| 私が神職を拝命して始めて奉仕したのは、昭和24年11月3日の桜江町八戸、四日の旭町山ノ内の大元社の式年祭であった。
その夜のことは、かつて「島根民俗」復刊号第二号に「大元神楽に於ける神懸りに就いて」に書いているので、ここにその一部を特載すると、
其の夜八時前、氏子一同は大元社に参集して、私の行くのを待っていた。
暗がりの中にも皆な極度に緊張しているらしい様子が察せられ、今夜は吃度神懸りがあるに違いないと言う予感がしたので、同職の一人に、君はどう思うかと尋ねてみた。
「さあね、私も初めてですのでよくわかりませんが、随分皆な真剣ですね」と答えた。
大元社の社殿が狭いので、今宵の神楽はここから五六町先の八幡様の境内迄、これから御神事を願うのである。
用意万端整うと、炬火二本だけを残して、すべての灯りが消された。
神幸は粛々として、星月夜の小川の道に沿うて、やがて八幡宮の社殿に到着した。
社殿には既に地元民を始め隣村の人達で身動きもできない程、ぎっしりと詰っていた。
不断白足袋などはかない若衆達が、真剣な顔をして正座しているのが、却っておかしく見えたりしたが、何事も小声にしか受答えしていなかった。
12時過ぎ所定の神事を済まして、神職一同は頭屋へかえりひとまず休憩する事にした。
然し私だけはすぐ引き返して、群衆にまじって何時神懸りの状態に入っても、その処置に困らぬだけの心構えをしていた。
2時頃であったろうか。注連起しにかかるや、全く突然、舞殿をゆるがす様な狂声が起った。
それは予期していたよりも余りの早さで、舞子達も面喰った。
又祭場の群衆達は、始めて見る神懸りの正体にかたずを呑んだ。
瞬間水を打ったような静けさに返った。
一同どう処置してよいものか当惑した。
矢つぎ早に狂声が起り、舞殿の上を二三尺も飛びはねる。
一人の若者が特げる様にして外に出て行った。(私が頭屋に居るものと思って呼びに行ったのである。)それでも咄嵯の間に託綱は本山の柱から端山の柱へと引き渡された。
一人の腰抱きでは間に合わず、二、三人して託太夫の腰を抱いているけれども、二、三尺飛び跳る都度、腰抱き達も一緒に飛び上っている。
顔色は充血して赤黒く、臥は全く坐っている。
呼吸するたびに全身が波打つ。
かく見る内に、東西に引き渡した大〆の中央まで託太夫を連れて行った。
そして両手を託綱の上にかけさせ、これ以上荒びさせぬように腰抱きがしっかり腰を抱きすくめた。
(腰抱きの任務は重大である。託太夫が尻餅をつくと神懸りの状態を失い、又託綱を飛び越えると死ぬと言い伝えられている。)
氏子総代の一人が、半紙一束を切って造った勧請幣を奉持して託綱を挟んで向い合に立ち、その幣の先端を託太夫の烏帽子に触れるように奉持しながら、誘導訊問の形で神託が行われた。
恐る恐る大元大明神様におたずね申上げます。
来年の作柄は如何でございませうか。
良いとただ一言あったのみ。
次に大元様の御祭日は11月3日でございますが、これを4月3日に変更したらと氏子一同相談していますが、御神意は如何でございませうか。
その答えは、「4月3日もよいが、11月3日を決して忘れるなよ」、最後の忘れぬなよと言う言葉には非常に力がこもっていた。(後日この神託によって祭日変更の話は取止めとなった。)
それから「神主は、牛尾楯夫、牛尾三千夫の子孫代々の者に奉仕させ」
この言葉は私に意外であった。それは全然おたずねしなかった事柄であったし、霊媒なるものが、私の父の名は知っていたかもしれないが、今度始めて奉仕する私の名前まで知っているとは想像出来なかったからである。
疑うにも疑えない託宣であった。
