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出雲弥生の森博物館 大国主命神の系譜

弥生時代の全国最大級の王墓が集まる「西谷墳墓群」……

出雲弥生の森博物館では、王墓から発見された貴重なガラス勾玉や腕輪などを展示。

特に王の葬儀の様子を大胆に復元した、巨大ジオラマは必見。

見る人を弥生時代へ、出雲王の世界へといざないます。

史跡公園には、埋葬された王が出現する展示施設があり、見どころ満載です!

 

出雲弥生の森博物館概要

 
名称 出雲弥生の森博物館
 
所在地 島根県出雲市大津町2760番地(出雲弥生の森前)
 
設置の目的 西谷墳墓群の調査・研究・保存・公開・管理
 
敷地面積 敷地面積 4996.88平方メートル
延床面積 2961.50平方メートル(本館棟:2882.38平方メートル、保存処理棟:79.12平方メートル)
本館棟内訳 西谷墳墓群ガイダンス(展示・交流)施設 1436.13平方メートル
埋蔵文化財センター(収蔵保管・研究)施設 1446.25平方メートル
構造 鉄骨造2階建
 
駐車場 一般用:86台・ 大型バス用:4台・障がい者用:4台
開館時間 9:00〜17:00
休館日 毎月火曜日(祝日と重なる場合は翌日)・年末年始
入館料 無料
 
お問い合せ 出雲弥生の森博物館
〒693-0011 島根県出雲市大津町2760番地
TEL:0853-25-1841
 
  
  
 

西谷墳丘墓群

 
西谷墳丘墓群は、1953年に多量の土器が出土したことにより発見されました。

1983年から1992年の島根大学による3号墓の調査、

1997、1998年の出雲市教育委員会の調査などにより、

弥生時代後期後半から古墳時代中期(2世紀後半〜5世紀頃)にかけてつくられた、

総数32基の墳墓群であることが明らかになりました。

墳墓のうち6基は、四隅突出型墳丘墓(よすみとしゅつがたふんきゅうぼ)」と呼ばれる、

弥生時代後期後半(2、3世紀頃)の、山陰地方独特の墳丘墓(ふんきゅうぼ)です。

この墳丘墓は、四角い墳丘のコーナーが、舌状に張り出す奇妙な形で、

その表面には、独特の方法で石が貼られています。

中でも突出部を含めると50mを超える3号墓や9号墓、

40mを超える2号墓や4号墓は、

弥生墳丘墓としては、全国でも最大級のものです。

また、調査で出土した土器などから、

葬られた権力者たちが、

吉備(現在の岡山県と広島県東部)地方や北陸地方と、

密接な交流をもっていたことも明らかになっています。

さらに、近くの荒神谷遺跡や、加茂岩倉遺跡で出土した、

多量の青銅器が埋蔵された後につくられた、墳墓群であることも見逃せないとことです。

この西谷墳墓群の出現や、青銅器の多量埋蔵の背景には、

弥生時代の出雲に、大きな勢力が存在したことが考えられます。

近年これを証明するかのように、

北側に広がる出雲平野では、日本海沿岸で最大級の弥生時代の集落跡が、明らかになりつつあります。

 
 
