| 消されたウガヤ王朝史 |
| |
| 日本という国は、一口にいえば、「謎に包まれた国」といって過言ではない。 |
| |
| 人類の起源はもとより、その発達と移動など、人類学のすべての分野で、撤密な科学的調査や研究が進んでいる今日、先進国のなかでも、もっとも先頭を走っていると自他が認めているこの国が、いまだに、自民族のルーツも、言葉のルーツも不明だというのだから、こんな不思議な国はいくら探してもほかにあるまい。
日本の政治家が、念仏のように繰り返し叫んでいることの一つは、日本の国際化問題だ。
日本の国際化とは、地球村といわれるほど狭くなった国際社会において、諸外国との間に、日本のありのままの姿を紹介することによって、相互の理解を深めてゆこうとする動きである。
だが、そのような動きは、最初から大きな壁にぶつかっていて、実現は、今のままでは、とうてい、不可能だとしかいえない。
|
| |
| というのは、みずからが「誰であり、どのような素性のものか」をいえない日本人を、外国の人びとは、怪しいとまではいわなくても、理解し難い民族だと考えるだろうからである。 |
| |
| 人文・科学のいかなる分野でも、だんぜん群をぬく優秀な能力を発揮している日本人が、いったいなぜ、自身のことに関するかぎり、盲目同然の状態におかれるようになったのだろうか? |
| |
| この疑問に対する答えは、「日本の国民は、生まれたときから、『記紀』による国史教育を受けてきたからである。
712年に完成した『古事記』と、その8年後に完成した『日本書紀』は、日本国の歴史の上限を、わずか紀元前数百年としていて、それ以前は、まったくの暗やみにしてしまっている。
そればかりではない。日本人は、「神の子孫」であると「記紀」は教える。
「記紀」の成立以来、今日にいたるまでのほぼ千三百年間、子孫代々が、このように教えられてきた日本人は、「皇国史観」という、ほかに例のない思想の持ち主に育てられた。
|
| |
| それによれば、神国である日本列島には、他の民族とは何の関わりもない「ヤマト民族」が住んでおり、彼らは、外国のどの言葉とも語源の違う、この島国に自然発生した「ヤマト言葉」を使っているというのだ。 |
| |
| 今でもそのような紹介を著書で紹介している皇国史観にかぶれた、著名な学者がいる ! |
| |
| 個人個人は、無類の誠実さで知られている日本人だから、国際社会に出て、教わったとおりの自己紹介をするよりほかない。
だが、諸外国の人びとが、自身を「神の子孫」という日本人を、どのような目で見るだろうかに思いがいたれば、日本の国際化運動の将来は、まったく暗澹たるものだといわざるをえまい。
|
| |
| このように、日本人の前途に、大きな影をおとしてしまったことの責めは、『古事記』と『日本書紀』を編纂した天武王朝(伊勢神宮も創建)に問わなければならない。 |
| |
| なぜなれば、「記紀」編纂の目的は、壬申の乱という、日本史上最大の革命戦争によって皇位を纂奪した天武天皇が、自身を、正統な皇位継承者であると国民に認めさせることによって、万世に揺るがない天武王朝を確立しようとするものであったからだ。 |
| |
|
そのような目的を達成するために、諸豪族に伝承されてきた多くの文献が抹殺された。
その結果、日本人は、国史に関するかぎり、暗やみにたたされることになったのだ。
|
| |
|
だが、日本人にとって幸いなことに、「記紀」に真っ向から対抗する古文献がいくつか見つかっている。
それは、次のような古文書の内容である。
|
| |
| 上記(うえつふみ) |
| |
| むかし、記憶や口諦によって、共同体にまつわる系譜や説話などの伝承にたずさわる人々がいた。それが「語部(かたるべ)」である。
語部は、古代、といっても平安中期ころまでは「部(べ)」(特殊技能集団)として朝廷にも仕えていた。
すなわち、天皇即位後の最初の新嘗(にいなめ)祭であり、一世一度の大祭にあたる大嘗(だいじょう)祭には、伴宿禰(とものすくね)と佐伯宿禰とに率いられた語部(各15名)が「古詞」を奏したという。
なお、この語部(計30名)は、905年に成立した律令施行細則の集大成である延喜式(えんぎしき)によれば、美濃・丹波・丹後・但馬・出雲・淡路から集められたとある。
ちなみに、これらの国々は、淡路一国をのぞき、すべて先住民系の「山の民」に縁の深い地域である。
さて、この語部が天皇の一世一度の大祭に奏したという「古詞」の内容は不明であるが、おそらく出雪国造(いずものくにのみやっこ)が代々、天皇に服属の意の表明として奏した「出雲国造神賀詞」的性格のものだったのではあるまいか。
その朝廷(天皇)御用の語部のもっとも有名な人物は、日本最初の史書とされる古事記の成立に大きくかかわった舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだのあれ)であろう。
この猿女君(さるめのきみ)氏出身の天才が誦習した帝紀・旧辞を太安万侶(おおのやすまろ)が撰録したのが古事記とされている。
しかし、語部のすべてが体制側に属していたとは考えられない。
各地の豪族にはそれぞれ語部がいたはずである。
それらの語部のなかには、古代の苛烈な政争に敗れた豪族に属するものもいたにちがいない。
|
| |
| 古事記以前の書といわれる古史古伝の成立に、これらの語部が果した役割は大きかった思われる。 |
| |
| 竹内文書・九鬼文書・宮下文書・物部文書・秀真伝・東日流外三郡誌などは、いずれも敗北者側の語部の口調してきた伝承を、後世、撰録文書化したもので、本書でとりあげる『上記』(うえつふみ)(以下ウエツフミと記す)もその一つである。 |
| |
|
さて、このウエツフミの伝承を伝えた語部は、かつて『サンカ』と称された「漂泊の山の民」であったというのが本書の仮説である。
いや、ウエツフミだけではない。
|
| |
| 竹内文書・九鬼文書・宮下文書──いずれも記紀では一代かぎりのウガヤフキアエズ王朝を数十代の連続王朝としている──の三文書も、古代山の民系の語部であるこの「漂泊の山の民」集団が大きくかかわっている。
そこから、この三文書(ウガヤ文書ともいう)を、「サンカ文書」として一括する人もいる。
|
| |
| では、なぜ、この「漂泊の山の民」が、まつろわぬものの怨念の歴史である古史古伝の語部となったのであろうか。 |
| |
|
この『サンカ』と称された「漂泊の山の民」集団が日本列島に、いつ渡来したかについては、正確なことは分らない。
だが、彼ら自身の伝承に出雲的カラーがきわめて濃いことから考えて、縄文晩期ごろではないかと推定される。
|
| |
| したがって彼らは、三〜四世紀ごろ渡来した天孫族と称する集団からみれば先住民ということになる。 |
| |
| だが、彼らはながい大陸での漂泊の旅の経験をもっていたため、弥生革命にも生き残り、その共同体的アイデンティティを失うことなく、いわゆる大和朝廷という名の支配機構が確立されたあとも、まつろわぬ者として征討の対象ともならずにすんだ。
それは、彼らがそのながい漂泊の中に身につけたいくつかの特技によって有力各氏(豪族)に巧みに食い込めたからである。
そして、その豪族が政治闘争で敗れたとき、そのままでは勝者によって消されるその氏族の伝承を語り継ぐ役割を担うことになった。
いわゆサンカ文書は、この「漂泊の山の民」の語部が口諭し、後世、文書化したことからの命名である。
|
| |
|
もともとウエツフミは、大和朝廷成立以前に滅亡した出雲王朝の挽歌であった。
それを記憶し、口誦してきたのは、九州の「漂泊の山の民」であった。
|
| |
| 彼らは、出雲王朝を開いたスサノオノミコトの集団とともに日本列島に渡来した。
それだけに天孫族に「国譲り」を強制され、やがて大和朝廷に滅ぼされたこの王朝にとくに深いかかわりをもっていたのであろう。
|
| |
|
また、ウエツフミが九州豊後の「山の民」の伝承であるにかかわらず、東北地方をのぞく、ほぼ全地域にわたる古代(神武以前)の情報を網羅しているのは、各地の「山の民」の語部たちの協力があったからであろう。
だが、この「漂泊の山の民」が伝えた古伝承──原(プロト)ウエツフミ──は、大友(よしなお)能直によって現在のウエツフミに改変されてしまった。
したがって、そこには「まつろわぬ者」の栄光と悲惨についての記述はみごとに消し去られてしまっている。
にもかかわらず、私たちは、その現存ウエツフミからでさえ、在りし日の弥生(出雲)王朝についての貴重な情報を詳細に読みとることができるのだ。
それだけでも私たちは、2000年にわたって、私たち先住民系の祖先の伝承を語り伝えてくれた、この「漂泊の山の民」の語部に深く感謝すべきであろう。
|
| |
| タブーとしての出雲王朝 |
| |
| 日本神話を読めば、「高天原」の最大のライバルが「出雲」であったということが分かる。
事実、記紀神話を貫く一本の赤い糸は、高天原勢力に対する葦原の中つ国勢力のチャンピオン、出雲勢力の抵抗と敗北の歴史である。
|
| |
| おそらく古史古伝に残る「出雲王朝」こそ、かつての原(先)住民の黄金時代についての記憶の唯一の投影であろう。 |
|
| だが、本来は反体制文書であるはずの古史古伝のなかでも、この「出雲王朝」の存在を記しているのは、わずかに九鬼文書(はっきり出雲王朝を正統としている)とこのウエツフミ程度であるのはどういうわけか?
