|
古代出雲の人々が戦いを好んだのではない。
彼らは、首長の先祖が力で悪神を退治して平和をもたらしたとする共通の伝説をもっていた。
そのため、首長の先祖が用いたと伝えられる剣を祀ったのである。
いったん悪者が滅んだ以上、戦いの必要はない。
だから、農民たちを守る立場にある小国の首長同士が争うべきではない。
そう考えたうえで、2世紀なかばの出雲で狭い地域を押さえる首長358人が共存する形がつくられた。
彼らは、自家の祭器である銅剣を一本ずつもちよって、大国主命を荒神谷遺跡で祀った。
その祭祀は、出雲氏と神門氏の指導のもとに行なわれたが、彼らが力で他の首長を押さえることはなかった。
奈良時代の出雲には、臣の姓(かばね)をもつ小豪族が極めて多くみられる。
大和朝廷が出雲国造である出雲氏に臣の姓を与えたのは、6世紀なかばごろだと思われる。
そのとき出雲氏は、出雲国内の首長層すべてに臣の姓を授かるように求めたのである。
これは、出雲の首長はすべて対等の関係にあるとする考えが長くうけつがれたことを物語るものだ。
大和朝廷は、高天原神話をつくつて神々の間の序列を重んじた。
それに対して出雲では、神同士は平等だとされた。人望のある人は多くの者に信頼され、そうでない者のまわりには人が集まらない。
それと同じで、有力な神は広い地域で祀られ、そうでない神は一つの小国だけで信仰される。
そうであっても、有力な神が力の劣る神を力で従えたり否定すべきでない − 出雲の人々はこう考えた。
出雲氏は、自家の祖神である天穂日命(あめのほひのみこと)の他に熊野大神と大国主命を祀った。
熊野大神がつくられたとき天穂日命が祀られなくなったり、大国主命を生み出すために熊野大神を否定することはない。
出雲の小国の人々は、そこの首長が祀る神を拝みながら大国主命を愛した。
大国主命は、人々の生命を妨げる悪神を倒す強い神であったが、自ら農作業に従事し、庶民と同じ些細なことににあれこれ悩む神でもあった。
そのため、大国主命信仰は出雲全体にうけ入れられ、さらに全国に広まった。
素盞鳴尊が、水をつかさどる神である八岐大蛇を斬る話に象徴されるように、出雲の神は自然神と戦う姿勢をとっていた。
このことは、自然神を手なずけようとした大和朝廷の姿勢と異なるものとして注意しておく必要がある。
大和朝廷は神話をつくる際に、このような戦う神の伝統をもつ出雲を、話し合いだけで従えたとするわけにはいかなかった。
そこで、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と大国主命の子、武御名方神(たけみなかたりのかみ)の力くらべの話ができた。
大国主命は天孫に国をさし出そうと考えていたが、子神の一人武御名方神が「おれと力くらべをしてみろ」と高天原の使者に挑む。
そして、その戦いに敗れた武御名方神は諏訪(すわ)に追われるのである。
出雲の神が戦わずに高天原の神に従う形にすれば、出雲の人々は心から朝廷に従わない。
しかし、大国主命以下の出雲の神がこぞって高天原の神と戦って敗れたとすれば、出雲の人々が朝廷に反感をもつ。
そこで、出雲から離れた諏訪で祀られていた武御名方神だけが、高天原の使者に敗れる物語がつくられたのである。
|