西谷4号墓から見る3号墓・2号墓
西谷3号墓
 
西谷3号墓
西谷3号墓は、「西谷の丘」に造られた最初の王墓で、弥生時代後期後葉のものです。

突出部を含めた規模は約55m×40m、高さ4.5mです。

裾まわりの石列は2列です。

島根大学を中心とした調査団によって発掘調査され、

鉄剣やガラス勾玉、大量の土器(吉備、北陸系の土器を含む)などが発見されました。

博物館で復元した、王の姿や葬儀の様子は、その調査成果をもとにしています。

【西谷3号墓の調査の概要】
 
西谷3号墓は、一辺40メートル×30メートぐらいの、墳丘の四隅に突出部がついたという形でして、

突出部を含めますと東西が50メートルぐらい、

南北が40メートル以上という、

 
古墳時代の、

そんじょそこらの古墳よりも、

大きい規模をもっております。

 
ご覧のように、墳丘斜面には石がびっしりと敷き詰められており、墳丘の裾部には右列が二列にありまして、

非常に荘厳な感じを与える、そういう造りをしています。

上から見上げると、石の山に見えたことでありましょう。

その石は、神戸川の中流域から持ってきた石だというふうに、地質学の専門の方に鑑定して頂いております。 大国主神の原郷
  
さて、その埋葬施設、棺桶を埋めた穴というのは、マウンドのてっぺんにつくられております。

棺桶を埋めたと考えられる穴は、私共の発掘では、これは全部発掘したわけではございませんが──少なくとも8力所以上はある。

つまり8人以上の人が、葬られているということになります。

──しかし、その中でも中心になる埋葬施設は二つであります。

考古学の方では、埋葬施設のことを主体という言葉を使って表します。

発見順に番号をつけまして、第一主体、第二主体というふうに呼んでおります。

第一体というのは最初に発見された埋葬施設という意味であります。

最初に発見しました第一主体と、四つめに発見しました第四主体、この二つが西谷3号墓の中心的埋葬施設です。

ですから本日は、この二つについて主としてお話することになりますが、

この二つの埋葬施設の一と四という数字は発見順を示すものですので、

一番すごいとか、四番目にすごいとかいう意味はありません。

実は、一番すごいのは第四主体なんですけども……。

その第一主体と第四主体というのが墳丘頂上の真ん中に並んでおりまして、

それを避けるようにより小さな埋葬施設がありました。

ですからこの墳丘墓は、第一主体に葬られた人物と第四主体に葬られた人物が中心的に眠っている。

言い換えれば、この二人のためにこの墳墓は造られ、それに付き従うような感じで小さな埋葬施設がいくつもつくられた、と考えられます。

小さな埋葬施設は、どういう人間が葬られたのかよく分からないですけれど、

非常に小さな埋葬施設もありますので、

ひょっとしたら生まれてすぐ死んだ子とか、そういう者も含まれていた可能性があります。

とにかく全部で10近い埋葬施設がありました。

池のある小さな谷がありますけれども、この谷が西谷という谷でして、

この谷を取り囲むように、弥生時代から古墳時代にかけての様々な墳墓が造られております。

池の手前の丘陵の上が、西谷3号墓です。

西谷3号墓のすぐ南側に4号墓というのがありまして、これも四隅突出型の大型の墳墓です。

それから、今、三谷神社という神社がのっております山が西谷9号墓で、

これも非常に大きな四隅突出型のお墓と考えられます。

それ以外にもかなりの数の墳墓が、この山には造られております。

写真1は、西谷3号墓の発掘前の景観です。

現在、北斜面と東側斜面に石垣がありますが、これは後世造られたものでして、弥生時代の石垣ではありません。

非常に見事な台状の山ですけど、江戸時代にはこの上にお堂があったという言い伝えがあります。

写真2は、発掘で明らかになった、墳丘の裾回りの様子です。

墳丘の斜面にはご覧のとおり、非常に大きな石が敷き詰められています。

その裾には二条の立石の列がありまして、それぞれの立石の内側に石が平らに敷いてあります。

ですから、墳丘の裾まわりの一番外側に、立石がありましてその内側に石が敷いてある、

その内側にまたもう一列石が立っていてまた石が平らに敷いてある、

それから貼石のある墳丘斜面が始まるという具合に、非常に凝った造りをしています。

墳丘のいろんな部分で、発掘区を設けて調査しましたけれど、

墳丘が削られてしまっている東斜面や北斜面以外の場所では、どこでもこういうふうな状況が確認できました。

墳丘は全体として、こういう手の込んだ石の構造で取り囲まれていたのです。

 
写真1 写真2
 

下記の写真は気球を上げて撮っています。

墳丘の頂上では、埋葬施設の発掘をしています。

下方が突出部でして、突出部の先端部分は商業高校を造ったときか何かに削られてしまっていまして、

遺存はよくありません。

四隅突出型のお墓というのは、安来市などで幾つか知られていまして、保存され整備されている遺跡もありますが、

この写真を見ていますと、こう言っちゃなんですけど、

安来の四隅突出型は、西谷三号墓に比べると子供だなぁ〜という印象を持ちますね。

 
 
【第一主体と名付けた埋葬施設について】
 

地表面を掘り進めますと、土器の破片がうじゃうじゃ出てきまして、

足の踏み場もないといった状況になってまいりました。

小さな破片をどんどん取り除いていきますと、

写真3のようにたくさんの土器が、グシャツと置かれたような状態で出てまいりました。

ちょっとした窪みの中に、土器が詰まっているというような感じです。

この窪みは、この下に埋められていた棺桶が腐って上の土が崩れてできたものです。

ですから、本来は、棺を埋め戻して、地面を平らにしてその上に土器が置かれていた、と推定することができます。

土器を全部取り除きますと、その下から丸い石が出てまいりました(写真4)

