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荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の謎
 
一片の土器から

発掘1984年夏

荒神谷遺跡のなぞ 

加茂岩倉遺跡

荒神谷博物館

古代出雲歴史博物館(荒神谷遺跡出土品展示)

出雲弥生の森博物館(出雲弥生王朝・西谷墳墓群)

 
 
 
荒神谷遺跡
 
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県簸川郡斐川町神庭西谷の小さな谷間にある国指定の史跡である。

「荒神谷遺跡」が正式名であるが、大字名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれる。

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。

この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。

1984年〜1985年の二カ年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。

銅剣は1985年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されていたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。

出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されている。

遺跡自体は1987年に国の史跡に指定された。斐川町が中心となり1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備された。

2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われている。

現在、出土品は2007年3月に出雲市大社町に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されている。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。

これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。

その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。

出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
銅剣の発見
 
荒神谷遺跡は、島根県簸川郡斐川町大字神庭字西谷1710番5他に所在し、「出雲国風土記」記載の出雲郡の神名火山に比定されている仏教山の北東3kmに位置する斐川町神庭西谷にあります。

1984年7月、広域農道建設予定地内の試掘調査をしていたところ、調査員が田んぼの畦で、一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろったことがきっかけとなり発見されました。

翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣が出土しました。遺跡の南側に「三宝荒神」がまつられていることから「荒神谷遺跡」と命名されました。

銅剣は標高28mの小丘陵の南斜面中腹から出土し、ここに上下2段に掘り込まれた加工段が確認され、銅剣は下の段にあった。上段は6.9m、幅1.2mの平坦面となっており、3個の柱穴が1.5m間隔で見つかっています。

下の段は、すり鉢状に掘り込まれており、長さ4.6m、幅2.8mある。この底面に隅丸長方形の銅剣埋納坑(2.6×1.5m)が設けられている。

底面に淡褐色の粘土を敷いて平坦にし、その上に銅剣の刃を起こして接する状態で4列に並べて置き、特別に準備された粒子の細かい粘土で覆った後に土を盛っている。銅剣は鋒と茎がほぼ水平に置かれており、西側の列から順次A・B・C・D列と呼んでいる。

A列→34本 … 鋒の方向を1本ずつ互い違いに置く

B列→111本 … 南端4本が鋒を西に向けていたほかは、A列と同様交互に置く

C列→120本 … すべて鋒を東に向けた状態

D列→93本 … C列と同様、すべて鋒を東に向けた状態

この埋納坑の周辺で4つの柱穴が見つかっていることから、簡易な屋根状のものなど何らかの施設があったと考えられる。

 
 
 
 
荒神谷遺跡の銅剣
 
荒神谷遺跡から出土した銅剣は、「中細形銅剣C類」に属するもので、出雲を中心とした山陰地域に多く分布していることから「出雲型銅剣」とも呼ばれる。長さ50cm前後、重さ500gあまりのものである。

剣身長最小のC93号銅剣は全長48.1cm、剣身長46.0cm、剣身長最大のC109号銅剣は全53.9cm、剣身長51.7cmあり、大きさにかなりの違いがある。

また、T値(関から突起までの長さを剣身の長さで除した値)、剣身幅、脊厚などにも相当の幅が認められた。

しかしながら、358本の銅剣は漸移的な変異を示し、型式細分は困難であることが判明した。

 
 
同范銅剣
 
銅剣358本のうち1本のみ研磨が行われていない銅剣(B62号)がある。

製作者の意図はわからないが、研磨という刃物には本来不可欠な作業の省略、つまり武器としての意識の形骸化が進行していたことは疑いない。

B62号銅剣は長さ・幅・厚さともに他の357本とほとんど変わらない。

つまり、他の357本も鋳上がった素材を大きく改変するような研磨は基本的に行っていないとの推測が成り立つ。

このことから、同じ鋳型から作られたもの、すなわち同范品の抽出を試みることにした。

同范品の認定作業にあたっては、突起位置・脊幅・脊厚・元部外形ラインの4点に特に留意して進めた。

検討可能な296本の調査の結果、43組の同范例を認定した。

内訳は2本1組の例が26組、3本1組の例が10組、4本1組の例が4組、5本1組の例が3組である。

したがって、同范例を確認した銅剣は、2×26+3×10+4×4+5×3=113本となる。

残りの183本は1鋳型で1本の銅剣しか鋳造されなかったもので、鋳型の数は実に226ということになる。

1つの鋳型での生産効率はかなり低かったといえる。

 
 
