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万葉集と記紀 ↑目次
 
一般に『万葉集』と言えば、日本固有の文化財産と考えられてきた。

しかし、万葉集は、日本と韓国の両国にとっても貴重な文化財産である。

もちろん日本には、ほかにも『万葉集』と同時代に完成された『古事記』や『日本書紀』もある。

ところが、それらは、朝廷の権力の基礎を固めることを狙いとして編纂されている。

したがって、記紀は『皇家の私文書』にすぎない。

 
『万葉集』は、古くから日本列島に移住して、古代ヤマト国家を築き上げた、伽耶族の後裔であり、 

ヤマト言葉(慶尚道方言)の使い手である、大伴家持を中心とした人々によって編纂された。

 
伽耶族の影
 

したがって、『万葉集』に収録された歌は、ところどころに挿入されている漢詩を除けば、

すべてが、漢字の音と訓を借りて表記された古代日本語で書かれている。

 
古代日本語
 
これに対する、古事記や日本書紀の編纂は、百済から渡来した学者らの手によるものであることは、今更言うまでもない。
 

彼らが、本国で身につけてきた高い漢文素養を駆使して、記紀を編纂した事実は、

多くの学者の口を揃えて認めるところである。

 
したがって、記紀に散見される歌や訓注を除けば、

記紀の主文は漢文で成立している、と云う点で、

万葉集とは、根本的な相違があると云える。

 

また、万葉集は、天皇から、遊女や乞食にいたるまで、あらゆる層の人々の歌を集めたものである。

そこには、当時の人々の風俗・慣習を含める全体の社会相が、赤裸々に書き残されている。

それに対する記紀は、朝廷の権力を強化するために政治的側面に重点をおいた、

造作された史書であることは、論を待たない。

新参者である百済からの遺民たちが、新しい史書の編纂に関与しながら、朝廷に重用されることに、

反発するヤマト族が、記紀の編纂に対抗する意識をもって編纂したのが、『万葉集』であるような気がしてならない。目次

それはともかく、万葉の時代である7世紀の半ば頃から8世紀の半ばまでの百年間は、

当時の日本と韓国において、それまでにはないすさまじい政治的変化が起きた時代である。

まず、韓半島においては、新羅が宿敵であった百済と高句麗を滅し、三国統一の「偉業」を果している。

しかしこの「偉業」は、今日の立場で冷静かつ公正に考えてみると、韓国歴史上の一大「悲劇」であったと言わざるを得ない。

というのは、三国統一の過程で三国のひとつであった高句麗の広大な旧領と住民を、中国に切り与えてしまったからである。

この高句麗は、興隆時には、旧満州からソ連の沿海州あたりまで広がる、広大な地域を領有していたと思われる。

しかも、「偉業」がもたらした「悲劇」はそれだけにとどまらない。

 

すなわち、それまでは同じ民族であると認識されていた日本列島の住民をも、

あかの他人にさせてしまうという「民族分裂」まで引き起こしたからである。目次

 
ここで私は、「それ以前までは同じ民族であると認識されていた日本列島の住民」という表現をあえて使った。

読者の中には、「何を根拠にそんなことを言うのか」と驚かれる方がいるだろう。

では、次のような事実は、一体何を物語っているのだろうか。

たとえば、桓武天皇は、「百済は私の外戚である」と宣言している。

 
(註‥『三代実録(さんだいじつろく)』よれば、天皇の母の中宮高野新笠は、百済の武寧王(むりょんぐわん)の子である純陀(すんた)太子の子で、光仁天皇との間にのちの桓武天皇と早良(さら)、能登内親王を生んでいる)
 
また桓武天皇の後宮には、少なくとも五人の百済女性(百済教仁、百済貞香、百済明信、百済教法、百済永継)が入っている。
 
また、日本の正史である記紀の内容の大部分は、韓半島との交渉の記事で埋められているのである。
 

それだけではない。

西暦815年に完成した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』に掲載されている日本全国の姓氏、総1182氏のうち、

始祖が高句麗・百済人であると明記されているものがきわめて多い。

さらに、よくよく調べてみると、古代日本姓氏のほとんどが韓半島系なのである。目次

さて、韓半島で新羅による三国統一が実現したこの時期、日本においても、未曾有の政権交代劇が起きている。

そのひとつは、三百数十年にわたって皇室の外戚として、

皇室以上の権力をほしいままにしていた蘇我一族が滅んだことである。

もうひとつは、大海人皇子による近江朝廷の打倒、

すなわち壬申の乱が起こっていることである。

そのような激動の時期には、かならずといっていいほど、歴史に名を残すような偉人が生まれている。

私は、万葉の時代という激動の時代が生んだ偉人のひとりが、柿本人麻呂であると考えている。

人麻呂は、『万葉集』が編纂されてから1300年になろうとしている今日もなお、歌聖として崇められている。

 
それは、彼が305首あまりにも及ぶ多くの、珠玉のような歌を詠み残し、

今日の『和歌の基礎』をつくったからである。

 

では、この人麻呂という人物は一体どこで生まれ、どのような時代を生きたのだろうか。目次

もしここで、私が「人麻呂は韓半島生まれの渡来人であった」と言えば、

読者の皆さんは驚かれるだろうか。

実は、この事実をふまえてはじめて、人麻呂の詠んだ歌にどのような思いがこめられていたかが、

歴史を越えて浮き彫りになってくるのである。

 

万葉集に載せられている歌の数は、全部で4516首ある。

それらを歌人別に整理すると、万葉集編纂の中心人物である大伴家持の歌479首と、柿本人麻呂の歌359首(註‥歌の数は、重複したものや本人のものかどうかさだかでないものがあるので異説もある)が、

万葉集全体の中で圧倒的多数を占めている。

第三位を占める山上憶良の歌の数が87首しか残されていないことから見ても、彼らが万葉歌人として、いかに際立った存在であるかがよくわかる。

家持の場合は、本人が万葉集の編纂に深く関与していたのだから、多くの歌が残されていても不思議ではない。

ところが人麻呂には、そのような必然性は見当たらない。

人麻呂の歌がこれだけ万葉集に収録されたのは、家持をはじめとする万葉集の編纂者たちの目から見ても、

人麻呂の歌には秀でた歌があまりに多かったからにちがいない。

 

言い換えれば、彼らは人麻呂の歌を抜きにしては、

『万葉集は成り立たない』と、判断したのである。

このことは、古今和歌集の序に「(人麻呂は)歌のひじりなりける」と、

讃えられていることからも十分うなずける。

このように、古来『歌聖』とまで崇められてきた人麻呂だが、

彼の生まれ育ちについては、まったく謎につつまれたまま、いまだに定説がない。

ところが、ここに人麻呂の出自を割り出せそうなふたつの古文書がある。

ひとつは、霊元天皇の延宝3年(1675年)に刊行されたと言われる『人丸秘密抄』である。

 

『人丸秘密抄』、または『人麿秘密抄』とも言われるこの本は、『国書総目録』によると、東北大学狩野文庫、三重県伊勢市神宮文庫、京都大学、京都市上京区北野天満宮などに所蔵されていることになっている。

