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いわみの文化…雪舟と人麻呂

 
雪舟
雪舟の生涯はまさに旅であって、その旅が禅への修行の道程であった。

雪舟は旅をしながら、人生の道を説き、また持ち前の水墨画に励みながら旅を続けた。

ある時は旅先の寺に泊まって、禅の道に励み、旅の人情を語り、暇を惜しんでは独特な水墨画の世界に精進した。

雪舟の姿を師として仰いだ松尾芭蕉は、旅を住処として、雪舟の芸術に代わる俳句をもって旅の友とした。少なからず、旅をもって人生を送ろうとするものは、雪舟の姿を思い出さなものはないであろう。

そうした人々は雪舟を喜んで迎え、少しでも水墨画の妙を知りたいと集まってきたことであろうし、また雪舟が去ったあとには、画はもとより、旅先での情話、説教など雪舟が与えてくれた幅広い話題に花を咲かせ、いつまでも雪舟の伝承として人々は語り続けた。

現在、雪舟ゆかりの地といわれる旧跡は日本全土に数多く点在している。その土地の人々はその旧跡を訪れては雪舟を慕い、今もその面影を描き続けている。

 
益田と雪舟
 
雪舟が描いた肖像画の中に、「益田兼堯像」がある。

この絵には「雪舟」という黒文重廓方印と文明11年(1479)の竹心周鼎(ちくしんしゅうてい)の賛が付いていることから、当時、雪舟は益田を訪れ、城主の益田兼堯に (ますだかねたか)に会って几帳面に描いたものと思われる。

兼堯は益田城第15代当主で、益田氏中興の英主であった。

元来、益田氏と大内氏との交渉は親密で、しかも長期にわたっている。殊に兼堯と大内氏の重臣、陶弘護とは娘咲山が夫人となっている間柄であり、兼堯自身も、その子貞兼もまた宗兼も三代揃って大内氏のために、従軍して勲功を立てているなど大内氏の信頼のある属将であった。

一方、益田の地は山口に近く、しかも平和な境地でもあった。雪舟が平和を願うことは、当然なことであるが乱後、平静を装っている石見国内の国人たちの動勢を知ることもあった。加えて、桂庵玄樹が文明7年(1475)石見を訪ねて末子学を伝えたばかりであり、文明九年には竹心周鼎が従持する東光寺の仏殿が新築していたのである。

このようにして雪舟は益田氏の招きに応じ、また大内氏の軍事的情報の探索のために石見を訪れたようだ。

益田氏の代々は崇仏の念が厚く、多くの寺院に寺領を寄進し、その建立や補修に勤めている。雪舟が訪れたとき、兼堯は貞兼に世を譲り、悠々自適の生活をしていた。

兼堯は菩提寺妙義寺の月再和尚を助けて庫裏を再建し、ついで家臣の中村美濃守信為の要請により、これを援助して土居庵を建立した。

雪舟は益田を訪ねると早速、益田氏の御土居を訪問した。兼堯は雪舟の禅学と画才を絶賛し、全面的に彼を厚遇し、崇観寺住持を継がせた。

信為はこの期を逃さず、雪舟に懇願して兼堯の肖像画を措いてもらい、これを土居庵に掲げて、日夜香火を手向けた。

この寿像図は大和絵の伝統を踏まえた上畳にすわる武人俗体像である。

白色の大紋をつけた直垂を着て、頭に侍烏帽子、右手に中啓を持っている。輪郭を細い線でたどり、いかにも穏やかな領主らしい風格を見せている。

雪舟が人物像を大和絵風に描いたのは、この描き方が人物には的確であると考えたからであろう。衣紋に彩色したり、地文を描いたりするには、やはり大和絵風に表現するほかなかったのである。

このように雪舟は大和絵風にも卓抜な力を発揮したのであるが、一言でいえば、画題に応じて幅広い画態を考案する画家でもあった。

…文矢富巌夫・益田市立雪舟の郷記念館「雪舟」より
→お問い合わせ 益田市観光協会 益田市駅前町17-2 TEL.0856-22-7120 FAX.0856-23-1232 info2@masudashi.com