ここに古史古伝の成立と継承の謎がある。
私は、この種の謎について、かつて古史古伝の写本者の体制の圧迫に対する偽装(カモフラージュ)論としてとらえたことがある。
|
| |
|
すなわち、いわゆる畿内(大和)朝廷にとり、出雲王朝の存在は最大のタブーだったはずである。
なぜなら、彼ら(畿内=大和朝廷)は、自分たちの日本列島支配の正統性の主張をくつがえす最大の危険が、民衆のあいだに潜在的に記憶されている出雲王朝のイメージであることを知っていたからだ。
|
| |
| 事実、そのため彼らは、出雲の服従の誓いともいうべき「出雲国造神寿詞(いずものくにのみやっこのかむすごと)」を出雲国造に代々奏上させたくらいである。 |
| |
| その行事は天長十年(833年)まで記録されているが、驚くべきことに第二次大戦後の昭和23年(1948年)、83代千家尊祀国造のとき復活しているのだ。 |
| |
| 出雲国造神寿詞は、日本列島の先住民勢力が大和王朝に服属する必然性を主張するために設けられたものであり、いわゆる「出雲」とは、現在出雲大社がある山陰の一地方の呼称ではなく、高天原勢力に抵抗した私たちの大部分の祖先である先住民勢力の集約的表現であるからである。
さて、出雲王朝にもどろう。
いま述べたような記紀の出雲(神話)観にもとづけば、古史古伝といえども、うっかり、その出雲王朝の存在を打ち出すことが、いかに危険であるかがお分かりいただけるかと思う。
したがって、九鬼文書やウエツフミが、このタブーの先住民王朝の存在を記しているということは、それだけでも偽書として抹殺される可能性をもっていることである。
|
| |
| それは、いわば、発見され次第、爆発させられる(弾圧・抹殺される)時限爆弾をかかえ込んでいると同じである。
そこで、そのような伝承全体をも破壊されてしまう危険な爆弾を自らの手で解体しょうと考えた古史古伝の継承者(つまり筆写者)がいたとしても不思議ではあるまい。
この自発的?な爆弾解体作業は、一見、偽装と似ているが、偽装よりも質的には後退である。
|
| |
|
また、こうした偽装したり、解体せざるをえないような危険な情報は「出雲王朝」だけでなく、古史古伝にはいくつもある。
だが、私たちの祖先は、それらをすべて解体するということはしなかった。
偽装を施して、しかもある一つの鍵を用いれば分かるような形でそのような危険な情報を継承してきた。
それが現存の古史古伝であり、ウエツフミもその一つであったのである。
|
| |
|
…佐治芳彦著「謎の上記」より
|
| |
| 『上記』は、13世紀に源頼朝の庶子で豊後太守に封じられた大友能直の撰になるとされる。
いわゆる神代文字、つまり異体仮名の一種によって書かれているものであり、上古の王朝とされる伝説的ウガヤフキアエズ朝の歴史を綴ったものである。
『上記』は、幕末、今の大分県大分市に住んでいた国学者・幸松葉枝尺(さちまつはえさか)によって発見された、いわゆる宗像本と大友本との二種類がある。
宗像本は、今の大分県大野郡大野町の地に居住していた宗像良蔵という人物が、はじめ所蔵していたもので、艮蔵の死後、妻が実家に持ちかえっていたが、この女性が幸松の姻戚関係にあったことから、幸松の手元に移り、幸松によって実検された。
これが宗像本の発見であり、天保九年(1839)のことであった。
その後、幸松によって、異体文字からの解読が行われ、同時に、原本の写本が作製されて、時の大分県令を務めていた岡山県出身の森下景端の仲介で、明治7年、明治新政府に進上された。
現在、幸松が監修した一本の他、あわせて三部が内閣文庫に保存されている。
一方、大友本は、今の大分県臼杵市の地に住んでいた大友淳という人物が所蔵していたもので、当時の記録によると、はじめこの書が、当局に没収されることを恐れた大友は、これを深く秘め隠していた。
先の森下景端をはじめ、周囲の人々のすすめで結局、世に出すことになったが、はじめ差し出したのは、真本でなく、異本であり、真本は、後に大友家が没落した時、大友家から佐々木千尋という人物に売却された。
佐々木は現在、国会図書館に一部現存する大友本の筆録者の一人であり、佐々木が入手した大友本は、後に、佐々木から大分県庁に納められ、現在、県立大分図書館に収蔵されている。
宗像本・大友本とも、五十文字の異体仮名で全編書かれているが、この文字が何時、どこで、どのような人々によって何のために用いられたかは不明である。
筆者は、古代の語り部の流れを組む人々によって受けつがれて来たある種の語り部文字でほなかったかとの仮説を抱いている。
『上記』は、序文によれば、源頼朝の庶子で豊後太守・大友能直の手によって1233年編纂されたものと伝えられているが、その真偽は確認出来ない。
内容は、日本列島の創世から、ニニギ王朝、山幸彦王朝、これに続く73代に渡るウガヤフキアユズ王朝の歴史を紀伝体で綴ったものである。
『記紀』にあっては、神武は山幸の子、ウガヤフキアユズの子とされるが、『上記』では、山幸の子である初代ウガヤ王と神武との間に71代のウガヤ王が介在し、神武は、73代ウガヤ王とされる。
又、ニニギ王朝の成立に先行してスサノヲによって開かれた出雲7代の王歴が存在し、7代目オオクニヌシの国ゆずりによって、ニニギ朝が成立する。
この出雲7代については『古事記』は、その神名系譜のみを挙げているが、『上記』は、それらの神名系譜に対応した一個の継続王朝を語っている。
こうした王歴伝説に交じって、民話、天文、暦制、医学、国制、産業など広範囲に博物誌的な記事を散在させている。
初代ウガヤに至るくだりは、出雲王朝部分を除くと、殆ど『記紀』に重なる内容である。
文体、文章、語句の上からは、『古事記』との関連が著しい。
|
| |
| 『東日流外三郡誌』 |
| |
| 『東日流外三郡誌』は、中世初頭11世紀半ごろ発生した、いわゆる前九年の役の敗北者、陸奥・安倍氏の末裔、安東一族の歴史と伝承とを編集したものである。
民族学的に言って安倍氏というのは、所謂蝦夷(えぞ)族(アイヌ族が主要な勢力)と、所謂倭人との混血によって成立した勢力の代表的氏族であった。
安倍氏と並んで後三年の役で亡んだ出羽・清原氏も同様な氏族であった。
前九年の役というのは、安倍頼時とその子貞任・宗任らが大和王権に対抗して自立し、その勢力が強大となったため、源頼義・義家父子を中心に東国武士団がこれを討ち、戦争となったものである。
敗北者となった安倍氏・安東氏の一族はその後、全国に分散して拡がったが、畿内・大和王権に対して陰然と敵対心を保ちつづけていた。
江戸末期に入り、安東一族の後裔である秋田・土崎の秋田孝季と、縁者で津軽・飯詰の和田長三郎が、寛政元年(1789)から文政五年(1822)まで三十有余年にわたり、日本全国を廻り、安倍氏の始族とされる、いわゆる荒吐族をはじめ、安倍氏・安東氏等が維持し続けていた様々の伝承・口碑や記録を収集し編纂した。
これが『東日流外三郡誌』の原典である。
全368巻の長大な書であり、内容は始祖伝承から、江戸時代までの事蹟を含み、特に大和王権に対する怨念ともいうべき氏族感情、敵慢心が赤い糸のように貫いている。
原本は、もともと秋田孝季家に伝存し、その写本が和田長三郎家に残されていたが、火災で秋田家の原本が焼失したため、今は和田家にのみ写本が残っている。
和田家では歴代にわたり、写本などでこの書の保存につとめて来たが、最後の写本は明治10年代になって成立したものである。
しかし、大和王権に敵対的内容を含むため、吾が奪われたり、一族に危難の及ぶことをおそれてか、一族以外のものの他見を許さず、又、他言をも許さずに最近に至っていた。
しかし、昭和50年になって、青森県市浦村が『市浦村史資料編』として一部発表し、はじめて一般の目にふれ得るところとなった。
|
| |
| 『九鬼文書』 |
| |
| 『九鬼文書』は、現在、和歌山県・能州野本宮大社宮司・九鬼宗隆氏の家伝として逼る文書である。
九鬼家は、その系譜によれば、中臣氏(藤原氏)の系累であり、後白河天皇の代に教真という人が、はじめて、熊野別当(神仏習合で成立した神宮寺の司官で祭祀長)に任じられ、以後、熊野神社と由緒深い家柄である。
教真以来八代にわたり熊野別当職をつとめた。
九代目・隆真は、後醍醐天皇を背におぶって吉野に逃亡し、ここに南朝が興った。
この功により、隆真は、九鬼姓を与えられたという。
近世になってからは、丹波・綾部藩、摂津・三田藩の藩主となり、明治新政府のもとで、子爵に叙せられた。
当主・宗隆氏の父で、先代・隆治は、大正年間、皇道宣揚会を設立し、神道の宣布に当った。
宗隆氏は、現在、熊野本宮大社宮司である。
『九鬼文書』は、九鬼家々譜に至る中臣(藤原家)の神代からの系図を揚げ、神代の神々の系譜を載せている。
又、神武以後、後醍醐天皇に至る天皇歴代の簡単な略史が設けられている。
更に九鬼文字と称される異体仮名文字が紹介され、九鬼神道ともいうべき教義及び祭祀・呪法などが書かれている。
この書のいわば根幹となるものは、「天地言文」(アメツチノコトアヤと訓むか)であり、中臣氏の祖神天児屋根の子孫・天種子が後世に伝え残したものという。
これは、『秀真伝』が天種子の編述になるとするのと同じである。
|
| |
| 『富士高天原朝史』 |
| |
| 『富士宮下文書』というのは、現在、山梨県富士吉田市大明見在住の宮下義孝氏が保存している古文書である。
文書目録によれば、『記紀』の神代志に対応する部分、いわゆる神皇代に対応する部分、神武以後の人皇歴代に対応する部分など、皇統譜伝承をはじめとして、飛鳥・奈良以降の甲州富士浅間神社一円関係の世俗文献など、ざっと745点からなる一大古文書群である。
このうち、神祇・神皇関係の記録は、秦の始皇帝によって仙人の国を求めて東海に派遣されたといわれ、伝説によれば、日本に到来したという徐福及びその子孫が編纂撰録したものとされる。
又、歴代天皇や源頼朝、北条泰時など時の支配者の直筆書とされる文献なども含まれている。
『富士宮下文書』は、甲州(山梨県)富士山麓の富士山阿祀谷元宮小室浅間太神宮という神社に代々継承・保存されて来たもので、この神社は現在、富士吉田市大明見にある富士山北東本宮・小室浅間神社の一つの前身と目される。
『延喜式』「神名帳」には、八代郡に浅間神社を載せている。
『清和実録』にも、貞観七年(865)、八代郡に浅間明神嗣を建立したとある。
地理的近接性からして、『延書式』『清和実録』の浅間神社が小室浅間神社にあたるのであろう。
大正時代、皇統譜及びその伝説を中心として『富士宮下文書』を整理・ダイジェストして世にあらわした三輪義熙の『神皇紀』及び小室浅間神社の現宮司・宮下荘一氏によれば、この文書は、第26代宮司の時、阿祖谷小室浅間神社から相模(神奈川県)寒川神社に移され、49代宮司の時、これを複写して阿租谷に持ち帰ったという。
こうして二種類の『富士宮下文書』が甲斐に残り、保存されていたが、寒川神社のものは、後に水害に遭って亡び、甲斐・阿租谷に残ったものが、今日まで伝存しているものであるという。
更に、『神皇紀』によれば、第77代宮司となった宮下義興が14才の時、文久三年(1863)11月の事であるが、宮司家の居館が火災にあい、古文書も類焼の危険にさらされた。
義興は祖先の遺訓を守って、これを保守するため火中に飛び入り、古文書を持ち出したという。
その後、明治16年(1883)になって義興は、小室浅間神社の神官・宮下荘斉と相談して、文明開化の今日だから厳秘を命じた祖先の遺訓を破って、古文書の箱を開けてもよいのではないかとして、これを開封し、『富士宮下文書』は永い眼りからさめ、世の光にあてられることになったという。