以上の外にもまだ訊ねる事は半紙にしたためていたようであったが、咄嵯に起る余りのはげしい振舞に、これ以上神懸りの状態をつづけさす事を気にしてか、もうこれで本山に返ってもらうと二三の者が言い出した。
そして神殿に居た私の処へ本山に返して下さいと言って来た。
私はこうした場面に初めて臨んだので、はたして一度でうまく神返し出来るかどうか、稍不安な気持を持って舞殿へ下りて行った。
神返しの秘法は「打拂い」と称して、祖父からも、又父からも一通り聞いていたので、その通りの作法を行うと「あっ」という声を発して、託太夫は正気に返った。
その瞬間、群集は誰に始まったか知らないが、託太夫の大元様に向って、威儀を正し一同拍手拝礼した。
それは期待に酬いられたと言う安堵と共に神々しい一瞬時であった。
この八戸集落から山一つ越すと山ノ内集落である。
山ノ内には天明六丙午年(1786)の書留に、既に大元神楽執行の記事が見えるから、現在まで絶ゆることなく行われた唯一の集落である。
明治初年神職の託宣行事を禁ぜられた際、私の祖父はこの集落の越毛と言う家の大屋某に、その秘儀を伝授して置いたので、山中の七年に一度のことである故に、隠れて託宣を行って来たのである。
同地の細野一利氏の記憶によると、今まで神がかりした人は次の通りである。
昭和12年 朝広屋の藤本清重さんの父
昭和18年 潜石と言う家で行ったが不成功
昭和24年 藤本作市
昭和30年 藤本和雄、原という家にいた人
昭和36年 ウツラの孝さん樋口重義さんの長男
昭和42年 私──細野一利
昭和18年に不成功に終った理由は、この山ノ内集落は現在、炉谷・峠谷・細野谷の三つの谷が寄り合って約三十戸からなっている。
元来大元社は細野谷だけの12戸の大元社であった。
他の鈩谷は勝地集落の大元社の刀祢内であり、峠谷の家々は八戸集落の大元社の刀祢下であった。
舞頭屋が鈩谷で行われたことと、鈩谷や峠谷から託太夫を選定していたから、細野谷の大元神は喜ばれなかったのであろうと私に教えた人があった。
祖霊大元神がその子孫であらざる者に神がかりする筈がないと言うことを知り、以後細野谷以外の者は託太夫になることを遠慮させた。
昭和36年11月4日に行われた山ノ内大元神楽には、本田安次、萩原龍夫両教授に、山路興造君らが見学に来られたが、その夜三人の託太夫にいずれも神がかりがなく、一同楽屋に入って悄然たる体であった。
このまま終らせるとせば折角見に来られた先生方にも不本意なことで、私は舞子達の行った神懸りの方式と違った方法で指揮しようと思って、神職舞子を督励して六所舞による神がかりの方式をとった。
舞子達の行った方式は藁蛇を延えて、その中に託太夫を入れ、神歌を喝し太鼓の調子を早めて行うものであったが、私は竜蛇を天蓋の雲竹に結びつけ、その下で先頭の花取りが勧請幣を奉持し、その余の者はミサキ幣を手にして、託太夫を中に入れ、神歌を唱して太鼓に合せて、東方元山を拝し、西方端山を拝して、五方を立て、次第に太鼓を早めて最初右廻り三回、左廻り二回、次右廻り三回、左廻り一回、最後に右廻りだけを次第に早めて、遂には目の廻る程の早さで廻り、ミサキ幣で託太夫を突き、揺り上る方式である。
かくして託太夫に神が憑いたことを知り、急いで天蓋の蛇を下して託太夫を綱の中央に誘導して、腰抱きが託太夫の腰を抱き、氏子総代が勧請幣を託太夫の頭上に奉持して神託を受けた。
その時お尋ねしなかったことを申された。
それは常日頃大元社の掃除が悪いことと、拝殿内に炭俵を積んでいるのは誰か、物置小屋の代りにするとは不屈千万であると咎められた。
皆はこれを聞いて誰だ誰だと言っていたが、凡そ誰が置いているかは察しがつくので、あまり非難はしなかったが、翌朝直ちに炭俵は社外へ運び出された。
