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大元神楽式
 
大元神楽式とは、大元神の式年祭に於ける神事式の謂である。

今日大元神は村々に於ける集落の神として一種の農耕神的のもとに祀られているが、かつて古くは一族一門の祖霊神として祀られたものと思われる。

そのことは今日一村一集落の信仰の対照となっても、なおその信仰範囲は多くその祭地近在の数軒数十軒の家々が、昔ながらに年々の祭りを行う所の多いことでも知ることが出来る。

そのことは備後備中地方に於ける荒神信仰だけの古風さは見られないが、かつて村々の「名(みょう)」単位に一族一門の祖霊神として祀った本山荒神などと同じ信仰過程を経て来たものであろう。

備後備中地方の荒神信仰は、中世以来の「名」を単位として成立したもので、一族一門の本家筋である「名頭(みょうかしら)」の權威は、本山荒神・本地水神・種池・苗代田を有することであった。

これら一族一門は同じ垣内の内に住み、名頭を中心として親和協力して日々の生活を営んで来たのであった。

人死して33年が経過したらその霊魂は清まって、一族一門の祖霊の鎮まれる本山荒神に加入することが出来るものと信じられていた。

その新霊達が祖霊に加入する33年目の神楽が荒神神楽で、前神楽・本神楽・灰神楽と古くは四日四夜の神楽が行われたのである。

現在ではそれが三日二夜となり、更に二日一夜と短縮して行われ、次第にその古風さは失われつつあるが、その基づく処は祖先神として以後子孫の祭りを享けることが可能となる神事儀式であった。

今一つは石見鹿足郡の一部から山口県玖珂郡の山代地方に行われている「山〆(やまじめ)神楽」は、村々の水源に祀られる河内神の年限神楽である。

この河内神の信仰も亦大元神の信仰と似たものがあり、河内神の神木に龍蛇を巻いて祀ることも同じである。

大元神楽が藩政期と今日現在と比較して可成りの相異の見られることが知れる。

このことは巻末の資料の役指帳などによって詳しくわかるので、ここでは述べないが、恐らくかつて野舞台で行っていた時代には、一夜の神楽ではなく二日一夜の神楽であったと思われる。

そのことは徳川中期の役指帳記載の曲目数が四十五もあるのを見て、これだけの曲目数を一夜に終えることは不可能であるからである。

以下記載するものはいづれも昨今の神楽を対照とするものであることを承知願いたい。

 
神殿の飾り付
 

神殿の広さは二間四方のものが普通とされ、その天井下に凡そ青竹二十本を組合せて、一間半四方の雲手を作り、それに縄に五色の幣をはせて、縦横に曳き廻らし、更にその雲手に十ニヶの一尺四方の枠を吊す。

そして中央には六角形の万蓋と称する枠を吊す。

この枠に神瓶・餅・鯉・蕪子・鳥居・朝日・海波などを彫抜いた楮半紙の切紙を、色紙で裏打したもの一枠に四
枚づつ、中央の枠には六枚を張り、各枠の内側中央に重り米三合ばかりを袋に包んだものを引綱に結び付け、その引綱を雲手を通して、雲手の上部に横渡ししたる三本のすべり竹の上に通して、この綱を神殿の両側の柱に引き結んでおく。

又東西南北と中央の枠には左の如く神名を書いた小旗を重り米に結んで垂らす。

東方青色  句々奴智命

西方白色  金山彦命

南方赤色  迦久槌命

北方黒色  水波乃売命

中央黄色  埴安比売命

四方のなげしには、東方─春(桜)、西方─秋(菊又は紅葉に鹿)、南方─夏(扇又は花菖蒲)、北方─冬(笹に雪、又は笹に水鳥)などの四季を表した彫紙を、凡そ十枚前後張り巡らす。

そして東方元山の柱と西方端山の柱に、それぞれ籾三斗入りの俵をくくり付け、これにミサキ幣を無数に挿し、又榊柴をもさし添える。

東方元山の俵を大元神の神座とし、西方端山の俵は地主神などの小神の神座とする。

 
祭具調度品
 
一、託縄 七尋半 新藁にて作ること

二、背コウジ 一ツ 託縄を作る時その藁の袴にて作ること 託縄を背負うのに用ゆ

三、山ノ俵 二俵 籾各三斗入り

四、勧請幣 串長サ四尺 姫竹二本ガラミ 本冠り 半紙一束ヲ五段下リニ切ルコト

五、ミサキ幣 長サ一尺二寸 カキナガシ

六、荒神幣 串長サ三尺 三本 横冠り 半紙三枚宛三段二切ルコト

七、天蓋枠十三 雲竹二十本 天蓋綱麻縄十三本 天蓋飾り彫物 半紙一枚ノ大キサ枚数五十四枚 天蓋旗五流  重り米三升 天蓋小縄六十尋

八、四季彫物 四十枚

九、湯立釜 薪一駄 青笹四本 注連縄二間 榊枝

十、茣蓙表 一枚 蓆二枚

十一、白木綿 二反

十二、幣吊 紅白絹 各三尺五寸

十三、奉幣串 二本 長サ三尺

十四、神名帳及神楽役指帳

十五、楮半紙十束 色紙五百枚 奉書百枚 水引百本

十六、大榊二本 各々六尺 幣帛用及祓串用榊二本 玉串用榊三十本

十七、足袋 煙草 懐紙 手帛 各奉仕者人数分

 
神饌品目
 

神酒七升、洗米五升、籾一升、紅白鏡餅四升、木葉餅約五十、海魚(鯛・鰤・サヨリ)、川魚(鯉・鮎)、野鳥、水鳥、海藻干物類(海苔、昆布、寒天、干瓢、晒豆腐、豆麹など)、貝類(飽、栄螺)、野菜(大根、蕪子、山芋、里芋、人参、葱、牛蒡、百合根、山葵、生姜、蓮根、松茸、椎茸)、果実(柿、密柑、橙、梨、林檎、葡萄、栗)、大豆、小豆、粟、黍、蕎麦、繭、麻糸、半紙、木炭、菓子、塩、清水

