神々の国 島根県鳥取県「伝統芸能」山陰伝統文化伝統工芸陶器お酒水産農産菓子お店特産ぐるめ宿泊温泉観光 神々の国
松江市 出雲市 浜田市 益田市 大田市 安来市 江津市 雲南市観 隠岐島 隠岐の島町 津和野 奥出雲町 東出雲町 斐川町 出雲大社 出雲大社観光 石見銀山 石見銀山観光
鳥取市 米子市 倉吉市 境港市 大山パークウェイ 三朝町 湯梨浜町 吉岡温泉 皆生温泉 三朝温泉 はわい温泉 東郷温泉 玉造温泉 松江しんじ湖温泉 有福温泉 温泉津温泉 出雲そば
アマゾン縁結びショップはこちらから! 神々の国島根(しまね)観光はこちらから!
神々の国ご案内  
大蛇退治伝説の地を訪ねて
アクセス 宿泊大蛇退治観光
石見銀山宿泊
鳥取砂丘 湖上に浮かぶ温泉郷 三徳山 投入堂 神々が宿る山
とっとり花回廊 水木しげるロードへようこそ 隠岐島 神々と暮らす美保関
松江城 堀川遊覧 足立美術館 古代出雲歴史博物館
石見銀山遺跡 アクアス グラントワ 津和野 太鼓谷稲成
 

古事記のオロチ退治の説話

オロチ退治伝説の地の紹介等も含め、リニューアルしています。
怯える王家の人々
 
建国以来、七百年の長きにわたって、けんらんたる文化を誇った百済の社稷(しゃしょく)を馬蹄に踏みにじり、韓半島を手中に収めた「新羅」は、その時、聖徳王七年になっていた。

聖徳王は、韓半島を統一した文武王の長男である神文王の次男である。

父、神文王が亡くなったあと、兄の孝昭が即位したけれども、在位11年目の7月に逝去した彼に、男の子がなかったので、弟の聖徳が即位していた。

新羅が北方の高句麗を滅ばし、唐の軍を韓半島から追い出したのは西暦668年。その後、百済の旧地を併合(672)したことから、百済の遺民に祖国再興の機会を与えようとした唐とは、一時険悪な関係になったこともあった。

しかしながら、それも今では既定の事実として唐が認めるようになっていたので、対中国外交面では何の憂慮もなくなっていた。

けれども、国内の問題はそう簡単にゆかなかった。

文武王が亡くなり、神文王が即位(681)して間もない時(神文元年八月)、思いがけないことが勃発した。

王后の実父金欽突と二人の重臣らが謀反を起こしたのである。

さいわいに、この乱は直ちに平定された。

このとき、報徳国(高句麗の遺民が、新羅の了承のもとに、今の全羅北道益山に建てたもので、文武王はその妹を嫁がせている)の安勝王は、乱が無事平定されたことを祝賀する使節を神文王に送っている。

ところが、今度は、その安勝王の甥にあたる大文将軍が、684年11月に反乱を起こすという事件が起きたのである。

新羅はこの事件後、直ちに報徳国を廃し、その安勝王を貴族の列にいれる処置をとっている。

一方、ヤマト朝廷との関係はどうだったのだろうか?

 

壬申の乱で政権を手に入れた大海人皇子が即位することによって出帆した天武王朝は、きわめて親新羅的であった。

大海人皇子の勝利の影に、新羅の力が大いに働いたためである。

そのような事実は、それまで続いていた遣唐使の派遣を廃止して、遣新羅使だけを30年あまりの間派遣していたことなど、日本書紀天武紀以降の記録が裏付けてあまりある。

そればかりではない。天武天皇は即位から六年目の678年、「中国の漢字は不便なので、境部連石積に、新字四十四巻をつくらせることを命じた」と新羅に知らせていることでも、いかに親密な関係にあったかがうかがい知ることが出来るであろう。

だが、それはどこまでも表面上のことで、新羅の王家は、いつあるかも知れないヤマト国からの侵攻に、怯(おび)えきっていたというのが真相である。

それを裏付けるのが、新羅の文武王の遺言である。

文武王は「朕が死んだら、仏の教えに従って火葬にしたあと、東海(日本海)の海中に埋葬せよ。朕は死んだあとも、霊魂は竜になって、外敵から国を守るであろう」との言葉を残した。

群臣はその遺言に従って、文武王陵を今の韓国慶尚北道甘浦の海中に設けたと伝えられていたが、近年その実在が確認されて、一躍有名になっている。

壬申の乱のときに、側面からの支援を与えて天武王朝の成立を実現させた新羅の王家が、なぜ、ヤマトから襲撃を受けることをそれほど懸念していたのであろう。

その背後には、文武王による苛烈を極めた「昔(せき)氏」に対する徹底的な弾圧と粛清という事実がある。

文武王のこのような厳しい処置は、八代の王位に登り、前後172年にわたって新羅を統治した三王家の一つである「昔(=蘇我)氏」が、王位から下ろされた(356)ことをうらんだあげく、三百数十年もの間、新羅の宿敵である百済に組して、自国を攻撃してやまなかったことに対する報復であった。

百済が滅びたあと、直ちに始まった「昔氏」に対する弾圧は、長年の間続けられ、その間、迫害の手を逃れてヤマトに渡った人が、おびただしい数であっただろうことは、今日なお続いているベトナム難民の海外脱出からも推察してあまりある。

文武王は、ヤマトに逃れたこれらの「昔氏」が、いつかは必ず逆襲してくるに違いないと思ったのである。

つまり、この当時、新羅が恐れていたのは天武系の朝廷ではなく、ヤマトに逃れた「昔氏」の人々であった。

 
文武王の後を継いだ神文王は、その脅威に耐えかねて、689年には、建国以来、七百余年間の都であった金城(今の慶州)から、連句伐(今の大邸市)に都を移そうとまでしたほどだから、新羅王家の恐怖がどれほど深刻であったか推察できるであろう。
 

新羅王家の憂慮は着実に現実のものとなりつつあった。

海を隔てた新羅王家が「昔氏」の報復に恐れおののいていたとき、ヤマト王家の人々は、何に怯えていたのだろうか。

それを知るために、読者にはしばらく、回り道をしていただかなくてはならない。

 
幻の吉備王国
 
中大兄皇子が即位したのは、母である斉明天皇が崩御されてから七年目の年である。

中大兄皇子の即位がこれだけ遅れたことについて、孝心の深い皇子が喪に服し、その間「称制」(即位せずに政務を司どること)をしていたと、日本書紀には書かれている。

だが、それは、天武天皇の皇位継承を正当化させるために、書紀の編さん者が使ったテクニックの一つである。

 
そもそも「称制」とは、皇位に上るべき太子が年少の場合、先帝の皇后(または皇太后)がしばらくの間、政(まつりごと)を司ることをいうから、中大兄皇子が「称制」したということは理論的に合わない言葉であり、日本史上、前にも後にもその例がないのである。

天武天皇が亡くなられたあと、持統天皇が称制したことはあるけれども、その場合には、皇太子であった草壁皇子が天折した結果、その子供が年少であったからで、それこそ本当の意味での「称制」であった。

 

中大兄皇子が、母の死後、直ちに即位できなかったのは、母とその前夫、高向王との間に生まれた異父兄である漠皇子=大海人皇子=の背後勢力を恐れたからである。

大海人皇子の背後勢力とは、父である高向王に率いられる東北勢力(エミシ=昔の皇族の意)と、後日、備前・備中・備後・美作に分割された吉備国の勢力である。

 
大海人皇子の父高向王とその勢力の実相については、この後、詳しく調べることにして、ここでは吉備国について考えることにしよう。

日本の古代を研究するときには、中国の史書が多く引用される。

そのなかの一つに、かの有名な『魏志』(倭人伝)がある。

『魏志』は晋の陳寿が撰した『三国志』(全六十五巻)の一部のことで、魏の郎中、魚豢(ぎょけん)の『魏略』を参考にして編さんされたものである。

完成された年代はさだかでないが編さん者である陳寿が297年に65歳で亡くなっているから、ほぼ三世紀半ばから末までの間に書かれたものであることは間違いないだろう。

日本の古代史家がたびたび引用する『魏志倭人伝』には、西暦238年(景初二年)から、前後三回も魏に使節を送ったとされている邪馬台(やまと)(臺)国の女王卑弥呼と、女王が統合していた諸国や敵対国について詳しい記述がされている。

ところが、それらの記述が、当然のことながら中国文(漢文)で書かれていることと、現代の常識とかけはなれた認識に基づいているために、その解読はなかなか容易ではない。

倭人伝解説にかかわるいろいろな問題点のなかで、吉備王国に直接関連のあることがらを挙げると、次の三つがある。

 

1. 投馬国(宋版『太平御覧』には(於投馬国)となっている)を出雲国と見た場合、そこから「南」に行くと「邪馬台国女王之所都」に至るとあるが、畿内の大和に行くには「東」に進まなければならない。

そこで畿内説を唱える側は、原文の「南」は「東」の誤りだとする。

活字のなかった当時の原文は、筆で転写されるのであったから、そのような誤りは往々に起きている。

たとえば、紹興版(上海商務印書所蔵)では女王国の「王」が「三」となっていることを見ても、初歩的なミスがいたるところにあることがわかる。

ところが、ここに一枚の古地図がある。

 
 
これは、明の成祖時代、中国に派遣された朝鮮使、金士衡と李茂が作成したもので、竜谷大学に所蔵されているものである。

この地図は、卑弥呼の時代から千年もあとに作成されたものであるにもかかわらず、日本列島は九州を軸にして南方に伸びた形になっている。

つまり、倭人伝の「南」は「東」の誤りであったのではなく、当時の人の日本列島に対する地形認識が、明の時代までも、この地図のようであったことが分かる。

これによって、「ヤマト国」を九州に位置付けようとする学説の重要な論拠が消滅することになる。

2. 次に、「邪馬台(臺)」を何と読むべきか、と言うことである。

 
学者のなかにはこれを「ヤマダイ」「ヤマイチ」「邪馬壹(壱)」または「ヤマイ」と読む人さえいる。

だが、もし古代に「ヤマイチ」「ヤマダイ」「ヤマイ」などの国が日本に存在していたなら、四千五百十六首もある万葉の歌のどこかに、そのような名が出てこなければならないはずである。

にもかかわらず、万葉には「ヤマト」以外見当たらないばかりか、日本は今でも「ヤマト」であり、日本語は「ヤマト言葉」であるに変わりない。

それもそのはず、卑弥呼の死後、その後を継いだ宗女の名は「壹与」と表記して「トヨ」と訓されているし、「一瞬」のことを「トッサ」(サは時のことで、大伴旅人の歌、3ー449・450に「帰るサ」「行くサ」の例がある)と言い、「一日(壹日)」のことを「トイタチ→ツイタチ」ということなどから、「壹」は「ト」とよむべきであることを知る。

ちなみに、「三国志」刊本にはすべて「壹」となっている。

3. 最後に「邪馬台国女王之所都」は、中国文のどれもがそうであるように、句読点が原文にはない。

それを「邪馬台国」と「女王之所都」に分けて読むように誰かがつけた句読点のために、無用の混乱が起きたのである。

ここは素直に、「邪馬台国女王の都している所(にゆくには)」と読むべきなのである。

さて、この倭人伝には、また次のような記録が残されている。

自女王國以北其戸數道里可略載其餘索國遠絶不可得詳次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次

有郡支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴園次有呼邑國次

有華奴蘇奴國次有鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次

有烏奴國次有奴國此女王境界所盡

 

ここで注目を引くのは、このなかに「吉備国」の名が見当たらないことである。

女王国の以北は「遠く絶えて詳しいことを知るよしもない」としながら、そこから中国に帰る道順である西の方、つまり吉備国があるべきところには「斯馬国」があることに気づく。

ということは、『魏志』(倭人伝)が書かれたと思われる三世紀の半ばから末頃までは、まだ吉備国というのが、日本列島に存在しなかったことを意味する。

にもかかわらず、吉備国は、その名があらわれた当初から、すこぶる強大であり、ヤマト朝廷の強敵であったとなっている。

三世紀の末頃までもその芽さえ出ていなかった吉備国が、どのような理由から、突然強大な王国として登場することができたのだろう?