「×」印の刻印 
 

荒神谷銅剣の特徴の1つに、茎に施された刻印がある。

鋳造したのちにタガネ状の工具により「×」を刻んだもので、344本の銅剣に認められた。

確実に両面ともに刻印なしと断定できる例は3例(B8・C26・C79)にすぎず、両面ともにあるという例も2例(C27・C67)しかない。

どうやら荒神谷銅剣においては、片面に「×」印を入れるのが通例だったようである。

 
 
鋳掛け
 
銅剣を鋳造するときの湯口は、茎の下端面にタガネ状のもので切断した痕跡がみられることから、茎の延長に作られていたことがわかる。

湯回りが悪く穴があいてしまった場合に、鋳掛けがなされている。

径1cmに満たない狭いものが大半であるが、鋳損じの穴の周囲に小円孔をあけて鋳掛けの足掛かりとしたもの(B47)もある。

ほかに、関部の双孔をわざわざ埋めてしまったかのような例(C55)もある。

  
朱塗り銅剣
 
赤色顔料(水銀朱)が付着している銅剣が8本確認されている。

大半は鋳型ズレ部などの凹部にわずかにみられるだけであるが、B25号銅剣のみは一面に付着している。

黄金色に輝く銅剣とともに赤く塗られた銅剣もあったということになる。

 
銅矛と銅鐸の発見
 
翌1985年、銅剣が出土した地点よりさらに谷奥7m離れた丘陵斜面の中腹で銅矛16本と銅鐸6個が発見された。

ここは発掘前の表面観察でわずかばかりの高まり(2.4×2mの範囲)がみられたところである。

埋納坑は斜面をカットし、谷側に粘土を貼って平坦面を造り出したもので、東西2.1m、南北1.5mの大きさである。この周辺で柱穴が5個見つかっていることから、覆屋等の施設があったと推測される。

銅鐸6個は坑の中央部に、すべて鰭を立てて鉦と紐を向き合わせにして埋めてあった。銅矛16本は銅鐸と同じ坑の東寄りに埋めてあった。銅矛はそれぞれ刃先と袋部を交互に置いてあり、当初はすべて刃を立てて埋められていたものと思われる。

土層からみると銅矛と銅鐸は一つの坑に同時に埋めたものと考えられる。銅矛と銅鐸が同じところから発見されたのは初めてのことである。

 
 
 
荒神谷の銅矛
 

16本出土しており、長さは69.4cm(1号)から84.1cm(11号)、重さは980g(1号)から2160g(4号)までのものがある。

荒神谷銅矛の型式は、岩永省三氏の分類によれば中細形銅矛a類2本(1・2号)、中広形銅矛a類3本(3・14号)、中広形銅矛b類12本(4〜13・15・16号)ということになる。

 
鋳造・仕上げの特色
 

鋳造のとき湯回りが悪く、欠けた部分をあとから補ったいわゆる「鋳掛け」の痕跡をもつものがある。

特に10号矛は袋部に円形の足掛かりをつくって丁寧に補修されている。袋部下端にこのような鋳掛けがあることから、湯口は袋部の先に作られていたものと考えられる。

袋部には径約2mmの円形の痕跡が観察された。これは袋部の中の鋳型の土(中子真土)を支えるピンと考えられる。

中子真土は7号矛の場合、袋部から少なくとも48cmのところまで入っており、厚さは1〜3mしかない。

目的の大きさの製品をいかに少量の原料を用いて製作しようと努力したかをうかがうことができる。

刃部の最終段階の研磨に際し、意図的に研ぐ方向を変えたものがある。

これを「研ぎ分け」と呼んでいる。研ぎの方向によって光の反射角度が異なるため、見る角度によって刃部がキラキラと輝く効果をねらったものと思われる。

荒神谷では7本(4・7・8・9・10・13・15号)確認された。

4・6号矛では部分的に赤色顔料がみられた。6号矛の顔料は分析の結果、水銀未であった。

 
 
