神である神魂命(かみむすひのみこと)が所造天下大神あめのしたつくらししおおかみ、すなわち大国主神の別名とされる大穴持命おおあなもちのみことのお住まいである天日栖宮あめのひすみのみやを出雲国造の祖神に造らせたとあった。

つまり、出雲系神話同様に、出雲神話でも、出雲大社は天つ神の代表神が、国つ神の代表神の住まいを建てるという話をもって、創建の由来を示していた。

 
出雲大社創建の由来
 
以上、記紀や『出雲国風土記』を通じて出雲大社の創建譚を見てきたわけだが、共通して言えることは、出雲大社は天つ神の代表神が建てられた国つ神を代表する神のお宮であり、そのお宮の祭祀者は出雲国造の祖神天つ神系をもって当てられた、ということであろう。

そして、それは当時の統治者神話時代の場合、天つ神側の代表神が責任をもって出雲大社を建て、かつ祭祀をも保証したことを意味したのである。

そして歴史時代になると、古代では大和朝廷が、鎌倉時代では鎌倉幕府が、戦国時代では出雲国の各大名がそれぞれ責任をもって、出雲大社を造営し、祭祀を保証してきたのであった。

こうした理由から、出雲大社側は、近世になっては統治側の徳川幕府が出雲大社を造営し、その祭祀をも保証する責任がある、と主張したのである。

事実、幕府は天皇の大政を委任されたという形を「禁中並びに公家諸法度」でとったことと、先例主義を重んじたことから、天皇の祖先神に当たる天照大御神や皇祖高皇産霊尊以来、時の続治者が行ってきたことを、天皇に代わって継承しなければならない。

とはいえ、幕府を納得させるためそのための証拠や意義を提示しなければならないし、幕府との関係も良好にして統治者の心証を良くしておかなければならない。そのため、出雲大社の神主や松江藩の藩士は、毎年江戸へ行き、何年もかけて地道に造営遷宮の交渉をし続けたのであった。

 
寛文度の造営遷宮
 
朱塗りの本殿
 
そうした努力の甲斐あって、寛文7年16673月30日、出雲大社は420年振りの正殿式遷宮を執り行うことができた。

420年振りとは、鎌倉時代の宝治2年1248に執り行われた宝治度の正殿式遷宮以来である。

最近、出雲大社人足門前から大きな御柱が三本束ねた形で発掘されたが、その御柱は宝治度の正殿式遷宮で建てられた時の遺物ではなと考えられている。

千家国造家に伝わる『金輪御造営指図』によると、当時の御本殿の高さは、現在の2倍の六丈約48mもあった。

しかし、寛文度の造営遷宮で中心的な役割を果たした北島国造方上官の佐草自清は、宝治度の造営遷宮以前は、現在の4倍の高さ三十二丈約96mもあったとし、それ以後現在と同じ高さの八丈約24mをもって正殿式の高さになった、と考えていた。

そのため、寛文度の造営遷宮においては、宝治度以来の正殿式遷宮、すなわち八丈の本殿を建てたい、と主張したのである。

なお、前回の慶長度の造営遷宮は、高さが六丈六尺約20mのいわゆる仮殿式の本殿であった。

仮殿式とは、正殿式でない規模、すなわち八丈よりも小さな規模で建てられた本殿を意味する。

しかも、その本殿の柱は、真っ赤に塗られていた。

自清によると、現在の日御碕神社の社殿(徳川家光の頃に建立)は、その時に建てられた出雲大社の真似をしたのだ、という。

だが、自清にとっては、そうした宋塗りの社殿が大変気に喰わなかった。そこで、今回はどうしても正殿式の本殿に、しかも宋塗りではなく、伊勢神宮のような白木の本殿に建て替えたかったのである。

 
黒沢石斎
 
自清がそうした考えを主張するようになったのには、松江藩初代藩主松平直政に仕えた儒者黒沢石斎の存在があった、と思う。

石斎は、直政の嫡子綱隆を伴って江戸から出雲の国へ入り、初めて出雲大社に参拝した。

その時、彼が目にした出雲大社は、豊臣秀頼が建てたその宋塗りの本殿であった。

石斎は、その時の印象を紀行文『懐橘談』で大変厳しく批判した。

黒沢石斎は、そもそも伊勢神宮の社家出身で、江戸に出て林羅山に師事した儒者であった。師の羅山は、神道と儒教は、究極的には一致するという考えを持った方で、そうした究極の神道を「理当心地神道」と称した。

 
理当心地神道と唯一宗源神道
 
「理当心地神道」とは、吉田家の唱える「元本宗源神道(唯一宗源神道)」、すなわち吉田神道に対抗した神道説である。

吉田神道とは、万法の宗源もとが「神道」であり、その神道があらゆる宗教の元、すなわち「種」であるとした。

そして、その種が、震旦中国で幹となり、枝葉となって「儒教」に成長し、天竺インドへ渡って開花して花となり実となった。

それが「仏教」である、と主張したのである。

そのため、我が国に仏教が渡ってきたのは、花や実が熟して地に返ることを意味するものであって、仏教も儒教ももともとは神道であり、それが派生したもの、と考えたのである。

そして、そうした宗源もとの神道が、吉田家に唯一伝わっていることから、吉田神道を唯一宗源神道とも称したのである。

では、なぜ、吉田家だけに唯一、宗源の神道が伝わっているのか。

それは、天孫降臨に際し、吉田家の祖神である天児屋命あめのこやねのみことが皇祖高皇産霊尊から「神籠磐境もろひきいわさかの神勅」、すなわち天皇のために祭祀を厳守せよ、との神勅を賜って以来、変わらず吉田家の当主に伝わっているからだ、と説明した。

つまり、唯一宗源神道とは、高皇産霊尊→天児屋命→歴代の吉田家当主のラインで継承されてきたものといえよう。

それに対し、林羅山は、天孫降臨に際し、天照大神が皇御孫命である壕壕杵尊ににぎのみことに賜った「天壌無窮てんじょうむきゅうの神勅」、すなわち天照大神の子孫が、永遠に豊かで瑞々しい稲穂を供給する我が国の王者として永遠に君臨するように、と予祝したお言葉に注目し、歴代の天皇はそのお言葉、すなわち天照大神の御心を受け継いでおられることから、天皇にのみ真の神道が伝わっているとし、それを「理当心地神道」と称したのである。

つまり、「理当心地神道」とは、天照大神→壇壕杵尊→歴代の天皇のラインで継承されてきたものといえよう。そして、それ以外の神道「神道三流」=唯一宗源神道・両部習合神道・本迹緑起神道は、「ト祝随役神道」と蔑称したのである。

 
儒学思想の浸透
 
一般に儒学者は仏教を非常に忌み嫌った。

なぜなら、儒者は親に孝を、主君に忠を、夫婦に序を、兄弟に友を、などと人の生きる道を説くが、仏教はそれに反して出家を説くからである。

つまり、仏者は、子供の時に親に大事に育てて貰いながら、仏の道に行くからと言って親を捨てる、また親なのに子を捨てる、夫婦ならばその関係を絶つ、など人の生きるべき営みを全て投げ捨てて、仏の道に入ること、すなわち出家を重んじた。

こうした理由から、儒者は、仏者の教えは、人の道に反する教え、として非常に忌み嫌つたのである。

したがって、儒者が唱えた神道説それを儒家神道と称すが、皆一様に神道を仏教理論をもって説く両部神道や神社に仏教色が入り交じる神仏習合の状態を批判したのは当然であり、さらには神道や神社から仏教を排除すべきだ、とまで主張したのである。

黒沢石斎もそうした視点で神道や神社を考えることを学んだわけだから、当時の出雲大社の状態を見て、厳しく批判したのも無理も無かったわけである。

ところが、彼をその時案内した佐草自清は、彼のそうした視点からの批判を大いに恥じたのであった。

実は、『懐橘談』は出板される前に、その下書きが出雲大社の神主等に回覧され、それが書写されていた『懐橘談後編』

つまり、出雲大社の神主等は、『懐橘談』が世に出る前にその内容を知っていたわけである。

出雲大社では、千家国造方、北島国造方の区別無く皆一様に、『懐橘談』の下書きを見たことで、出雲大社の現状が厳しく批判されていることを知り、それを境にして従来の神仏習合の空気から覚醒し始めていったものと考えられる。

その後、佐草自清は黒沢石斎と協力して幕府に提出する出雲大社の公文書を作成するようになったが、当時、出雲大社内には自清以外にも優秀な学者肌の神職がいた。

その一人の別火祗吉は、京都の儒学者山崎闇斎に師事していたということが、同家の系譜に記されている(「別火職系譜」)。

こうしたことからも、出雲大社内には、儒学思想が浸透していたことが想像できる。

さらに、前述した如く、『懐橘談』が回覧されたことなどもあって、出雲大社の神職は、従来の神仏習合的な状態からの脱皮、すなわちそうした意識革命を余儀なくされていたことも想像できよう。

そこで、出雲大社内では、次第に神仏習合状態から仏教色の混じらない純神道(彼らはそれを「唯一神道」とも称した)の状態へ戻そうという考えが芽生えてきたと考えられる。

寛文度の造営計画は、まさにそうした状況下で練られ、かつ進められていったのである

 
出雲大社の本願
 
ところが、そうした状況下にありながら、幕府と交渉するのは今までの慣例通り「本願」という社僧であった。

松江藩が定めた『杵築諸法度』出雲大社に出した法令には、「本願」は、別火同様、千家・北島両国道家の「仲人」を勤めよ、とあった。

出雲国造家が千家・北島両家に分かれて以来、出雲大社での祭祀は、奇数月は千家国造が、偶数月は北島国造が執行するようになっていた。

そして、もし担当月の国造が何らかの都合で祭祀が執行できない時には、代わりに一方の国造が行うのではなく、別火がその代行を執行してきたのである。

そのため、出雲大社の神職は、千家・北島両国造家の内のどちらかに所属していたが、別火だけは原則的に両国道家に所属しない独立した社家であつた。

前述の『杵築諸法度』にあったように、別火が両国道家の「仲人」という位置を定められたのも、従来の慣習に則ったものであった。

それに対し、本願も、そうした別火と同等の地位を松江薄から保証されていた。

それは、藩や幕府とのいわゆる渉外担当という重要な役職を行うため両国道家から中立な立場にたって、すなわち出雲大社を代表する立場で交渉を進めなければならなかったため、別火と同様、両国道家の「仲人」という地位を保証されたのであろう。

かくて、社僧「本願」は、出雲大社では別火と並ぶ別格の地位にあったことから、国造家と姻戚関係をも持ったのである。

すなわち、本願宣養は、第60代北島国造安孝の孫と結婚し、その息子が最後の本願文養なのであった。

寛永18年1641、その宣養・文養父子は、出雲大社の歴史をよく知らなかったためか、交渉が進まず、藩主松平直政は、出雲大社から上官を一人参府させるように、と命じた事件が起こつた。

そこで、出雲大社では早速東上官の千家貞信が遣わされた。

この貞信とは、佐草自清の実父であった。

自清は貞信の長男だが、本妻の子供ではなかったことからか神職にならず、儒医いわゆる漢方医の道に進んだが、その後北島国造方上官の佐草利清の娘婿となって、佐草上官家を継承してからは、北島国造方神職の重鎮となった。

