島根県指定無形民俗文化財「槻の屋神楽」大蛇退治伝説の地で舞う
 
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槻之屋神楽
 日本最古の歴史書「古事記」「日本書紀」に記されている八(や)岐(またの)大蛇(おろち)退治(たいじ)。須佐男之(すさのおの)命(みこと)が、八(や)岐(またの)大蛇(おろち)退治(たいじ)を退治された斐伊川の上流の地、その伝説の地に生まれ継承されてきた神楽である。近くには「大蛇(おろち)神社」、大蛇(おろち)の棲み家だったと言われている「天が淵」、退治された大蛇の頭が埋められたと伝えられている「八本(はちほん)杉(すぎ)」等の八岐大蛇退治にまつわる伝説の地が数多く点在しており、またこの地域から良質の砂鉄が生産されていた事から、大蛇の尾より「天(あめ)の群(むら)雲(くも)の剣(つるぎ)」が現れ、後に「草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」と成り天皇継承三種の神器のひとつとなっている等、まさに神話伝説の地である。
 槻屋(つきのや)神楽(かぐら)は、1804年の「神(しん)能集巻(のうしゅうかん)」によると「出雲国出雲郡下直江村神官金築中津守」より伝えられたとあるが、これ以前に何処から伝授されたかは不明である。
 素朴な古典神楽であり、舞い、舞所の切飾り等に他の出雲神楽には無いものが有り、修験神楽にも通じる要素を多分に残している事から、神楽と呼ばれる以前の原出雲神楽を知る重要な手がかりを残しているとして昭和37年に島根県指定無形民俗文化財に指定され、昭和53年には文化財保護法による「記録作成の措置を講ずべき文化財」として選択されている。特に「亥(い)日(のひ)祭(まつり)」、「天神(てんじん)」の楽舞(がくのまい)は他の社中に無い舞であり、又「八戸(やと)」(八(や)岐(またの)大蛇(おろち)退治(たいじ))は多くの社中で舞われているものの当地域がその伝説の地であり、その伝説にふさわしい雰囲気と迫力、さらに優美で幽玄な舞いとして評されている。
調子
六調子系
活動の機会
氏神加茂神社例祭(11月10日、毎年奉納するとは限らない) 木次さくら祭り(4月上旬の日曜日)
文化財
島根県指定無形民俗文化財 昭和37年指定

所在地 〒699-1343 島根県雲南市木次町湯村614
代表者名 杉山正美
連絡先 雲南市木次町湯村614 Tel.0854-48-0012
    E-mail:tsukinoya@highlight.jp
構成員 男11名、女2名(計13名)
平均年齢(2003.4)54歳(実際の活動者の平均年齢・49歳)
構成員の氏名
川角義明、小池 勇、《活動している者》杉山正美、勝山博志、矢引 隆、勝部 博、亀山真二、内田隆己、古沢正徳、亀山幹生、黒目恒子、中島美奈子、鳥谷峯雄、渡部尚美
創立時期
不明だが、冊子「出雲槻之屋神楽」(記録者石塚尊俊)によると近世中葉以前とされる。
歴史
旧出雲郡下直江村の金築中津より飯石郡多久和村の佐藤八塩真綱に伝わり、仁多郡尾原村の陶山豊前源重光からさらに仁多郡湯村の元神主、勝部壱岐・藤原祇能が伝習。そして明治9年農民神楽の江角健次郎他が伝習し、大正13年尾原神楽となり、昭和に入り保持者が槻之屋出身者のみとなり「槻之屋神楽」と呼ぶようになって現在に至る(冊子「出雲槻之屋神楽」による)。
現在の活動状況
公演の主な記録など 例年四月上旬の木次さくら祭りの夜、自主活動として「かがり火イベント」に参加。そのほか町、県および公的機関よりの要請による公演や祭り、イベント等で要請を受けて公演を行なっている。また地元の「温泉こども神楽」の指導にも当たっている。
現在舞える全演目
「清目」「手草(真)」「連手草」「茣産」「勧請」「剣舞」「柴佐(山神祭)」(以上、七座)「国譲」「八戸(八岐大蛇退治)」「亥日祭」「田村」「天神」「五行」「茅ノ輪」「日御碕」「三宝荒神」「日本武」
(習得中の演目として、「経津王」「天狗」「大歳」「切目」「須佐遷宮」「三韓」「磐戸」)


