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人麻呂は、天武天皇の歌の師として朝廷に仕えた。
しかし、先にも述べたように、新しい政権内の宮廷人たちの間には、百済人蔑視の雰囲気が満ちていた。
そのような環境の中で、人麻呂が目立つ活動をすることはむずかしかったであろう。
人麻呂が本領を十分発揮できるようになるのは、持統天皇の時代に入ってからである。
どうして、持統天皇の時代から人麻呂は宮廷歌人として光彩を放つようになったのだろうか。
天智朝は非常に親百済的であった。
一挙に66人あまりの百済人が登用されたという、天智十年正月条の記録から推しても、いかに親百済的であったかがわかる。
このような天智朝廷下では、百済方言がいたるところで使われていたはずである。
高位にある百済人の宮人が使う、ゆったりとした口調の百済の方言は「雅(みや)びやかな言葉」とされて、
多くの人々が我先にそれをまねようと努めたにちがいない。
京都を中心とする今日の関西弁は、このようにしてできあがっていったのである。
一方、そのあおりを受けた関東弁は、「歌にならない粗野(そや)な東(あずま)言葉」と蔑まれるようになった。
朝廷の重要なポストが百済系の人々によって占められたばかりでなく、
言葉遣いまでもけなされていた当時のヤマトの人々にとって、
百済人はどれだけ憎悪の対象であったかしれない。
ところが、その後に起こった壬申の乱は、百済人を極端に嫌う東北の人々の力によって、大海人皇子側の勝利に終わった。
その後、天武天皇が即位し、新しい朝廷が誕生すると、百済方言はもはや「宮廷語」ではなくなった。
東西を問わず、いつの時代にも、勝者の言葉は敗者の言葉を駆逐するものである。
こうして、新しく誕生したばかりの天武天皇の時代は、勝利の勢いにのる東北人の鼻息がなかなか静まらず、
今まで百済方言をまねした人々もなりをひそめてしまうような状況であった。
そのような親新羅朝廷に突然あらわれた新参の百済人が「人麻呂」であった。
人麻呂が語る百済方言の言葉に対して、人々の嘲笑と揶揄が浴びせられたとしても何ら不思議はない。
このことを裏づけるかのように、天武天皇の時代に人麻呂が詠んだ歌の数がきわめて少ないばかりでなく、目立った作品も残されていない。
逆に言えば、人麻呂が万葉の歌聖として数多くの歌を残しながら、天武天皇の時代にはとんど歌を残さなかった理由も、
このような朝廷の雰囲気を理解してはじめてわかってくるのである。
しかし、窒息しそうな雰囲気の中で耐えていた人麻呂に、ようやく「再生の希望を与えてくれる存在」があらわれた。
それが持統天皇の出現だったのである。
持統天皇には、天武天皇との間に生まれた草壁皇子という息子があった。
実ほ、この皇子の死が、持統天皇と人麻呂の出会いのきっかけとなったのである。
この皇子は、別名「日並皇子」とも言われ、持統天皇の最愛の子で、周囲の人々からも大いに期待されていた。
ところが、皇子は日頃から病弱だったようである。
天武天皇10年2月には皇太子になっていたが、天武天皇が崩御したときには病弱のために、即位できる状態ではなかった。
そのため、母の持統天皇が即位して皇子の回復を待つことになった。
しかし、その願いもむなしく、皇子は持統天皇3年4月、まだ28歳の若さで亡くなってしまった。
持統天皇を喜ばせるには、天皇の好きな吉野宮を詠むのが自然であったが、天皇の心中を知る人麻呂にとっては、
天皇が誰より愛する草壁皇子がそれにもまして重要な歌の対象であった。
ところがこの皇子は、病弱で早死にしてしまった。
そこで、人麻呂は皇子の死を哀悼する歌(巻二−167)を詠んで、その母を慰めたのである。
当時、近江の荒都を見て、中大兄皇子の悲嘆に思いを馳せたのは、人麻呂ひとりだけではなかった。
娘として、亡き父を心の中でひそかに偲んでいる人がいた。
それは、人麻呂が宮廷歌人として仕えていた持統天皇である。
天武天皇の妻として、その運命をともにしながらも、心ひそかに亡き父を偲ぶ持統天皇。
そして、その心の機微を誰よりも察して、しかも人目にたたないように歌で表現する人麻呂が急速に接近するようになったのは、
当然の成り行きと言えるだろう。
人麻呂は、持統天皇の最愛の皇子であった草壁皇子を哀悼する長歌を詠んで母心を感動させたうえに、
近江の荒れた都を悲しむ歌をもって、その父の心情を慰めながら、急速に天皇の心をとらえていったのである。
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