その謎を解明してくれるのは、江戸幕府時代(1617)最初の通信使一行の通事官として来朝した李景稷の手記に残されている「日本年代記」と、国学の祖といわれた松下見林の手になる「異称日本伝」の内容である。

それを見ると、後日、吉備国と称されるようになった地域は、応神22年、新羅に割愛されたところであることが明らかになる。

その地域はその後「君の国」と呼ばれていたが、「キミ→キビ」音韻変化によって(マ行とバ行の変化。例=なマる→なバる 神武紀⇒黍 きミ→きビ 万葉訓)「キビ国=吉備国」と呼ばれるようになった。

 
吉備国の総社線山17号古墳から出土した鉄剣には鍔(つば)の近くに花形紋が刻まれている。

これと同じようなものは、熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳、奈良県橿原市千塚古墳327号墳、島根県出雲市の築山古墳などから出た三例しかないもので、この四点の文様は共通点が日立つ。

 
和名抄によれば、このあたりは古く「賀屋郡阿宗郷」と言われたというから、新羅の前身「ガヤ(伽耶)」の名がここにつけられていたことを知る。
 
さらに、岡山県最古といわれる備前車壕古墳からは、卑弥呼の使節が魏から持ち帰ったといわれる三角縁神獣鏡が十一面も出土したばかりか、鬼ノ城山の頂には、謎の朝鮮式「鉢巻き型山城」があることなどが、そのような記録を裏付ける。
 

さらに、美作高野神社(式内社で正一位になっている)は、吉備一族が最も大事にしている神社であるが、その神社の祭神は「ウガヤ(=上伽耶)フキアユズノミコト」であることも、注目に値しょう。

また、今日、岡山県倉敷市連島町に「欠柄=ヤガラ」と呼ばれているところがある。

 
旧西高梁川と旧兼高梁(たかはし)川の間で、現在の高梁川下流左岸の東方に位置し、古くは備中国浅口郡の一部であった。

矢柄」は元「アカラ」といわれていたところで、ア行←→ヤ行変化(例 益・疫=ユキ→ヤく>桜=アう→ヤう)により今日「ヤガラ」と呼ばれている。「アカラ」とは「ウカラ(上伽耶)」と同じ意味の言葉であるから、この地の人々が「ウガヤ(上伽耶)フキアユズノミコト」を祭っていることに不思議はないのである。

 
吉備国が新羅の分国であったことをさらに立証するかのように、このあたりには「曽原=ソバラ」といわれるところがある。
 
「新羅」の古名は「蘇伐=ソバル」、つまり「曽原=ソバラ」と全く一致することも見逃せないばかりか、吉備神社の付近を流れる川を「唐川、辛川=カラカワ」(加羅川、伽耶川)、近所の寺を「柏寺=カヤガラ」と呼び、温羅(うら)伝説も、その近くにある賀陽(ガヤ)氏の館の跡といわれる土地に伝わっているのである。
 
このような吉備国(新羅の分国)の誕生は、応神天皇22年のこととなっているが、日本書紀のこの時代年数はでたらめである。
 
新羅が第二期ヤマト朝廷(熊信仰族)に対して報復攻撃を加えたのは、いわゆる神功皇后の三韓出兵(西暦396年頃)のあとのことである。

第一期ヤマト朝廷の最後の仲哀天皇の死を西暦362年(水野祐説)とみなした場合、神功摂政期、すなわち、太陽信仰族の残党と熊信仰族の戦いが続けられただろうと思われる時期を経て、応神天皇の即位が実現されたのは、五世紀の半ば頃だったであろうと推測される。

 

新羅は、南九州の熊襲(熊信仰族)からの援軍を得た百済の攻撃を受けて、危急存亡の難境にあったが、高句麗の広開士王(好大王)の支援を得て、やっと危機を免れたので、しばらくは高句麗と友好関係にあった。

だが、境界を接している戦国時代の国々がすべてそうであったように、相互の攻防が始まると、昨日は敵であった百済と連携して高句麗に対抗したり、逆に高句麗と手を結んで百済と戦うなど、乱戦激闘が続く時代にはいった。

日本列島においては、ようやく新しい政権の基礎が固まった第二期ヤマト朝廷が、韓半島で続いている動乱で新羅がその分国「吉備」の管理にかまうことができないすきに乗じ、吉備国の攻略に着手した。

これがいわゆる「吉備津彦」と「阿宗(阿曽とも表記される)」の酋長「温羅」との戦い伝承の実態である。

 
「温羅」は「アラ」の母音交替した言葉で「偉い人・王さま・君」などの意味である。
 
このようにして、日本列島の中心部に忽然出現した「幻の吉備王国」の勢力がどれだけ大きかったかを裏付けるものが、大型古墳の数である。
 
その規模と数について『古代吉備王国の謎』(真壁忠彦・真壁葭子共著、新人物往来社)は次のように記している。

(百メートルを超す大規模古墳が)吉備では、備前で11基、備中で8基を数える。(略)畿内の大王家や、それと直接関係の深い豪族の本拠地と比較して、はるかに離れている吉備の地に、いかに巨大な古墳が多いかを、あらためて考えさせる。備中にある造山古墳は、仁徳陵、応神陵、履中陵とされている三大巨墳に続く大きさをもっていて、長径約350メートルの大前方後円墳であり、畿内を除いては、全く他に例を見ない大きさである

吉備については、古事記と日本書紀に興味深い物語が残されている。

その物語の時代が、応神と仁徳両天皇のときのこととなっていることが、まず注意をよぶ。

古事記の仁徳条には、「天皇が吉備の海部直の娘で、黒目売(くろひめ)という美人を召して宮にいれた。だが、妖妬深い皇后に非常にねたまれたので、とうとう吉備に逃げ帰ってしまった。天皇はその彼女の後を追って吉備に行き、歌を詠み交わした」というのが見える。

それよりももっと注意を引くのは、日本書紀の応神天皇二十二年条にある物語である。

天皇が難波の大隅宮(おおすみみや)の高殿に登って遠いところを眺めていた。

そのとき、天皇のそばには、吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の妹で、妃兄媛(みめえひめ)という女性が侍(はべ)っていたが、彼女は西の方を見ながらしきりに嘆く。

その姿を見付けた天皇がわけを聞くと、「この頃、父母が恋しくてなりません。しばらく暇を頂いて、実家に行かせてください」と言う。

天皇ほ親を想う彼女の心を愛(め)でて、80人あまりの水夫をつけて、吉備に帰らせた。

(中略)その後天皇が吉備国に行くと、妃の兄、御友別が、その兄弟や子孫に命じて、天皇の食事など供えさせた。

天皇はその褒美に吉備国を割いてその子らに与えた。

川嶋県(かわしまのあがた)は長子の稲速別(いなはやわけ)に、上道県(かみつみちのあがた)は中子の仲彦(なかつひこ)に、三野県(みののあがた)は弟彦(おとひこ)に、波区芸県(はくぎのあがた)は御友別の弟である鴨別(かもわけ)に、そして、苑県(そののあがた)をその兄の浦凝別(うらこりわけ)に、それぞれ分けてやった。

これがその子孫が今も吉備国に住んでいる由縁である──となっている。

 
応神天皇二十二年に「五つの県を分け与えた」となっているこの記事が、「日本年代記」や、松下見林の「異称日本伝」にある「応神天皇二十二年、吉備国の五ヶ国を新羅に譲渡した」と、年代と分け与えた国の数が一致するのは、ただの偶然だろうか?
 
このほかにも、雄略紀七年条に、天皇が吉備上道臣田狭(たさ)の美しい妻「稚媛(わかひめ)」を横取りしたことに憤慨した田狭が、新羅に救援を要請した話がある。
 

これらもろもろの話は、内容におのおの違いはあるけれども、いずれも吉備国と新羅が、特別に密接な関係を保っていたことを物語るものであることを否定できる人はないだろう。

大海人皇子が即位した後、歴代天皇の中でも最も親新羅的天皇になったのも、これでうなずける。

このように、吉備と東北地方の勢力を背景にして、壬申の乱の勝利者になった天武天皇が、あらゆる面で親新羅的行動をとるようになったことが、天武王朝を破局に追い込む原因になっていったのは、まことに大きな歴史のアイロニーと言わざるをえない。

 
天武天皇のものまね第一号は、即位四年目の春(675年)、占星台(セムセイダイ)を設けたこと。これは新羅の善徳女王(632〜647)が築いた「瞻星台(せんせいだい)」(現存する世界最古の天文観測台)を見習ったものである。
 

次にしたのが、もっとも問題になる歴史の改ざんである。

新羅は、自分の宗主国であり、建国もはるかに早かった「伽耶」の歴史を乗っ取って、それをあたかも自分のもののように作り上げた。

それをまねた天武王朝は、自分に先立つ「ウガヤ(上伽耶)」の歴史を抹殺してしまった。

このため、記紀の上古における年代に矛盾が生じたことは周知のとおりである。

新羅の場合は、それでも、さして大きな問題が起こらなかったようである。

というのは、新羅はもともと伽耶と同じ部族であったからであるが、日本の場合には問題が複雑である。

これがまたもや、天武王朝を窮地に追い込む遠因になって行く。

 
*温羅伝説→鬼の城に住む温羅という一派が勢力をふるい、里人の食糧、宝物を奪い、娘をかどわかすなど悪事を尽くしたが、吉備津彦命に征伐される話。桃太郎伝説のルーツとされる。

*賀陽氏→四道将軍、吉備津彦命が賀陽(または香屋)氏として高梁川の東部一帯を治めていた。岡山県上房那賀陽町(かようちょう)の地名が残る。

 
謎の男「石上麻呂(いそかみまろ)」
 
大海人皇子の背後勢力が、吉備国と東北(ヤマトから見て)であったということは既に何度も触れてきた。

これらの地方が大海人皇子の支持勢力になった理由は、皇子の母である宝皇女(皇極天皇)の実家が吉備であり、父(高向王)の実家が越国であったからである。

 

まず、母方が吉備国であることは、皇極紀の初めに「足姫天皇(タラシヒメノスメラミコト=皇極天皇)の父は茅淳王(チヌノオホキミ)、母ほ吉備姫王(キビツヒメノオホキミ)と申す」とあることで確かめることができる。

だが、後世の我々にとって不思議なのは、吉備の国の女性である宝皇女が、交通が極度に不便であったあの頃、どのようにして、気が遠くなるはど離れている越国の男、高向王に嫁ぐことになったか、ということである。

いや、そればかりではない。

 

宝皇女の母である吉備姫王の夫、つまり、宝皇女の父である茅淳王の母は「漢王(アヤノオホキミ)の娘」だと紹運録に書かれていることも注目に値する。

大海人皇子の幼いときの名が「漢皇子(アヤノオウジ)」であったことは、斉明即位紀に明記されているから、皇子は、母の祖先からも、父の方からも「漠(アヤ)」の血をうけていることが分かる。

大海人皇子の父は「高向王」、つまり「高向」地方の王ということである。

 
その「高向」は越前にあり、その地方には、一大古墳群(前方後円墳14基、円墳約100基があるという)があって、「高向」という姓を名乗る部族は、並々ならぬ勢力をもっていたことを雄弁に物語っている。
 
つまり「漢(アヤ)」と記紀に記されている地方は、越国といわれる能登・加賀地域から美濃・尾張.近江地方を含める東北の広大なところのことであることが明らかになるばかりでなく、吉備の地方もまた、彼らの勢力のもとにあったからこそ、吉備地方の男女との問に結婚がたびたび行われていたのである。
 

645年、吉野山に身を隠した古人皇子の家族は、中大兄皇子の差し向けた軍勢によってみな殺しされた。

それとは対照的に、同じ吉野山に、婦女子を含めたごく少数の人々だけを連れて入った大海人皇子を、近江朝廷ほ簡単に殺害できなかったばかりか、逆に、大海人皇子によって滅亡される悲運に陥ったのは、このような「血のつながり」の後押しを大海人皇子が受けたからである。

