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松江市観光アクセスマップ
【地名の由来・松江】
「松江」という地名の由来については古くから諸説あるが、主なものは次の三説である。
まず通説としては『懐橘談(かいきつだん)』『雲陽誌』という江戸期の地誌によるもので、松江城を築いた堀尾吉晴が、松江の風景が湖面に美しく映え鱸(すずき)や蓴菜(じゅんさい)を産するところが似ているとして、中国浙江省の淞江府(ずんこうふ)から命名したというものである。
次に新井白石の著『紳書』によると、堀尾氏の家臣で松江城の縄張工事にあたった小瀬甫庵(おぜほあん)が「鱸の名所也」として命名したとある。また『雲陽大数録』では円成寺開山春龍和尚の命名とし、「唐土ノ松江、鱸魚卜蓴菜卜有ルカ故名産トス、今城府モ其スンコウニ似タレバ、松江卜称スト云々」と記されている。
これらの説にはさまざまな疑問があげられている。「松江」という地名は開府以前からあったともいわれるが、その示す地域も定かではない。
昭和53年(1978)、島根大学の入谷仙介教授は地元新聞に次のような推論を発表した。「松江」は呉江県(ごこうけん)の太湖から流れ出る呉淞江(ウースンコウ=川の名)に由来し、命名に苦心していた堀尾吉晴が、渡明の経験のある春龍和尚の進言もあって「松江」を採用したのではないかというものである。
由来はこのように現在も解き明かされてはいない。しかし、風景の美しいことと、食物のおいしいことが松江の永遠のシンボルであることは確かなようだ。
【宍道湖】
松江を語るとき、第一に挙げられるのは宍道湖です。この湖の魅力は四季を通じてそれぞれの雰囲気を醸し出す美しさにあります。春のかすみにもやる潮。夏ははるか山並みにわき出る雲ときらめく潮。秋の夕陽に照り映え一面深紅に染まる潮。冬は薄墨色の空の下、灰色の水面に白い波頭が踊り、時には雪降りしきる潮。春夏秋冬の自然の中で変幻する宍道湖です。
一日中、潮のほとりで見続ける宍道湖も時問とともに変わり、見飽きることのない不思議さを持っています。その中でも何よりほかを圧して美しいのは落日の一瞬です。太陽が一日を終え、ゆっくりと没して夜のとばりと交代して行く様を、刻々と眼にしていくことのできる潮はほかにはないでしょう。ゆっくりと沈んでいくその時、夕陽は神秘的なまでに神々しく松江の街を包み込んでいるのです。
松江はその郊外に、古代出雲の息吹を今に伝えています。古代に意宇(おう)の里で暮らす人々も都から来た宮人たちも、恐らくこの美しい自然の織り成す綾を見たことでしょう。そして今は太陽が沈み切った湖面に湖岸のネオンが映え、揺らぐ夜景の美が加わっています。
宍道湖十景・松江八景】
風光明媚な国際文化観光都市松江には、昔のおもかげを残すたたずまいが今も生きている。宍道湖、松江城、武家屋敷、堀や川など。そして、四季折おりの自然がかもし出す美しい情景が城下町松江に素晴らしくマッチする。
昭和初年、まだ近代化の波が襲来しないころは、今よりも一層美しい風景が展開していた。松江のシンボル宍道湖周辺の四季をとらえた<宍道湖十景>、松江のしっとりした風景を描いた<松江八景>がこのころ選び出されたのである。
<宍道湖十景>1、松江城の雪 2、天倫寺の晩鐘 3、秋鹿の出雲富士 4、一畑寺の月 5、平田愛宕山の秋色 6、出雲の宿の夕鴨 7、玉造灘の春霞 8、嫁ケ島の残照 9、白潟沖のえびかがり 10、大橋の朝霧
<松江八景>1、千鳥遊園の春色 2、床凡山の秋月 3、嫁ケ島の白鴎 4、袖師ケ浦の暮雪 5、白潟天神の夜雨 6、宍道湖の夕照 7、天倫寺の晩鐘 8、大橋の帰帆
いずれも、選ばれた当時よりその情景は変わろうとしている。しかし、まだ松江や宍道湖をとりまく自然には、素朴な美しさが失われていない。
【嫁ケ島(よめがしま)】
宍道湖の東端、松江市嫁島町の国道9号線から約200m沖合いに浮かぶ宍道湖唯一の島である。東西に長く、全長110m、幅約30m、周周240m、の扁平な島で、面積およそ2,657平方メートル。
島の西側に弁天さまを祀る竹生島(ちくぶじま)神社の小祠があり、束端に鳥居もあって、30本ばかりの磯馴れ松が風情をそえる。
昔はもっと少なかったが、昭和の初め松江出身の政治家・若槻禮次郎が苗木を寄贈し賑やかになった。
奈良時代にできた『出雲国風土記』には蚊(か)島とあり、いつのころからか、これに可憐な嫁島の字があてられ、悲運の若妻の伝説も生まれて、嫁ケ島の呼び名になったのではないかと見られる。
第三紀中新世の火山活動によって噴出した玄武岩を基盤とし、南方の円成寺山、床凡山、茶臼山などと成因は同じである。島の一角には松江地方の漢詩人の結社 剪淞詩社(せんしょうぎんしゃ)が、島の西端弁財天祠の後に建てた永阪セキタイの詩碑もある。
安来節はじめ数々の民謡にも唄われる島だが、ここを点景とした夕景は特にすばらしく、ラフカディオ・ハーンも暇さえあれば、浜乃木のそば屋に人力車を走らせて、このあたりの宍道湖の残照をあかず見入ったという。
【嫁ケ島の伝説】
昔、姑にいじめられた哀れな嫁が、あまりの辛さに堪えかねて里帰りをした。その時に近道をしようと氷の張り詰めた湖上を、寒さに震えながら渡っていった。
嫁は、実家へ余程早く帰りたかったのか、急ぐあまり氷の溶けかかった上を歩いてしまった。そのため氷が割れ、あっという間に、深い宍道湖の中へと吸い込まれ、溺れ死んでしまったのである。
この様子を宍道湖に住む神さまが見ていた。神さまは、嫁があまりに哀れなので、松江城下の燈が見えるところに、嫁のなきがらと共に、一夜のうちに島を浮かび上がらせたと伝えられている。
【玄丹(げんたん)お加代】
明治維新期の混迷する松江藩の危機を救ったといわれる松江の侠女。お加代の逸話は多く語り伝えられているが、彼女の出身についてはいまひとつ判然としない。巷話(ちまた)では、父親は錦織半兵衛といい、松江藩士であったが、病により失明してから玄丹と名乗り、鍼医(はりい)をしていたという。玄丹お加代という名も、このあたりから言われ出したものだろう。
大政奉還の翌慶応4年(1868)、官軍は西園寺公望を総督とする山陰道鎮撫使を派遣した。一行の目的は佐幕的態度のあった松江藩を糾弾しようとするものだったから、松江に入った彼らは無理難題をふっかけ、まるで占領軍のように傍若無人の振舞であったが、これに対し松江藩はひたすら恭順の姿勢をとり、家老大橋茂右衛門の切腹をもって、事態を解決しようとした。
お加代は鎮撫使一行約2,000人のあらくれどもを慰安する酌婦の一人となった。宴席に出たお加代は、副使の川路利恭が座興で刀にかまぼこを刺して突き出したのを、平然と口で受けとり、酒も所望したという。かくして川路にとり入って、家老大橋の危急を救ったといわれる。この話は、のち大雪の宍道湖上を嫁ケ島まで人力車で渡った話とあわせ、お加代の豪快ぶりを語る有名な逸話となっている。
お加代は大正7年(1918)77歳の生涯を終えた。晩年も酌婦をやっていたようだが、前半生のような華やかなものではなかった。墓は松江市石橋町の舟越山光徳寺にあり、智鏡院釈歌楽大姉と刻まれている。永井瓢斎(ひょうさい)の建てたお加代地蔵もかたわらにある。
また、宍道湖岸白潟公園内にも、近年お加代の記念碑が建てられた。
【橋と川と堀】
松江に架かる橋の数は591といわれます。大橋川には宍道湖大橋・松江大橋・新大橋・くにびき大橋・中海大橋の五本の橋が架かっています。市の中心部には京橋、鍛冶橋、筋違橋、交融橋、天神橋、作橋、米子橋、字賀橋等があり、人と人、町と町とを結ぶ架け橋として、水郷松江の景観のポイントにもなっています。
中でも代表的な松江大橋は、松江開府時から数えて17代目の橋です。ハーンが耳にし、忘れないと書いた舞踏のような下駄の音がしたのもこの橋です。この橋に取り付けられた擬宝珠(ぎぼし)は、5代藩主宣維(のぶずみ)夫人岩姫が京の伏見宮家から輿入れの時、持ってきたものといわれ、代々の松江大橋に取り付けられるようになったものです。