神饌台数は古来三十三台を用意することが義務づけられている。

昨今は一年前から用意すべく心がけなければ入手出来ないものがある。

本年三月の現地公開後上京した際、国立劇場勤務の西角井正大氏に逢った時、当夜の神饌のことにふれられ、自分はこれまで各地の祭儀を見て来たが、大元神楽式のような美事な神饌は始めて見たと言われた。

 
大元神楽式
 

大元神楽式の役指は、役指帳の記載通りに行われるが、事前に加勤神職一同話し合いによって決定される。

大正初年頃までは神職だけの神楽式であったから、それぞれ誰が何役と何役を受け持つと言うように暗黙のうちに定まることが多かったから、役指のためにもめるようなことはまずなかったと思われる。

役指が定まると、役指帳に署名して、これを注連主に渡すと、ここで誓いの酒が出て、祝儀、足袋、煙草、手帛、懐紙などが渡されるのである。

備後備中地方では、この役指帳を青竹に結んで一さし舞うことになっている。

これは七座の神事の一つで役指の舞と言われ、同時に加勤奉仕者に小銭が紙に包んで渡される。

この指紙の舞が終ると一際役指についての不平不満は聞き入れぬ定めである。

神楽式の順序次第は、出雲の佐陀神能のように、七座の神事・式三番・能舞と言ったようなはっきりした定めはないが、七座の神事に当るものは、四方堅、太鼓口、潮祓、清湯立、荒神祭、山勧請などである。

今日残っている各地の役指帳を見ると、神楽式の最初に行われる「四方堅」は、大正以前には舞われていなかったようである。

私の処の記録によると、大正三甲寅年に行われた長谷村井沢(現江津市)の大元神楽に、この四方堅が舞われているのが記録されている。

「岩戸」なども元は神饌、奉幣よりも前に舞われている。

このように大正期以前と現在と比較しても色々相異点が見られるが、茲ではこれ以上言及することは止め、昨今の神事式の順序次第を以後述べることとする。

 
神 迎 ←ビデオ映像
 
大元神を祀る神木は、一名祝木とも言うが、現在は小祠、社殿のこれに代るものが多くなったが、然し古くから御神木に今なお祀る処も各地にある。

石見地方で神木として有名なものは、鹿足郡日原町畑の大元社の樹齢四百年と言われる樟の大木で、天然記念物
として指定されている。

桜江町内でも八戸の大元社の神木椋の木はこれまた三百年以上の樹齢と言われ町指定の記念物とされている。

町内小田の大元社の神木はタブの大木で側の樗の木の花咲く五月頃は、まことに美しい景観である。

羽須美村宇津井の大元社の神木は椿の古木であったが現在枯死して小祠に代ったよし、同雪田の大元社のものは樅の大木であると言う。

大元神の祭地は、小山の上、または谷川のほとりなど、いずれも聖地とされた処に祀られて来た。

明治以後は小祠のため氏神社に合同されたものも多いが、一方昔ながらの祭地に今なお祀られているものも亦多くある。

式年祭の神楽が、祭地の近くで執行される場合は別に問題はないが、やや離れた氏神の神殿や民家で行われる場合には、神楽開始前にお迎え申上なければならない。

この場合、神職二、三人、奏楽人、氏子総代、奉供要員など数十人をして、御神酒など持参して、街道を清めながら、提灯で明し、笛太鼓で囃し、龍蛇を昇ぎ、舞殿へお迎えするのである。

式年神楽が千秋万歳目出度打ち上げとなると、昔は氏子の中一人の定められた者が託綱に一束幣を挿し立てて、特別に調製された「背コウジ」を背中にあてて、大元山迄お送りする習しであった。

尚大元送りのことに就いては、石見町日和の三浦正大氏の父君正景翁が、私に知らせて下さ一つた同家の文書に見える資料として、

文政元年の定め書の中に左の一項あり。参考に書き送り申候。

九月十七日朝(神楽の翌朝)大元山へ御綱担料として米四斗出し可申事、

附り、先年は御綱を大元山へ牛に担せ送り、其牛は村中百姓中飼居牛取に致、落候牛に御綱担せ行き、牛は蓋大宮司家へ収申由の処、右様滋ては村方費多く故、神明へ御断中上米四斗にて相定め申候由、古老口々に伝へ今以里人氏子申処書残し置申候以上

このことに就いては私の仮説であるが、かつて古くは大元祭儀にいけにえ際して、牛を犠牲として供饌したことのあった名残りを意味するものではないかと思っている。

市山の大元神楽でも藩政期には神楽年になると、人や牛が居らなくなるため、一時神楽を中止していた時代のあったことを祖父は語っていた。

三原湯浅発祥氏蔵文書の文化十突酉年に記された、大元大明神注連主湯浅蔵人正に宛られた「相渡申一札」の中に、

「一、牛代 是も三百文之料物ヲ以御断申来り候。」と見えている。

今後神楽と牛の問題に就いて追及すべきことである。

閑話休題、大元山に託綱を送れば、神饌を供し、鎮祭祝詞を奏上して、龍蛇を神木に巻き、一束幣、ミサキ幣を挿し立てて、終祭の御神酒開きをして、退場する例である。

 
四方堅 ←ビデオ映像
 
清湯立 ←ビデオ映像
 
境内の清浄なる所に湯釜を据え、四方に青竹を立て注連縄を巡ぐらす。

薪を焚いて湯釜に湯をたぎらせて置く。

神殿元山の前に高机を置き、神酒・洗米・鏡餅三台を供う。

その前に案を置き小敷に洗米を入れ、側に御幣とミサキ幣及び榊一枝を置く。

おかくらの囃しで祓主と支取二名浄衣姿にて元山の前に着座して御禊祓を奏上し、畢って祓主は御幣を右手に取り、左手を上に掛け、左右左と振り、右手を上に掛け右左右と振り、右手を下に掛け左右左と振りて、御幣を左肩に荷て伏す。(支取はミサキ幣を持ちて祓主のなすままを見て同じ所作をなすべし)

頭起し御幣を左の手に持ち右手に洗米を握って立ち、御幣を先向けにして洗米を撒きつつ右に廻り神前に回り向って、右手を御幣串の下に掛け右左と振り、左横にして三歩進み三歩退き(三歩進て戴き三歩退き戴くべし。足踏出るは御幣の頭の方たるべし。引足は御幣の下と心得べし)伏す。