 
荒神谷の銅鐸
 

6個出土しており、高さは21.7cm(5号)から23.8cm(4号)、重さは605.3g(3号)から1116.5g(5号)までのものがある。

銅鐸の型式は大別して1(菱環鈕)式、2(外縁付鈕)式、3(偏平鈕)式、4(突線鈕)式に分類される。

荒神谷では、1式の銅鐸(5号)と2式の銅鐸(2・3・6号)が出土しているほか、どの型式に属するのか不明瞭な銅鐸(1・4号)がある。

 
 
最古の銅鐸
 

5号銅鐸は、吊り手(鈕)に外縁がついていないこと、銅鐸側線に一般的につけられる幅広の鰭がないことから最古段階(1−1式)の特徴をもつ。

弥生前期末から中期前半頃に製作されたと考えられている。

長期間にわたって「カネ」として使用されたと思われ、内面にある突帯がすり減っている。

4号銅鐸は、これまで2−1(外縁付鈕1)式とされてきたが、文様構成から1−2(菱環鈕2)式になる可能性がある。

鰭は無文で吊り手の斜線文と連続しないこと、下辺横帯の鋸歯文が下向きであることなど1式の特徴をそなえている。

 
 
特異な銅鐸
 

1号銅鐸は、吊り手の断面が2段になっており、他の銅鐸ではまったくみられない特徴をもっている。

鐸身の文様構成も通常の4区袈裟襷文とはかなり違った個性の強い銅鐸で、文様も市松文様や重弧文などきわめて珍しい。

佐原真氏による吊り手の変化を目安とする分類には当てはまらない風変わりな銅鐸である。

 
 