【松平治郷(不昧公)】
7代藩主だった不昧は、茶の町松江のルーツともいうぺき人で「不昧公好み」とか「不昧さんのころ」という言葉が今も町には生きています。お茶をたしなみ古今の名器を集め、ついに茶道不昧流を興した風流殿様で、お茶事にちなむお菓子や懐石にちなんだ名物料理が次々に生まれました。そして散逸し消滅しやすい美術工芸品を守ってその美を評価し、技術者を保護し領内の工芸に息吹を与えた不昧の業績は、今日の松江文化の素地をつくることになったのです。
「菅田庵」「向月亭」「明々庵」の茶室、陶器の「楽山焼」「布志名焼」は今も残っていますし、指物・彫刻・建築に非凡な才を発挿した小林如泥(じょでい)を保護し、漆工の小島漆壷斎(しっこさい)、蒔絵師勝軍木庵(ぬるであん)も不昧によって活かされた人たちです。城下町としての品と潤いと落ち着きを創り上げた松江の町はそれを伝統的に保ち続けています。
薄茶・煎茶を頻繁に飲む松江人ですが、お茶に欠かせぬお菓子は「不昧公好み」として「山川」「若草」「菜種の里」の松江三大銘菓をはじめ桜餅、朝汐、路芝などなど、その数百七十種類の和菓子があり、菓子屋も百軒に及んでいます。
【訪れた多くの文化人たちは一様に水の都、水郷松江の美しい風光を書いています!】
ひと夏、山陰松江に暮した事がある。(略)私は此処で出来るだけ簡素な暮しをした。人と人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と魚と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮しだった。『濠端(ほりばた)の住まひ』
こう記した志賀直哉が友人里見トンと三カ月余り滞在したのは、大正3年の夏のことでした。直哉32歳、里見27歳でした。直哉はそのころ、孤独と不安な精神状態にありましたし、里見も恋愛問題で苦しんでいました。二人は松江の宿を拠点に、よく近郊を歩きました。旧い神話の舞台である土地は、私たちにも忘れられない美しい印象を残した。『在る年の初夏に』と里見は書いています。
芥川龍之介が失恋の痛手を癒すため、友人井川(恒藤)恭の招きで松江を訪れたのは、大正4年のことでした。彼は滞在中、地元の松陽新報に松江の印象記を投稿しました。松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持っている。椿が濃い紅の実をつづる下に暗くよどんでいる濠の水から、(略)滑らかな硝子板のような光沢のあり、どことなくLIFELIKEな湖水の水に変るまで、水は松江を縦横に貫流して、その光と影との限りない調和を示しながら、(略)絶えず懶(ものう)い呟(つぶや)きを此処に住む人間の耳に伝えつつあるのである。『松江印象記』
出雲は美しい穏やかな土地です。北側には東西65キロの島根半島が長々と横たわって日本海の風涛を防ぎ、南側には重畳たる中国山脈が千メートル級の高峰を連ねて走り、それらに抱かれた出雲はまるで箱庭のようなこじんまりとした世界です。宍道湖と中海の二つの湖水はアップリケのように出雲の風情を引き立たせています。
『出雲国風土記』の冒頭を飾る国引神話はこのような自然を背景に、古代出雲人が謳(うた)った雄大な叙事詩です。
八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を『古事記』と詠った古代の人の心を浮かび上がらせます。静かな空の下で、雲は人の心を追い掛けながら去来します。
益田出身の作家田畑修一郎は湖水の風景を見ながら雲は多いばかりでなく美しい。(略)いつとはなしに、雲を見ては水を眺め、水を見ては雲の方に目をやったりした。(略)私には、この水と空と雲とのつくり出す或る微妙なたゆたひが、あらゆる出雲的な性格に反映しているように思われる。『出雲・石見』
渡辺淳一もいっています。宍道湖ほど(略)自然のおおらかさをたたえている湖はない。『みずうみ紀行』
宍道湖には原色のけばけばしさはありません。その周りの山々も、松江の町並みも淡い色に包まれ、落ち着いた静けさが感じられます。こうした風景を、五木寛之は松江は永遠に静かな、すんだ町なのだろう。『地図のない旅』といい、立原道造もしづかだ、だが、そのしづかさは眠ってゐるしづかさだ『長崎ノート』といいます。
しかし、穏やかに広がる湖水の光と影、家並みを水面に映し出す風情の中にかすかにきらめくものが潜み、旅人の郷愁を誘っています。二葉亭四迷の心に文学的なものを芽生えさせたのは、少年期を過ごした松江の風土でした。また多くの作家、詩人が松江の風景を求めて訪れました。
昭和2年、島崎藤村は次男鶏二と訪れました。10日余り山陰を旅した藤村はこの町が大変気に入っていっそ松江の人にでもなってしまおうか『山陰土産』と冗談を飛ばすほどでした。その3年後、与謝野鉄幹、晶子夫妻が松江に遊びました。
幼児期を大社で過ごした阿部知二はこう記しています。出雲の印象は、私にとっては宍道湖の中心として心にあらわれてくる。(略)温和な、親しみやすい、一見平凡ともいえそうな、しかし繊細で陰影がゆたかで、どことなく夢幻的なものを感じさせる。『宍道湖のほとり』
その宍道湖が温和な姿をかなぐり捨てる一瞬があるのです。それは夕陽に映える湖です。
宍道湖に於て見るペきものはただ一つしか無い。壮麗なる落日のけしきである。『諸国畸人伝−小林如泥』と書いた石川淳だけでなく、夕陽の美しさを描いた文人は少なくありません。田山花袋『山水小記』、駒田信二『湖と私』、尾崎士郎『雷電』、岡本太郎『日本再発見』など数え切れないほどの文人たちが、神秘的な情景に見せられたのでした。
大正二年暮れから、二年余り出雲今市に住んだ詩人の
田中冬二の詩集『青い夜道』に「松江」という詩があります。
「秋になった 湖水の鱸の美味しいころとなった 秋の星座をうつしたしづかな湖水に 鱸はかなしくも美味になっていった」
宍道湖は四季折々の味覚を楽しませてくれます。
鱸が悲しくもおいしくなるころ、白魚捕りの漁火が湖面にきらめき、長い冬ごもりに入ります。
出雲は茶どころです。安来出身の陶芸家河井寛次郎は次のようにいっています。出雲の冬は、炬燵とぽてぽて茶で明けくれた。『手で考え足で思う』
薄茶がこの町の暮らしの中に立てられ出したのは何時頃であったろう。朝十時頃になると家人はみな座敷に集まって、火鉢か炬燵の横に短冊形の茶箱を置いて母親たちが立てました。『六十年前の今』
江戸時代、民家にとって無縁であった不昧の茶の湯は、知らず知らずの間に民衆に受容されていったのです。そして、陶器、漆器、工芸、和菓子、料理などの茶道文化は、民衆に見守られて育ちました。
からころと下駄の音が、漸次高く響いてくる。大橋の上で下駄の鳴る音は、何うしても忘れられない。『神々の国の首都−松江』と、日本人の気付かなかった音に聞き入って、知られぬ日本の面影を求めたのは小泉八雲でした。彼は明治23年(1980)はるばる長い旅をして松江にやって来ました。孤独な八雲の心に出雲の自然と文化、そして人々がどれほど慰めとなったか、はかり知れません。
開高健もいっています。この町へくるには濁りに濁り、疲れに疲れしたうえでのほうがいいのではあるまいかと思われる。『新しい天体』
【小泉八雲】…島根を心のふるさととし『知られぬ日本の面影』の美しい文章で松江を紹介した文学者 !
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)というと、日本では「耳なし芳一」「雪女」など「怪談」の作者としてのイメージが長年の間に定着してしまいました。しかし、「怪談」を通しての八雲像は彼のごく一部に過ぎないのです。
