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大元神楽(国重要無形民俗文化財)

  
所在地 島根県江津市桜江町、邑智郡

保持者 大元神楽伝承保存会(会長 三上邦彰)62名

問合先 江津市桜江町川戸79(事務局 三浦正典)

機 会 江津市桜江町および邑智郡一帯の大元祭

演 目

「四方堅」・「清湯立」・「荒神祭」・「潮祓」・「山勧請」・「神殿入」・「献僕」・「奉幣」・「祝詞」・「撤供」・「太鼓口」・「剣舞」・「帯舞」・「手草」・「御座」・「天蓋」・「綱貫」・「六所舞」・「御綱祭」・「成就神楽」

概 要 

大元神楽とは、5年や7年、もしくは13年ごとに執り行われる大元祭に際し、特殊な神事式に基づいて舞われる神楽である。

その執行法は複雑で、神事的な舞の部分については神職がこれを担い、能舞部分についてはその地の一般神楽団体が当たるという、混成型の神楽となつている。

この大元神楽では、神霊のお告げを受ける託宣が今も執り行われる。

それは「六所舞」・「御綱祭」の際で、本山から端山に差し渡した藁蛇を一同が激しく揺り動かすうち、それが最高潮に達するや、託太夫に神懸かりが起こり託宣がなされる。

このような大元神楽には、元和元年(1615)の「大元舞熟書之事」をはじめ、江戸中期以降の神楽役指帳も多く残されており、神楽史を紐解く上でその 存在は極めて重要な意味を持つ。

指 定 国重要無形民俗文化財(昭和54年)

 
…古代出雲歴史博物館編集「島根の神楽・芸能と祭儀」より
 
大元神楽を尋ねる研究者たちにはテーマがある。
シャマニズム」「藁蛇信仰」「修験道」「呪術」などが代表的である。
 
ここに登場願った山本ひろ子氏は、そのいずれにも造詣の深い方で、首都圏にある和光大学の表現学部の教授である。

専攻は宗教思想史と開くが、代表的著書の「変成譜」「大荒神頌」などからうかがえる世界は、「中世の神」である。

最近学生を連れてのフィールド・ワークは、独自の民間祈祷として知られる高知県の「いざなぎ流」、奥三河地方に残る「生まれ清まり」で知られる霜月神楽の中の「花祭り」、それに、藁蛇の「大元神楽」である。

市山大元神楽には、平成6年、12年の二度来られ、その縁で平成13年には、中山神友合が招かれて上京し、14人の面々が大学キャンパス内の「特設舞台」で上演している。

演目は太鼓ロ、御座、手草、山の大王、四剣、貴船、鐘馗の六曲で、先方のリクエストを中心とした内容であった。

今回の一文からは、大元神楽の「栄光と夢」の部分を学びたい。

 
…牛尾三千夫「伝承大元神楽」邑智郡大元神楽伝承保存会より
 
大元神楽と神懸り
 
大元神楽の「御座(ござ)の舞」は、半畳の新ござと輪鈴を手にした一人舞で、天蓋(降居(おりい))に来臨した神のための御座を、舞いによってしつらえる。

「東西南北中央の神々を この御座に招請して舞い遊ぶ」、「降り給え降居の御座には綾をはえ錦を並べござと踏ましょや」。

さて「天蓋」は天蓋を引いて遊ばせる演目で、9個(古くは13個)の天蓋が、囃子方の掛け歌に合わせ、三人の引き手によって操られる。

上下にゆっくりと、やがて激しく生き物さながらに四方に飛ぶ。「天蓋の緑の糸を引く時は とけよやほどけ結ばれぬ糸〜」。

かつての大元神楽では、激しく乱舞する天蓋の下で、小男が旋舞しながら神懸ったという(近年では昭和56年、小田八幡宮の「天蓋」で託太夫が神懸った例がある)。

しかし託宣を仰ぐ方式は、一連の託舞が独占していく。

二重、三重もの仕掛けを備えた託舞なればこそであろう。

 

託舞の方式…綱貰六所舞御綱祭

 
「綱貰」(「注連起し」とも)は、最初の託舞である。

とぐろ状に巻かれたまま祭壇に祀られていた七尋(ひろ)半の藁蛇(託綱)が下ろされる。

神職団はとぐろを解いて取りすがり、元山(もとやま)と端山(はやま)を拝したあと、舞殿をS字型に舞い廻る。

「大元の神の行方は 左四つ 右九つに中は十六」。

「みさき山 下りつ上りつ石摺に袴が破れて着替え給はれ」。

「綱貫」に至り藁蛇は、御神体(静)から託綱(動)へと変身したといえようが、それにしても「綱貫」、また「注連起し」という名称は言い得て妙だ。

S字型にのたうつ藁蛇の運動によって舞殿は縦横に貫かれ、にわかに尋常ならぬ脈動をはじめる。

 
あらかじめ注連縄で結界し、画定・聖化されていた舞殿だが、託舞の運動によって東西南北中央と分節化され (「五方を立てる」)、神懸りのための霊的な磁場と化していく。
 

舞い終えると藁蛇の頭を元山の柱に、尾を端山の柱に結び、白木綿で天井の青竹に通し、託綱を吊り上げる。

長々と宙吊りにされ、客席を脱む藁蛇の眼。

「託に憑く」ための装置が完了したのだ。

 

ここに至り、舞殿のシンボル性は天蓋ではなく、藁蛇にとってかわる。

第二の託舞は「六所舞」で、近年ではこの舞いで神懸りを導く場合が多い。

 
一束幣(いっそくべい)を持つはな取りを先頭に、笏(しゃく)とミサキ幣を手にした注連主と祭員が続き、囃子方と神歌を掛け合いながら元山・端山を拝し、S字型に舞い廻っていく。

動き方は「綱貫」と同じである。

まず一番の託太夫を列の中程に入れ群舞の渦に巻き込むと、ミサキ幣で肩を叩いたり、胴上げのようにせり上げながら、神懸りを促す(懸らない場合は、二番、三番の託太夫に、同じ方式を繰り返す)。

──やがて、舞の列に引き回され、身を委ねるしかなかった託太夫が、突然飛びあがる。

トランス、すなわち「託に憑いた」のである。

すかさず「腰抱き」が出て託太夫の腰を押さえこみ、注連主が散米であたりを払う。

舞殿に緊張が走り、太鼓が鳴り響くなか、祭員たちは吊られていた託綱を胸の高さに下ろし、託太夫の両手を託綱に掛けさせる。

あわただしくも準備が完了すると、氏子総代が幣を託太夫の頭上に奉持して、託宣を伺う。

「おそるおそる、大元様にお伺い申しあげまする。今宵の神楽は、いかが思し召しでしょうか〜」。託宣が終わると囃子が入り、「今年のこの月、この日のこの時、神楽の斎場(ゆにわ)で神遊びしよう」の神歌を唱和しながら、神主一同が託綱をブランコのように大きく揺する (「御綱祭(みつなまつり)」)。

 
託舞の構造群舞による神懸り強制
 
「託舞」による神懸りの実現は、わたしたちに「舞」概念の変更を強いる。

大元神楽を、昔は「大元舞」と呼んだ事実も見逃せない。

 
「天蓋」による神懸りが一人の舞子のトランスを誘発するものであるのに対し、託舞のそれは、集団の運動性が成立の条件だ。
 
三人の託太夫が順次列に入っていくため、最高で三度同じ託舞を繰り返すことになる。

いやが上にも高まる精神的・肉体的興奮と緊迫感・期待感。群舞と囃子の相乗は、圧倒的力となって託太夫にトランスを強要するかのようだ。

次第に急調子になるとはいえ、「五方を立てる」、「みさきをかける」という規則正しい舞いの動きに取りこまれた託太夫は、明らかに異物であり、流れの阻害者である。

託太夫を苛(さいな)むがごとく、こづき、煽る祭員たち。

列のなかに生じた両者の葛藤・抵抗がトランスの因子として作用しているにちがいない。

 
ひとたび神懸るとそれまでの力関係は逆転し、動的で非中心的だった舞殿は、託太夫を結集軸とする座へと変貌する。
 
祭祀共同体のシンボル=大元神が、託太夫の身心をなかだちに顕現したのだ。

静まりかえった舞殿は、ひとつの巨大な「耳」となる。

託太夫の喉から発せられる、大元さまの「声」を聴くべく。

 
大元神楽にあっては、祭祀共同体の強い結束力と集団心性が、「神懸り託宣」という「逸脱」の儀礼の継承を可能にしてきた。
 
そのことは、大元信仰の内実と深いところで連動していよう。

比婆荒神(ひばこうじん)神楽の「本山(もとやま)荒神」と同様に、大元様は、血縁的共同体の祖霊であり、また八将神、金屋子神、山の神、水神などさまざまな在地の神を束ねる共同霊格である。