 

ところが、ひとたび政権を手に入れるや、天武天皇の心境に大きな変化が起きる。

その結果、天武天皇の王朝とこれら血族との間に反目の兆しが生まれはじめ、それが王家の人々を恐怖におののかせることになる。

このような重大な事件の裏には、必ず目に見えない人物の影が動く。

謎の男「石上麻呂」、それが彼の名である。

この人、出自は物部(もののべ)。

父は、難波朝廷の衛部(天皇を守る役目で、今の近衛兵にあたる)大華上の位にあった宇麻乃(うまの)である。

 
西暦639年に生まれた彼は壬申の乱(672年)のとき、33歳の男盛りであった。

生まれ付き人並みすぐれて頭が良かった麻呂は、大きくなるにつれてますます知謀がたくみになり、周囲から策謀の天才といわれるようになった。

日頃、奇想天外な言動をして同僚たちを驚かせる彼について、友人の間では「麻呂の胸のうちを知るものはない」とささやかれていた。

「人間誰でも一度は大きな機会に出会う。それをどのように生かすか、それが運命のわかれめだ」と口癖のように言う麻呂は、常に野心に燃えていた。

皇太子であった大海人皇子が宮廷を追われて吉野山に逃れたあと、五人の大臣どもに推戴される大友皇子が、次の天皇になること間違いないと見た麻呂が、この時こそ自分に与えられた一世一代のチャンスだと躍り上がって喜んだのも無理はなかった。

大友皇子の幼いときから、皇子の身の安全を守る護衛の役目を務めていた麻呂は、大友皇子から誰よりも厚い信頼を受けていたからである。

「麻呂、長い間の務めご苦労だった。いよいよ汝の忠誠に報いる時が来たぞ」

大友皇子のこのような言葉を聞きながら、「蘇我馬子一族の手によって滅ぼされた物部の栄光を取り戻す時は来たと、全身の血を沸かせた麻呂。

だが……。

西暦672年7月23日、不破から数万の兵を率いて近江に進撃してきた大海人皇子例の将軍、村国連男依(むらくものむらじおより)らは、大友皇子の最後の将軍犬養連五君(いぬかひのむらじいきみ)と谷直塩手(たにのあたひしほて)を粟津市(あはづのいち)に追い詰めて斬り殺した。

これによって近江側の抵抗は完全に終わった。

あとは、勝利者たちによる残党狩りが、いたるところで繰り広げられる。

焦げるように照りつける七月の太陽のもと、汗と血にまみれた敗軍の兵士は、火のような息をはきながら、活路を求めて必死に逃げまわった。

大友皇子も例外ではなかった、すでに周囲には、将軍たちも大臣たちもいなかった。

山前(やまざき)にたどりついたときに振り返って見ると、ついてきたのは石上麻呂と舎人(とねり)が一人いるだけだった。

「麻呂、ここで一息入れながら、日の暮れるのを待とう。暗くなれば、闇に隠れてどこか安全なところへ逃れることが出来る。さすれば、再起の道もおのずと開かれるだろうから、もう少しの辛抱だ」

肩で大きく苦しい息をしながらも、皇子はさすがに気丈だった。

「最後まで望みを捨てるでない。麻呂! いかなることがあっても、皇位は必ず守りとおさねばならない。汝だけが頼りだ。頼むぞよ、麻呂……」

しかし、運命の女神はすでに皇子に背を向けていた。

大友皇子が最後の瞬間まで、これほど生命の綱と頼った石上麻呂の胸の中に、悪魔の知恵が駈けめぐりはじめていたことを知るよしもなかったのは、残酷な悲劇であったとしか言いようがない。

汗の上にほこりがぬれて、目だけがのぞいて見える顔の麻呂は、とんでもないことを考えはじめていた。

「策謀」と「誠実」は、同じ星の下に住めない宿命にある。「策謀の士」石上麻呂の頭は、猛烈な勢いで回転しながら、どうしたらこの難局を有利な方に向きを変えさせることができるか計算をはじめた。

「大友皇子の運は尽きた。これから大海人皇子の世の中になること間違いがない。とすれば、今の大海人皇子にとって、最も喜ばれるものは何か、それを早く当てることだ。大海人皇子の最も欲しがるもの、それは……」

「皇子さま、人はどのような時でも、天命を悟ることが何より大事です。残念ながら、天下の大勢はもはや決まったのです。こうなった上は、いさぎよく自尽されるより他に道はないと思われます。およばずながら、私が介錯してさしあげましょう」

「もうすぐ日が暮れる。そうなれば、この危地から脱出することもそう難しくはない。天下をそうやすやすと大海人皇子に渡してなるものか!」と、心のなかでまだまだ闘志を燃やし続けている大友皇子は、この瞬間、自分の耳を疑った。

そして見上げる皇子の驚愕の目に映ったのは、丁重な言葉とは裏腹に、刀のつかに手をかけて見下ろす、石上麻呂の冷酷な目であった。

「麻呂、汝、まさか……」驚く皇子の声はかすれて聞こえなかった。

だが、表情を変えないまま仁王立ちになっている麻呂の姿から、最後の時が迫ったことを皇子は感じとった。

「麻呂、今の今まで、そちがそのような心の持ち主であることを見破れなかった俺が惨めじゃ。分かった。これで諦めもついた。そんなに欲しかったら、俺の首をくれてやろう。それでどれだけの栄華が買えるか、見ものよのう! だが、不義で勝ち得たものは、そう長く続くものでないことも覚えておくがよい。さ、参れ、麻呂!」

このようにして、学識の誉れ高かった大友皇子は、彼が最も信頼していた者に裏切られ、23歳の若い生命を自ら断った。

日本書紀には、大友皇子は自らの手で首をくくって死んだ、となっている。

だが、7月26日、不破宮に将軍たちが集まったとき、誰が「大友皇子の頭を捧げて、営(いほり)の前に献(たてまつ)った」のか、明らかにしていない。

天武天皇即位後、敵側に最後までついていた石上麻呂が、とんとん拍子に出世街道を登りはじめる。

676年には、天武王朝にとってもっとも重要な国交の相手である新羅に、遣新羅大使として派遣される。

681年には、早くも小錦下を授けられ、684年にはついに「朝臣」の姓そして、天武天皇が崩御したときには、殯宮(もがりのみや)に法官(のりのつかさ)のことを誄(しのびごと)している。

704年には、すでに右大臣になっているばかりでなく、708年、柿本人暦が亡くなった年には、ついに、臣として最高の左大臣に登用されている。

この石上麻呂は、天武天皇にどのような秘策を奏上したのか? 

そしてそれが、天武王朝にどのような影響を及ばしたのか? 

調べてゆくことにしよう。

天武二年(673)2月29日(陰暦)、太極殿から戻った天武天皇は居室でほっと一息いれていた。

戦後七ヵ月、未曾有の乱に恐れおののいていた人心もようやく落ち着きを取り戻し始めていた。

天智天皇が多くの人々の反対を押し切って移した都も、前年の九月、近江宮から岡本宮の南に移し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはら)と称するようにした。

乱の前後、近江朝廷と大海人皇子のどちらに味方すれば自分に有利になるか、不安と焦燥で大きく動揺していた朝廷の上下の役人どもも、新しい宮廷での新しい政治に少しずつ馴染みはじめた。

世の中がやっと平静に返り、新しい王朝は輝かしい未来に向けてゆるやかに、着々と動き出したのである。     

即位の式も無事に終わり、新しい帝(みかど)の座についた大海人皇子は、今や万民が平伏(ひれふ)す威厳と、まばゆい栄光の冠に輝く存在であった。

だが、はた目には得意の絶頂にあるかのように見える天武天皇の心は、日に日に重くなるばかりで、夜も安らかに眠れぬ日々が続いていた。

天皇は目をつぶって深い瞑想に沈んでいる。

頭のなかには、少し前に起きた太極殿での出来事が、走馬灯のように往来している。

今日、天皇は、近江朝廷との戦いに功をたてた諸将軍たちの労をねぎらい、褒賞と爵位を授けた。

各々の戦功が認められ、それ相当の褒美と官位を授けられる人々の顔は、得意と嬉しさを隠しきれず、天皇が一人一人の新しい爵位を読み上げるたびに、一同の間に嘆声がもれ、広間は羨ましいため息にどよめいた。

だが、初めは、ただ喜びの気分一色であった雰囲気が、褒賞が進むにつれて、一部のものたちの顔に、不満の色がさしはじめた。

しかも、そのような不満はもっとも手柄をたてた将軍の間に広がっていることを、天皇は悟り始めた。

最初、彼らは自分に与えられた褒美に喜んだが、次第に、天皇の他の者に対する評価が、自分のそれに比べて高いように思われ始めたのである。

「あの者が何でこの俺と同じ位に進むのか」「あやつがあの位なら、俺はもっと評価されていいはずだ」

などと、それぞれが内心思っていることが、知らず知らずのうちに表情にあらわれ始める。

みんなが無条件に喜ぶだろうとおもったのは、とんでもない甘い考えであった。

人々はそれぞれ、自分の存在に謙虚な心でいることが出来る。

だが、ひとたび自分の存在価値を他人のそれと比較されると、そのような謙虚はいつしかなくなり、与えられた評価に抑えきれない不満を感じるようになるという微妙な心理は、どのような場合にでも表面に出る。

「今日の褒賞式は、完全な失敗だった」天皇は苦虫を噛んだように顔をしかめる。

「上様、いかがなされましたか? お気分が勝れないようですが……」と声をかけたのは石上麻呂である。

大友皇子の首を持参した石上麻呂は、天武天皇の目にとまるところとなった。

その功が認められ、天皇の周囲で警護の任にあたるように抜擢された麻呂は、たえず、ほとばしるように沸き出
る知謀で、ますます天皇の注目を引く存在になっていた。

片時も天皇のそばを離れてはならない職責は、彼にまたとないチャンスを与える。

麻呂は待ち受けていた「一生の運命を決める機会」を逃さなかった。

「うむ、体は何ともない。だが、少し気になることがあっての……。そちは今日の雰囲気をなんと見た、麻呂?」

聡(さと)い麻呂の頭が敏感に反応し始めた。

「上様の大恵みに、皆様が感激されていたようでございます。ただ……」

麻呂のこたえは歯切れが悪かった。

「ただ……?」促すような天皇の顔を恐る恐る見上げながら、麻呂は注意深く、おもむろに口を開いた。

「ただ、一部のかたがたは、麻呂が思っていたはどお喜びなさっていないようにも見受けられましてござります」

「うーむ。そちの目にもそのように映ったか?」

「ほい、恐れ多いことにござります」

「で、誰がそのように見えたのか?」

「……」

麻呂は慎重だった。

「麻呂、隠さずに申してみよ。そちの見たのと、朕が見たのと同じかどうかを知りたいのじゃ」

「しかしながら……」

麻呂はもう一度渋って見せた。

「麻呂、朕が許す。思うままに申して見よ!」

「ははっ、それでは申し上げます。将軍たちの間に、そのようなお顔をされた方が何人かおりましたが、なかでも、このたび小錦上(しょうきむじょう)に進みました当摩公広麻呂(たぎまのきみひろまろ)さまと、小錦下に列されました久努臣麻呂(くぬのおみまろ)さまが、目立つように思われました」

石上麻呂の発言は重大な意味を含んでいた。

なぜならば、広麻呂は、大友皇子が派遣した磐手(いわて)によって騙し打ちされた吉備国守当摩公(きびのくにかみたぎまのきみ)広嶋の弟であり、大海人皇子の母方の勇将である。