彼はアイルランド人(英国籍)として、ギリシャのイオニア海に浮かぷレフカダ島で生を享け、間もなく父チャールズ・ブッシュ・ハーンの実家であるアイルンドのダブリンに移住します。四歳にして両親の離婚という不幸に見舞われ、そのためか母、そして彼女の母国であるギリシアヘの愛憎の念が常に彼の胸中に息づいていました。しかし、幼少年時代を民話の宝庫であるアイルランドで過ごしたことは、将来の文学の仕事に少なからぬ影響を与えています。イギリスやフランスで教育を受けた後、19歳の時、アイルランド移民の一人として単身渡米、オハイオ州のシンシナティで苦労を重ねた後、新聞記者として実力を発揮してさらにニューオリンズに移り住みます。
明治18年(1885)ニューオリンズ万博の際、その日本館の会場で服部一三という日本人に巡り会い、不思議にも五年後、ハーバー社との契約で来日した際にも同氏は東京でハーンの就職の世話に当たったのです。横浜到着後間もなくハーバー社と絶縁したハーンは、明治23年八月30日、島根県尋常中学校、師範学校の講師として来松し、翌年11月15日まで約1年2カ月を自ら「神々の国の首都」と呼び絶賛した松江に暮らします。
その間、松江市内はもとより県内東部に資料蒐集を兼ねた旅を続け、行きずりの旅行者の視点を超えた「心の眼」で知られざる山陰を記し、明治27年に『日本瞥見記(べっけんき)』(『知られぬ日本の面影』とも)としてその成果を上梓しています。松江時代は彼の人生において最も幸福な時期でした。生涯の伴侶となる士族小泉湊の娘セツとの出会い、籠手田安定島根県知事、出雲大社の千家尊紀宮司、中学校の西田千太郎教頭、そして自分を慕ってくれる中学校や師範学校の生徒たち…この暖かな人間環境は、若くして逆境を味わった八雲に島根が与えた最高のプレゼントだったかもしれません。
しかし、寒さに弱くこたつが苦手な八雲にとって七厘の暖のみで当時の松江の冬を越すことば困難でした。能州本第五高等学校への転任を決意し、期間的にはわずか一年余りで松江を離れることになつたのです。
ただ能州本時代にも明治25年、夏には約二カ月にわたる京都、隠岐への旅行を企てています。門司から境港へ船で向かう途中に温泉津に上陸し、これが唯一の石見での足跡となっています。隠岐へは約二週間滞在し、「人間生活の万事が人工づくめの領域を越えて、本当の自己を知る喜びが感じられた」と語り、島生まれ、島国育ち、また海、水を何よりも愛して生涯を彷復した男の悟りのような深い感慨を隠岐旅行で見出しています。また前後しますが、山陰各地で盆の精霊流しの行事に接し、さらに加賀の潜戸を訪ね、神誕生の岩屋と子供の魂の行方である賽の河原が隣接するのを見て「人間の魂は海から来て海へ帰るのではないか」といった来世観を直観として洞察したことは八雲の思想面での大きな滋養になりました。
新聞記者に返り咲き「小泉八雲」として日本に帰化した神戸時代にも松江を訪問し、これが結局最後の山陰への旅となります。後に東京に赴任すると、帝国大学講師の傍ら『骨董』『怪談』などの再話物の執筆に専念し、また死期が近いことを悟って、卒業論文ともいうべき『日本-一つの試論-』に全精力を傾け、脱稿後間もなく明治37年、54歳にして短い灯は燃え尽きました。
晩年、東京に家を建てる話が出た時「面白い隠岐島か出雲のどこかに建てましょう」とあくまで東京永住を反対した八雲の言葉には、彼の心のふるさととしての島根が意識されてなりません。
松江開府…軍事的な山城(富田)から寒村にすぎなかった松江を城地とした新領主堀尾吉晴 !
慶長5年(1600)9月、関ケ原の合戦の後、遠江国浜松から出雲・隠岐両国24万石の大名として堀尾忠氏と父吉晴が富田城に入ったのは、同年11月のことでした。
近世大名の新領主として堀尾父子が直面したのは、富田の地が領国支配を行う城下町としてふさわしくないという現実でした。日本史上、城下町は中世(14世紀ころ)から見られるのですが、中世の城は大体軍事的な山城で、城下町はその山麓に自然発生的にできたものでした。しかし、豊臣政権下で行われた太閤検地とそれに伴う刀狩などの政策によって、兵農分離・農高(工)分離が実施され、武士階級をすべて城下に集め、城と家臣の居住が一体となり、さらに商人・職人を城下に吸収して経済活動も把握する町づくりが求められる時代になっていました。
富田の地は出雲の東部に偏っており、飯梨川がつくる平野は開けているといっても狭長です。交通運輸の便も陸上を頼らざるを得ない山間地であり、24万石の家臣団とその家族を居住させるには狭い所だったのです。さらに鉄砲伝来以来、変化した戦闘において、富田城は向山の京羅木山から見下ろす山になり、軍事的にも時代遅れの城となっていました。
堀尾父子は領国支配のために、出雲の中心に近く城下が広く取れ、海上輸送の便もある宍道湖岸の地に新城地を求めたのです。二人は、宍道湖東岸の乃木村元山(床凡山)から北の山々を眺望し、城地選定をしたといわれます。吉晴は洗合山を適地とし、忠氏は亀田山を主張しました。忠氏は亀田山は28.4メートルの丘陵で、南は川と湖があり、東西は深田や沼沢地で道も狭く、敵が来ても向城は造られず、北は白鹿城の古城があり、ここに遠見番を置けば堅固な城になるといい、洗合山は山が大きく50万石以上の知行がないと維持できないという意見でした。吉晴は亀田山は小さくて平城のように見えると思い、結論を出さなかったのですが、しばらくして忠氏が慶長9年(1604)28歳の若さで急死したため、忠氏の遺志を継いで亀田山に城を築くことにしたのです。
築城は幕府の許可を慶長8年(1603)に得ていたのですが、工事の準備や、検地を行って資金の調達をすることに四年間が費やされたようで、慶長12年に着エ、完成したのが慶長16年で、足かけ五年の歳月をかけた大工事が行われました。吉晴は当時「普請上手」といわれた人物で、土木工事の名手として知られた家臣を抱え、石工、大工、泥工、かわら工などは、大阪築城の経験者を招いたといわれますし、加えて縄張り(設計と施工指揮)をしたのが、軍学、歴史、易学にも通じ『太閤記』の著者としても有名な侍医小瀬甫庵(おぜほあん)でした。
築城前の亀田山には、極楽寺、須衛都久社、稲荷神社、荒神などの社寺があり、山上・山腹・山麓には農民や漁民の家がありましたが、これらはすべてよそへ移されました。末次郷といったこの周辺は民家が点在し、田畑や沼沢が広がる一帯でしたし、南の白潟には人家がありませんでした。しかし、末次の地は『出雲国風土記』に須衛都久社のあるところと記してあり、古くから開けていた地域でした。中世には末次荘や末次保があり、守護佐々木氏の一族に末次氏がおり、この一帯がその所領であったと思われます。
エ事の初年度は資材運搬のための幹線道路を確保するため、大穂川に架かっていた「カラカラ橋」と呼ばれた橋(大橋)を本棟に架け直し、道路整備と架橋に並行して、侍屋敷の殿町、母衣町、内申原町の造成と、城郭の地ならしが成されました。二年度は本丸の石垣、天守閣の土台石垣、間の宇賀山を切り崩し、内堀工事にかかり、この時亀田山と赤山の塩見縄手の大濠を造り、その土で南田町、北田町、中原の入江や沼沢地を埋め立て、屋敷地ができました。石垣は大海崎矢田、嫁ケ畠「川津、大井などから運ばれた石でした。三、四年度にかけて、天守閣、二の丸御殿が完成し、五年度に総仕上げをして、侍屋敷、町人町も完成し、家臣、町人、寺院の移住が逐次始まったのです。
千鳥城と呼ばれる天守閣は高さ30メートル、外観は五層で、石垣内部に地階があるので内部は六階、最上階には遠見櫓があり、現存する唯一の望楼式天守閣です。前面に一重の付櫓があり、下見黒板張りで白壁が少なく、壁面に隠狭間が95カ所もあります。石落しも多くあり、地階は籠城用の貯蔵庫になっていて、井戸も掘ってある実践的な城です。安土桃山時代の様式を伝える、城郭建築の上で極めて重要な城として、国指定の重要文化財になっています。