残念ながら私はまだ直接読んではいないが、矢富熊一郎著『柿本人麻呂戸鴨山』(島根県益田市郷土史矢富会発行)によると、そこには、次のような記録が残されている。

 
人丸は天武天皇御時、二年八月三日に、石見国戸田郡山里といふ所に、語ノ家命といふ民の家の柿本に出現する人あり。

其歳二十余、家命尋問に答云、我は家なし。来る所もなし。父母もなし。知所もなし。只和歌の道のみ知れりと云ふ。

時に家命の主、丹後国司泰冬道に申す。冬道浄御原(きよみはら)天皇に奏す。

帝よろこび思召て、歌道の御侍読たり。是歌姓流出之連、干時石見ノ権守、始賜姓号柿人丸云々。

もちろん、今まで、この本が多くの万葉学者の目に触れなかったわけではない。

ところが彼らは、これを偽書だと決めつけてしまった。

そのために、今日まで学界では、まともに取り上げられないまま放置されてきている。

彼らがこれを偽書だとする主な根拠は、斉藤茂吉氏の次のような言葉によく要略されている。

人であれば誰でも父母をもっているのに「父母がない」というのは理にかなわない。

この本は人麻呂を高く崇めるあまり、彼を神格化させようとする人々によって、

釈迦が生まれたとき、自ら「天上天下唯我独尊」といったという伝承になぞらって作られた、偽書である。

たしかに、父母がなければ誰もこの世に生まれてくることができないのは、あまりに理の当然である。

しかし、だからといって、その父母が永遠に生きていてくれるわけではない。

何かの理由で、ある日突然、父母が亡くなるという不幸に見舞われることもあり得るだろう。

したがって、「父母がない」というのは理にかなわないからといって、この本を偽書と決めつけることは誤りなのである。目次

 

次に、「家もなければ、来るところもない」という表現は、何を物語っているのだろうか。

たとえば、ここ数年、日本や近隣諸国に大挙脱出してくるベトナム難民の事情を思い浮かべてほしい。

彼らは、戦乱によって、家も知人も国もすべて失った人々である。

もしも、人麻呂が、彼らと同じような状況におかれていたとしたらどうだろうか。

 
家命の尋問に答えた人麻呂の言葉は、国を失い、家を失った悲惨な彼の境遇を如実に描写しているものだと言わなければならない。

実は、この「もしも」という仮定を裏づけてくれるもうひとつの古文書が隠岐の島で発見されている。

しかも、その本が著述された年は、『人丸秘密抄』が刊行された年とほとんど同じ時期である。

その本とは、霊元天皇の天和2年(1681年)に、当時隠岐国五箇村の神主であった、藤田薩摩守清次によって著された『穏座抜記』である。

この本については特に興味深いのは、その中に『八百比丘尼(やおびくに)物記』という物語が記録されていることである。

その物語は、何と天武天皇の崩御直後に起きた大津皇子(おうつのみこ)の反乱未遂事件に連座したために、

隠岐に流されてきた柿本人麻呂の子、美豆良暦(みずまろ)について物語っている。目次

 

この本も偽書と言われ、まともに扱われてはいない。

もちろん、これを偽書というからには、それなりの正当な理由もあることは私も認める。

というと、中には、私の取り上げようとしている資料は「すべて根拠の疑わしいものばかりじやないか」と眉をひそめる方がいるかもしれない。

 

しかし、はたして、古文書の記録の中に疑わしい記事が混ざっているというだけで、

その内容全体を偽書だと否定してしまうことができるだろうか。

もしもそうならば、『古事記』や『日本書紀』も偽書だと言わざるを得なくなる。

 

というのは、記紀は歴史の年代記録が矛盾だらけであるばかりか、記事の内容そのものも歪曲されていることが、今日までの研究によって判明しているからである。

中には、記紀が偽書だと主張する学者もいないわけではないが、一部に矛盾があるからといって、記紀の内容すべてを事実に反するものとまでは言えないはずである。

 

古文書の内容には、編纂者が意図的に改竄(かいざん)した部分や、

長く伝承されているうちにもとの内容が誤って伝えられた部分がほとんど例外なく含まれている。

このような実態をまず認めなければ、私たちは古文書を正しく読むことはできない。

そのうえで、周囲の関連文献を虚心坦懐(きょしんたんかい)に読み、

比較検討していくことが必要である、と私は考えている。

 

このような視点をふまえて、もう一度、本論にもどることにしよう。

『人丸秘密抄』より六年遅れた同時代に善かれた『穏座抜記』の著者の身分は、神主であったという。

これからして、彼は決して怪しい人物ではなかったと言える。

その彼が書き残した記録の中で特に私の注目を引く部分は、次のようなくだりである。

 

此頃宮仕し侍れる詩人に、柿の本人磨朝臣あり。

其息に美豆良磨とて、年歯十余才、異母刀自に懇篤なる養育を受け、父に漢学和学の道を習い、唐の高僧道照僧都に仏典を修め、容姿端麗、世に神童と呼ばれる美少年あり。

帝の御覚え厚く、常に大津の皇子に扈して、親交殊の外厚かりしかば、

特に道澄僧都の、宮中講義に聴講を許されしが、大津の皇子と共に、数旬にして教義を修得し、僧都をして讃歎せしめたりしことありき。

此頃日韓の交通愈々盛にして、韓人の我が国に来航帰化するもの相続きけるが、海上にて遭難する者、年に幾百幾千に及び、

海中隠岐の島に漂着する者最も多く、これら漂着者の島に於ける生活は、惨担たるものありて、道澄僧都は常に深くこれを慨想し、

早々隠岐に渡り、寺堂宿坊を開設し、海上の安全を祈願すると共に、漂着者の救済方を念願しけるところ、或日帝にこの由奏上しけるに、

帝は、頼母しき僧都の都を去ることを惜しみ給ひしが、其の願ひもさることなれば法興寺に安置せる、

百済の慧聴僧都携来の、大覚像に多額の資を添え与えて、これを許させ給う。

 
引用文の中に出てくる「この頃」というのは、大津皇子の父である天武天皇の御世のことなので、西暦672年から686年までの間をさしていることになる。

皆さんもご承知のように、天武天皇は、日本史上もっとも親新羅的な天皇であった。

このことは、この時代に遣唐使が廃止される一方、遣新羅使だけが頻繁に往来していたと『日本書紀』に克明に記録されていることからも明らかである。

 
ところが、この引用文の中で特に注目しなければならないのは、 ↑目次

「韓人の我が国に来航帰化するもの相続きけるが、海上にて遭難する者、年に幾百幾千に及び、なかんずく隠岐の島に漂着する者最も多く……」

という部分である。

 
いつの時代でもそうだが、人々は高い文化、文明のある地にあこがれ、そこに行きたがるものだ。

たとえば、明治維新により鎖国令が解かれた日本人は、先を競って欧米諸国に遊学し、新しい知識を学んで帰った。

それが、今日の日本を築き上げる基礎をつくったのである。

 

