| 西暦639年に生まれた彼は壬申の乱(672年)のとき、33歳の男盛りであった。
生まれ付き人並みすぐれて頭が良かった麻呂は、大きくなるにつれてますます知謀がたくみになり、周囲から策謀の天才といわれるようになった。
日頃、奇想天外な言動をして同僚たちを驚かせる彼について、友人の間では「麻呂の胸のうちを知るものはない」とささやかれていた。
「人間誰でも一度は大きな機会に出会う。それをどのように生かすか、それが運命のわかれめだ」と口癖のように言う麻呂は、常に野心に燃えていた。
皇太子であった大海人皇子が宮廷を追われて吉野山に逃れたあと、五人の大臣どもに推戴される大友皇子が、次の天皇になること間違いないと見た麻呂が、この時こそ自分に与えられた一世一代のチャンスだと躍り上がって喜んだのも無理はなかった。
大友皇子の幼いときから、皇子の身の安全を守る護衛の役目を務めていた麻呂は、大友皇子から誰よりも厚い信頼を受けていたからである。
「麻呂、長い間の務めご苦労だった。いよいよ汝の忠誠に報いる時が来たぞ」
大友皇子のこのような言葉を聞きながら、「蘇我馬子一族の手によって滅ぼされた物部の栄光を取り戻す時は来たと、全身の血を沸かせた麻呂。
だが……。
西暦672年7月23日、不破から数万の兵を率いて近江に進撃してきた大海人皇子例の将軍、村国連男依(むらくものむらじおより)らは、大友皇子の最後の将軍犬養連五君(いぬかひのむらじいきみ)と谷直塩手(たにのあたひしほて)を粟津市(あはづのいち)に追い詰めて斬り殺した。
これによって近江側の抵抗は完全に終わった。
あとは、勝利者たちによる残党狩りが、いたるところで繰り広げられる。
焦げるように照りつける七月の太陽のもと、汗と血にまみれた敗軍の兵士は、火のような息をはきながら、活路を求めて必死に逃げまわった。
大友皇子も例外ではなかった、すでに周囲には、将軍たちも大臣たちもいなかった。
山前(やまざき)にたどりついたときに振り返って見ると、ついてきたのは石上麻呂と舎人(とねり)が一人いるだけだった。
「麻呂、ここで一息入れながら、日の暮れるのを待とう。暗くなれば、闇に隠れてどこか安全なところへ逃れることが出来る。さすれば、再起の道もおのずと開かれるだろうから、もう少しの辛抱だ」
肩で大きく苦しい息をしながらも、皇子はさすがに気丈だった。
「最後まで望みを捨てるでない。麻呂! いかなることがあっても、皇位は必ず守りとおさねばならない。汝だけが頼りだ。頼むぞよ、麻呂……」
しかし、運命の女神はすでに皇子に背を向けていた。
大友皇子が最後の瞬間まで、これほど生命の綱と頼った石上麻呂の胸の中に、悪魔の知恵が駈けめぐりはじめていたことを知るよしもなかったのは、残酷な悲劇であったとしか言いようがない。
汗の上にほこりがぬれて、目だけがのぞいて見える顔の麻呂は、とんでもないことを考えはじめていた。
「策謀」と「誠実」は、同じ星の下に住めない宿命にある。「策謀の士」石上麻呂の頭は、猛烈な勢いで回転しながら、どうしたらこの難局を有利な方に向きを変えさせることができるか計算をはじめた。
「大友皇子の運は尽きた。これから大海人皇子の世の中になること間違いがない。とすれば、今の大海人皇子にとって、最も喜ばれるものは何か、それを早く当てることだ。大海人皇子の最も欲しがるもの、それは……」
「皇子さま、人はどのような時でも、天命を悟ることが何より大事です。残念ながら、天下の大勢はもはや決まったのです。こうなった上は、いさぎよく自尽されるより他に道はないと思われます。およばずながら、私が介錯してさしあげましょう」
「もうすぐ日が暮れる。そうなれば、この危地から脱出することもそう難しくはない。天下をそうやすやすと大海人皇子に渡してなるものか!」と、心のなかでまだまだ闘志を燃やし続けている大友皇子は、この瞬間、自分の耳を疑った。