城下町としての形態も、城の周りの内堀、外堀、上級、下級の家臣を分けた屋敷割り配置、職種ごとに集合させた町家の取り方、巧妙な工夫のされた寺院配置、町のあちこちに見られる十字路、鈎型路、袋小路に、複雑に屈折した狭い道路、堀や川に大小四十余りの橋が架けられていることなど安定したとはいえ、軍事的脅威のまだ冷めぬ当時を反映した、戦略面に力点を置いた町づくりがされています。その形態は京極氏、松平氏と続く中でもさほど変化はなく、基本的に堀尾普請でつくり上げられた町の姿を踏襲し続け今日に至っているといわれています。
近代、現代には戦火を浴びることもなく、松江は市中至る所に城下町の名残をとどめ、創建当時の姿を伝える千鳥城とともに、貴重な城郭都市であり、文化観光都市として価置のある街です。
【玉造温泉】…出雲国風土記にその名を記す、日本有数の歴史をもつ温泉郷!玉造温泉旅館ホテル
宍道湖に注ぐ玉湯川に沿って旅館や歓楽施設が軒をつらねている。全国でも有数の温泉地で、山陰では城崎、三朝、皆生と並んで年間を通じて関東、京阪神、山陽方面からの観光客を集めている。温泉の歴史は古く、今からおよそ1,600年前に湧出したとの古い記録があり、『出雲国風土記』にはすでに玉造の名がみられる。しかし、広く一般に利用されるようになったのは、大正末期からである。
温泉は泉源数15、泉温50〜70℃で、泉質はNa・Ca-SO4・Cl泉であり、凝灰質砂岩の間隙から湧出している。リュウマチ、胃腸病、婦人病、神経痛に効能があるといわれる。温泉の東部にある標高199mの花仙山を中心とする丘陵には、母岩の安山岩が風化した砂礫(されき)や粘土の中から瑪瑙(めのう)、玉髄(ぎょくずい)を産出する。通称「出雲石」とよばれている。玉造の地名は、櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)が、この玉造の地で勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)を造ったという伝説によるもので、三種の神器で有名な「八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は、命がこの地でみがきあげたものだとされている。現在は、青めのうを主体としてみやげものになっている。
宍道湖の湖岸には、玉造温泉(親湯)から引湯して新玉造温泉(子湯)があるが、これは玉造温泉駅の北約800mのところで、玉湯川の河口にある。河口から眺める宍道湖の景観はすばらしく、山間の玉造温泉とはちがった風情がある。
【松江しんじ湖温泉】…宍道湖畔から湧き出る良質湯、落陽を眺めながらの湯は格別! 松江しんじ湖温泉旅館ホテル
昭和46年に湧き出した比較的新しい温泉で、湖畔に沿って旅館やホテルが立ち並んでいます。温泉街には、文学散歩道や温泉公園などがあり、湯上がりの散策も楽しめます。塩見縄手や松江城へも比較的近いので、観光の拠点として利用するのも便利です。食事の主役は宍道湖の幸。落陽を眺めながらの湯も最高です。毎年8月24日には湯元「お湯かけ地蔵」の祭りが行われます。
【松江の和菓子】
松江の和菓子には、全国的に有名なものが多い。金沢の「長生殿」、長岡の「越の雪」とともに天下の三大銘菓と称される「山川」を筆頭に、「若草」「菜種の里」と茶人、松平不昧公好みの銘菓が現在まで伝えられているし、その他に「八雲小倉」「黒小倉」「路芝(みちしば)」「鼕(どう)行列」「柚餅子(ゆべし)」など枚挙にいとまがないほどである。茶の湯がさかんな当地ならではの種類の多さである。
味は抹茶に合わせるため甘味の強いものが多いが、最近は客の嗜好の変化に合わせで打みを控えめにしてある。菓子店も老舗が多く、ケーキ、クッキーなどの洋菓子の流行にも押されず、それぞれの店独自の個性的な昧を守りつづけ、なおかつ次次と新しい菓子を開発する労をおしまない。旅行客が聞き伝えて土産として持ちかえることも多いが、何より土地の生活に抹茶と和菓子が密着しているのがうれしい。
【あごのやき】
あご、とは飛魚のこと。日本海で5月から9月にかけて豊富にとれる飛魚のすり身を炭火で焼きあげたものが「あごのやき」。暖かい季節に火の側でする作業なので屋外で行うことが多く、それが「野焼き」の名の由来と言う。野焼きの香ばしいにおいは松江の初夏の風物詩だった、と土地の古老は言う。焼きたてを包丁で切らずに手でちぎって食べるのがいい。総菜としてよりは酒の肴として珍重される。
作り方は、飛魚のすり身を長い金の棒に直径5c撚ほどに練りつけ、くるくると回しながら焼く。この時、板に針をうちつけた「針山」で小さい穴をたくさんあける。皮の剥離防止と、火の通りをよくするため。
飛魚のすり身は黒っぼく、太い野焼きの外観は決して洗練されたものではないが、ロー杯にほおばると酒とみりんの香りが鼻にぬけ、飛魚自体のかすかな甘味がひろがる。しこしことした歯ごたえと、ほどよく焦げた皮のうまみが合わさり、いわゆる竹輪とは全く別物の趣がある。
【津田かぶ漬】
茶どころと言われる出雲地方にあって、食後や休憩時などに飲むお茶は、毎日の生活の中で欠くことのできないものである。そしてそれには必ず"茶口(お茶受け)"として菓子、煮〆(にしめ)、漬物などが添えられる。
松江で冬場の漬物と言えば、何と言っても津田かぶ漬である。沢庵漬のパリパリした歯触りと違い、シコッと柔らかく、津田かぶならではの甘味が熱い煎茶の味を引き立てる。
津田かぶは松江藩初代藩主松平直政(1638〜1666年)の時代に近江国(滋賀県)から伝来し、城下の野菜の需要の大半をまかなっていた津田村で栽培が始められたと言われる。長さは20cm余り、しっぼが勾玉(まがたま)状に彎曲(わんきょく)し、地上部表皮が濃い紫紅色で、真っ白な切り口とのコントラストが美しい。肉質は柔らかく、甘味の強いのが特徴である。このかぶを生干ししてから糠漬(ぬかづけ)し、重石をして二週間もすれば食べられるが、最もおいしいのは一か月程経ったものである。
出回る時期は11月から3月ごろまで。地元はもちろん、お土産、贈答として県外でも賞味され、松江から届く味の便りを楽しみにする人も多い。
【八雲塗】
松江の名産品として、全国的に知られる八雲塗の創始者は、天保14年(1843)松江の西茶町で、代代藩お抱えの駕籠(かご)塗職人の家に生まれた、坂田平一である。平一が、その職を継いでまもなく、明治となり失職してしまった。
彼は人力車の塗装や直し物などで暮らしをたてていたが、ある日、古道具屋から中国製の存星塗(ぞんせいぬり)の盆を見せられ、その雅味ある手法に魅せられ、これをまねて盆を作った。平一の試作品がみごとな出来であったため、唐物(中国産の漆器)として売り出された。明治10年(1877)から19年ごろのことである。
その後平一も独白の工夫を重ね、すぐれた作品を製作するようになり、これが時の島根県知事籠手田(こてだ)安定の目にとまり、知事や友人の勧めで「八雲塗」の名をつけて販売されるようになった。
平一の塗手法は、布着せ本整地で、錆研(さびと)ぎの上へ中塗りせずに削り墨を引き、すぐに絵付けをする。それに錫粉で模様を描き、中へ朱・黄・茶・緑などを固練りで塗り、乾いたところへまた塗り、さらに乾燥した黒目漆を薄く塗り軽く炭研ぎをし、つぎに油分のない朱分漆を塗って、胴擦り仕上げをするというものであった。
平一考案の八雲塗はたちまち評判となり、模倣者が続出し生産は増していった。そして同業組合の設立や八雲塗研究所などが設置された。昭和初期に職工は50名余を数えた。現在は、八雲塗も商品的なものと、創作的なものとの二流があるといわれている。
アルバム、茶器、盆、銘々皿、椀、硯箱などが造られ、みやげものとして親しまれている。
【アクセス】
JR山陰本線松江駅下車・一畑電鉄松江温泉駅下車・出雲空港からは一畑バス空港連絡松江行きで35分JR松江駅下車・山陰道松江中央ランプから県道などでJR松江駅まで約2km・中国自動車道三次ICから国道54・9号で松江駅まで約110km
問→松江市観光文化課 0852-55-5214 松江市観光協会 0852-27-5843