とすると、当時は日本よりはるかに先進国であった新羅へ、日本から多くの人々が渡航したはずだと考えるのが自然である。

それなのに、この記録は逆に韓半島から多くの人々が日本へ渡来した、となっている。

しかも、おびただしい数の人が海上で遭難した、とあるのはどうしてなのだろうか。

記紀の内容がそうであるように、この部分も改竄されたと考えるべきなのだろうか。

いや、そのようなことはあり得ない。

なぜならば、記紀は政治的理由によって編纂されたものであり、

編纂する側に都合よく仕上げられたと考えられるのに対して、

『穏座抜記』は、そのような政治権力とはまったく関係のない、「隠岐島の伝承」記録だからである。

そうすると、

「韓半島から多くの人々が、日本に渡来しようとして、遭難するものが幾百幾千にものぼった」

という事実は、一体何を物語っているのだろうか。

そのことを知るためには、まず当時の韓半島情勢を検討しておく必要がある。目次

 
しばらく韓半島を三分してきた新羅、百済、高句麗のうち、新羅が唐との連合に成功し、唐からの援軍を得て、宿年の怨敵であった百済を滅ばしたのは西暦660年のことである。

しかし、一方では、百済国を再興させようとする抵抗が各地で続いていた。

その百済を助けようとする日本の朝廷は、二万七千あまりの軍勢を百七十隻の兵船に乗せて韓半島に派遣した。

結果は、圧倒的多数の羅唐連合軍になすすべなく、日本側の惨敗として終わった。

その経緯は、「白村江(はくすきのえ)の戦い」として『日本書紀』に明記されている。

 

百済再興の戦いは、この「白村江の戦い」をもって事実上終わった。

したがって百済の滅亡は、歴史上このとき、つまり663年8月となっているのである。

 
しかし実際には、百済再興の望みがこれで完全になくなったのではなかった。

そもそも唐が新羅を助けて百済を討つようになったのは、「新羅を攻撃しないで仲良くせよ」という二度にわたる唐帝の詔勅を、百済が無視したことに唐帝が激怒したからである。

すなわち、「大唐にさからうものがどのようなことになるか、見せしめにしてくれよう」という理由からであった。

したがって、百済を討ったあとの唐の本心は、自国に従順な百済を再建して、新羅に対する牽制勢力を維持することにあった。

そのために、唐は百済地域に暫定的駐屯軍政を敷いている。

そして665年には、百済王子で唐の大司稼正卿の位にあった「隆(りゅう)」を熊津(うんじん)都督に任命して、領民を按撫させようとした。

一方、新羅のほうにもその趣旨がよくわかるように、唐は新羅王文武と隆を熊津城(今の公州)に呼んで、両国間に不可侵条約を結ばせている(665年)。

ところが隆は、唐将「仁願(じんがん)」が本国に帰るや否や、身辺に危害が及ぶのを恐れて、長安に逃げてしまった。

そこで唐は、再度、隆を熊津都督帯方郡王(実質的には百済王)に任じて、百済の領民を鎮撫しようとした。

それにもかかわらず、隆はますます強大になる新羅を恐れ、新城(旧奉天)へ逃がれて遂に帰国せず、その地で死亡してしまった。

唐はそのあとも、「隆」の孫「敬」を熊津都督帯方郡王に任ずるなどして新羅を強大化しないように努力している。

 
このあたりの状況を、韓国の二大古代史の書のひとつである『三国史記』(245年、金富軾(きむぶしく)によって編纂された)の記録から取り出してみると、おおむね次のようになる。
 
664年2月唐は、新羅の将軍と百済の扶余隆(ぶよんぐ)(旧王子)を熊津(今の公州)で会合させ、和を結ぶことを誓わせた。

つまり、唐には百済を滅亡させる意思はなく、新羅を攻めるなという皇帝の勅命に従わなかったことに対する懲罰をしただけという考えであったから、これからは両国は仲良くせよとさとしたのである。

664年3月 百済の道民が扶余(ぶよ)の扶蘇(ぶそ)山城にたてこもって反乱を起こした。

旧百済地域の治安責任者に任じられていた王子扶余隆は、皮肉にも自分の手兵でこれを討伐せねばならなかった。

670年正月 唐の皇帝は新羅が旧百済の地をしきりに攻め取ることに激怒して、新羅の使節二人を抑留し、そのうちのひとりは獄死した。

この記録は新羅が唐の意志を無視して、旧百済の地を併合しょうとして絶えまなく侵攻をかさねていたことを裏づける。

670年7月 百済の遺民たちが反乱を起こしたので、新羅はこれを攻めて63の城を陥落させ、その地域の百姓を新羅の地に移住させた。

さらに、新羅の兵は7つの城を攻略して、百済側の兵二千人を斬った。新羅はそれにとどまらず、唐軍が守っていた12の城を占領すると同時に、そこにいた七千人を斬り、多くの戦馬と兵器を奪った。

671年正月 新羅は熊津の南に攻め入った。

唐は旧百済の遺民を助けるために、軍を増強した。

671年6月 新羅は兵を出動させて、百済の加林(かりむ)城(今の忠清南道林川)の田、畑を踏みにじらせ、唐軍の兵糧源を断つ作戦に成功した。

唐軍はこれを防ごうと兵を出したが、惨敗。五千三百人が斬られると同時に、百済の将軍二人と唐将六人が描虜になった。

671年7月 怒った唐の総司令官は、新羅王に親書を送って、「新羅は恩知らずで義理を忘れたのか」と詰問した。

新羅王はこれに答えて、

「唐皇帝の恩は忘れていない。その証拠に、唐が高句麗と戦って苦戦していたとき、新羅の百姓たちは自らの食料が不足していたのに、兵糧を輸送するために大軍を送って唐軍を助けたではないか。

百済と和を誓ったけれども、百済の賎民である福信が、百済の遺民たちを糾合して我が軍を攻め立てて城を包囲してしまった。

これにより、城内にいた万余の唐兵は軍糧を断たれて飢え死にする危機に追い込まれたのを、新羅の軍が出動してこれを助け出した。

しかしながら、福信の勢力は日増しにいよいよ強くなったので、唐軍の兵士千人が賊徒を討とうとしたが、かえって賊に破れ、ひとりも生きて帰ったものがいなかった。

(中略)

このように、新羅は和を守ろうとしても百済の賎民たちの反乱が絶えないので、そのまま続くと旧百済地域の百姓どもは農作に従事することができないどころか、祖先伝来の土を捨てて流浪するものが多くなり、その大部分は新羅の領内に入ってくることになる。

そうなると、新羅の百姓も困難に陥るばかりでなく、百済の地も荒廃してしまうことは火を見るより明らかである。

我が新羅が百済の地に出兵するのは、このような事態を未然に防ぐためであり、磨から怒りを蒙るのははなはだ心外で止のる」と抗弁した。

671年9月 唐は四万の兵をもって平壌に駐屯させ、今の黄海道を攻撃してきた。

671年10月 新羅は唐の輸送船七十余隻を襲撃して、将軍二人と兵卒百余人を捕虜にした。

672年正月 百済の古省(こそんぐ)城を陥落させたが、加林城の攻略には失敗した。

672年8月 唐軍四万が攻めて来たが、新羅はこれを迎え討って敵兵数千を斬った。

だが、逃げる唐兵を深追いした新羅の軍が逆襲にあい、良将数人が命を落としてしまった。

672年9月 新羅は捕虜にした唐の将軍たち全員と、同じく拭えられていた百済の将軍や兵士百七十人を唐に送りながら、唐皇帝の許しを乞うた。

 