頭起し御幣を右手に取り左手に洗米を握り、立って洗米を撒きつつ左に廻り、神前に向き御幣を右向きに持ち、三歩進み三歩退き伏す。

頭を起し御幣を左手に取り右手に洗米を握り、立って洗米を撒きつつ少し進む。

御幣を左右左と振り、御幣を先上り向け両手に持ちて歌を掛る。

鼓より次ぐ、祓主返し歌を畢ると共に揖をして祝詞を立ちながら奏す。

祝詞畢ると鼓より歌う。

祓主次に返す。

歌畢ると共に伏拝す。

神歌は次の歌などを歌う。

幣立つるここも高天原なれば集り給へ四方の神々

参りては神の社に久米をまく撒く久米ごとに悪魔退ぞく

次に祓主は座したまま居り、支取は湯かき幣を持ち、右手に洗米を握って立ち、湯釜に進行す。

洗米を撒きて揖をなし、幣先に湯を付て五方を拝す。

幣紙を串に巻付て一の歌を歌う。御文字を湯釜に書く。

次に二の歌を唱う。

畢って拍手揖して本座に復す。

次に湯花を献る。

一の歌 能州野なる谷の清水を御湯にたて我立ちよらば氷とぞな

二の歌 おもしろや水は湯となる熊野なるこの湯の花を神に手向くる

 
荒神祭 ←ビデオ映像
 
清湯立後の祭壇をそのまま使用する。

神饌を取替え、高机の前に三本の荒神幣と神楽鈴を置く。

浄衣にて祭員三名、おかぐらの楽にて着座、御楔祓拳上が終ると各々前方の荒神幣と鈴を取り、トンツク、トントンの楽に合せて鈴を振り振り、荒神幣を左右左と振り平伏する。次に右左右と振り、三度目左右左と振り初回と同じ所作をなし、終ると中央の者、左の意の如き祝詞を巻上する。

掛巻(母)恐(伎)迦具土大神(乎)始(米)諸々(乃)荒神霊之神等(乃)御前(尓)何某(尓)代(里)何々恐(美)々々(毛)白(左久)今日(乎)生日(乃)足日(止)撰定(米氏)此里(乃)大元神(乃)何年(尓)一度(乃)大神楽仕奉(尓)依(氏)庭火焚(久)火能保(乃)荒(比波)更也豊(乃)明(止)照(須)燈火(乃)猛(比)諸神等(乃)荒御霊(乃)崇(利)賜(不)事無(久)今夜(乃)御神楽元末清(久)美(志久)仕奉(志米)賜(閉止)御食御酒捧奉(氏)乞祈申事状(乎)平(介久)安(介久)間食(止)恐(美)恐(美毛)白(寸)

上祝詞は諳誦にてなし、終りて幣を立置き再拝拍手して御神楽の楽にて退下す。

この荒神幣は直ちに大元神の神木の前に挿立てること定めなり。

 
潮 祓 ←ビデオ映像
  
山勧請 ←ビデオ映像
 

注連主(しめぬし)が一束幣(いっそくへい)を捧持して、舞殿を巡りながら大元神を元山(もとやま)の俵にその他の神々を端山(はやま)の俵に招神する儀式。

今宵の神楽がめでたく感応成就するよう、注連主は重厚に振舞糾、幣をさばく。

続いて一束幣を捧持して立つ注連主に守られて、神職のひとりひとりが入場する儀式が続く。

これが「神殿入(こうどのい)り」であり、厳粛な気分に包まれる。

 
神殿入 ←ビデオ映像
 
献 饌 ←ビデオ映像
 
大祓連読(献饌に収録)←ビデオ映像
 
奉 幣(献饌に収録)←ビデオ映像
 
祭員二名、上席の者青幣を取り下席の者白幣を取る。

先づ神前に進み、深揖して置翳して御幣の串の下を右の手にて取り、左の手を串の中程より少し上に掛け、御幣の頭を神前に向け、小揖して御幣の頭を左横にして戴き、臍の所に引付け(左少し上げ、右を少し下げる)左膝を起し右足を立つ(立体の姿勢)。

御幣を戴き(再度臍の所に引付け)左右左と進行し、立体して幣を戴き(又臍に付)右左右と退歩し、立体して幣を戴き、直ちに幣を左の肩に荷ひ左足を折り右足を引て伏す(伏して遠神笑給と三度唱ふべし)。

畢りて幣を真直に起し、左の手を少し下げると同時に右の手を上に取替え、身体を起し右足を進て膝を起し、幣を右横にして戴き、臍の所体に引付け(右を少し上げ左を少し下ぐ)右足を立つ(立体の姿勢)幣を戴き又臍に付け右左右と進行し、立体して幣を戴き又臍に付け左右左と退歩し立体して幣を戴き、直ちに幣を右の肩に荷ひて右足を折り左足を引て伏す(唱言前の如し)。

畢りて御幣を真直に起し、左の手を登すと同時に右の手を下に持替て身体を起し、右足を進て膝を起し幣を左横にして戴き臍の所体に引付け(左を少し上げ右を少し下げ)右足を立つ(立体の姿勢)。

幣を戴き又臍の所へ付け左右左と進行し、立体して幣を戴き又臍の所へ付け、右左右と退歩し立体して幣を戴き、直ちに幣を左の肩に荷い左足折りて右を引て伏す(唱言前の如し)。

