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大国主神の原郷 ─縄文時代の志津見─ 大国主命神の系譜

 
【神戸川流域】
 
神戸川は飯石郡頓原の琴引山(標高1014メートル)から流れ出て、同郡来島・志々を経、簸川郡に入って窪田・乙立を通り、

一旦須佐に入って、神門郡と呼ばれた出雲市乙立に出、朝山から西折して古志・知井宮の北境を西園に出て日本海に出ているが、

当時は一旦神門水海(神西湖)に入って後外海に通じていた。

 
神々は、神の門と呼ばれた神門郡に上陸し、神戸川を遡り、狩猟に適した琴引山の麓を最初の居住の地としたのだろう……
 
琴引山とは『出雲国風土記』に、

琴引山(ことびきやま)。郡家の正南三十五里二百歩なり。高さ三百丈、周り一十一里あり。古老の伝へに云へらく、此の山の峯に窟(いはや)あり。裏(うち)に所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御琴(みこと)あり。長さ七尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸あり。又、石神あり。高さ二丈、周り四丈あり。故(かれ)、琴引山と云ふ。

『風土記抄』に、

「俗呼んで琴神山という是なり。来嶋郷由来村に在り。山頂に権現祠あり。謂わゆる所造天下大神なり」

とあって、今の飯南町の琴引山である。

弥山ともいう。

琴引山という名は、大神がこの琴を弾かれたというような伝承によるものであろう。

山頂に切り岩を積んだ塔があり、やや下った所に神社がある。

登山口は頓原町の西南二粁ばかりの所であるから、「三十五里」は「四十五里」とあるべきところを誤ったのであろう。

窟(いはや)は岩穴。

登山道の裏側、頂上より少し下った八・九合目あたりに、自然の岩でできた洞窟があるのがそれであろうとされていたが、記述が合わない。

この山の表側塔の谷を頂上から100mばかり下ったところに、大神岩と呼ばれる岩組があって、

屋根状にすがり合った巨岩の中に、三枚の石が切石のように並び、

手前のは2.4m米、巾90m、厚さ平均50mくらいで琴石の記述に近い。

恐らく上古は土に蔽われた岩窟であったのが露出したのであろう。

大神岩と呼ばれている点からも、これが大神の琴の窟と考えられる。

琴は上古巫子が神意を問う時に用いたので、重要な祭器であった。

古事記神代巻に、大国主神が須佐之男命の生太刀・生弓矢及び、天の沼琴を受けて国作りを始められたことが見えるのも、

太刀弓矢をもって従わぬものを平らげ、またその琴を弾き神意を問うて国作りされる意味があったのである。

石神は大神岩の北方50mの陵線に立つ「烏帽子岩」で、三角錐状・高さ6.1m・周囲12mで、よくここの記述に合っている。

石を神として祀ったものは、楯縫郡の神名樋山にあった。

『三代実録』の貞観16年(874年)9月8日、

「石見国の上言に、石神二、出雲国より来るという。是の日従五位下を授く」

とあるのを始め、当時石神信仰は広く行われていた。

ここでは同じ大神の神霊の岩と仰いだのである。

 
琴引山・琴弾山神社の巨岩
琴引山・琴弾山神社
 
神戸川源流、琴引山の麓、志津見にダムが建設されることになった。

島根県教育委員会では、平成元年から、

建設省中国地方建設局(現国土交通省中国地方整備局)より委託を受けて、

志津見ダム建設予定地内にある遺跡の発掘調査を実施してきました。

 

発掘調査の結果、縄文時代の初めから弥生時代・古墳時代・古代・中世・近世・現代に至る、

莫大な量と高い質の、遺物や遺構が確認された。

このまとまった調査の成果には、

島根県だけではなく、『日本列島の歴史にも影響を与える』ものも、少なくありません。

 