以上の記録からも、新羅がどのようにして唐の怒りに立ち向かいながら、百済の旧地を完全に手中に収めたのかを知ることができる。

すなわち、人麻呂が日本に渡って来たのが673年8月のことだとすると、

この頃の韓半島では、新羅を懲罰しょうとして派遣されてきた唐軍が新羅の反撃で敗退してしまい、

いずれ唐の皇帝も新羅からの詑びを受け入れることになるという情況が展開していたのである。

建国以来680年間、華麗な文化を誇っていた祖国が完全に歴史の舞台から姿を消していくのを、

あきらめざるを得なかった人麻呂の心中は、いかばかりであったろうか。

こうして、新羅が百済を併呑するのに成功した672年の6月に、日本では、大海皇子による壬申の乱が起きている。

すなわち、新羅が高句麗を滅し(668年)、百済の旧地をも併合した直後に、

日本史上もっとも親新羅的であった天武王朝がはじまっているのである。

私たちは、この事実をただの偶然として片づけることはできないのである。

私がここで特に注目するのは、『三国史記』に残された次のような記録である。 ↑目次

そこには、新羅の文武(もんむ)王が、百済が事実上滅亡した直後の662年に、

「本彼宮の財貨、田荘、奴僕を取り上げ、それを二分して半分は国のものとし、残りの半分を、百済討伐に大きな貢献をした金庚信(きむゆしん)将軍とその子金仁問(きむいんむん)に分け与えた」

と記録されている。

「本彼宮」とは、新羅の三王家「朴」「金」「昔」 のうち、「昔」王家のことをさしている。

その財産や下僕まで一切を没収したというのである。

この記事が、実は非常に重要な意味をもっていることを、見逃してはならないのである。

この「昔」王家は、古代出雲国から新羅に渡って王位についた「昔脱解(すくだるへ)」の子孫である(記紀には「すくなひこ」の名で記されている)。

「すくなひこ」は新羅に渡ったのち、しばらく、新羅の王座にあったが、その後、「金」氏によって王座を追われ、出身地である出雲にもどった。

その後は新羅の仇敵である百済と手を組み、三百数十年間も新羅を苦しめ続けたのである。

実は、仲哀天皇がクマソを討とうとしたとき、神功皇后に新羅を討つようにそそのかした、

「武内宿禰(すくね)」こそ、「昔」王家の後孫であった。

そして、彼の後孫である、のちの蘇我」一族は、一貫して親百済・反新羅の姿勢を取り続けたのである。目次

 

詳しくは『神々の国ご案内』参照

 
ここまで述べれば文武王が百済を討伐した直後「本彼宮」の財産を没収してしまった背景には何があったかは明らかであろう。

つまり、「蘇我」一族の長年にわたる反新羅民族的行動に対する報復があったのである。

ただ、このような新羅の「昔」氏族に対する弾圧を裏づける記録は、残念ながら、ほかには残っていない。

けれども、「昔」氏族がどれだけ悲惨な圧迫を受けたのかをどの文献よりも雄弁に証言しているものがある。

それは、韓国政府が数年前に発表した国勢調査にあらわれた、各姓氏別人口数である。

それによると、韓半島の主人公になった新羅王家にあやかる「金」姓がほぼ880万でもっとも多い。

それに次ぐのが、李朝の王家にちなむ「李」姓で、およそ600万人。

次が、伽耶国王家(あとの新羅)の「朴」姓で、ほぼ350万人である。

ところが、同じ新羅王家であったにもかかわらず「昔」姓を名乗る人は、1万人にも満たない8千人程度でしかない。

この事実は、統一新羅の弾圧に耐えかねた人々が「昔」姓を捨てざるを得なかった事情を物語ってあまりある。

このように見てくると、『穏座抜記』に記録された「多くの遭難者」とは、

いよいよ新羅に併呑されてしまった百済から脱出しようとした人々や、

かつては新羅の王家ゆかりのものであった「昔」姓の人々で、弾圧を逃れようとして、海に乗り出した人々であった、というのが私の見解である。

中には「すくなひこ」のように、「昔」姓を守って日本へ逃げようと海を渡った人も多かったと思われる。

ただし、皆が「昔」姓を捨てたわけではなかったであろう。

このようにして『人丸秘密抄』と『穏座抜記』の記述を歴史の事実と照合していくと、

これらの資料があながち偽書と言えないどころか、

正史から消されてしまった真実を、証言してくれる重要な文献であることがわかってくる。

そして、このことは、そこに記録された歌聖・人麻呂に関する記事が、歴史の真実を反映していることを示しているのである。

すなわち、彼が国も家も父母兄弟も失って、百済の旧地から脱出してきた難民のひとりであった、という歴史の真実を、

これらの文献は雄弁に物語っているのである。目次

人麻呂のように、韓半島から脱出し、日本へ渡来する人々の数は、当時かなりのものであった。

たとえば「昔」姓の人々が日本に渡来したのちに残した姓氏だけを見ても、

現在、12万にものぼる日本の姓氏のうち、第56位を占めていることに驚かざるを得ない。

日本へ渡来した「昔」姓を名乗る人々は、群れをなして同じ地域に定着するようになった。

彼らの住みついた地域には「席田」、つまり、「すくなの地」という地名がつけられるようになっていった。

ところが、年代が下がるにつれて、「席」を「むしろ」と誤って読むようになったので、

「席田」と書いて「むしろた」と呼ぶようになった。

それが、筑前(福岡)の「席田郡(むしろだこおり)」と美濃(岐阜)の「席田郡」である。

 
このように、当時、韓半島から渡来した人々が「席田郡」に定住した事実は、『続日本紀』に残された次のような記録にもあらわれている。

ひとつは、元明霊亀元年秋七月条に、

「尾張の人外従八位席田君迩近(むしろだのきみじこん)および新羅人七十四家を美濃国に貫(とお)して、始めて席田郡を建つ」

とある。

もうひとつは淳仁天平宝字一年冬十月二十八日条に、

「美濃国席田郡(むしろだこおり)大領外正七位上子人、中衛尤位吾志らもうす。子人らの六世の祖父乎留和斯知(をるわしち)、賀羅国(からのくに)より化を慕ひて来朝せり。当時あまだ風俗になれず、姓氏をつけず、望むらくは国号にしたがひて姓字をこうむりたまわんことを、と。姓賀羅造(からのみやっこ)とたまふ」とある。

これらについて吉田東伍氏は、その著者『大日本地名辞書』(冨山房)の中で、次のような見解を述べている。

まず元明紀にある記録については、

「(元明紀)席田君の氏号によりて、席田の郡名を命ぜらるる如くに載せられる、これ恐らくは誤れる。席田君の旧姓は今つまびらかにし難しと雖も、新羅人の曾長にて、蕃別の君なり、この地に郡をたてて、席田の名を得たるより、その氏号を席田君と賜へるにて、旧史の記載この事情を混乱す」

と述べている。次に淳仁紀にある記録については、

「子人は上に(元明紀に)言へる席田君迩近の子孫たること推知せらるるに、不著姓字とあれば、元明紀の席田君ほは全く史家の追筆に出づ。この大領賀羅造の氏神は、当国帳、席田郡正六位下韓明神とあるこれなり」

と述べている。

 