それらの神々の集合表象が藁蛇にはかならない。

 
藁蛇は、大元神楽のシンボル・御神体でありながら、神懸り託宣の祭具という役割をも担う。
 

運動する御神体にして、託宣のための呪具。

神楽が創造した、驚嘆すべきこの方式を実現化するのに、七尋半の藁蛇はどふさわしいものはあるまい。

とすれば、神懸った託太夫を託綱に突可りかからせた場面こそ、藁蛇による神・人合一の最高の瞬間、神懸りの儀礼的達成ということができる。

 
(やまもと ひろこ 宗教思想史)「別冊太陽」誌より
 
神がかりと託宣
 
現地公開時に於ける神がかり
 
大元神楽に限らず、式年の神楽には、清浄なる地に神殿を舗設して、注連主以下潔斎して、神々を勧請し、最上なる神饌を供して、夜すがら歌舞音曲を奏して、夜のしらじら明けに至れば、託太夫をして神がからしめて、神の声をきき、明日より後の生活の指針とすることが、本来神楽の目的とするところであった。

大元神楽は、昭和54年2月3日付の官報告示により、重要無形民俗文化財の指定を受け、同月24日東京虎ノ門共済会館に於いて、指定証書の交付式が行われた。

このことによって54年度以降向う三ヶ年間、国費等の補助金により、伝承者の養成、現地公開、記録作成およびその刊行を実施することとなった。

そのため第二年度の本年(昭和56年)3月21日22日、桜江町小田八幡宮社殿に於いて現地公開を実施することとなった。

二月に入って本田安次先生から、今度の大元神楽現地公開の実況を、早稲田大学演劇博物館でビデオ撮影したいから宜しく頼むという来簡に接し、2月21日博物館員の板谷徹氏が予備調査に来られた。

今度の現地公開をビデオに撮影せられることになって、我々が一番困ったことは、はたして神がかり託宣が可能であるかということであった。

現時点で神がかり託宣の行なわれている処は、私の氏子範囲内でニヶ処、郡外でニヶ処程度しかなく、今度公開する小田集落では、これまで一度も神がかりのあったことはなく、そのような集落で行うということが先ず第一の危倶である。

招神する大元神も一応地元以外にも、郡内全域にわたることになるから、神がかりする託太夫の選出にも色々支障がある。

託太夫は三名候補者を出すのが慣例であるが、今度は神がかり出来ないと思われるので、ただ撮影するために形式だけをすることとした。

しかし、いくら形式だけを行うからといっても託太夫を勤めるものは、全然素人には出来ないことで、神がかりしたことの経験のある人、八戸集落の人で最近私の集落へ移住して来た、湯浅政一氏(大正6年11月11日生) にお願いすることにし、2月14日夜拙宅に招いて、改めてお願いし承諾してもらった。

同氏は引受けた以上は潔斎して奉仕することを約束した。

舞殿の準備などは3月17日から取りかかり、前日20日の午前中までに完了した。 

託太夫の湯浅政一氏は一週間前から潔斎に入り、毎朝隣り集落の大元社と八幡宮へ社参し、仕事も休みただひたすら心身の清浄を保ってその日を待っていた。

注連主を奉仕する私も託太夫と同様潔斎に入り、前日の朝からは一切の飲食を絶って精進した。

3月21日彼岸の中日は曇り日で、雨になる予報であった。

午後5時大元神迎へに出発する頃から小雨が落ち出したが、幸にこの小雨は清めの雨であった。

小田集落の氏子は紋付袴姿で行列に参加し、5時40分頃一束幣を先頭にして、神職、託太夫、氏子総代以下続々斎場に到着し、ひとまず社殿前へ安置して、夕食のため一時間の休憩とした。

早稲田大学演劇博物館の所員及び撮影班の人々九名は前日に来町して、機械の据付其他の諸準備を完了されていた。

当夜の神楽は三十三番を上演することにしていたが、神がかりすることは不可能と思っていたので、現地公開ではあるが、遠来の学者研究者の方々には特に御案内することを差控えた。

それは先年八戸集落に於いて、國の選択芸能として現地公開を行った際、神がかり託宣が不成功に終ったことにもよるからであった。

しかし文化庁其他から聞かれて見学に来られた方々は三十名ばかりあった。

東京からは萩原龍夫、西角井正大、小島美子、樋口昭、渡辺伸夫、北潟喜久、大貫紀子、村山道宣、鈴木正崇、福島邦夫、島崎良、神田より子、京都の山路興造、岡山の岩田勝、広島の佐々木順三、田地春江民らが来られた。

神楽の公開は正七時に、市山小学校四年生四名の四方堅から始めた。

つづいて清湯立、荒神祭、潮祓、とすみ、注連主の大役である山勧請に入り、神殿入、献饌、大祓連読、奉幣、祝詞奏上、玉串奉莫、撤饌と終って、午後十時前半の儀式を終了した。

15分間の休憩の間に、注連主、町長、教育長の挨拶があり、10時15分から太鼓口から再演された。

次の磐戸舞からは村々の神楽組によって実演された。

弓八幡、剣舞、御座とつづき、御座舞は儀式舞の重要な曲目で、川本町三谷の湯浅茂武宮司が永年奉仕されたが病気のため、今度は氏の二男弘興君に伝授されて、後継者の出来たことを喜んだ。

御座舞は飛ぶだけなら誰でも舞うが、前段の御座をかづく所作がむずかしいのである。

 

御座が終って午前1時頃、天蓋曳きに移った。

元来天蓋は13個のものであるが、現今は9個で行い、中央を注連主、その両脇に一名宛神職着座して各々4本ずつ天蓋の綱を持って曳くのである。

天蓋は神楽の曲目中でも最も神聖なものとされ、熟練を要するもので、天蓋綱のもつれることを不吉とされているため、用意周到細心に曳かねばならぬものである。

太鼓の囃しに神歌を掛け合いながら、先づ東方の綱から静かに下す。

続いて西方南方北方と下し、終って注連主の中央黄龍王埴安比売命の綱を下す。

終ると太鼓の囃しは、始めしづかに、次第に調子を速めて、九本の綱は緩くまたはげしく曳いて、前後左右に揺り動かし、暫く曳いて後一旦引き上げて静止する。

次に早調子の太鼓となり、注連主装束の袖を脱いで、

みさき山、下りつ上りつ、石ずりに、袴が破れて、着替へ給はれ

の神歌で、9個の天蓋は、遠く近く、前後左右、緩急自在に遊ばする。

する内私の中央の万蓋と北方と西方の中間の天蓋の綱とが二巻き縺れた。

私は困ったことになったと思っていると、左座の三浦宮司が早くその縺れを解かんと焦ったため、更に四巻にもつれた。

これを見ていた太鼓側にいた人が、飛んで出てその縺れを解かんとしたので、これを制する人があり、その人は出ることを止めた。

私は太鼓方に、

天蓋のみどりの糸を曳く時は、とけよや、ほどけ、結ばれぬ糸の歌を歌うように命じた。

この神歌の二度目の繰返しに入った時、全く不思議に四巻き縺れた糸がほどけた。

その時誰か拍手する人があったが、その瞬間すさまじき勢いで私の烏帽子をはね飛ばして、大声で私の持つ万蓋の曳綱を握った。

烏帽子を飛ばした時は洒酔の仕業かと咄嵯に思ったが、見ると託太夫が飛び出して来たのである。

全く予期せぬことであったので、私を始め他の神職達も真青になった。

中央の一本の綱では力が入らぬので、託太夫はすばやく右側の四本の綱の方へ移った。

腰抱きの役は古瀬宮司に定めてあったが、この時は太鼓方に廻っていた。

この夜神がかりがあるとは誰も思っていなかったし、それでも綱貫か御綱祭りの時ならば、その処置も素早く出来たろうが、天蓋曳の八分通り終った処で、咄嵯の神がかりであったから、近くにいた若い神職四名出でて託太夫の腰を抱いていた。

他の神職数人して元山の柱から端山の柱へと託綱を引き渡した。

この間七分位を要したという。

天蓋綱を握りしめたままの託太夫を託綱の藁蛇の方へ引き寄せた。

大元神の御託宣をお伺いするものも定めてはあったが、未経験者ではこの場合処置に困るというので、取敢ず注連主の私がお伺いすることにした。

その間託太夫は息も切れるかと思う息づかいで、その絶叫は身震いがする程であった。

満場水を打ったような静けさである。

岡山から見学に来られた岩田勝氏の後日の手紙では、自分は帰宅してから録音テープコーダアを聞いてわかったが、託太夫が飛び出した直後からテープコーダアが故障したのか、はたりと音が止ったと思ったら、四十秒後に又音が出だした。

四十秒間は祭場に何一つ音のするものはなかったということが知れたとのことであったという。(この時の託宣の詳細は「まつり通信」243号4月20日発行の岩田勝氏の「大元神楽見学記」に詳しい。)

