| 慶長5年(1600)9月、関ケ原の合戦の後、遠江国浜松から出雲・隠岐両国24万石の大名として堀尾忠氏と父吉晴が富田城に入ったのは、同年11月のことでした。
近世大名の新領主として堀尾父子が直面したのは、富田の地が領国支配を行う城下町としてふさわしくないという現実でした。日本史上、城下町は中世(14世紀ころ)から見られるのですが、中世の城は大体軍事的な山城で、城下町はその山麓に自然発生的にできたものでした。しかし、豊臣政権下で行われた太閤検地とそれに伴う刀狩などの政策によって、兵農分離・農高(工)分離が実施され、武士階級をすべて城下に集め、城と家臣の居住が一体となり、さらに商人・職人を城下に吸収して経済活動も把握する町づくりが求められる時代になっていました。
富田の地は出雲の東部に偏っており、飯梨川がつくる平野は開けているといっても狭長です。交通運輸の便も陸上を頼らざるを得ない山間地であり、24万石の家臣団とその家族を居住させるには狭い所だったのです。さらに鉄砲伝来以来、変化した戦闘において、富田城は向山の京羅木山から見下ろす山になり、軍事的にも時代遅れの城となっていました。
堀尾父子は領国支配のために、出雲の中心に近く城下が広く取れ、海上輸送の便もある宍道湖岸の地に新城地を求めたのです。二人は、宍道湖東岸の乃木村元山(床凡山)から北の山々を眺望し、城地選定をしたといわれます。吉晴は洗合山を適地とし、忠氏は亀田山を主張しました。忠氏は亀田山は28.4メートルの丘陵で、南は川と湖があり、東西は深田や沼沢地で道も狭く、敵が来ても向城は造られず、北は白鹿城の古城があり、ここに遠見番を置けば堅固な城になるといい、洗合山は山が大きく50万石以上の知行がないと維持できないという意見でした。吉晴は亀田山は小さくて平城のように見えると思い、結論を出さなかったのですが、しばらくして忠氏が慶長9年(1604)28歳の若さで急死したため、忠氏の遺志を継いで亀田山に城を築くことにしたのです。
築城は幕府の許可を慶長8年(1603)に得ていたのですが、工事の準備や、検地を行って資金の調達をすることに四年間が費やされたようで、慶長12年に着エ、完成したのが慶長16年で、足かけ五年の歳月をかけた大工事が行われました。吉晴は当時「普請上手」といわれた人物で、土木工事の名手として知られた家臣を抱え、石工、大工、泥工、かわら工などは、大阪築城の経験者を招いたといわれますし、加えて縄張り(設計と施工指揮)をしたのが、軍学、歴史、易学にも通じ『太閤記』の著者としても有名な侍医小瀬甫庵(おぜほあん)でした。
築城前の亀田山には、極楽寺、須衛都久社、稲荷神社、荒神などの社寺があり、山上・山腹・山麓には農民や漁民の家がありましたが、これらはすべてよそへ移されました。末次郷といったこの周辺は民家が点在し、田畑や沼沢が広がる一帯でしたし、南の白潟には人家がありませんでした。しかし、末次の地は『出雲国風土記』に須衛都久社のあるところと記してあり、古くから開けていた地域でした。中世には末次荘や末次保があり、守護佐々木氏の一族に末次氏がおり、この一帯がその所領であったと思われます。
工事の初年度は資材運搬のための幹線道路を確保するため、大穂川に架かっていた「カラカラ橋」と呼ばれた橋(大橋)を本棟に架け直し、道路整備と架橋に並行して、侍屋敷の殿町、母衣町、内申原町の造成と、城郭の地ならしが成されました。二年度は本丸の石垣、天守閣の土台石垣、間の宇賀山を切り崩し、内堀工事にかかり、この時亀田山と赤山の塩見縄手の大濠を造り、その土で南田町、北田町、中原の入江や沼沢地を埋め立て、屋敷地ができました。石垣は大海崎矢田、嫁ケ畠「川津、大井などから運ばれた石でした。三、四年度にかけて、天守閣、二の丸御殿が完成し、五年度に総仕上げをして、侍屋敷、町人町も完成し、家臣、町人、寺院の移住が逐次始まったのです。
千鳥城と呼ばれる天守閣は高さ30メートル、外観は五層で、石垣内部に地階があるので内部は六階、最上階には遠見櫓があり、現存する唯一の望楼式天守閣です。前面に一重の付櫓があり、下見黒板張りで白壁が少なく、壁面に隠狭間が95カ所もあります。石落しも多くあり、地階は籠城用の貯蔵庫になっていて、井戸も掘ってある実践的な城です。安土桃山時代の様式を伝える、城郭建築の上で極めて重要な城として、国指定の重要文化財になっています。
城下町としての形態も、城の周りの内堀、外堀、上級、下級の家臣を分けた屋敷割り配置、職種ごとに集合させた町家の取り方、巧妙な工夫のされた寺院配置、町のあちこちに見られる十字路、鈎型路、袋小路に、複雑に屈折した狭い道路、堀や川に大小四十余りの橋が架けられていることなど安定したとはいえ、軍事的脅威のまだ冷めぬ当時を反映した、戦略面に力点を置いた町づくりがされています。その形態は京極氏、松平氏と続く中でもさほど変化はなく、基本的に堀尾普請でつくり上げられた町の姿を踏襲し続け今日に至っているといわれています。
近代、現代には戦火を浴びることもなく、松江は市中至る所に城下町の名残をとどめ、創建当時の姿を伝える千鳥城とともに、貴重な城郭都市であり、文化観光都市として魅力ある街です。
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