志津見ダム建設の予定地内は、島根県の南側の中国山地に源を発する神戸川中流域にあたります。

この志津見ダム地内で特に飯南町志津見・八神・角井地区には、非常に多くの遺跡が眠っていた。

これらの遺跡は、ダムの工事範囲がおおよそ分かった1988年時点の分布調査によって発見されたものがはとんどで150遺跡ある。

そのうち志津見ダムの区域内に存在し工事によって遺跡が壊れたり、水没してしまう部分を発掘調査した。

その発掘調査した遺跡は全部で44遺跡になる。

発掘調査は1989年から始まり、足かけ14年の歳月を費やして2002年に現地調査が無事終了した。

下の表からも分かるように、毎年数遺跡の調査が行われ、多くの遺構と遺物が発見され、

出土した遺物は、コンテナ1300箱分程にもなった。

発掘調査では、三瓶山の火山灰に覆われた縄文時代の人々の暮らしを探るために5メートルも深く掘り下げることもあれば、

鉄生産の様子を明らかにするためにトラック五台分にもなるたくさんの鉄浮を取り上げ、一つ一つ水で洗い、分類したこともあった。

 
このような調査によって、この地域の人々の縄文時代から江戸時代頃までの、

暮らしと、その特徴について、明らかにすることができた。

 
 
 
【志津見の自然環境】
 

[位置と気候]

中国山地に源を発する神戸川は、優美な姿で知られる三瓶山の東麓を北流して日本海へ流れ下ります。

志津見は、その神戸川の中流域に位置しており、中国山地の懐(ふところ)に抱かれた谷間(たにあい)の地域です。

気候は、日本海岸性気候で、標高が200mを越えるため、低温・多雨・多雪です。

年平均気温は12.3度・年平均降水量は136.9ミリ(平成5〜8年)と測定されています。

[地形と地質]

志津見は標高五百〜六百メートル前後の山々に囲まれており、その間を神戸川が縫うように流れることで、谷間に狭い平坦面が形成されています。

遺跡はこうしたわずかな平坦面に、連綿と長期間営まれているものが多く、

これが志津見における遺跡立地の大きな特徴といえます。

 
志津見周辺の地質は、閃緑岩から花山岡岩質岩石で成り立っており、特に大字獅子から南の地域には花山岡岩質岩石が広く分布しています。
 
花山岡岩質岩石は、いわゆる「マサ土で砂鉄を多く含む」ことから、

周辺に多数営まれている製鉄遺跡において、「鉄の原料」として利用されたものと考えられます。

 

[三瓶火山の活動]

志津見の西5キロにある三瓶山は、約10万年前から3600年前まで活動を繰り返していた火山です。

周辺では幾重(いくえ)にも重なった火山灰の下から、縄文時代の集落や遺物などが発見されることから、当時の人々に大きな災害をもたらしていたと推測されます。

縄文時代が始まる一万二千年前頃以降に、三瓶山では、3回の活動期があったことが知られています。

約一万年前に噴出した切割火山灰は山麓でのみ確認でき、厚さが薄いことから比較的小規模な活動でした。

約四千七百年前に噴出した角井火山灰は、松江市や鳥取県日南町付近まで飛んでいることが確認されており、神戸川を流れ下った火山泥流は出雲平野にも達しています。

約三千六百年前の大平山火山灰は、現在の三瓶山が形成される過程で噴出したもので、遠くは鳥取市まで達しています。

志津見には摂氏五百度にもなった高温の火砕流が流れ込み、火山灰と合わせその厚さが二メートル以上になる地点もあります。

また、水を含んだ火山泥流は、杉の巨木が発見された三瓶小豆沢埋没林に見られるように、山麓の林を埋め尽くし、

神戸川を流れ下ったものは、出雲平野の集落や森をも飲み込みました。

 
 
【縄文時代とは】
 

[三瓶山と縄文遺跡]

志津見の縄文時代について、三瓶山との関係を抜きにしては語ることはできません。

三瓶山は今から約10万年前に噴火活動を開始した火山で、上の土層写真の黄色や白い地層が三瓶山の火山灰になります。

このうち白い火山灰は、地元では「ハイカ」と呼ばれています。

このハイカ層、厚いところでは1メートル以上もあり、いわば火山灰にパックされた状態で数多くの土器や石器が眠っていることになります。

また、各ハイカ層はそれが降下した年代がおおよそわかっているので、出土した遺物の年代を知る上でも大きな手がかりを与えてくれるのです。

なお、ハイカ層からは500度にも及ぶ火砕流もみつかっており、おそらく当時の縄文ムラは壊滅状態になったはずです。

しかし、火山灰のすぐ上面からも遺物が出土することから、縄文人たちは噴火が収まったらまた戻ってきたと考えられます。

よほどこの地が暮らしやすかったのか、板屋3遺跡や下山遺跡では、縄文時代早期から晩期に至るまでほぼ間断なく遺物が出土しています。

 
 