昭和42年11月4日の神楽には、三笠宮様が東大の小口偉一教授と共に木田と山ノ内の神楽を見に来られた。
この時は細野一利氏が神がかりしたが、二見笑っているような表情で、これがはたして神がかりしているのかと不審に思い見る人もあったが、昔から山ノ内の大元さんは女神で、いつ神が懸ったのか注意して見ていないとわからぬと言われる。
これに対して八戸集落の大元神は男神で荒く大声を発して荒々しいことは人々の周知のことである。
萩原秀三郎氏著「写真集神がかり」に、この両方の神がかりした写真が収録されているので、比較して見られると一目瞭然とする。
この夜の託宣に火難のあることのお知らせがあった。
後日年数を置かぬ間に託太夫を勤めた細野一利氏の家が全焼した。
しかし其後新築せられて現在家業は繁栄している。
昭和25年11月19日に清見集落(現在江津市に編入)の大元神楽があった。
この時は予期せぬ時に予期せぬ人に神がかりがあって、私達は当屋嘉戸氏宅へ帰って休憩していたが、矢つぎ早に使いの者が来て、早く来て下さらないと憑いた人が死ぬると言いますというのであった。
手を洗い口を軟いで急いで行って見ると、神がかりしたのは天野賢信と言う常にはもの数の少い正直な人であった。
しきりに大声で叫んでいることをよくよく聞くと、元来清見地区には三社の大元神があるのに、一社だけの祭りしかないのはけしからんと言うのであった。
この地の大元社は大正初年に隣りの井沢集落の村社へ合併されたものであったが、戦後清見の旧社地に社殿を新
造して復旧されたものである。
従って復旧された大元社は一柱とばかり思って居り、三処に祀られているようなことは、私はつゆ知らなかったのである。
以後必ず三社のお祭りを怠らず申上げますとお誓いして、今夜の処はこれ以上神は荒ぶることはなく元山へお坂りして頂いた。
後日古文書を調べた処、託宣通り大元社は、小原田・鍛冶屋・滝尻の三所に祀られていたことが、寛文元年丑6月の記録に、浜田藩より年々の祭祀料として米四斗宛、計一石二斗が支給されていたことが分明した。
又昭和24年11月19日夜の江尾大元社の式年神楽でも、託太夫以外の者に神がかりがあり、市山八幡宮へ合祀されている我(江尾大元神)を、再びこの地に復旧鎮座せよとの託宣があった。
これによって翌春新しき社地に社殿を建てて鎮祭した。
昭和42年11月2日夜、旭町木田で大元神楽が執行され、笠宮様が見学にお越しになり、私も佐々田実氏の要請で、殿下のお話しの御相手をするために参上したが、その翌夜は八戸の大元神楽式であったから、夜の明けるのを待って坂宅した。
この日東京からは山路興造、萩原秀三郎、吉川周平、苅谷親紀好、名古屋から田中義広民らが参観に来られた。
その時も選出されていた三人の託太夫には誰にも神が憑かず、氏子総代として何かと指揮していた湯浅政一氏が、まだ綱貫の行事にも移らぬ前、天蓋曳の最中に楽屋の中から大声を発して神がかりした。
その時楽屋に居合せた数人が託に憑いた湯浅総代の腰を抱いて楽屋を飛び出さぬよう必至に抱きとめるが、またしても二三尺一緒に飛び上る。
託づいた表情は、目の玉は座って動かず、赤黒くなった顔は、鬼のように恐ろしい形相であった。
一方では用意していた次の舞いは取り止めて、五龍王に取りかかり、五龍王も一応舞ったことにして、急いで託綱を東西の柱に張り渡して神柱を綱の中央まで誘導することであった。
託綱は白木綿を天蓋の雲竹の中央から結んで東西に引き、その白木綿を託綱に通して元山端山まで曳き渡し、一方は龍頭に結び一方は龍尾に結ぶ仕掛とするのである。