 
萬福寺・雪舟庭園(国の史跡名所に指定)
萬福寺は益田氏の御土居のすぐ東隣に存在する。この本堂の北側の庭が雪舟庭園である。

雪舟は文明10年の頃、益田兼尭に招かれて初めて益田の地を訪れた。益田は陶弘護の夫人咲山の出身地であることから、雪舟は早くから興味を持ち、是非行って見たいところであり、憧れさえ抱いていた。

雪舟は益田に着くと、臨済宗滝蔵山崇観寺の住僧を請われて落ち着いた。

時宗晴滝山萬福寺は益田氏の館(三宅御土居)に隣接していることから館を訪問する客人の接待所とも考えられ、益田氏に依頼されて、気の向くままに寺の北庭に池泉廻遊式庭園を造った。

画家の雪舟が築庭を試みるのはいささか勝手が違う感じがするけれど、芬陀院(ふんだいん)や常栄寺の場合と同じように、庭の構成に山水図の観念を盛り込むとしたら一向に不似合いではないはずで、むしろ、雪舟の多彩な創作活動を知ることができる。

この庭は中央の小高い須弥山(しゅみせん)の石組みの集団が中心で、その下に心字池を造り、書院前面を平地として
いる。

須弥山手法の石組みは須弥山石を中心に螺旋形を描くように下降している。さらに須弥山の右方に枯滝石組みがあり、左方はなだらかな斜面上に三尊石が置かれ、全体に見て配石が安定している。

こうして雪舟は一生不住を原則とした時宗の宗旨に共感し、石山を中心とした庭の意匠として「無心」の芸術を築いた。

重森三玲氏は

「この庭園の白眉というべきものは、何といっても築山の集団石組みである。その石組みの中心は立石で表現され、高さ約120センチくらいで極めて強い表現である」といい、

島崎藤村は「山陰土産」の中で、

「医光寺を見た目で、萬福寺を見ると、あの長く垂れ下がった古い桜の枝の代わりにここには腹ばった磯馴松(そなれのまつ)がある」と述べ、さらに[雪舟の芸術に感ずるような石の美は東洋的であっても、必ずしも支那的であるといいきれないような気もしてきた」と、石見の自然の中で雪舟庭をしみじみと眺めている。

萬福寺は文中3年(1374)に益田兼見が菩提寺として以来、繁栄した。寺号は兼見の法号萬福寺殿浄阿英山雄翁から取ったものである。

もともとは安幅寺といって益田川口付近にあったが、万寿3年(1026)5月の陥没地震による津波のために流失し、後に小庵を立てたが、正和2年(1313)に時宗の春海上人が来訪したとき、住僧は法弟となり、天台宗を改めて時宗の道場とし、その後、兼見が益田に移した。

…文矢富巌夫・益田市立雪舟の郷記念館「雪舟」より
→お問い合わせ 益田市観光協会 益田市駅前町17-2 TEL.0856-22-7120 FAX.0856-23-1232 info2@masudashi.com

  
 
医光寺・雪舟庭園(国の史跡名所に指定)
崇観寺住職応俊の後を継いで人山した雪舟は寺の後方の山肌を利用して築庭した。

雪舟の庭は枯滝石組みの上方にに須弥山石を置いている。平地には鶴池を掘り、池の中には中心石、三尊石を背にした亀島を置き、その対岸に鶴石組みを持つ蓬莱山水庭園である。

さらに、山畔上部に枝垂れ桜の巨木があって、春になると枝に満開の花をつけ、微風にそよぐ趣は絶賛に催する。

島崎藤村は「山陰土産」の中で

「ここへ来ると静かに隠れているような庭の眺めが一切を忘れさせた。石の美もよく捉えてある。縦の面と横の面との両様の配置は省けるだけ省いたように見える。だれもこの庭から石一つ除き去ることはできない。誰も亦この庭に石一つ付け加えることもできない。積重ねや積み重ねたところに潜んでいるものは深い立体感を伴う。これは心の庭だ」としみじみと語っている。