畢って座し御幣の頭を前に向け捧奉意を以って揖をなし、神前正中より少し左側と右側に立置、持笏深揖して退歩すべし。

○御幣の持方始終左の手を御幣より離すべからず。

 
祝詞奏上(献饌に収録) ←ビデオ映像
 
玉串奉奠(献饌に収録)←ビデオ映像
 
撤 饌(献饌に収録)←ビデオ映像
 
太鼓口 ←ビデオ映像
 
出雲の「入申(いりもうし)」、隠岐の「寄せ楽」にあたるもので、神楽のはじめに際し、囃子方が打ち揃い、神歌を唱えながら楽を奏する一段である。

編成は大胴・小太鼓各2、笛・手拍子各1を標準とする。

神歌がろうろうと流れるなか、奏者は緩急強弱をつけて打ち合わせる。

曲は3部構成で、荘重・優雅・快適といった曲想が織り込まれる。

昔から「太鼓口を開ける」といわれ、重要な段とされてきている。

  
磐 戸 ←ビデオ映像
 
「磐戸を開く」といわれ、かつては儀式的な扱いをされた舞であり、神話舞の元祖として今もなくてはならない役舞である。

「舞殿が荒れないうちに舞う」ともいわれている。

清楚な天照(あまてらす)、重厚な児屋根(こやね)、素朴な太玉(ふとだま)、華麗な鈿女(うずめ)、豪快
な手力男(たぢからお)と、それぞれの個性と型を見せるところ、「五役の舞」ともいわれているもので、各舞の囃子の魅力と合わせ、見せどころは多い。

  
弓八幡 ←ビデオ映像
 
まず九州豊前の宇佐八幡宮の神、八幡麻呂(誉田別尊(ほんだわけのみこと))が出て舞い、みずから名のりをあげ「このたび異国から第六天の魔が飛び来たり。人民を滅ぼすによって吾これを退治せばやと思うなり」と述べる。

やがて魔王(他化自在天とも)が出てきて、神はその魔王に対して立ち退くか、敵対するかを詰問する。

しかし聞き入れずに格闘となり、最後は神通(じんつう)の弓をもって、神はこれを成敗(せいばい)するといった筋書きのものである。

芸態的にもきわめてシンプルな内容のものである。

それだけ古態を保っているともいえ、現に記録の残る最も古いとされる宝暦11年(1761)の「和木(わき)十ニケ村神楽役指(やくさし)帳」にも本演目が記されていて、比較的早くから演じられていたことがわかる。

この演目は、八幡の神(誉田別尊)(ほんだわけのみこと)の神徳をたたえるためのもので、八幡信仰にとっては欠かすことのできない重要なものであった。

(渡辺友千代)

 
剣 舞 ←ビデオ映像
 
御 座 ←ビデオ映像
 
「ござ」は「御座」として神を迎える座であり、また「茣蓙」として神の座への敷物とも掛けている。

行者を思わせる舞手が、半畳の巻茣蓙(まきござ)を捧げて五方の神を迎える舞を見せたあと、茣蓙を広げ、巡りながら、かぶりの術を舞う。

やがて昂揚する楽に守られて、跳びの術をみせ、観客を喜ばせる。

 
天蓋引き ←ビデオ映像
 
天蓋はまた一名降居とも称して、山勧請、綱貫、御綱祭と共に、神楽式の中でも最も重要にして、慎重細心の注意をはらって行うべき神事式である。

従って神事の最中に曳綱のもつれるようなことがあれば、凶年と云い博へられ不吉とされる。

その故に天蓋曳きの役は重役とされ熟練の祭員がこれに当るのである。

又天蓋を遊ばすためには、奏楽にかかわることが大きい。

いくら天蓋を上手に曳かうとしても、太鼓の調子がこれに伴わなければ曳けないものである。

双方両者の呼吸が一体となってこそ、神が遊んでいるように見えるのである。

天蓋は古来夜食前後に行われる。

天明元年の矢上の役指帳には、降居・祝詞・中之舞・鈴合と続き、天保十年の井沢の役指帳では、折居・祝詞・鈴合と、安政6年の下市木の役指帳には、折居・祝詞・中之舞・鈴合と、文久元年の三原の役指帳には、天蓋・御座・太祝詞と、明治5年の布施の役指帳には、降居・祝詞・鈴合と、大正11年の市山の役指帳には、夜食・天蓋・鈴合と、以上のように子刻を過ぎて、丑満時に行われる。

現在は九ヶの天蓋を三人で曳くが、大正初年頃までは13ヶの天蓋を一人で曳いていた例は、大正11年の市山の神楽で谷住郷村の教職中村武一郎が居る。

この他天明元年の矢上の神楽に松島山城守が、安政三年の同じく矢上で、斎木但馬守が一人で曳いている。

人で曳いた例は、文久元年の三原の神楽で三浦主計と村穂求馬とが、天保拾年の矢上の神楽で高子土佐守と近重某が曳いたことが役指帳に見えている。

さて天蓋行事はおかぐらの囃しで、注連主を中にして其の両脇に1人宛祭貞舞殿に向って着座すると、支取3人出でて天蓋綱を柱より解きて渡す。

この時再拝拍手して受取り、渡せば支取りも同じく再拝拍手して退下する。

ここで一旦太鼓は打ち切る。

ややありて太鼓は、スットコトコトコ、トコトコトン、トコ、スッテコ、スッテン、スッテンテンの調子に変ると共に太鼓方より次の掛歌を出す。

降り給へ、降りの御座には、綾をはへ、錦を並べ、御座とふませうや (第一歌)

幣立つる、ここも高天の、原なれば、集り給へ、四方の神々 (第二歌)

大元の、神のゆくへは、左四つ、右九つで、中は十六 (第三歌)

太鼓の掛歌が始まると天蓋の綱を静かにゆるめて下す所作に移る。

太鼓方の掛歌の上句と取りて、曳手は下の句を付ける。

次太鼓方と曳手と再度下の句を唱和する。

かくすること第二歌第三歌とも同じであるが第二歌から第三歌に移るにしたがい漸次太鼓の調子を早めると曳綱の上下も次第に早めて、天蓋は上下ならず左右にも少しは飛ぶ位に操作する。

第三歌の下旬を唱和する頃には、しづかに上下のみして歌が終ると太鼓も打切とする。

次に太鼓方より

謹話東方より掛け奉る社壇には

これに答へて東方の天蓋の綱を緩めながら

謹話東方句々奴智命の社あらはす

と返し乍ら天蓋を二、三回上下させて、然る後雲竹に曳き上る。

このような操作を西方、南方、北方、中央と順次繰返し行う。

西方は金山彦命、南方は迦久土命、北方は水波乃売命であるが、中央の万蓋の場合は、注連主は四方の天蓋の操作の場合よりも、一段と声をはり上げて慎重に扱かわなければならない。