同范銅鐸
 

2・3・6号銅鐸はいずれも4区袈裟襷文銅鐸である。

外縁が付いていること、舞の穴(型持孔)が1個であること、鐸身の穴(型持孔)が第2横帯に接していることなど2−1式の特徴をもつ。

このうち3号銅鐸は、大きさ、文様構成、鋳型に生じたひび割れの状態などから、伝徳島県脇町出土銅鐸(東京国立博物館蔵)と同じ鋳型で製作されたものと考えられる。

また2号銅鐸は、京都府梅ケ畑4号鐸と同范である。

 
製作地について
 
銅剣
 

中細形銅剣c類の鋳型はいまだ発見されていないので、製作地の直接的な手掛かりはない。

先行型式とみられる中細形銅剣a類の鋳型は、姉遺跡(佐賀県)、田能遺跡(兵庫県)で出土している。

中細形銅剣b類の鋳型は出土例がないが、出土数から北部九州・近畿地域での製作が推定されている。

中細形銅剣c類(出雲型銅剣)製作地の候補として

1.北部九州ないし近畿

2.瀬戸内海沿岸地域

3.出雲

などの場合が想定される。

出土量の多さ、鉛同位体比の分布などからすれば荒神谷銅剣の製作地は出雲の蓋然性が高い。

 
銅矛
 

銅矛の製作地については、中細形銅矛a類の鋳型が福岡県大谷遺跡、中広形銅矛b類の鋳型が佐賀県安永田遺跡から出土している。

綾杉状の「研ぎ分け」をもつ中広形銅矛は荒神谷以外では18本以上確認されており、いずれも北部九州から出土している。

さらに、銅矛の分布は九州地域に集中していることから、現状では荒神谷銅矛は北部九州で製作したのち出雲に搬入されたものと理解される。

 
銅鐸
 

荒神谷銅鐸のうち2・3・6号銅鐸は、形状・文様構成ともに典型的な4区袈裟襷文の規則性を守ったものである。

文様構成の上では、4号銅鐸もこの流れに沿った銅鐸である。

これらの銅鐸は、同種の銅鐸や鋳型の分布状況から近畿およびその周辺で製作され、出雲にもたらされた可能性が高い。

1号銅鐸は、典型的な4区袈裟襷文銅鐸の規則性から大きく外れている。

一方いわゆる福田型銅鐸と類似した要素として鰭の複合鋸歯文、鐸身の断面形が円形に近いこと、鐸身の反りが弱い点などをあげることができる。

しかし、全体の形状や文様構成は福田型銅鐸とも大きな隔たりがある。

1号銅鐸は、4区袈裟襷文銅鐸や福田型銅鐸の影響を受けながらも、それらの規範に縛られない集団が製作したものではなかろうか。

独自の要素を多くそなえていることや鉛同位体比の値も荒神谷銅剣に近いことなどから、出雲あるいはその周辺で製作された可能性がある。

 
荒神谷青銅器の製作年代
 

荒神谷銅剣(中細形銅剣c類)の製作年代については直接的な手がかりはない。

他型式の年代観から類推すると中細形銅剣b類は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)・柚比本村遺跡(佐賀県)で甕棺から出土したことから弥生中期前葉(2期)には使用されていたことがわかる。

中細形銅剣b類に後続する平形銅剣1式は弥生4期前半中心、中広形銅剣も4期前半中心と考えられる。

これらを勘案すると、荒神谷銅剣(中細形銅剣c類)の製作年代は4期前半を中心とし、3期に上がる可能性がある。

銅矛の製作年代は鋳型と土器の共伴状況や墓への副葬状況をみると、中細形銅矛は弥生2期ごろまでさかのぼる可能性があり、中広形銅矛a類は3〜4期、中広形銅矛b類は4期後半ごろと考えられる。

銅鐸の製作年代については、土器などの遺物を伴うことがほとんどないので、極めてあいまいである。

仮に土器文様との比較から類推する佐原真氏の年代観によれば、荒神谷5号銅鐸(1式)は弥生1期後半、2・3・6号銅鐸は弥生2期ごろということになろう。

 
 
荒神谷青銅器の埋納時期
 

埋納された時期を知る手掛かりは皆無に近い。荒神谷の銅剣は他の器種や他の型式が混じらず、同范品を多く含むことから、同一箇所で同時期に製作されたとみられる。

各地からの集積、あるいは一旦分配した後の再集積とは考えがたい。また、長期使用の痕跡がみられないことから、製作したのち比較的短期間のうちに埋納されたらしい。

したがって、荒神谷銅剣の埋納は4期におさまるものと考えられる。

荒神谷銅矛・銅鐸の埋納は製作時期が最も下る中広形銅矛b類の年代(弥生4期後半)ないしそれ以降である。

なお、銅剣と銅鐸・銅矛の埋納順序には

1.銅剣が先で銅鐸・銅矛が後

2.銅剣も銅鐸・銅矛も同時

3.銅鐸・銅矛が先で銅剣が後

のいずれの場合も考えられる。

 
青銅器の埋納について
 

荒神谷遺跡の大量の青銅器はなぜ埋められたのであろうか。

青銅器の埋納については、主に銅鐸の埋納について古くから隠匿説、一時保管説、境界埋納説、奉納説等の諸説があり、未だ定説がない。

青銅器の埋納された場所については、大まかにみて

1.集落から離れた見晴らしの良くない丘陵斜面

2.集落から遠く隔絶した見晴らしの良い山頂や山腹

3.集落近くの低平地

の3パターンがある。

 
 

青銅器の埋納方法については、一部例外があるが、基本的には同じ方法がとられている。

つまり、銅鐸においては鰭を立てて置かれ、銅矛や銅剣は刃を立てて置かれているのである。

青銅器の埋納は、多様なマツリに伴って行われたのであり、それらのマツリも時代の変化とともに変遷を遂げたと考えられる。

荒神谷遺跡は、青銅器埋納場所については1.の類型になり、埋納の仕方は通常の方法をとっている。

しかし、これまでの他遺跡では例のない異常なまでの大量の青銅器埋納であり、現状では埋納の意味について軽々しく論究することができない。

さらに、銅剣はもとより銅鐸・銅矛もどのような集団がどのように使用したのか、これらの青銅器を保有していた集団の性格はいかなるものであったのか等、解明すべき重要な課題が数多くあるが、集落・墓制などと合わせて総合的に追求すべきことなので、今後の研究にまちたい。

…島根県埋蔵文化調査センター「荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡」より

 
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