宍道湖
全国で7番目に大きい宍道湖は、真水と海水の混ざりあった汽水湖です。特に刻々と表情を変える夕景の美しさは絶景で、水都松江の象徴になっています。夕日観賞には白潟公園から国道9号線にかけての湖岸がおすすめです
問0852-55-5214(松江市観光文化課)松江駅から徒歩15分、光遊覧船の第1乗船場(松江港)へは松江駅から徒歩15分、第2乗船場へは松江駅から徒歩5分

嫁ヶ島
宍道湖に浮かぶ周囲240mの島で、湖に落ちて亡くなった若い嫁の身がらとともに浮かび上がったという悲しい伝説があります。夕日に染まる湖に浮かぶ島のシルエットは息をのむ美しさで、宍道湖の夕景をよりすばらしいものにしています。

宍道湖夕映え見ごろ時間
季節によって夕映えの時間が違うので、グラフで確認して下さい。「ぐるっと松江レイクライン」や宍道湖遊覧船にも夕日コースが設定されています。

島根県立美術館(館内からの夕日は絶景)→詳細
宍道湖を一望できる開放的なエントランスロビーや湖岸のモニュメントを楽しめる外庭など、抜群のロケーションを誇る美術館です。収蔵作品は国内外の絵画、版画、彫刻、写真など多彩です。
問0852-55-4700(島根県立美術館)10:00〜18:00(3・9月の閉館時は日没30分後)休館月曜(祝日の場合は翌日休)300円(企画展は別料金)松江駅から徒歩15分P200台松江市袖師町1-5

松江しんじ湖温泉詳細
宍道湖畔に位置する温泉街で、宿からは湖が一望でき、早朝には湖面に浮かぶしじみ舟を見ることもできます。また、宍道湖七珍料理も温泉と合わせて堪能できます(要予約)。温泉入り口には一畑電鉄の駅があるので、出雲方面へも気軽に足をのばせます。
問0852-55-5214(松江市文化観光課)松江駅からまつえウォーカー右回りで11分、松江温泉下車すぐ松江市千鳥町

松江大橋
慶長13年(1608)、松江城築城の際に造られ現在は17代目になる松江大橋。御影石の欄干と唐金の擬宝珠が歴史と風情を漂わせます。また、歩道の展望台からは晴れた日には大山が望めます。
松江大橋・松江駅から徒歩15分京店商店街駐車場利用(有料)

松江ウォーター・ヴィレッジ(ルイス・C・ティファニー庭園美術館&イングリッシュガーデン)→詳細
「宍道湖の自然と芸術のハーモニー」をテーマにした施設。装飾芸術の巨匠ルイス・カムフォート・ティファニーのステンドグラス、ランプ等約200点を展示するルイス・C.ティファニー庭園美術館と本場イギリスのガーデンを思わせる本格的なイングリッシュガーデンで構成される
問0852-36-3030(松江ウォータービレッジ管理事務所)9:00〜17:00(10〜3月は16:00まで)無休2000円一畑電鉄ルイス・C・ティファニー庭園美術館前から徒歩5分P270台松江市西浜佐田町330-1

松江フォーゲルパーク詳細
日本では珍しい花と鳥の公園。花のテーマ展示温室は、世界最大級の規模で、年中満開の数千種のベゴニア、フクシアを中心とする花の別天地が楽しめます。二つの鳥の温室をはじめ、園内各所ではたくさんの鳥を見ることができ、水鳥たちにえさをやったり、フクロウの飛行ショーを楽しむこともできます。展望台からは宍道湖が一望できます。
問0852-88-98008:30〜16:30無休1500円・ 一畑電鉄フォーゲルパーク駅からすぐP300台(2時間まで無料)松江市大垣町52

月照寺
松江藩主松平家の菩堤寺です。江戸時代、火難にあいましたが墓所と廊門はほぼ完全な姿で残り、その閑雅さを小泉八雲も絶賛したといいます。山門正面にある七代藩主治郷(不昧公)のものは、名工・小林如泥の作で、飾りのブドウの透かし彫りなどが見事です。境内にある大きな亀の背にのった石碑は六代藩主の寿蔵碑で、この大亀は夜ごとに町へ散歩に出たという伝説があります。
問0852-21-60568:30〜17:30(11〜3月は17:00まで)無休400円松江駅からレークラインで15分、月照寺前下車、徒歩すぐP3台松江市外中原町79

天倫寺
天倫寺からの眺望は、宍道湖十景・松江八景にあげられたほどの絶景です。鐘楼にある梵鐘は朝鮮鐘で国の重要文化財。音のいいことで知られています。
問0852-21-6488境内自由松江駅から一畑バスで17分、天倫寺前下車すぐP2台松江市堂形町589

円成寺
慶長16年(1611)、松江城を築いた堀尾吉晴が、宮田城下にあった寺を松江市国屋町に移し瑞応寺としましたが、後に入国した京極忠高が現在の地に移し、初代城主忠晴の法号にちなみ円成寺と定めました。堀尾氏3代の菩提寺で、堀尾忠晴(吉晴の孫)の木像や五輪塔など、堀尾氏ゆかりの遺品が残されています。華道小原流創始者・小原雲心の墓所があることでも知られています。

大雄寺
松江開府の際に広瀬町から移された法華宗の寺で、静寂さの中に心落ち着く風情をかもしだしています。石垣と白壁の山門をくぐると、左側に小泉八雲の「飴を買う女」の舞台となった墓地があります。この怪談は、母親が赤ん坊のために幽霊となって飴を買いに来るという物語で、母の愛の強さを訴えています。
問0852-21-1468境内自由一畑電鉄松江温泉駅から徒歩5分P2台松江市中原町234

八雲立つ風土記の丘
かつて古代出雲文化の中心的な役割を任った地です。島根県立八雲立つ風土記の丘資料館や出雲かんべの里、八重垣神社、神魂神社など古代の趣を今に伝えるスポットが点在しています。
問0852-23−2485(風土記の丘資料館)休(月曜、祝日の場合は翌日休)入園自由、資料館150円P150台松江駅からレ一畑バスで約33分、風土記の丘下車、徒歩3分P40台松江市大庭町456

神魂神社
イザナミノミコトを主祭神とする古社で、通称「大庭の大宮さん」。本殿は現存する大社造りの社殿のうち最も古く、国宝に指定されています。参道の苔むした石段が、より荘重な雰囲気をかもし出しています。
市営バスかんべの里から徒歩3分・P20台

八重垣神社
縁結びで知られる八重垣神社は、八岐大蛇退治を終えた素蓋鳴尊が稲田姫とともに新居を営んだところとされています。稲田姫などを描いた社殿の壁画(重文指定)は、神社の障壁画としては日本最古のもの。裏手にある鏡の池は稲田姫が鏡がわりに使ったと伝えられ、硬貨を紙片にのせて水に浮かべ、その沈み方によって縁談を占う"コイン占い"が若い女性に人気です
問0852-21-40309:00〜17:00無休園内自由、宝物館200円P150台松江駅からレ一畑バスで18分、終点八重垣神社下車すぐ松江市佐草町227

松江城
千鳥城の名をもつ松江城は、松江開府の祖堀尾吉晴が慶長16年(1611年)、4年の歳月をかけて完成させたもので堀尾氏3代、京極氏1代、松平氏10代の居城。明治初年の取り壊しを免れた5層6階の天守閣(重文指定)は、築城後400年のいまも往時の風格をそのままに漂わせています。実戦本位のつくり、黒く分厚い下見根で覆われた武骨な構えに桃山風の荘重雄大な手法がうかがえ、天守閣からは市内を一望できます。
問0852-21-4030(松江城山公園管理事務所)・8:30〜16:30(夏期延長あり)無休・公園内無料、天守閣550円P50台松江駅からレイクラインで12分、松江城(大手前)下車、徒歩5分松江市殿町1-5