太鼓方の唱言を受けてへ

中央黄龍王埴安比売命の社あらはす、と答えながら二三回上下の後、雲竹の音のする位やや強く曳き上げるのである。

以上終ると次は天蓋を遊す操作に移る。

掛歌は次のようなものを歌う。

あらうれし、あらよろこばし、これやこの、舞い奉る、栄えましませ (第四歌)

東青、南は赤く、西白に、北黒中は、黄なりとぞ云う (第五歌)

天蓋の 緑の糸を 引く時は とけよやほどけ、結ばれぬ糸 (第六歌)

みさき山、下りつ登りつ、石ずりに 袴が破れて、着替へ給はれ (第七歌)

静かまれ、静かまれよと、池の水 波なき池に、おしどりぞ住む (第八歌)

太鼓は第四歌から第五歌に移く頃から次第に調子を早めて行く。

第六歌に移ると上下曳きから前後左右に曳くのであるが、四方の天蓋と中央の万蓋は始終反対の操作をすることが肝要である。

そして左右の曳手は各々四本宛持綱があるので、この綱を二本々々、又は三本一本に分けて曳かなければ美事な曳方は出来ない。

最も華やかに曳けるのは中央の万蓋である。

曳綱が一本であるから両手で操作出来るので上下前後左右に遠くまで飛ばすことが出来る。

ここで最も注意を要することは他の綱ともつれぬように曳くことである。

いくら上手に曳いていても一旦縛れると終りである。

縺れた時は、太鼓方は第六歌を繰返し歌い太鼓の調子も一時落すことである。

そして二人して縺れた場合は、一方は綱を小細工せずに居ることである。

縺らかした方の曳手の綱をしづかに元に巻き戻すような操作をしたら大抵の場合経れは解けるものである。

縺れた綱の解けた場合の、これを見ていた人々の安堵は言葉にあらわせない歓喜と讃嘆である。

縺れがとけると今一度みさき山の神歌で、前にも増して遊ばすことが出来るもので、まさしく神の遊行飛翔せるが如き一瞬時を見ることが出来る。

みさき山の歌を終へると太鼓の調子を静めて、第八歌を歌う。「波なき池におしどりぞ住む」ですべての天蓋を引上げて終る。

支取出でて綱を引取る前に再拝拍手し、綱を渡すと注連主以下再拝拍手して退下する。

太鼓はおかぐらを打って終る。

 
手 草 ←ビデオ映像
 
降臨した神の御心を涼しめ、鎮める舞とされている。

両手に榊を持って舞う。

他所では榊に長い布を垂らし、布舞のようにして舞う所もある。

 
山の大王 ←ビデオ映像
 
初めに着面の大王が現われ、鈴と柴とで舞う。

五方をつけ終わったところで、囃子方が「謹請(きんじょう)東方を拝むには」と掛け、大王が「東方久々能智命(くくのちのみこと)の社(やしろ)を表わす」とつける。

こうして南・西・北・中央と唱え終わると、大王は東方の隅に座る。

そこへ直面(ひためん)の祝詞司(のつとじ)が出てきて向かい合って座る。

そして大王に対してお好みのものを聞いて供えようとするが、その大王のいう言葉が難しいので、祝詞司が失敗ばかりする。

やりとりのおかしさを見るのがこの演目の目的のようになっている。

しかしこの演目を「手草(たくさ)の後段」ともいっているので、もとはいま見るコミカルなものではなく、むしろ一夜の神楽の初めにあたってまず山の神を招き寄せ、これを鄭重(ていちょう)に祭却(さいきゅく)する舞であったのではないかと思われる。

出雲神楽での「山の神」、宮崎県日向の「柴荒神(しばこうじん)」などとも比較してみる必要がある。

(渡辺友千代)

 
羯鼓切目 ←ビデオ映像 
 

この神楽は、熊野信仰による、大元神楽等の山伏系神楽のルーツと言われる。

「掲鼓」と「切目(貴利女)」の二つの舞は一連のものである。

まず掲鼓太鼓を持った神禰宜が登場する。

神禰宜は首を突きだして見栄を切りながら(キョク)、やや剽(ひょう)げた風で舞う。

ひとしきり舞って口上。

「そもそもここに罷り出た私は、紀伊国熊野の権現切目の王子に仕える神禰宜です。ところでこの太鼓は虚空より降ってきたと承っている。八百万の神々が集まってご覧になったが、この太鼓を打ち始められる神はなかった。その時、熊野の権現切目の王子がご出現なされ、お手に取り上げなされ順是鼕鼕(じゅんぜどうどう)とお囃子なされたところ、五穀も世に拡がり万民も生長するようになった。当所の神楽についても、太鼓をよい所に据え置いて帰れよ、との命令を受け、ここへ進み出てきました。」

独特の太鼓でやや激しく速い囃子にのって、神禰宜は太鼓を持って眺めて見たり、手で叩いたり、置き場所探しに苦労する様を演じながら舞う。

そして口上

「ようやく掲鼓太鼓を据え置いたが、かなり気難しい大御神なので、高ければ高すぎると仰り、低ければ低すぎると仰る。高い低い明るい暗いの真ん中の最もよい所に、もう一度据え置いて帰ろうと思う。さらに伶人(楽人)たちお囃子をして下さい。」