つまり、吉田氏は、席田郡に住むようになったのは、賀羅(加羅、のちの新羅)から渡来した人々であった、と証言しているのである。

すなわち、彼らは、「出身地名をもってその姓にしたい」と願い、賀羅の姓を名乗った、というのである。

ところで、当時の人々が出身地名をもってみずからの姓にしたいという願望をもっていたことは、

「菅原」氏に関する記録からも確められる。

すなわち、『続日本紀』の桓武天応元年六月二十五日条と延暦元年五月二十一日条には、おおよそ次のような内容の記録が残されている。

土師(はじし)の先祖は天穂日命で、その14世の孫、野打宿祢(のみのすく、)は殉死の悪習をなくするために、出雲国から土部(はにべ)三百余人をつれてきて、いろいろなものの形の埴輪をつくって天皇にさしあげた。

……中略……その子孫たちは職業により姓「土師(はじし)」を与えられていたが、昔住んでいたところの地名を姓にしたいと願いでたので「菅原(すがをら)」の姓を許した。

この記録にしたがえば、土師の「前居住地」は「出雲国」であるから、

地名を姓にするなら「いずも」氏としなければならないはずである。

にもかかわらず、どうして「すがはら」になったのだろうか。

実は、「非常な山間地」を意味する出雲という地名は、この地域に与えられた別名で、

本名は「すくな」、つまり「すく=好きな・良い」+「な=土地」であったのである。

出雲が「昔(すく)」氏の出身地であったことはすでに述べた通りである。

この「すくな」が音韻変化して「すがはら」になったのである。

すなわち、「すがはら」の「すが」は、「蘇我(そが)」と同じく「すく」の母音交替形であり、「はら」は「な」と同じく、土地という意味である。

ちなみに、「出雲」が「山間」であることは、「出雲」にかかる枕詞によってもたしかめられる。

普通、「出雲」にかかる枕詞というと、「やぐもたつ」を思い出すであろう。

ところがそのほかにもうひとつ、「山の間ゆ」という枕詞があることを忘れてはならない。

 

次の歌をご覧いただきたい。

「溺れ死んだ出雲娘子を青野山に火葬したときに、柿本人麻呂が詠んだ歌」

山の間(ま)ゆ 出雲の児らは 霧なれや 吉野の山の 蜂にたなびく
(巻3−429)

やくもさす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ
(巻3−430)

「やくもさす」は、神代紀の「やくもたつ」、景行紀の「やつめさす」と同じ言葉で、「非常に遠いと言われる」という意味をもっている。

このように、出雲というのは、記紀において「非常に遠く離れた土地」だと認識されていたところから、

「山の間ゆ」や「やくもさす」という枕詞が発生したということがわかる。

 

出雲の本名である「すくな」を出身地とする人々の姓が、今日どのように表記されているかというと、

「世喜」「勢木」「千木」「堰」「尺」「席」「石」「碩」「積」「関」

などである。

これらの姓の全体数は、丹羽基二著『姓千の語源』によれば、

ほぼ12万にものぼる日本の姓氏のうち、第56位を占めていることがわかる。

それにくらべると、韓国における「昔」姓氏は、ほぼ250ある姓氏のうち、第111位にしかならない。

このことは、新羅の「昔」姓の人々の、韓半島脱出が、当時かなり大規模なものであったことを物語っているだけでなく、

彼らを含む渡来者の数が、我々の想像を絶するほど大きかったことをも示している。

もちろん、人麻呂もこのような渡来者のひとりとして、日本に脱出してきたものと考えられる。目次

 
ニューヨークから松江に移住してまもなく、私は人麻呂が漂着したと思われる益田市を訪れた。

益田市の高津町には立派な柿本神社がある。

縁起によれば、この神社は延宝9年(1681年、天和元年と同じ)に亀井藩主の手によって再建されたもので、元来の社殿は万寿3年(1026年)の断層地震による大津波で海中に陥落したと言われている。

したがって、柿本神社の創建はかなり古いものであると思われる。

ちなみに、人麻呂が生まれたところだと地元の人に言われている戸田にも柿本神社がある。

 

この益田市一帯の海岸には、古くから今日にいたるまで、

韓半島からおびただしい数の漂流物が打ち上げられている。 ↑目次

このことによっても、私の人麻呂漂着説は裏づけられる。

人麻呂の出自を証言するものがもうひとつある。

それは「略体歌」と言われている、人麻呂独特の歌の表記方法である。

この「略体歌」の特徴は、「助詞・助動詞がなく、一音一字の形式をとらない」ということである。

次にあげる人麻呂と家持の歌を比較してみよう。

 
「略体歌」 巻7−1294(柿本人麻呂の施頭歌読みは、澤瀉久孝氏の『万葉集注釈』による)

朝月 日向山 月立所見 遠妻 持在人 看乍偲
(朝月の 日向(ひむか)の山に 月立てり見ゆ 遠妻を 持ちたる人は 見つつ偲はむ)

「非略体歌」 巻6−994(大伴家持の歌)

振仰而 若月見者 一目見え 人之眉引 所念可聞
(振りさけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引(まよびき) 思ほゆるかも)

巻18−4114(大伴家持の歌)

奈泥之故我 花見流其等尓 釆登女良我 恵末比能尓保比 於母保由流可母
(なでしこが 花見る毎(ごと)に 少女らが 笑まひのにはひ 思ほゆるかも) 

これらを見てわかるように、「略体歌」は、漢字の訓をもって表現されたものである。

これに対して「非略体歌」は、漢字の訓と音を混用したり、音だけを借りて表記されているもので、「てにをは」が使用されていることがわかる。

 

人麻呂の場合は、初期の歌、すなわち日本に渡来した当初の歌は「略体歌」であったが、

のちになってしだいに「てにをは」を使う形式をとるようになっていく。

一方、大伴家持の場合は、16歳のときに詠まれたという初期の歌(巻6−994)にも、すでに「てにをは」が使われており、

末期になると一音一字の形式が断然多くなっている。

そこで、漢字の訓で表記された人麻呂の歌をさらによく検討してみると、

それらは、「中国の漢文式表記ではない」ことに気づかされる。

このように、漢字を用いながらも、実際には漢文になっていない表記の仕方を、「吏読(りとう)」という。

この形式をはじめて採用したのは高句麗で、その後しだいに百済でも使用されるようになり、かなり遅れて新羅にも伝わっている。

 
朝鮮語の系統
 

この吏読方式で書かれたものは、日本でもいくつか見つかっている。

特に有名なのは、有明海にそそぐ菊池川左岸の台地にある古墳群の中の一基である、江田船山古墳から出土した鉄刀に刻まれた銘文である。

もうひとつは、北武蔵の埼玉古墳群の中の、稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた銘文である。