松江堀川めぐり詳細
松江城を取り囲む堀川を約1時間かけてのんびり船で周遊します。川面に映る深い緑に心なごませながら松江の町並みを眺めれば最高に爽快です。冬には名物こたつ船が登場します。
問0852-27-0417(堀川遊覧船管理事務所)9:00〜季節により異なる(15分間隔)、12月〜2月は10:00〜15:00(20分間隔)無休・1200円乗船場の松江堀川広場へは、松江駅からレークラインデ26分、堀川遊覧船下車すぐ城山西駐車場利用(遊覧船利用者は2時間無料)

塩見縄手
松江城の内堀を隔てた北側に弓なりに延びる通りは"塩見縄手"と呼ばれ、小泉八雲旧居をはじめとする武家屋敷が並んでいます。歩道の脇の老松が堀に影を映し、城下町の面影を最も色濃く残す一角です。
松江駅からレークラインで24分、塩見縄手下車すぐ城山西駐車場利用(有料)松江市北堀町
武家屋敷
約260年前の松江藩中級藩士の屋敷で、刀だんすやお歯黒道具をはじめ当時の家具調度晶、生活用具などを展示しています。また、玄関や座敷部分の立派な造りに対して私生活部分は質素にするなど、公私のけじめをつけていた武家の暮らしぶりが偲ばれます。
問0852-22-22438:30〜18:30(12〜2月は16:40まで)無休・300円 松江駅からレークラインで24分、小泉八雲記念館前下車すぐP市営城山西駐車場利用松江市北堀町305

小泉八雲記念館
明治23年8月に松江中学の英語教師として来校した小泉八雲は、熊本に転任するまでの1年2か月あまりを松江で過ごしました。小泉八雲旧居は享保年間(約200年前)に士族の屋敷として建てられたもので、三方を庭で固まれた平屋建瓦葺の家です。八雲は旧松江藩士の娘セツと結婚後ここに住み、取材をかねて出雲地方各地を訪ね歩いて多くの著作を書きました。旧居に隣接する土蔵造りの小泉八雲記念館には、文机やランプ、トランク、ペン皿など八雲の愛用品、遺品を中心に約600点が展示されています。
問0852-21-2147(小泉八雲記念館)8:30〜16:40(8・9月は18:30まで)無休300円松江駅からレイクラインで26分、小泉八雲記念館前下車、徒歩1分市営城山西駐車場利用

松江郷土館(興雲閣)
明治時代の白亜の洋館で、和風の意匠を随所に取り入れ、見事に調和しています。歴史・民俗資料・エ芸晶など郷土資料が展示されています。
問0852-22-39588:30〜16:40無休無料(特別展は有料)松江駅からレークラインで9分、松江城(大手前)下車徒歩4分P市営城山西駐車場利用松江市殿町1-59

菅田庵
塩見縄手の北西、かつての松江藩家老有沢家の山荘には不昧公ゆかりの茶室、菅田庵(重文指定)があります。寛政4年(1792年)、大名茶人として知られる松江藩7代藩主松平治郷(不昧公)の指図で建てられたもので、一畳台目中板の茶席は形式にこだわらない壮年のころの不昧公らしい試みが随所に見られます
問0852-21-4288休(木曜、悪天候の日)700円、抹茶350円(和菓子付) 松江駅から松江市営バスで17分・管田下車、徒歩10分P3台松江市管田町106

明々庵
中柱のない本席、向切りの炉など随所に不昧公の好みが生かされた茅葺きの入母屋造の茶室です。ここからは松江城が眺められるうえ、隣接する百草亭で抹茶をいただくこともできます。
問0852-21-9863(明々庵)無休200円、抹茶350円(和菓子付)松江駅からレークラインで24分塩見縄手下車、徒歩4分P10台松江市北堀町278

カラコロ工房詳細
旧日銀松江支店の建物を修復し「匠」をテーマにリニューアルした製造・販売一体型の工芸館。ガラス、めのう、銀、陶芸、古布、木工等の職人や作家の手仕事を紹介するエ房とブランドショップや技を伝える手づくり体験教室の他、手づくパンやジェラート、フレンチレストラン、名物出雲そばといった飲食も充実。地下の金庫室にそのまま残る大扉も必見。
松江駅からレークラインでカラコロ工房下車すぐ

出雲かんべの里
出雲地方に伝わる民話や神話、伝統工芸を楽しく体験できる施設です。「民話館」では、マジックビジョンによる「耳なし芳−」の上映をはじめ、パネル・映像などによる出雲神話の紹介をしています。「工芸館」では、和紙てまり・藤工芸・ろくろ木エ・機織り・陶芸といった伝統の技を紹介しています。工芸館は工房も兼ねているため、直接話を聞きながら技術に触れられ、予約をすれば、製作体験もできます。ほかにも敷地内には、ヤマザクラなどの群生する「自然の森」、様々な水生植物が自生する「自然観察園」があります。
問0852-28-00409:00〜17:00(民話館16:30まで・休(月曜、祝日の場合は翌日休)民話館400円、こうげい館無料(体験は有料、予約制) 松江駅から一畑バスで34分、大庭車庫下車すぐ小泉八雲記念館前下車すぐP30台松江市大庭町1614

水郷祭
8月第1土・日曜日、水上劇場、水の広場、船行列、水辺の市、そして湖上花火大会と終日にぎわいます。
問0852-21-4034(松江国際観光案内所)

鼕行列詳細
秋の深まりを告げるのは11月3日に行われる「鼕行列」。宮造りの屋台に乗せた直径2メートルの2つのどう(大太鼓)をはっび姿の市民が取り巻いて、ばちさばきもあざやかに打ち鳴らしながら市内を練り歩きます。
問0852-21-4034(松江国際観光案内所)

出雲そば詳細
全国津々浦々色々なそばがありますが、出雲そばといえば、そばの甘皮もー緒に挽いた色の濃い独特の風味が特徴です。特に割子そばが有名。濃いめ目のダシを少量かけていただきます。
問0852-21-4034(松江国際観光案内所)

宍道湖七珍詳細
宍道湖は淡水と海水が混じった汽水湖で、魚介類が豊富。なかでもシラウオ、シジミ、ウナギ、モロゲエビ、アマサギ、コイ、スズキぱ"宍道湖七珍"と呼ばれ、いずれも松江ならではの味が自慢です。
問0852-21-4034(松江国際観光案内所)

松江和菓子詳細
不昧公が参勤交代のおり、江戸の茶文化を持ち帰り、地元で和菓子を作らせたのが、松江和菓子隆盛のきっかけとされています。その後茶の湯が盛んになるにつれ、松江には優美な姿と繊細な味わいを持つ銘菓が続々と誕生しました。不昧公が茶席に用いた和菓子は「茶事12ヵ月」に記録されており、春の「若草」秋の「山川」は松江を代表する銘菓として今に伝えられています。


玉造温泉(玉湯町)
大国主命と一緒に国造をした少彦名命が発見したと伝えられる日本屈指の名湯。平安時代には「玉造」の名は京の都まで聞こえ貴族の間でも評判になっていたと、清少納言が「枕草子」でふれています。勾玉橋のかかる玉湯川の両側に軒を連ねる旅館街に漂う揚けむり情緒。春には土手の桜並木が見事な花を咲かせ、川沿いを散策するのも楽しいもの。
問0852-62-3300(玉造温泉観光協会)山陰本線「玉造温泉駅」から玉造温泉行の一畑バス約10分、玉造温泉下車 松江市玉湯町玉造

玉作りの里
「出雲国風土記」によれば出雲国造は勾玉など儀式用のさまざまな玉を作って朝廷に献上していたとされ、玉湯町は古くからの"玉作りの里"として知られています。玉の原石は碧玉とめのう、水晶で、これを採掘した坑が今も花仙山に数多く残っています。また町内各地に玉作り遺跡が分布しています。玉造温泉の東側の高台一帯はこれらの遺物が多数発見され、大正11年に生産遺跡として全国で初めて国の史跡の指定を受けています。その後本格的な発掘調査が行われ、多数の玉作の工房祉、玉類の未完成品、玉作りの工具などが見つかり、古墳時代から平安時代にかけて大規模な玉作りが行われていたことが確認されました。ここは出雲玉作史跡公園(2.8ヘクタール)として整備され、玉作り工房跡、復元家屋(竪穴式住居)、古墳などが保存されているほか、近くにはちびっ子広場や休憩広場、テニスコートもあります。