禅は「以心伝心、教外別伝」で、その教えとするところは文字ではなく、心にあると言われている。

したがって、その芸術は心の芸術であるわけで、作庭も例外ではなく、その心は「無心」である。その無心を芸術として庭に表したのが枯山水であり、石庭となっているのである。

崇観寺は臨済宗東福寺派で、将軍の台翰(だいかん)をもって住職を命じるほどの寺格であった。当山は後村上天皇の正平18年(1363)に益田兼弘の発願によるものとされ、開山は前東福寺竜門士玄である。

士玄が京都に住んでいたころ、足利尊氏は篤く士玄を帰依し、時々参禅するほどの熟の入れようで、これが機縁となって、士玄は尊氏に推挙され、本山から当山へ転住したといわれる。以来、将軍の崇信が高まるにつれて、次第に堂塔が増し、寺領五百石の西国第一の伽藍となった。

崇観寺は雪舟が去った後、ひどく頽廃したので、これを見かねた益田宗兼は雪舟庭を背景にして、新たに滝蔵山医光寺
を建立した。

雪舟はこのように益田の地に二つの名園を残した。しかも二庭ともそれぞれ特徴を生かして異なった様式をもっている。

 

萬福寺の庭は須弥山式の欣求浄土(ごんぐじょうど)を表した寺院様式庭園であり、崇観寺の庭は蓬莱式の武家様式庭園であって、前者は広々とした平地に築いた平明な風趣があり、後者は山畔を利用した立体的で幽艶な庭となっている。

…文矢富巌夫・益田市立雪舟の郷記念館「雪舟」より
→お問い合わせ 益田市観光協会 益田市駅前町17-2 TEL.0856-22-7120 FAX.0856-23-1232 info2@masudashi.com

 
雪舟の晩年と終焉の地
雪舟は晩年になって、山口を去り、石州の益田を再訪して、竹心周鼎に代わって、山寺東光寺の住職となった。

「大喜庵記」にも書いてあるように、一にこの地が風光明媚な地であるばかりではなく、周鼎とは以前から親友として交際してきた憧れの土地であり、また、この東光寺をこの上もなく崇敬していたからである。

この東光寺から眺める風景は、中国の瀟湘洞庭の風光に類するものがあると言わせる程、雪舟好みのだったようである。

こうして、雪舟は本尊の観世音菩薩の前に額ずき、霊巌泉より茶の水を汲み、または少々酒を飲み、尺八を奏した後、画を描いていたが、遂にこの地で文亀2年(1502)に83歳の生涯を終えた。

また、「大日本人名辞書」などによる絵画欺説がある。それは大内義興(おおうちよしおき)が明国より絵を求めたとき、明国では雪舟の絵を選んで贈ったのであるが、そうとも知らない義興は、これを雪舟に見せたところ、雪舟は 「この絵は自分が明国にいた頃、描いたものである」と言ったので、義興は「自分を欺くか」と大変立腹し、追放してしまった。

そこで画幅の絹が汚れていたので、これを洗浄したところ雪舟の署名がかすかに現れた。そこで、義興は、雪舟が自分を欺いてはいなかったことが分かり、雪舟を召喚したが、すでに益田で亡くなっていたという。

医光寺伝によると、東光寺で没した雪舟の亡骸は崇観寺に運ばれ、同寺の境内で火葬に付された。その場所に塚を立て、これを雪舟灰塚と呼んでいる。塚には「前東福見崇観寺後東光雪舟等楊大禅師」と刻まれている。

崇観寺は東光寺と共に臨済宗東福寺派で、寺格に於いては崇観寺が一段高いことから、雪舟の霊を慰めるために、この寺で荼毘に付された。そして雪舟の遺骨は東光寺の丘に埋葬され宝筐印塔が置かれたが、星霜を経て宝暦4年(1854)土地の人によって再建された。