したがって、自清はこの事件を実父から知らされていたことは想像に難くない。

つまり、自清はこうした環境に育ったことからも、早くから本願に不信感を抱いていたと思われるのである。

さらに、今度の造営遷宮においては、神職の理念を反映させるのが第一の目的としていただけに、その不安は一層深刻なものであったと考えられる。

そして、その不安は的中した。寛文元年16618月、幕府から正式に造営遷宮の許可が下された、との知らせを受けた出雲大社は、両国造名代の長谷正之千家国造方と佐草自清北島国造方を早速松江へ派遣した。

そして、彼らは、松江藩寺社奉行から提示された「大社御造営覚書」に、情然としたのであった。

 
大社御造営覚書
 
「大社御造営覚書」当初どういった形の造営遷宮を行おうとしていたかが窺える。

それによると、本殿は六間約10.9m四面、高さ八丈約24mで、九本柱の正殿造りであった。

すなわち、出雲大社側の宿願であった、仮殿式から正殿式へ再興することの申請が明記されていたのである。

これによって、正式に正殿式遷宮を幕府側に申請したことになつた。

ただし、慶長度のように、出雲大社本殿の柱には布を着せて、宋塗りであること、また、本殿のみならず摂社・末社の組み物・彩色・金物なども、旧態依然のままにするように、とあった。そればかりか、「御遷宮の事」として、三重塔や大日堂といった当時境内にあった仏閣についても、修理や上葺きをしてもらいたい、とあったのである。

ここで注目したいのは、当初寛文度の造営遷宮に、神仏分離計画はなく、仏教施設はそのまま維持する計画であったことである。

殊に肝心な本殿は、正殿式に準じた規模の本殿とは明記されていたが、外観は慶長度の本殿と変わりなく、柱も希望の白木ではなく、従来通りの宋塗りを申請していたのであった。

こうした申請は、もちろん儒学思想の影響を受けた神職の考えを反映したものではなく、交渉を行ってきた本願の考えを反映したものであった。

つまり、この覚書は、出雲大社の神職が、『懐橘談』で従来の神仏習合状態から覚醒させられ、そうした状態を改めていこうとする流れと逆行するものであったのである。

 
本願から上官による交渉へ
 
そこで出雲大社は、幕府や落との交渉を任せていた本願文養を、その職から解き、上官を国造名代として、その代わりを担わせたのである。

ただし、それを示す明確な史料は未見だが、これ以降、出雲大社の「御造営日記」に本願が出てこないことから、本願が交渉の場から外されたものと考えられる。

本願に代わって交渉の場に現れたのは、千家国造方上官の島倫重と北島国造方上官の佐草自清であった。

彼らは両国造名代として、早速江戸へ下向し、本願との間で行われた交渉を修正することから取りかかった。

まず、彼らが向かったのは、造営を任された江戸の宮大工鈴木修理であった。

鈴木は、正殿式の大社造りの本殿を任されたが、日光東照宮に見られるような複雑な組み物を取り入れた本殿を建てる予定にしていた。

そこで、両国造名代は、従来通りのシンプルな大社造りで、かつ宋塗りではなく白木で建てるように、と念を押したのである。

 
松江藩の支援
 
造営遷宮の交渉は、出雲大社の上官ばかりではなかった。

特に幕府寺社奉行との交渉には、必ず松江藩の奉行が積極的に参加し、松江藩主や出雲大社の意見を伝えたのである。

造営遷宮が正式に許可された翌年の寛文2年16624月5日、幕府寺社奉行の井上正利は、松江藩に九項目からなる大社造営に関する目録を提示した。

この第三項目に、新宮の彫り物を停止することがもられていたのは、両国造名代が交渉した結果であろう。

ただし、この目録の第一・第二項目をめぐつて、幕府と松江藩・出雲大社との間で、意見の対立が生じた。

その第一項目は、「一、御社立所ハ、元所之事、」とあった。すなわち、新本殿の位置は、旧本殿の場所へ建てるように、ということであった。これは旧本殿を解体してから、新本殿をその場所に建てよ、というもので、従来の出雲大社の遷宮にはなかった方法であった。

そこで、藩と出雲大社は、早速この件で異議を申し立てた。

すると、井上奉行は、それは老中方の意見であるが、伊勢神宮にも遷座地が二カ所あるのだから、出雲大社も別の遷座地があっても結構である、として藩や出雲大社の変更願を許可した。

次に、第二項目であるが、これは「一、御正殿新御造営、其外者御修覆之事、」とあった。

すなわち、新しく建て替えるのは本殿のみで、それ以外の社殿などの施設は全て修覆せよ、というものであった。

出雲大社の造営には、莫大な予算が見込まれた。

一説には、増上寺の建築費用や伊勢神宮の式年遷宮の費用よりもかかる、とされた。そのため、幕府はできるだけそうした予算を組まないように牽制したのである。

それに村し、強く異議を申し立てたのが、松江藩主松平直政であった。

直政は、今度の造営遷宮は、将軍家綱が願主となって、総費用を捻出するものであったため、出雲大社を永久に残さなければならないし、かつ立派なものを建てなければならない、と考えた。

だが、そのためには境内を全面的に地均しをしなければならなかったのである。

なぜならば、慶安元年16486月21日の洪水で、出雲大社の裏山から土砂崩れが発生し、境内並びに北島国造邸に土石流が流れ込み、境内の東西に流れる二つの川も土石流で埋まってしまったからであった。

そのため、境内の地形が下り坂のようになってしまったという。そこで、出雲大社を永久に残すためには、まず地均しをしなければならなかったのである。

直政が、その第二項目を撤回するように申し出たのは、そうしたわけがあったからである。

 
寺社奉行井上正利と山崎闇斎
 
井上寺社奉行は、そうした松江藩や出雲大社側の意見を最大限受け容れた。

実は井上寺社奉行は、ある時を境に出雲大社に対し、理解を示すようになったのである。

交渉の当初は、井上奉行は松江藩士や両国造名代に詰問をあびせ、できるだけ予算を削るように働きかけていたのだが。

寛文2年3月29日、奉行は、伊勢神宮は天下の宗廟だが、出雲大社の祭申大己貴神は、その「御手下」である、なのに、なぜ伊勢神宮よりも予算がかかるのか、といって莫大な予算申請の許可を渋ったのである。

そこで松江藩士と佐草自清は、それが歴代の天下人が出雲大社に行ってきた「御馳走」なのである、として、前述した出雲の神話を始め、斉明天皇以来の造営遷宮の史実を提示して、理解を求めたのである。

しかし、奉行は納得できず、交渉は決裂した。

ところが、それから一週間後の4月5日、井上奉行は松江藩士に、

出雲大社は伊勢神宮に続き御造営しなければならない神社である。その理由は、祭神の大己貴神は、日本の主であり、60余州の一宮は皆大己貴神だからである、と語ったという。

この豹変には、彼の師山崎闇斎の教えがあったからだと考えられる。

実は、闇斎はこの間に京都から江戸へ下向し、いつものように井上邸に寄宿していたのである。

そこで、井上奉行は、早速闇斎先生に出雲大社の件について、教えを請うたのであろう。

そして、闇斎は、井上奉行が語ったようなことを教えられたに違いない。したがって、井上奉行は、この一週間で手のひらを返すように豹変し、出雲大社に理解を示すようになったものと思われる。

なお、出雲大社には、別火祗吉が山崎闇斎の弟子であったことは既述した。

それも、おそらく井上奉行の師匠が闇斎先生である、という情報を出雲大社が事前に得ていて、将来の造営交渉が有利に働くようにと、出雲大社で闇斎に師事できる優秀な神職を抜擢して、京都へ遊学させていたのではないだろうか。

つまり、出雲大社では、この造営遷宮を成功させるために、松江藩儒者黒沢石斎に佐草自清が近づき、井上寺社奉行の師匠である山崎闇斎に別火祗吉が近づくことで、双方から出雲大社の支援をしてもらうように働きかけていたのではないだろうか。

出雲大社は、政治交渉を本願に代わり神職のみで行うという、全国でも非常に珍しい態勢を試みたが、そこには出雲大社の用意周到な計画と実行があったものと考えられる。

 
造営料二千貫目
 
井上寺社奉行の理解が得られた結果、翌月の5月5日、幕府から正式に造営料二千貫目が拠出されることが決まった。

両国造名代は、早速その日に将軍家綱に御目見した。

造営遷宮における出雲大社神職の御目見は、正保3年16466月の将軍家光へのそれ以来であった。

それについて、井上寺社奉行は、伊勢神宮の式年遷宮が決まった時も、伊勢の主は幕府へ御礼に参ったが、将軍への御目見はなされず、老中までであったことから、出雲大社に村する幕府の厚遇に驚いた。

そこで、松江藩主直政は、出雲大社と将軍家綱との間には特別な関係があったことを、藩士を通じて伝えたのである。

それによると、将軍家綱は出雲大社の申し子、と将軍家では信じられていたという。

寛永17年1640)10月、春日局が藩主直政の母月照院に頼んで、将軍家光の嫡男誕生の祈祷を出雲大社に頼まれた。

そこで、千家・北島両国造は、10月朔日から1月間社寵して祈祷を行い、それが成就したことを春日局に報告した。

すると、その翌年の8月4日に家綱が誕生したのである。

すなわち、両国造が嫡男誕生祈願を行った時に懐胎したことになろう。

そのため、将軍家では、家綱は出雲大社の申し子、として信じられていたのである。それを井上寺社奉行に伝えたのであった。

それ以降、井上寺社奉行が出雲大社をより信頼するようになったことは言うまでもない。

さて、その月の12日、造営料二千貫目を大坂町奉行所から受け取るように、との連絡が幕府から松江藩に下った。そして、三年後の寛文5年5月3日に、造営料として白銀二千貫目を受け取ったのである。

 
本願追放
 
井上寺社奉行が豹変した寛文2年4月5日、佐草自清はこの機会に出雲大社神職の本音を打ち明けた。

すなわち、出雲大社境内は尼子経久の時から大日堂や三重塔といった仏教施設が建ち並ぶようになったが、儒学思想の浸透で神仏習合の状態が良くないことを覚醒させられた神職にとって、その施設は無用の長物となっていた。

また、祭神名は中世以来の素箋鳴尊から『日本書紀』に基づいて大己貴神に変更していた。

つまり、出雲大社にとっては、旧態依然とした中世の神仏習合状態から脱皮し、新しい世の流れに応じて、再び元の神道のみの状態へ復古しようと考えたのである。

この動きに危倶した出雲大社本願は、その翌月、幕府寺社奉行所に両国造を訴えた。

本願文養は、前述の「大社御造営覚書」に異議を唱えられ、それを修正させられたことで、本願が排除されるという危倶を抱いたのである。

文養にとって、造営交渉は代々本願が行ってきたのであるから、そうした文書はすべて本願にあるのだが、千家・北島両国造は難題を申しかけてきたばかりか、藩主直政の許可を得て、偽った文書をもって交渉していることを質していただきたい、と訴えたのである。

それに村し、用意周到な両国造名代は、逐条論駁し、そもそも本願は両国造の「手下」であって、出雲大社には本願が所有しているよりも、もっと古い造営に関する公文書を保管している。