また、久努臣麻呂はその副将。ともに壬申の乱で大活躍をした人物であったからである。

天皇の顔に苦悩の影が走った。

「麻呂の目にも、それがはっきり分かるように映ったか ! そうだとすると、他の者どももそれに気づいたはず。しかも彼らは、朕の親戚であるがゆえに、大友皇子に殺された広嶋の後をついだ吉備国の主将である。彼らが朕に露骨な不満を示すならば、他にもそのようなものが続出するに違いない。もしこれを捨てておくと、朝廷を侮る風潮が蔓延すること必定である。さてどうしたものか……」

石上麻呂にはこのような天皇の思惑が、手にとるように読めていた。

だが、事はあまりにも重大である。麻呂は黙ったまま、天皇の表情をじっとうかがった。

 
甲扇の策
 
石上麻呂は、天皇の苦悩する姿を見ながら、長い間待ちに待った「天機」が、自分の懐に転り入ってくる瞬間が近づいたことを直感した。

全身が震える、異様な興奮に頭の血がひいて行くのを覚える。

そのような麻呂の蒼白な顔が、天皇の目に妖しく映った。

「この者に妙策があるかも……」と思った。

「麻呂、朕の悩みを読んでいるのう?」

「恐れ入ってございます」

畳に額をすりつける麻呂を見下ろした天皇の口から、低い言葉が漏れた。

「されば、朕の悩みを消す方策も、そちにあるのじゃろう。遠慮はいらぬ申してみよ」。

「は、はっ、めっそうもございません。私ごときに、天下の政(まつりごと)のことなど、どうしてわかりましようか?」

石上麻呂はもう一度額を畳にこすりつけた。

「麻呂、謙遜は美しき心というが、朕の心を休ませる策を献ずるのも、臣下の道理であろう。汝に何か妙策があると見た。それを申せ!」

石上麻呂が顔を上げた。

「上様、重ねての恐れ多きお言葉、ただ恐縮するばかりでございます。麻呂ごときにお役にたつような知恵など、どうしてございましょうや。だが、お言葉に甘えて、日頃古い書物から学び得た、小さな考えを申し上げます」

ついに麻呂の口から、低いけれども、心の底に響くような話が始まった。

「(口)は(国の領土)をあらわす形であります。(田)は、それを民に分け与えて耕させることをあらわします。(甲)は(ものごとの創まり)であり(ものごとを治める法律)であります。(田)に、それを統率するための(掴(つか)み手)をつけた由縁であります。したがいまして、(甲)(掴み手)を握るべきお方は、すなわち(天皇)であらせられます」

ここまで一気に話し続ける石上麻呂の目を、睨むように見いりながら、天皇は言った。

「だから、その(掴み手)をしっかり握れと言うのじゃな」

「仰せのとおりでございます」

「だが、その(掴み手)をどうすればしっかり握ることが出来るのじゃ?」

「これをご覧くださいませ」

麻呂が懐から扇を一つ取り出した。

「扇ではないか? それがどうしたというのだ」

麻呂はその扇を台の上に乗せた。

そして、「失礼」と言いながら帯の間に挟んでいた小刀を抜いて振り上げたと思うと、力強く扇を打った。

瞬間、扇の要(かなめ)が切り離された。

要を離れた扇は乱れた姿になってしまった。

「(甲)は、さらに(武)であり(力)にございます。その武力をもって、扇の要を断ちますと、相手のものは相乱れて力を失い、このようになります」

天皇の目が鋭く光り始めた。

 

「(甲扇の策)読めたぞ、麻呂! 吉備国と越国を分断せよ、か!」

天皇の腹は決まった。このようにして、母の実家と父の本国は、小さく分断して、分家のものの所領にする方針が立てられ、その実行は極秘のうちに進められていくのである。

 
「上様、小臣を新羅に遣わしてくださりたく存じます。聞くところによれば、かの国は、百済と高句麗を滅ぼして三国の統一を果たしたそうにございます。とすれば、かの国も新しい秩序を立てるためにいろいろな工夫がなされているはずであります。それをこの目で確かめて参りたいと存じます」

「よし、行って参れ、大いに学んで参るのだぞ」

腹の中で重大な決心をした天皇は、まず見せしめに、「当摩公広麻呂と久努臣麻呂の両人は、宮中に参内することを禁ず」という勅令を出した。

天武4年4月8日のことである。

石上麻呂は天武5年10月、遣新羅大使として渡航、翌年2月まで新羅に滞在しながら見聞を広めて帰った。

それから間もなく、「天皇が各民族の伝記を抹消しようとしている」といううわさがたち始めた。

各氏族の間に悲憤の声が高かったが、敢えて天皇に抗議するものは、さすがにいなかった。

だが、歴史を記録する役目の史人(ふひと)のなかには、公然と天皇を非難する者もいなくはなかった。

天武六年四月十一日条に「杙田史名倉(くひたのふひとなくら)、天皇をそしりたるにより、伊豆嶋に流す」と記録された。

石上麻呂は進言した。

 
「各国の分断作業は、諸国の反発をよぶこと必定であります。したがって、その役目は、壬申の乱に功を立てたものどもにお命じなさいませ。また人選にあたっては、なるべくその地域出身のものを選び、同族の間に反目の種をさりげなくまいておくのが肝要でありましょう」
 

どこまでも抜け目のない麻呂であった。

天皇はその言葉を入れて、諸王五位(おほきみたちのいつつのくらい)の伊勢王を責任者として、その他、大錦下羽田公八国(だいきむげはたのきみやくに)・小錦下多臣品治(おほのおみほむぢ)・小錦中臣連大嶋(なかとみのむらじおほしま)など錚々(そうそう)たる面々に、測量などをするものを引きつれて諸国分断の作業に着手させた。

だが、諸国の抵抗は予想以上に強かったから、この年「限分(さか)ふに堪えず」と天武紀十二年十二月十三日粂に記されている。

結局、この分国作業は13年10月に伊勢王が再び出動して続けられたが、東国勢力の反発はなおも激しかったので、14年10月、伊勢王らを、またまた東国に出向かせることになった。

 

このようにして、「吉備国」は、備前・美作・備中・備後の四ヵ国に、「高志道(こしじ)」は、越前・越中・越後・加賀・能登・佐渡の六ヵ国に分断されることになる。

その結果、地方豪族の反感は、天皇を暗殺しようとする者があらわれる可能性があるほど、爆発直前の状態にまでなった。

これを恐れた天武天皇は、壬申の乱以降、畿内から一歩も外に出ることがなかったのである。

 
天武天皇の死後、その後を継いだ持統天皇は、その埋め合わせをするのに大変な苦労を強いられる。

すでに大臣の位に進んでいた石上麻呂は進言した。

「先の天皇は分国の大作業を成し遂げられましたが、東国地方の豪族の間に大きなしこりを残したことも見逃せません。上様ほその者どもを宥めすかされることに、特別な配慮をあそばされるようなさいませ」

子孫代々の繁栄を願う持統天皇は、麻呂の言葉を忠実に守った。だが、そのことが、またまた問題を呼び起こした。

持統6年2月、天皇はまたも伊勢国に出掛けると言い出した。だが、時の中納言大(すけのものもうすつかさ)三輪朝臣高市麻呂(たけちまろ)は「農業のときに天皇が出動なさると、農民が迷惑しますからおやめください」と進言したから、天皇もこの忠臣の諌言に従おうとされた。

しかしながら麻呂は主張した。

「上様、大臣どもには目の前のことしか見えません。天下のこと、後世のことを考えるのは、上様以外の者にほ想像もつかないことであります。どのようなことがあっても、この旅は敢行されねばなりません。私も随行しますから……」

天皇は3月3日、ついに伊勢行きを断行した。

最後まで天皇の出発を反対した高市麻呂は、憤然としてその職を捨てたのである。

持統天皇の東国慰撫行脚(いぶあんぎゃ)は、崩御される直前まで継続された。

そのお陰で、その地方の治安も、どうにか維持されていった。

だが、それも持統天皇が亡くなったあとからは、事情が大きく変わり始めた。

もともと体の弱かった文武天皇がたった十年在位して崩御し、元明天皇が即位したのは、柿本人麿が死ぬ直前の西暦707年である。

その間、持統天皇の慰撫工作によって不気味な静けさが保たれていた東国地方に、不穏な動きが見えはじめたのは、人麿が死んだ708年の夏からである。

「エミシの反乱がいつ起きるかも知れない」といううわさが都のちまたに流れ始めた。

民心は大いに動揺していた。だが、誰よりも恐怖に震え始めたのは朝廷の人々であった。

それもそのはず。うわさの発端を作ったのが、ほかならぬ太朝臣安万侶(おうのあそみやすまろ)だと、まことしやかに言いふらされていたからである。

安万侶の父は、壬申の乱にもっとも目覚ましい活躍をした将軍、多臣品治(おほのおみほむぢ)その人であったから、朝廷は大騒ぎになった。

*太朝臣安万侶→古事記の編者。天武天皇が皇室の系図「帝紀」と昔物語を書いた「本辞」の誤りを正すため、稗田阿礼(ひえだのあれ)に暗記、解説を下命。天武天皇が亡くなった後、元明天皇から和銅四年(711)、稗田阿礼が暗記した事実の編さんを命じられた安万侶は、古事記三巻を蓋して翌五年正月、献上した。この後、舎人(とねり)親王とともに日本書紀の撰にも当たった。安麻呂とも書く。昭和54年1月、奈良市内で墓誌が見つかり、実在が裏付けられた。

 
苦悩する太朝臣安万侶
 

「隣」という漢字は「トナリ」と訓(よ)む。その語源は、中世韓国語「トブナソリ→トナリ=扶(たす)ける人」である。

このことは、古代の人々が他の動物や自然の脅威と戦いながら生存するためには、すぐ隣にいる人と、互いに助け合いながら生活を営まなければならなかったことを裏付ける。

漢和辞典に「隣」は「左右の補弼(ほひつ)・たすけ」とあるのも、このような理由からである。

古代には「舎人」と言う身分の人がいた。「トネリ」と訓むが、これの原型も「トナリ=扶ける人」であった。

それが、母音交替して「トネリ」と言われるようになった。

「舎人」は皇族や貴族の側近に仕える侍従たちの呼称だが、特に皇后には、地方の豪族から差し出された青少年たちで構成された「内舎人=ウチトネリ」というのがあった(地方豪族が差し出す若くて美貌の女性舎人は「釆女=ウネメ」と言われた)。

天皇と皇后の近くに、昼夜交代で侍る舎人が宿直(とのい)するのは、古くからの習わしであった。

そのような舎人たちには、みな地方豪族の出身で、容貌端正な十五、六歳から二十歳前後の者が選ばれていた。

彼らは一定の期間、皇居内にとどまりながら、天皇や皇后の身の回りの雑用と警備の役目にあたる。

これが制度化されたのは、文武天皇の大宝元年(701)6月からである。

大伴家持も若いとき、内舎人となっていたことから、彼が端正な容貌の持ち主であったことを知ると同時に、多くの女性が彼に恋歌を贈った理由も納得がゆくのである。

天武二年(673)2月29日、太極殿で論功行賞が行なわれたあと、地方豪族の勢力を抑えこむ必要を切実に感じた天武天皇は、石上麻呂が言上した「甲扇の策」を内々に推し進め始めた。

壬申の乱でもっとも軍功をたてた二つの強大な勢力を、小さく寸断しようとするこの目論見は、万が一、露見して失敗でもすると、新しく誕生したばかりで基礎固めがなっていない天武王朝の命取りにもなりかねない一大事である。

だからこそ、この計画は天皇と石上麻呂以外は誰にも知られない極秘中の極秘政策であった。

だが、誰も知るはずのない天皇の動きを知っている者がいた。

それはこの日の当番にあたっていた吉備舎人(きびのとねり)である。

吉備舎人は天武天皇の母の実家から差し出されていた青年である。

たまたま当番だった彼は、天皇の居室の隣の部屋に待機していたところ、石上麻呂と天皇の密談を偶然耳にしたのである。

事のあまりな重大さにびっくりした彼は、この一大事を実家の方に早く知らさなければならないと気をもむのだが、宮廷勤めがあける676年末までは吉備に帰ることは許されない状態にあった。