こういって神禰宜は楽人たちに頭を下げると、胴取も「畏まって候」と答える。

再び囃子が始まり、神禰宜は太鼓を持って跳ね踊るように舞う。

太鼓を傍らに置くと、扇子を開いて翳し、置き場所を探し見て舞う。

置き場所を決めるとまた太鼓を取りあげ、両手に持って前へ進み出ると太鼓を置く。

さらに置いた太鼓の場所を離れて確認して見やる。

そして袖ををまくし上げて太鼓を握り拳で叩く所作。

そのあと素手の両手を翳して跳ね回りながら喜んで舞う。

また口上「ようやく掲鼓を据え置いた。この所に熊野権現切目の王子がご出現になられて、ご家中安全の御祈祷をなさる神姿を、静かに拝んで下さい。」と観客に述べる。

神禰宜は幕内から大幣を受け取り、扇子と大幣を持って喜びの舞を舞う。

キョクに入る(見栄を切る)動作をしきりとする。

本返り等をし、最後に激しく右旋回左旋回を繰り返したあと、舞い終えて幕に入る。

続いて素面の介添が一人出て舞う。

掲鼓太鼓は置かれたままになっている。

しばらく舞って、カケリの囃子となる。

ひとしきり舞って介添は幕に入る。

切目の王子が幕から出てくる。

活発な舞を舞う。

ひとしきり舞うと、介添が再び出てきて、二人は向かい合って問答。

切目「それ神と言えば、天地未分の昔より、虚空に充ち満ちていらっしやる。その理は如何に?」。

介添「木火土金水(もっかどごんすい)・青黄赤白黒(せいおうしゃくびゃっこく)の色をして、五柱の神と現れなされた。」。

切目「さてその垂迩は?」。

介添「事解男(ことさかお)、速玉(はやたま)の男、伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)の神社。」。

切目「念の鼓(つづみ)は?」。

介添「有無(うむ)の声」。

切目「掲鼓太鼓は?」。

介添「鉦鼓(しょうこ)の音」。

切目「みな神風の源は?」。

介添「重波(しきなみ)寄せる伊勢の宮。古歌に言う『片削ぎの千木(ちぎ)は内外(うちと)に変われども誓いは同じ伊勢の神風』。」。

(問答内容については不明なものが多いため、ほぼそのまま記した)

掛け歌がかかって二人は連れだってゆったりと舞う。

少し舞って互いに礼をし、介添は幕に入る。

切目はまた激しく舞う。

切目は採物を換えて二本のアソビ(太鼓の桴)を手にして、袖を翻しながら激しく舞う。

舞い方は鬼舞とほぼ同様で、キョクに入りながら(見栄を切りながら)舞う。

やがて置かれてある掲鼓太鼓に向かい、アソビで叩く様をする。

そして太鼓に覆い被さると、太鼓を左手に持ってまた激しく舞う。

ひとしきり舞うと、アソビと太鼓を幕脇に置き、右手に扇子を開いて持ち、ゆったりとした囃子と独特の掛け歌にあわせて軽やかに舞う。

切目は扇子を持ってまた激しく舞って、舞い上げして終わる。

…島根県古代文化センター調査研究報告書より

 
神 武 ←ビデオ映像
 
神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、日向国(ひゅうがのくに)の高千穂からよき地を求めて海路を東へと進み、難を避けながら、やっとのことで河内から大和国へ至ることができた。

しかし、そこには長髄彦(ながすねひこ)がいて行手を阻(はば)み、そして戦いとなる。

最後には金の鵄(とび)の助けによってこれを退治し、大和国の畝傍山(うねびやま)のふもとに宮をつくって神武天皇となった。

この演目は、概して出雲地方から石見地方の江川までにかけて分布している(八調子系は別にして)。

ただ出雲では三人舞であるのに対して、石見東部地域のものは四人舞となり、構成もより劇化したことがうかがわれる。

ちなみに、この類(たぐい)いは近世末に国学が浸透するにつれて神道家のあいだで作り出されたものと思われるが、確証はない。

(渡辺友千代)

 
鐘 馗 ←ビデオ映像
 

鐘馗が舞台に出て舞う。

ひとしきり舞った後、鐘馗の口上。

自分は天照大神の弟、素戔鳴尊という神である。

この国に災いをもたらす疫神を退治しようと思う、と述べる。

幕から花火が焚かれ、疫神(鬼)が幕を掴んで姿を現す。

鬼は幕をからめ持って覗いたり引っ込んだりし、周りを窺いつつすぐには出てこない。

やがて舞台中央に出て、周囲を窺う所作をする。

鐘馗は茅の輪と十拳(とつか)の剣を構えつつ探り、両者は背中合わせとなる。

こうして両者がじりじりと探り合う場面がこの舞の見せ場である。

鬼はつけいる隙を窺うが、鐘馗が剣を突きつけるので入り込めない。

鬼は「自分は一切の病の司である大悪鬼」と名乗る。

鐘馗は「私の教えに従って外国へ退け。退かなければこの十拳の剣で討ち取る。」と言う。

鬼は「いかに鐘旭大臣の守護であっても、数多の眷属を引き連れて国々村々を駈けめぐり、家々に押し言って、幼い者は掴みつぶし、老いた者は踏みにじり、元気盛んな者なら五臓六腑に分け入って肝の束を食いちぎり、この大日本の神国を魔国としないでおくものか。」と答え、両者は戦いとなる。

 
鈴鹿山 ←ビデオ映像
 
平安時代の初期に征夷大将軍となった坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の戯曲で、田村麻呂大将軍が勅命を受け、伊勢国の鈴鹿山に立てこもって悪業をなす鬼人を探し出す。

途中土他の里人から、鬼丸という悪人が旅の僧侶の計略にかかって親に斬り殺され、その魂塊がこの世にとどまり悪業をなすのだと鬼人の素性を聞き出し、田村麻呂は里人とともにこれを退治する、という展開である。

出雲地方では「田村」で通っている。

ところどころで謡(うたい)が入り、田村と茶利面を着けた里人との掛け合いも狂言風であるなど、出雲神楽のなかでも能楽要素が多い演目である。

また鬼人との仕合(しあい)で勝った田村は、鬼人の面を取り上げて嬉しきの舞をする。

これが石見神楽の「鈴鹿山」になると、悪鬼退治の迫力を増幅させる仕立てになり、鬼は天地に恐るべき魔術をかけて田村麻呂を捕らえると凄む。

ただこの鬼は魂魄のため姿が見えないので、帯を引き合って戦うというところが興味深い。

(渡辺友千代)