この石は握り拳よりちょっと大きいぐらいの石ですが、表面がきれいに磨かれておりまして、

それから叩いたような痕もあります。

よくよく見ますと真っ赤な水銀朱が、こびりついておりまして、

どうも朱を精製するときに使った道具ではないだろうか、

というようなことをその時思ったわけです。

ですから、棺桶を埋めた上にまずこの石を置いて、そこに大量の土器がまた置かれた、という状況が推定できるわけです。

先ほどの土器は、復元した結果全部で100個体ぐらいあることが分かっております。

写真5は、さらに下を発掘した全景写真です。

このような大きな穴がありまして、その中に一段深い穴を掘ってその中に棺を埋めておりました。

真ん中が赤くなっておりますが、これが棺桶のあった場所で、

棺の中には真っ赤な朱が敷き詰められていたわけです。

棺桶は腐ってなくなっておりますが、土層の観察によって二重になっていたことが突きとめられました。

この穴の大きさは南北方向が6メートルちょっと、東西方向が4.5メートルぐらいです。

すぐ横にもう一つ小さな埋葬施設がありまして、さらにその西に、後ほど紹介する第四主体があります。

 
写真3 写真4
写真5
 
【副葬品の出土状態】
 
赤いのは朱です。

ガラスの管玉が、首飾りのように並んでおります。

おそらく、首から下げた胸飾りだったんじゃないかと考えております。

それから白く見えているものもガラスです。

黒いものが二つ見えますが、これはガラス製の勾玉です。

ガラスの玉類には、いくつかの種類のものがありました。

ほかに碧玉で作られた管玉がありますが、分析の結果、出雲の花仙山で採った碧玉ではなくて、

どうも北陸の方から持ってきた、北陸の方で採れた石を材料にした管玉らしいということが分かっております。

 
 
 
下記1図の右側が、今紹介した第一主体ですが、

これからこの左側の第四主体と名付けた方の紹介をいたします。

初めに大体の概要を述べておきますと、

やはりこれも南北方向が6メートルぐらい、東西方向が4.5メートルぐらいの小判形をした大きな穴ぼこでして、

深さは地山の面から1.4メートルぐらいあります。

第一主体の方は1メートルぐらいでしたから、第一主体より第四主体の方が深いわけです。

ただし全体の大きさは似たような大きさなんですね。

しかし、深さは大分違います。

第四主体では中に棺が二つあったことが確認されました。

このスクリーントーンで描いてあるのは、朱が敷かれていた部分で、

朱が敷かれた大きな棺と小さな棺の二つの棺が中に埋められておりました。

しかし当然のことながら中心は、大きな棺の方でして、

小さな棺の方は、大きな棺を埋める途中で脇に添えられた棺であります。

棺桶を全部埋めた後で四カ所に大きな穴が掘られまして、

その穴の真ん中に、丸太棒の柱を立てていたことが分かりました。

それから、それぞれの穴の外側に、より小さな穴がありまして、

この穴も、やはり柱を立てたものだということが、発掘の結果分かっております。

この四つの大きな柱穴をメインの柱ということで、主柱と呼んでおりますが、

四本の主柱が立って、それを支えるような形で四本の細い支柱がその外側にある(これを副柱と呼んでいます)という状態だったようです。

もちろん木の部分は全部腐ってしまって残っていないわけですが、

発掘時のいろんな検討によれば、ここに柱が立っていたことは間違いありません。

この柱を立てるための穴は、直径1メートル20センチぐらいあるんです。

ものすごく大きな穴です。

その中に、直径30から40センチの丸太の柱を、四本垂直に立てていたのです。

さらに、その柱で囲まれた真ん中辺りに、二つの石が置かれておりました。

先ほどのスライドで第一主体の方にも石が置いてあったということを紹介しましたが、

ここでも棺の真上の、ちょうどここに葬られた人物の胸の真上ぐらいの位置に石が置かれていました。

小さい棺の方にも、ちゃんと石が置かれています。

 
図1「主体の配置と棺上円礫」
 
それでは発掘の様子をスライドで見ていただきましょう。

第四主体の上の方も、地表を発掘していきますと、

ご覧のように足の踏み場もないような状況で土器が出てまいりました。

土器片の一点一点について図面をとり、高さを測ったりする作業を、毎日毎日二カ月ぐらい続けました。

大変な量ですので本当に苦労しましたが、土器片を復元した結果、200個以上の土器になりました。

 
 