打米をして祭場を祓い清めて、一束幣を託太夫の頭上にかざして、「恐る恐る大元様にお伺い申し上げまする。今宵のお神楽はいかが思召しでございませうか」すると託太夫は、

「ホオーオ、エエ(良い)。オオ、オホ、オオ、ホントニ………」と託宣があった。

以下年の豊凶、火難水難、其他をお伺いして終った。

注連主の打祓いの秘法の後、二度託太夫の一層を打つと、瞬きして正気に返った。

数人して抱きかかえて本殿前へ運び寝かせた。

これまで神がかりした場合、鬼のように顔色は赤黒くなるのに、今度は顔面蒼白となった。

このようなことは珍らしいことであった。

皆の話をきくと、神がかりする前から蒼白い顔になっていたといい、終って神殿前に寝かせたのを見た人は死人のように血の気はなくなっていたという。

私も鎮めの歌の終るまでは夢を見ていたような気持であったが、神がかりの出来たことで大任をはたせたような安らかさを覚えた。

 
託宣が終ってこ夜半二時頃から、手草、山ノ大王、掲鼓・剃面、神武、鐘旭、鈴ヶ山、蛭子、天神、綱貫と続き、綱貫は既に託太夫を入れて行う必要もなくなったので、形だけのものを行った。

次の小田集落の鈴合(四剣)は、実に美事な太刀裁きの儀式舞で、これだけの演技の出来る処は県内にもないであろう。

今宵の白眉というべきものであった。

次に黒塚、塵輪と舞い終って、六所舞、御綱祭りと最終の神事式で神名帳を読み上げて、天下泰平、万民安泰、五穀豊穣、牛馬安全、千秋万歳万々歳と、注連主の唱言の後、午前六時半成就神楽の打上げで、めでたく大元神
楽の現地公開は終了した。

つづいて大元神送りに移り、御神木に託綱を巻いて祭具を納め、神饌を供して鎮祭祝詞を奏上し、一同拝礼して七時半八幡宮へ坂り、神酒頂戴して散会する。

 
…牛尾三千夫「邑智郡大元神楽」島根県邑智郡桜江町教育委員会編集より
 
大元神楽現地公開見学記
 
邑智郡大元神楽の現地公開がいよいよおこなえるようになったと、大元神楽保存会会長の牛尾三千夫宮司からのご通知に接したのは、昭和56年2月21日のことであった。

それから一カ月のあいだ、昭和54年2月に国指定の重要無形民俗文化財とされて以来、現地公開へのご苦心と再三の挫折のことを事あるごとにお聞きしてきていただけに、一つの感慨とともに待ち遠しい日々が続いた。

3月21日の朝、20年ぶりに大元神楽の現地に赴かれる萩原龍夫氏とご一緒に岡山を発ち、江津駅前から田地春江・渡辺友千代のお二人の車に同乗して、午後4時すぎに桜江町小田の園幡山八幡宮に着いた。

すでに山路興造氏は現地公開の役員として係の方々とこまめに動いておられ、渡辺伸夫氏をはじめとする早稲田大学演劇博物館の九人のメンバーはビデオの記録の担当として準備にいそがしく、民俗芸能の音楽的研究を専門とされる東京芸術大の小島美子、埼玉大の樋口昭といった方々、国立劇場芸能部専門員の西角井正大、萩原龍夫氏につながるまつり文化史の会の数名の方々や、東京工業大の鈴木正崇、日本観光文化研究所の村山道宣、慶応大宮家研究室の福島邦夫といった有能な若手研究者の方々がすでに到着しておられた。

このように多くの「遠く来れる都びとたち」が参集されたのは予想外のことであったが、大元神楽への関心が全国規模でいかに高くなっているかをあらためて思い知らされたことであった。

いずれも地元の方々とともに日暮れになるのを昂ぶる気持を抑えながら待っていたのであった。

大元神楽が神がかりと託宣の古儀をいまに保持していることを世にひろく知られるようになったについては、昭和24年から大元神楽の注連主(しめぬし)として祭儀の全体を主宰し、自らうちかえしの秘法をおこなってこられた市山の飯尾山八幡宮宮司の牛尾三千夫氏が発表してこられた諸論考によるところが大きい。

牛尾三千夫氏の「大元神楽式に於ける神懸りに就いて」(『島根民俗』復刊第二号、昭二六)、「大元神楽に於ける託宣の古儀」(『日本民俗学』第一巻第一号、昭二八)、「神楽に於ける託宣の方式に就いて」 (『日本民俗学会報』第二号、昭三三)はすでに高い評価を得ている著名な論考であり、さらに、「信仰としての神楽」 (『西石見の民俗』昭三七、所収)、「神がかりと芸能」(『講座日本の民俗8芸能』昭五四、所収)などがある。

このほかに、大元神楽に関して見のがせない論考に、地元の方々によるものを別にすれば、萩原龍夫氏の昭和36年の木田における託宣のさまを中心とした「大元神楽見学記」(『まつり』第一二号、昭四二、のち『神々と村落』に収載)があり、萩原秀三郎氏の写真集『神がかり』に昭和42年の八戸と昭和43年の山之内の写真と論考が収められており、山路興造氏が体系的に説述された『大元神楽─伝承された神懸の古式─』(観光資源調査報告五−七、昭五二)には昭和五十年の八戸の次第も詳しく記されている。

いずれも、牛尾三千夫氏の前掲論考における昭和24年の八戸・江尾、昭和25年の清見、昭和36年の山之内の神がかりの記録とともに、今回の小田における現地公開を従前と対比しながら観ていくにあたって有益な論考や報告である。

 
筆者は、今回の見学では、これらの従前の態様と比較しながら、現前に展開される祭儀をすかして、大元神楽の基型における意図はどのようなものであったのかを、できるかぎり源流に遡ってとらえることに主眼をおくことにした。
 

この見学記はそのような視点から記述したものであって、いきおい神がかりと託宣の祭儀の意図をさぐるのが中心主題となる。

当日は、小田の大元祀から神殿(こうどの)とした園幡山八幡宮の社殿への大元神の神迎えのあと、いったん小憩して、神事は午後7時から四方堅めに始まった。

社前の湯立の湯を幣と榊で四方にふってきよめる神事のあと、神勧請にさき立って障礙するあらぶる神々を祀り和めておく荒神祭りがおこなわれた。

密教系の荒神供に対応する陰陽道系のまつり事である。

出雲では、元禄9年(1696)の意宇郡大庭村の北嶋国造家別館の邸宅神の早玉社の御神事神楽のはじめの方で、「荒神祭」に次いで「四土用祭」(王子舞)がおこなわれており、託宣のまつりにさき立って荒神を和め、地霊を鎮める祭儀があったことが知られる。

 
託宣を失った佐陀神能系の神事ではおこなわれることがなかったが、石見の大元神楽では古代末期からの行法がなお保持されているのである。
 
そのあと、神殿きよめの潮祓の一人舞が舞われて、注連主の牛尾三千夫宮司による格式ある山勧請に入る。

大元神はすでに一束幣(いっそくべい)によって蛇綱とともに神殿入りしているのであるが、注連主の奉持する一束幣はあたかも大元神の動きであるかのようにゆれ動きかつ静止して、本山と端山への在所の神々の勧請が象徴的に示される。

神職方が本山と端山に一礼して、注連主の振る一束幣に会釈してはつぎつぎに神殿入りする。

全員着座したところで、一束幣は蛇綱の中央に挿され、注連主はこれと座を共にする。

次いで、神職方のつぎつぎの手渡しで献饌されるが、当夜は30膳以上がならび、それ自体が壮観であった。

副斎主以下の大祓連読・奉幣のあと、注連主の現地公開にいたるまでの感慨をこめた祝詞が朗々と奏上された。

「今ゆのちも、はしきやし幼き子らにも教へつぎ舞ひつぎ行かねと思ふものから、神きこしめせ、人々もまた深き思ひを寄せられよ、かくしも大元神楽は長く久しく後の世に伝へ行くべし」

の段には、注連主の思いのたけがこめられていた。

県や邑智郡内の県議・町村長などの地元の各位の玉串奉奠がつづき、「遠く来れる都びとたち」を代表して、明治大学教授萩原龍夫博士が奉奠された。

ここで撒饌され、神事の前段が終ったところで、注連主と桜江町長湯浅芳一氏の挨拶があった。

午後10時近く、すでに小田をはじめとする桜江町内の方々は四百人近くにふくれあがり、徐々に熱気がましてきている。

神職方の見事な太鼓口(どうのくち)(胴の口開け)につづいて磐戸(岩戸)が舞われた。

天照大神は岩戸がくれの前に現われるだけで、主体は手力男と細女の舞に置かれている。

備中の神能や佐陀の神能の岩戸のような、天照大神が岩戸から現われたあとに、児屋根・太玉の両神が素盞鳴尊の化身の第六天の魔王が障礙するのを攘却する場面はない。

もとは潮祓につづくけがれをはらいきよめる神事として舞われた。

つづく弓八幡は、八幡宮の社殿を神殿とすることから、奉献の神事としてとくにここで舞うこととしているという。

この能舞は石見・芸北では通例「塵輪」とよばれ、『八幡愚童訓』(萩原龍夫氏のいわれる甲本系統)の異国の塵輪降伏の説話によるものであるが、当夜は能舞の最後にいま一度石見神楽系の塵輪が舞われた。

