| 加茂岩倉遺跡からとり上げられた銅鐸群は、難波洋三氏や古代出雲文化センターの専門家たちによって精細な調査がすすめられた。
そして、調査の進行に応じて時どきに発表される内容の報道と、別に面談の機会のあった佐原真・森浩一・金関恕氏や難波氏などに、いろいろと教示をいただいていた。
多く学ばせていただいたが、考古学には門外漢なので、教えられたといっても、果たして理解が行き届いているか誤解はないかとの自省もあるし、自分の力量からいっても、銅鐸論についてとくに発言する心算(つもり)はない。
ただ、本稿執筆を機に、銅鐸の絵についてだけ、思いを少し述べてみよう。
29号鐸の人面の絵をみたとき、アッと思い、突然のこと、法隆寺金堂(ほうりゅうじこんどう)の本尊の台座裏から発見された一二文字を思い出した。
一二文字は落書(らくがき)といったものではなく、隠された場所に書かれてはいたが、きわめて意図的な、なまの主張を簡潔に記した文で、いわば意図的な隠し書きである(拙稿「墓前の絵と仏像台座裏の文字」明日香風三六号、のち拙著『飛鳥古京−古代びとの舞台−』に収録)。
まさに唐突でありピント外れと笑われるかもしれないが、隠し書きとの連想から、29号鐸の人面を含む銅鐸絵画の一解釈を率直に記してみたい。
加茂岩倉遺跡出土39個の銅鐸のうち、絵画が確認されているのは、10・18・21・23・29・35・37号鐸である。
そもそも、銅鐸の専門的な研究にとって重要なのは、流水紋・袈裟襷紋(けさたすきもん)などの紋様であって、「絵画ではない」とは聞いている。
そんなことの生半可な知識や、銅鐸絵画といっても銅剣や稀に弥生土器のそれも含めて、線刻の人の姿態、シカ・イノシシ・トンボ・カマキリ・カエル・カメやスッポンなどやその意味の論説も少しは知っていたので、あまり驚きや感興は覚えなかった。
強いていえば23号鐸のカメ(ウミガメ)には、出雲びとの水霊意識を考える手掛かりの一つにはなるかなと、それなりに魅かれた程度であった。
しかし、29号鐸の人の顔の絵は別で、アゴが細まる逆三角形をベースにしたような丸顔の、のびやかな眉の下に大きく見開いた目、その下に目とは不釣合いに小さな鼻と口、入墨(いれずみ)なのか眉の上の横線と、両頬に逆さまにコンマのかたちにはね上げた小円と強い線……。
仏像のお顔のような洗練さや内面性を訴える表現とはほど遠く、稚拙ともいえるが、目と"入墨" に引きつけられて、雄勁・怪異な印象をうける。
顔が刻されているのは、吊り手の中央上部である。すぐに、10年ほど前に拝見した木幡家蔵の推定島根県出土銅鐸の、いわゆる邪視文(じゃしもん)の顔も思い出した。
眉目が強調されるのは共通の特徴だと思われる。
だが、そこでは、ほぼ左右対称に、眉目から大きな鼻に通じる強い線で端正にととのえられた表現の仕方であり、29号鐸とはかなり異なるという印象である。
その後、この顔は、29号鐸の製作工人が、自分の顔を措いたとか、同僚工人の顔ではないかとかの解釈があることを知った。そうではないだろう。
後世の工人や庶民の墨の落書の人面の絵でも自画像はなく、むしろ、自分たちの作業や労働を監督したらしい宮人の形姿が描かれている。
29号鐸の人の顔を刻したのは、たしかに銅鐸製作工人ではあろうが、かれらは、前に立つモデルを見ながら刻したのではないと思う。
この顔相の背後にあったのは、かれに印象されていた権勢と威厳を体現していた当地の首長であり司祭者でもあった人のイメージではなかったろうか。
この銅鐸が吊るされた祭祀の場に集まった人びとは、この銅鐸を前にして、巫覡(ふげき)らのすすめる祭儀のなかで、あらためて首長の宗教的権能と権威を体感したのではないか。
当時の祭祀の場の情景にも及んで、わたくしの想像は、これをみるたびに増幅されるのである。
ことに、人面のある29号鐸は、他地域にまだ同笵鐸(どうはんたく)をみないという。
地の紋様は袈裟襷紋(けさたすきもん)だが、この人の顔の絵には、現地の出雲びとのなまの主張や感覚をみる想いがする。
そういえば、他の絵画のある18・23・35号鐸は、おそらく1・26号鐸を祖形にした現地の工房で製作されたものとのことである。
とすれば、他の10・21・37号鐸の絵画も含めて、それらは当時当地の人びとの固有の主張や生活感覚をなまに示しているといえるのではなかろうか。
逆にいえば、流水紋や袈裟襷紋や区を限る格子の紋様は、各地の銅鐸に共通するいわば普遍的な紋様であり様式であるが、地域固有のものが直接的に表われるのは、むしろ絵画について考察できるのではないだろうか。
それは、法隆寺金堂本尊の釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)が、儀軌にもとづく模様をベースにした模様の普遍的様式をもつ早い例として創作されながら、その台座裏に、なお古墳の墓前祭祀へのこだわりを主張する一二文字の文を隠し書きしていたのと同様の関係においてである。
しかも、絵画をもつ銅鐸は、一個や二個でなく、一挙に七個も出土しており、鋼鐸絵画を群として考察できる。それらを出土した加茂岩倉遺跡発見の重要な意義の一つは、ここにもあるように思う。
…門脇 禎二著「古代出雲」より
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