現在、古文書を保存している宮下義孝氏にとって義興は四代前の先祖であり、現・小室浅間神社宮司の宮下荘一氏にとって荘斉は三代前の曽租父に当るという。
宮下義孝氏の家では、一族相図って、文書を永代保存するため、邸宅の一画に一間四方ほどの小さいながら堅固な土蔵造りの保存庫を造り、文書はこれにおさめられている。
|
| |
| 『竹内太古史』 |
| |
| この文書は、太平洋戦争中、『記紀』にあらわれている伝説的人格、武内宿禰(孝元天皇の曽孫で景行から仁徳に至る五朝に仕えたといわれる)の65代目の子孫で、竹内赤地三郎衛門という人物の養子となった、茨城県磯原(今の北萩城市)の武内巨磨(おおまろ)によって、代々竹内家に伝存して来た神典として公にされたものである。
巨磨の実父は、庭田重胤という人物で、幕末に従一位大納言の位を朝廷から与えられており、しばしば、伊勢神宮へ勅使として派遣されたという。
母は、藤原奈保子といい、伊勢神宮の神官・従二位参議・大中臣光忠の娘であった。
奈保子は、明治八年、従者三人を連れて桜の花見に出かけた帰路、動機は不明だが、加賀前田家の家臣ら七人の暴漢に襲われ、従者二人を殺され、自分も自刃したという。
残された子供は長男の重正、次男の重文、三男の重直、四男の重蠻(しげたか)の四人で、この中の末子・重蠻が後の巨磨であったという。
巨磨は竹内家の養子になったことから、養父・三郎衛門に、竹内家伝来の神宝を相続され、世の中が平和になったら、これを天皇に御覧に入れよと遺言されたという。
後に巨磨は神宝に含まれていた『竹内文書』と神骨神体と呼ばれた神像76体の存在を世に公表した。
竹内家の伝説によれば、『竹内文書』は、はじめ、いわゆる神代文字(異体仮名)で書かれていたが、雄略天皇の時代に、勅令で、竹内宿禰の孫、平群真烏が五世紀ごろ漢字と普通の仮名とを併せ用いて、書き改めたといわれる。
いわゆる普通仮名の成立は、奈良時代以後であるので、この伝説はあてにならない。
真鳥は、武烈天皇の時代に国政を専断し、日本の国主になろうとしたとして、天皇氏の軍隊に討伐され、滅ぼされた。
竹内家の伝説では、神体は76体の他、もう2体あったという。一体は、崇神の代に、大和・笠縫神社(アマテラス降臨の地とされる)に、他の一体は、丹後、輿謝神社(今の龍神社又は元伊勢神社・伊勢トユケ神の元宮)に安置されたが、次の垂仁の代に、それぞれ、伊勢・五十鈴川の宮と山田の原宮とに遷祀され、これが内宮、外宮の由来であるという。
…田中勝也著「異端日本古代史書の謎」より
|
| |
| 日本の学者らは、それらを偽書だとして無視する傾向にある。
しかしそれらはけっして偽書ではない。
ただ、それらが公表されるようになる過程において、官権による改竄がなされたために、信憑性の疑わしい記述が挿入されているのは事実だ。
|
| |
| これらは、いずれも由緒正しい家中に伝わってきた古文書である。
同じ時期に同じ場所で発見されたものではなく、それぞれ異なった年代に、かなりかけ離れた場所で見つかったものである。
|
| |
| これらの文書が公開されるまでには、官憲から我々の想像を遥かに越える干渉と圧迫があったであろうことは、言わずもがなである。
なぜなら、これらの古文書には例外なく「ウガヤ」王朝が神武王朝以前に存在したと明記されているばかりでなく、
それが73代続いていたという一致した内容になっているからである。
|
| |
| 『上記』『竹内文書』『東日流外三郡誌』などなどの古文書の証言によれば、日本列島に進出した「ウガヤ=上伽耶」が、「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」を率いて、第一期ヤマト王朝をたてたのは、神武王朝より1200年以上も前、すなわち、今からほぼ3200年前のことだ。 |
| |
|
アイヌは日本列島の原住民であることに、異議を挿む学者はあまり見受けられない。
この「アイヌ」は古代日本原住民の殆どであり、九州南部に若干の南方系種族がいたと思われる。
従って、この当時(紀元前1500−前1000年頃)の日本列島の住民は「古モンゴロイド」であったと言える。
ところが、ちょうどこの頃、地球の寒冷期があり、民族の大移動があって、北方アジア人が南下したのが、いわゆる弥生人の日本列島開拓だと考えられる。
中央アジアから大移動を始めた太陽信仰族の一部は、朝鮮半島の背骨といわれる太白山脈の東側(日本海側)をつたって、洛東江流域を通り、ついには日本列島に移動してきた。
これが弥生人であり、第一期ヤマト王朝を建てた「ウガヤ」の人たちである。
|
| |
| 彼らは当然のことながら、アイヌよりは新モンゴロイドであったはずである。
彼らは、南・北九州一帯は勿論のこと、山陰・山陽地方の区別なく、だんだんと東北に進みながら、アイヌとの混血をしていった。
水田稲作の日本列島への伝来を、今から、3500年から4000年前と見る立場から判断すれば、伽耶族の渡来も、それと同じ時期だったと見るのが、自然である。
地球上のすべての民族に伝わる神話や伝承を見ると、上古の人類は、程度の差はあるが、皆「太陽」を神と崇めていたことがわかる。
なかでも、太陽を「ラ」と名付けたエジプト人は、王さまを太陽神の権化と信じていたし、インドの太陽国アユディアの王さまも「ラマ=太陽神」と呼ばれていた。
中国の建国神話に出てくる炎帝も太陽神であるのは周知のこと。
|
| |
|
さて、今日の我々に「加羅=カラ」の名で知られている部族名は、前に述べたように「太陽」または「太陽の国」、あるいは「王さま」という意味の韓国古語である。
洛東江両岸の肥沃な地域に定着した加羅族(伽耶族)は、本家が統括する地域と分家が治める地域に区分され、本家のほうは「ウカヤ=上伽耶」、分家のほうは「アラカヤ=下伽耶」といわれていた。
韓半島南部で、本家の「ウカヤ=上伽耶」が都していたところは、今の慶尚北道の高霊(コリヨング)を中心とした地域にあたるが、またの名を、「弥烏邪馬国=ミオヤマト」といっていた。
「ミオヤマト」とは、「神聖で偉大なるヤマト」という意味である。
|
| |
| 「ミ=弥」は、日本語でも、「神酒=みき」・「神魂=みたま」・「海神=わたつみ」と使われていることからわかるように、「神・神聖」を意味し、「オ」は「大」をあらわす。
次の「邪馬=ヤマ」は、『魏史』(倭人伝)に出てくる国号、邪馬台のそれと同じだから、その読み方に疑問をはさむ余地がない。
あとは、「国」をなぜ「ト」と訓むかだけが、問題としてのこる。
そこで思い出して頂きたいのは、「あなたの国はどこ?というときの「国」は、「生まれた土地」をさすということだ。
その「土地」や「跡」のことを韓国語で「ト」という。
『万葉集』に「跡」を「ト」と訓ませている歌が多いのは、周知のとおりだ。
これを踏まえて、日本の学者のなかには、「ヤマト」の語源は、「ヤマ=山」の「ト=処」だと言っている人も少なくないが、それはこじつけに過ぎない(『大日本地名辞書』「国号篇」参照)。
|
| |
|
このようにして、「ウガヤ国」のまたの名「弥烏邪馬国」は、「ミオヤマト」と読むもので、その意味は「神聖で偉大なる太陽の本拠」であることがはっきりわかる。
つまり、「ヤマト=日本」の元祖は、伽耶の本家の「上伽耶=ウガヤ」であることが、明らかになった。
今まで日本の国号として知られていた「倭=ハ」を始め、「ヤマト」や、漢字で表記された「日本」も、すべてが「太陽の国=カラ(加羅)」という意味の言葉であることが、突き止められたわけである。
|
| |
| 明治の著名な学者等が、「『日本』の国号は韓国に始まった」と喝破したのは、このことを指して言っていたのだ。 |
| |
| ちなみに、伽耶の分家である「アラカヤ=下伽耶」の数は、当然のことながら、年代が下がるにつれて増えていった。
したがって、韓国の史書には、「伽耶は、六つ(または五つ)の部族国家によって成立していた」と書かれている。
だが、じつさいには、その数、十あまりにのぽったと見え、『日本書紀』には、西暦532年以前に滅びたものが三カ国、そのあと562年までに滅ぼされたのが十カ国となっている。
また、伽耶琴を初めてつくった「ウガヤ=上伽耶」末期の楽師「ウルク」が、伽耶12国を歌に詠みこんで残していることからも、「アラカヤ=下伽耶」の数は、少なくとも12以上あったであろうことを推察できる。
|
| |
|
そのような初期「アラカヤ=下伽耶」のなかで、もっとも強大な勢力をもっていたのは、今の慶尚南道の咸安(ハマン)地域に栄えた「安羅伽耶=アラカヤ」であった。
そして、「アラカヤ=下伽耶」のなかで、もっとも最後まで頑張っていたのが、「金海伽耶=キムヘカヤ」、つまり、『魏志』(倭人伝)に「狗邪韓国」と記されたところである。
|
| |
| この国は『日本書紀』(欽明二年条)には、「南加羅」と表記され、「アリヒシノカラ」と訓がほどこされているし、別のところでは「下韓」と書いて「アルシカラクニ」と訓ませている。
そのばあいの「アリ」または「アル」は、「アラ=下」がなまったもので、「下韓=アルシカラクニ」とは、いうまでもなく「下伽耶=アラカヤ」のことだ。
「下伽耶=アラカヤ」は、本家「上伽耶=ウガヤ」の南の方に位置していたことから、「南加羅」とも表記されていた。
|
| |
|
韓半島における最後の「下韓=アルシカラクニ」は、今日の韓国では、「金官伽耶=クムカンカヤ」とも呼ばれているが、『日本書紀』に明記されているように、西暦532年に新羅に降伏している。
その「金官伽耶=クムカンカヤ」は、日本の皇室と密接な関係にあるが、そのことについては、あとで詳しく説明することにして、先へ進むことにする。
だが、その前に、ここでもう一つ西暦940年頃に編纂された『旧唐書』を覗いて、「ヤマト=日本」が、「ウガヤ=上伽耶」と「アラカヤ=下伽耶」を指す「倭」の名であることを確かめておこう。
|
| |
|
『旧唐書』に、次のような記録が残されている。
『日本はもと小国だったが「倭」を併合した(大きくなった)』
『日本は倭国の別種である。その国は日の辺にあるので、日本をもって名とした』
|
| |
| 『旧唐書』にあるこのような記事は、「倭は日本の称号だ」とばかり信じている人々には、まったく不可解な謎であり、その意味を解明できた学者は一人もいない。
だが、「倭」と「日本=ヤマト」が、韓民族の自称であることに気が付けば、その解釈は、いとも簡単である。
|
| |
| すなわち、「小国だった日本が倭を併合して大きくなった」というのは、半島南部の狭い地域にあった『日本=ヤマト』、つまり、『ウガヤ=伽耶』が列島に進出して、当時「倭」といわれていた地域を併合して大きくなったという意味である。
今まで目隠しされたまま過ごしてきた日本人にとっては、びっくり仰天するような、信じ難い話だが、この史実は、「神武天皇以前の日本列島に、「ウガヤ王朝」が七十数代続いていた」と記録している『東日流外三郡誌』『上記』『九鬼文書』『竹内文書』『宮下文書』などが裏付けている。
|
| |
| ところが、『古事記』や『日本書紀』に見える日本建国神話によれば、神武天皇が東征に成功して、最初の都を定めたところも、「ヤマト」の橿原、すなわち、今の奈良県橿原市であった。
韓半島内に存在する「ウガヤ=上伽耶」の、もう一つの名であるはずの「ヤマト」が、なぜ、記紀の神武神話に、傾国の土地として登場したのだろうか ?