下記写真6は、土器のアップです。

この大きな土器は、吉備の方から運んできたいわゆる特殊壷とか特殊器台とかいわれている土器の破片でして、

いったいここは、出雲なのか吉備なんだろうかと、錯覚を起こすくらい、

吉備の土器が目立つ、出土の仕方をしております。

写真7は、どんどん土器片を取り上げていきまして残り少なくなってきた状況ですけれども、

その段階で、四つの柱穴があるということが分かってきました。

土器群を囲むような感じで四本の柱が立っていたのです。

写真8はもう少しで土器が取り上げ終わる状態なんですが、

ご覧のように土器群の下から砂利が出てまいりました。

右側の円礫は、小さな棺桶の真上に当たるところに位置する石です。

左側の砂利を取り除くと、この下からもう一つ丸い石が出てきまして、

これが主棺、つまりメインの棺の真上に当る位置に置かれた石ということになります。

要するに土器が置かれる前には、どうも中央部には玉砂利が敷かれていたらしいのです。

 
写真6 写真7
写真8
 
玉砂利も取り除きますと、写真9のように、ちようど四本柱の真ん中辺りに一個丸い石があって、その横にもう一つ石がある。

何で二つあるのかと、この時はよく分からなかったんですけども、

結局、中央の石に対応する大きな棺桶が、真ん中にありまして、

横の石に対応する位置に、小さな棺が添えられていたと、

そういう構造だったわけです。

写真10は、四本の主柱の柱穴を完掘したときの、記念写真です。

学生さんに柱穴に立ってもらってますので、大体の大きさが分かると思うんですが、

非常に大きな五右衛門風呂みたいな感じの穴なんですね。

そういうものを掘って、そこに丸太棒を立てて何らかの設備をつくっていた。

その真ん中には丸い石が置かれていて、

その周りに多分玉砂利が敷かれていたと想像できます。

学生さんがいると邪魔なのでちょっと退いてください。

はい、退いてもらいました(写真11)

こういうふうな感じですね。

左は第八主体と名付けた、別の埋葬施設です。

ここにも、小さな棺桶が置かれていたことが分かります。

画面の右手が、第一主体ということになります。

 
写真9 写真10
写真11
 
それでは、本当に柱が立っていたのか……ということですけれども、

写真12は主柱穴と呼んだ柱穴の土層断面なんですが、

中央とその左右とで土の色が違っているのが、わかると思うんです。

この真ん中の黒っばい土の詰まっている部分が、柱の立っていた場所でして、

その左右の土はその柱を支えるために埋めた土なんです。

長い間に柱が腐ったか、あるいは柱を抜き取ったかした時に中に詰まった土と、

柱を支えるため周りに詰めた土の違いが、こういうふうにはっきりと見えるわけです。

中央の土の幅が、柱の太さということになります。

それから真ん中の石ですが、

石の下をちょっとほじくって見ました。

そうすると、下の土が赤っばい色に変色していました。

つまり、この石はもともと赤い朱が付いていて、それが長い間雨風に打たれたせいでしょうか、

流れ出して下の土を赤く染めたというわけです。

石には、所々に朱が痕跡的に残っておりました。

つまり、四本柱の真ん中に真っ赤な石が置かれていたということになります。

さらに、その下を発掘していきました。

 
写真12
 
底をきれいに出した状態です。

中央が主棺と呼んだ大きな棺、右が副棺と呼んだ小さな棺です。

真ん中の深く掘った赤い部分が棺でして、

その外側に、やはり棺を取り囲むような設備があって、

これも二重の棺桶になっていたことが、発掘の結果分かっております。

棺内に一連のガラス製の管玉がありまして、脇に剣が一本出ております。

 
 