それに村し、本願が神職同様に、三百年以上も前の公文書を持参して交渉を行うことができない事は、文養の訴状にこそ偽りがある何よりの証拠である、と非難した。

同年7月11日、井上寺社奉行から本願文養を追放する旨が伝えられた。

そこで、佐草自清は、その「御証文」を作成していただくよう願い出た。

その下書きは、事前に両国造名代に確認させたという。

つまり、両国造名代の納得いく形で、本願は処分されたのである。

それが同月13日に発表された。

すなわち、寺社奉行は本願の訴状を却下したのみならず、その訴状が偽りであった事を重く受け取り、文養から本願職を免じ、出雲大社からの追放処分を命じたのである。

松江藩は国造に宛てた報告で、今回の事件は、「本願が濫訴したために、神罰を蒙って自滅したのだ」と記している。

出雲大社にとっては、純神道に復古しょうとする動きの中で、仏教施設と共にどうしても動かせない本願の問題に頭を悩ましていただけに、本願追放の報告は予期せぬ朗報であったと言えよう。

本願が追放されることになった今、佐草自清は井上寺社奉行に、今度の造営遷宮で、仏教施設を悉く取り除きたい、と申し出た。すると、奉行は、すべて「破却しなさい」と答えられたという。

さらに、自清は鰐淵寺との関係を絶ちたい旨も申し上げ、その許可も得た。出雲大社は、ここに長年神仏習合であった状態から脱皮できるようになったのである。

ここで注意しておきたいのは、神仏を分離させたり、本願を追放させる、という計画は当初からあったものではなく、こうした問題は、神職が本願に代わって交渉の場に出てから、次々に出てきたものであった。

ただし、前述の「大社御造営覚書」が提示されてから、すぐさま本願を交渉の場から外し、その覚書の内容を一部変更させたのは、出雲大社神職中に儒学思想が浸透し、神仏習合状態から脱皮したい、という思いが当初から強かったことを意味しょう。

 
三重塔と妙見山の大杉
 
正殿式遷宮を行うためには、9本の大木を用意しなければならない。

出雲大社の本殿を従来の朱塗りから白木へ変えることになったからには、伊勢神宮に倣って檜造りでありたい、と考えた。

しかし、出雲大社の本殿は、伊勢神宮の正殿に比べ大規模である。

そのため、伊勢神宮で用いられている檜以上の大木を用意しなければならない。

しかし、そうした檜は、全国を探してもついに見つけることができなかったのである。そこで檜に比べ見劣りはするものの杉に変えることにした。

ところが、出雲大社の本殿で用いられる「心御柱俗に「大黒柱」と言われるもので、正式には「天御量柱(あめのみはかりのはしら)」という)」一本は長さ七間一尺約12.9m末口四尺約1.2m、「宇豆柱」二本は長さ八間三尺約15.5m、末口三尺三寸約0.99m、「側柱」6本は長さ六間一尺(約11.2m)、末口三尺約0.9mもの大木である。

これだけの大杉を現在国内で調達するのは不可能に近いが、当時でも全国を探しても容易に見つからなかったのである。

そうした中、寛文3年12月、大坂の材木商の情報から但馬国妙見山に、正殿式の本殿の条件に符合する大杉があることがわかった。

早速、松江藩造営奉行らが妙見山へ向かい、その山を管理する住職の日光院に相談した。

当初、日光院はそれを断つたという。なぜならば、その大杉は御神木であったからである。

だが、御神木の大杉が、出雲大社の本殿の御柱に用いられることなら有り難いことで、もし破却予定の出雲大社三重塔を妙見山に移築してくれるならば、交換として御神木を譲ってもよい、と松江藩造営奉行の要望に応えた。

それに対し、奉行は、材木代は幕府の造営料予算に入っているので、交換条件は呑めないが、三重塔の移築については検討する、と答えた。

現在、妙見山(現、兵庫県八鹿町)は名草神社と改称し、その境内地に出雲大社から移築された三重塔が聳え建っている。

妙見山の大杉は、寛文4年閏5月4日から次々に引き出された。

それらの用木は一本ずつ山から滑り下ろされ、麓の大川現在、円山川で筏に組んで流し、豊岡からは大船に積み上げて日本海沿岸から運搬した。

大船は8月19日に美保関に、そして同月21日夜に杵築の仮宮杵築六か村のひとつに着岸した。地元では、その大船を小舟30般で出迎えたという。

翌日、心御柱の用木に付けてあった御幣を、8月の本殿祭祀担当番当時、千家国造が奇数月、北島国造が偶数月の本殿祭祀を担当したの国造北島恒孝が本殿神前に奉納した。その後、仮宮から「おとな橋」までの道を整備し、同月28日、村中の人々と見物人も参加して、総勢三千人で境内まで御木曳きを行い、境内地は、御用木で占められた。

松江藩主直政の御意で、御釿始大工が工事に取りかかる最初の日に行う儀式は同年9月16日に決定した。

 
神社条目と出雲国造惣検校職
 
寛文2年に本願が追放処分になってから、上官神職が幕府や落との交渉に出ることになった。

出雲大社は、毎年正月に江戸へ下向し将軍への年頭挨拶を行っていた。

それも従来は本願が行っていたが、寛文3年から上官がそれを継承した。

当時、将軍への年頭挨拶は、神社界では皇祖天照大神を祭る伊勢神宮を筆頭に、京都の石清水八幡宮同じく皇祖応神天皇を祭る。この両社を「二所の宗廟」と称し別格祝されていた、次に京都山崎の離宮八幡宮皇祖応神天皇を祭り、武門から尊ばれた、そして出雲大社の順に行われていた。

それに村し、出雲大社の上官北島孝詮は、当社は伊勢神宮に次ぐ社格であるのだから、年頭挨拶の順番も伊勢神宮の神主の次に行うべきだ、と幕府寺社奉行に訴えた。

それに村し、井上奉行は、この順番は、出雲大社が本願を派遣していた頃からのものだから、変更は難しいが、翌年より別の日に将軍への年頭挨拶ができるように配慮したい、と応えた。

出雲大社は寛文5年1月15日に約束通り年頭挨拶ができるようになり、それは幕末まで続けられたのである。

この年頭挨拶の異議申し立ては、出雲大社が、武士の世に、武門から尊ばれてきた石清水八幡宮や離宮八幡宮を差し置いて、伊勢神宮に次ぐ神社であるとの意識を、如実に示した事件として注目できよう。

出雲大社の示威向上はさらに進んだ。

寛文5年7月11日、幕府から神社条目いわゆる諸社禰宜神主等法度が発布され、執奏家宮中との仲人をする公卿家を介して位階を取得しない神社の社家は全て吉田家からの免許状を取得するように命じた。

出雲大社にその法度が届いたのは、その年の12月25日であった。

出雲大社は執奏家として柳原家を介して位階を取得していたので、吉田家から免許状を取得する必要はなかったのであるが、出雲国内の神主はそうした執奏家をもたなかったため、吉田家の免許状を取得しなければならなくなったのである。

だが、以前から出雲国内全10郡の神主は、出雲国造が発行する免許状を取得する慣例になっていた。

すなわち、出雲国造は、同時に「出雲国惣検校職」であると称して、出雲大社の祭祀権のみならず、出雲国内の神主をも束ねる役目を担ってきたのである。

ところが、この法度が出たため、出雲大社の主張が脅かされてきたのである。

そこで、翌年の寛文六年四月に両国造名代の長谷正之と佐草自清を江戸へ派遣し、幕府寺社奉行に出雲大社の主張の正当性を訴えた。

同年6月18日付の両国造に宛てられた二代藩主綱隆初代藩主直政は、同年2月3日に卒去したの書状には、老中衆は出雲大社の訴えを承認した、と伝えた。

これにより、出雲国造は、出雲国内の神主を束ねる役目、すなわち「出雲国惣検校職」の地位が認められたのである。

ただし、全面的に認められたのではなく、その後、松江藩は、今後は吉田家か国造家のいずれかの免許状を取得するように、と命じた。

そこで、出雲大社は、次に出雲国造の出雲大社祭祀権を不動堅固なものにしようと考え、霊元天皇からの勅許、すなわち「永宣旨」を賜りたい旨を幕府寺社奉行に訴えた。

井上寺社奉行は老中衆へそれを伝え、翌春老中衆は下向してきた武家伝奏にその件を要請した。

その結果、寛文7年5月7日、霊元天皇の輪旨「永宣旨」が、両国造に下賜されたのである。

出雲大社は、造営遷宮という大事業の合間に、当社の社格向上や出雲国造の保証を幕府や朝廷から獲得していたのであった。

 
正殿式遷宮
寛文7年1667閏2月15日、将軍徳川家綱は出雲大社の造営が落成したならば、都合の良い日に遷宮するように、と命じた。

そこで松江藩と出雲大社は、3月26日に棟上式を行い、同月30日に遷宮を行うことに決めた。

棟上式の翌日、出雲大社では御遷宮御湯立が行われ、13の釜が用意された。29日、本殿内部の御調度が準備された。

また、同日、松江から藩主名代らが参内した。晦日、天候は晴れ。本殿内部の御調度がすべて整えられ、その日の夕方、千家国造、同国造方上官衆らが旧本殿に入り夕御饌をお供えして最後のお勤めを行い、その後北島国造、同国造方上官衆らが旧本殿に入り、同じく最後のお勤めを行った。

そして、その夜の亥の下刻午後11時20分頃かに至り、御遷宮が執行された。

御遷宮は、3月30日の真夜中から4月1日の明け方にかけて行われたのである。

なお、出雲大社の大祭礼は、江戸時代まで、3月1日から3日にかけての三月会であった。

遷宮の年も旧本殿で恒例の三月会が執行された。

ということは、出雲大社の御遷宮は、伊勢神宮が神嘗祭の日に合わせて遷宮を執行するような、いわゆる祭典遷宮ではなく、前述の将軍の命令にもあったように、造営が落成した後の吉日に行われた遷宮であった

小括
出雲大社はこの寛文度の造替遷宮で、境内を大改造し、現在の姿にした。

出雲大社の玉垣・瑞垣・荒垣が石垣になり、境内の両脇に流れる素鷲川と吉野川も石垣による河川工事が行われ、北島国造邸は八雲山麓から吉野川対岸の現在地に移築された。

また千家国造邸並びに両国造方社家屋敷までもが建て替え、または移築されて、あらたな社家町が造られた。

さらに旧国主毛利家から銅鳥居が寄贈され、この造営遷宮に花を添えた。

また、中世以来協力関係にあった鰐淵寺との関係を絶ち、さらに神仏分離を徹底するため社域外東西八町、南北六町の間から仏閣を取り除いたのである。

こうして寛文7年4月以降、出雲大社周辺は、すべてが白木の建物で真新しくなり、晴れた日にはおそらく金色に輝いていたであろう、と思われる。

出雲大社は、ここに宿願の「唯一神道の再興」『御造営日記』を実現させ、この世に「神道之地」を現出させたのであった。

寛文度の造替遷宮は、出雲大社の造替工事ばかりでなく、社家町まで新しい思想(儒学思想に基づいた唯一神道)に基づいて造り変えた、前代未聞の大事業であったのである。

出雲大社は、他藩(水戸・岡山・会津など)で見られたような藩主の意向ではなく、神職自らわき起こつた思想によつて、我が国で最初の神仏分離を成し遂げ、かつ出雲大社を中心とした社家町をも新しく造ったことは、もっと注目されて良いと思う。