神が憑いた湯浅総代は洋服を着ていたので急いで白衣袴烏帽子に着替えさせねばならなかった。
私は斎服を着用する暇はないので、浄衣のまま神明帳を読み上げた。
神明帳の地主神を招神すみ間も絶えず絶叫し、荒び飛び跳るので、腰抱きは汗くたくたである。
私もこれまで何回か託太夫の神憑きの顔を見たが、この時の託太夫ほど恐ろしい様相を見たことがなかった。
その夜の託宣は次のように下された。
「七年の祭りは我が氏子によって、心ゆくまで祭りをしようものぞ。我が威徳のつづく限り守ろうものぞ」
この時来客の参観者達は八戸集落に旅館のないため、数軒の農家に分宿してもらったが、後に吉川周平氏夫人になられた苅屋親ノリヨさんは、氏子総代の湯浅政一氏方へ泊めてもらっていたのであるが、湯浅氏に神がかりした鬼のような様相を見て、恐ろしくて到底朝になっても置いた荷物なども取りに行くことは出来ない。
私達神職の処で朝食を食べさせて下さいと言われるのであった。
他日東京で逢った時、自分はあの時から一ヶ月ばかりはあの夜の神憑きの顔が眼前にちらついて落付くことが出来なかったと言われた。
この話によっても当夜の託太夫の恐ろしい容相を知ることが出来るであろう。
又当夜の写真は萩原秀三郎氏の「写真集神がかり」にも掲載されている。
私が私の奉仕社以外の処で神がかりを拝したのは、昭和42年11月2日夜、旭町木田で行われた大元神楽を、三笠宮様が東大の小口偉一教授を伴って来られた時で、私も同地の佐々田実氏のお誘いで参上し、殿下にお話申上げたが、木田では二宮正則神主ただ一人の奉仕で、舞子達が協力して祭事の手伝いをするのであった。
この神がかりした人は若者ではなかった。やや遠くで顔などはよくわからなかったが、相当のあばれようで棚などの神供物など落ちるような騒ぎであった。
託太夫は氏子に予知することを「剣の先で知らせる」と言うようなことが聞えた。
昔は神がかりをするのに剣をかざして舞う方法があったのである。
備後三原市地方の妙見神楽でも、妙見三神御託宣の時の神歌に、
人は皆剣の先の久米にこそ千歳の命も永く久しくと言う歌が見えている。
次の話は同地の古老からの聞書きである。
先年この木田で行われた神楽で、白角の西田某に神がかりがあったが、その時は八幡宮の社殿で行われたので、大元神ではなく八幡神が憑かれたことがあった。
又或年の神楽では我外の渡辺某に神がかりがあり、平素は酒も飲まぬおとなしい人であったが、御殿の方から飛び出し、口が裂け眉が逆立って、その鬼のような様相はこれを正視するものがなかったと言うことである。
又旭町白角の神楽では、これも見物に来た人に神が憑いたが、その人は家に寝かせてある子供を連れに吸って来ると言って側の人に告げて外に出たが、すぐに子供を背負って来たので皆な吃驚したと言う。
どんなに全速力で走って帰っても往復三十分はかかるのに、十分足らずで子供を連れて来たと言う。
その子供を背中から下した瞬間大声を発して神がかりをしたと言う。
次の資料は本年11月23日に行われた文化祭に、那賀郡旭町の旭中学校の1年2組の久保均君が「国指定重要民俗文化財大元神楽」と言う題で発表した作文の中の一部を抄出したものである。
昭和53年重富で行われた託舞では、託選で託太夫になった人が帰宅したら、すぐ託がつきました。
そしてすぐその人を柱にくくりつけて、酒を飲ませ、式年祭まで眠らせておきました。
そして神事を予定より早く始め、綱貫の舞をしないで、すぐ託宣をしました。
これは重富の大元神は託太夫に早く憑くと言われているからです。
次に木田集落では、小学生ぐらいの子が、稲をかける「はで」の上で、託舞の時に歌う「みさき山の歌」を歌ったら託がつき、大さわぎとなったと言う話を聞いたことがあります。