剣舞御座(茣蓙舞)ももともと神事のうちで、四人舞の剣舞は、備前吉備津宮の康永元年(1342)の「一宮社法」にけんばいの神楽事とあり、備後の宝永期や文化年間の記録にへンバイの舞とよばれている、五方に方堅めする神事舞であった。

もとは剣舞のあとに手草が舞われて、ここまでが神事舞であったのだが、当夜の手草は現今の慣例によって天蓋のあとに能舞として舞われた。

 
大元神楽の神事と神事舞は、佐陀神能系の形式化されて醒めた形の七座の神事とは異なり、荒神祭りを保持し、洗練されたなかに神秘さを感じさせる大元舞独自の山勧請がなされ、献饌までも神事舞化されていて、祭儀と舞とがそれぞれの次第に渾融された独特のあじわいを持ってつぎつぎに展開されていくのである。
 
かくて雰囲気はもりあがっていき、午前1時前ごろからいよいよ経験豊かな神職による天蓋(天蓋引き)に移った。
 

天蓋は、九個の天蓋のうち、注連主は中央の天蓋の網を握り、右の三浦賢斎宮司と左の湯浅発祥宮司はそれぞれ四本ずつを握り、いずれも片袖ぬぎになって、太鼓と神歌を掛け合いながら、東方の天蓋から順次に一つずつ静かに降り上りされる。

四方を終えると、中央の六角の黄天蓋が降り上りされる。

「天蓋のみどりの糸にとぢられて、解けよやもどけ結ばれの糸」のころから楽がはげしくなり、九個の天蓋のいずれもがはげしく上下され、横ゆれしながら飛び交う。

なかでも中央の天蓋は上下左右に八個の天蓋のあいだを縫うように飛ぶ。生きているようなそれぞれのはげしい動きに、息をのむ思いがつづく。

そのうち、中央の天蓋が南方の天蓋の綱にからまる。

それを注連主が楽にあわせた見事な綱さばきで解く。

瞬間、見守っていた人たちから思わず拍手がわく。

そこで一段と太鼓が急調子になり、天蓋がはげしく飛び交い、太鼓の調子と一体となった天蓋の動きはあたかも大元神の顕現かのように幻覚される異様な雰囲気が支配する。

と、突然に本殿を背に座っていた私の真うしろで「アアーツ」と異様な叫び声がして、私の頭をおさえるようにして背後から着物姿が飛び出し、注連主が引いている中央の綱を両手でものすごい力で握りしめた。

天蓋引きが始まって約八分を経過したころである。

たちまち神職二人が腰を抱きとめる。

叫び声の主は表面は蒼白で内面から紅潮してくる異様な顔色に目をすえて、荒々しい息づかいをつづけ、無方向に動きつつ姿勢が定まらない。

落ち着いた注連主は天蓋引きをやめて立ち上り、迫力のある声で楽をつづけさせ、その場の神職方に託綱とされる蛇綱をひき出して本山から端山へひき渡すことをつぎつぎに指示し、撤米であたりを払う。

託綱がひき渡され、天蓋に白木綿で中央を吊されるあいだ、託づいた存在は息づかいはいっそうはげしく、両手は中央の天蓋の綱をつよく握りしめたままである。

腰抱きの二人は、飛び出そうとするのを懸命に抱き支えている。

やがて、天蓋の綱を握りしめたままで託綱によりかからせ、託宣をおうかがいする。

本来ならば氏子総代がおうかがいするのだが、居あわせず、注連主自らがおうかがいした。

「おそるおそる、大元様におうかがい申しあげます。今宵の神楽はいかが思し召しでしょうか。」

すると、それまで一語も発することがなかった託者が、「ホオーオ、エエ。オオ、オホ、オオ、ホントニ……」

エエとは良いということらしい。

ホントニのあとはっぎの注連主のおうかがいに重なって聴きとれない。

以下の託語は、見学者たちが聴き取ったところを照合して記録したものである。

「ありがとうございました。今年、来年、向う七年間の作柄はいかがでございましょうか。」

「オーオ、オーオ、オー、ゴキトー、オーオ、(強く短かく) オッ、オッ、オッ。」

「ありがとうございました。この村をはじめ、桜江町、邑智郡、那賀郡旭町山之内の里に、又江津市井沢清見の里に水難火難がございましょうか。」

「アリ。ウセッ、ウセ……」(息づかいが荒い。)

「ありがとうございました。そのほかに大元様のお聞かせくださいますことがございましたらお知らせください。」

「アリガトウ……シ、マツリ、オオジ、オオトウジ、ウレシク……ク、氏子ノヨロコビ、シズケシノ……、オーモトノオーシ、……」

あとは、はあはあと息づいてよく聞こえない。

「ありがとうございました。どうぞ本山にお帰りください。」

ここではやしが入り、「コトシノコノ月、コノ日ノコノ時、神楽ノ斎庭(ユニハ)デ神遊ビシヨウ」の神歌を繰り返し斉唱しながら、神職方が託綱を揺さぶる。

並行して注連主は託者にうちかえしの法をおこなう。

注連主が祓う最後の「オーオ」の大声とともに託者は力が抜けてぐったりとなる。

ここで注連主は見物衆に「拍手」とうながす。

注連主の意図は大元神の去りゆくのを二拍手して拝礼することにあったはずであるが、ここで万雷の拍手がわきあがった。

まこと、現代はかくのごとし。

 
腰抱きが託者を手早く仕度部屋へ連れ去ったあとも、託綱をゆする「コトシノコノ月、コノ日ノコノ時……」は御神楽の調子でなおつづき、興奮はしばしやまない。

今回の現地公開では、大元神の託宣は注連起し(綱貫)の際になされるものとして次第が組まれ、そのような役指しがなされていた。

注連起しの際の託太夫には、八戸から移って市山に現住されている湯浅政一氏をあらかじめ選定し、同氏は当日までの七日間を注連主とともに潔ぎと神拝を欠かさずに潔斎してこられていたのであった。

それが、注連起しに入る約三時間も前の天蓋引きの最中にその湯浅氏が神がかったのであった。

神職方のなかには社殿の裏の中学校の寄宿舎にひきあげていた方もあったりして、対応にあわてることがあったのは無理からぬことであったが、それだけに注連主の咄嵯の判断と次第の臨機の変更方のてきばきした指示が目立った。

大元神楽における神がかりの方式は牛尾三千夫氏が「神がかりと託宣」の項に詳しく説かれているが、筆者なりに整理すれば、四通りの場面とそれに応じた方式があったようである。

 

(一)降居・天蓋・中の舞とつづく中段の式において、天蓋(古くは13個)が乱れ飛ぶ中を二人のうち背の低い男子が剣をかざしてはげしく旋舞し、舞いながら神がかった。

牛尾三千夫氏は、ここで「往昔にあっては最もこの神楽のもつ神秘があったのではないか」とされる。

(二)今回予定していたような注連起しによる方式では、蛇綱を祭員数名で持ち、神殿をのたうつように廻るとき、あらかじめ神殿に入れていた託太夫を蛇綱に巻きこんだりもんだりしているうちに神がかる。

神がかったら、御綱祭りに移ってから託宣をうかがう。

(三)六所舞による方式では、祭員全員が手にした御崎幣で託太夫とすれ違いざまにつぎつぎに肩を打ち、急調子となるや、時をみて全員が託太夫を胴上げするように強く身体を打ちつけるときに神がかる。

神がかったら、御綱祭りに移ってから託宣をうかがう。

昭和36年の山之内では、従前からのように注連起しの方式によったが神がからないので、注連主の指示で六所舞による方式によって神がかった。

(四)三浦重賢による文化7年(1810)9月の『御神楽之巻起源鈔』によれば、当時に祭式の最後の次第とされていた「諸神祭神宣」では、本山と端山の山の俵に挿してある数百本におよぶ御崎幣を抜いて背負った「斎主」という役が、剣(もとは「著鐸矛」)をかざして乱舞するうちに、剣の先を山の俵に突きさすときに神がかったとされる。

現在では失われているが、あとで詳しくみたい。

だが、大元神楽の特性は、思わぬときに誰かが神がかることがあることにある。

 
そのようなとき、じ後どのようにして託宣を得るかについては注連主の判断による余地が大きい。

昭和24年の八戸では、六所舞がすんで注連起しに入ろうとしたときに若者が託づいたが、すぐに託綱を本山から端山にひき渡し、託太夫を託綱によりかからせて託宣をうかがった。