宮中の奥には、外部の人の出入りは厳しく禁じられる。たとえ、誰かが許されて、内舎人の居所に近づくことがあったとしても、このような重大なことを滅多に口外することも出来ない。

彼はあせった。

吉備舎人のあせりをよそに、年月はどんどん流れ、天武四年(675)4月も8日になった。

この日、朝廷では「小錦上当摩公麻呂と小錦下久努臣麻呂の両人に、宮中に参内することを禁ず」という異例の勅令が出されたうわさで、大きく揺れ動いた。

皇居の奥にこの話が伝わらないわけがない。

この話を聞いた吉備舎人は「来るべきものがついに来た、もう一刻の猶予もならない」と思いつめた。

「どうすれば、一刻も早く、この一大事を吉備国に伝えることができるか?」

悩みに悩んだ吉備舎人は、とうとう自分の生命を捨てる覚悟をせざるをえなかった。

機会をうかがっていた彼は、この年の11月3日の夜、ひそかに宮中の東にある小高い岡の上に登った。

さなきだに静かな宮廷である。

みなが深い眠りに落ち込んだ深夜の官の内は、針が落ちても聞こえるほどの静寂に包まれている。

吉備舎人は二、三度大きく息を吸い込んだ。目をつぶった。

ふるさとの山川がまぶたのうらに走馬灯のように映る。

父・母の顔、弟や妹の顔、そして幼友達の顔……。

「さようなら……」吉備舎人ほ何度もつぶやいた。

そして、もう一度大きく息を吸いこんだ。

「吉備と越にゆかりのある方は、良く聞きたまえ! 朝廷は、遠からず、吉備と越を分断して、無力にする計画を、極秘に進めている。もう一刻の猶予もない。この一大事を国もとに伝えて、難を避けませ!」

眠りこけていた宮中の人々は、突然聞こえる大音声に目が覚めた。

「あれは誰だ?」

「いったい、どういうことだ !」

部屋を飛び出した人々は、右往左往しながら、とんでもない事を聞かされて驚いた。

だが、次の瞬間には、各々耳を塞ぎながら、部屋に駈け戻ってしまった。

「あんなことにかかわりあったら、どんな目にあうかも知れない……」という恐怖が、暗やみを包み込むと、周囲は再び静かになった。

「げぇっ……!」

心臓が凍るような音が、その静寂を破った。

人々は真っ青になって戦慄した。

だが、音はそれまでであった。

翌朝、岡の上には、自ら喉を刺して息絶えた吉備舎人の屍が横たわっていた。

日本書紀には、天武四年十一月三日の条に「人ありて、宮の東の丘に登りて、妖言(およづれごと)(人をまどわす言葉)して、自ら刎(くびは)ねて死ぬ。この夜にあたりて直(とのい)せる者に、ことごとく爵一級(かうぶりひとしな)賜う」という不思議な記録が残されている。

その夜、宿直したもの全員に、なぜ一階級特進の恩典が与えられたのか、永遠の秘密に葬られた。

石上麻呂が新羅から帰ったのは、天武六年(677)2月である。

石上麻呂は──太陽信仰族であり、伽耶の一部族であった「斬廬(しろ)」が、熊信仰族である百済の脅威から逃れるために「金(熊信仰族の姓で、カマ→コマ→クム→キムと称される)」を自称するようになったこと。そして、次第に強大になった彼らが、503年、ついに国号を「新羅=シンラ(新しい神の国、の意)」と改めたこと。さらに、545年には、王権の強化を目的に、初めて国史の編さんをしたこと。その国史には、宗主国であった「伽耶国」の歴史を改ざんして、古代から「新羅」が大国で、周囲の国々に先んじて建国されたように記録させたこと──などなどを報告した

 

天皇はただちに同じような史書の編さんを始めることを決心した。

「上様、各氏族はそれぞれの伝記をもっています。それをそのまま残しては、新しく編さんする国史の意義はなくなります。したがいまして、まずそれらを献上させて焼き捨てることから手を付けなければなりませぬ」

「うむ、麻呂の言うとおりだ。それにしても、国史の編さんは誰に命ずればよいだろうか?」

「まず、漢文に長じたものでなければなりませぬ。が、それよりも大事なのは、そのような者を、もっとも強力な氏族のなかから見い出すことでありましょう」

「うん……? もっとも強力な氏族だと、朕の一族をおいて他にないが……」

「さようにございます。ですが、恐れおおいながら、上様直系のほかは、今後(敵対勢力)とお考え頂かねばなりませぬ。皇位を狙う者は、必ず、ほかならぬ御親族の身内からあらわれること、古今の歴史が証明しております。甲扇の策は、それを未然に防ごうとするものであります」

「では、どうすれば良いと言うのじゃ?」

「御親族の中でも〈オウ〉氏の勢力は、他のものと比べものにならないはど強大であること、言うまでもありません。その〈オウ〉氏のなかから、新しい国史の編さん者をお見付けなさいませ」

〈オウ〉の者が書いた国史であれば、その部族の間に異存を申し出すものがいなくなると言うのだな?」

 

「まさにそのとおりでございます」

太安万侶(おうのやすまろ)が、天武天皇の居室に喚(よ)ばれたのは、それから間もなくのことであった。

「安万侶、久しぶりじや。近う参れ。ますます立派な丈夫(ますらお)になった。父も堅固に過ごしているかの?」

「はい、温かいお恵みに預りまして、元気に毎日を送っております」

「うん、そうか。それは目出たいことだ。さて、今日そなたを喚んだのは、ほかでもない。他人には任すことのできない重大な役目を、そなたに任せたいと思っての」

「恐れいったお言葉、安万侶、身にあまる光栄に存じます。小臣、徴才薄学ではありますが、上様のためならば、いかなることであっても、見事やりとげてご覧にいれる所存であります。何なりと仰せつけ賜わりませ」

天皇は続けた。

「そうか、それで安堵した。実は、そなたも知ってのとおり、諸民族には各々その家に伝わっている伝記がある。ところが、聞くところによると、それらの伝記の内容がまちまちで、氏族ごとに虚実を加筆して、互いに優位を誇り競う風潮がまん延しているそうじや。それを今、改めておかなければ、遠からず真偽の区別がつかなくなる恐れがある。そのようなことを正しておくことこそ、皇家のすべからくなすべき責務である。そこで、帝紀を撰録して、誤りを糾(ただ)して失(なく)し、真実のみを後世に伝えようと思う。さいわい、舎人の一人に稗田阿礼(ひえだのあれ)なる者がおる。この者すこぶる強記(暗記力が良い)で、古(いにしえ)の真実をことごとく誦(よ)むことができる。その方、阿礼の誦読する内容を撰記(よくえらびしる)して献上(たてまつ)れ。良いの!」

「はい、畏(かしこ)まりてございます。御命のとおり記述のうえ、奉り申し上げます」

この時、このことが将来どのような事態に発展することになるか、神ならぬ身の安万侶が、知るよしもなかった。

「太安万侶」の「太」は「オウ」と訓む。「オウ」氏は、「多」「大」「高」または「太」で表記されるのが通例であった。

今日の我々は漢字に慣らされて、漢字の形にとらわれやすいが、古代においては、訓(漢字の意味)のはうが重要視される傾向があった。

安万侶の父「多臣品治」の姓が「太」ではなく「多」であるのもそのような理由からである。

大海人皇子の実父で、宝皇女(斉明天皇)の前夫の名は「高向王」である。

日本書紀は、これを「タカムク王」と訓ませているが、正しくは「オロ王」である。

「高」は「オ」と読み、「向」は方向をあらわす接尾語「ラ」の母音交替形「ロ」である。

大海人皇子が吉野を脱出しようとしたとき、最初に下した命令は「美濃国の安八磨郡(あはちまのこおり)の湯沐令多臣品治(ゆのうながしおほのおみむぢ)に事態を説明し、まずその郡の兵をおこすと同時に、諸軍(もろもろのいくさ)を差し起こして不破関を防ぐようにせよ」ということであった。

つまり、他の誰よりも頼みにしていたのが安万侶の父であったわけである。

湯沐(ゆの)とは中宮や東宮に与えられた食封の一種であり、令(うながし)はその地域を管理支配する責任者のことであるから、安万侶の父がどれだけ大海人皇子の信任を受けていたか十分知り得る。

多臣品治はそのような命令を受けるや、ただちに三輪君子首(みわのきみこびと)や紀臣阿閉麻呂(きのうみあへまろ)らの諸将とともに数万の兵を率いて伊勢の大山から大和の方へ進出した。

大海人皇子は7月2日、多臣品治に、三千の兵をもって「タラ野(所在不明)」に駐屯するよう特に命じている。

壬申の乱でもっとも目覚ましい活躍をした近江側の将軍、別将田辺隅小隅(すけのいくさのきみたなへのをすみ)は、7月5日、鹿深山(かふかのやま)を越えて、倉歴(くらふ)道を守っていた田中臣足麻呂(たなかのおみたりまろ)の軍営を夜中に急襲して、これを全滅させたあと、明くる日の6日、その余勢をかって、品治(ほむぢ)の駐屯していた「タラ野」を突破しょうとした。

だが、品治は精兵をもってこれを大破したので、小隅独りが、やっと逃げのびることができたという。

この戦が、吉野側にとっていかに重要なものであったかは、持統10年8月、品治は「堅守関の功」を讃えられ、直広壱(ぢきこういち)の位と物を賜わったと記されていることからも、うかがい知ることができよう。

 

さて、大海人皇子がそれほど信頼していた「多臣=おうのおみ」氏族。

大海人皇子の命令一言で、数万の軍勢をただちに動員できるほどの驚くべき勢力をもっていた「オウ」の氏族とは、一体どのような背景の部族なのだろうか?

まず、品治の父、つまり、安万侶の祖父から調べてみよう。

安万侶の名は蒋敷(こもしき)で、天智即位前紀、七年九月条に、この人の妹を百済の王子「豊璋(ほうしょう)」の妃にしたという記事がのっている。

一国の王子に娘を嫁がせるほどの家柄であるからには、よほど格式の高い氏族であることをうかがわせる。

さらに新撰姓氏録を覗いて見よう。

すると、多朝臣(おうのあさみ)は神武天皇の皇子、神八井耳命(かむやるみみのみこと)の子孫であるという。

和州五郡神社神名帳によれば、その神八井耳命は、大和(奈良)磯城(しき)郡多村大字多の延書式内「多神社」の祭神で、神武天皇と一緒に祭られている。

記紀における「神武天皇」は、日本の最初の天皇であり、実在した人物というよりは、皇祖を象徴する存在であると考えるほうが納得しやすい。

そうだとすると、日本列島の最初の権力者である神武天皇が、「オウ」氏族の先祖ということになるのだが、「オウ」氏は、代々「吉備津彦神社」の神官職を勤めている多氏とも一族である。

彼らは江戸時代初期、同族の藤井大蔵が、姓を「太美(おうみ)」と表記するようになってから、今日までも「太美」姓を名乗っているという(『吉備王国の崩壊』井上高太郎著、新人物往来社九五ページより引用)が、各地の多神社・太神社は「オウ」氏の祖神を祭っている。

一方、越前(福井)高向郷は、継体天皇の出身地である。

継体即位前紀によれば、応神天皇の五世の孫である彦主人王(ひこうしのおほきみ)の妃は、今の福井県坂井郡三国町出身の振媛(ふるひめ)であった。

振媛は夫が亡くなったあと、幼い男大迹王(おほどのおほきみ)(継体天皇の幼名)を連れて、越前の高向(今の坂井郡丸岡町近辺)に帰った、となっている。

その地名を姓とする高向氏族は、蘇我氏と祖先を同じくする(国邑志稿による)名門といわれる。

ところが、その蘇我氏は、新撰姓氏録によれば、武内宿称の一門である。

武内宿称の名は、景行天皇の時代から応神時代までも続いていることから、これが個人の名ではなく、部族の名であることを推察できるが、「スクネ」は「スクナヒコ」と同じく、出雲国が本拠であった。