しかも、『魏志』(倭人伝)によれば、「ヒミコは、邪馬壱(ヤマト)の女王だったが、西暦278年頃死亡し、その後を即(つ)いだのは、女王壱与(トヨ)である」と明記されでいる。
『魏志』(倭人伝)や記紀の記録が誤ったものだと言うなら、話は別になるが、それらが事実だと認めざるを得ない現状では、およそ西暦300年頃の奈良県内に、「ヤマト」という名の国が存在していたことを何人も否むことができないのだ。
|
| |
|
奈良県にあった「ヤマト」と、韓半島にあった「ヤマト」、つまり、「ウガヤ=上伽耶」とは、どんな関わりをもっているのだろうか ?
それを調べる順序としてまず「ウガヤ」の建国時期から追求して行こう。
|
| |
|
『古事記』や『日本書紀』は、「アマテラス大神」と「スサノオノミコト」は、同じ父母から生まれた姉弟だとしながら、姉のアマテラス大神は、「高天原」、すなわち古代ヤマト地方を治める一方、弟のスサノオノミコトは、「根の国」、すなわち、出雲の国を治めていたと記されている。
同じ記紀の記録のなかで、ややもすれば見過ごされやすい部分は、『アマテラス大神は、出雲の国のスサノオノミコトが、高天原に攻め込んでくるのではないか……と心配していた』というくだりだ。
|
| |
|
だが、このようなアマテラス大神の、出雲の国に対する恐怖と憂いは、神代の話、すなわち、神武以前の状況を表現したものではない。
実際には、「国譲り神話」として記紀に伝えられている事件、つまり、大国主命から、出雲国を奪ったあとの第二期ヤマト政権の心理を描いたものである。
言い換えると、『上記』や『東日流外三郡誌』などの古文書が伝えるウガヤ王朝(上伽耶王朝=第一期ヤマト王朝)時代には、弟、すなわち、分家であるアラカヤ(下伽耶)は、文字どおり、「ハラカラ=一つの加羅」の認識が強く、共存共立の信頼関係が維持されていたのだ。
したがって、ウガヤ王朝は、「アラカヤ」を配下にもつ統一伽耶王朝だったわけである。
そのような「ウガヤ」と「アラカヤ」の、血族としての連帯関係を裏付けているのが、『日本書紀』の仲哀二年二月の記録だ。
それによると、「ウガヤ王朝」最後の王であった仲哀天皇は、即位した翌年の二月に、新妻をつれて、今の敦賀にでかけ、そこに行宮をたてて滞在していたという。
出雲国風土記の国引き神話にも明記されているように、能登半島は、出雲国、すなわち、「アラカヤ」の領域だったのだから、敦賀は当然のこととして「アラカヤ」の領内である。
もしも「アラカヤ」が「ウガヤ」と対抗関係にあったとしたら、「ウガヤ」の新婚ほやほやの天皇夫妻が、「アラカヤ」の領内に、行宮(かりのみや)をたてて滞在することなど、可能だったはずは毛頭ないのだ。
そのようなウガヤ王朝の成立は、水田稲作技術の波及と同じ歩調で進行したと考えなければなるまい。
『上記』や『東日流外三郡誌』のような古文書は、神武王朝以前の日本列島に、ウガヤ王朝が73代続いたと言う。
これは、一代を30年と見た場合、ほぼ、2200年に相当するから、ウガヤ王朝の創建は、今から4000年以上もまえのこととなる。
だが、古文書のなかには、神武王朝より1200年早かったと記しているものもある。
もしも皇室がいっているように、西暦1940年が、神武王朝が始まってから、二千六百年目にあたる年であるなら、ウガヤ王朝の成立は、それに1200年を加えて、今から3860年ほど前だったということになる。
|
| |
| だが、今では、終戦前の日本政府が吹聴していた「西暦1940年は皇紀2600年」説を信ずる古代史学者は、ほとんどいないし、日本政府が言っていた年数から、660年を差し引かなければならないと考えている学者のほうが多いのが現状のようだが、それはまちがいである。
私の場合、後でおいおい説明することになるが、ウガヤ王朝の滅亡時期は、仲哀天皇が殺された西暦362年だと考えているから、神武王朝は、今の皇室を、その正統な後継者と看做すばあい、1998年現在まで、ほぼ1636年間(1998-362年=1636年)続いているという計算になる。
それに、神武以前に73代、ほぼ1200年を加えると2836年前だったのだ。
|
| |
| つまり、第一期ヤマト王朝(ウガヤ統一王朝)の建国は、今からほぼ2836年前だったのだ。 |
| |
|
1994年、縄文後期(今からほぼ3500年前)の岡山・津島遺跡、南溝手遺跡で出土した土器の中から、陸稲と見られる稲のプラントオパールが検出されたという。
稲を日本列島に持ち込んだ伽耶族が、水田稲作を吉備やヤマト地方で成功させたのは、第一期ヤマト王朝が建国された時期と前後しただろうと考えて、間違いはなかろう。
さて、神武天皇は、最初の都を橿原に定めたというが、第一期ヤマト王朝(ウガヤ王朝)の都は、どこだっただろうか?
|
| |
| 有難いことに、この質問には、記紀が正解をあらかじめ準備しておいてくれた。
だが、せっかく準備されたその正解だが、それを理解するには、地名の語源を調べる必要がある。
では、しばらく頭の体操をして頂くことにしよう。
ちょっとした工夫、すなわち、
|
| |
| 橿原(かしわら)の語源 |
| |
|
まず、日本列島で起きた、最初の武力革命に勝利した第二期ヤマト王朝側の都、「橿原」の地名語源から調べるのが順序かも知れない。
『日本書紀』の神武東征記によれば、神武天皇の軍勢に手強い抵抗を最後まで続けた「ヤソタケル」は、ヤマトの高尾張にいた。
そしてその最後の砦(とりで)があったのが、磐余(いわれ)、今の高市郡である。
神武天皇は、ここでの決戦で最終的勝利を得たあと、畝傍(うねび)山の東南の地を橿原と名付けて都と定めたのである。
|
| |
|
だが、地元の人は、第一期ヤマト王朝を倒してこの地に居座った神武の率いる軍勢を「今来=いまき」すなわち、新参者だと軽蔑した。
そのような理由から、神武の都「橿原=かしはら」は、しばらくのあいだ、「今来郡=いまきこほり」と呼ばれていたのだが、こんな事実を知っている人は、あまり多くないようだ。
|
| |
|
なお、『古事記』には、「橿原=かしはら」が「白梼原」と記されている。
それに注目した学者らが、この地域の発掘調査をしたところ、このあたりに昔「白梼=いちいがし」の林があったことがわかった。
そんなことから、日本の学者は、「白梼=いちいがし」原が「橿原=かしはら」の地名語源だと考えているようだ。
しかし、「橿原=かしはら」の地名が、東征以前からあったのならいざ知らず、いやしくも、新しい王朝が生まれ、その最初の都の名を定めるのに、畝傍山に生えている木の種類名をもってしたと考えるのは、ちょっと味気なさすぎはしないだろうか ?
しかも、漢字がまだ日本列島に伝わっていなかった神武東征の頃に、樹の名などを漢字で表記できた訳がない。
だとすれば、橿原の「カシ」は、樹の名だとするよりは、ヤマト言葉の表記に使われた当字だと見るほうが順当だろう。
そのような論理から、私は、その場合の「カシ」は、「尊い・偉い・最高」を意味するヤマト言葉だと考えている。
したがって、「カシハラ」とは、「カシ=最高の・尊い」+「ハラ=土地・ところ」、すなわち「最も偉い人の住む土地・首都」という意味で使われた地名だと見るのが正しい。
新しい王朝を始める神武天皇の都を「最も偉い人の住む土地・首都」と名付けたことは納得しやすい。
なお、「カシラ」が、「最高の者・首領・頭」を意味するヤマト言葉であることが、それをさらに裏付ける。
|
| |
| 葛城(かつらぎ)の語源 |
| |
|
今の奈良県に葛城という歴史の古いところがある。
皆さんのなかには、この地域のまたの名が、尾張(=おはり)であることを、知っておられる方もおられるはずだ。
その葛城は、第一期ヤマト王朝最後の王であった仲哀を、その妻の神功皇后と共謀して殺害した武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫が、蘇我一族と云う名のもとに、三百年間の栄華を欲しいままにした根拠地でもある。
|
| |
|
『日本書紀』には、「蘇我の権勢がその絶頂にたっしていた頃、蝦夷大臣が、この地域の高丘宮に祖廟(そびょう)をたてたばかりか、天皇だけが舞うことになっている『やつら』を舞った」と記されている。
しかも、その父、馬子大臣は、推古天皇に「葛城の郷は、もともと私の本居であり、蘇我氏は、その地名をもっ
て葛城氏とも名乗ってきた故に、その地を私に払い下げてください」と申し出たが、天皇に断られたという。
そこで我々は、「なぜ蘇我一族は、葛城の地域にそれだけの執着をもっていたのだろうか?」という疑問にぶつかる。
しかも、『日本書紀』の景行天皇三年条によれば、武内宿爾が生まれたのは、紀国(きのくに)(今の和歌山県)となっているから、「葛城の郷は、もともと私の本居(うぶすな=生まれた地)である」という主張は、なおおかしいではないか?
だが、馬子大臣が葛城を蘇我氏の本拠地だと主張したからには、そこに何らかの裏話がありそうな気がしてならない。
|
| |
|
いったい葛城にまつわる蘇我一族との隠された緑は何だろうか?
なぜ蝦夷大臣は、葛城の丘に祖先を祭る廟を建てたか?
なぜ、祖廟を葛城の丘に建てた時に、天皇のみに許される『やつら』を舞ったのか?
なぜ、朝廷にまつろわぬ逆賊の呼称と言われる「エミシ」をもって自らの名としたのか?
──などなど、葛城と蝦夷大臣にまつわる疑問は、次から次に湧いてくるばかりだ。
そこでまず、葛城の地名から、謎を解く糸口を探して見よう。
|
| |
|
葛城のまたの名は、尾張、あるいは高尾張とも言っていた。
先に挙げたように、『日本書紀』の神武東征記によれば、神武天皇の軍勢に手強い抵抗を最後まで続けた「ヤソタケル」は、ヤマトの高尾張(たかおはり)にいた。
つまり、第一期ヤマト王朝の根拠地がまさにこの葛城だったのだ。
そしてその最後の砦があったのが、磐余(いわれ)、今の高市郡だ。
|
| |
| 第一期ヤマト政権の主人公は、加羅の本家である「ウガヤ=上伽耶」だった。
神武天皇は、「ウガヤ=上伽耶」を倒して、自らが拓いた新しい王朝の都を、「天皇の住む所」という意味で、「橿原=かしはら=尊い土地」と名付けた。
なれば、「ウガヤ=上伽耶」の人々は、彼ら自身の本拠地を、なぜ「葛城=かつらぎ」と名付けたのだろうか?