このときは、御綱祭りは次第にしたがってあとでおこなった。

昭和42年の八戸では、今回と同様に天蓋引きの最中に神がかったが、注連起しから御綱祭りをおこなって託宣をうかがった。

今回は、牛尾三千夫宮司がはじめて注連主として神がかりに接された昭和24年の八戸のときにほぼならった方法によられたのであった。

大元神の託宣に強烈な印象をうけたあとでは、期待していた手草山の大王はいささか影がうすくなった。

これはもと剣舞か御座につづく神事舞として舞われていたものであるが、はでな立ち廻りがなく、祝詞司(のつとじ)も着面の山の大王も言語がよく聞きとれず、見物衆のなかから「静かにせよ」と声がかけられても、この間終始雑語がつづいた。

だが、大元神楽にこのような託宣型の神楽事が保持されてきているのは現在では貴重なことなのである。

備前一宮の文明2年(1470)6月の御田植の祭りにおこなわれた御神事神楽の神楽事に「へいさかきのもんとう」があり、「付り」として「山の神」とある。

神がかるよりましを当時はへいとか幣台とよんだ。へいは小棹(こさお)の役だとあるので、若い男子の巫者があたかも神がかったかの状態で山の神として現われ、これに法者(ほうしゃ)が手草の榊のことを問いかけ、山の神の一人称の語りをひき出す神楽事であったと思われる。

このような神楽事を先駆として、山の大王の使童の荒平の舞が形象された。

現存の荒平の問答の詞章のもっとも古いのは安芸山県郡壬生の井上家蔵の天正16年(1588)の荒平舞詞であるが、荒平は「法の主」の問いかけで、あたかも神がかりの状態にあるかのように妄想めいた大語りをしながら、しはんじやう(死人返生)の再生の杖を氏人にもたらす。

しかも、荒平は安横の山の麓に少しまどろんでいたときに御柴葉をぬすみとられて探し廻っていたところ、この神室(かんむろ)(神殿)で手草の榊ではやしている声を聞きつけてここに参ったのだという。

安芸・周防の十二神祀系の神楽に現存する荒平の舞(柴鬼神・関・鬼(き)返しとも)はいずれも手草のきよめの神事舞につづいて舞われる。

じつは宝暦11年(1761)に和木でおこなわれた大元神楽の役指帳に、「御座」につづいて「荒平」があるのである。

だが、単に荒平といっても、現今では、安芸・周防・石見西部の荒平型、瀬戸内沿岸と四国の提婆型、それに悪切り型の三つの類型に分化して分布している。

悪切り型は、荒平がぬすまれた榊を求めて、手草のはやしを聞きつけて神殿に訪れるのだが、再生の山づとの杖
をもたらすことはなく、代って五方をきよめる悪切りの舞を舞う形態のもので、九州の日向南部や壱岐・平戸にあり、中国山地では出雲神楽、奥飯石・三瓶の神楽や備後比婆西部の斎庭神楽などに、悪切り・柴取鬼・山の神・柴佐(しばさ)などとよばれて、手草につづく神事舞として舞われている。

荒平型の鬼返しは道反(ちがえ)しに変貌したりして石見西部や芸北に現存しており、悪切り型は邑智郡のすぐ東の方に現存しているので、宝暦11年当時の「荒平」はいずれの類型のものであったのかは、なお地域分布をこまかくふまえた検討が必要と考えられる。

現存の山の大王はこのような荒平をふまえてすでに文化年間以前にはおこなわれていたのであるが、系統をふまえれば、おそらく荒平型の荒平によって形象されたものと思われる。

ついでに言えば、有福神楽にも「荒平」がある。

詞章が失われて舞だけになっているが、浜田市立図書館蔵の能本の詞章は瀬戸内方面の日本紀に近い悪霊強制型で、荒平のいずれの類型にも属さないものである。

ともあれ山の大王は現代人の感覚からはかけ離れていても、稀少価値があり、これからも大事に保持していきたいものである。

また、早い時期に剣舞か御座にひきつづく神事舞として復元されることを期待したい。

能舞は、当夜の神楽能ではただ一つの託宣型の羯鼓・刹面から、神武鐘馗鈴鹿山蛭子天神と、立ち廻りの多い悪霊強制型の神楽能がつぎつぎに舞われ、午前4時前ごろから綱貫(注連起し)に移った。

予定していた大元神の託宣はすでになされているので、注連主が蛇綱の頭となる三浦賢斎宮司と協議されて、すでに託宣をうかがうときにひき出されて頭を本山に結びつけられて吊されてある蛇綱はもとに戻すことなく、そのまま降し、神職方によって五万を立ててから神殿をのたうち廻らせたうえ、頭を本山に結びつけて拝するという構成によられた。

鈴合せは、前段は鈴舞、後段は剣舞の40分近い四人舞で、基本とするところは神事に舞われた剣舞と変りはない。

後段の剣を振り合い、剣の上を跳び、組刀の八ツ花で四人が「ソーオレ、ソーレ」と掛け声でいきを合せて舞う段は、身の危険を感じさせないほどによく習練がつまれていた。

黒塚は、当夜の能舞のなかではいちばんドラマ化されていて、人気のあるもので、見物衆の眠気を覚ますには十分であった。

40分をこえる長い舞であるが、台詞が多くて、狂言廻しの役の強力(ごうりき)のおどけ方もおもしろく、山伏が強力と掛け合う山伏問答は神前にふさわしくないものとの現代道学者流の批判はどこかにおしやられた態であった。

ところで、黒塚の説話は、猿楽能の「安達原」にみるように、奥州安達が原の崇り霊の鬼女を行人山伏の那智の東光坊祐慶が祈り伏せて黒塚に攘却退散させるものであるが、石見に伝わる神楽能では、山伏祐慶の出で、「よき序でなれば、那須野が原をも一見せばやと存じ候」と名乗り、山伏がいざ鬼女を祈伏退散させようとする段になって、逆に強力は鬼女に喰われ、退散するのは山伏である。

そこで山伏にとり代って、三浦介・上総介という二人の弓取が現われ、鬼女の変じた金毛九尾の悪狐を退治することになっていて、後段では下野の那須野が原の殺生石の説話に変じてしまっているのである。

だが、このような両説話の混交はすでに延宝のころに備後で試みられたものが出雲・石見へとひろまったのであった。

これが各地に伝播するにしたがって、より劇化する方向でつぎつぎに手が加えられ、行人山伏の験力による悪霊強制の意図は失われ、悪狐退治をハイライトとする芸能としか言いようのないものに改変されてきたのであった。

能舞の塵輪を舞い終えると、はや夜明けは近かった。

御綱祭りは、「夜明けをば鶴の羽伏せにさも似たり、夜はもとじろになると思へば」と、六所舞の神歌にあるように、もともと後夜の明け六つ前ごろから始められたものらしい。

六所舞では神職全員が神歌で神殿をまわり、御綱祭りに入ると、蛇綱をおろして、神職各自が手にした御崎幣を蛇綱に挿し、注連主が端山に祀られる小神すべての神明帳を読みあげるのに並行して、神職たちが神歌で蛇綱をはげしく揺さぶる。

「コトシノコノ月、コノ日ノコノ時」と、コにアクセントを置いたはぎれのよい神歌の斉唱で、蛇綱にのせられたみさきははやされ鎮められていくのである。

成就神楽で神殿での一切を終えたのは、午前7時前、夜はすでに白々と明けていた。

一夜の神楽ではやして鎮められた蛇綱は、他の地方にあるように、村中をひき廻されたり、投げつぶされたり、斬られたりすることなく、もとの大元祠に帰っていく。

終るまで立ち去る人はほとんどなく、三、四歳の幼児たちまでが目をかがやかせて、伝承のたしかさを夜明けまで終始見守っていたのであった。

そして、現地公開の成功に安堵されて神殿に仔まれる注連主の姿はひときわ印象的であった。

大元神は、鎮座の形態はさまざまであるが、その祭地は古くは葬地であった地の傍か入口にあたるところにあることが多い。

白石昭臣民が 『日本人と祖霊信仰』に挙げられている地名で言えば、ウシロ谷(畑田・千田・矢上・三原など)、ミサキ谷(ミサキブロとも)、イヤ谷(有福など)、地獄谷(川戸字後山など)、アシ谷(矢上など) などとよばれる地にある大元祠は、かつては死者を葬ったと思われる谷の上り口を祭地としているのが多い。

その奥にハナ(榊)やシキミが生えていることが多く、盆花はそこから採るが、普段は立ち入ることを憚かられているところが多い。

備後北部の神楽でまつられる本山の本荒神がたいていかつての葬地であった傍か入口に祀られているのと同様である。

山の俵にたてられる御崎幣は、文化年間で「数百本立置て」とあるように、以前は大元祠のほかに村中の家々の土地には多数のみさきが祀られていたらしい。

備後奴可郡戸宇村の宝永3年(1706)の「村中神数帳」には、戸宇村の60の名(みょう)の小祠766社・小神360前をもれなく書き上げ、脇幣や小幣の数が一両一神ごとに綿密に記載されている。