このようなことを総合してみると、「オウ」氏は、古代出雲国から越国(こしのくに)と吉備国までを含む広大な地域の覇者であったことが明らかになる。

このような「オウ」氏の勢力の実態を誇示しているのが、福井県地方に散在する四千あまりの古墳群である。

特に、太田山の方形古墳(二号)からは、緑色の繊細な管玉が、501個も発見されており、その鑑定から、問題の古墳は三世紀半ばのもの、つまり、女王卑弥呼と同じ時代につくられたものであることが判明している。

 

このような考古学的資料はしばらくおき、記紀の記述に目を転じてみることにしよう。

安万侶に、稗田阿礼の暗唱する帝皇日継と先代旧辞を撰録せよと命じた天武天皇は、新しい国史が編さんされてくるのを一日千秋の思いで待っていた。

ところが、ことはそう簡単ではなかった。

新国史が勅命によって編さんされるといううわさが広まるや、多くの氏族の間に懸念と反発の声が高まった。

「天皇は自らの一家の栄光を書き残すために、先祖代々伝わって来た我々の伝承を抹殺しようとするのか ! それだけほ断じて許せない」

このような激しい波紋のなかで、とくに、その編さんを委ねられた安万侶の一門からは、公然と天皇を非難する声が聞こえてくる有り様であった。

壬申の乱でもっとも大きな役割をした安万侶の父は、「オウ」氏の族長でもある。

 

その「オウ」の一族が、自分らが何よりも誇りとして来た一族代々の伝記を、行く行くは族長になるはずの安万侶の手で汚されようとすることを、放っておくわけにはいかないと、一族こぞって憤激しはじめたのは、むしろ当然のことと言えよう。

安万侶が阿礼の口から聞かされた新国史の内容は、「多氏古事記」の内容を完全に否定するものであっただけに、一族の間には、武力による抗争を主張する過激派も出てきていた。

そして、ついに彼らは行動を起こし始めた。安万侶を監禁してしまったのである。

 

天武十年(681)3月17日、天皇は大極殿で緊急会議を開いた。参加者は川嶋皇子・忍壁皇子(おさかべのみこ)・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下毛野君三千(かみつけのきみちち)・小錦中忌部連首(いむべのむらじおびと)・小錦下阿曇連稲敷(あづみのむらじいなしき)・難波連大形(なにわのむらじおほかた)・大山上中臣連大嶋(だいせんじょうなかとみのむらじおほしま)・大山下平群臣子首(だいせんげへぐりのおみこびと)の十二人である。

会議は太安万侶が一族の者のためにら致されてしまった非常事態と、それでもなお強力に推し進めなければならない新国史編さん事業について密議をするためである。

会議の内容は極秘を要する。本来ならば、身分の低い史人(ふひと)が、会議の進行内容を記録するのであるが、この日は、大山上と大山下という高い身分の大嶋と子首が、会議の記録に直々にあたったと日本書紀は特に記している。

安万侶を監禁してしまった「オウ」の一族の手をかりないで、皇子らを中心に新しい国史の編さんをどうしても強行しようとする天皇の意志のあらわれである。

だが、このような天皇の決心にもかかわらず、新しい国史の編さんはまったく進まなかった。

 

結局、天武天皇は、その存命中、ついに古事記の完成どころか、進展さえ見ることができないまま崩御してしまった。

そのあとを継いだ持統天皇は、亡き夫の遺志をなんとか成就させようと心を砕く日々が続いたが、やはり諸民族の根強い反発には勝てなかった。

持統紀五年八月十三日条には、天皇が十八の氏たちに、それぞれの祖先に関する記録を提出するように命じたと記されている。

新しい国史の編さんに、なるだけ彼らの伝承を織り込むことによって、事業の推進を図ろうとしたのである。

 

だが、各氏族の伝承を生かすということは、皇室が意図する新国史の目的自体を断念することを意味する。

新しい国史は、何が何でも、壬申の乱で成立した天武系皇室が、万世一系の皇統の正当な継承者であることをうたわなければならない。

 

そのためには、父違いの弟である天智天皇を、そのあとに皇位に登った天武天皇よりも年上のように記録しなければならないという屈辱さえも、甘んじなければならない。

そればかりではない。

「金」を名乗っていた天智王朝「宿祢(スクネ、スクナ)」(新羅では「昔」と表記している)を名乗る天武系を、あたかも同じ血族のように仕立てなければならない。

「スクナ」つまり、出雲国出身である天武系は、ほかならぬ「オウ」氏族なのである。

皇位継承の正統性を主張するためには、祖先の姓までも捨てようとする皇室の態度を、「オウ」の一族が座視するわけにはゆかない。

権力を維持しようとする現実的欲望と、血統を尊重しようとする同族の理念とは、どうしても相容れることのできない立場であった。

このように深刻な「オウ」族内部のあつれきは、持統天皇の時代から文武天皇の時代が終わるときまで絶えることなく続いた。

そのままの状態では、新しい国史の編さんは絶望であった。

天武天皇以来、三代の天皇がどうしても突破することのできなかったこの堅い障壁を、武力をもってとり払いにかかったのは、元明天皇である。

 

元明天皇は、持統天皇の腹違いの妹である。

彼女は自分の子である文武天皇が亡くなり、その皇子(後の聖武天皇)がまだ幼いために、自身が皇位に登った。

ときに彼女は46歳であった。

天皇は、歴代の天皇がついにやり遂げなかった国史編さん事業を、いかなる手段をもってしても、自分の代に成就させねばならないと決心した。

まだ幼い孫が即位するときまで、この頭痛の種を残しておくわけにはいかないと、人一倍孫思いの祖母は心に決めたのである。

この気丈な祖母は、即位したばかりの708年(和銅元年)3月、新羅から国史編さんの手法を習ってきた張本人である石上麻呂を左大臣に昇進させると同時に、藤原不比等を右大臣に、大伴安麻呂を大納言にそれぞれ任命することによって、内外に対する強い姿勢を打ち出した。

そればかりではない。

今まで恐れられていた吉備国や越国・出雲国・陸奥国など各地域の責任者も一新させて、朝廷の断固とした態度を見せ付けている。

そして明くる年の709年3月、ついに行動を開始し始めた。

巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍とし、佐伯宿禰石湯(いわゆ)を征越後蝦夷将軍、紀朝臣諸人(もろびと)を副将軍にそれぞれ任命して、軍事作戦を展開した。柿本人暦が亡くなった翌年のことである。

先に、天武天皇は「およそ政(まつりごと)の要(ぬみ)は軍事(いくさごと)なり」(六八四年四月五日条)と言明して、天武王朝が力の政治を行っていくことを宣言したことがあるが、元明天皇はまさにその忠実な実行者であった。

 

712年9月18日、太安万侶は、再び朝廷に呼び出され

天皇はもう一度「阿礼の言うとおり、勅語の旧辞を撰録して献上せよ」と厳命した。

安万侶に選択の余地があろうはずはなかった。

古事記が完成したのは、711年の正月28日、勅命が下ってから、たった130日目である。

 
その古事記に「太安万侶」の名を残すことによって、「オウ」氏の正統な古事記である「多氏古事記」は、この世から永遠にその姿を消したことになる。
 

一方、このように、陸奥・出雲・越の三地域に討伐の軍を差し向けて、問題の解決は、武力をもってしても強行する意志を表明した天皇は、宮廷の防備にも細心の注意を怠らなかった。

711年9月、安万侶の新国史(古事記)編さんが始まる時と前後して、天皇は宮廷の警備にあたる者どもに、武芸の習得を督励するとともに、不慮の攻撃に備えるよう、特別な訓令を出していることも、注目にあたいする。

 

日本最初の国史「古事記」は、このような試練と難関を経て、天武王朝が始まってから40年目にして、やっと日の目をみることになった。

だが、元明天皇はその出来栄えになおも不満であった。二年後の714年2月、天皇は紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂を呼んで、さらに新しい国史を編さんするよう詔勅を下している。

古事記がたった130日で出来上がったのに対して、日本書紀は詔勅が下りてから六年を費やして、720年に完成されている。

以来、古事記よりも日本書紀の方が、皇室の正史として重要な役割を担うことになった。

だが、抹殺された「多氏古事記」には、一体どのようなことが書かれていたのだろうか?

 
オロチ退治
 
このように古事記と日本書紀の編さんは、天武王朝の基礎造りのために、多くの部族らの伝記・伝承を抹殺しながら、諸氏族の猛烈な反発を抑えつけるなかで強行されたものである。

だが、この二冊の史書を読む人たちにとって、どうしても不思議に思えてならないことがある。

それは、記紀ともに天武天皇の直系である草壁皇子の妻、元明天皇と、その皇女である元正天皇の時代に編さんされたものであるばかりか、年代的に言っても、たった八年の短い期間に前後して完成されたものであるにもかかわらず、その内容に大きな違いがあるのはどうしたことだろうか、ということである。

「安万侶は、古事記を撰録した人であるから、彼が書紀の編さんにも関与したとすれば、もっと古事記を主張するような形が書紀にあらわれるべきではなかろうか。ところが、周知のとおり、書紀の内容を見ると、古事記に概して無関心であり、故意に無視したような所も見える。古事記に精魂をこめた安万侶が、こうした書紀の編集態度を是認したであろうか」

 
これは、先年亡くなった日本古代史界の元老、坂本太郎氏が、岩波書店の『日本書紀』の解説に書き残した言葉である。

ところが、そのような疑問は、「日本書紀の編さんには、安万侶の関与が許されていなかった」と考えると、簡単に納得がゆくことである。

 

どうしても納得のゆかない点は、むしろ、「どうして、古事記と日本書紀の両方に、ヤマタのオロチ退治神話が、あれだけ克明に記述されているのか?」ということである。

なぜならば、古事記と日本書紀は勅命によって編さんされた国史であるから、そのなかに記録されている事柄は、たとえそれが数字または一行をもって書かれていても、皇室の威厳を象徴するようなものでなければならないはずである。

ところが、この「ヤマタのオロチ退治」物語は、誰がどう見ても、非現実的な「神話」以上の何物でもない。

そのような神話がどうして皇室の威厳を宣揚する効果をあげることにつながるのだろうか?

日本書紀の編さん者は、「古事記の内容を無視するような編集態度である」にもかかわらず、どうして子供向けの昔話のようなこの物語だけが、後生大事に見習った書き方をされたのだろうか? 

いや、その何よりも、記紀の編さんを命じた皇室が、どうしてこのような「童話」まがいのものを、国史のなかに収めることを黙認したのか?

いや、古事記と日本書紀の両方に、かなりの紙面をさいてこのことが記述されているということは、とりもなおさず、この物語の内容が、皇室にとって、非常に重要なものであり、子孫万代に語り継げられるべきことがらであることを意味する。

したがって、「この神話だけは、どんな無理をしてでも、日本書紀に載せなければならない」と、編集者に厳命したのだと考える方が正しいのではなかろうか?

 
古事記と日本書紀の内容が、王権の強化を狙いに編さんされたものであるからには、そのなかに、皇室にとって望ましくないことを書き込むことは許されなかったと考えるのに無理はないだろう。

逆にいうと、記紀に書き残された事柄は、皇室側から見て、誇らしく、かつ、有利なものでなければならなかったはずである。

だとすると、なぜこの神話が、皇室にとってそれほど大事なものなのだろうか?