|
| |
|
その解答を得るには、まず、「葛城=かつらぎ」の「かつ」が、「葛」と記された漢字の韓国音読であることを見抜かなければならない。
「葛」の韓国音を仮名で表記すると「カル」となる。
ところが、漢字の「日=ニル(イル)」・「達=タル」などの韓国音は、日本語では「にち・につ」・「たち・たつ」になる。それと同じ音韻変化法則によって、韓国音の「カル」は、日本語では「かつ」と発音されたのだ。
ちなみに、この「かつ」は、年代が下がるにつれて、母音交替をおこし、「くづ(くず=葛)」・「かど(葛野=かどの)」などとも発音されるようになったことを、『大日本地名辞書』で確かめることができる。
さて、現代韓国語では「カル」と発音される「葛」だが、記紀や 『万葉集』が編纂される以前の韓半島では、「カラ」という韓国語を表記するために使われていた。
たとえば、『三国時期の吏読に対する研究』によると、前期新羅時代に、王位に登らぬままなくなった王族には「葛文王」の名を追封して、「カラモン王」と発音していたし、同じく前期新羅時代の地名「葛谷」は「カラシル」とよばれていた。
このようなことがわかると、「葛城=かつらぎ」の本来の発音は「カララギ」であったことを突き止めることができる。
その場合の「葛=カラ」は、もちろん「加羅(伽耶)」に対する当字である。
そして、「かつらぎ」の「ら」は、「ハ=大きな・広い」+「ラ=場所・土地」「ハラ=原・広い場所・大きな土地」の場合に使われた「ラ」と同じで、「場所・土地」を意味する接尾語だ。
さらに、古代韓国語で「城」のことを「キ・サシ・サ」と言うが、日本語でも同じだ。
これを総合すると、葛城の語源は、「カララキ→カルラギ→カツラギ=加羅の土地の城」という意味であることが浮かび上がってくる。
つまり、第一期ヤマト王朝、すなわち、加羅の王城のあったところだから、葛城と呼ばれていたのだ。
その事実をさらに裏付けるのが、「おはり=尾張」という、この地の別名で、「お」に尾の字を宛てたのはあやまりなのである。
このばあいの「オ」は、「大きい・上・本」を意味するもので「う=上」の母音交替形である。たとえば、岐阜県の方言では「本家」のことを「おりいえ」と言うし、淡路島でも「母屋」のことを「おりえ」と言う。
「大人=おとな」を、記紀・万葉時代に「うし」と呼んでいたことは周知のとおり。
「おはり」の「はり」は、「はら=太陽・太陽の土地」から母音交替した形で、先に述べたように「カラ=太陽・太陽の土地」の原形である。
つまり、「おはり」は「うはら=おはり」と変化したものであり、その意味は「うはら=うから(上加羅)=ウガヤ」で、「加羅の本家」のことだったのである。
その「おはり=尾張」を「たかおはり=高尾張」とも呼んだのは、「たか=高い・尊い」+「おはり=うはら=うがや」「尊いウガヤ」という意味の敬称に由来する。
「ウガヤ」が、韓半島では「ミオヤマト=神聖で偉大なるヤマト」と呼ばれていた事実は、日本列島で「高尾張=尊いウガヤ」と呼ばれた由来を証言していると言えよう。
このような地名語源は、神武東征が行なわれた当時の葛城の地が、「ウガヤ」最後の都だったことを物語ってくれる。
|
| |
| 斑鳩(いかるが)の語源 |
| |
| 日本の学者のなかには、この地域に、昔、「いかるが」と呼ばれる鳥が多く住みついていたから、この地名がつけられたと言う方もいるようだが、そのような話は、冗談の部類に属するとしか言いようがない。
「斑鳩」は、「山鳩=やまはと」の漢字名である。
したがって、本来ならば、「やまはと」と訓まなければならないのに、なぜ「いかるが」と訓んだのか?を解いてゆかなければならない。
そこで、皆さんに、まず思い出して頂きたいのは、「隼人=はやと」である。
「だしぬけに隼人(はやと)を思い出せとは……?」と訝しがる方もおられるだろう。
だが「隼人」は元来、「隼=はや」+「人=ひと」やひと」と読むへきなのに 実際には「はやと」と訓むことに 誰も異存をはさまなし「斑鳩」の場合も、本来ならば「山鳩=やまはと」と発音されるべきだが、「は行音」の脱落により、「やまと」という言葉の表記に使われたのである。
|
| |
|
つまり、「斑鳩」は、「ヤマト」を表記するために使われた当字なのである。
だとすると、当然ながら、「なぜそれを(いかるが)と訓むようになったのか?」という疑問が湧いてくる。
|
| |
| そうなると、「うごく=動く」を「いごく」と発音する方言の出番だ。
すなわち、「うごく」を「いごく」と発音するのと同じ母音交替が起こつた結果、「うから=上加羅(ウガヤ)」は「いかる」と発音されるようになったのである。
その「いかる」に、「すみか=住みか」・「ありか=在るところ」に使われたのと同じ「か=ところ・土地」が結ばれて成立したのが、「いかるが=ウガヤの地」である。
|
| |
| つまり、「いかるが」は、「ウガヤの地=ヤマト」であったわけである。 |
| |
|
「いかるが」が「ヤマト」の別名であることをさらに裏付けるのは、『和名抄』・『霊異記』などの資料である。
それらの記事を総合すると『斑鳩は平群郡(へぐりこおり)の夜摩郷(やまのさと)である。斑鳩は、鵤(いかるが)とも表記する』となっている。
その「夜摩郷」こそ、とりもなおさず、『古事記』や『日本書紀』に記された「夜麻止・野摩等・夜麻登=ヤマト」であること、あまりにも明らかだ(『大日本地名辞書』参照)。
|
| |
| 私は、この斑鳩は、「ウガヤ=ヤマト」が、葛城に遷都する前の都だったのではなかろうか?と考えている。 |
| |
| 『魏志』(倭人伝)に、「投馬国(出雲)から、女王ヒミコが都としているところまで行くには、水路で十日行ったあと、さらに陸路で三十日かかる」と記されている。
そこが、「夜摩郷」、すなわち斑鳩であったのだ。
つまり、『魏志』が編纂された三世紀後半には、魏の使節が、ここまで足を運んでいたことを知り得るのである。
|
| |
| なお、「ウガヤ」には、斑鳩以前に、最初の都としていたところがあると思われる。そこが、飛鳥(あすか)だ。 |
| |
| 飛鳥(あすか)の語源 |
| |
| 先に述べてきたように、「ウガヤ」が統一加羅王朝、すなわち、第一期ヤマト王朝を建てた時期は、今からおよそ2800年前頃のことであったと思われる。
この数字は、現在の西暦年数から、ウガヤの最後の王、仲哀天皇が殺された西暦三六二年を差し引いた数字に、神武王朝以前に千二百年間続いたという「ウガヤ王朝」の暦年を加算した数字だ(1998-362+1200=2836 ほぼ2800年)。
|
| |
|
その時から、神武東征が始まったときまでの1200年間、「ウガヤ」の都は、少なくとも三度替わったのではないかと考えられる。
そして、彼らが、最初の都に定めたところは、飛鳥だった可能性が高い。
私がそのように推定する根拠は、大陸における韓民族の建国時期と、その最初の都の名である。
|
| |
| 『三国遺事』によれば、古代朝鮮の建国について、親書には、およそ次のような記録が残されているという。
【尭が即位したのと同じ時期に、檀君王倹と称する人が、「阿斯達=アサタル」に都を定めて国を創建し、朝鮮と号した】
中国の歴代年表によれば、尭帝の即位は、紀元前2357年である。
つまり、朝鮮の建国は、西暦に2357年を加えた年だということだ。
さらに、同じ『三国遺事』には、「韓国の古文書によれば、檀君王倹が即位したのは、尭帝の即位から50年あとだったと記されている」と添え書きがされている。
いずれにしても、ここで我々が注目しなければならないことは、二つだ。
まず第一は、古代朝鮮の建国時期が、今からほぼ4300年前であり、それは加羅族が、日本列島に進出したときより、およそ1000年前だということ。
第二には、朝鮮最初の都の名が「アサタル」であったこと……である。
韓民族最初の都だった「アサタル」は、松花江沿岸にある旧満州の「ハルビン」地域だと推定される。
そのような判断は、後日、彼らが同じ松花江沿岸の「扶余=ブヨ」に遷都し、扶余の名が、今も、そこの地名として残っていることで裏付けられる。
このようなことから、中国の東北部、今の黒竜江と松花江の流域に産声をあげた韓が、海をへだてた日本列島に国をたてるまでには、およそ1000年の月日がたったことを知ることができるのだ。
我々は、そのように長い月日がたったにもかかわらず、韓は、日本列島においても、最初の都の名を、中国大陸で命名したのと同じ意味の「アサカ」としたことを見逃してはならない。
「アサカ」とは、「アサタル」と同じく、「光輝くところ=非常に良いところ」という意味だ。
もう少し具体的に説明しよう。
この場合の「アサ」は、「あざやか」の「あざ」と同じ語源であり、日本語の「あさ=朝」・韓国語の「アザギ=朝」とも通じる言葉なのである。
韓民族の国号を、漢字で「朝鮮」と表記するのは、ずばり「アサタル」に由来する。
その場合の「タル」は、「カ」と同じく、「土地・ところ」という意味だ。結局、「アサタル」と「アサカ」は、ともに、「光明の土地・非常に良いところ」という意味でつけられた地名で、太陽信仰に徹底した民族の特徴が躍如とする命名であることがわかる。
その「アサカ」は、年代が下がるにつれて、母音交替をおこしたので、現在の「アスカ」に変化した。
だが、「アスカ」を「明日香」と表記する場合もあることから、もともと「アサカ」と言われていたことを知り得る。
言い換えると、「アサ」と「アス」が同じ語源の言葉であることは、「朝」と「明日」は、古くから、ともに、「アシタ」と言われていたことで立証できる。
|
| |
|
先にも指摘したように、太陽信仰に徹していた加羅族は、彼らが定住しようと心に決めた土地には、いつも「アサタル・アサカ・アスカ・アス」の名を好んでつけた。
『大日本地名辞書』をちょっと覗いただけでも、次のようなところが目に飛び込んでくる。
|
| |
アス(阿須)……………………対馬
アス(阿須)……………………武蔵
アスカ(飛鳥・明日香)………大和
アスカ(飛鳥)…………………河内
アスカ(飛鳥)…………………美濃
アスカ(飛鳥)…………………羽前
アスカ(飛鳥)…………………陸奥
アスカ(安宿)…………………河内
アスカ(安宿)…………………安芸
アサカ(安坂)…………………信濃
アサカ(阿坂)…………………伊勢
アサカ(浅香)…………………和泉
アザカ(呰鹿)…………………伊勢
アサカ(安積)…………………岩代
アサカ(浅嘉)…………………武蔵 |
| |
| ちなみに、「アスカ」・「アサカ」を「安宿」・「安積」などと表記するのは、その文字の音借だが、「飛鳥」 の表記は、訓と音を混用したものだ。
ところが、「飛鳥」をなぜ 「アスカ」と訓むのかについては、日本の学者のあいだに、いろいろと面白い学説が乱れ飛んでいる。
たとえば、本居宣長は、『(アスカ)を(飛鳥)と表記するのは、「飛ぶ鳥の明日香」と歌に詠まれたことに由来する』と言うが、それは、後で説明するように、本末転倒と言わなければならない。
また、ある学者らは、『「アスカ」と言う鳥の名に由来する』とも言っているが、なぜ鳥の名をもって、そのところの地名にしたのかについては、口を閉ざしている。
「飛鳥」の「飛」を「ア」と訓ます正しい根拠は、「ア」に「高い・上」の意味があるからだ。
「あたま=頭」・「あがる=上がる」などに使われる「ア」が、それである。
また、「鳥」の韓国訓は「サ」だが (現代韓国語では(セ=州))、日本の音読では「チョウ」のほかに「シャク」または「サク」ともいう。したがって、「飛鳥」と表記して、訓読の場合は「アサ」となり、訓音混合の場合には、「アシャク」・「アサク」と読むことができることがわかる。
そうなると、「安宿」の場合、「アシュク」と読むべきを「アスカ」と訓み、「アセキ」と読むべき「安積」を、「アサカ」と訓むのと同じ理由で、本来なら「飛鳥」は「アシャク」または「アサク」と読むべきだが、母音交替した形の「アスカ」を表記するために使われたことを突き止めることができるのだ。
「アスカ」を「明日香」と表記するようになったのは、「飛鳥」より年代が下がってからのことだからこそ、「飛ぶ鳥」という詞は、「明日香」を思い起させるための歌詞 (うたことば=枕詞)として使うことができたのである。
|
| |
|
こうして、「飛鳥」は、「ウガヤ王朝」の都のあったところであることが明らかになった。
このあたりで、蝦夷大臣は、なぜ葛城の丘に祖先を祭る廟を建てたか?