その雪舟の墓は高さ160センチ、台石二段の上に扉を設けた石室を置き、その内部に「石州山地雪舟廟」と刻まれ、石室の内部に雪舟の旧墓の相輪の一部分が収めれている。

この寺は白水山と称し、後に妙喜山と改められ、俗に山寺といった。

その前身は鎌倉の中期、益田氏の一族、多根兼政(たねかねまさ)が菩提寺として建立した。

応永8年(1401)、南宗の没後、石窓禅師が来山し、次いで、宝徳2年(1450)に勝剛長柔(しょうごうちょうじゅう)が人山した。

文明2年(1470)「周鳳の記」に「同年冬、勝剛長柔石州に侍り古寺を開門すること6年(中略、)康正丙子冬崇観寺に唱滅す」とあるので、彼は宝徳二年から康正2年(1456)まで当山に住み、同年冬崇観寺に移住し、そこで入寂したようだ。

雪舟の生涯は、まさに禅と絵と旅で明け暮れした。旅が禅の道場でもあった雪舟は旅先の臨済宗の寺に仮泊し、地方の
人々には禅の教えを説き、あるいは絵の指導をしながら、旅を続けた。

したがって、雪舟の足跡は日本各地に点在し、多くの雪舟ファンを集めている。雪舟の関する伝承や雪舟が築庭したと伝えられる雪舟庭園がきら星のようにあるのは、雪舟がその地を歩いたであろうという証明のようなもので、それぞれ地域の人はその遺跡を大切に保護されている。

ともあれ、雪舟のもつ魅力はいくら述べても語り尽くすことはできない。

この益田市においても画聖雪舟を「雪舟さん」と呼んで敬愛しているし、雪舟の墓は四季を通じて花の香が絶えたことがない。

…文矢富巌夫・益田市立雪舟の郷記念館「雪舟」より
→お問い合わせ 益田市観光協会 益田市駅前町17-2 TEL.0856-22-7120 FAX.0856-23-1232 info2@masudashi.com

 
 
人丸さん
「人丸さん」という響きは感覚的に柿本神社のたたずまいや柿の種などを想い出させる。

だから、「人丸さんに行こう」と声がかかると、柿本神社に参詣に行こうということになり、「人丸さんを焼いてはいけない」と注意されると、「ははあ、柿の種を火にくべてはいけないと言うことだなあ」と判断する。

このように「人丸さん」が柿の種や、実に結びつくのは、柿本人麻呂の柿の字から来るものであり、これがやがて、信仰にまで深まると、ヒトマルが「火止ル」になったり、「人生マル」になったりする。

それは火難防除や安産、疫病防除のための語呂合わせによったものであるが、人麻呂への崇敬が次第に深まっていった証拠でもあろう。

もとより、人麻呂は歌人であるから、学業成就をあやかる学生が多く、また、「人ガ生マレ変ル」といった開運の神としても、また水の神、五穀豊穣の神としても、あるいは石見半紙の開基としても、広く民衆の心情に溶け込んでいる。

このようにして石見には殊に柿本神社、人丸社がおびただしく建立されていて、地区民の信仰を集めているわけであるが、何といってもその信仰の中心は高津の柿本神社であることば言うにも及ばないことだろう。

高津の柿本神社は「柿本神社縁起」によると、神亀年間に国司が勅命によって、高津川口にあった鴨山に建立したことから始まり、天平年間には、行基が当山の守護寺として人丸寺を建てたという。

ところが、万寿三3年(1026)5月の大津波で島は陥没し、人麻呂像は二またの松の木にひっかかって「松崎」の地に漂着したので、そこに社殿が再建された。

慶長13年(1608)、石見銀山奉行大久保石見守は荒廃した社殿を修復し、延宝9年(1681)に至って、風波の難を憂慮した津和野藩主亀井茲政は松崎の地より現在の鴨山に移した。

享保8年(1723)2月、人麻呂1000年忌にあたって、正一位を贈られ、柿本大明神の神号をうけている。

益田市戸田には東光山柿本神社があり、綾部氏の屋敷前に人麻呂墓がある。

「戸田柿本神社由緒」によると、大和国より、小野族が石見国戸田郷に下った折に、共に下向した柿本氏の某が、語家綾部氏の娘を寵愛して生ませたのが人麻呂だという。

日々学芸にいそしみ、和歌に秀でていることが天武帝の耳に達し、宮中の和歌の御侍講に任じられ、年老いて、筑紫、長門、石見などを巡歴し、高津の鴨島で病を得て亡くなった。享年78、神亀元年(724)3月18日であるという。