これらの銘文が、吏読方式によって書かれていることは、

すでに拙著『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』によって明らかにした通りである。

このように、人麻呂独特の歌の表記方法である「略体歌」は、「吏読」という古代韓国独特の手段で書かれたものである。

このような事実からも、人麻呂が朝鮮半島から渡来した人物であることはまちがいないのである。

 
【百済歌人・人麻呂の境遇】 ↑目次
 
人麻呂が益田に漂着したのは、『人丸秘密抄』によれば彼が「二十余り」のときとなっているので、

20から25歳の間、つまり22、23歳の頃と考えられる。

その彼を迎えた当時の「ヤマト国」は、親百済一色であった天智王朝とはうってかわって親新羅社会になっていた。

ここで、私が「親百済社会から親新羅にかわった」と言っても、

読者の皆さんにはあまり実感がわかないだろうと思う。

そこで、そのときの社会感情がどのようなものであったかを知ってもらうために、

天智紀十年正月条にあらわれている「童謡(わざうた)」を紹介しよう。

ついでながら、「わざうた」とは、作者未詳の「わらべうた」のことで、

「民衆の政治的、社会的不満を、歌の形であらわしたロコミの一種」である。

そのような「わざうた」は『日本書紀』に23首ある(もっと多いと見る異論もある)。

特に、舒明・皇極・斉明・天智紀に、集中的にあらわれている。

なお、一音一字式吏読表記になっている、これらの「わざうた」の従来の読み方や解釈は、

すべてがまちがいで、読み直しが必要である。

では、従来のもののどこが誤っていたのか、

正しくは、どうとらえるべきなのかを見てみよう。

 
原  文 

多到播那播 於能我曳多曳多 郡例々騰母
陀麻爾農矩騰岐 於野児弘傭農倶

従来の読み 

たちばな(橘)ほ おの(己)がえだえだ(枝々)な(生)れれども
たま(玉)にぬく(貫く)とき(時) おなじ(同じ)お(緒)にぬく

従来の解釈 

橘の実は、それぞれ異なった枝になっているが、それを玉として緒に通すときには、同じ一つの緒にとおす、ということで、生まれや身分・才能が異なっているものを、共に叙爵し、民列にひとしく並べた政治を、ひそかにとがめて、やがて起きる戦乱を風刺した童謡(『日本古典文学大系』岩波書店による)。

私がとやかく言わなくても、読者の皆さんは従来の読みが不自然であるばかりか、その解釈もまったく理解しがたいものであると感じるにちがいない。

これを古代朝鮮語で解釈すると次のようになる。

韓国語読み

たちばなば おぬんあいぇたいぇた ないぇいぇとも
だまにのんぐくとき おやあほんぐにのんぐ

ご覧の通り、読み方は従来のそれと、あまりかわらない。だが、その意味になるとまったくちが
ってくるのである。

正しい意味 

皆投げ売りするらしい。来る児には誰にでもほれほれとくれてやる。私ですか? はい、はい、他にまた何かありましょうか? とねだる。ただ、そのようなお前は「うじむし」だ。おやあほんぐ(あまえるしぐさの擬声)と甘えている。

このような解釈が正しいことは、この歌がどのようなときにはやったのかを見れば、すぐ理解できる。

この歌が記録されたのは、天智紀10年正月のことである。

 

このとき、天智天皇は、百済からの遺民66人あまりを一挙に登用して、

法務次官をはじめ、中央朝廷の各局長、課長クラスなどに任名するという異例の人事を行なっている。

っまり、この歌は、百済一辺倒の天智天皇が、新しく百済から逃げて来たばかりの人々を、

いきなり高い官位に採用したことに対して、

「冠位の投げ売り」と非難する一方、そのような爵位にありつこうとする百済の遺民たちを、

「うじむしと同じやからだ」と罵倒している内容だったのである。

このように親百済の天智王朝時代には、

民衆の間に百済からの遺民に対する嫌悪感情が、極度に高まっていたことがよくわかる。

ところがその天智王朝が滅び、今度は親新羅の天武王朝が新しく誕生した。

そのような政権交代後まもない天武2年に亡命してきたのが、百済人「人麻呂」であった。

 

彼は、亡命後まもなく歌人として朝廷に仕えるようになった。

とはいうものの、彼を取り巻く環境は、百済人を蔑視する気運でみなぎっていた。

彼は、自分がそのような渦巻きの中に巻き込まれていることを発見したことであろう。

そんな人麻呂を慰めてくれるただひとつの手段が、歌を詠むことであったにちがいない。

彼の歌の中には、他人に解釈できないような表記をして、ひとりクスクスと笑っていたと思われるようなものがいくつかある。

そのひとつが「七夕の歌」で、左注には天武9年に詠まれたものだと明記されている。

原文は次の通りである。

巻10−2033
天漢 安川原 定而 神競者 磨待無

 
この歌の「定而 神競者 磨待無」の訓み方に関して、いろいろな異説がある。

たとえば、「磨待無」を「とき(時)待たなく」とする学者や、「磨」を「暦」のまちがいだとして、「まろ(麿)も待たなく」とする学者がいる。

後者の例としては、澤瀉久孝氏がその著書『万葉集注釈』の中で次のような解釈をしている。

天の河の安の河原も定められて、八百万の神々が神集(かむつど)ひ、神謀(かむはか)りや舟競(ふなきほ)ひをなさるので、自分(人麻呂)も明を待たずに舟出しよう。

 

もちろん、万葉集は、筆写されて今日に伝わってきている。

したがって、中には誤写もあったことだろう。

しかし、だからといって、歌の意味がわからなかったり読めないときに、

当該の文字をただちに「誤字」だと、決めつけてしまうのは、一方的すぎる。

このやり方は、もともと本居宣長以来の悪習で、それによる解釈も正しいとは言えない。

 
一方、前者の「磨待無」「時待たなく」と読むことに対しては、次のような指摘もある。

すなわち、「磨」は「とぎ」であり、その「とぎ」の「と」は、上代特殊仮名遣いでは甲類である。

これに対し、「時」の「と」は乙類であるので、「時待たなく」と読むのはまちがいだというのである。

 

人麻呂は、一体、これらの歌をどう読ませたかったのだろうか。

私は、次のように読み、解釈すべきだと考えている。

天の河 安の河原に とどまりて 神きほふれば 星は待たなく

 
このうち、まず「安の河原にとどまって、神々が競(きほ)う」の解釈から考えてみよう。

「安」の字義の中には、「平安」とか「静か」などという意味があるので、「安の河原」とは、「静かで危険のない河原」というふうに理解できる。

また「神々が競(きほ)う」とは、「神々が論議する」ことであることが記紀の神話からもわかる。

 

それでは、「静かで危険のない場所で論議する」とは何を意味するのだろうか。

私は、この問題を解くカギが、

初期新羅(実際には伽耶時代であった)で行なわれたという、「和白制度」にあると思う。

この「和白制度」とは、国王の選出やそれに準ずる「国の大事を論議」して決定するために、

六部族の族長が「聖地に集まって行なった議決制度」のことである。

そこでは、「つねに全員一致」でなければ可決できないというのが原則になっていた。

この「族長たちの国政論議」こそ、

まさに、「神々の論議」と表現されるにふさわしいものだと思う。

 
出雲大社神在祭
 
また、「磨」「星」と訓む理由については、「磨」の字義が「とぎ」であり、「とぎ」の語源が韓国語の「びょり」であることから知ることができる。

というのは、「星」の語源も韓国語の「びょり」であるからである。

 