だが、現在、残念ながら当時の面影を残す屋敷は、ほとんど残っていない。

今一度、出雲大社を中心とする新しい時代の町作りを考えるときが来ているのではないだろうか。

そのためには、町全体を大改造するくらいの大事業でなければ意味がないだろう。

もちろん、その時には、この寛文度の造替遷宮が、必ずや参考にされるであろうし、また同時にそれが大社町民の誇りにもなることを信じて止まない。

なお、造営遷宮が行われた後、出雲大社のこの大事業を世に知らせ、かつ永遠に伝えるために、佐草自清は再び江戸へ下向し、林羅山の息子鵞峯に、『

 
寛文度の造営遷宮以後…佐陀神社争論
 
佐草自清
 
寛文7年16673月30日、出雲大社は朱塗りで仮殿式の旧本殿から、白木で正殿式の新本殿へ出雲大神を遷座した。

この遷宮を機に、出雲大社から仏教色は取り払われ、出雲大社周辺域の東西八町、南北六町からも仏教施設が取り除かれた。

これにより出雲大社周辺は「神道之地」と呼ばれるようになったのである。

また、その間に出雲国造の地位を永遠に不変不動のものとするため霊元天皇のお墨付きを賜ったり「永宣旨」下賜、出雲大社の地位を伊勢神宮に次ぐものと幕府に認めさせたりもした。

すなわち、出雲大社や大社町の基盤は、この時期に完成したものといえる。

北島国造方上官佐草自清は、こうした基盤作りに奔走した代表的人物であった。

彼は、正殿式遷宮が無事に成就した後、江戸へ下向し、林羅山の息子春斎(鷲峯)を訪ね、『大社再興記』の執筆を依頼した。

従来、出雲大社の祭神は、中世の神仏習合期に鰐淵寺の影響もあって、素戔嗚尊として知られていた。

しかし、『出雲国風土記』や記紀には、素戔嗚尊が出雲大社の祭神として明記された箇所はない。

そこで神仏習合による仏教側の考えを改め、正史である『日本書紀』の記事をもって出雲大社の祭神を定めようとする考えが起こつた。

それを万民に知らせるため、林羅山の三男で幕府儒官の林春斎に、正殿式遷宮の再興記事と共に、祭神は大己貴神であることを、『大社再興記』に明記してもらったのである。

さらに禁中の楽人から舞楽を伝授してもらい、狩野派の落合安成に依頼して禁中の楽屋と同様の左方右方の舞の屏風を作成してもらった。

これによって、出雲大社の大祭三月会に禁中同様の舞楽が奉納されるようになったのである。

自清は元禄8年16959月7日、出雲大社の再興を見届けて80歳の天寿を全うした。

彼の息子直情(宝永7年17107月12日歿)の碑文には、父自清を「寛文年時、大社一新、自清有功労、至干今、人称之、」と記されている。

つまり、大社やその周辺の人々は、寛文の正殿式遷宮の頃に出雲大社や現在の大社町が一新したのは、佐草自清の功労があってのことだと知っており、それが長く言い伝え称えられていたのである。

自清は松江藩儒者黒沢石斎林羅山の弟子と出雲大社の公式文書を作成する能吏であったばかりか、松江藩藩主や江戸幕府寺社奉行からも信頼を得た人物であった。

そもそも、彼は千家国造方でも別格の東上宮家出身者であった。

そのため、出雲大社内での信頼度は他の上官に比べ高かったものと思われる。

しかも、出雲大社に儒家神道を導入し、出雲大社や出雲国造の祭祀研究、さらに出雲国内の神社を調査研究するなどの学者でもあったことから、彼の発言には説得力があり、大社内外から一目置かれていたのである。

したがって、出雲大社と他社との争論では必ず彼が出雲大社を代表して参加し、また、このような人物がいる限り、他社は出雲大社に向かって積極的に争論を構えることはなかったようである。

だが、彼の死後とともに時代の流れは急展開した。佐陀神社と神職支配をめぐつての争論が勃発したからである。

神社条目をめぐつて佐陀神社との神職支配をめぐつての争論を説明する前に、当時の神職免許について確認しておかねばならない。

現在、出雲大社をはじめ神社本庁に所属する神社の神職になるためには、神社本庁から神職免許を取得しなければならず、戦前は、それは内務省などの管轄であった。

それ以前の江戸時代となると、京都の吉田家と白川家が管轄した。

寛文5年16657月11日、江戸幕府は全国の神社ならびに神職を管理統制するために五箇条からなる法令を発布した。一般にそれを「諸社禰宜神主等法度」と言い、「神社条目」とも言われる。

その法令は、出雲大社にはその年の暮の12月25日に伝達された(千家和比古氏「出雲国造家の『永宣旨』は一通であるか両通であるか」(『日本歴史』5一8、平成3年)参照)。

この法令で問題となったのは、第二条と第三条である。

それを下記に挙げてみよう。

一、社家の位階、前々より伝奏を以て昇進を遂ぐる輩は、いよいよ其の通りたるべき事。

一、無位の社人、白張を著すべし。其の外の装束は吉田の許状を以て之を著すべし。

第二条は、社家の位階を京都の公家を通して天皇から賜っているものは、今後もその通りにせよ、というものである。

神社や寺院には、江戸時代以前からそうした伝統をもつところがあった。

幕府はそうした神社には、従来通り公家を通して社家の位階を下賜されることを認めたのである。

たとえば、伊勢の雨宮では公家の藤波家などが伝奏であった。

宇佐八幡宮では烏丸家が、石清水八幡宮では広橋家が、住吉大社では観修寺家が伝奏を務めていたのである。

そして、出雲大社は柳原家が伝奏を務めた。

つまり、出雲国造は柳原家を通じて天皇から位階を賜っていたのである。

したがって、第二条の意味するところは、今後も出雲大社社家の位階については、伝奏を通じて昇進を遂げることを幕府が認めた点にあった、ということになろう。

この点では出雲大社にとって不利益は認められない。

しかし、次の第三条は、出雲国造の出雲国内における地位が揺るぎかねない問題を率んでいた。

第三条は、伝奏を通じて位階の昇進を遂げてこなかった社家が対象となっている。

出雲国内で出雲大社以外に伝奏を以て社家の位階昇進を遂げてきたのは、日御碕神社(伝奏白川家)のみであった。

すなわち、この二社以外の出雲国内の社家は無位の社人であった。

その無位の社人に対して幕府は、彼らに白張という簡易な白装束の着用しか認めず、従来通り風折烏帽子や狩衣などを着用したければ、吉田家から発行される裁許状を取得しなければならない、と命じたのである。

出雲大社はこの第三条に異議を唱えた。

なぜならば、出雲国内の諸社の社家に対して、従来から出雲国造が風折烏帽子や狩衣の着用を認める免許状を発行してきたからである。

ただし、井上寛司氏によると、出雲国造が出雲国内の社家に対し裁許状を発行するようになったのは、近世初頭から出雲国内の社家に対し吉田家が裁許状(「神道裁許状」)を発行し始め、それに刺激を受けてからだとされる(「中世未・近世における『神道』概念の転換−日本における『神道』の『宗教』化の1過程1」〔『大阪工業大学紀要』48−1「近世初頭における出雲大社の『神仏分離』」〔『国学院雑誌』104−11〕いずれも平成15年刊、参照)。

つまり、出雲国造は、吉田家に対抗して、出雲国内の社家に裁許状をいままで以上に発行するようになったといえよう。

ところが、この条目によって、今後は伝奏を通じて位階昇進を遂げる社家以外は、皆一様に吉田家の裁許状を受けなければならなくなったため、出雲大社にとっては吉田家と対抗する上で不利になったばかりか、出雲国内の社家の支配権までもが危ぶまれるようになったのである。

この不安は年が明けて早々の2日に起きた。松江藩奉行垂水十郎右衛門は、松江城での1月8日の出雲国内社家対象の年頭御礼での装束着用について吟味するため、国造名代の佐草自清と長谷正之千家国造方上官を松江に呼び出したのである。

そこで両国造名代は、出雲は古来より出雲国造の裁許状を以て装束着用の慣例があることを伝えたところ、のちの2代藩主綱隆が了承したため、年頭御礼は従来通りに執行されたという(「江戸御年頭礼帳」赤塚家文書、参照)。

だが、こうした事件は江戸城でも起きた。両国造名代である向孝里北島国造方上官は、寺社奉行井上正利から1月15日の御年頭の独礼一般の社家の年頭御礼は1月6日であった。だが、出雲大社は本願から上官へ年頭御礼使が交替してから、今後席順を伊勢神宮の次にするよう要望したため、幕府は出雲大社にだけ15日の独礼を認めたのである。)では神社条目にしたがって風折烏帽子と狩衣を着用せよ、と指摘されたのである。

神社条目が出雲大社へ伝達された時、向孝里はすでに江戸へ出発し、その内容を知らされていなかった。

だが、そもそも両国造名代は、将軍秀忠以来江戸城での年頭御礼では衣冠を着用するのが慣例であった(『御造営日記』寛文4年3月20日条に、「独礼の社家23人の内(衣冠10人、狩衣13人)、伊勢衆も長官などの夫者タルニヨリ狩衣也、大社ハ夫者タリトイヘドモ従先年衣冠也、」とある

そこで向は藩主直政に依頼して急遽狩衣を支度したという(「江戸御年頭礼帳」)。

このように、神社条目発布以後の社家の装束着用について、松江藩では慣例が遵守されたが、幕府では神社条目を遵守するように命じられたのである。

 
御条目御改使の派遣
 
神社条目発布以後、松江や江戸で発生した問題は出雲大社にとって深刻な問題であった。

しかも、幕府は衣冠から狩衣へ替えさせられたため、その年の3月、出雲大社は「御条目御改使」として千家国造方上官長谷正之を江戸へ向かわせる事にした。

それに対し、松江藩奉行村松内膳は、御改使に佐草自清をあてるべきだと命じたため、出雲大社は長谷に添える形で自清も江戸へ派遣した(「江戸御年頭礼帳」)。

村松奉行が佐草自清を推薦したのは、幕府寺社奉行井上正利との信頼関係を持つ自清に交渉を進めさせた方が有利であると考えたからであろう。

御条目御改使は4月22日、千家・北島両国造連名で幕府寺社奉行所(幕府には寺社奉行所という施設はなく、寺社奉行担当の屋敷がそれに充てられた。

この時は井上正利邸に向かったのであろう。)に異議(「願書」)を上申した(「両国造願書案」『出雲国造家文書』271号文書所収。以下、国271のように略記する。)。

それによると、出雲大社の国造は、天照大神の第二子天穂日命が神勅を受けて「大己貴大神の御杖代」となって以来、神火神水を受け嗣ぎ、現在に至るまで出雲国内の諸神を祭ってきた。

院政期以降は、こうした神代の遺風をもって「出雲国惣検校職」にも任ぜられ、毎年「式月之祭礼」には出雲大社ならびに国内の社人に、国造が裁許をもって風折烏帽子・狩衣を着用させ神事を勤めさせてきた、という。

出雲国造を天照大神の第二子の末商とするのは、記紀に見えるところであるが、「大己貴大神の御杖代」という表現を用いたのは、佐草自清からであるらしい(平井直房氏『出雲国造火継ぎ神事の研究』大明堂、平成元年第三編第三章「出雲国造の禁忌」参照)。