 
蛭 子 ←ビデオ映像
 

幕内の宮人と美保神社の祭神についての問答をした後に、その祭神である恵比須が登場する。

大幣と扇子を持った恵比須が登場し、「八調子」の磯子でひとしきり舞う。

その後、採物を釣竿に換えて舞う。

しばらく舞って腰に魚寵を結びつける。

扇子を殴羽して遠くを見やる所作をする。

これから釣りを行うのである。

そして撒き餌として、魚寵から飴玉を掴みだし、舞ム口前の観客の方に何度も撒く。

いよいよ鯛釣りに入る。

恵比須は釣り糸を解き、餌を撒き散らし、鯛を釣り上げる。

舞台上で跳ね回る鯛を捕まえる動きをした後、恵比須は鯛を手にする。

恵比須は鯛を結びつけた釣竿を担いで、喜んで跳ねるように舞い、幕に入る。

 
天 神 ←ビデオ映像
 
藤原時平の讒言(ざんげん)で筑紫(ちくし)へ左遷(させん)された菅原道真は、随身(ずいじん)を伴なって天拝山(てんぱいざん)に登り、自分には罪はないことを天皇に訴えるため都へ上ることを決意する。

途中で躊躇(ちゅうちょ)するが、随身に説得され、ついに時平に出会うことができた。

しばらく問答するうちに、しだいに時平は本性をさらけ出し、そして道真と闘いになり、とうとう成敗(せいばい)される。

これは八調子神楽での筋書きであるが、道真をひとりの人間として取り扱っており、六調子系のように道真の霊が雷神となって報復するといったようなことはせず、単調な勧善懲悪観で構成されている。

しかも、末段における天神・天満信仰への敬神的な口上も形骸化しており、そこには改作の跡がみられるが、その啓蒙・教化のために創作されたものであることに違いない。

(渡辺友千代)

 
綱 貫 ←ビデオ映像
 

綱貫は一名「注連起(しめおこ)し」とも言い、注連主を除いた全祭員参加して行う。

綱貫に入るに先だちて屋外の斎燈を盛んにもやすこと、注連主は全奉仕者を点検し、改めて塩水にて身体を清むること。

役指帳記載の通り所役は神前に安置されたる託綱の結びを解く。

奏楽はトントン、トコスク、トントンの調子にて太鼓を打ち出せば、頭を持つ花取りは左手にて龍頭の先端より一尺五、六寸の所を握り、右手はそれより二尺離れて持つこと、以下二番三番と順次に右左々々と拉び、最後の者は託綱の末尾を固く握りゐて離すこと決してなきこと、太鼓を打ち出せば花取りは、

夜あけをば、鶴の羽ぼしに、さも似たり。夜はもと白に、なるぞうれしき

の神楽一苛を歌ひ乍ら高殿に入る。

先づ東方本山を拝し、次で西方端山を拝して、続いて南方北方を拝し、更に本山を拝す。

次に、

この御座に参る心は山の端に月待ち得たる心地こそすれ

注連の内まだ入りまさぬ神あらばこがねの注連を越えてましませ

この村に悪魔はよせじ魔はよせじょせじがゆゑに神を請じる

東青南は赤く西白に北具申は黄なりとぞ知るへ大元のゆくへはいづく左四つ右九つで中は十六

みさき山下りつ上りつ石ずりに袴が破れて着替へ給はれ

これらの歌をうたひ、五方を立て再び本山を拝する頃に至れば、太鼓の調子を漸次早めてゆく。

これに伴ひ龍頭を持つ花取りは足を早めて小走りに浮き腰となる。

いよいよ太鼓を急調子に打てば、頭の者は動作を大にして、やや走らんとする気持にて高殿を大きく小さく左に廻り、更に右に廻り、もう一度右に廻り、左に大きく廻る。

この間龍尾を持つ者は絶えず小走りに前後左右を見ていること肝要なり。

龍頭と衡突すべからず、特げるべからず。頭と末尾は常に呼吸を見計ひ進退すべきなり。

静かまれしづかまれよと池の面浪なき池に鴛鴬ぞすむ

と太鼓より掛歌出づれば、託綱は結べるものの自然にほどける如く、龍頭は東方に、龍尾は西方に真一文字に引延べる。

この時祭員一人すばやく白木綿を天蓋の中央を見計ひ、木綿の中程を天蓋の青竹に通して、東西に延べ託綱を吊り上る。

 
鈴合わせ ←ビデオ映像
 
黒 塚 ←ビデオ映像
 

那智(なち)の東光坊阿閣梨祐慶(あじゃりゆうけい)という法印山伏と従者の強力(ごうりき)が旅の途中、那須野ケ原で一夜の宿を乞う。

しかし宿の主はその条件に無理難題を言うので一行は野宿をする。

そこへ現れた宿主の女に請われて法印は女人成仏を説くが、不審に思って付近の里人に尋ねると女の正体は金毛九尾(きんもうきゅうび)の狐とわかる。

立ち去ろうとする二人に鬼女となった女が襲いかかり、二人は法力(ほうりき)で対抗するがついには食われてしまう。

その後、勅命を受けた三浦介(みうらのすけ)・上総介(かすさのすけ)の二人の弓取りが正体を現した悪狐(あっこ)を退治する。

強力が茶利(ちゃり)役として面白みを出す舞。

能楽「黒塚(安達原)」と「殺生石」とを合体させて作られた神楽能である。

この舞は今日では石見〜安芸北部の神楽で演じられるのみだが、江戸時代前期に備後で創作されたものという先行研究がある。

江戸時代には出雲神楽でも行われていた演目である。

 
塵 輪 ←ビデオ映像
 
まず介添の高麻呂が出てきて、出幕に向かって跪いて待つ。

続いて足仲津彦天皇が登場し、二人連れだって「六調子」の磯子でゆったりと舞う。

この舞での掛歌は「八幡」と同じものである。

「二万拝み」で舞う。

「カケリ」の囃子となりひとしきり舞った後、天皇の口上。高麻呂は脆いて聞く。

天皇は述べる

「自分は人皇第十四代の帝、足仲津彦天皇である。今度異国から数万騎の兵を従えて攻め来る中に、塵輪といって身に翼のある大悪鬼がいて、我が国に飛び来たっている。そしてこの塵輪は国々村々を駈け巡り、日々に人民を滅ぼすことが数限りない。しかし我が官軍の内には塵輪に敵う者が一人もいない。この者が飛び来たら、高麻呂よ、私に急いで知らせよ。私は天の神と地の神の威を頭にいただき、天の遠祖天照大御神のご威光を背に受け、天鹿児弓(かごゆみ)・天羽羽矢(はばや)の威徳をもって、自ら退治しようと思う。」