そこで遺髪を生誕地の戸田郷小野に埋葬し、両を建立したが、宝永7年(1710)に、藩主亀井茲親は、人麻呂追慕のあまり、壮大な社殿を営んだ。

人麻呂の生誕に当っては「人丸秘密抄」「百人一首一夕話」「石見八重葎」などにみられる「樹下童子憚」がある。

江津市都野津町にある柿本神社には、人麻呂が井上道益の娘、依羅娘子を妻にして、その仮寓の記念に植えたという「人麻呂松」がある。

その松は巨松で「塚松」「歌聖の松」「神さま松」などと呼ばれ、高さ13.7m、根元の周りは5.5mもあり、松かさがなると流行病が発生するといわれていたが、惜しくも平成9年1月、虫害で伐採された。

人麻呂は特に夏病みに霊験あらたかな神として信仰を集めている。

また、都野津の南にある島星山(高角山、標高470m)の中腹に、昭和28年5月、島星の開拓団が創建した柿本神社が建立されている。

開拓の人たちにも及ぼした人麻呂信仰には並々ならぬものがあるようだ。

浜田市亀山(浜田城跡)の中腹にある秋葉神社に、柿本神社が合祀されている。

秋葉神社は元、牛市町に鎮座してあったが、明治5年に城山の姫栖神社跡地に、城山にあった稲荷神社、雁木神社、讃樹神社、厳島神社、柿本神社、姫栖神社などを合祀したという。

大田市川合町に銭座する物部神社(石見一の宮) には大地主原田家の屋敷神として祀られていた「人丸社」を明治8年に境内に遷座し、境内末社柿本神社として祀っている。

大田市大田の天満宮の岩山の上に柿本神社があり、柿の種を火にくべてはいけないという俗信がある。

安来の人麻呂神社は日立金属安来工場に金屋子神社と並べて造営されている。

言い伝えによると、人麻呂は石見国に帰任する途中、安来海岸の仏島の岩礁に当って没したらしく、当地にある「人麻呂さん」とか「人麻呂塚」といわれていた石碑を昭和16年に工場内に移したものだという。

さらに、萩市椿東中の倉の人丸神社、油谷町人丸の八幡人丸神社、また福岡県の宗像郡大井村の和歌神社、福岡市の住吉神社末社柿本神社、太宰府天満宮末社柿本神社、酒田市の和歌神社、川越市の人麿神社など全国で251社を数える。

 
このように柿本神社は全国一円、殊に西中国に信仰が拡大されているが、何といってもその中心は人麻呂の生誕地と終焉地の伝承をもつ益田市の戸田と高津の両柿本神社である。

この両社は江戸時代に石見を三区分した大森銀山領(天領)、浜田藩領、津和野藩領の各領主の守護神であったようで、人麻呂信仰なくしては領国の治政も容易ではなかったのであろう。

…文矢富巌夫・益田市観光協会「人麻呂の世界」より
→お問い合わせ 益田市観光協会 益田市駅前町17-2 TEL.0856-22-7120 FAX.0856-23-1232 info2@masudashi.com

 
 
高津柿本神社
社伝によると、聖武天皇の神亀年間、人麻呂の没後、間もなく、国司(奈紀王)は勅命を奉じて、その終焉地の鴨島に社殿を建立したのが始まりであるという。

天平年間、行基菩薩の開基に由来する別当寺が付随して建てられ、これを人丸寺と称し、本尊として行基作の仏像が安置されたという。

ところが後一条天皇の万寿3年5月23日の真夜中、断層地震のために大津波がおこり、島は陥没し、人麻呂の尊像は松の枝にからまったまま、松崎に漂着したので地元民はこの地に新しく社殿を建て、人丸寺をも併置したという。

松崎の人麻呂社は古記録によると三方に池をめぐらし、さらにその外側には堤防があって、土手の外は松原であったという。

このようにして江戸期の延宝9年(1681)亀井茲親(これちか)が現地に移転するまで655年問続いた。

この間、建久年間、石見国司平隆和が朝廷に奏して社殿を造営し、社領として水田十町歩を寄進し、また、弘安五年(1282)吉見頼行は三本松城主として長野の荘にはいると、早速、社殿の造営を行い、ついで彼の末子高津長幸に襲わせている。