 大蛇退治伝説の地

槻之屋 上槻地区

槻之屋 下槻地区

 氏神
加茂神社

加茂神社例大祭
11月10日

加茂神社例大祭
奉納「清目」11月10日

 天蓋・クモ・千道

天蓋とクモ
 
天蓋の呼称は地域により異なり、総じて万一尺(約30センチ)の木枠に中折りの透かしの彫りに色紙で裏打ちをした彫り紙(切り飾り)が四方に張り垂らしてある。方形あるいは六角形をなし、その数は地域により2ないしは9で、これが舞所の天井に設けられた木枠に吊るされる。一方、石見地方西部の柳神楽や抜月神楽では、天蓋はなく、竹を井桁に組んで笹をあしらったクモという大枠を吊るす。まず、天蓋とクモとはこのような違いがあるが、天蓋やクモの下に聖なる神が出現するのであり、この裏下で舞うのが本来の神楽である。神楽を舞う空間は、神社の拝殿や神楽殿でなくとも、こうした施設によっても規定されるといってよく、そのことは次の「舞所」の項で触れたい。
 さて天蓋であるが、この呼称は地域で異なる。テンガイ(天蓋)出雲・石見・安芸・長門/ギョッカイ(玉蓋)隠岐/パッカイ(祓蓋)美保関・伯者/キンカイ(錦蓋)伯者/クモ(雲)石見・隠岐などとなっている。ただし出雲の佐陀神能では天蓋・彫り紙(切り飾り)はない。
 石見地方のクモは万一間、竹を組んで「くもて」と称する軸をつくり、菓つきの竹、五色の掛率を奉らす。なかに三尺四方の穴を開け、その中から天蓋を上げ下ろしする。穴は鬼の出入りの穴という。同じ石見でも地域により多少の違いがあり、クモだけのところもあることは先述のとおりである。
 隠岐のクモは方五尺、それに三尺四方の穴を開けその下に方三尺の玉蓋が吊るされる。したがって玉蓋を吊り上げるとその穴に収まるようになっている。
 天蓋は神勧請・神降ろしの時に上下させる。隠岐の島前では玉蓋の真下に俵を二つ置き、前の俵に幣を立て、後ろの俵に巫女が腰をおろし、幣頭が唱え詞をしながら玉蓋綱を引き、神の降臨を乞う。島後の久見神楽では神楽の願主が舞い座に座して玉蓋を下げ、最後に願主が玉蓋を頭にいただき、神名を唱えて舞い座を順逆に巡る。
「日本書紀」の天孫降臨の段には、高皇産霊尊は莫床覆会で竣竣杵尊を包んで天から降下せられたとある。この裏床覆会というのが天蓋である。これに寵もる間に天孫のタマが成長するのである。天蓋は、魂の再生や神霊の降臨のためにはなくてはならないものであったのだろう。
千道
 舞所には中央に下げた天蓋から四方の柱、あるいは御幣に千道をはる。千道の製作は中折りの和紙を細かく長く裁って筋のごとくにする。天蓋から四方の柱に紙の千道に替えて注連をはる場合もある。神歌に「神の道 千道百道多けれど中なる道は神の通ひ路」とあり、道はたくさんあるが、そのなかで一番真ん中になる大事な道は神の通い路であるとする。(勝部正郊)