【縄文時代の暮らし】
 

志津見周辺に人が住み始めるようになったのは、いつ頃からなのでしょう。

島根県において確実に時期のわかる遺物としては、隠岐島などで今からおよそ三万年前の石器が見つかっており、

これが今のところ最も古い遺物ではないかと考えられています。

その頃の時代はまだ土器はなく、石で道具を作り、狩りをして生活していた「旧石器時代」と呼ばれています。

志津見地域では残念ながら、旧石器時代にさかのぼる遺物は発見されていません。

今のところ明らかな生活の跡が見つかるのは縄文時代からで、

最古の遺物としては、およそ9000年前とみられる縄文時代草創期末の土器が板屋3遺跡から出土しています。

 
 

上の表は、縄文時代から現在までの各時代を同じ時間幅で表したものです。

この本では時代区分を古い方から「縄文」・「弥生」・「古墳」・「古代」・「中世」・「近世」・「近・現代」の六つに分けていますが、そのうち縄文時代の占める割合は八割を超えます。

それほどまでに縄文時代は長く、12000年前頃から、大陸から稲作農耕が伝わった2300年前頃まで、およそ一万年間も続いたのです。

それでは縄文時代とは一体どういう時代だったのでしょうか。

一般に旧石器時代は氷河期で気候は寒冷、人々は食料となる動物を追いかけて定住せず暮らしていたと考えられています。

しかし12000年前頃から気候が暖かくなり、自然環境も変化しました。

山々にはシイやカシなど木の実をつける森林が広がり、貴重な食料源となりました。

木の実はアクを抜かないと食べられませんので、このアクを抜くために土器が作られるようになったのかもしれません。

土器の出現によって、それまで生では食べられなかった木の実なども煮て食べられるようになりました。

志津見地域の縄文人たちも、三瓶山麓の森林で狩りや木の実などを採取し、神戸川では漁を行い、土器を使って調理していたことでしょう。

人々は定住し、ムラを形成しました。

また、活発に他地域とも交流しており、縄文人の行動範囲の広さには驚かされます。

新しい時期には穀類の栽培なども行っていたようです。

このように、基本的には生活環境が安定していたため、一万年もの長きに渡って縄文時代が続いたのかもしれません。

 
【縄文時代の生業─食材と調理】
 

[山の幸l川の幸]

志津見に住んでいた絶文人にとって、神戸川と三瓶山の麓(ふもと)に広がる森は、食料を得るための狩猟採集の場でした。

この時代の遺跡からは魚を捕る網に付けた石のおもり(石錘)や、動物を捕まえるための落とし穴、石のやじりが多数見つかっています。

イノシシやシカや野ウサギがとらえられ、食料としてはもちろん、毛皮も貴重な資源として利用されていたと考えられます。

森では秋になると貴重な栄養源として、ドングリやトチの実などの木の実が集められていました。

板屋?遺跡からは、炭化したオニグルミの殻やトチの実が見つかっています。

縄文時代の人々は、地面に穴を掘ってそこで木の実を保存しており、五明田遺跡からは貯蔵穴と思われる穴が見つかっています。

[縄文人の調理]

当時の調理の様子はどんなものだったのでしょうか。

遺跡を調査すると磨石と石皿がよく見つかりますが、これらは木の実をつぶして粉にする道具だと思われます。

当時の人々はその粉で、お団子やクッキーのようなものを作っていたのでしょう。

また、遺跡からは食べ物の蒸し焼きに使ったと思われる、集石炉も見つかっています。

 
神原1遺跡(およそ4000年前)真ん中の穴に杭が立てられていたと考えられる。 トチの実・板屋3遺跡出土 板屋3遺跡・集石炉(およそ4000年前)
  
[コラム]
 
大発見 !─縄文時代にも農耕があった…
 

農耕は弥生時代からというのがこれまでの常識ですが、果たしてそうなのでしょうか?