以来、吉見氏の系累により、柿本神社は保護されたが、文禄年間、不幸にして無住になった当社に竹本坊という不行績の憎が来住、後難を怖れた地区民がこの僧を放逐しようとしたところ、竹本坊は立腹して仏具や位牌をすべて破壊して逃亡した。

この頃、豊臣秀吉の検地があって、130石もあった社領を衰退しているという理由で没収するという不運があったが、慶長五年、坂崎出羽守の訴えで、わずかであるが13石の社領を回復することができた。

ついで慶長13年(1608)、石見大森銀山奉行、大久保石見守長安が社殿の造営をした。この時、彼は銅製の釣燈篭を寄進している。

現在、神社の宝物殿に所蔵されており、火袋の角に「奉寄進石州高津之人丸慶長13年戊申正月吉日大久保石見守敬白」と錆が彫られている。

元和2年(1616)亀井政矩(まさのり)が因州鹿野から入部し、寛永4年(1625)別当寺に住職を置き、寛文元年(1661)御休所(御旅所)を建立した。

大々的に修復が成ったのは寛文11年のことである。当時の棟礼には「奉修覆人丸宝殿拝殿楼門」と記してある。

こうして長い間松崎の地にあった柿本神社は風波のための損傷がひどくなったので、延宝9年、時の藩主亀井茲親は、社殿を高津城跡に移転した。

高津長幸の拠城であっただけに高津地方では抜き出た高い山で眺望もよいところである。

二の丸を広く削平して本殿を作り、さらに神楽殿、楼門を設けて、社地を人麻呂の終焉地にことよせて鴨山と名づけた。

正徳3年(1713)、茲親は拝殿、絵馬堂、連歌堂、庁堂を増築し、享保8年(1723)には当社一千年祭を執行した。

この時、祭神を柿本大明神と改め、社号も柿本社と宣下されたので、藩主も、別当寺を高角山真福寺と改めた。

朝廷の御崇敬は厚く、この祭典に官符、宣命、位記並びに法楽の御短冊を賜ったので、宝蔵庫を新たに建立して保管した。

真福寺は柿本社の社務所として以後興隆の一途をたどっていたが、明治維新の廃仏棄釈にあって柿本社から分離され、廃絶となった。

…文矢富巌夫・益田市観光協会「人麻呂の世界」より
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戸田柿本神社
まず「戸田柿本神社明細帳」に記してある由緒を次に抄出しよう。
 