写真13はそのアップです。

右側が剣ですね、鉄で作った剣です。

中央がガラスの管玉なんですけど、

このように、本来の繋がっていた状態が、よく残っておりました。

紐を通して首からかけた胸飾りだと思われます。

真っ赤なのは朱です。

写真14は、第四主体の上から出た土器のほんの一部です。

大部分は山陰つまり地元の土器なんですが、

この右の方にある土器は、どうも山陰では見たことのない土器でして、

似たものがどこかにないかと探しますと、京都府の北部いわゆる丹後、その西の但馬、

それから東の越前とか北陸にかけての一部地域に、よく似た土器があるようです。

それから左手の奥にあるこれらの土器は、さっきもちらっと申し上げましたが、

間違いなく吉備から、運ばれてきた土器です。

 
写真13 写真14
 
図は、西谷3号墓から出ているものについて、分かりやすく示した漫画です。

左に「吉備さん」がおりまして、この人が提供した土器が手前にあります。

「吉備さん」の頭をなんでこういう格好に描いたのかということについては、

後ほど近藤先生がお話しになると思いますが………。

「出雲さん」は四隅突出型の頭に措いておきましたが、その手前にあるのが出雲の地元の土器です。

吉備の土器も、台の上に壷をのせるというスタイルでしたが、

出雲の方も台とその上に壷をのせるというセットで、それに小さな盃のようなものが付属しております。

それから右手が、これが先ほど申しました丹後あるいはその周辺部に類例があるという一群の土器でして、

やはりこれも台に壷をのせる、あるいは最初から壷に台が付いている、そういうスタイルです。

その他に、剣だとかガラス玉・碧玉の玉、あるいは大量の朱…第四主体の朱は全部で10キログラムぐらいあります…

そういったものを、どこから手に入れたのかということが問題になります。

碧玉につきましては、さっき申し上げたように、どうも北陸産のものらしいということが推定できますが、

その他のガラスとか、朱、あるいは鉄の剣なんかについては、

どこで作ったものなのか、どういうルートで運ばれてきたものなのか、よく分かっておりません。

スライドは以上です。

さて、もう一度西谷3号墓第四主体の1で、何が行われていたのかということをまとめておきましょう。

まず、棺桶を6メートル×4.5メートル、深さ1.4メートルという大きな穴の底に据えて埋め戻します。

だいたい平らにしたら、その棺のあった場所を取り囲むような位置に、

直径が1.2メートル、深さが1メートルぐらいという大きなドラム缶のような穴を四カ所掘りまして、

そこに直径が30から40センチの丸太の柱を立てます。

そして周りに土を詰めて固定します。

それから、さらにその外側にもより小さな穴を掘ってそこにも柱を立てました。

中心の四本柱とそれぞれの外側にあった小さな柱が、どういうふうな関係で構造的につながっていたのかは、

よく分かりませんが、とにかくそういう施設をつくる。

そして、その真ん中、ちょうど地下に埋まっている被葬者の胸の真上辺りの位置に、朱で真っ赤に染まった石を置きました。

その石には棺桶の中に敷き詰められていた朱と同じものが付いているわけです。

この石は非常にきれいに磨かれた饅頭形の石なんですが、

おそらく埋葬の儀礼を行ったときに、この石を使って朱を最終的にすりつぶす行為があったのではないか、

そして石に朱が付くということで、亡くなった被葬者・首長の霊魂がこの石に乗り移っている、

というふうに当時の人は考えたんじゃないかなどと、想像しております。

さて、その石を四本柱に囲まれた中央に置きます。

そしてその周りに玉砂利を敷き詰めます。

玉砂利は全部持って帰って広げてみましたら、直径が1メートルぐらいの範囲に広がる量でした。

従いまして、真ん中に赤い石が置かれ、その周りに玉砂利が直径1メートルぐらいの範囲で敷かれており、

それを四本の主柱が取り囲んでいる、そういう設備がつくられた。

それ以上のことは、なかなか分からないんですけども、

おそらくそういう舞台設定をした上で、200個以上の土器を使う何らかの儀式が執り行われたと考えられます。

その儀式が終わった後、その儀式に使われた土器は、全て一括してその4本柱の中央に集めて、

おそらく山にしたんじゃないかと思われます。

そういう状態にして人々は墳丘の外に出て、すべての儀式は終了する。

王の葬送儀礼には多くの人が参列し、飲食をしたのでしょう。

以上のような情景が、今から1800年前、

あの山の上で繰り広げられていたということが推定できるわけです。

また、このような手厚い儀礼は特別なもので、亡き王が偉大な力を持っていたことが想像できます。

なぜ、西谷3号墓の土器の中に、出雲以外の地方から持ってきた土器があるのかということは、

大変興味深い問題です。

図の円グラフは、西谷3号墓から出た約300個の、

実際には300をだいぶ越えそうですけども、土器の大体の内訳です。