小神の多くは家々の土地に付く崇りやすいミサキ・シキ・呪岨の類で、小幣は大元祭祀における御崎幣と考えてよいものであって、小神は荒神の神楽に小幣に象徴化されて祀り鎮められていたらしい。

大元神楽の神名帳は御崎帳ともいわれるが、御崎帳にあるのは大半はこのようなみさきの類である。

注連起しは、はな取りが、「みさき山下りつ上りつするほどに、袴が破れて着替へ給はれ」と、みさき山からこの神殿に辿りついて現われたと唱えるところから始まり、ここで蛇綱はみさきの御崎綱として現われる。

御崎幣は御綱祭りで御崎綱に挿されて、神楽で揺すられはやされて鎮められたうえで神送りされ、大元祠の神木に巻かれる。

文政8年の矢上と安政6年の市木の役指帳の次第の最後は、「御崎・神送」、「御崎祭・神送」とある。

さらに、大元神楽の神がかりの方式の四番目に挙げておいた「諸神祭神宣」は御崎祭りのことと考えられるが、ここに記録されている神がかりの方式は、安芸・周防の十二神祇系の神楽の将軍舞そのものと言ってよいほどこれに近いのである。

周防玖珂郡の釜ケ原などの将軍舞は、牛尾三千夫氏によると、

「将軍一人弓を持って舞い、天蓋落しになると、弓を棒に取替る。最初四方の切り飾りを棒で落し、次に荒神の依代である中央の白蓋を落す。そして龍神の祭ってある棚の蛇藁をたたき落すと、神がかりする」のである。

安芸の広島市安佐南区沼田町の阿刀神楽の将軍舞では、太夫が弓で舞い、その弓を張って剣で舞う将軍をくぐらせる。

それを次第に太鼓を早めてはげしくくぐらせて、最後に将軍にその弓を渡すと、将軍は中央の白蓋に取り付けてある重り米を矢で射ると、たちまちに神がかりする。

大元神楽の場合、剣をかざして乱舞するうちに、剣の先を山の俵に突き刺すときに神がかりする(もとは山の俵から御崎幣を抜き取って背負ったあと、「著鐸矛」で「大山小山に像る俵」を切り倒して捨てたとある。)のは、将軍舞のことのように思える。

じつは、宝暦11年の和木の次第の最後のところは、「王子・綱貫・御神託・同御崎・将軍殿舞・恵美須祭・御鎮」とあるのである。

将軍舞は大将軍神(だいじょうごん)という三年塞りの疫神を変じて守護神となさんがための舞であった。

だから、神がかっても、将軍舞では託宣があるべきものではなかったのであって、十二神祇系の将軍舞も神がかっても将軍自らの口からは託宣はうかがえなかった。

元禄9年の出雲大庭村の早玉御神事の最後におこなわれた将軍遊も、その神楽の祭儀の全体構造からして、神がかる遊びであっても、託宣はなかったはずである。

こうしてみると、蛇綱(御崎綱)に御崎幣を挿してはやして鎮送する形態のときの神がかりも、御崎幣を背負った「斎主」の将軍舞で山の俵を剣で突きさす形態のときの神がかりも、古くはここでは託宣はおこなわれなかったように思われるのである。

つまり、大元神楽式を基型に遡れば、往昔にあっては神がかる場面は二度あって、一度は「降居・天蓋・中の舞」においてであり、いま一度は注連起しの綱貫か、御綱祭りもしくは御崎祭りの場面において、それぞれに神がかることがあったのではなかったろうか。

前者は、牛尾三千夫氏の用語によらせていただけば、「祖霊」(すでに死後ながい年月をへて昇華して守護霊化したと観想される霊格)としての大元神の託宣をうかがう場であり、後者は、まだ昇華しえない死霊のみさきを蛇綱にのらせて崇らないように鎮め、浄化し、だんだんと「祖霊」の域に近づけることを意図したのであって、ここでは神がかっても大元神としての託宣をうかがうべき場面ではなかったものと思われるのである。

それが、「降居・天蓋・中の舞」で大元神の託宣が得られないことがあったりして、「それがいつしか、神懸りの方法手段に変化を見、託綱を使用するようになったため」、託宣の場が後者の場面に移行することがあったのではなかったろうか。

付言すると、今回はおこなわれなかった五龍王(王子舞)は、山路興造氏の報告書によると、近世後期ではほとんどの場合に、そこで神がかりがあったと想定される綱貫・御注連祭・御崎(祭)・御綱祭などの直前におこなわれている。

山之内で、神がかりがあるとすぐに王子を舞わねばならないとされているのはこのような伝承があったことに由るのであろう。

ところが、古くは文明2年の備前一宮の御神事神楽に舞われた「祝詞の舞・地の遊び」も、慶長10年(1605)の備中水田郷の荒神神楽の「地神幡くぼり」も、元禄九年の出雲大庭村の早玉御神事の「四土用祭」も、いずれも託宣にさき立つ神事舞としておこなわれている。

王子舞はもともと土公とされる崇る蛇形の地霊を鎮めるためにおこなわれたものであるが、「祖霊」と観想される荒神や大元神などの託宣を得るためには、その前段でどうしても地霊を鎮めておかなければならなかったらしいのである。

これが、現今の備中・備後の荒神神楽では、大元神楽とおなじように、王子舞は最後の荒神の神がかりの直前におこなわれることに変化している。

だが、これらの神楽の最後の荒神の山おろしあるいは舞納めでは、もともと神がかっても託宣はなく、はやして鎮められて荒神祠に送却されるものだったらしいのである。

大元神楽を淵源すれば、やはり古くは王子舞は天蓋と中の舞にさき立っておこなわれていたのではなかったろうか。

大元神楽式ではかつては神がかりが二度あったのではないかとの想定は、諸先学の説とは異なるところがあるかも知れないが、これは今回の現地公開の見学者の一人の仮説としてご理解いただきたい。

しかし、かつてはそのようであったとしても、現今の大元神楽の神がかりと託宣の方式の価値をいささかも低めるものではない。

現今の方式はその時々の人びとが自らの生と死に精一杯に意味づけしてきた、その意味づけそのものの時代による変化のあとなのだからである。

それにしても、今回の現地公開において天蓋引きの最中に神がかり、大元神の託宣をうかがうことができたのは意義のあることであった。

当夜神がかって託宣した湯浅政一氏は、神がかったのは今回で三度目とのことであった。

最初は昭和42年11月の八戸のときで、当時は八戸の氏子総代をつとめておられたが、このときも天蓋引きの最中に神がかり、仕度部屋から声にならない声を発して飛び出して、中央の天蓋の綱をつかまれたという。

萩原秀三郎氏の写真集『神がかり』に、その瞬間の迫力ある写真を見ることができる。

この天蓋引きの最中の神がかりによる大元神の託宣こそ大元神楽の古儀を開示するものだったのである。

 
…岩田 勝「邑智郡大元神楽」島根県邑智郡桜江町教育委員会編集より
 
神がかりの種々相
 
私が神職を拝命して始めて奉仕したのは、昭和24年11月3日の桜江町八戸、四日の旭町山ノ内の大元社の式年祭であった。

その夜のことは、かつて「島根民俗」復刊号第二号に「大元神楽に於ける神懸りに就いて」に書いているので、ここにその一部を特載すると、

其の夜八時前、氏子一同は大元社に参集して、私の行くのを待っていた。

暗がりの中にも皆な極度に緊張しているらしい様子が察せられ、今夜は吃度神懸りがあるに違いないと言う予感がしたので、同職の一人に、君はどう思うかと尋ねてみた。

「さあね、私も初めてですのでよくわかりませんが、随分皆な真剣ですね」と答えた。

大元社の社殿が狭いので、今宵の神楽はここから五六町先の八幡様の境内迄、これから御神事を願うのである。

用意万端整うと、炬火二本だけを残して、すべての灯りが消された。

神幸は粛々として、星月夜の小川の道に沿うて、やがて八幡宮の社殿に到着した。

社殿には既に地元民を始め隣村の人達で身動きもできない程、ぎっしりと詰っていた。

不断白足袋などはかない若衆達が、真剣な顔をして正座しているのが、却っておかしく見えたりしたが、何事も小声にしか受答えしていなかった。

12時過ぎ所定の神事を済まして、神職一同は頭屋へかえりひとまず休憩する事にした。

然し私だけはすぐ引き返して、群衆にまじって何時神懸りの状態に入っても、その処置に困らぬだけの心構えをしていた。

2時頃であったろうか。注連起しにかかるや、全く突然、舞殿をゆるがす様な狂声が起った。

それは予期していたよりも余りの早さで、舞子達も面喰った。

又祭場の群衆達は、始めて見る神懸りの正体にかたずを呑んだ。

瞬間水を打ったような静けさに返った。

一同どう処置してよいものか当惑した。

矢つぎ早に狂声が起り、舞殿の上を二三尺も飛びはねる。

一人の若者が特げる様にして外に出て行った。(私が頭屋に居るものと思って呼びに行ったのである。)それでも咄嵯の間に託綱は本山の柱から端山の柱へと引き渡された。

一人の腰抱きでは間に合わず、二、三人して託太夫の腰を抱いているけれども、二、三尺飛び跳る都度、腰抱き達も一緒に飛び上っている。

顔色は充血して赤黒く、臥は全く坐っている。

呼吸するたびに全身が波打つ。

かく見る内に、東西に引き渡した大〆の中央まで託太夫を連れて行った。

そして両手を託綱の上にかけさせ、これ以上荒びさせぬように腰抱きがしっかり腰を抱きすくめた。

(腰抱きの任務は重大である。託太夫が尻餅をつくと神懸りの状態を失い、又託綱を飛び越えると死ぬと言い伝えられている。)