このように、「磨」と表記しながらも「星」の意味をもたせたところに、人麻呂の巧みさがある。

たしかに万葉集には、ほかの意味をもつ漢字を使って、自分の言わんとすることをあらわした例が非常に多い。

たとえば、山上憶良の歌である巻16−3866、3867の「沖つ鳥 鴨云舟者」の「鴨云舟者」もその手法で詠まれたものである。

この部分は、従来は「鴨という名の舟は」と解釈されてきた。

ところが、「鴨」は韓国語では「おり」といい、「帰って来る」という言葉の「お」と同じ発音である。

したがって、この部分は「帰って来るといって出かけた舟が帰らない」という意味になる。

山上憶良は、4歳のときに父に伴われて百済を脱出してきた人である。

だから人麻呂と同じように漢文の素養が高いばかりでなく、百済の言葉(古代朝鮮語)も話せる人であったから、

「鴨」という漢字を「おり」(鴨に対する朝鮮語)と読ませることができた。

 
人麻呂が「七夕の歌」の中で、漢字の「磨」(朝鮮語で(びょり)と読む)を「びょり」(星)と読ませた技法も、憶良のそれとまったく同じやり方であることがわかる。

なお「競う」は、現代日本語では「きそう」と読むが、万葉の時代にはまだ、現代韓国語「きょる」の古形である「きょはる」の変形「きほる」が使われていた。

 
以上のような内容をふまえて、この歌全体を解釈してみると、

「神々は安の河原にとどまって、いろいろと論議をしているが、相愛の彦星と織女星は待ってないので、天の河を渡って逢う瀬を楽しむのだ」

となる。

人麻呂は、「この歌の意味は、今来(いまき)(新しく朝鮮から渡来した者)でないお前らにはわかるまい」と、内心ほくそ笑んでいたのかもしれない。

 
【人麻呂と持統天皇の出会い】 ↑目次
 

人麻呂は、天武天皇の歌の師として朝廷に仕えた。

しかし、先にも述べたように、新しい政権内の宮廷人たちの間には、百済人蔑視の雰囲気が満ちていた。

そのような環境の中で、人麻呂が目立つ活動をすることはむずかしかったであろう。

人麻呂が本領を十分発揮できるようになるのは、持統天皇の時代に入ってからである。

どうして、持統天皇の時代から人麻呂は宮廷歌人として光彩を放つようになったのだろうか。

天智朝は非常に親百済的であった。

一挙に66人あまりの百済人が登用されたという、天智十年正月条の記録から推しても、いかに親百済的であったかがわかる。

このような天智朝廷下では、百済方言がいたるところで使われていたはずである。

高位にある百済人の宮人が使う、ゆったりとした口調の百済の方言は「雅(みや)びやかな言葉」とされて、

多くの人々が我先にそれをまねようと努めたにちがいない。

京都を中心とする今日の関西弁は、このようにしてできあがっていったのである。

一方、そのあおりを受けた関東弁は、「歌にならない粗野(そや)な東(あずま)言葉」と蔑まれるようになった。

朝廷の重要なポストが百済系の人々によって占められたばかりでなく、

言葉遣いまでもけなされていた当時のヤマトの人々にとって、

百済人はどれだけ憎悪の対象であったかしれない。

ところが、その後に起こった壬申の乱は、百済人を極端に嫌う東北の人々の力によって、大海人皇子側の勝利に終わった。

その後、天武天皇が即位し、新しい朝廷が誕生すると、百済方言はもはや「宮廷語」ではなくなった。

東西を問わず、いつの時代にも、勝者の言葉は敗者の言葉を駆逐するものである。

こうして、新しく誕生したばかりの天武天皇の時代は、勝利の勢いにのる東北人の鼻息がなかなか静まらず、

今まで百済方言をまねした人々もなりをひそめてしまうような状況であった。

そのような親新羅朝廷に突然あらわれた新参の百済人が「人麻呂」であった。

人麻呂が語る百済方言の言葉に対して、人々の嘲笑と揶揄が浴びせられたとしても何ら不思議はない。

このことを裏づけるかのように、天武天皇の時代に人麻呂が詠んだ歌の数がきわめて少ないばかりでなく、目立った作品も残されていない。

逆に言えば、人麻呂が万葉の歌聖として数多くの歌を残しながら、天武天皇の時代にはとんど歌を残さなかった理由も、

このような朝廷の雰囲気を理解してはじめてわかってくるのである。

しかし、窒息しそうな雰囲気の中で耐えていた人麻呂に、ようやく「再生の希望を与えてくれる存在」があらわれた。

それが持統天皇の出現だったのである。

持統天皇には、天武天皇との間に生まれた草壁皇子という息子があった。

実ほ、この皇子の死が、持統天皇と人麻呂の出会いのきっかけとなったのである。

この皇子は、別名「日並皇子」とも言われ、持統天皇の最愛の子で、周囲の人々からも大いに期待されていた。

ところが、皇子は日頃から病弱だったようである。

天武天皇10年2月には皇太子になっていたが、天武天皇が崩御したときには病弱のために、即位できる状態ではなかった。

そのため、母の持統天皇が即位して皇子の回復を待つことになった。

しかし、その願いもむなしく、皇子は持統天皇3年4月、まだ28歳の若さで亡くなってしまった。

持統天皇を喜ばせるには、天皇の好きな吉野宮を詠むのが自然であったが、天皇の心中を知る人麻呂にとっては、

天皇が誰より愛する草壁皇子がそれにもまして重要な歌の対象であった。

ところがこの皇子は、病弱で早死にしてしまった。

そこで、人麻呂は皇子の死を哀悼する歌(巻二−167)を詠んで、その母を慰めたのである。

当時、近江の荒都を見て、中大兄皇子の悲嘆に思いを馳せたのは、人麻呂ひとりだけではなかった。

娘として、亡き父を心の中でひそかに偲んでいる人がいた。

それは、人麻呂が宮廷歌人として仕えていた持統天皇である。

天武天皇の妻として、その運命をともにしながらも、心ひそかに亡き父を偲ぶ持統天皇。

そして、その心の機微を誰よりも察して、しかも人目にたたないように歌で表現する人麻呂が急速に接近するようになったのは、

当然の成り行きと言えるだろう。

人麻呂は、持統天皇の最愛の皇子であった草壁皇子を哀悼する長歌を詠んで母心を感動させたうえに、

近江の荒れた都を悲しむ歌をもって、その父の心情を慰めながら、急速に天皇の心をとらえていったのである。

 
その持統天皇は、異様なほどたびたび吉野宮に出かけている。

人麻呂はたびたびその御供をしながら、吉野宮を讃めたたえる歌を残している。

持統天皇の吉野宮行幸がいかに頻繁であったか、その異様さは次の表からも明らかである。

持統3年=正月・8月………2回

持統4年=2月・5月・8月・10月・12月………5回

持統5年=正月・4月・7月・10月………4回

持統6年=5月………1回

持統7年=3月・五月・七月・九月・11月………5回

持統8年=正月・4月・9月………3回

持統9年=2月・3月・6月・8月・10月・12月………6回

持統10年=2月・4月・6月………3回

持統11年=4月………1回         

計30回

この後、文武天皇に譲位してからも、吉野官に2回(大宝元年6月、大宝2年7月)行っており、全部合わせると、記録に残っているだけでも、天武天皇の死後、32回にも及ぶ。

このような持統天皇の吉野宮行幸に人麻呂がいつも御供したのではないが、おそらくその回数はかなり多かったであろう。

いつのときかはさだかではないが、吉野官へ同行した折詠んだ、人麻呂の歌を見てみよう。

巻1−36

 
やすみしし わが大君の聞こしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内(かうち)と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太しきませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ぎほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高しらす みなぎらふ 滝の都は 見れどあかぬかも
 
(大意)