(1)と書いた部分は、全体の三分の二ぐらいを占める地元出雲の土器です。

ご覧のように、器台の1に壷をのせる、それとのようなものが付くというセットでして、

これは第四主体だけでも、50セットぐらいあるんです。

地元から50人ぐらいの人間が参列していたということを示すのかもしれません。

大変な量ですね。

それから次に多いのが(2)でして、全体の四分の一ぐらいを占めております。

これがその上の図のような土器で、さっき申し上げましたように似たものを探すと、

丹後とか、そこを中心としてあるいは但馬あるいは越前というふうな、あの地域に類例が見られるという土器です。

この図面の左下のものは大きな器台ですね。

土器をのせる台で、その上に壷をのせる。

それからその右側のは最初から脚を付けている。

要するに、日常的に使う土器というよりも、お供えをするための土器という形をしています。

これも正確な数はまだ分からないんですけども、10や20じゃなさそうです。

それから(3)は、これは量は大したことないんですが、

土器がものすごく大きいので、先ほどのスライドでもやたら目立っておりました。

復元して数を数えてみたら、全部で20ちょっとぐらいの数になりました。

これが、吉備の方からはるばる中国山地の山並みを越えて運ばれてきた土器でして、

吉備の方で、特殊器台とか特殊壷という名前で呼ばれている土器です。

これは近藤先生が詳しくお話しになると思いますが、

吉備の方では偉い人の、いわゆる首長と呼ばれるような人の、お墓の上で行われた儀式に使うため、

そういった目的で特別に作られた大型土器なんです。

吉備の方ではたくさん出土しておりますけども、大きいものになると高さが1メートルもあります。

こういう土器が出てくるということは、お墓の上で行われた儀式に、

吉備の方から来た人が参列していた…ことを示しているんじゃないか、というふうに思います。

それから、丹後あるいはその周辺部でよく似たものがあるという土器については、

あの辺りから来た人が、やっぱりこの墓のお祀りに参加していたのではないか。

ただ、このお墓での儀式に参加するために来たのか。

あるいは、そちらの方から移住して来た人が、もともといて、そういう人がこの儀式に参加したのか。

その辺はそう簡単に解明できるわけではないんですが、いろんな可能性を考えなくてはなりません。

私は、おそらく北陸ないし丹後とかそちらの方から移住していた人達がいたんじゃないか、という印象をもっております。

一方、吉備の土器については、西谷3号墓で行われた葬送儀礼といいましょうか、

亡き首長を葬り祀る儀式のために、こういう土器を抱えて吉備から幾人かの人が来たんじゃないか、というふうに考えております。

西谷3号墓の調査によって、弥生時代後期に簸川(出雲)平野を根城にしたであろう、偉大な人物の存在が明らかになってまいりました。

西谷3号墓は、山陰地方を中心に分布する四隅突出型の墳墓の中でも最大クラスのお墓ですから、

その被葬者は、大きな権力を握っていた人物だったんだろうと想像できます。

彼が死んだ時には、吉備地方からもお葬式に参加するために人が駆けつける、そういうような人物であったのです。

ただ、なんでお葬式に駆けつけたのかというようなことになると難しいのですが、

一つの仮説をお話したいと思います。

第四主体の方は剣が出てますから、葬られているのは多分男だろう。

第一主体の方は装身具ばかり、玉類が全部で200個ぐらい出ていることから多分女だろうと想像されます。

女だって剣を持っていても構わないわけですけど、とにかく常識的にそんなふうに考えておいた場合に、これは夫婦ではなかろうか。

そして、そのどちらかが吉備から来た人間だったのではないかという可能性を、私かに考えております。

婚姻関係っていうのは、同盟関係なんですね。

今だって政治の世界では、政治家同士いろいろやってますよね。

誰某大臣の娘は、誰某代議士のお嫁さんだとかいろいろありますね。

婚姻関係というのは、同盟関係をつくるときの最大の武器になるわけで、

おそらく出雲の首長と吉備の首長が、婚姻関係を媒介にして何らかの政治的な同盟関係を結んでいたのではないか。

特殊土器の移動の背景には、そんな事情があったのではないか…というふうに想像しております。

あんまり想像ばっかりしていますと、『お前は本当に考古学者か』と言われそうなので、

この辺でやめておきたいと思います。

発掘によっていろんなことが分かったと同時に、また様々な謎が出てまいりました。

私共も一生懸命考えているところですが、

本日午後のシンポジウムでいろいろな先生からもご意見を頂戴して、

さらに考えを進めていきたいと思っております。私の話はこれで終わります。

 
…渡辺貞幸(島根大学教授)「四隅突出型墳丘墓の謎に迫る」より
常設展示室1
 
正面に西谷3号墓の1/10の復元模型があります。
 
 
 
 
 