なぜ、祖廟を葛城の丘に建てた時に、天皇のみに許される『やつら』を舞ったのか?
なぜ、朝廷にまつろわぬ逆賊の呼称といわれる「エミシ」をもって自らの名としたのか?を解いてみることにしよう。
|
| |
|
蘇我一族は、その出自から深い霧につつまれている。
なぜなれば、『新撰姓氏録』によれば、蘇我氏は、武内宿禰の子孫となっているが、その武内宿禰なる人物自体が、謎だらけだからだ。
|
| |
| 武内宿禰は、景行天皇三年二月に生まれて、仁徳天皇の時代まで、300歳の長寿をしたばかりか、『新撰姓氏録』に載っている27姓氏の始祖となっていることから見ても、実在した、個人の名でないこと明らかである。 |
| |
| 日本の学者らも、武内宿禰の素性について、いろいろな学説を発表している。
岩波書店発行の『日本書紀』上巻、595ペ=ジ、補注7−三に、その詳しいことが記されているが、そのなかでもっとも有力なのは、『武内宿禰なる人物像は、七世紀前半以降に作られた架空のもので、その属性の特徴は、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」として描かれている』という説だとしている。
|
| |
|
要するに、武内宿禰は、個人の名ではなく、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」を象徴化して指す呼称なのだ。
しかし、そうなると、二つの疑問が湧いてくる。
その一つは、記紀には、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」が一人や二人ではない。
とすれば、そのなかのどの部類に属する人を、特に「タケウチノスクネ」の名で呼んだのか?である。
二つ目の疑問は、仁徳朝以降の『日本書紀』にも、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」の数は、決して少なくない。
にもかかわらず、仁徳朝以降に「タケウチノスクネ」と呼ばれた人は一人もいない。
それは、どうしてか?である。
「タケウチノスクネ」の「タケウチ」は、「尊氏=尊い氏族の人」という意味であり、「スクネ」は、「(スク)+(ナ)=スクナ」の母音交替形である。
「スクナ=スクネ」は、「スガ(須賀)」の「ナ=土地・国」、つまり、「須賀国」ということだ。
その「須賀国」とは、「スサノオノミコト」によって、「スガ=須賀」と呼ばれるようになった、出雲国である。
|
| |
| 結局、「タケウチノスクネ」とは、「須賀国の尊い氏族の人」という意味の呼称であるから、他地方の人には、その名で呼ばれる対象はいなかったのだ。
疑問第二に対する正解は、仁徳朝以降は、「タケウチノスクネ」のかわりに、同じ意味をあらわす「ソガノスクネ」の名が使われるようになったからだ。その「ソガ」は、「そ=高い・聳える・そそりたつ」+「か=家中・氏族」「そが(そか)=高い氏族(尊い氏族)」のことで「タケウチ」と同じ意味なのだ。
なお、その場合の「か(が)」は、現代韓国語の「朴カ=朴氏族」・「金力=金氏族」に使われる「カ=氏族」と同じであること、言うまでもない。
|
|
|
こうして見ると、「タケウチノスクネ」と「ソガノスクネ」は、まったく同じ意味をあらわすために作られた姓氏であるから、「タケウチノスクネ」に替わる「ソガノスクネ」の名が、仁徳朝以降に登場したことを知るのだ。
さて、蘇我一門の三百年にわたる栄華は、「ウガヤ王朝」の滅亡と密接に絡み合っている。
したがって、蘇我一族にまつわる謎を解くには、「ウガヤ王朝」最後の王であった仲哀天皇のことを調べなければならないが、
まず、「ウガヤ王朝」衰退の歴史を振り返っておくことにしよう。
|
| |
|
太古の日本列島に流入した種族のなかで、「北西からの人々」は、「オロ族」や粛慎族と呼ばれる群れである。
彼らは本来同じ民族で、後日、高句麗を建てた人々の遠い祖先でもある。
そのなかで、大陸から切り離された日本列島に、後世まで引き続き大きな影響を及ぼしたのは、「オロチ=オロ族」と呼ばれた部族であった。
|
| |
| 粛慎(しゅくしん)族は、太古のロシア沿海州から中国東北地方の広大な大地を領域とし、黒龍江省と吉林省の両省は古代には『粛慎(しゅくしん)地』、漢代には『扶余地』と呼ばれたという。
越国に移住したツングース族の中心分子は、粛慎に当たる。
粛慎の名称は、隋・唐時、先秦時期に東北地方に居住した民族を呼称する総称である。
8世紀、粛慎の子孫、靺鞨族が台頭し始めた。
靺鞨人は、元々黒龍江流域に在住し、温暖な地を求めて、朝鮮半島の高句麗に進入した。
北海道、又は日本東北地方に移住した者は粛慎と称され、高句麗に移住した者は靺鞨と称された。
「オロチ」とは、「オロの人」という意味だが、岩手県の方言では「オロッペ」、仙台方言では「オリベ」と言う。その「オロッペ」・「オリベ」の根拠地は、越の国だったから、「越中ふんどし」のことを、今でも「オロッペふんどし」・「オリベふんどし」と言う。
|
|
| 越の国が、彼ら「オロチ」の根拠地になったのは、沿海州や韓半島北部に住んでいた彼らは、船に乗ると、北上する対馬暖流の影響で、ほとんどの場合、能登半島に到着したからである。 |
| |
年代がさがってから、大陸のその地域に建国した勃海国からの使節は、「博多から入国してくれるように……」
という、日本朝廷の重なる要請があったにもかかわらず、難破した船の乗組員までが、能登半島に漂着した。
やがて朝廷も、そのやむをえない実情を了解せざるをえなくなり、桓武天皇時代の西暦804年には、能登国に勃海使を迎えるための能登客院をたてた事実があるほどだ。
|
| |
| しかし、後世のような国交があったはずのない「ウガヤ王朝」の時代には、能登半島から上陸してくる「オロチ」は、頭痛の種そのものだった。
そのときの記憶を、『上記』は、およそ次のように記録している。
|
| |
| 第四代ウガヤ王56年、(こしのくに)に、オルシ国王(アカスヒテ)の使者(ユテル)が、大きな船にのってやってきて、穀物を差し出すよう強要した。
それから三年後の59年に再びやってきて、その時も糧穀を要求した。
明くる年の60年には、オルシ国王(アカスヒテ)が、みずから三千の兵力を率いて侵入し、穀物を毎年貢ぐよう強制したので戦いになり、ウガヤは、オルシ国王を生け捕って追放した。
第五代国王の時には、オルシ国の(クリクノ)なる者が、皮船にのって、(はくいこほり=羽咋郡)に到来し、稲穂を掠奪して逃げた。
その後、オルシ王(キカザユズテレ)が大船百隻を率いて佐渡島を侵略した。
(キカザユズテレ)は、その後(こしのくに)に上陸したが、撃退された。第37代王のときには、オルシ王(コムリキ)が、大船50隻を率いて(こしのくに)に侵入し、その時も糧穀を要求した
|
| |
| この記録に見える(オルシ)は、「オロチ」の音韻変化形であること、二言を要しない。
隠岐島に伝わっている『伊未自由来記(いみじゆらいき)』にも、およそ次のような記録が残されている。
|
| |
| 隠岐島は、もと小斯凝呂島(おしころしまと)と呼ばれていたが、それは「小さな島の集団」という意味だった。
なぜなれば、北に大きな島があって、於母島(おもしま)と言い、南には、三つ子島と呼ばれた三島からなりたっていたからである。
出雲の国が『於漏智=オロチ』に奪われてから、小斯凝呂島へも彼らが襲来して、財宝を奪ったり乱暴をしたりしたので、三つ子島の人々は、於母島へ逃げ移った。
すると、(於漏智=オロチ)たちは、於母島の東の大津を襲うようになった。
三つ子島は完全に占領されたが、於母島は、長い間の苦戦にもかかわらず何とか守ることができた。
しかし、三つ子島に居座った(於漏智=オロチ)の勢力は日増しに強くなっていった。
元来、(於漏智=オロチ)は、鉄を生産して、それをもって、鎧兜や盾と剣をつくっていたから、数は少なくても、戦いには強かった。
隠岐島で米作が始まったのは、この頃である……
|
| |
| このような『上記』や『伊未自由来記』の記録は、
穀物の栽培が難しい、寒い地方に住んでいる「オロ族」が、すでに稲作が始まっていたウガヤ王国に度々侵入して、食糧を強要・強奪していったようすを、克明に伝えてくれると同時に、「オロチ」が製鉄の技術をもっていたことを強調している。
そして、そのハイライトが、ほかならぬ「オロチ退治神話」である。
記紀にあるその神話の内容をわかりやすく整理すると、ざっと次のようである。
「スサノオノミコト」が、韓から新羅を経て、出雲の斐伊川のほとりまで渡ってきた。
そのとき、彼は、「こしのくに」から、ヤマタ(大勢)の「オロチ」が、毎年同じ時期にやってきて、斐伊川流域で水稲作をしていた人々が、娘のように大事に育てた稲を、強奪してゆくという苦情を聞いた。
そこで彼は、計略を用いて「オロチ」を退治することに成功し、人々を「オロチ」の乱暴から救いだした。
このとき、「スサノオノミコト」の刀は鋼製であったために、「オロチ」のもっていた鉄製の剣にふれて、刃こぼれがした。
そのときに、救出された娘の名は「クシイナダ姫=非常に良い稲田の娘」である。
「オロチ」がもっていた鉄製の剣は、貴重なものであったから、「スサノオノミコト」の五代孫(または六代孫)の手によって天照大御神に差し上げられた。
|
|
| このような「オロチ」との戦いの記録は、皮肉にも「ウガヤ」の勢力が、次第に衰退してゆく姿を描いている。 |
| |
| なぜなれば、まず第一に、「オロチ」を屈伏させたのは、「ウガヤ」ではなく、出雲国の名を「スガ=須賀」に改名させた「アラカヤ」の「スサノオノミコト」だったことと、
第二には、「ウガヤ王国」には、鉄製の剣がなかったので、「スサノオノミコト」が「オロチ」から手に入れた草薙剣は、天皇家の手に渡り、国の三大神器の一つとなったというからだ。
つまり、その剣は、「オホクニヌシの国譲り」のときに、滅ぼされた「アラカヤ」の手から、第二期ヤマト政権(熊信仰族)の手に渡ったのである。
そのことは「スサノオノミコト」の五代孫(または六代孫)の手によって天神に捧げられた、と記している『日本書紀』が立証してくれる。
|
| |
| 今日、天皇の即位儀式に欠かせない、もっとも重要な手続きが、このときの草薙剣の伝授であることは、皆さんも周知のはずである。 |
| |
|
このように、新しい文明は、海の向こうから出雲地方に上陸したことによって、出雲の「アラカヤ」は先進国になる一方、
東の「ウガヤ」は、新しい文明の波にとり残される後進国に成り下がっていった。
これが「ウガヤ王朝」の衰退に繋がったことは言うまでもなかろう。
|
| |
|
記紀に見える神話のなかには、現実に在った事実が、編纂する側の、ありのまま記述することを避けたい隠密な事情のために、ことさら神秘化された例が、かなりある。
なかでも、天皇家の先祖が韓から海をわたってきて、今の鹿児島県川辺郡にある笠沙の浜に上陸した事実を隠すために、でっちあげられた高千穂峯の天孫降臨神話と、