槻之屋神楽「チュウレン」
 舞所

 舞所とは神楽を舞う空間のことで、つまりは神々を招き寄せ、お出で願った神と神遊びする聖なる場所である。この意識なくしては神楽の斎場とはいえず、そのため神社の拝殿で舞を奉納する場合のみならず、いずれの舞所にも注連を張り巡らし、ところによっては天蓋やクモをはじめ彫り物などの施設をほどこして整える。これを舞があるからといって舞台と呼ばないのは、神楽は見世物ではないという厳粛な気が人びとにあったからにほかならないが、この頃はその意識もずいぶん曖昧になってきている。
 現在では多くの神楽が神社の拝殿あるいは神楽殿において舞われている。しかし、明治、大正の初年頃までは出雲の奥飯石神楽や石見の大元神楽地帯では「神殿」と称し、秋の刈田に稲架の材を用いて天地根元造りの舞殿を結って舞った。隠岐の島前では、今も祭事の舞のたびごとに組立式材を用いて舞殿を結って舞っている。また出雲地方でも、もともと神楽殿をもつ神社はまれで、多くのところでは神楽を催すつど仮設の舞所を建ててきた。
 舞い座は出雲地方でも石見地方でも多くが二間(約3.6メートル)四方の八畳の座であるが、西石見の柳神楽(日原町)・抜月神楽(六日市町)などでは、天井に下げられた一間四方のクモの真下の舞い座で舞う。また隠岐においても同じく玉蓋の真下一間四方の舞い座で舞われている。これらの舞はその広さを出ることはなく、舞い座の広さをクモが規定しているようなかたちになり、これは聖なるものが聖なる空間を出ないようにすることと考えられる。出雲市の見々久神楽などを例にあ.げれば、神社拝殿以外の場所で神楽を催す場合には、伐り出したばかりの青竹を組み立てて舞い座を囲うようにするが、これもまた聖なる空間を仕切るという意味合いをもつものであろう。
 繰り返しになるが、里神楽であれ神事として舞う神楽であれ、舞所は神を降ろし、神との交感をする聖なる場所であり、空間そのものが神籠である。現在のステージ舞にも一応天井にクモを吊るなどして神楽の施設が意匠として伝わっているが、そこにはどんな神々が現われるのだろうか。(勝部正郊)

加茂神社の舞舞台
 切飾り

 舞殿では、天井を支える長押という横の柱に、半紙で作った彫り紙が、隙間なく張り巡らされているのが普通であり、石見神楽ではこれを「なげし飾り」といっている。図柄は各地各様であるが、東方春、南方夏、西方秋、北方冬として、春は桜や梅、夏は扇子や花菖蒲、秋は菊や紅葉に鹿、冬は笹に雪や笹に水鳥などが見られる。
 大元神楽では、なげし飾りのほかに、上下させる天蓋に付ける「天蓋飾り」を施している。全体を被う大天蓋は概ね一間半(約2.7メートル)四方であるが、その中に、1尺(約30センチ)四方の枠9個を吊す。中央のものは万蓋といって少し大きい。この枠に餅・鯉・鳥居・朝日・海波などを彫り抜いた半紙の切紙を、色紙で裏打ちして貼る。これらはいずれも古い陰陽五行説がらみのものを取り込んでおり、小宇宙を作り上げて、座を和やかな気分に包みこむ。
 では舞殿の間取りを語りながら、舞い歩きをしてみよう。幕から出て、最初に通る一辺が春路である。ここは桜並木と思ってもよい。右折して夏を過ぎよ。続いて秋・冬と巡れば一巡である。「右巡りはこの世からあの世へ、左巡りはあの世からこの世へ」との説もある。舞殿はこんな気分にさせられるところだ。舞人たちよ、心の窓を開けて頭上の彫りものを仰げ…。
 もうひとつ、読者諸氏を煙に巻こう。むかしむかしの物語で、浦島太郎は龍宮城生活で 「四季の間」というのを毎日巡った。窓の外に桜の春景色、水鳥遊ぶ夏景色、紅葉散る秋景色、白銀の冬景色を味わって、よい気分であったが、この四季を一巡するたびに、ひとつずつ年を取っていったのであった。竜宮時間の間はよかったが、この世に帰って玉手箱を開けた途端にこの世時間に返ってしまった、という話である。(竹内幸夫)

槻之屋神楽「切飾り」

切り飾りの制作(奥飯石神職神楽)
 型を抜くための下絵や下書きに沿って、カッター・ナイフなどで丹念に切り抜いていく。切り飾りを「彫りもの」などというのも、こうした作業による。切り抜いた部分がすべて繋がっていなければならず、意匠を考えるのも工夫が必要である。

木次町「でんしゅう館」
木次町郷土文化保存伝習施設


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