 
【西谷3号墓をめぐって】
 
司会…

それでは、一応テーマ1を終わりまして、だいたい四隅突出型墳丘墓の起こりと広がりについて触れていただいたと思います。

つづいてテーマ2、これがメインになりますが、西谷3号墓をめぐってという話に入っていきたいと思います。

渡辺さん、午前中の報告でお話になりましたが、特に西谷3号墓の主体部をめぐるお話を、

確認という意味でもう一度お話願えますか。

渡辺…

第四主体と第一主体と大きな埋葬施設が、二つ並んでおりますが、

平面的な大きさはたいして変わらないわけですけども、第四主体の方がずっと深い、つまり排土量が多い。

土器も第一主体の土器は100なのに対して、第四主体では200以上の土器が出ている。

しかも墓上施設がある。

つまり柱が立っていたわけですけども、それは第一主体の方にはありません。

発掘技術が未熟だから見逃しているんじゃないかというふうにお疑いの方もあるかもしれませんが、

これは間違いなくありませんでした。

したがいまして、西谷3号墓の真の主人公は、第四主体に葬られた人物ということになります。

第四主体では、午前中お話しましたように、まず埋葬施設をつくって埋めた後墳丘のてっぺんに、全体に盛り土をします。

そして四本の柱を立てて、そのそれぞれの柱の外側にもう少し小さい柱を立てる。

それから真ん中には赤い石、

これはおそらく、朱をすり潰すいわゆる石杵・すり石であると同時に、その首長の霊のよりしろと言いましょうか、

早い話が、御神体のような機能もあわせ持っていたのではないかと想像しております。

そしてその周りには玉砂利が敷かれて、いかにも神聖な神域のようなものがつくられる。

そこでおそらくそれを囲んで、儀式が行われたと考えられます。

さっき質問用紙をちらっと見せていただきましたら、

「四本柱の上はどうなっているんだ」

というご質問が何人かの方からありました。

私もそれが知りたいわけですけども、

何分考古学で出てくるのは柱穴だけですので、この質問は非常に困るんです。

しかし柱穴は、直径が1メートル以上深さも約1メートルあって、

柱を支えるために周りに土を詰めておりますけども、

その土は、白っばい土と赤っぽい土を交互に入れて、どうも突き固めているみたいですから、

かなり頑丈に柱が立っていた。

したがいまして、屋根があってもいっこうにおかしくないと思います。

あと高床式だった可能性はどうかということですけども、

その可能性も無いわけではございませんけど、よくわかりません。

しかし、少なくともたぶん屋根はついていたんじゃないかなあという気がしております。

木は全部腐ってまして全く痕跡はありませんでしたので、それ以上のことは言えない、

あとはもう想像力の世界ということになります。

 
…東森市良(司会=島根考古学会副会長)・渡辺貞幸(島根大学教授)「四隅突出型墳丘墓の謎に迫る」より
 
【供献土器と共飲共食儀礼】
 
司会…… 

それでは再確認したしますが、第一主体100個、第四主体200個というたくさんの土器をどういう具合に使ったのでしょうか。

渡辺……

これもまた難しい問題ですが、午前中も言いましたように、

土器は基本的に壷と、それをのせる器台のセットになっています。

ただの壷ではなくて、その壷が台の上にのせられているということです。

これは地元山陰の土器も、吉備の土器も丹後方面の土器も同じでして、

すべての土器が、いかにも儀式に使うべく、用意されているというふうに思えるのです。

では、どんな儀式かということですが、近藤先生も先ほどおっしゃいましたように、

たぶん飲み食いしたのではないかという気がいたします。

壷の中には、明らかに後から孔を開けて使えなくしているようなものがありまして、

おそらく儀式が終了した後で、この土器はもう使わない使うべきでない、

こっそり家に持って帰るなんてことしちゃいけない、

そういう土器だということで、孔を開けて機能を失わせるということも行われたらしいのです。

……そのへんはむしろ近藤先生がお得意な所ではないかと……(笑い)。

司会……

近藤先生、先ほど講演の中でおっしゃった、共飲共食儀礼のことについてお話いただけませんか。

近藤……

西谷三号墓では、全部あわせると300個体の土器が出てるんですね。

そのうちかなりの多くが、壷の系統、もう一つは器台の系統です。

先ほど私は壷には酒を入れたに違いないと申しました。

山陰の人は昔から酒が好きで、100もの壷に酒を入れて並べてお祀りした。

吉備の方も負けてなくて、各地とも酒飲みばかりだったのでしょう。(笑い)