花仙山
わが国で最も品質の高い碧玉を産出し、古代の玉作りや近世末期からのめのう細工を支えた山

出雲玉作資料館
史跡に隣接する出雲玉作資料館は全国で唯一の古代玉作りの資料館。館内には出雲玉作跡からの出土品のほか伝統工芸の近代めのう細工、布志名焼などが展示されています。玉作り作業の様子を示す模型などもあり、古代の玉作りを楽しく知ることができるのも魅力です。また、この出雲玉作跡のひとつから出雲では最も古く全国でも最古級と思われる8世紀のたたら製鉄遺跡が発見され、話題を呼んでいます。

青石畳通り(美保関町)
美保関は江戸時代に北前船の西廻り航路の寄港地として栄え、美保神社から彿谷寺までの青石畳通りは多くの人々でにぎわいました。当時の面影を残す町並みと青石畳の道が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。

美保神社
二柱のご祭神をお祭りする美保神社の本殿は、大社造りを二棟並べて装束の間でつないだ特殊な造りで「美保造り」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。向かって左手が漁業・商業を始めとする生業の守護神・事代主神が鎮座されている右殿、向かって右手が農業と子孫繁栄の守り神・三穂津姫命がおられる左殿である。檜皮葺きの屋根と、装飾を排した直線的な造りがかえって凛として美しい。神社の歴史は古く、奈良時代以前にすでにこの地にあったとされるが、戦国の世の戦乱ですべてを焼失。現在の本殿は文化10年(1813)の造営、拝殿は昭和3年の建築である。ご祭神である車代主神とはゑびす様のことであり、美保神社は全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきた歴史を誇ります。
問0852-73-0506JR松江駅からバス1時間20分、美保神社入口下車松江市美保関町美保関608

諸手船神事
行事は12月1日から始まり、2日の宵祭りには、司の舞、巫女米が奉納される。3日の当日は午前中に新嘗祭があり、午後からが諸手船の神事。美保関港に出た二隻の諸手船は、たがいに水をかけあいながら大きく円を描いて三度回り、ヘサキにたてかけてあるマカツという飾りを、どちらが先に美保神社にの本殿に捧げるかを競い合う。

青柴垣神事
諸手船神事と対をなす美保神社の神事で4月7日に行われます。国譲りを了承したコトシロヌシノミコトが青葉の柴垣に隠れたという故事を再現したもので、数々の習俗と故実が含まれる神秘的な神事です。

美保関灯台
美保関から島根半島の最東端、地蔵崎にある美保関灯台までは、しおかぜラインを通って海の景色とドライブを楽しもう。この灯台は、明治31年造られたもので、明治の面影をとどめた石造りの風格ある建物で平成10年に「世界の歴史的灯台100選」に選ばれた。隣接している真っ白な石壁と赤い屋根の建物は、当時灯台守の宿舎だったところで、今は日本海を一望するビュッフェとなって、行きかう船や天気の良い時には隠岐の島をながめながらの食事が出来る。
問0852-72-2811(美保関観光協会)見学無料JR松江駅からバス1時間20分松江市美保関町地蔵崎

五本松公国・関の五本松
シーズンには5000本のツツジが一斉に咲き、リフトからは美保関港や大山を見渡すことができます。また民謡に歌われている「関の五本松」は、現在三代目が植えられています。
問0852-72-2811(美保関観光協会)見学無料JR松江駅からバス1時間10分松江市美保関町

メテオプラザ(七類港ターミナルビル)メテオミュージアム(美保関いん石常設展示)
はるか、46億年の昔、太陽系の誕生とともに生まれた「美保関いん石」は、メテオプラザの4階にあるメテオミュージアムに常設展示され、多くの人に宇宙への夢とロマンを与え続けています。ミュージアムでは、ほかに宇宙の誕生について解説した映像や、手塚治虫プロ制作、財津和夫音楽担当という豪華キャストで、話題になったいん石をモチーフにしたアニメーション映画が常時上映されています。また、ライブラリーでは、いん石の標本を顕微鏡で覗けるコーナーや、世界の隕石展示コーナ−、インターネット、いん石落下状況を再現した迫力ある展示など、宇宙を学習し、そして夢が広がる空間となっています。世界の隕石展示コーナー・顕微鏡で覗く隕石の世界・隕石関連映像上映。
問0852-72-39399:00〜17:00休日-毎週水曜日(水曜日が祝日の場合はその翌日)12月28日〜1月1日個人一般600円、中学生400円 小学生300円、団体(20名以上)一般500円、中学生350円 小学生250円JR松江駅からバスで40分、美保関ターミナル下車、町営バス乗り換え約25分、メテオプラザ下車 松江市美保関町七類3246-1


大根島の牡丹栽培(八束町)
は約300年前、全降寺住職が遠島の秋葉山(静岡県)へ修業に訪れたとき薬用として持ち帰り境内に植えたのが最初と伝えられています。しだいに島内の農家に普及して研究が重ねられ、新しい品種が作られるようになりました。昭和30年ごろ、芍薬の苗に牡丹の芽をつぐという新しい技術が開発されたのをきっかけに、農家の主婦らによる「牡丹売り」が盛んになりました。やがてアメリカへの輸出も始まり、大根島の牡丹栽培は広く世界に知られるようになりました。いまでは町の基幹作物となり年間180万本が生産され、国内各地そして海外へと川荷されています。
牡丹切花品評会
毎年4月下旬から5月上旬にかけて、町特産の牡丹の品種確認とPRを目的に問催されている「牡丹切花品評会」。町内の生産農家や愛好家から約80種300点が出品され、会場の町民会館は牡丹の優美な大輪の花と香りにつつまれます。この.品評会では、優秀花の表彰のほか新品種の命名も行われています。
観光牡丹園
町を訪れる観光客の80パーセントは牡丹の開花シーズン。4月末から5月初旬こかけて、島外からの大勢の観光客でにぎわいます。町内には数か所の観光牡丹園があり、園内いっぱいに咲き誇る色とりどりの牡丹の花を心ゆくまで観賞できます。園内には休憩施設もあり、大根島特産の薬用人参の抹茶などが味わえるのも魅力。
問0852-5-5820(八束町観光協会)4/21オープン、みごろ4/28〜5/7頃、松江大根島ぼたん祭4/28〜5/7山陰本線松江駅からバス40分松江市八束町遅江

大根島
大昔火山作用によって海底から盛り上がってできた台地状の火山島で、地底の各所に熔岩ンネルがあります。この熔岩ンネルは火山が爆発したときにできた風穴で、内壁には鍾乳石や玉滴石が見られます。
山陰本線松江駅からバス40分松江市八束町

大根島の薬用人参
薬用人参の栽培のも古く、約150年前(天保年間)松江藩の財政を補う事業として始められたと伝えられています。当時、北は松前藩から南は薩摩藩まで全国的に広がっていた栽培地が明治以降ほとんど消滅したなかで、八束町は今日、長野県、福島県とともに国内の3人産地のひとつに数えられ、県内では唯一の薬用人参の生産地。ここで生産されるものは"雲州人参"と呼ばれ、本場高麗人参にならぶ世界の最上級品として海外でも高く評価されています。

幽鬼洞
遅江地区にある第1熔岩トンネル「幽鬼洞」は国の特別天然記念物にも指定され、現在公園としても使用されています。トンネルは入口から環状に100メートルほど続き、また元の人口に出てきます。洞底は四季を通じて清水をたたえ、水は夏でも冷たく足もしびれる思いがするほど。岩塊が崩壊して極端に狭くなった「背すり」と呼ばれる場所が3か所あるほか、「迷い道」「千畳敷」「鬼の井戸」「鬼の寝床」と呼ばれる場所があり、神秘の世界が広がっています。

中国牡丹園
中国最大の牡丹産地山東省渮沢市との技術交流により、120種1万本の珍しい牡丹が4月中旬から下旬に楽しめます。
問0852-76-36394月上旬〜5月上旬のみ開館個人一般300円、20名以上の団体270円、小中学生150円、身体障害者150円、松江市民無料