726年の春、元明天皇の命をうけて、出雲国に下向した金大理(出雲国風土記の編さん執筆老)の旅嚢(のう)のなかにも、古事記と日本書紀の写しが入っていた。

金大理は道々考えた。

古事記編さんの発想は、石上麻呂が新羅から帰って釆た677年に始まった。

ところが、命をうけた太安万侶は、四年たってもそれを完成させなかった。

業をにやした天武天皇は川嶋皇子ら12人を召して、新しい国史の編さんを急ぐように、さらに詔勅を下している。

それが682年。

ところが、古事記が完成したのは712年であるから、新しい国史編さんには30年の長い月日がかかったことになる。

 

そして今は出雲国風土記

これを提出するように勅命が出たのは、古事記が完成された明くる年の713年であるが、13年たった今もなお、出雲国はそれを提出していない。

「オロチ退治」神話の舞台である出雲国の風土記には、どのようなことがあっても、それと同じ内容の神話を書かせようとする朝廷と、それに抵抗する出雲の臣(おみ)らが、互いに譲らないからの遅延である。

一体、「オロチ退治」とは、何なのだろうか。

皇室は、720年に出来上がった日本書紀にも、この荒唐無稽に見える物語を盛り込んでいる。

そして出雲国風土記にも、同じことを書かせようとやっきになっている。

なぜ朝廷は「オロチ退治」に、それほどこだわっているのだろう?

 
その理由を探り出さないかぎり、出雲国の人々との交渉は、円満にまとまる可能性はないように見える。

そうするには、それを書いた安万侶に聞くのが手っとり早いのだが、彼ほ三年も前(723年)に死んでいる。

残された方法は、「オロチ退治」の現場を実際に検証するよりはかにない。

まずそこへ行って見ることだ。

それから七年、金大理は出雲国の臣らと、冷たい戦いを続けるかたわら、暇を見付けてほ斐伊川のほとりを上流の方へ遡って見た。

そしてまた、考えた。

日本書紀より早く書かれた古事記には、高天原(たかまがはら)を追われたスサノオノミコトが、出雲国の肥の川上にある「鳥髪(とりかみ)」の地に降りたとある。

だが、日本書紀の一書には、新羅の国「曽尸茂梨(そしもり)」にまず降りた、という。

ところが、そこには「住みたくない」と言って、船に乗り東の海を渡って、着いたところが「簸の川上の鳥上(とりかみ)の峰」だという。

記紀の記述について、金大理は考えつづけた。

スサノオノミコトが「新羅の国に住みたくない」と言ったということは、彼が「伽耶」の出身であることを陪示するものだろう。

「伽耶」の一部族国であった新羅が、勢力を伸ばし始めたのは、六世紀の半ば頃からだから、先進「伽耶」の人にとって「新羅」が住みよいところであるわけはなかったはずだ。

船に乗って出雲にわたり、着いたところを「鳥上」というのは、古事記の「鳥髪」と同じ意味で、「ソシモリ」の表記なのだ。

「ソシモリ」とは、「ソ=高い(例 ソびえる=聳える→ソソる=(旺盛にする・高める))」+「モリ=頭・峰」のことで、「高い峰」のことに違いない。

「シ」は、「…で、…であるところの」という意味をつくる助詞であるから、「ソシモリ」は「ソノモリ=高いところの峰」であろう。

古事記と日本書紀の「鳥髪」と「鳥上」も「ソシモリ」のことで、「鳥=サ(古代朝鮮語。現代朝鮮語のセ)」と「髪・上=モリ(現代朝鮮語でも髪・頭を意味する)」が「サモリ→ソモリ(母音交替)=高い蜂」を意味するから「ソシモリ」と同じ表現なのだ。

「神様は天から山の頂上に降りてくる」と考えることが、このような表現の背景になっているのは分かる。

だが「オロチ」とは何だろう?

八つの頭と八つの尾をもった大蛇が、現実の動物であろうはずはないから、「オロチ」ほ何かを象徴しているものに違いないが……?

金大理が、「オロチ」の正体を知るようになったのは、それからかなり後のことである。

金太理はまず、大海人皇子がもっとも重要視していた三関(みつのせき)に注目した。

それらは、美濃の不破関(ふわのせき)・伊勢の鈴鹿関(すずかのせき)と、越前の愛発関(あらちのせき)であるが、越国(こしのくに)に「アラチ」山があり、そこの関を「アラチ」関と言う。

「オロチ」は越国から毎年同じ頃にやってくると言う。

越国からくる「オロチ」、そして、越国にある「アラチ」関。発音が酷似しているこの二つが、ともに「越国」と密接な関係にあるのはどうしてだろうか?

金大理は、それが「母音交替によって、ア←→オ、となったもので、元来は同じ言葉じゃなかろうか?」と考えながらも、「だが、オロチって何を意味するのだろう?」と悩み続けていた。

「オロチ」が「越(こし)の人」であることがわかったのは、まったく偶然のことであった。

ある日、陸奥国(むつのくに)からの客人と、四方山話をしていたときのことである。

客は雑談のなかで、越の男たちの「フンドシ」について話しながら、その風変わりな慣わしを笑った。

「その国の人のフンドシは、我々のと違います。まずその長さに驚きました。三尺あまりもあるんです。その作りがまたふるっています。一方の端を袋のように縫ってひもを通し、それを背の腰にあてて、ひもは前の方に結ぶのです」

陸奥国の客人は説明を続けて、

「そのあと、布を股の間から引き出して、前に結んだひもの内側を通して前に垂れるのは、我々と同じなんですが、我々のと違い、あまりにも長いので、端の両方にひもをつけて、それを首にかけなければならないんですよ。ははっはは」

その客は、さも愉快そうに笑ったあと、

「うちの国では、そのようなフンドシを(オロッべフンドシ=越の人のフンドシ)、または(オリベフンドシ)と呼んでいます」と付け加えた。

「あっ、それだ。(オロ)とは(越の国)のことだったのだ!(人)のことを(チ)と言うから、(オロチ)とは(越の人)のことなのだ !」

「オロチ」が「越の人」であることが分かった金大理が、次に考えなくてはならなかったことは「でも、オロチはなぜ毎年同じ頃に、斐伊川の流域に住んでいた人たちを苦しめたのだろうか?」ということであった。

金大理は、スサノオノミコトがしたのと同じように、斐伊川のほとりを上流の方へ遡って、鳥髪山(今の船通山)の麓までたどり着いた。

スサノオノミコトが、この蜂に降りたというのは、神の天降りを象徴するもので、高い山から神が生まれる(神生山=カミナハ山→カンナビ山)という信仰のあらわれだ。

「神が山から降りたとしたら……?」 

金大理は鳥髪山に背を向けて、下手(しもて)の方を眺めた。彼の目の前には、広々とした水田が横たわっている。

「あ、これだ!」

金大理は心のなかで思わず叫んだ。

 

「(オロチが毎年同じ頃にやって来た)という話は、毎年の秋、この平野から収穫される稲を奪い取るためにやって来た、ということだったのだ !」

金大理が次に解かなければならなかったことは、「オロチ族に毎年苦しめられながらも、稲作を長年続けていたクシイナダ姫の父母は、どんな部族だったのだろうか?」ということであったが、それは簡単にわかった。

その当時からすでに、村ごとに「稲荷神社」があった。

それは、何よりも大事な食糧の神、つまり「稲生(稲を育てる=イナリ)」神を祭る神社であるが、そこの祭神は「ウカノ神」である。

「ウカノ」とは「上加羅(うから)」が、ラ行→ナ行変化で「ウカノ」と変わったもので「上伽耶」のことだ。

食物の神のことを「ウケツ神」と言うのは、「ウカノ」の音韻変化なのだ。

 

だが、「クシイナダ姫の父母が、伽耶族なら、オロ族は……?」

尽きることを知らない金大理のこのような疑問は、「越」という国の名から、間もなく解けた。

 

「この国では(児=ア(韓国語))のことを(コ)という。それに、(欲)は(ほり)とも(ほシ)ともいう。だとすると(オロ→オリ)と変わったのが、(コリ)になり、続いて(コシ)になったことになる。(コリ)とは高句麗のこと(中国語ではカウリと発音される)だ。高句麗は寒いところだから、稲が育たない。だから稲作の知識をもっているはずがない。伽耶の人たちは、温かい地域で水利に恵まれた土地から来た人々だから、稲作を知っている」

「だから、オロチ族は、伽耶族から稲を奪っていたのだ」

「だが、伽耶族はなぜ、それに対抗できずに、いくじなく泣いてばかりいたのだろう?」

このような疑問も、「オロチの尾から神剣(アヤシキツルギ)が出た」という記述から、たやすく解答を得ることができた。

「スサノオノミコトの剣の刃がこぼれた」のは、その剣は青銅剣であったからである。

それに対するオロチの剣は、鉄製の丈夫なものだった。

 

高句麗は、中国にもっとも近接していたから、青銅器時代から鉄器時代に変わるのが、伽耶よりはるかに早かったのである。

 

このようにして「オロチ退治」なるものが、伽耶族による高句麗族討伐の勇壮な物語であることがわかった。

天武天皇も同じ伽耶の血族の一人に違いないが、皇位に登った後は、高句麗族と伽耶族が団結した強力な勢力を好ましく思わなくなった。

そこで伽耶族と高句麗族の間にあった古代の争いをことさらに書き立てて、その分裂を狙いたいのだ。

そうすることは、伽耶族を標榜する皇室による高句麗討伐の輝かしい物語を、子孫万代に言い伝えることになる。

ところが、出雲の地方では、その後、高句麗族との混血が円満に進み、高句麗と伽耶の両部族は「オウ」と称するようになった。

それは「オロ」の「ロ」が、「ウ」に変化したからであった。

今は身内になった高句麗と伽耶の人々、つまり、出雲の人々が「オロチ退治」の物語を風土記に入れたくない理由は、これで十分わかった。

 

金大理が73年2月30日に完成させた出雲国風土記に、オロチ退治の物語を、はっきりと挿入しなかったのも、このような事情がよく分かるようになったからであった。

 
…朴 炳植著「消された多氏古事記」より
 
【朴 炳植(パクピョングシク)】
1930年,北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の咸鏡北道鏡城に生まれる。高靂大学校礎営大学院修了。韓国で海外建設会社を経営の後,古代言語研究生活に入る。現在 島根大学講師著書に『ヤマト言葉の起源と古代朝鮮語』(島根総合研究所),『日本語の悲劇』『日本語の成立証明』『日本原記』(情報センター出版局),『日本語の発見』『万葉集の発見』(学研),『ハツケヨイ!ハングル』『クマソは何語を話したか』『スサノオの来た道』『出雲風土記の謎』(毎日新聞社),『万葉集枕詞辞典』(小学館)など。
 

オロチ退治伝説の地を訪ねて

 
赤川により真っ二つにされた草枕山
 
草枕(くさまくら)雲南市加茂町神原
 
斐伊川と赤川の合流点に近いところに位置する草枕山は、八塩折の酒(やしおりのさけ)を飲んだヤマタノオロチが、苦しんで枕にして寝た山であるといわれています。

赤川は安政年間まで草枕山を迂回して斐伊川に注いでいましたが、度重なる水難のため山を真二つに切り開き流れを変え、現在に至っています。

 
八口神社の神域
八口神社
 
八口神社(やぐちじんじゃ)雲南市加茂町神原98
 
出雲国風土記には、「矢口社」と記載されています。また延喜式には「八口社」と記載されています。

須佐之男命が八俣大蛇の八つの頭を斬られたにより八口大明神といわれた。

また、八塩折(やしおり)の酒に酔い草枕山を枕に伏せっているところを、男命(みこと)が矢をもって射られたので矢代郷、式内社矢口社という。

 
大蛇の尾を開いて宝剣を得られといわれる、斐伊川と赤川の合流地点の田園風景。
兵陵中腹にある尾留大明神旧社地
御代神社…地元の人は「みよじんじゃ」と呼んでいる
 
尾留大明神旧社地(おとめだいみょうじんきゅうしゃち)
雲南市加茂町三代
 
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の発祥地である。

八塩折(やしおり)の酒(さけ)に酔いつぶれた大蛇を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、この御立薮(おたてやぶ)で大蛇の尾を開いて宝剣を得られたが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と名づけて天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上になり、後、三種の神器の一つとして今も名古屋の熱田神宮に祭られている。

この御立薮(おたてやぶ)(現在は畑地)は須佐之男命(すさのおのみこと)と稲田姫を尾留大明神(おとめだいみょうじん)と称し広く崇拝されていたが、斐伊川の氾濫により、延亨元年(1744)、約200メートル南方のここ大津の兵陵中腹に移転。