私は、壷に飯を入れたり水を入れたりしたものではないと思います。

お祀りするのに、水飲んでするバカはいません。

お祀りの時はそれは、どんなに下戸でも、酒飲んだ振りして酔っ払った振りするものです。

しかも、亡くなった首長の霊魂を、誰かが引き継がなくてはいけない。

亡くなった首長はその集団の中心の存在として、対外交渉もやるし、争いの指揮もとる、

それから、農耕の季節の移り変わりに際していろいろな指示もする。

とにかく集団の中心なんです。

だから、特別な力を持っていると、当時は思われていたわけです。

それが、後になると固定されてしまいますけど、

弥生時代というのは、まだおそらく固定されてない段階だと思いますけども……

そういう首長が亡くなると後継ぎが当然出て来ますけど、

ただ単に、おまえが後継ぎになれというのではなくて、

その後継ぎは、亡くなった首長の力を引き継がなくてはならない、

つまり、霊力を霊魂の力を引き継がなくてはならない。

そのための儀式が、先ほどから申してますように、一緒に酒を飲むんです。

場合によっては飯も食う、今でもそういう儀式はあちらこちらで、形を変えて残っていますね。

そのために器台を作り、そして壷の中に酒を入れて壷を器台の上にのせると、酒が神聖な酒になってしまう。

その酒を首長の霊前、埋めてからか埋める前かよくわかりませんけど、おそらく埋める前でしょう。

あるいは半分くらい榔をつくって……棺を入れてからかもしれませんけど。

そこで盛大な祀りをやって、首長の霊魂を次の首長が村人と一緒に、その力を受け取る儀式なのです。

それを我々は、共飲共食の儀式と考えているわけです。

それを、側面から強調してるのが赤い朱です。

これは、世界共通の現象でありまして、

赤い色というのは生命の復活、それから霊魂の力を高めると、

ほとんどすべての地球上の人類は、かなり早くからこうした考えを持っています。

おそらく血液、人間の命を支えているのは血液です。

血液がどっと流れるとたいてい死んでしまいます。

それと赤という色の持つ力が同じものか、

あるいは同じ物とはいえないかもしれませんけども、非常に類した物だという……そういう観念のもとに、

朱が亡くなった首長の霊魂の力を高めていくわけです。

まず復活させて高めていくわけです。

そしてその前で酒を飲む、高められた霊魂を引き継ぐという儀式に、朱は大きな力を発揮した。

だから西谷3号墓では、10キログラムほどの膨大な量の朱が使われている。

普通の墓だったら、朱があってもひとつまみです。

西谷の大首長は、10キログラムもの朱をおくられて、

おそらく中小の首長があっちこっちから集めてきたか、

あるいは大陸からもたらされたかもしれませんね。

そういう朱によって、西谷の亡くなった首長の霊魂の力はますます大きくなって、

それを新しい首長が引き継ぐ、そういう事であります。

 
…東森市良(司会=島根考古学会副会長)・渡辺貞幸(島根大学教授)・近藤義郎(岡山大学名誉教授)「四隅突出型墳丘墓の謎に迫る」より
 
【出雲王の証「勾玉」出雲弥生王朝のシンボル】
 
女王の首飾りに使用された勾玉は、他に類例がない珍しい形をしています。

西谷2号墓、3号墓の副葬品には、王族のアクセサリーと考えられるガラス製品が出土しています。

ガラスは当時の日本でも作られていたようですが、

西谷墳墓群から出土したものの一部は、大陸からの輸入品のようです。

直接輸入されたとは考えにくく、北部九州を介してもたらされたと考えられます。

これら大陸産のガラス製品が出土することが、出雲王の証です。

 
 
妖しい光彩を放つガラスの勾玉…国宝より価値のある出雲王朝の至宝(島根大学考古学研究室所蔵)
 
【儀礼に参列した人たちと土器】
 
墓上の儀礼に参列した人たちは、儀礼に使用した土器からわかります。

約200個体の土器の中には、地元の土器以外に、

吉備(きび)や北近畿〜北陸地方の土器によく似たものが見つかっています。

このことから、儀礼には亡き王の一族や出雲の他の集団代表者、それに加えて、

吉備や北近畿〜北陸地域の代表者が、参列したに違いありません。

このことからも、亡き王が広域にわたって偉大な力を持っていたと想像できます。

 
 
黄色の服装の人々は山陰の人たち
緑の服の人々は越の国の人たち・青色の服の人々は吉備の国の人たち
 
【西谷2号墓】
 
3号墓の次の代の王墓です。

大部分が破壊されていましたが、発掘調査で巨大な墳墓であったことが判明しました。

突出部を含めた規模は約50m×35m、高さ3.5mです。

裾まわりの石列は2列です。

ガラス腕輪や、葬儀に使用した土器(吉備の土器を含む)などが発見されています。

史跡公園で、当時の姿を復元しています。

 
 
【西谷2号墓内部】
 
コンクリート構造の展示室として整備されています。
 
 
【西谷2号墓のガラス管玉】
 
管玉もネックレスとして使用されました。

材質はソーダ石灰ガラスで、西谷3号墓からも出土しています。

同じ材質のものは、福岡県平原1号墓出土の連玉がある程度で弥生時代としては珍しいものです。

 
 
【西谷2号墓の埋葬の様子】
 
鏡と照明を使ったミラービジョンで、埋葬の様子を見ることができます。

朱は西谷2号墓と3号墓から出土し、特に3号墓では棺内に厚く敷き詰められていました。

朱は死者の再生・復活を願うもので、朱の量が多いほど力を持っていた人が埋葬されていたと考えられます。

朱を分析した結果、中国駅西省の鉱山から採取されたものであることがわかっていて、朱も輸入品のようです。

以上のことからも、西谷に埋葬された王の偉大な力を感じることができます。

 
 
【西谷2号墓内部】
 
壁面のパネルで、埋葬の様子を詳しく解説しています。
 
 
西谷9号墓
 
 
 
 
…出雲市教育委員会編集「出雲・西谷墳墓群シンポジウム四隅突出型墳丘墓の謎に迫る」より
 
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