以上神がかり託宣について、私が奉仕した場合と、其の他二三の聞書をも併記したが、神がかりは予て選出しておいた託太夫をしてなさしむものと、他に突然その場に居合せた者に憑く場合の二通りのものがある。
これは今迄の実例からして、神の召す人は神の悦ぶ正直な人でなければ、神がかりすることは有り得ない。
以下託太夫の選出法その他について、旭町山ノ内故藤本房一の手控を引用する。
この引用文は、「日本民俗学」創刊号−昭和28・5、に掲載した拙稿「大元神楽に於ける託宣の古儀」に引用したものの特載である。
●託太夫選出の方法
一、託太夫候補者は各人の希望により定め大体10人までとす。
ニ、候補者10名までの間を作り本間を引く順番を定む。
三、託太夫は3名にして一二三番と順位を定め置く。
四、託縄及び御綱祭に奉仕するものは大体託太夫候補者10名にて行ふ。
五、託太夫候補者は自ら希望するも家人の反対あれば絶対出来ないこと。
六、成年生れのものは託太夫候補になることを得ず。
●潔 斎
一、託太夫に選定されたものは祭日前七日間潔斎すること。
二、毎朝早朝水垢離して大元さんへ参詣する事。
三、火の忌を厳にし死火産火に近づかず万一自家に死人出産ありたる時は直ちに託太夫の資格を失ふものなり。
四、別火するを本意とすれど難しき時は別室にて家人より食事就寝を絶つ事。
五、肉食をせざる事。
六、禁酒する事。
七、他人より煙草の火をもらはぬ事。
八、子女に近づかぬ事。
九、村外に出かけぬ様心掛け荒仕事をせぬ事。
十、其他すべて穢れより遠ざかり謹慎してゐること。
●綱貫の次第
一、勧請幣捧持者 1名 礼服
二、綱貫奉仕者 7名 白衣 袴
三、腰 抱 2名 上同
四、以上10名にて謹行し綱貫はみさき山を歌ひ乍ら高殿に入り本山より端山を拝し順次五方を立てること。
五、一束幣は常に龍頭につけ絶対に離さず舞ふこと。
六、託綱を本山より端山に引渡す時は龍頭を少し上に向け必ず左より巻く事。
七、一束幣は龍頭に一緒に巻きつける事。
●御綱祭
一、先づ一番託太夫を中に入れ七名の者各々手に御崎幣を持って天蓋の下にて楽に合せてみさき山を歌ひ乍ら舞ふ各人楽の急調子になるに及びすれちがひ様に御崎幣を託太夫の肩にあてる事かくする程にいよいよ急調子に入り囃したてて託太夫を中に挟み 胴上げの如くせり立てる事。
二、かくする事繰返す内託太夫は神懸りするものなり一番太夫神懸りせざる時は二番太夫を一番太夫通り前記の作法を行ふ二番太夫せざる時は三番太夫を行ふ。
三、神がかりしたる時は腰だき二人にて支へ尻餅つかざる様にする事肝要なり。
四、神名帳読上ぐる者一名 礼服御神託お伺ひする者一名 礼服 この役選定に慎重を要す。
五、託太夫神懸りありたる時は直ちに五龍王を舞ふ。
六、神がかりしたる時は直ちに託縄にさばらす事又まき米にて払ふこと。
七、神名帳を読上げる事。
八、御伺ひは作柄災難などの他はあまりいろいろな事をお伺ひしない事。
九、御伺ひ言は前以て定めておく事肝要なり。
十、託宣行事終りても神懸りとけざる時は七五三主神返しの咒法を行ふ事七五三主行はぎれば他の神主をして行はしむ。
十一、託宣者への礼として山ノ儀一俵及び金銭相当を輿へる事。
(附 記)
神楽式に本託を行ふ場合は地元民一心同体(肌が合ふと言ふ言葉が昔よりの通用語なり)である事先決なり。
わずかなりとも折悪しきことあれば絶体に託宣なきこと古来よりの言伝へなり。
又高殿の敷物は一切新調の畳を用ゐる事。手足口中等清水にてよく洗ひおく事勿論なり。
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