そして見上げる皇子の驚愕の目に映ったのは、丁重な言葉とは裏腹に、刀のつかに手をかけて見下ろす、石上麻呂の冷酷な目であった。
「麻呂、汝、まさか……」驚く皇子の声はかすれて聞こえなかった。
だが、表情を変えないまま仁王立ちになっている麻呂の姿から、最後の時が迫ったことを皇子は感じとった。
「麻呂、今の今まで、そちがそのような心の持ち主であることを見破れなかった俺が惨めじゃ。分かった。これで諦めもついた。そんなに欲しかったら、俺の首をくれてやろう。それでどれだけの栄華が買えるか、見ものよのう! だが、不義で勝ち得たものは、そう長く続くものでないことも覚えておくがよい。さ、参れ、麻呂!」
このようにして、学識の誉れ高かった大友皇子は、彼が最も信頼していた者に裏切られ、23歳の若い生命を自ら断った。
日本書紀には、大友皇子は自らの手で首をくくって死んだ、となっている。
だが、7月26日、不破宮に将軍たちが集まったとき、誰が「大友皇子の頭を捧げて、営(いほり)の前に献(たてまつ)った」のか、明らかにしていない。
天武天皇即位後、敵側に最後までついていた石上麻呂が、とんとん拍子に出世街道を登りはじめる。
676年には、天武王朝にとってもっとも重要な国交の相手である新羅に、遣新羅大使として派遣される。
681年には、早くも小錦下を授けられ、684年にはついに「朝臣」の姓そして、天武天皇が崩御したときには、殯宮(もがりのみや)に法官(のりのつかさ)のことを誄(しのびごと)している。
704年には、すでに右大臣になっているばかりでなく、708年、柿本人暦が亡くなった年には、ついに、臣として最高の左大臣に登用されている。
この石上麻呂は、天武天皇にどのような秘策を奏上したのか?
そしてそれが、天武王朝にどのような影響を及ばしたのか?
調べてゆくことにしよう。
天武二年(673)2月29日(陰暦)、太極殿から戻った天武天皇は居室でほっと一息いれていた。
戦後七ヵ月、未曾有の乱に恐れおののいていた人心もようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
天智天皇が多くの人々の反対を押し切って移した都も、前年の九月、近江宮から岡本宮の南に移し、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはら)と称するようにした。
乱の前後、近江朝廷と大海人皇子のどちらに味方すれば自分に有利になるか、不安と焦燥で大きく動揺していた朝廷の上下の役人どもも、新しい宮廷での新しい政治に少しずつ馴染みはじめた。
世の中がやっと平静に返り、新しい王朝は輝かしい未来に向けてゆるやかに、着々と動き出したのである。
即位の式も無事に終わり、新しい帝(みかど)の座についた大海人皇子は、今や万民が平伏(ひれふ)す威厳と、まばゆい栄光の冠に輝く存在であった。
だが、はた目には得意の絶頂にあるかのように見える天武天皇の心は、日に日に重くなるばかりで、夜も安らかに眠れぬ日々が続いていた。
天皇は目をつぶって深い瞑想に沈んでいる。
頭のなかには、少し前に起きた太極殿での出来事が、走馬灯のように往来している。
今日、天皇は、近江朝廷との戦いに功をたてた諸将軍たちの労をねぎらい、褒賞と爵位を授けた。
各々の戦功が認められ、それ相当の褒美と官位を授けられる人々の顔は、得意と嬉しさを隠しきれず、天皇が一人一人の新しい爵位を読み上げるたびに、一同の間に嘆声がもれ、広間は羨ましいため息にどよめいた。
だが、初めは、ただ喜びの気分一色であった雰囲気が、褒賞が進むにつれて、一部のものたちの顔に、不満の色がさしはじめた。
しかも、そのような不満はもっとも手柄をたてた将軍の間に広がっていることを、天皇は悟り始めた。