佐太神社(鹿島町)
神名火山(=現在の朝日山)のふもと、佐陀川沿いに鎮座する佐大神社は「出雲国風土記」にきたふこのやしろも佐太御子社として記されている古社。佐太大神を祀り、出雲二の宮とされています。大社造りの本殿(重文指定)は三殿並立という珍しいもので、国の重要文化財に指定されている彩絵桧扇をはじめ貴重な美術工芸品が数多く収蔵されています。
問0852-82-0668(佐太神社社務所)開門時間 8:30〜17:00JR松江駅からバス約20分、佐太神社前下車〜徒歩2分 松江市鹿島町佐陀宮内73

神の天下る山「神名火山」
古代、人々に崇められたという三角形を呈する美しい山容を見せて町の南西部、松江市との境にそびえ立つ朝日山(標高342メートル)は「出富国風土記」に記された神の天下る山"神名火山"。中国自然歩道の一角にあたり、佐陀本郷あるいは古浦から登る道は少しばかり険しいものの、山頂からは日本海、宍道湖、さらには遠く中海や大山まで見渡せ、その景色の素晴らしさは山道を上った疲れなど吹き飛ばしてくれるほど。頂上には古利金宝山朝日寺のほか休憩所もあり、親子連れには格好のハイキングコース。松江市東長江町から登る山腹まで車で行けます。

島根原子力発電所
町の中央部から北へ約lキロ、日本海に面した位置にあり、昭和49年に西日本初(全国で6番目)、国産第1号の原子炉を使った発電所として営業運転を開始。平成元年には2号機も完成して運転を開始し128万キロワット、中国地方最大の発電所です。

島根原子力館
発電所の全景が一望できる地に出雲の社を形どった島根原子力館があり、原子力発電のしくみが模型や実物展示、最新の映像技術を使って楽しく紹介されています。日本海、恵曇漁港が一望できるうえに松江の街や宍道湖まで眺められます。


加賀の潜戸(島根町)
加賀港の対岸、潜戸鼻にある海食洞窟、加賀の潜戸は神秘の洞窟。天然記念物に指定されている景勝地です。新潜戸と旧潜戸があり、新潜戸は洞内を船で通り抜けることができます。旧潜戸は高さ30メートル、奥行き10メートル。洞内は幼くして亡くなった子どもたちが夜に石を積むという"寮の河原"と呼ばれ、小石の塔が無数に並んでいます。佐太大神の生誕の地としても知られ、「出雲風土記」に"黄金の弓矢で射通した洞窟"と記されていることを裏付けるかのように、夏至には洞窟の中から的島を見通すあたりに一直線に朝日を仰ぐことができ、まさに感動的。
山陰本線松江駅からバス50分、加賀築港入口前下車松江市島根町加賀

チェリーロード
町を代表する海の名所が潜戸なら、丘の名所はチェリーロード。県道松江・鹿島・美保関線の佐波・野波間、約5キロにわたって700本もの桜が植えられています。この桜並木の通が、春には長い花のトンネルに変わります。この桜は野波道路が完成した記念に昭和39年、松江市在住の村人会から吉野桜の苗木500本が寄贈され、当時の村の青年団約30人の手で植えられたもの。垂れ下がる枝の隙間からのぞく黒松の緑が桜に映え、眼下に広がる青い海とともに大パノラマをつくり上げます。

小波海水浴場
夏、島根町の海岸は海水浴客でにぎわいます。昭和55年に日本海側で初の階段式護岸が完成したのが小波海水浴場。カラー舗装された遊歩道、芝生の上にべンチや野外卓、とファッショナブルな海水浴場として人気です。


熊野大社(八雲町)
出雲大社とならぶ古社、熊野大社は出雲族の祖神と崇められる素蓋鳴尊を祭神として太古に創建されたもの。朱塗りの神橋を渡り石段を上ると正面に拝殿・幣殿、その奥に大社造りの本殿があり、左手には切妻造りの火殿。初詣や10月14日の例祭には、各地から参拝に訪れる人でにぎわいます。
問0852-54-0087山陰本線松江駅より一畑バスにて約30分松江市八雲町熊野2451

八雲温泉「ゆうあい熊野館」
熊野大社に隣接する懐深い恵みの宿。自然に抱かれて、ゆとりの中で心遊ばせてみたい心の郷です。

星上山
自然を楽しむのに絶好の場所は、星の神様が降臨されたという伝説のある星上山(標高453ートル)。山頂には出雲17番札所の星上寺があります。周辺一帯に自然林が保存されていて、シイ、カシなど常緑広葉樹にブナ、シデなどの落葉樹が見られ、緑の森の中では野鳥がさえずり昆虫たちが動きまわっています。ここに昭和58年、星上山森林総合利用施設がオープン。一周1000メートルの林間歩道、林間広場、キャンプ場、松江市や中海が一望できる2か所の展望台、炊事場や休憩室を備えた総合案内所などがあり、夏はキャンプ、秋は紅葉が楽しめます。森林浴をするのにも格好の場所で、澄んだ空気の中で心も体も自然に向かって開放すれば、きっと自然を身近に感じるはず。

手すき和紙「出雲民芸紙
八雲町は手すき和紙のふるさと。衰退していく出雲和紙を、伝統技術に現代感覚を加えて「出雲民芸紙」として起らせたのが故安部榮四郎。重要無形文化財、雁皮紙製作技術保持者で人間国宝でもあった人です。手すき和紙一筋にその美を追求し、独特の和紙を製作したことは世界に知られています。その心と技は孫の信郎、紀正兄弟の手へと受け継がれ、いまもこの地に生き続けています。紙に関する文献や資料、紙を使った日常生活用具などが展示された安部榮四郎記念館の隣には手すき和紙伝習所があり、和紙づくりの体験ができます。

しいの実シアター
村のシンボル「しいの実」をふんだんに使った劇場は、感動の劇世界を世界に発信する小さな木の劇場


大名気分で泊まれる宿「八雲本陣」(宍道町)
堀尾、京極、松平の歴代松江藩主の本陣や大正天皇の御宿をつとめた木幡家は山陰地方屈指の旧家。その大邸宅、八雲本陣は旅館として一般に開放されています。正面玄関から縄のれんを分けて吹き抜けの広い土間に入ると、高い屋根裏天井には立派な木組み。昔ながらの麻縄を操って開閉される引窓などもり、江戸時代にタイムスリップしたよう。土間から座敷へ上がると、昔の母屋の"おもての間"にあたり本陣当時には藩主の居間となっていた10畳と6畳の続き問。また廊下続きには汲み湯式の湯殿も残っています。現存する数少ない本陣建築で、江戸時代中期の代表的な民家建築として国の重要文化財に指定されています。アワビの貝殻を使った家伝料理「鴨の貝焼」は全国に知られる名物です。
問0852-66-0136JR山陰本線宍道駅から徒歩5分松江市宍道町宍道

蒐古館
静かな谷あいに蒐古館は白壁と石州瓦を使った古代建築をイメージさせる落ち前きある高床式の建物で、一級の美術品や貴重な民具を見ることができます。館内の美術工芸室には本陣宿をつとめた木幡家収蔵の美術工芸品、丸山応挙、狩野探幽、池大雅などの著名な書画や松平不味公のお止屏風として知られる「源平合戦図」などが季節にあわせて展示されています。また民具室には、さんぱ舟、シジミカキ、アミなどの漁具のほか、マサカリ、ゲンノウなど、来待石の加工道具も展示されています。

木幡山荘
蒐古館に隣接する木幡山荘(広さ約1万坪)には樹齢400年の老木が繁り、町並みからわずか500メートルの場所にこありながら、一歩足を踏み込めばそこはもうさながら探山幽谷の趣。ツバキ、イチョウ、モミジ、ツツジなどの彩樹が古池を取り巻き、四季折々に.訪れる人を楽しませてくれます。

来待ストーンミュージアム
このあたりでしか産出されない貴重な石「来待石(凝灰質砂岩)」の採掘から石灯ろうになるまでの工程を紹介。施設内のレストランは神秘的で大人のムード。


 
日本全国の観光温泉特産品グルメガイド 日本.全国.GUIDE「観光.温泉」ハイライトジャパン お問い合せはこちらへ→ info@tokusen.info