人麻呂出生当村小野という所に語家と云ふ民あり。

人麻呂此家にて生る。幼年より歌学の道に志し、其功積りて持続文武の両朝に仕へ、和歌の師聖たり。

其頃朝臣の姓を賜ひ、又吉野近江の行幸に供奉し、名歌を奉りし事あり。

後年老て古郷に帰り高角鴨山に住創立移転、神亀元年甲子3月18日高角鴨山に卒す。

後、戸田村に社を建て人麻呂を祭るに、抑人麻呂は語家と云ふ此家にて出生す。

語家方は本姓は綾部氏なるか。

人麻呂に由縁ある筆柿の古木有り。

故に往古より此の家を柿本と称す。

綾部氏世々此社を保来す。

享保8年癸卯3月一千年祭に当り高角柿本神社に贈正一位。

其より当社にも正一位を記す。

語家より南に当り御廟所あり。

此の所開出は綾部佐右衛門代享保10年乙巳8月25日家作地引の時、地底より異物を掘出す。

此を開き見るに当り、神殿鳴り動くことあり。

依て佐右衛門忰権兵衛仕役の者共同行神殿を開き見れば神体下座に落有す。

故に此所を御廟所ならんと其所に碑を立て、今に廟所と称す。

文化13年子正月、本社及神体に至るまで焼失。

文政5午年御領主亀井家より社殿拝殿再建、同年6月、御神体等寄付、遷座、明治6年酉5月村社に列せらる。

と記してあるが、当社の創立移転の年月不詳、「当社旧記」「戸田柿本社由来書」などにも同じようなことが述べてある。

何れも語家伝説を述べ、高角鴨山で没した人麻呂の霊を移して社を建てたという。

さらに、享保10年改築の時、地底より異物を掘出したが、そのために神殿が鳴動し、神体が落ちたので、そこが廟所であると判断して碑を立てたとある。

文化13年、当社は朽損したので造営に着手し建築も半ばに及んで大工が偶々失火して本殿、神体に至るまで焼失した。

その折、亀井茲尚は藩士大島常一に命じて御神像を再造させた。

戸田柿本神社は戸田東光山にあり、山頂上段に本殿、通殿、拝殿があり、下段に社務所、宝庫、神楽殿がある。

当社は前述した通り古代の旧記は散逸して伝わらず、近世に及んで津和野藩主の篤い崇敬社となり、明治6年村社に列せられ、明治39年4月、神餞幣吊料供進の神社に指定された。

…文矢富巌夫・益田市観光協会「人麻呂の世界」より
→お問い合わせ 益田市観光協会 益田市駅前町17-2 TEL.0856-22-7120 FAX.0856-23-1232 info2@masudashi.com

 
 
人麻呂のふるさと…戸田の里
正面に見えるのは戸田柿本神社宮司綾部家で、敷地には人麻呂の墓がある。

静かな山里の風景は何故か心にしみる。

この地は山深い里ではない、緩やかに一直線に下るとすぐ海である。左右に遮るものが無く水平に伸びた持石海岸は、旅人の旅情を誘う。

この伸びやかな石見の風土が醸し出す、雪舟や人麻呂に象徴される「いわみの文化」は、出雲文化とまったく異なる。

出雲には「出雲国風土記」「黄泉の国」に象徴されるように、日本民族のルーツを覗き見るような不気味さが感じられるが、益田・津和野には、万葉文化の薫りと、その風土が育んだ「人」の精神性に心惹かれるものがある。

 
 
人麻呂墓発掘調査
昭和52年9月18日、梅原猛らは鴨島海底調査に次いで、戸田柿本神社宮司綾部家敷地にある「人麻呂墓」を発掘調査した。

同日の夕、「調査報告会」を開き、「地元の伝承どおり埋蔵物などを確認、伝承の信憑性を高める妄、人麿研究を前進させる貴重な資料を得た」と発表した。が、期待した人骨や人麻呂が没した奈良時代と直接結びつく遺品は発見されなかった。

人麻呂墓は人麻呂が鴨島で没したあと、綾部家のものが髪を持ち帰って埋葬したといわれる。

旧記によると、享保10年、綾部家改築の時、敷地の一部を掘った際に先祖からの言い伝え通り古い骨壷が出たため、人麻呂の霊にちがいないと土壇を盛り、自然石の墓標を建て、「人麻呂御廟所」として地元民の崇敬を集めていた。

調査は18日夕から19日朝にかけて行われ、池田弥三郎、江坂輝弥、森本岩太郎らが立会った。

墓には備前焼の大きいつぼがあって中に黒いすり鉢の破片数個が出た。破片は素焼で、五、六本の溝が一組になり、等間隔に刻まれている。

江坂は「これはどんなに新しくても平安時代から鎌倉時代のもので、推定すると奈良時代までさかのぼることも考えられるといい、墓の石の聞から江戸期のものらしい焼き物や古銭が出て釆たことから、享保年間に墓を現在地に移したことははぼ間違いなく、伝承されている人麻呂埋葬伝説はかなり信頼がおかれるという。

また、文政2年に大島常一が彫った人麻呂七体像も梅原猛らが視察し、「江戸時代末期の木像としては日本でも三指に入る」と指摘、特に養父母二体の像の豊かさには感心したという。

7体の像は約160年間、手入れがなされていず、虫が食い、また腐敗がひどいので、市教委では早速防腐、防虫加工をし永久保存する一方、益田市の文化財に指定した。

…文矢富巌夫・益田市観光協会「人麻呂の世界」より
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