「スサノオノミコト」が、韓から新羅を経由して、今の島根県の斐伊川河口に上陸したあと、「オロ族」との戦いで勝利を収めた事実を神秘化した「オロチ退治神話」、
それに、「スクナヒコナ神」が、新羅から帰ってきたときのことを記した神話は、
その三大傑作と言うべきものである。
|
| |
| さて、記紀に「スクナヒコナ神」の名が初登場するのは、大国主命(オホクニヌシノミコト)が、島根県の稲佐浜(いなさのはま)で、「海の向こうから帰ってくる神」に出会うシーンである。 |
| |
| 記紀によれば、「オホモノヌシノミコト」や「タケミカヅチノミコト」が上陸(降臨)したところも、この稲佐浜である。
日本の学者は、もろもろの神が、この地に上陸した理由として、ミアレ=神の誕生」の地であったからだと説明してはばからない(岩波書店の『日本書紀』ページ参照)。
「神の誕生する地」というすばらしい表現には、思わず微笑を誘われるが、どう見ても、学者の科学的説明とは受けとめ難い。
|
| |
|
それは、実際に、稲佐浜が「神の誕生する地」になる所以は、こうである。
まず、国譲り神話の「タケミカヅチノミコト」が、稲佐浜に上陸したのは、砦のような中国山脈に囲まれた出雲国を、陸路から攻略することができなかったために、第二期ヤマト政権側の水軍が、瀬戸内海から日本海へ迂回して、出雲国の心臓部と言える出雲市の背後から、奇襲上陸作戦を敢行したからであった。
また、「オホモノヌシノミコト」は、「オホクニヌシノミコト」とも言われる神だが、「オホアナムチノミコト」の別名の一つである。そしてその「オホアナムチノミコト」は、韓神、すなわち、韓半島から渡来した神だと、国語辞典を含むもろもろの辞典に解説されている。
と言うことは、「オホモノヌシノミコト」や「スクナヒコナ神」のように、韓半島から渡来する神々(人々)は、韓半島から出航した船が、北上する対馬暖流の影響で、稲佐浜が寄り付きやすい地域であったために、ここに上陸したのである。
|
| |
| そのようなことを知らないはずのない日本の学者らだが、良心の目をつぶって、「稲佐の浜は(神々の誕生の地)だ」と、青少年たちに真実を教えないまま今日に至っているのが現状である。
だが、情報伝達手段の多様化と普遍化が特徴となる21世紀には、そのような目隠し教育は、もはや通らなくなること必定だ。
世界を一つにつなぐ、あらゆる情報ネットワークのおかげで、嘘の教えから真実に目覚めるようになる日本の青少年たちは、日本国民を愚民政策で愚弄してきた皇室や、その周囲で、権力にしがみつきながら、二千年の長い間、嘘の教育を強要してきた政治家と学者等を、どのような目で見るだろうか〜
日本の指導者は、今のうちから、などの読み直しをしておく必要があるのではなかろうか?
|
| |
| それはともかく、目下我々の関心は、「スクナヒコナ神」は、どのような素性の神だったのか?にある。
その謎を解く鍵は、「海の向こうから帰ってきた」という記録から、たやすく見いだすことができる。
「海の向こう」とは「海の向こうにある国」という意味だが、島根県から見る海の向こうには、韓の新羅国があった。
なお、その「スクナヒコナ神」は、もともと新羅の人ではなく、出雲国(島根県)から、新羅へ出掛けていた人であることも、「帰ってきた」という表現で察知できる。
しかも、記紀によれば、地元では、彼のことを覚えている人がほとんどなく、古老の証言で、やっと、彼が出雲生まれの男であることが判ったという。
つまり、彼が韓に渡ったのは、遠い昔のことなのだ。
|
| |
| そこで、こんどは、韓側の伝説を調べて見る必要がでてくる。 |
| |
| さっそく『三国史記』と『三国遺事』を覗くと、そこには、「海の向こうから船にのって渡来した男」の話が、それも、記紀のそれより、いっそう具体的に記されているではないか!
それは、新羅第四代目の王「昔脱解=スクダルヘ」にまつわる、およそ次のような内容の伝説である。
新羅の第四代王「昔脱解=スクグルヘ」は、もともと、海の向こうからやってきた少年である。
大きな方舟(はこぶね)にのってきた彼は、初め、今の金海地方にあった金官伽耶に着いたが、そこに上陸することを嫌い、最終的には、新羅の、今の迎日湾の浜に上陸したという。
そのとき彼は、「私は、(倭)の東北千里にある多婆国の王子だが、私に危害を及ぼそうとする者どもの手を逃れてここへきた」と言った。
多婆国は、またの名を花厦国とも言う。
韓半島から見た(倭)は、九州に始まる。
九州から東北へ、韓国の尺度で千里(四百キロ)行くと、そこは出雲の国だ。
そうなると、倭の多婆国は、丹波を表記したものであり、花厦は、「ハハの国」といわれていた出雲国のことである可能性が高いではないか?
|
| |
| ここで読者の皆さんには、出雲は、「スサノオノミコト」によって、「スガ=須賀」と呼ばれるようになったという記紀の記録を思い出して頂きたい。
その「スガ」の母音交替した形が、「スク」であり、それを漢字で、韓国音表記すると「昔=スク」となる。
つまり、「スクナヒコ」とは、「スク(昔)」+「ナ(土地)」+「ヒコ(彦)」「スクナヒコ=昔国の男=須賀国の男」のことであることがわかる。
一方、彼の韓国名「スクグルヘ」の「ダル」は、「ナ」と同じく「土地・国」のことであり、「へ(訓)」は「日」で、太陽信仰族が「人」をさして言う言葉である。
たとえば「アヘ」は「こども」のことであり、「アンヘ」は、「内の人・家内」のことだ。
最後に、「スタナヒコナ」の語尾に使われた「ナ」は、所有代名詞「の」の母音交替形で、「カカタ=あちらパ方=彼方」・「コカ夕=こちらパ方=此方」に使われた「ナ」と同じ言葉である。
|
| |
| こうして見ると、「スクナヒコナ神」とは、「須賀国の男の神」であることが明らかになる。
学問の神様として祭られている「菅原道真=すがはらみちざね」の先祖は、垂仁天皇の時代に、埴輪を作らせるために出雲から動員されて上京した、出雲の土師(はにし)であったことから、長い間「土師氏」を名乗っていた。
それが、西暦781年以降、土師宿禰古人(はにしのすくねのふるひと)の要請により、先祖の出身地である「スクナ=須賀の土地=菅原」の名をとって、「菅原氏」に改姓することを許されたことは、皆さん周知のことだろうから、出雲が「スガ=須賀」の地であることは、納得されやすいだろう。
「スクナヒコナ神」は、なぜ新羅から帰ってきたのだろうか?
|
| |
| それを知るためには、まず、「スクナヒコ」は、個人の名前ではなく、「須賀国の男」という語源が示すとおり、「須賀国の血筋の男」に対する総称であることから確かめておかなければならない。
こうなると、読者のなかには「ハ、ハーン……!」と領く方も多いはずだ。
そう、その通り。「スクナヒコ」の「スクナ」は、「武内宿禰」や「蘇我宿禰」の「スクネ」と同じ意味で、ともに、「須賀国」を指す言葉なのである。
|
| |
|
前記の『三国史記』や『三国遺事』によれば、「スクナヒコ」は、新羅の始祖、朴赫居世(パクヒョコセ)が即位(紀元前57年)してから39年目の、紀元前18年に新羅に渡来した。
聡明な青年に成長した彼は、二代目の南海王の娘婿になり、62歳の時には、先代王の遺言によって、四代目の王位に登った。
その後、彼の子孫は、第9代から第16代までのあいだ(第13代を除いて)、前後8代、172年の間、新羅の王権を掌握していた。
ところが、西暦356年には、太陽信仰族から熊信仰族に宗旨替えした金奈勿(キムナムル)に王権を奪われることになり、そのとき以来、新羅は「金氏=キムし=熊族」王朝に変革されたのである。
始祖以来、ずっと「朴」と「昔」であった新羅国王の姓氏は、金奈勿王以来「金」に替わってしまった。
この時の王姓革命について、『三国史記』は、「第十六代の王に子供がいなかったから……」と、さりげない記述をしているだけだが、それは、新羅史の編纂が、金氏王家の手でなされたからで、本当は、この時から、新羅も熊信仰国となったのである。
|
| |
|
ここまで読んだ読者のなかには、首を傾げる方もおられるだろう。
|
| |
|
神功皇后の三韓征伐という笑い話まででっちあげた記紀の編纂者であるにもかかわらず、韓国では(スクダルヘ)、記紀では(スクナヒコ)と呼ばれる(須賀国の男の神)が、新羅の昔氏王家の始祖となった大事件については、たったの一言も触れようとしないのは、どうしてだろうか?
その質問に対する正解は、こうである。
記紀は、自らも「オホ氏」でありながら、壬申の乱によって政権を奪取したあと、「オホ氏」を裏切った天武天皇の指示によって編纂された。
自分の子孫が治めるべき国は、「オホノクニ=須賀国」、つまり「アラカヤ=安羅伽耶」に限られるのではなく、「ウガヤ=上伽耶」をも含む「ヤマト国」でなければならない。
その「ヤマト国」の権威を維持するためには、「偉大なるオホノクニ」の歴史は抹殺しなければならない……という天武天皇の意志を実現したのが、記紀であったのである。
したがって、新羅の王権まで掌握していた輝かしい「須賀国の歴史=多氏古事記」は、天武王家の手で抹殺されたのだ。
しかし、後世の我々にとって幸いなことには、輝かしかった「須賀国」の片鱗を伝えてくれる『出雲国風土記』が残されている。
|
| |
|
『出雲国風土記』は、西暦722年、朝廷の命令を受けて編纂に着手したが、完成したのは西暦733年、ざっと20年もあとのことである。
このことは、着手から編纂が終わるまで、ほぼ30年もかかった『古事記』の場合と同様、表面にあらわれなかった難関が、編纂事業の裏にあったことを示唆するものである。
金太理という韓国名の人が編集し、出雲国の国造の名で提出された『出雲国風土記』は、朝廷の気に入るようになるまで、その内容が書きなおされながら歪められた。
しかし、それでも、「須賀国」、すなわち出雲の歴史の真相を解く鍵は、ところどころに隠されていて、我々が気付くのを待っている。
近ごろ発掘されて古代史を再検討させる契機をつくった、大量の銅剣・銅鐸や銅矛なども、その一部である。
|
| |
| なかでも、「国引き神話」は特に有名だが、それは、出雲国が、南北と海の彼方にまで領域を拡大しながら、「オホノクニ=大国」となった過程を記録したものであることは、今更言うまでもなかろう。
だが、その短い文章のなかに、「乙女の胸鋤取らして……三つ撚りの網打ち掛けて……国来国来と引き来……」という興味深い表現が、四度も繰り返し使われている異常な書き方から、自分たちの栄えある歴史をありのまま伝えることのできない「須賀国=出雲国」の無念さを窺い知ることができる。
|
| |
|
その国引き神話の最初に出るのが、「出雲の国は初め小さな国であった。それを大きくしようとして、新羅の岬を見ると、国の余りがあったから、それを引き寄せて国を広めたが、そのときに使った引き綱は(園長浜=そのながはま)である」という説話だ。
海の向こうにある新羅の土地を引っ張り寄せて出雲の一部にしたという話は、とりもなおさず、新羅が出雲国の一部になったという認識から生まれた話でなくて何だろうか?