明治4年に御代(みしろ)神社と改称され、更に大正元年日吉神社地に移転合祀して今の御代(みしろ)神社(南方500メートル)となっている。

 
八本杉
大蛇退治古戦場
 
八本杉(はっぽんすぎ)雲南市木次町里方
 
出雲神話での主役は須佐之男命と八俣大蛇ですが、この八本杉はその古戦場です。

古事記の八俣大蛇退治には、体が一つで頭が八つ、尾が八つの大蛇を退治し、その八つの蛇頭をこの地に埋めて、記念に八本の杉を植た場所といわれています。

 
スサノオノミコトとヤマタノオロチが対決した場面を再現した石像と「箸拾いの碑」
 
八俣大蛇公園(やまたのおろちこうえん)雲南市木次町新市
 
古事記(712年)によれば、出雲神話は高天原を追われた須佐之男命が、肥河(ひのかわ)の上流、鳥髪(とりかみ)の地に向かう途中、上流からはしが流れてきたので訪ねてみると、足名椎(あしなづち)・手名椎(てなづち)の老夫婦とその娘櫛名田比売(くしなだひめ)から八俣大蛇(やまたのおろち)の話を聞き、これを退治した「ヤマタノオロチ退治」から始まります。

須佐之男命は大蛇を退治して、櫛名田比売と結婚し、須賀の地に宮を造り、「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに…。」の歌を詠み、八島士奴美神(やしましぬみのかみ)をはじめ、出雲系の神々をもうけ、子孫の大国主命(おおくにぬしのみこと)(大黒さま)の「因幡の白兎」、更に事代主命(恵美須さま)を交えた「国譲り」へと続きます。

出雲神話は、こうして須佐之男命が、斐伊川で流れ下る箸を発見されたところから幕が開く訳ですが、その場所は伝説などから当地とされ、現在「八俣の大蛇公園」となっています。

 
五代の森
佐世(させ)の木
佐世神社
 
佐世神社(させじんじゃ)雲南市大東町下佐世1202
 
古事記によれば、「八岐の大蛇」を征服した素豊嶋尊は此の地(佐世)の小高い丘を選び、稲田姫と一緒に勝利の御旗をあげたと伝承されてきました。

傍らの木の枝を手折りこれを頭に刺して勝利の歓声をあげながら踊躍(おどり)を舞いその時頭に刺した髪刺(かんざし)の小枝がぽとりと地面に落ちました。これを見た素羞鳴尊は即座に「サセ」と宜もうたと伝えられ、サセと即座に判断された素蓋鳴尊の言葉に因んで当地を是よりサセと号し以来「佐懶」「佐世」と記されるようになりました。

のち此の伝承の地は、天皇永代記念の地として、更に権力の砦として征服者素豊嶋尊を祀る「佐世神社」が誕生したのです。

此の他素豊嶋尊を祀る神社は各地に点在していると云いますのも、素豊嶋尊は出雲国平定後、出雲に良鉄のある事を発見し、斐伊川をさかのぽり雲南二郡の外、広く各地で砂鉄製鉄の業をも伝えたと言われ、伝説も数多く伝えられているからです。

佐世神社が創建されたのは五世紀前後の古墳時代の頃からと思われ、その頃、朝廷から派遣された白髪の部において是を知ることができます。

清寧(せいねい)天皇(480)の御代、名神とされる素豊嶋尊を永代記念するため天皇御名代として白髪王子とその部の民が派遣されていることは後に記述された「古事記」「日本書紀」に於て知ることができます。

是等の記述から見て、佐世神社は白髪王子の部の民に依り守り伝えられてきたことが「佐世神社」とその境内周辺の地名を白神(白神・白上共に白髪の借用)と称し、佐世神社は白神山に鎮座されていることなどに依り明らかです。

また素蓋鳴尊に伝承された「サセの木」の地に「佐世神社」を祀り、それが永代伝承されてきたのは白神山であり、素豊嶋尊に伝承された踊躍の地は白神山であったことも白髪の部により明瞭とするところです。以来此の地は佐世、白神と呼称も両用されてきました。

佐世神社の境内には五代の森があり、素蓋鳴尊が、佐世(させ)の木(ツツジ科の植物)の葉を頭に挿して踊っているときに、その枝が地に落ち、生長したといわれるシイの巨木があります。

新しく芽を吹き老いては又芽を吹く素晴しく達しい巨木で、是を素豊嶋尊に例えるにふさわしく、「佐世の木」として伝承された巨木です。

…白神尚彦・白神敏玲共著「獅子頭は語る」より

 
この地は巨大な霊感スポットである。

佐世神社宮司の白神尚彦さん宅に磁場が反転する場所がある。

磁石をその上に持ってくると南北が逆になった。

白神さんの話では、出雲の古い神社ではこのような現象は珍しいことではないという。

出雲の古い神社を探索するときには、磁石を持参すべし !

きっと、あなたと神様の対話ができる、霊感スポットが見つかるかもしれません。

 
布須神社
布須神社は甘奈備式のお社で拝殿の奥に磐座がある
 
布須神社(ふすじんじゃ)雲南市木次町宇谷367
 
建立の年代は不詳、当社は延喜式に記載のお社で出雲国風土記にいう布須社(ふすのやしろ)である。昔から人々に室山(むろやま)さんと呼ばれて崇拝されている。

風土記には「神須佐乃呼命(かみすさのおのみこと)御室令造給所宿給故云御室」と記されている。

神代の昔須佐之男命が八岐の大蛇を退治されたときに「八塩折(やしおり)の酒」を造らせられ御室(神の御座所)を設けて宿せられた所であるという。

神社は室山の南半腹に造営されており、太古から御本殿は室山そのものを御神体として崇拝する。

神社の麓には「釜石」といわれる神石があり、須佐之男命がここで酒を造られたものと言い伝えがある。

また、室山の裏側には「赤床」と呼ばれる場所があり、平安時代の初期から鎌倉時代(800〜1300年ごろ)にはここに「42坊」があって山岳佛教として栄えていたと伝えられ、今も昔の根跡をとどめる石の階段などが往時を物語っている。

 
釜石
 
釜石(かまいし)雲南市木次町寺領
 
御室山(みむろやま)にはスサノオノミコトとクシイナダヒメを祀る布須神社(ふすじんじゃ)があります。

その麓にある岩は「釜石」といわれ、スサノオノミコトがオロチ退治のときに「八塩折の酒(やしおりのさけ)」を造らせた釜跡であると伝えられています。

 
長者の福竹…現在畑になっていて中心に南天が植えてある
 
長者の福竹(ちょうじゃのふくたけ)雲南市木次町西日登
 
アシナヅチ、テナヅチとクシイダダヒメは、ヤマタノオロチの危害から逃れるとき、この地に立ち寄り休息されました。

使っていた竹の杖を地面に立てたところ、杖から根が出たことから「長者の福竹」という地名になったといわれています。

また、登った山の峰は「伴昇峰(ばんしょうがみね)」と呼ばれています。

 
八口神社神域
八口神社と壷神
石で覆われた「印瀬の壷神」
 
印瀬の壷神(いんぜのつぼがみ)雲南市木次町西日登1524-1
 
印瀬の八口神社(やぐちじんじゃ)の境内にある壷は、スサノオノミコトがオロチ退治の時に「八塩折の酒(やしおりのさけ)」を入れた八つの壷のうちの一つと伝えられ、「壷神さん」として祀られています。

昔土民がこの壷に触れたところ、俄(にわ)かに天はかきくもり山は鳴動して止まず、八本の弊と八品の供物を献じて神に祈ったところようやく静まったという。

村人たちは人の手に触れることを恐れ、多くの石で壷をおおい、玉垣で囲み注連縄(しめなわ)をめぐらし、昔のままの姿で昔のままの場所に安置することにつとめ、現在にいたっているものである。

 
大森神社境内
大森神社
 
大森神社(おおもりじんじゃ)雲南市木次町東日登1345
 
スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治してクシナダヒメを救い、結婚の約束をして須賀の地へ向かう途中、大森の地にしばし宿られ、婚儀の準備をされたといわれています。
 
河辺神社境内
河辺神社
河辺神社本殿
 
河辺神社(かわべじんじゃ)雲南市木次町上熊谷1462-1
 
スサノオノミコトの妻、クシイナダヒメが懐妊されたとき、産湯に使う良い水を探し求めたところ、「甚く久麻久麻志枳谷なり(いたくくまくましきたになり)」と仰せられ、河辺神社を御産所に定められたといわれています。

「久麻久麻志枳谷」は奥まった静かできれいな谷という意味であり、これから熊谷(くまたに)という地名がついたといわれ、「熊谷(くまがい)さん」と呼ばれる産湯に使う水を汲んだ井戸の跡も残されています。

 
天が淵
 
天が淵(あまがふち)雲南市木次町湯村
 
斐伊川上流、木次町と吉田町境にある天が淵は、ヤマタノオロチが棲んでいたところといわれています。
 
温泉神社
足名椎・手名椎神陵
温泉神社本殿
 
温泉神社(おんせんじんしゃ)雲南市木次町湯村1060
 
むかし、万歳山のふもとに住んでいた足名椎(あしなづち)と手名椎(てなづち)には八人の娘がいたが、天が淵に棲む八俣(やまた)の遠呂智(おろち)(大蛇)(大岐蛇)によって次々にたべられ稲田姫一人となった。

そこに須佐之男命が参られ遠呂智退治となる。須佐之男命は稲田姫を妻にむかえられ、国づくりがなされていく。

稲田姫の父神足名椎、母神手名椎を祭った二神岩(ふたごいわ)は万歳山の中腹にあるが、山崩れで参道道がなくなり、天ヶ淵の上に玉垣を設けて拝神していた。国道改修にともない、その神陵が温泉神社境内に遷座されたものである。

 
須我神社
須我神社奥宮参道にある御祓所
日本初之宮跡地の須我神社奥宮(磐座=いわくら)
 
日本最古の宮「須我神社」(すがじんじゃ)雲南市大東町須賀260
 
古事記は、肥河上(ひのかみかみ)で八俣遠呂智(やまたのおろち)を退治せられた速(はや)須佐之男命は、宮造るべき所を求めて此処、出雲国須賀の地においでになり、「吾此地に来まして、我が心須賀須賀(すがすが)し」と仰せになつて、此地に宮殿を御作りになりましたが、其地より美しい雲が立ち勝るのを御覧になり、
 
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
 

(雲までが八重に 湧き立ち 宮に八重垣を 作っている。 わたしたち二人を 寵らせようと 雲が立つのだ ああその八重の 瑞垣よ。)

の歌を詠んだとする。

尊の姫への思いが伝わってくる作品である。

即ちこの宮が古事記・日本書紀に顕われる日本最古の宮「日本初之宮」である。

そして、ここが「三十一文字和歌発祥の地」であり、この御歌の出雲が出雲の国名の起元でもあります。

又須佐之男命と奇稲田比売命の間の御子神が清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)で、この三神が当社の主祭神である。

出雲風土記(天平五年、西暦733年)では、此処を須我神社、須賀山、須我小川等の名に表現され、風土記抄(天和三年、西暦1683年)には須我村とあり須我は広く此の地方の総称であつたことがうかがえる。

須我小川の流域に、曽つて十二の村があつて、この須我神社は、この地方の総氏神として信仰されていたものであり、

また、須我山(御室山、八雲山)の山ふところには巨岩夫婦岩並びに少祠があり、須我神社奥宮(磐座=いわくら)として祭祀信仰されている。

須我山の主峰八雲山は、眼下に中海や宍道湖を見おろし、島根半島から弓ヶ浜、東方遥かには出雲富士(伯耆大山)を望む景勝地で、近年から頂上で盛大に行なわれる歌祭りをはじめ、四季にわたって全国各地から来遊の登山(参拝)者が多くなっている。

 
日本全国の観光温泉特産品グルメガイド 日本.全国.GUIDE「観光.温泉」ハイライトジャパン お問い合せはこちらへ→ info@tokusen.info