高麻呂は答えて言う

「これは有り難いお言葉です。塵輪をこのまま放っておけば人民が嘆くことは勿論ですが、天皇ご自身の安全もどうなるかわかりません。何とぞご退治ください。そうすれば天下泰平で人民も安全です。」

この問答の後、天皇は幕に入り、高麻呂は跪いたまま見送る。

その後、高麻呂は陣羽織を脱いで鎧姿となり、早調子の舞を舞う。

そこへ幕内から煙幕を焚きながら、鬼二人(塵輪)が覗き出て、また幕に入る。

高麻呂はこれを見て、幕内の天皇に報告する「恐れながら御簾の内の天皇に申し上げます。先だって仰せつけられたことですが、塵輪が黒雲に乗って只今この辺に飛び来たりました。急ぎ鎧兜と弓矢のご用意をなさって、何とぞご退治ください。」

高麻呂は引き続いてひとしきり舞う。

やがて塵輪の赤鬼が幕を切って現れる。

高麻呂は入れ替わりに幕に入る。

赤鬼は周囲を威嚇しながら威勢よく舞う。

再び高麻呂が出てきて、二人は村抗しながら舞う。

また高麻呂は幕内に入り、赤鬼は周囲を探る。

そこへ塵輪の白鬼(般若)も登場。

二人の鬼は連れだって舞い暴れる。

二鬼は見栄を切る所作(キョク)をしたり、本返り、膝つき等を行いながら舞う。

また高麻呂が出てきて、二鬼に対し弓矢を構えたりしながら舞う。

やがて、素面で鎧姿となって弓矢を持った天皇もそろりそろりと出てくる。

そして一気に四人の戟いの輪となる。

四人で輪になったり、一対一の二組にをったりしながら立ち合いが続く。

ひとしきり舞った後、問答となる。

塵輪が言う「我々に立ち向かうのは如何なる神か。」

天皇が言う「自分は人皇第十四代の帝、足仲津彦天皇である。汝は如何なる者か。」 

塵輪「おお我は、今度の日本征伐での大将軍である塵輪である。汝、命が惜しいなら、早く我にこの国を譲り、ここを立ち去れ。」

天皇「ああ愚かなことだ。汝が魔法を以て霞に隠れ雲に乗り、神通自在に飛行しても、我も天の神地の神の威を頭にいただき、遠祖天照大御神の威光を背に受け、天鹿児弓・天羽羽央の威徳を以て、汝の命を射止めるのは今すぐ出来る。」

塵輪「ああ可笑しい面白い。いざ立ち合って勝負を決しよう。」

こうして本格的な戟いになる。

また四人で輪になったり、一対一の二組になったりして戦う。

弓矢を構える二人に対し、塵輪たちは手を出したりザイを突き出したりしながら立ち向かう。

ひとしきり舞った後、天皇方は弓を構えて矢を射る。矢を受けた塵輪二人は倒れてザイを落とす。

塵輪たちは苦しみながらも立ち上がり、素手となって再び天皇方に立ち向かうが、第二矢を射られて退治され、幕に入る。

天皇と高麻呂は矢を拾い、弓矢を持って舞い上げに入る。

掛け歌がかかった後、二人は喜びの舞をひとしきり激しく舞い、終わる。

…島根県古代文化センター調査研究報告書より

 
六所舞御綱祭 ←ビデオ映像
 
明治以前の役指帳を見ると、綱貫、六所舞、御綱祭・御神宣は神楽式の終末に一続きに行われている。

綱貫だけ切離して行うようになったのは新しいことである。

そのような意味からして神がかりの行われたのは最終行事であった。

ここでは現在行っている二分方式のものを記述する。

六所舞は一束幣を奉持する花取りの後へ、注連主斎服に威儀を正して伍し、各助勤の全神職ミサキ幣を手にして従う。

太鼓は以下の神歌を唱し乍ら神職側と掛け合う。

第一歌 大元の神の行方は 左四つ 右九つに中は十六

第二歌 あらうれし あらよろこばしや これやこの 舞奉る 栄えましませ

第三歌 氏子をば、神こそ守れ 千代までも 皆岡山の 米となるまで

第四歌 夜明けをば 鶴の羽干しに さも似たり 夜は元白になるぞうれしき

第五歌 若しふらば 親とたのみし 三笠山雨もらさじの 相木の森

第六歌 しづかまれ しつかまれよと 池の水 波なき池に おしどりぞすむ

第七歌 しっやしつ しっの小田巻 くりかへし 昔を今に なすよしもがな

六所舞に託太夫のいる時は列の中程に入れる。

花取りは本山、端山と五方を拝して終ると第五歌の次には、

御崎山の歌を次第に調子を早めながら歌い、託太夫の肩を交互に突き、又抱きかかえるような所作をする。

一方花取りは右廻り二回すれば左廻りは一廻にして止め、最後は右廻りばかりをはげしく廻り込み、託太夫を輪の中に入れて持ち上げる。

かくするうち神がかりすれば、すかさず腰抱き出でて託太夫の腰を抱く。

直ちに雲竹に吊られた託綱を胸の高さに下ろして、神がかりした託太夫を託綱の中央に誘導し、両手を綱にかけさせる。

注連主以下交互に散米行事に移り、

参りては 神の社に 米を撒く まく米ごとに 悪魔退ぞく

上の神歌を反唱する。

注連主神名帳によって神勧請をなし、終ると、一束幣を奉持した一人が、託太夫と向い合って大元神から神宣をきく。

神宣終ると、太鼓側より

末結ぶ しっの小田巻 くり返し 昔を今になすよしもがな

の神歌を歌うと、注連主打排いの秘法によって神返しを行う。

これと同時に参拝者一人残らず大元神へ再拝拍手する。

託太夫別室に赴くや、注連主以下本山柱の前に正座して大祓の連読を行い、注連主天下泰平万民安泰五穀豊穣牛馬安全千秋万歳万々歳の祝言を大唱し、成就神楽で舞納める。

 
成就神楽 ←ビデオ映像
 
…桜江町教育委員会「大元神楽」 …映像「早稲田大学 演劇博物館」より