氏子総代の一人が、半紙一束を切って造った勧請幣を奉持して託綱を挟んで向い合に立ち、その幣の先端を託太夫の烏帽子に触れるように奉持しながら、誘導訊問の形で神託が行われた。

恐る恐る大元大明神様におたずね申上げます。

来年の作柄は如何でございませうか。

良いとただ一言あったのみ。

次に大元様の御祭日は11月3日でございますが、これを4月3日に変更したらと氏子一同相談していますが、御神意は如何でございませうか。

その答えは、「4月3日もよいが、11月3日を決して忘れるなよ」、最後の忘れぬなよと言う言葉には非常に力がこもっていた。(後日この神託によって祭日変更の話は取止めとなった。)

それから「神主は、牛尾楯夫、牛尾三千夫の子孫代々の者に奉仕させ」

この言葉は私に意外であった。それは全然おたずねしなかった事柄であったし、霊媒なるものが、私の父の名は知っていたかもしれないが、今度始めて奉仕する私の名前まで知っているとは想像出来なかったからである。

疑うにも疑えない託宣であった。

以上の外にもまだ訊ねる事は半紙にしたためていたようであったが、咄嵯に起る余りのはげしい振舞に、これ以上神懸りの状態をつづけさす事を気にしてか、もうこれで本山に返ってもらうと二三の者が言い出した。

そして神殿に居た私の処へ本山に返して下さいと言って来た。

私はこうした場面に初めて臨んだので、はたして一度でうまく神返し出来るかどうか、稍不安な気持を持って舞殿へ下りて行った。

神返しの秘法は「打拂い」と称して、祖父からも、又父からも一通り聞いていたので、その通りの作法を行うと「あっ」という声を発して、託太夫は正気に返った。

その瞬間、群集は誰に始まったか知らないが、託太夫の大元様に向って、威儀を正し一同拍手拝礼した。

それは期待に酬いられたと言う安堵と共に神々しい一瞬時であった。

この八戸集落から山一つ越すと山ノ内集落である。

山ノ内には天明六丙午年(1786)の書留に、既に大元神楽執行の記事が見えるから、現在まで絶ゆることなく行われた唯一の集落である。

明治初年神職の託宣行事を禁ぜられた際、私の祖父はこの集落の越毛と言う家の大屋某に、その秘儀を伝授して置いたので、山中の七年に一度のことである故に、隠れて託宣を行って来たのである。

同地の細野一利氏の記憶によると、今まで神がかりした人は次の通りである。

昭和12年 朝広屋の藤本清重さんの父

昭和18年 潜石と言う家で行ったが不成功

昭和24年 藤本作市

昭和30年 藤本和雄、原という家にいた人

昭和36年 ウツラの孝さん樋口重義さんの長男

昭和42年 私──細野一利

昭和18年に不成功に終った理由は、この山ノ内集落は現在、炉谷・峠谷・細野谷の三つの谷が寄り合って約三十戸からなっている。

元来大元社は細野谷だけの12戸の大元社であった。

他の鈩谷は勝地集落の大元社の刀祢内であり、峠谷の家々は八戸集落の大元社の刀祢下であった。

舞頭屋が鈩谷で行われたことと、鈩谷や峠谷から託太夫を選定していたから、細野谷の大元神は喜ばれなかったのであろうと私に教えた人があった。

祖霊大元神がその子孫であらざる者に神がかりする筈がないと言うことを知り、以後細野谷以外の者は託太夫になることを遠慮させた。

昭和36年11月4日に行われた山ノ内大元神楽には、本田安次、萩原龍夫両教授に、山路興造君らが見学に来られたが、その夜三人の託太夫にいずれも神がかりがなく、一同楽屋に入って悄然たる体であった。

このまま終らせるとせば折角見に来られた先生方にも不本意なことで、私は舞子達の行った神懸りの方式と違った方法で指揮しようと思って、神職舞子を督励して六所舞による神がかりの方式をとった。

舞子達の行った方式は藁蛇を延えて、その中に託太夫を入れ、神歌を喝し太鼓の調子を早めて行うものであったが、私は竜蛇を天蓋の雲竹に結びつけ、その下で先頭の花取りが勧請幣を奉持し、その余の者はミサキ幣を手にして、託太夫を中に入れ、神歌を唱して太鼓に合せて、東方元山を拝し、西方端山を拝して、五方を立て、次第に太鼓を早めて最初右廻り三回、左廻り二回、次右廻り三回、左廻り一回、最後に右廻りだけを次第に早めて、遂には目の廻る程の早さで廻り、ミサキ幣で託太夫を突き、揺り上る方式である。

かくして託太夫に神が憑いたことを知り、急いで天蓋の蛇を下して託太夫を綱の中央に誘導して、腰抱きが託太夫の腰を抱き、氏子総代が勧請幣を託太夫の頭上に奉持して神託を受けた。

その時お尋ねしなかったことを申された。

それは常日頃大元社の掃除が悪いことと、拝殿内に炭俵を積んでいるのは誰か、物置小屋の代りにするとは不屈千万であると咎められた。

皆はこれを聞いて誰だ誰だと言っていたが、凡そ誰が置いているかは察しがつくので、あまり非難はしなかったが、翌朝直ちに炭俵は社外へ運び出された。

昭和42年11月4日の神楽には、三笠宮様が東大の小口偉一教授と共に木田と山ノ内の神楽を見に来られた。

この時は細野一利氏が神がかりしたが、二見笑っているような表情で、これがはたして神がかりしているのかと不審に思い見る人もあったが、昔から山ノ内の大元さんは女神で、いつ神が懸ったのか注意して見ていないとわからぬと言われる。

これに対して八戸集落の大元神は男神で荒く大声を発して荒々しいことは人々の周知のことである。

萩原秀三郎氏著「写真集神がかり」に、この両方の神がかりした写真が収録されているので、比較して見られると一目瞭然とする。

この夜の託宣に火難のあることのお知らせがあった。

後日年数を置かぬ間に託太夫を勤めた細野一利氏の家が全焼した。

しかし其後新築せられて現在家業は繁栄している。

昭和25年11月19日に清見集落(現在江津市に編入)の大元神楽があった。

この時は予期せぬ時に予期せぬ人に神がかりがあって、私達は当屋嘉戸氏宅へ帰って休憩していたが、矢つぎ早に使いの者が来て、早く来て下さらないと憑いた人が死ぬると言いますというのであった。

手を洗い口を軟いで急いで行って見ると、神がかりしたのは天野賢信と言う常にはもの数の少い正直な人であった。

しきりに大声で叫んでいることをよくよく聞くと、元来清見地区には三社の大元神があるのに、一社だけの祭りしかないのはけしからんと言うのであった。

この地の大元社は大正初年に隣りの井沢集落の村社へ合併されたものであったが、戦後清見の旧社地に社殿を新
造して復旧されたものである。

従って復旧された大元社は一柱とばかり思って居り、三処に祀られているようなことは、私はつゆ知らなかったのである。

以後必ず三社のお祭りを怠らず申上げますとお誓いして、今夜の処はこれ以上神は荒ぶることはなく元山へお坂りして頂いた。

後日古文書を調べた処、託宣通り大元社は、小原田・鍛冶屋・滝尻の三所に祀られていたことが、寛文元年丑6月の記録に、浜田藩より年々の祭祀料として米四斗宛、計一石二斗が支給されていたことが分明した。

又昭和24年11月19日夜の江尾大元社の式年神楽でも、託太夫以外の者に神がかりがあり、市山八幡宮へ合祀されている我(江尾大元神)を、再びこの地に復旧鎮座せよとの託宣があった。

これによって翌春新しき社地に社殿を建てて鎮祭した。

昭和42年11月2日夜、旭町木田で大元神楽が執行され、笠宮様が見学にお越しになり、私も佐々田実氏の要請で、殿下のお話しの御相手をするために参上したが、その翌夜は八戸の大元神楽式であったから、夜の明けるのを待って坂宅した。

この日東京からは山路興造、萩原秀三郎、吉川周平、苅谷親紀好、名古屋から田中義広民らが参観に来られた。

その時も選出されていた三人の託太夫には誰にも神が憑かず、氏子総代として何かと指揮していた湯浅政一氏が、まだ綱貫の行事にも移らぬ前、天蓋曳の最中に楽屋の中から大声を発して神がかりした。