いやがうえにも貴い(やすみしし)我が大君のお治めになる天下には、国は多くあるけれども、山川の清い河内だと御心をさだめて、吉野の国の花散り舞う秋津の野辺に、立派な宮殿を築かれたので、多くの大宮人たちは、舟を並べて朝に川を渡り、舟を競い合いながら夕に川を渡る。この川の流れが絶えることのないように、この山のようにいよいよ高くお治めになる、飛沫たつ滝にある宮のところは、いつ見ても飽かないことよ。

この歌の「この川の絶ゆることなく、この山のいや高しらす」という表現は、「君が代」の「千代に八千代に」という歌詞と、非常に似通った言い回しと言えないだろうか。

巻一−37「反歌」

 
見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆることなく また帰り見む
 
(大意)

いつ見ても飽かない吉野の川の、絶えることのない流れのように(とこなめの)、またここへ帰り釆て見よう。

巻1−38

 
やすみしし 吾が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神(ゆまつみ)の まつる御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 紅葉(もみじ)かざせり ゆきそふ 川の神も 大御食(ほみけ)に 仕へまつると 上(かみ)つ瀬に川を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さしわたす 山川も よりて仕ふる 神の御代(みよ)かも
 
(大意)

いやがうえにも貴い我が大君が、神様として神らしく、吉野川の激流のある河内の地に、高い宮殿を高くおつくりになり、そこに登って国見をすると、青垣のように幾重にもかさなり合う山々、その山々の神が奉る御調(みつき)として、春の頃には花をかざしてもち、秋になれば紅葉をかざしている。それに添い流れる川の神も、天皇のお食事にさしあげるとして、上の瀬には鵜飼いをし、下の瀬には小網をさしわたしている。山や川も寄って来て仕えまつる神さまの御世であるかな。

巻1−39

 
山川も よりて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも
 
(大意)

山も川も寄って来て仕える神として、激流の流れる河内に船出されることよ。

この長歌二首と反歌は、人麻呂の長歌の中でも飛び抜けた傑作として知られているものだが、それは偶然のことではないと私ほ考えている。

つまり、人麻呂にとっては、持統天皇ほどありがたいお方はいなかった。

その持統天皇が好きな吉野宮を、最高の修飾詞を駆使して讃めたたえ、持統天皇を喜ばせたい人麻呂の執心が、このような傑作をつくりだしたのだと思われる。

巻一−36の「この川の流れが絶えることのないように、この山のようにいよいよ高くお治めになる…」と、巻一−38の「山も川も寄って来て仕えまつる神様の御世」のところには、人麻呂が唯一の心のよりどころとしている持統天皇の時世が、いつまでも続いてくれるようにとひそかに願う、人麻呂自身の祈りがこめられていたのである。

 
【歌聖・人麻呂の没落とその晩年】 ↑目次
 

すぐれた挽歌をいくつも残している人麻呂なのに、

自分のもっとも大事なパトロンであった持統天皇を悼む歌をひとつも詠まなかったのはなぜだろうか。

私には、この謎の背景に、天皇の死と同時に、宮廷から追い出された人麻呂の後姿が見えてきてならない。

人麻呂の晩年の歌作年代を見ると、持統天皇が亡くなる前の年からあとのものはまったく見当たらない。

人麻呂自身の死に臨んで詠んだ歌(巻2323)が、和銅元年から3年までの間(707〜709年)の作と推定されているだけで、

大宝元年(701年)、つまり、持統天皇が亡くなる前年以後のものは、不思議なことに、ひとつも見当たらないのである。

このことは、人麻呂の没落と持統天皇の崩御がきわめて密接にからみ合っていることを十分物語っているのではなかろうか。

ところで、持統天皇が崩御された702年とは、一体どのような年であったのだろうか。

まず、万葉の著名な歌人たちの生存のいかんから見てみよう。

万葉集編纂の主役である大伴家持は、生まれたのが718年(一説には715年)なので、この年にはまだ生存していない。

また、人麻呂と並んで歌聖と言われるようになる山部赤人が生まれるのも、ずっとあとのことである。

一方、家持の父、大伴旅人は37歳の男盛りであり、山上憶良は43歳で、初老の角に立っている。

万葉の才女額田王は、生年と没年は明らかではないが、

彼女が天武天皇との間に生んだ十市皇女の子である葛野王の生年から逆に推定すれば、

635年前後(異説もある)に生まれたと考えられる。

したがって、もし彼女が生きていたとすれば、この年にほ67歳のお婆さんになっていたはずである。

この年、すでに52歳になっていた人麻呂は、名家の族長であり、朝廷の重臣であった大伴旅人や、

山上憶良と宮殿で顔を合わせることも、たびたびあったにちがいない。

にもかかわらず、彼らの間でたがいに唱和し合った歌がないのは、

それだけ人麻呂が宮中において孤独な存在であったことを物語っているのではないか。

次に702年のヤマト国の社会の動きに目を転じてみよう。

この年、ヤマト国では隼人の大乱が起こり、社会が騒然となっている。

隼人の乱がはじめて起こったのは700年(文武4年)のことであるが、

そのときは大したことにはならずすぐに平定されている。

二度目に起きた702年の反乱も、短期間に鎮圧されてはいる。

しかし、このような朝廷に対する隼人の相次ぐ反乱は、当時の社会に大きな動揺を巻き起こした。

このあとも隼人の乱はたびかさなり、家持の祖父である大伴安麻呂の出動(722年)と、

家持の父、旅人の出動(720年)を仰ぐことになるが、

その頃はすでに人麻呂がこの世を去ったあとである。

このような702年という年に、人麻呂は宮廷を追われたと思われる。

百済から逃げてきた身でありながら、天皇の寵愛を独り占めしている詩人が、

慶尚道方言(伽耶・新羅方言)を使う朝廷の宮人たちの目には、

苦々しくも、ねたましい存在として映ったとしても何ら不思議ではない。

だからこそ、持統天皇というパトロンの死去は、ただちに人麻呂の宮廷からの追放につながったにちがいないのである。

宮廷から追われた人麻呂に与えられた職責は何だったのだろう。

それをたしかめるすべは残されてはいない。

ただ、彼の死んだ場所が、斉藤茂吉氏の指摘している、石見国邑智郡邑智町江川岸にある鴨山であるとしたら、

次のように考えることはできないだろうか。

当時、石見国は大和政権にとって重大な鉄の産出国であった。

そこに派遣された人麻呂は石見国から採れる鉄の検分や、

それを都まで護送する任務を与えられていたのではないかと私は思う。

鉄のような重い荷物は交通の不便な陸路で運搬するより、

船で運んだはうがよほど効率的であったにちがいない。

 
…朴 炳植著「柿本人麻呂と壬申の乱の影」より
 
朴 炳植(パクピョングシク)
1930年,北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の咸鏡北道鏡城に生まれる。高靂大学校礎営大学院修了。韓国で海外建設会社を経営の後,古代言語研究生活に入る。現在 島根大学講師著書に『ヤマト言葉の起源と古代朝鮮語』(島根総合研究所),『日本語の悲劇』『日本語の成立証明』『日本原記』(情報センター出版局),『日本語の発見』『万葉集の発見』(学研),『ハツケヨイ!ハングル』『クマソは何語を話したか』『スサノオの来た道』『出雲風土記の謎』(毎日新聞社),『万葉集枕詞辞典』(小学館)など。
 
 
 
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