最初、彼らは自分に与えられた褒美に喜んだが、次第に、天皇の他の者に対する評価が、自分のそれに比べて高いように思われ始めたのである。
「あの者が何でこの俺と同じ位に進むのか」「あやつがあの位なら、俺はもっと評価されていいはずだ」
などと、それぞれが内心思っていることが、知らず知らずのうちに表情にあらわれ始める。
みんなが無条件に喜ぶだろうとおもったのは、とんでもない甘い考えであった。
人々はそれぞれ、自分の存在に謙虚な心でいることが出来る。
だが、ひとたび自分の存在価値を他人のそれと比較されると、そのような謙虚はいつしかなくなり、与えられた評価に抑えきれない不満を感じるようになるという微妙な心理は、どのような場合にでも表面に出る。
「今日の褒賞式は、完全な失敗だった」天皇は苦虫を噛んだように顔をしかめる。
「上様、いかがなされましたか? お気分が勝れないようですが……」と声をかけたのは石上麻呂である。
大友皇子の首を持参した石上麻呂は、天武天皇の目にとまるところとなった。
その功が認められ、天皇の周囲で警護の任にあたるように抜擢された麻呂は、たえず、ほとばしるように沸き出
る知謀で、ますます天皇の注目を引く存在になっていた。
片時も天皇のそばを離れてはならない職責は、彼にまたとないチャンスを与える。
麻呂は待ち受けていた「一生の運命を決める機会」を逃さなかった。
「うむ、体は何ともない。だが、少し気になることがあっての……。そちは今日の雰囲気をなんと見た、麻呂?」
聡(さと)い麻呂の頭が敏感に反応し始めた。
「上様の大恵みに、皆様が感激されていたようでございます。ただ……」
麻呂のこたえは歯切れが悪かった。
「ただ……?」促すような天皇の顔を恐る恐る見上げながら、麻呂は注意深く、おもむろに口を開いた。
「ただ、一部のかたがたは、麻呂が思っていたはどお喜びなさっていないようにも見受けられましてござります」
「うーむ。そちの目にもそのように映ったか?」
「ほい、恐れ多いことにござります」
「で、誰がそのように見えたのか?」
「……」
麻呂は慎重だった。
「麻呂、隠さずに申してみよ。そちの見たのと、朕が見たのと同じかどうかを知りたいのじゃ」
「しかしながら……」
麻呂はもう一度渋って見せた。
「麻呂、朕が許す。思うままに申して見よ!」
「ははっ、それでは申し上げます。将軍たちの間に、そのようなお顔をされた方が何人かおりましたが、なかでも、このたび小錦上(しょうきむじょう)に進みました当摩公広麻呂(たぎまのきみひろまろ)さまと、小錦下に列されました久努臣麻呂(くぬのおみまろ)さまが、目立つように思われました」
石上麻呂の発言は重大な意味を含んでいた。
なぜならば、広麻呂は、大友皇子が派遣した磐手(いわて)によって騙し打ちされた吉備国守当摩公(きびのくにかみたぎまのきみ)広嶋の弟であり、大海人皇子の母方の勇将である。
また、久努臣麻呂はその副将。ともに壬申の乱で大活躍をした人物であったからである。
天皇の顔に苦悩の影が走った。
「麻呂の目にも、それがはっきり分かるように映ったか ! そうだとすると、他の者どももそれに気づいたはず。しかも彼らは、朕の親戚であるがゆえに、大友皇子に殺された広嶋の後をついだ吉備国の主将である。彼らが朕に露骨な不満を示すならば、他にもそのようなものが続出するに違いない。もしこれを捨てておくと、朝廷を侮る風潮が蔓延すること必定である。さてどうしたものか……」
石上麻呂にはこのような天皇の思惑が、手にとるように読めていた。
だが、事はあまりにも重大である。麻呂は黙ったまま、天皇の表情をじっとうかがった。
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