その時楽屋に居合せた数人が託に憑いた湯浅総代の腰を抱いて楽屋を飛び出さぬよう必至に抱きとめるが、またしても二三尺一緒に飛び上る。

託づいた表情は、目の玉は座って動かず、赤黒くなった顔は、鬼のように恐ろしい形相であった。

一方では用意していた次の舞いは取り止めて、五龍王に取りかかり、五龍王も一応舞ったことにして、急いで託綱を東西の柱に張り渡して神柱を綱の中央まで誘導することであった。

託綱は白木綿を天蓋の雲竹の中央から結んで東西に引き、その白木綿を託綱に通して元山端山まで曳き渡し、一方は龍頭に結び一方は龍尾に結ぶ仕掛とするのである。

神が憑いた湯浅総代は洋服を着ていたので急いで白衣袴烏帽子に着替えさせねばならなかった。

私は斎服を着用する暇はないので、浄衣のまま神明帳を読み上げた。

神明帳の地主神を招神すみ間も絶えず絶叫し、荒び飛び跳るので、腰抱きは汗くたくたである。

私もこれまで何回か託太夫の神憑きの顔を見たが、この時の託太夫ほど恐ろしい様相を見たことがなかった。

その夜の託宣は次のように下された。

「七年の祭りは我が氏子によって、心ゆくまで祭りをしようものぞ。我が威徳のつづく限り守ろうものぞ」

この時来客の参観者達は八戸集落に旅館のないため、数軒の農家に分宿してもらったが、後に吉川周平氏夫人になられた苅屋親ノリヨさんは、氏子総代の湯浅政一氏方へ泊めてもらっていたのであるが、湯浅氏に神がかりした鬼のような様相を見て、恐ろしくて到底朝になっても置いた荷物なども取りに行くことは出来ない。

私達神職の処で朝食を食べさせて下さいと言われるのであった。

他日東京で逢った時、自分はあの時から一ヶ月ばかりはあの夜の神憑きの顔が眼前にちらついて落付くことが出来なかったと言われた。

この話によっても当夜の託太夫の恐ろしい容相を知ることが出来るであろう。

又当夜の写真は萩原秀三郎氏の「写真集神がかり」にも掲載されている。

私が私の奉仕社以外の処で神がかりを拝したのは、昭和42年11月2日夜、旭町木田で行われた大元神楽を、三笠宮様が東大の小口偉一教授を伴って来られた時で、私も同地の佐々田実氏のお誘いで参上し、殿下にお話申上げたが、木田では二宮正則神主ただ一人の奉仕で、舞子達が協力して祭事の手伝いをするのであった。

この神がかりした人は若者ではなかった。やや遠くで顔などはよくわからなかったが、相当のあばれようで棚などの神供物など落ちるような騒ぎであった。

託太夫は氏子に予知することを「剣の先で知らせる」と言うようなことが聞えた。

昔は神がかりをするのに剣をかざして舞う方法があったのである。

備後三原市地方の妙見神楽でも、妙見三神御託宣の時の神歌に、

人は皆剣の先の久米にこそ千歳の命も永く久しくと言う歌が見えている。

次の話は同地の古老からの聞書きである。

先年この木田で行われた神楽で、白角の西田某に神がかりがあったが、その時は八幡宮の社殿で行われたので、大元神ではなく八幡神が憑かれたことがあった。

又或年の神楽では我外の渡辺某に神がかりがあり、平素は酒も飲まぬおとなしい人であったが、御殿の方から飛び出し、口が裂け眉が逆立って、その鬼のような様相はこれを正視するものがなかったと言うことである。

又旭町白角の神楽では、これも見物に来た人に神が憑いたが、その人は家に寝かせてある子供を連れに吸って来ると言って側の人に告げて外に出たが、すぐに子供を背負って来たので皆な吃驚したと言う。

どんなに全速力で走って帰っても往復三十分はかかるのに、十分足らずで子供を連れて来たと言う。

その子供を背中から下した瞬間大声を発して神がかりをしたと言う。

次の資料は本年11月23日に行われた文化祭に、那賀郡旭町の旭中学校の1年2組の久保均君が「国指定重要民俗文化財大元神楽」と言う題で発表した作文の中の一部を抄出したものである。

昭和53年重富で行われた託舞では、託選で託太夫になった人が帰宅したら、すぐ託がつきました。

そしてすぐその人を柱にくくりつけて、酒を飲ませ、式年祭まで眠らせておきました。

そして神事を予定より早く始め、綱貫の舞をしないで、すぐ託宣をしました。

これは重富の大元神は託太夫に早く憑くと言われているからです。

次に木田集落では、小学生ぐらいの子が、稲をかける「はで」の上で、託舞の時に歌う「みさき山の歌」を歌ったら託がつき、大さわぎとなったと言う話を聞いたことがあります。

以上神がかり託宣について、私が奉仕した場合と、其の他二三の聞書をも併記したが、神がかりは予て選出しておいた託太夫をしてなさしむものと、他に突然その場に居合せた者に憑く場合の二通りのものがある。

これは今迄の実例からして、神の召す人は神の悦ぶ正直な人でなければ、神がかりすることは有り得ない。

以下託太夫の選出法その他について、旭町山ノ内故藤本房一の手控を引用する。

この引用文は、「日本民俗学」創刊号−昭和28・5、に掲載した拙稿「大元神楽に於ける託宣の古儀」に引用したものの特載である。

●託太夫選出の方法

一、託太夫候補者は各人の希望により定め大体10人までとす。

ニ、候補者10名までの間を作り本間を引く順番を定む。

三、託太夫は3名にして一二三番と順位を定め置く。

四、託縄及び御綱祭に奉仕するものは大体託太夫候補者10名にて行ふ。

五、託太夫候補者は自ら希望するも家人の反対あれば絶対出来ないこと。

六、成年生れのものは託太夫候補になることを得ず。

●潔 斎

一、託太夫に選定されたものは祭日前七日間潔斎すること。

二、毎朝早朝水垢離して大元さんへ参詣する事。

三、火の忌を厳にし死火産火に近づかず万一自家に死人出産ありたる時は直ちに託太夫の資格を失ふものなり。

四、別火するを本意とすれど難しき時は別室にて家人より食事就寝を絶つ事。

五、肉食をせざる事。

六、禁酒する事。

七、他人より煙草の火をもらはぬ事。

八、子女に近づかぬ事。

九、村外に出かけぬ様心掛け荒仕事をせぬ事。

十、其他すべて穢れより遠ざかり謹慎してゐること。

●綱貫の次第

一、勧請幣捧持者 1名 礼服

二、綱貫奉仕者  7名 白衣 袴

三、腰 抱    2名 上同

四、以上10名にて謹行し綱貫はみさき山を歌ひ乍ら高殿に入り本山より端山を拝し順次五方を立てること。

五、一束幣は常に龍頭につけ絶対に離さず舞ふこと。

六、託綱を本山より端山に引渡す時は龍頭を少し上に向け必ず左より巻く事。

七、一束幣は龍頭に一緒に巻きつける事。

●御綱祭

一、先づ一番託太夫を中に入れ七名の者各々手に御崎幣を持って天蓋の下にて楽に合せてみさき山を歌ひ乍ら舞ふ各人楽の急調子になるに及びすれちがひ様に御崎幣を託太夫の肩にあてる事かくする程にいよいよ急調子に入り囃したてて託太夫を中に挟み 胴上げの如くせり立てる事。

二、かくする事繰返す内託太夫は神懸りするものなり一番太夫神懸りせざる時は二番太夫を一番太夫通り前記の作法を行ふ二番太夫せざる時は三番太夫を行ふ。

三、神がかりしたる時は腰だき二人にて支へ尻餅つかざる様にする事肝要なり。

四、神名帳読上ぐる者一名 礼服御神託お伺ひする者一名 礼服 この役選定に慎重を要す。

五、託太夫神懸りありたる時は直ちに五龍王を舞ふ。

六、神がかりしたる時は直ちに託縄にさばらす事又まき米にて払ふこと。

七、神名帳を読上げる事。

八、御伺ひは作柄災難などの他はあまりいろいろな事をお伺ひしない事。

九、御伺ひ言は前以て定めておく事肝要なり。

十、託宣行事終りても神懸りとけざる時は七五三主神返しの咒法を行ふ事七五三主行はぎれば他の神主をして行はしむ。

十一、託宣者への礼として山ノ儀一俵及び金銭相当を輿へる事。

(附 記)

神楽式に本託を行ふ場合は地元民一心同体(肌が合ふと言ふ言葉が昔よりの通用語なり)である事先決なり。

わずかなりとも折悪しきことあれば絶体に託宣なきこと古来よりの言伝へなり。

又高殿の敷物は一切新調の畳を用ゐる事。手足口中等清水にてよく洗ひおく事勿論なり。

 
…桜江町教育委員会「大元神楽」 …映像「早稲田大学 演劇博物館」より