出雲国造が出雲国内の諸神を祭っていたことは、『延書式』所載の「出雲国造神賀詞」に記されている。

「願書」は、そうした神代からの遺風をもって、院政期以降、出雲国造は「出雲国惣検校職」を朝廷や鎌倉幕府から委任されてきたことを伝える嘆願書であった。

ところが、それは歴史事実というよりも出雲大社の理念が先行するものであった。

実は、出雲大社が証拠としてあげる院庁下文や鎌倉将軍からの御教書には、「出雲国惣検校職」なる役職名は見えない。

つまり、その役職名が見られるのはこの「願書」だけであった。

一方、それとともに添えられた「両国造願書附属勘文」(「両国造願書附属勘文案」、国272)「出雲国惣検校職」なる役職名は記されず、史料が忠実に転記されていた。たとえば、『東鑑』には、「出雲国杵築大社惣検校職」なる役職名があった。

これは、鎌倉時代に中原資忠が武功により大社の惣検校職になったことがあったが、出雲氏しか遷宮を執行することができない慣例から、遷宮を機に中原の惣検校職を停止し、当時の国造へ惣検校職を還補させた事件を記した箇所に見られる役職名であった。

すなわち、『東鑑』にある「出雲国杵築大社惣検校職」とは、出雲大社の総支配権をもつ役職名を意味するもの、すなわち出雲大社における役職名であり、出雲国内の諸社に対しての総支配権を意味するものではなかった。

また、同「勘文」には、古来、いわゆる出雲大社の宮司は、国造職・神主職・惣検校職を兼ねてきたと説明しているが、ここでいう「惣検校職」も出雲大社内の役職を示したものであって、出雲国内の諸社やそれらの社家にまで及ぶ権限を示したものではなかった(なお、「国造北島広孝訴状案」〔国242には、いわゆる出雲大社の宮司は、神職・国造職・神主職を兼ねていたとする。神職とはまさに御杖代のことで、神同前を意味するという。国造職とは官職のことで、神主職とは大社の惣検校職を指す。)。

このように、両国造連名の「願書」にあった出雲国内の社家を総て支配することを意味する「出雲国惣検校職」なる役職名は実在しなかったのである。

ならば中世以来の両国造の権限とは如何なものであったかというと、出雲大社の総支配権をもつ「出雲国杵築大社惣検校職」なる役職名を兼ねていたということになる。

ところで、この「願書」は佐草自清が作成したもので、「勘文」は彼と松江藩儒黒沢石斎が相談して作成したものであった(「江戸御年頭礼帳」)。

つまり、自清は一人で作成した「願書」を通じて出雲大社の理念(出雲国造=「出雲国惣検校職」)を主張したものといえよう。

その後、出雲大社は、藩主松平綱隆から、幕府老中衆は大社側の「願書」を尤もである、と認知された6月18日付の報告書を受け取った。

つまり、出雲大社の主張が幕府に承認されたのである。

なお、さきの「御条目御改使」は、「願書」「勘文」とともに「永宣旨」下賜をも嘆願していた。出雲大社としては、出雲国造の地位や権限を幕府と共に朝廷にも認めてもらおうと、当初から計画していたのである。

その結果、翌年の寛文7年16675月7日、霊元天皇の綸旨、すなわち「永宣旨」が下賜され、8月23日に、それが両国造名代長谷正之と佐草自清に渡されたのである(千家和比古氏前掲論文参照)。

この「永宣旨」は、出雲国造へ永久に神主職と大社惣検校職を付与することを承認されたもので、実在しなかった「出雲国惣検校職」なる役職名については、当然の如く言及されていない。

ところが、この給旨に、出雲国造が「神賀詞」を奏上してきたことが記されていたことから、出雲大社は、この給旨で出雲国造の「出雲国惣検校職」が認知された、と受け取ったのである。

なぜならば、「神賀詞」は、前述した如く、出雲国造が出雲国内の諸神を祭ってきたことを明記した史料であったからである。

その翌年の寛文8年5月11日、松江藩奉行垂水十郎右衛門は、出雲大社役人の佐草自清と長谷正之に宛て、今後出雲国内社家の装束着用については、吉田家か出雲大社の「御免除」なくしては、在所においても着用してはならないことを指令した。

出雲大社はこの指令によって、出雲国内の社家に堂々と裁許状が発行できるようになったのである。

当時の出雲国造千家尊光は、この書状を重視し、神前にそれを納めたという(国284)。

また、この間題で奔走した佐草自清も、随筆の中で、「両国造ハ、出雲国神社惣検校職、永宣旨井江戸御奉書ヲ以、松江御所被仰、」(『雑事随筆』〔国学院大学所蔵〕所収)と記した。

自清は、松江藩がさきの 「願書」で示した出雲大社の理念、すなわち両国造が「出雲国神社惣検校職」(さきの「願書」には「出雲国惣検校職」とあって、「神社」の二文字はなかった。意図するところは同じ。)であることを、「永宣旨」とさきの老中奉書をもって認知された、と考えたのである。

その結果、出雲国造=「出雲国神社惣検校職」は、出雲大社の理念ではなく事実として定着し(国301)、出雲国造の正式な相続とは、「大社国造職并出雲国神社惣検校職」(寛文12年7月26日付の国造千家尊光から駒千代(のち尊房)へ出された史料。

『千家家文書』7〔東京大学史料編纂所所蔵影写本〕所収。)をもって相続すること、とされるようになったのである。

 
対佐陀神社争論
 
佐草自清が亡くなった翌年の元禄9年1696、出雲国造名代の千家由之と佐草直清は、佐陀神社との間で出雲国内の神職支配をめぐる訴訟が起きたため、江戸へ下向し、7月1日と22日の二度にわたり幕府寺社奉行永井伊賀守直敬からの尋問を受けた。

この両名は佐草自清の実子であったことから、出雲大社が自信を持って派遣したものと思われる。

一方、佐陀神社は、出雲国の秋鹿郡と島根郡に跨って鎮座する古社で、朝山晧氏によると、毎年旧暦の8月20日現在は、9月24日に行われた御座替神事は、「もと出雲十郡の神人社家悉く参集奉仕した大祭であるが、室町時代中葉以後は出雲大社と勢力区域を分つたので、その内三郡半だけの社家が奉仕する事となつた」「佐陀庄地頭としての朝山氏」〔『社会経済史学』1−3、昭和6年〕参照。)とする神社であった。

すなわち、佐陀神社も出雲国中の社家を参集させるほどの大祭をもつ有力神社であったが、室町時代中頃からは三郡半の社家のみ参集するようになったというのである。

この三郡半こそ、今回の訴訟における争点であった。

すなわち、佐陀神社は、この三郡半内の社家の支配権は出雲大社にはなく当社にある、と訴えたのである。

その三郡半とは、秋鹿・島根・楯縫の三郡と意宇の半郡を指した。

松江藩が、今後出雲国内の社家は、吉田家か出雲大社の裁許状を取得するように、と命じたのは、寛文8年5月であった。

これは吉田家の傘下に入る佐陀神社にとって、出雲大社からの裁許状を三郡半内の社家に拒否させる上で有利になった指令でもあった。

つまり、免許取得に選択の余地ができたからである。

だが、先手を打ったのは出雲大社であった。この年の八月に、出雲両国造は佐陀神社の幣頭吉岡元綱に、神事参勤時の風折烏帽子と狩衣の着用を許可する裁許状を出したのである(「吉岡幣頭家文書」、勝田勝年氏編『鹿島町史料』〔鹿島町、昭和51年〕所収)。

そこで佐陀神社は、その年の冬に当社に訪れた大坂の神道家白井宗因(自省軒)に、『佐陀神社記』(『鹿島町史料』所収)を著してもらい、例の三郡半内の諸社は佐陀神社の所属であることを示したのである。

それによると、佐陀神社の別宮・摂社・末社は51社あり、島根郡内の佐陀神社に所属する神社は12社、同じく秋鹿郡には31社、楯縫郡には20社、意宇郡には12社、嶋根郡東方部には27社あった。

すなわち、三郡半内で佐陀神社に所属する神社は、計102社もあったことになる。

この102社と別宮・摂社・末社の51社の計153社の「神人社家」が、佐陀神社の御座替神事に奉仕し、同時に佐陀神社の支配下である、とされたのである(国301)。

元禄6年(1693)9月、佐陀神社は従来からの主張を実現させるため、楯縫・意宇・島根三郡の幣頭(一郡神職の長)らに、三郡の神職らは「古今、佐田御社頭御支配下、」にあることを確認させた(国299)。

こうした動きに出た背景には、佐陀神社が近世に入り、中世以来の社領地を豊臣秀吉の朝鮮派兵による検地によって、大幅に削減されたことが考えられる。

それ以降、佐陀神社の社領地は二百石(以前は三千貫といわれた)となり、松江藩主松平直政も、その石高を安堵したため、それ以降、その石高で維持しなければならなくなった。

その内訳は嶋根郡佐陀講武村名分の百石と秋鹿郡佐陀宮内村の百石であった。

このような大幅な財政削減によって、中世以来の年中行事は続けられなくなり、その再編が余儀なくされた。

そこで御座替神事を従来通り行うためにも、佐陀神社としては旧来の三郡半の神職らをどうしても確保しておく必要があったのであろう。

一方、出雲大社も同じく秀吉の検地により五千石以上あった社領地を約二千石にまで削減され、松江藩もその石高を安堵したため、中世以来の御頭神事が行えなくなり、年中行事を再編したのであった。

このように、出雲大社も佐陀神社も共に太閤検地以降財政難となり、中世以来続けられてきた年中行事の再編を余儀なく迫られていたのである。

吉田家による神職支配を命じた「神社条目」は、全国の神社勢力がこのように一様に低下していた状況下で、幕府から発令されたものであった。

古代出雲の神祇制度への復古を目指してきた出雲大社は、その発令以後、出雲国造の出雲国内の神職支配を以前にも増してさかんに主張し始めた。

それに対し、吉田家の傘下にあった佐陀神社は、「神社条目」を背景に、中世以来の伝統を再興し、その維持を図ろうとしたのである。

佐陀神社の主張は、出雲大社の神職支配からの独立と例の三郡半の神職支配を確保する事であった。

佐陀神社神主は以前から吉田家の裁許状を受けていた。

つまり、佐陀神社の神主は、出雲大社、具体的には出雲国造からの裁許状を受けていなかったのである。

ところが、佐陀神社が主張する三郡半の神職を束ねる幣頭等は、出雲国造からの裁許状を受けていた。

したがって、佐陀神社は、こうした幣頭等に佐陀神社の支配下である事を改めて確認させるためにも、出雲国造からの裁許状取得を拒否させなければならなかったのである(「元禄6年9月23日付、佐陀神社神主宛楯縫・意宇・島根三郡幣頭請書」、国299)。

さて、両国造名代は、元禄9年1696)7月1日と22日の二度、寺社奉行から尋問を受けたのだが、その内容は専ら両国造家の家族構成や養子・隠居の制度有無の確認であった。

『出雲国造家文書』の編纂者村田正志博士は、この史料の内容を子細に見られ、「幕府はこの頃すでに佐田社の申し分を認め、杵築社両国造家に弾圧を加える方針であったことが察せられる。」477頁と解説している。