板屋?遺跡から出土した晩期の土器からは、稲籾の跡が見つかっています。

また、板屋3遺跡と下山遺跡の第三黒色土からは、それぞれイネとキビのプラントオパールが検出されました。

プラントオパールとは、葉の細胞に含まれるケイ酸体(ガラス質)が地中で化石化したもので、肉眼では見ることができません。

 
これらの調査成果は、縄文時代から穀物の栽培を示すものとして注目されます。
 
【縄文時代の道具…土器】
 

ここからは、縄文人が使用していた道具の数々を見ていきたいと思います。

縄文人は身近な材料を利用して数多くの道具を作り出していますが、代表的なものはやはり「土器」でしょう。

一口に土器といっても時期によっていろいろな種類や模様があり、

 
特に板屋3遺跡や下山遺跡では、草創期から晩期まで、各時期を通じた土器が出土しています。
 

ここでは、志津見から出土した代表的な縄文土器を時代を追って紹介します。

●第3黒色土の土器

最下層の第3黒色土からは、草創期末(約一万年前)から前期後葉(約5000年前)までの土器が出土しています。

草創期末から早期にかけての土器は、県内で最も古い土器群のひとつです。

 
前期には、様々な文様の土器がみられますが、

中には「九州地方の影響を受けたとみられる土器」も出土しています。

 
 

●第2黒色土の土器

前期末(約4700年前)から後期前半(およそ3500年前)の土器が出土しています。

中期の土器は全体的にみればあまり多くありませんが、板屋3遺跡で完全に近い形に復元されています。

後期には、いわゆる「磨消(すりけし)縄文」といわれる華麗な装飾の土器が、各遺跡で数多く出土しています。

また、深鉢に加え、浅鉢・壷などさまざまな形の土器が作られるようになります。

 

●第1黒色土の土器

後期後半から晩期(およそ3500〜2300年前)までの土器が出土しています。

模様は次第に簡素化し、縄文は後期の終わりの土器にはつけられなくなります。

晩期の土器は、板屋3遺跡で大量に出土しています。

しかし後半の土器は、口の部分に帯状に粘土紐をめぐらす以外は模様がないものがほとんどです。

 

また、晩期土器の特異なものとして、「孔列(こうれつ)土器」があります。

これは、「朝鮮半島を起源とした土器」と考えられており、

朝鮮半島の文化が、「山陰地方にまで影響」していたことをうかがわせます。

 
 
[コラム 〜運ばれてきた土器〜]

志津見からは、地元の縄文人が作った土器だけでなく、遠く他の地域から持ち込まれた土器も出土しています。

神原3遺跡からは、後期中ごろの「関関東地方で作られた土器」が出土しています。

同じく板屋川遺跡からは、晩期前葉に「関東地方周辺から運ばれてきた土器」が出土しています。

これらの土器は、我々の想像以上の縄文人達の壮大な交流を物語るといえるでしょう。
 
 
【縄文時代の道具…石器】
 

縄文時代において、道具の材料として重要だったのは石でした。

近くに転がっている河原石や遠くから調達した石材を加工し、石器を製作しています。

用途に応じて様々な種類の石器がありますが、ここでは代表的な物を紹介します。

 
 

石器の材料となる石は、どんな石でもいいという訳ではありません。

なるべく均質で、ガラスに近い石が適しています。

縄文時代を通じて最もよく使用されたのは「黒曜石」(ガラス質)や「サヌカイト(安山岩の一種)」(きめ細かい)でした。

 

これらの石はどこでも採れたのではなく、志津見地域の場合、黒曜石は隠岐の島から、

安山岩は「四国の香川県」や、「広島冠山(かんむりやま)」産のものが多く見られます。

また、板屋3遺跡からは、「九州の姫島産の黒曜石」もみつかっています。

 

まだ飛行機や車のない時代ですが、志津見の縄文人はいい石材を求めてはるばる遠くまで行ったり、他地域と交流していたのです。

なお、詳しい調査の結果、時期ごとに黒曜石とサヌカイトの利用された割合が異なっていることもわかりました。

つまり、早期から前期にかけては黒曜石を、そして後期中葉以降はサヌカイトを主に利用していたようです。

 
 
