| 「人丸さん」という響きは感覚的に柿本神社のたたずまいや柿の種などを想い出させる。
だから、「人丸さんに行こう」と声がかかると、柿本神社に参詣に行こうということになり、「人丸さんを焼いてはいけない」と注意されると、「ははあ、柿の種を火にくべてはいけないと言うことだなあ」と判断する。
このように「人丸さん」が柿の種や、実に結びつくのは、柿本人麻呂の柿の字から来るものであり、これがやがて、信仰にまで深まると、ヒトマルが「火止ル」になったり、「人生マル」になったりする。
それは火難防除や安産、疫病防除のための語呂合わせによったものであるが、人麻呂への崇敬が次第に深まっていった証拠でもあろう。
もとより、人麻呂は歌人であるから、学業成就をあやかる学生が多く、また、「人ガ生マレ変ル」といった開運の神としても、また水の神、五穀豊穣の神としても、あるいは石見半紙の開基としても、広く民衆の心情に溶け込んでいる。
このようにして石見には殊に柿本神社、人丸社がおびただしく建立されていて、地区民の信仰を集めているわけであるが、何といってもその信仰の中心は高津の柿本神社であることば言うにも及ばないことだろう。
高津の柿本神社は「柿本神社縁起」によると、神亀年間に国司が勅命によって、高津川口にあった鴨山に建立したことから始まり、天平年間には、行基が当山の守護寺として人丸寺を建てたという。
ところが、万寿三3年(1026)5月の大津波で島は陥没し、人麻呂像は二またの松の木にひっかかって「松崎」の地に漂着したので、そこに社殿が再建された。
慶長13年(1608)、石見銀山奉行大久保石見守は荒廃した社殿を修復し、延宝9年(1681)に至って、風波の難を憂慮した津和野藩主亀井茲政は松崎の地より現在の鴨山に移した。
享保8年(1723)2月、人麻呂1000年忌にあたって、正一位を贈られ、柿本大明神の神号をうけている。
益田市戸田には東光山柿本神社があり、綾部氏の屋敷前に人麻呂墓がある。
「戸田柿本神社由緒」によると、大和国より、小野族が石見国戸田郷に下った折に、共に下向した柿本氏の某が、語家綾部氏の娘を寵愛して生ませたのが人麻呂だという。
日々学芸にいそしみ、和歌に秀でていることが天武帝の耳に達し、宮中の和歌の御侍講に任じられ、年老いて、筑紫、長門、石見などを巡歴し、高津の鴨島で病を得て亡くなった。享年78、神亀元年(724)3月18日であるという。
そこで遺髪を生誕地の戸田郷小野に埋葬し、両を建立したが、宝永7年(1710)に、藩主亀井茲親は、人麻呂追慕のあまり、壮大な社殿を営んだ。
人麻呂の生誕に当っては「人丸秘密抄」「百人一首一夕話」「石見八重葎」などにみられる「樹下童子憚」がある。
江津市都野津町にある柿本神社には、人麻呂が井上道益の娘、依羅娘子を妻にして、その仮寓の記念に植えたという「人麻呂松」がある。
その松は巨松で「塚松」「歌聖の松」「神さま松」などと呼ばれ、高さ13.7m、根元の周りは5.5mもあり、松かさがなると流行病が発生するといわれていたが、惜しくも平成9年1月、虫害で伐採された。
人麻呂は特に夏病みに霊験あらたかな神として信仰を集めている。
また、都野津の南にある島星山(高角山、標高470m)の中腹に、昭和28年5月、島星の開拓団が創建した柿本神社が建立されている。
開拓の人たちにも及ぼした人麻呂信仰には並々ならぬものがあるようだ。
浜田市亀山(浜田城跡)の中腹にある秋葉神社に、柿本神社が合祀されている。
秋葉神社は元、牛市町に鎮座してあったが、明治5年に城山の姫栖神社跡地に、城山にあった稲荷神社、雁木神社、讃樹神社、厳島神社、柿本神社、姫栖神社などを合祀したという。
大田市川合町に銭座する物部神社(石見一の宮) には大地主原田家の屋敷神として祀られていた「人丸社」を明治8年に境内に遷座し、境内末社柿本神社として祀っている。
大田市大田の天満宮の岩山の上に柿本神社があり、柿の種を火にくべてはいけないという俗信がある。
安来の人麻呂神社は日立金属安来工場に金屋子神社と並べて造営されている。
言い伝えによると、人麻呂は石見国に帰任する途中、安来海岸の仏島の岩礁に当って没したらしく、当地にある「人麻呂さん」とか「人麻呂塚」といわれていた石碑を昭和16年に工場内に移したものだという。
さらに、萩市椿東中の倉の人丸神社、油谷町人丸の八幡人丸神社、また福岡県の宗像郡大井村の和歌神社、福岡市の住吉神社末社柿本神社、太宰府天満宮末社柿本神社、酒田市の和歌神社、川越市の人麿神社など全国で251社を数える。
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