おそらく、村田博士が理解せられたように、幕府は当初から出雲大社敗訴後の弾圧まで視野に入れていたものと思われる。

なぜならば、出雲大社が佐陀神社を訴えることは、吉田家を間接的ながら訴えることであり、ひいては吉田家に神職支配を命じた幕府をも訴えることになったからである。

寛文五年に発布された「神社条目」に対する出雲大社への対応は、前述したように松江藩と違い幕府は当時から強行であったことからも、このことは明らかであろう。

それを察知した松江藩主綱隆は、両国造上官長谷正之と佐草直清に思いとどまるよう働きかけた。

しかし、出雲大社は元禄9年9月、両国造名代平岡雅彦(千家国造方上官。彼は江戸在府中に帰幽した。)と佐草直清を江戸へ遣わした。

そして11月、幕府寺社奉行に改めて出雲国造が「出雲国神社惣検校職」であることは、「永宣旨」や老中奉書、さらに藩主直政から認められたもの、と主張する一方、佐陀神社には三郡半を検校する資格無く、今後は幕府の御威光でもって、出雲国内の諸社は出雲国造の支配を受けるという法式が混乱しないよう命じてもらいたい、と直訴したのである。

一方、こうした出雲大社の動きを牽制するため、10月、佐陀神社使者は上京して吉田家に出雲大社との件を報告した。

出雲大社が藩の制止を振り切って幕府との直訴に出たことに対し、佐陀神社は吉田家から幕府に働きかけてもらうよう要請したのである。

その吉田家もこの争論で万一出雲大社側の主張が聞き入れられた場合、問題は吉田家との問題に発展してしまうので、寺社奉行にはその点を考慮し、重々の裁断を頼み入れたい、との意向を示した。

ここでいう吉田家との問題とは、幕府が発布した「神社条目」に関する問題であり、出雲大社側の主張を認めることは、幕府が全国の神職支配を吉田家に依頼したことを、自らの手で否定することになることを意味した。

 
争論裁許
 
翌年の元禄10年(1697)8月、両社の争論に対する裁許状が幕府寺社奉行衆から出された。

結果は出雲大社の敗訴であった。

幕府は両社を裁許するに当たって、争点を「永宣旨」に絞り、出雲大社が主張するところの「出雲国神社惣検校職」なる権限がそれに含まれるか否かを調査した。

その結果が下記の通りである。意訳して列挙すると、下記り通りである。

一、「永宣旨」には「惣検校職免許之文意」が見当たらない。

二、「検校」という役職名は、出雲大社一社のみならず平濱八幡や日御碕の両社でも用いられている。

三、「永宣旨」に出雲国造の免許の趣が含まれると雖も、あくまで出雲大社一社のことで、出雲一国に及ぶものではない。 

京都所司代は「永宣旨」に関わった武家伝奏の飛鳥井雅章・正親町実豊からその内容を披露した写を提出してもらい、それを吟味したところ、「永宣旨」は「惣検校免許」を意味するもので無いことが分かった。

以上の理由から、出雲大社の敗訴が決定したのである。

その結果、制裁として出雲両国造千家直治・北島兼孝の官職を召放ち、今後神事に関わらないこと、が言い渡された。

とはいえ、出雲大社と佐陀神社とは大きな格差あるのだから、今後佐陀神社は出雲国造に侮蔑や無礼を働いてはならない、と付け加えられた。

このように、出雲国造への制裁は前代未聞と言えるくらい厳しいものであった。

その制裁理由について、幕府は次のように説明した。意訳して列挙すると、下記の通りである。

一、両国造は「永宣旨」の内容理解に乏しかったこと。

二、松江藩主が訴訟を抑留したにもかかわらず無視したこと。

三、公儀を軽んじ強訴したこと。

を挙げ、これらは重罪に値する理由とみたのである。

幕府から裁許が下された同月晦日、松江藩寺社奉行からも藩家老の命令として出雲大社上官中に七条からなる「達」が出された(国306)。意訳して列挙すると下記の通りである。

一、別火や上官が出雲大社の神事をよく相談して勤めること。

二、新国造が決まるまで、神火を絶やさないようにすること。

三、国造が罷免され、大社内外が混乱し放火などの事件が起こらないよう用心すること。

四、両前国造の神器・家財等は当分封印して上官等に預け、 新国造が決まってから沙汰を受けること。ただし、衣類・金銀・飯米等は直ちに渡してもよい。

五、出雲大社の神職関係者は、杵築からの外出を遠慮すること。

六、両前国造は今後は所務を受け取らないようにし、飯米等入用については許可を受けてから行うこと。

七、両前国造の近親の上官は、遠慮すなわち門を閉ざし謹慎すること。

出雲大社に出雲国造のいない空白期間といえども、従前通り祭祀を執り行い、伝統を絶やさないように命じたが、一方で前国造の神器・家財を封印したり、神職らの杵築からの外出を禁じたり、前国造の近親の上官の社務を禁じたりと、相当厳しいものであった。

さらに翌月、三条からなる達が藩家老から藩奉行へ言い渡された。

同じく意訳して列挙すると、下記の通りである。

一、両国造名代の長谷正之と佐草直清は、藩主の命令を軽ん じて高訴したのは言語道断である。

また、社奉行が「古来当然之理」をもって和談を勧めたが、かえって彼らは 両国造に「邪義」を進めた。

その罪は重い。

したがって、藩主は彼らを閉門に処したのであり、そのほかの神職らは、その働きの軽重によって処分を命じる、とした。

二、藩主は、新国造に社務を疎かにせず、神事等古例を守り、国法を遵守して謹慎しなければならない、と命じた。

三、出雲大社は藩主から社嶺を安堵されているのだから、藩命を重んじなければならない。

今回は前代未聞の事件であったが、それは出雲大社側が「正理」を失ったからである。

利によって争うとは、「神道」にあってはならないことであり、専ら謹慎すべきである。

この命令の力点は、第一条の両国造を補佐した長谷正之と佐草直清を重く罰するところにあった。

藩としては、藩主や藩奉行の命令が無視されて、幕府へ直訴したのであるから、面目丸つぶれであった。

藩主は、その原因をこの両上官にあったとし、閉門に処したのである。

だが、翌年の元禄11年169810月に佐草直漕が息子知清に出した覚書には、直清が北嶋村で「蟄居」の時に書いたもの、との附箋があるから、閉門よりさらに重い刑に処せられたものと思われる。

直清は宝永元年1704に釈放される間、髪はとかず乱れ、無精髭を伸ばし、ただ一室に居てうなだれていたという(熊谷一徳撰「佐草直清碑文」、『上官系譜』佐草文書所収)。

一方、長谷正之が千家村で蟄居したのかは不明であるが、おそらく罪を解かれることなく元禄13年10月12日に亡くなったものと思われる。ただし、裁許が出た翌年の元禄11年6月29日、松江藩は両上官の子息へ扶助料を示し、家存続を許した。

 
出雲大社の失地回復と延享度の造営遷宮
 
別火三代
 
幕府や薄からの処分を言い渡された出雲大社は、同年9月8日に新国造襲職の儀式、火継ぎ神事を行い、千家宗敏と北島道孝がそれぞれ新国造に襲職した。

千家宗敏は佐草直情と国造名代として江戸へ下向した由之のことで、佐草自清の息子である。

出雲大社側は両国造家の家族構成や養子・隠居制度の有無を尋問された時、万一のことを考えて由之を国造名代から外し、争論から遠ざけたのであろう。

そのため、千家国造側の名代は平岡雅彦が代わって勤めた。一方、北島道孝は前国造兼孝の弟であった。

出雲大社は新国造がそれぞれ襲職するや早速国造名代北島孝和を江戸へ派遣し、佐陀神社との争論が落着し、国造職を「血脈」(出雲氏)に仰せ付けられたことに御礼申し上げた。

なお、従来国造名代は将軍や老中の謁見が許されたが、今回は寺社奉行衆(戸田忠真等)だけの面会であった(「江戸御年頭礼帳」)。

出雲大社は両国造に何かしらの事故があると、別火職が国造に代わって祭務を担うのを慣例とした。

そこで今回は別火吉雄がその任に当たった。

彼の父祗吉が山崎闇斎の弟子であったことは前回述べたが、それは多分に寺社奉行井上正利との関係をつくるため、正利の師である闇斎を通じてそれを図ろうとしたのではないかと推測した。

ただし、それを確認する史料は未見だが、闇斎の江戸在府中に正利の出雲大社に対する考えが変わったことからして、その可能性は高いと思う。

闇斎は、その後正利の紹介で会津藩主保科正之に招かれるほどの朱子学者であったことから、彼に師事した祗吉の素養の高さも想像できよう。

また、吉雄の息子吉彦は神道方吉川惟足の弟子であった。

そこで、想像を逞しくすると、彼は祖父の祗吉が闇斎に師事したのが寺社奉行の正利に近づくためであったとするのなら、孫の吉彦は幕府方に近づくためであったと考えられないであろうか。

幕府が発布した「神社条目」作成等に関わった吉川惟足に近づくことで、出雲大社側の主張を後押ししてもらおうとの深慮遠謀が働いていたと思われるのである。

もちろん、それを確認する史料も未見だが、吉彦自身実力のあった神道学者で、播州明石領主松平若狭守や同左京佐に神書を講述元禄12年9月15日するほどであった(「別火系譜」佐草家文書)。

さて、元禄11年、出雲大社は日御碕神社との間で境界争いが起きた。

その裁許が10月27日に下され、山境は日御碕神社の主張を認め、海境は今後は藩が召し上げるとされ、網場は従来通り出雲大社方にその使用を免許する、というものであった。

出雲大社にとって必ずしもよろこべる裁許であったとは言えないであろう。

その翌年の9月23日、別火吉雄とともに危殆に瀕した出雲大社を支えてきた弟の中彦之進光政千家国造方上官が帰幽した。

そして翌月、長谷正之が帰幽した。このように国造の支え骨となってきた上官や元上官が次々にこの世を去ったのである。

しかも、その翌年の元禄14年7月26日、国造千家宗敏が39歳で帰幽した。

その後、出雲大社中興の祖と称えられた寛文の御造営時の国造であった千家尊光の子広満が国造職に襲職した。

だが、それも束の間の翌年の8月26日に帰幽された。そこで宗敏の長男豊昌が国造職に襲職したのである。

 
崎門学と垂加神道の導入
 
元禄16年1703、京都の儒者熊谷常斎当時26歳が出雲大社儒臣として迎えられた。

彼の父は現在の大社町出身の人で、上京し医者となったため、常斎は京都東山で生まれた。

幼名は金平、後に源太と称し、諱は一徳で、斎号を常斎とした。彼は山崎闇斎の高弟浅見絅斎に師事した。

絅斎は、幕末の志士らに愛読された『靖献遺言』を著し、大義名分で固めた人物と称された大儒であった。

また、彼の弟弟子が若林強斎であったことから、その後出雲大社は強斎の私塾との繋がりができ、常斎の弟子松井訊斎や千家俊信らがその後入塾した。

強斎とは「仮にも君を怨み奉るの心発らば、天照大神の御名を唱ふべし、」という伝楠木正成の言葉に日本人の進むべき目標を定めて教育した方で、その私塾はその後「望楠軒」と命名されるようになった。

塾生らはそこで「君国を無窮に守護し、死してなお己まず、八百万神の下座につらならん」ことを身につけたのである(近藤啓吾氏「解題」〔『神道大系垂加神道』神道大系編纂会、昭和53年〕参照)。