【縄文時代の道具…精神社会の道具】
 

最後に紹介するのは、縄文人の祭祀に関係すると思われる道具です。

妊婦をかたどったとみられる土偶や、男性器を表現した石棒などの種類があります。

これらは日常生活で使われたとは考えにくいものですが、自然とともに生きた縄文人の、まさに自然に対する信仰心の現れといえる道具でしょう。

[石棒・異形石器など]

土偶が女性をかたどったものなら、「石棒」(3)は男性の性器をかたどったものといえるでしょう。

(2)はその大型品で、(4) は胴部に凹みがみられ、男性器と女性器の両方を現した石器と考えられます。

(1)と(5)は変わった形の石器ですが、ひとの姿を現したものでしょうか?

いずれにせよ、土偶と併せ縄文人の信仰と深い関係のある道具といえるでしょう。

 
 

[土 偶]

最も良く知られている祭祀道具といえば、土偶でしょう。

しかし、土偶は東日本に比べ、実は西日本は出土例が少ないのです。

島根県でもわずか15点しか出土していませんが、そのうちの4点が志津見から出土しています。

いずれも形態は板状で小型なものがほとんどですが、乳房が表現されるなど女性をかたどっているようです。

 
中でも下山遺跡出土の大型品は、「東北地方から持ち込まれた」と見られる貴重なものです。
 

このような土偶のほとんどは「東北地方で出土」しており、

また背中や腰回りの模様も、共通していることなどから、

この土偶は「東北地方から、何らかの理由で運び込まれたもの」である可能性が高いと考えられます。

 
日本民族の源流 →太古の日本列島住民 
 
 
【縄文時代の祈り】…祭祀場とお墓
 

前ページで紹介したように、下山遺跡や貝谷遺跡からは土偶・異形石器などの祭祀遺物が多数出土していますが、

それらに関係するのではないかと思われる「配石遺構群」が両遺跡から検出されています。

下山遺跡の配石遺構群は穴の中に柱状の石を立てた、「立石土坑(りっせきどこう)」と、

穴の中に石を集めた、「集石土坑(しゅうせきどこう)」からなっており、

第一ハイカ層上面からそれぞれ6基と11基検出されました。

これらの性格について、集石土坑はその大きさや、土坑が環状に配置されることから、お墓と考えられます。

立石土坑については、集石土坑のすぐそばに位置することから、

この地が神聖な場所であることを表した、モニュメント的な役割をもつものではないかと考えられます。

一方、貝谷遺跡ではまた一風変わった配石遺構が、第2ハイカ層上面から2基検出されています。

お墓とみられますが、石が土坑墓内の緑に沿って配置されているのが特徴で、あたかも遺体を取り巻いているようです。

 
 
【縄文時代の住居】
 

人々が暮らした住居の跡は、板屋3遺跡や貝谷遺跡・五明田(ごみょうだ)遺跡で見つかっています。

[竪穴住居]

竪穴住居とは地面を掘り窪め、床面に数本の柱を立て屋根を葺いて作った住居です。

五明田遺跡と貝谷遺跡で発見されていますが、ともに後期のものです。

五明田遺跡では四棟見つかっていますが、これらは床面がほぼ円形で、直径3〜4メートルの大きさです。

貝谷遺跡では二棟発掘されています。

五明田遺跡と違いこちらは正方形に近い形をしており、一辺3〜5メートルの大きさです。

うち一棟は壁の周りに石を貼り付けられており、竪穴住居としては珍しい構造をしています。

床面の中央には火を焚いた痕跡がみられ、赤く焼け残っています。

[平地式住居]

板屋3遺跡では、前期中頃(およそ5500年前)の住居跡が二棟見つかっています。

これらは直径20センチ前後の柱穴が20個ほど整然と並んでおり、この柱の並びからみておよそ6×3メートルの細長い住居だったようです。

板屋3遺跡の住居跡は地面を掘り窪めた痕跡が見つかっていないことから、地面の上にそのまま柱を立て上屋を架けた平地式住居の可能性があります。

 
 
…島根県教育庁埋蔵文化センター「志津見ダム地内の遺跡」より
 
大国主命神の系譜
 
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