よって、熊谷常斎がいかなる儒者であり、その後の出雲大社にいかなる思想が導入されていったかが想像できよう。

出雲大社の神職らは常斎のそうした学問に心酔したものと思われる。

近世出雲大社関係者の忌日(命日)を記したいわゆる『忌日帳』(赤塚家文書)は、彼を「熊谷孝三良一徳先生」と表敬した。

そして、この『忌日帳』に先生と表敬されたのは、彼と弟子の訝斎のみであった。

常斎が出雲大社の儒臣として招聴されたことは、藩による規制がかなり緩和されたことを意味しよう。

そして、彼が招聴された翌年の宝永元年1704にはさらに緩和された。

その年の2月22日に藩主松平綱近が弟吉透を世継ぎとし、5月30日に吉透が藩主になるにともない、いわゆる恩赦が出されたものと思われる。

その結果として北嶋村に塾居していた佐草直清がこの時期に解放されたのである。

そして、その翌年から出雲大社の活動は再開した。

宝永2年11月29日、延享度の造営遷宮のため、両国造名代の中兼岑千家国造方上官と北島孝和北島国造方上官が江戸へ下向した。

その時に持参した出雲大社由緒記が『出雲大社記』であったと思われる。

この書は、その後造営事業のため江戸に長期滞在した上官千家正延を通じて、旗本で垂加神道家の跡部良顕に伝わった書で、のち『続々群書類従』第一巻に所収されたことで、よく知られている。

この書は、従来作者を熊谷常斎とされてきたが、亀ト調査で出雲に行った玉木正英である。

正英は同年8月に出雲大社を訪問し、その時神職は残らず正英に入門した。(「徳弘惣右衛門宛玉木葦斎書状」〔日本書誌学大系63『近世諸家書簡集』(青裳堂書店・平成3年)46頁参照。〕この書状の釈文は、同大系6427頁に所収。なお、この書状は現在個人蔵となっている。)これ以降、出雲大社の神職らは玉木正英の説く垂加神道・橘家神道を学ぶようになったのである。

 
争論の後遺症とその克服
 
宝永2年から出雲大社の造営願いは始まり、上官が毎年江戸に下向し幕府に造営許可の申請とその支援を乞うた。

とはいえ、出雲大社は佐陀神社争論の件から完全に解放されたのではなかった。

玉木正英が著したとされる『出雲大社記』には、争論の争点になった「永宣旨」や出雲国造が出雲国神社惣検校職であることは記されていなかったからである。

それは幕府や松江藩を憚ったためだと思われる。たとえば、正徳3年1713、徳川家継の将軍宣下にともない、御代始祝儀として出雲大社は千家国造の名代として東上官千家智通を派遣しようとした。

ところが、松江藩は智通が元国造直治の嫡子であることから遠慮するよう命じたのである。

その結果、赤塚普信が千家国造名代として北島国造名代北島孝重とともに江戸へ下向した(「江戸御年頭礼帳」)。

つまり、出雲大社神職の活動が従来通り再開されたにもかかわらず、佐陀神社争論の後遺症はなお引きずったままであったのである。

そもそも、千家智通は次期国造になる方であった。

ところが、争論以後は、国造直治の近親者として遠慮を命じられ、出雲大社の活動が再開されても、国造名代として江戸へ下向することが禁じられていたのである。

そうした中、彼の息子鉄千代が75代千家国造を襲職することになった。

享保10年17255月11日、松江藩の認可を得て鉄千代は俊勝に名を改め国造職に就いた。

だが、国造が7歳の少年であったため、父の智通が国造の後見役となった。

智通の息子を国造職にすることの許可を松江藩主が下したことは、この時点でかの後遺症が殆ど無くなっていたことを意味しよう。

その翌年の12月13日、熊谷常斎が易簣した。

享年49であった。

彼が具体的にどのような功績を残したかは不明だが、生涯の半分を出雲大社儒臣として大義名分の学問を神職らに浸透させたものと思われる。

晩年、常斎は弟子の松井訊斎を若林強斎のもとで勉学させるべく入塾を推薦した。当時、常斎は講義ができなくなるくらい衰弱していたのかもしれない。

訊斎は常斎の勧め通り上京し、強斎も特別に受講を許可した。

その半年後、常斎は易簣した。訊斎はそこで西依成斎と席を並べて勉学に励み、朱子学と共に垂加神道をも学んだものと思われる(『成斎先生雑話』参照)。

享保16年1732、千家智通は上京し、8月17日玉木正英に神道誓紙を提出した。

前述した如く、正英が出雲大社を訪問した時、神職らは残らず彼に入門したが、智通が改めて神道誓紙を出したことは、正英が正式に垂加神道を学ぶ者として彼を認めたことを意味する。

すなわち、智通は正真正銘の垂加神道家になったのである。現在両国造館で蟇目ひきめの祈祷が行われているが、千家国造家にそれを伝えたのはおそらく智通であったと思われる。

その翌年の1月20日、若林強斎が易簣した。智通はおそらく訊斎を通じて強斎にも師事したであろう。

その後、孫の千家俊信が望楠軒に入り、西依成斎に師事することになった。

 
『大社志』の編纂と出雲大社の復活
 
若林強斎のもとで人の生きる道として何が正しく、何に行動を起こすべきか、という大義名分の学問を体得して出雲に帰った松井訊斎は、享保17年11月、出雲大社としては記念すべき由緒記『大社志』を編纂した。

この書は従来から訊斎の師熊谷常斎が著したものと考えられてきたが、平井直房博士の研究(「大社志の成立」〔『神道宗教』101、昭和55年〕)で弟子の訝斎が、松江藩の要請を受けて著したことが明らかになった。

筆者が本書を出雲大社にとって記念すべき書と重視するのは、正英が著したとされる『出雲大社記』には、出雲国造を出雲国神社惣検校職を示す史料を敢えて掲載しなかったのに対し、本書はそれを掲載したばかりか、出雲大社の理念をも明言したからである。

たとえば、本書にある「大社事実」の項目で、上古からすでに天照大神と大己貴神は天皇の大殿内で並祭されていたので、万世、「伊勢・大社」と並称されてきた。したがって、この両社を指して「宗廟社稷」とするのも決して過言ではあるまい、と明記した。

さらに『出雲大社記』では記述されなかった出雲国造についても、「国造事実」という項目で、出雲国造は古より出雲国中の神社等の事をまとめてきた。

したがって、先祖の出雲臣広嶋は詔を承って『出雲国風土記』を撰上したのである、と明記したのである。

こうした主張は、佐陀神社との争論以後、敢えて避けられてきたことであった。

それを『大社志』では堂々と、しかも今まで以上にはっきりと出雲大社の理念を書き記したのである。

本書は松江藩に提出した由緒記である。

しかし、松江薄からお咎めを受けたという史料がないことから、ここに出雲大社は寛文度の時よりもさらに大きく前進するきっかけを掴んだといえよう。

 
出雲大社の「日本勧化」
 
享保10年172511月、江戸詰の上官千家正延の尽力叶って、出雲大社は幕府から延享度の造営遷宮のために、全国を巡行して勧化することの許可を下された。

前回の造営遷宮では、幕府が全面援助したが、今回は幕府の財政が窮乏し、僅かながらの援助しかできず、その代わりとして全国勧化の許可を下したのである。

幕府承認の全国勧化は、当時から主に寺院仏閣の造営修理として実施されてきた。

従来勧化と言えば僧侶が行うのが一般で、神社で勧化を実施する場合でも、社僧の本願が行ってきた。

出雲大社も以前は本願が勧化活動を行っていたが、寛文年間に本願が幕府によって追放に処せられてからは、神職がいわゆる勧化職をも担ってきたのである。

したがって、今回神職だけで全国勧化を実施することは前代未聞であった。

出雲大社はその全国勧化を「日本勧化」と称し、上官衆を江戸へ派遣した。

この勧化活動は、従来から御札頒布などを行ってきた御師、すなわち出雲大社中級神職の中宮などが実施するのとは違って、上級神職の上官が中心に実施するところに違いがあった。

彼らは、翌年、江戸中の大名衆や旗本衆から勧化し、2・3月頃より東国筋に分散して巡行勧化を実施した。

そしてその翌年には五畿内や西国筋を巡行勧化する予定であったが、経費ばかりがかさむため、地元の代官や名主らの有力者に代行してもらう「居勧化」に変更した。

それでも思うような勧化はできなかったようである。そのため、出雲大社は寺社奉行大岡忠相に再勧化実施を申請し、中国地方を中心に15国の巡行勧化の許可を得た。

だが、それもあまり効果が無った。『出雲大神』(出雲大社東京分154・5頁)によると、「勧化総寄高」は、幕府からの寄附千両を含め金5,925両1歩、銀4匁5分5厘であった。しかし、経費で残金は僅かであったため、両国造名代の北島孝廉は幕府寺社奉行に三万両の借入を嘆願した。

だが、最終的には松江藩が残額の造営費(44,825両)を出費したのであった(『大社御造営之度井年々修復二付松江侯入費書』〔亀井文書、島根県古代文化センター所蔵〕、参照。岡宏三氏の御教示。)。

そのためか松江藩は造営遷宮が成就した翌年から5年間に限り藩士の給禄を半知としたのである。

この全国勧化では勧化金を思うように集められなかったが、出雲大社の知名度はそれに反して全国的に広まったと言えよう。

勧化に携わった上官衆らは、勧化に際し、御札と共に祭神「大己貴命」の御神徳を記した由緒書の『御縁起』を配った。

その中で、出雲大社が旧暦10月に実施する神在祭とは、郷土の神々が郷土の民を恵み養うために出雲大社にお集まりなっている、と説き、出雲大社の造営のために大己貴命の霊徳を仰いで協力してくれるのなら、大己貴命のご加護は一身一家から子々孫々にまで至り、さらに郷土の神々の恵みも蒙ること疑いない、と説いたのである。

こうした活動が、その後の出雲大社教や出雲教による布教の全国展開に繋がったものといえよう。

 
延享度の造営遷宮と失地回復の成就
 
新正殿の心御柱は、石見国邑智郡津賀村(現、美郷町)八幡宮境内の大杉が選定、海上輸送され、元文3年17385月28日に仮宮灘に着岸し、6月7日に出雲大社境内へ御曳きされた。

そして、10月7日、御釿始めが国造北島直孝によって執行された(『出雲大社延享造営伝乾』)。

翌年の7月23日、国造千家俊勝によって柱立てが執行された。

延享元年17449月11日、老中より旧規に準じて良辰に遷宮すべき旨が下りたことを記す藩主松平宗衍からの書状が到来した。

よって、同月22日、千家国造により棟上げ式が執行され、現在の本殿が完成した。

そして、翌月の10月7日、寛文度に造営された旧正殿から、今回造営された新正殿へ出雲大神が北島国造により遷宮されたのである。

同年11月、造営遷宮成就の御礼使として、千家国造方から千家智通が、北島国造方から北島孝廉が選ばれ出雲を出立し、12月1日、8代将軍徳川吉宗にお目見した。

その翌年の2月1日、智通は上京して桜町天皇へ造営成就の大玉串とともに、太刀一腰と馬代金200疋を献上した。

先の将軍宣下の御祝儀使の候補にあがりながら、松江薄から遠慮を命じられた東上官の千家智通が、造営成就の御礼使として将軍にお目見できたことは、意味のあることであった。

なぜならば、出雲大社は延享度の造営遷宮を成就させ、同時に失地回復をも成就させることができたからである。

智通の御礼使派遣は、まさにそれを象徴する出来事であった。

 
おわりに
 

このたび二回にわたり出雲大社の造営遷宮を見てきたわけですが、ともに多くの人々による苦労と協力があって成就できたことがお分かりになったことと思います。

寛文度の造営遷宮は、豊臣秀吉の太閤検地による社領削減により、中世以来の年中行事の改編を迫られ、そうした中で神仏習合という中世以来の産物を取り除き、僧侶の手を借りずに神職自身の手で、幕府や藩と交渉し、理解を得ることで成就することができました。

これにより出雲大社は中世から脱皮し、新たな時代へ進むことになったのであります。

ところが、延享度の造営遷宮は、そうした延長線上で成就できたものではなかったのです。

出雲大社の利権と共にプライドを掛けた争論を越えなければならなかった。

しかも、その峠は単なる峠ではなく、出雲大社を最悪の事態へと引き込む峠でありました。

出雲大社はその最悪の事態に足を踏み入れてしまったまま、しばらくは静観していました。

しかし、崎門学者や垂加神道家らの大義名分を説く精神や新たな祈祷を導入しっつ、その場からの脱出を図っていたのです。

出雲大社は時の流れが、最悪の状態から改善される方へ向き始めた時、再び活動を開始し、それまで以上の進展を勝ち取ることができました。

そうした我々の人生の縮図のような出来事が、この延享度の造営遷宮にはあったのであります。

本居宣長は、この世の流れは吉凶こもごも相起こると言います。

つまり、吉善の状態であっても、いつまでもその状態で納まることなく、おのずと凶悪の方へと移動して行きます。

ならば、このまま凶悪の状態が続くかと言えば必ず今度は吉善の状態へと移動すると言います。

ですから、凶悪の状態にいる間は、静観しなさいと教えました。

とはいえ、ただ単に何もせずじっとしているのではなく、吉善の状態へ移動する気配がくるまではそれへの準備を怠らず前向きな気持ちで静観しなさい、と言うのであります。

そうすれば、時の流れが吉善の状態へと移動した時、以前以上の吉善の状態へと進むことができるのです。

この宣長のいわゆる吉凶善悪交替史観は、そのまま出雲大社の二つの造営遷宮史にあてはまるような気がいたします。

出雲大社にはそうした魅力がまだまだたくさんあります。

申し述べたいことや申し忘れたことは多々ありますが、このあたりで擱筆いたします。

 
大社町教育委員会「大社町史研究紀要」島根県古代文化センター「出雲大社文書」より
 
出雲大社年表

天皇 年号 西暦

垂仁 23 前4 出雲神宮を造営。
斉明 5 659 出雲国造22代出雲臣叡屋に令して厳神之宮を修造。
元正 霊亀2 716 出雲国造24代出雲臣果安は神賀詞を奏す。
聖武 神亀元 724 出雲国造25代出雲臣広島は神賀詞を奏す。
聖武 天平5 733 出雲国造広島は出雲風土記を編上す。
孝謙 天平勝宝2 750 出雲国造26代出雲臣弟山は神賀詞を奏す。
称徳 神護景雲元 767 出雲国造27代出雲臣益方は神賀詞を奏す。
桓武 延暦4 789 出雲国造29代出雲臣国成は神賀詞を奏す。
桓武 延暦14 795 出雲国造30代出雲臣人長は神賀詞を奏す。
嵯峨 弘仁2 811 出雲国造33代出雲臣旅人は神賀詞を奏す。
嵯峨 弘仁13 822 仮殿式遷宮。
仁明 天長10 833 出雲国造34代出雲臣豊持は神賀詞を奏す。
清和 天安3 859 出雲杵築神を叙正三位。
清和 貞観元 859 出雲杵築神を叙従二位。
清和 貞観9 867 出雲杵築神を叙正二位。
円融 天禄元 970 源為憲の『口遊』に、建築物の規模を「雲太・和二・京三」と表現する俚謡を掲載す。
一条 永延元 987 正殿式遷宮。
後朱雀 長元9 1036 正殿式遷宮。
後冷泉 治暦3 1067 正殿式遷宮。
鳥羽 天仁元 1108 神殿の梁柱傾き顛倒す。
鳥羽 永久3 1115 官宣旨により造営覆勘使が派遣されて正殿式遷宮。
崇徳 保延7 1141 神殿顛倒。
近衛 永治2 1142 官宣旨により杵築大社造営が沙汰さる。
近衛 康治元 1142 在庁宮人解状に「天下無双の大厦、国中第一の霊神」と記さる。
近衛 久安元 1145 杵築大社造営覆勘使が派遣されて正殿式遷宮。
二条 応保元 1161 三月会を初めて行う。
高倉 承安2 1172 神殿顛倒。
高倉 安元元 1175 仮殿式遷宮。
秋野鹿蒔絵手筥を御奉納。今に伝えて国宝に指定さる。
後堀河 家禄3 1227 仮殿式遷宮。
四条 嘉禎元 1235 神殿顛倒。
後深草 宝治2 1248 正殿式遷宮。
後宇多 弘安5 1281 仮殿式遷宮。
後醍醐 正中2 1325 仮殿式遷宮。
後醍醐 元弘3 1333 王道再興を勅願あらせられ、神宝の神剣一振を勅望せらる輪旨二通を賜る。今に伝えて重要文化財に指定さる。
御所蔵の「谷風の琵琶」を御奉納。
後村上 興国4 1343 出雲国造家は千家と北島の両家に分派す。
後亀山 元中3 1386 仮殿式遷宮。
後小松 応永3 1396 三月会再興さる。
後小松 応永19 1412 仮殿式遷宮。
後土御門 応仁元 1467 仮殿式遷宮。
後土御門 文明18 1486 仮殿式遷宮。
後柏原 永正16 1519 出雲国守尼子経久が仮殿式遷宮に際して境内に、大日堂・三重塔・輪蔵・宝庫を建立す。
後柏原 大永2 1522 尼子経久が一万部の法撃経を僧千百人に読詞せしむ。
後奈良 天分19 1550 仮殿式遷宮。
正親町 天正8 1580 仮殿式遷宮。
毛利輝元が銅鳥居を寄進す。
後陽成 慶長14 1609 仮殿式遷宮。
豊臣秀頼が堀尾吉晴、片桐且元をして造営せしめ、秀吉愛用の剣山振と銅製鰐口を寄進す。今に伝えて重要文化財に指定さる。
明正 寛永7 1630 徳川家光が50万両を以て修造せしめ、1646年後光明天皇正保3年に造営なる。
後西2 寛文2 1662 徳川家綱は銀二千貫目を寄進して造営を行わしめ、両部習合の弊習を出雲藩主松平直政の請を入れて排し、唯一神道の旧制に復せしむ。
霊元 寛文5 1665 造営工事に際して、クリス形鋼曳・硬玉製勾玉が摂社命主社境内の大石の下から発見さる。今に伝えて重要文化財に指定さる。
霊元 寛文6 1666 毛利綱広が鍋島居を寄進す。銘文に「素箋鳴尊者雲陽大社神也」と記す。
霊元 寛文7 1667 正殿式遷宮。
徳川家綱50万両を奉納し、出雲藩主松平綱隆を修覆奉行となす。
中御門 享保10 1725 造営につき諸国勧化を幕府が許可す。
桜町 延享元 1744 正殿式遷宮。
遷宮の時まで在来の本殿を存置して仮殿を設定せず。本殿以外の諸建物を撤去移動して新本殿を造営し、遷宮後に旧本殿を除去す。
光格 文化6 1809 神殿を修造し遷宮す。
これに先立ちて幕府は1000両を寄進し、諸国勧化を許す。遷宮入用金として金500両を寄進す。
仁孝 天保8 1837 幕府は諸国不作につき黄金三枚を奉納して五穀成就世上安全を祈願す。
明治 明治4 1871 5月14日付を以て「官幣大社」に列せらる。神領を上地して新規に境内地約五万坪が設定される。
神社制度改正により古伝新嘗祭は出雲大社にて執行となる。
三月会廃止さる。
明治 明治5 1872 出雲国造80代千家尊福は出雲大社大宮司に補せらる。
5月14日を例祭日と定める。
明治 明治6 1873 出雲大社敬神講を組織して全国の氏子崇敬者を結集す。
明治 明治8 1875 祖霊社を創建して敬神講員の祖霊を鎮祭す。
明治 明治10 1877 神社制度改正により千家尊福が出雲大社宮司に任ぜらる。
明治 明治12 1879 千家尊福は神道事務局副管長に選ばれる。
出雲大社敬神講を出雲大社教会と改称し、その神殿及教務局を出雲大社庁舎より千家国造館大広間に移転す。その式典に際して、尊福が「開論文」を宣読して「出雲大社教」の誕生を期す。
明治 明治14 1881 正遷宮を奉仕す。
権宮司制が旨遷せらる。
明治 明治15 1882 神官教導職兼務が禁止されたにより、尊福は宮司職を出雲国造81代千家尊紀に譲り、出雲大社教会の派名允許によって「神道大社派」と称し、管長職に就く。
明治 明治40 1907 皇太子殿下御参拝。
明治 明治44 1911 出雲国造82代千家尊統が宮司に任ぜらる。
明治 明治45 1912 御剣一振が御寄進せらる。
大正 大正6 1917 勅祭社に定められ、例祭5月14日に勅使差遣せしめらる。
皇太子殿下御参拝。
昭和 昭和7 1932 出雲大社教特立50年祝祭を行う。
昭和 昭和9 1934 勅使館・斎館・社務所等の新築、神苑拡張等が完了す。
昭和 昭和13 1938 大社国学館を設立す。
昭和 昭和18 1943 仮殿を造営するも昭和20年に中止す。
昭和 昭和21 1946 神道指令により国家管理を離れ、宗教法令によって宗教法人となる。
昭和 昭和22 1947 出雲国造83代千家尊祀が宮司に就く。
行幸を仰ぐ。御親拝ありたり。
昭和 昭和26 1951 国有地たりし境内を無償にて譲渡さる。
出雲大社教は出雲大社敬神講の姿に復し、出雲大社宮司千家尊祀が出雲大社教(いずもおおやしろきょう)の国造職を兼任す。
昭和 昭和28 1953 正遷宮を奉仕す。
勅使参向して奉幣祭を斎行す。
昭和 昭和30 1955 拝殿・庁舎・鑚火殿を復興するため、高松宮を総裁に戴き、地鎮祭を行う。
昭和 昭和31 1956 大社国学館を再興す。
昭和 昭和34 1959 拝殿竣功す。
昭和 昭和38 1963 庁舎竣功す。
昭和 昭和40 1965 行幸啓を仰ぐ。御親拝ありたり。
昭和 昭和42 1967 皇太子・同妃殿下御参拝。
「おくにがえり会館」竣功す。
昭和 昭和44 1969 「彰古館」を開設す。
昭和 昭和54 1979 出雲大社教特立百年祝祭を昭和57年に迎えるにあたり、神楽殿造営の地鎮祭及仮殿遷座祭を奉仕す。
 

 
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