しかもそのとき使った綱が「園長浜=そのながはま」だったというが、「スクナヒコ」が帰国したときの上陸地点である稲佐浜は、「園長浜=そのながはま」の一部なのだ。
|
| |
|
このように、日韓両サイドの文献を正しく読み、そしてそれを、すなおに理解することこそ、21世紀の皆さんにやって貰わなければならない、重要な課題だと、私は信じている。
そうすることによって、初めて、日本人の真のアイデンティティを解明することができるだろうし、そればかりか、日本人を、本当の「地球村人」に同化させる道だと思うのだが、はたして皆さんのお考えはいかがだろうか ?
|
| |
|
それはさておき、伽耶族(加羅族)は、「カラ=太陽の国」という国号が示しているように、太陽信仰族であったから、その属性である「白=バルク=明るいもの=朴」を姓氏としていた。
だが、能…信仰族は、それと反対の「黒=カマ=くま=金」をもって姓氏としたのである。
もちろん、伽耶族であった日本列島の「ウガヤ=上伽耶=ヤマト」や「アラカヤ=下伽耶=出雲」地方の人々も、「朴=バルク」をもって姓氏としていたことは言うまでもない。
「スサノオノミコト」によって、出雲の国名が「スガ=スク」にかわったので、「スタナヒコ」は「スクナ=昔国=須賀」を名乗るようになりはしたものの、出雲の人々は、やはり太陽信仰を捨てるようなことはしなかった。
驚くべきことに、古代出雲国の遺民は、能信仰族の第二期ヤマト政権に滅ぼされた「オホクニヌシノミコトの国譲り」神話の時から、21世紀を目前にした今日に至ってもなお、太陽信仰に生きぬいている。
能宿仰族の世になったあと、今なお、ありとあらゆる侮蔑と差別に耐えながら生活しなければならない、太陽信仰族の涙ぐましい話については、拙著『出雲族の声なき絶叫』(新泉社)に載せた、「サンカの素性」を読んで頂きたい。
ところで、記紀には、「朴」の名で呼ばれる物や人がいたるところに出てくる。
たとえば「朴=エの木」・「朴井=エのゐ」・「朴市=エのち」・「朴室=エむろ」などであるが、すべての場合「エ」と訓がふられている。
ところが、どの漢和辞典を見ても、「朴」には、「エ」の訓が見当らない。
にもかかわらず、記紀にはなぜ「エ」と訓まれているのだろうか?
結論から言うと、それは、記紀の「朴=え」が、韓国語の「イェ=昔」を意味するからである。
だからこそ、第二期ヤマト朝廷は、昔のヤマト王朝に従う者たちを、「エミシ」と呼び、朝廷にまつろわぬ者の呼称としたのである。
つまり、「エミシ」とは、「エ=昔の」+「ミ=天皇・貴人」+「シ=族」「エミシ=昔の天皇族」という意味なのである。
記紀の「え」が韓国語の「イェ=昔」を意味するものであることは、通常「はい」と同じ意味に用いられる現代日本語の「え」が、韓国語の肯定詞「イェ」と、同じ発音であることで裏付けられる。
ともかく、このような韓国側の史書の記録は、熊信仰族の「金氏」によって、新羅の王位から追放された「スタナヒコ」が出雲に帰ってきたのは、金奈勿(キムナムル)が即位した西暦356年より一、二年前、すなわち西暦355年前後であることを示唆してくれる。
さて、「オホノクニ」とよばれていた出雲国に戻ってきた「スクナヒコ」は、「オホクニヌシノミコト」、すなわち、「オホノクニ」の国王の国造りに協力したと記紀は記している。
それはともかく、ここで我々が見落としてはならないのは、『日本書紀』仲哀二年(西暦三五五年)三月条にあらわれる次のような記録である。
『三月に、天皇は、数百ばかりのお伴を率いた軽い出で立ちで、狩りをされながら、和歌山県の「ところつ宮」というところに到った。すると、そこへ、九州の熊襲が背いて貢を納めないという報告が届いた。天皇は、早速、そこから船に乗って、山口県の穴門に向かいながら、おりしも敦賀に留まっていた皇后に、ただちに穴門にくるよう連絡した』
新羅で、熊信仰族が王権を奪う革命が起こっていた丁度その年に、景行天皇の時代から度々反乱をおこしてきた九州南部の熊襲が、またもや朝廷に反旗をかかげたというこの記録を、ただの偶然の一致だと見過ごして良いのだろうか?
|
| |
| 元来、熊信仰は、新羅の長年の宿敵だった百済の宗旨である。
西暦355年頃、ついに、新羅の王室にまで能信仰を浸透させることに成功した百済は、その勢いにのって、大隅半島一帯を根拠に勢力を張っていた熊襲に働きかけて、景行天皇時代からの宿願になっていた、「日本政権の熊信仰化」を達成するための、共同作戦を展開させ始めた。
『日本書紀』仲哀二年(西暦三五五年)三月条に突如あらわれた熊襲の反乱は、その先触れであったのだ。
この地域の熊襲は、日本国民が、天孫降臨神話で教えられてきた「ニニギノミコト」の後裔であり、神武天皇の先祖なのだ。
その熊襲たちが、根拠地として住んでいたところは、今、「七隈(ななくま)の里」として知られている。
「七隈の里」とは、「七人の金が住んでいる里」という意味であるが、その「七人の金」こそ、金海地域にあった金官伽耶の始祖、金首露王の七人の息子たちだった。
金海金氏の系譜には、「首露王には十人の息子がいたが、そのうちの七人が、世の有様を悲観して、雲に乗って昇天した」と記されている。
つまり、韓から昇天した(?)七人の金(クマ)が、天孫として高千穂の峯に降臨し、定住したところを、「七人の金が住んでいる里」と名付けたわけである。
|
| |
|
「そんな大それた話をする根拠は何か?」と、びっくりする読者のために、一言付け加えておこう。
日本が朝鮮を併合してから五年目の1915年6月29日、日本政府は、朝鮮総督府の警務令と称する布告をもって、金海を本貫とする金氏の族譜発行を禁止させた。
そのとき、日本政府は、金海金氏の族譜発行禁止の理由を「治安に差し支えがあるからだ」と説明している。
韓国には、およそ274の姓氏がある。
その中の一つである金氏には、285の本貫があるのだから、金海金氏は、韓国姓氏のなかで、僅か七万八千九十分の一を占める氏族に過ぎない。
そのように微々たる存在である金海金氏の族譜が、なぜ大日本帝国の政治の妨げになると言うのだろうか?
|
| |
|
誰の目から見ても、「金海金氏の族譜発行禁止」に関する日本政府の本音は、別のところにあること、あまりにも明らかだった。
結局、その処置は、天皇の先祖をめぐる極秘が一般に知られるのを恐れての緊急手段であったことを、日本政府が公に認める逆効果を生んだのである。
今も、総務庁の官報書庫に秘蔵されているはずの、この布告は、裏を返すと、皇室は勿論のことだが、当時の日本政府の閣僚のなかにも、天皇家や、日本民族のルーツの真相を知っている人が、少なくなかったことを雄弁に証言しているのだ。
|
| |
|
ついでに、記紀に見える天孫降臨神話の書き方について、少し考えてみよう。
『古事記』
高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りしたニニギノミコトは「ここは韓国に向かい、笠沙の崎を通って、朝日のさす国、夕日の照る国だから、非常に良いところだ」と言って、そこに定住した…
『日本書紀』
ニニギノミコトが天から降ったのは、日向の高千穂の(添山峯=そほりやまたけ)と言う。吾田の笠狭の御崎に到って結婚した…
この二つの記事は、ニギノミコトが定住したところを「笠沙(笠狭)」とする点で一致する。
「韓国に向かい」という表現から、祖国を偲ぶニニギノミコトのようすを窺い知るが、その「笠沙(笠狭)」は、薩摩国阿多郡加世田港、今の鹿児島県川辺郡笠沙町だとされている(笠沙町教育委員会の郷土誌参照)。
その一方、『古事記』は「高千穂の久士布流多気に天降りした」とするに対し、『日本書紀』は「高千穂の(添山峯=そほりやまたけ)に天降りした」と言うが、どちらが正しいのだろうか?
岩波書店の『日本書紀』校注者(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋)は、「〈そほり〉は、新羅の王都(そぼる)を音訳したものであろうという」と説明しているが、ニニギノミコトが降りた場所を「新羅の王都にある山」だと考えるのは、論理の飛躍といわなければならない。
彼らが、このように、論理にあわない解釈をした背景は何だろうか?私が考えるに、おそらくそのように無理な発想をさせたのは、『古事記』の「ここは韓国に向かい」という表現の影響でなかっただろうか ?
つまり、校注者たちの脳裏には、「神武天皇の先祖であるニニギノミコトは、韓から渡来してきた人だ」という認識があったからこそ、このような、理屈にあわないミステークを犯したのだと、私は考えている。
|
| |
|
『日本書紀』の言う「高千穂の〈添山峯=そほりやまたけ〉」の「そほり」は、文面から見ても、新羅の都と関係があろうはずはない。
その場合の「そほり」は、「添ふ辺」を意味するもので、原形は「そはり=添ふ辺」だ。
同じような日本語に「まはり=物の辺・物の周囲」がある。
その場合「ハリ」は、「ホリ」の原形だ。
それをさらに裏付けているのが、『日本書紀』に使われた漢字表記〈添山峯=そほりやまたけ)だ。
高千穂に寄り添う山岳は、今も「韓国岳」の名で知られている山である。
|
| |
|
学校では、今まで、高千穂の峯をもって天孫降臨の場所と教えてきたが、それは、『古事記』の「高千穂の(くじふるたけ)に天降りした」という記録を根拠にしたもので、『日本書紀』は、明らかに「高千穂の(添山峯=そほりやまたけ)」、とりもなおさず「韓国岳」を天孫降臨の場所と伝えているのだ。
神話に無理はつきものというかも知れないが、「韓国岳」が、「高千穂の峯」より高いことは、それを物理的に裏付けると言えよう。
なお、「オロチ退治神話」も、記紀の言う天孫降臨の場所(?)が「韓国岳」であることの傍証である。
なぜなれば、『日本書紀』の一書(第四)によれば、スサノオノミコトが高天原を追われて、最初に降りたったのは、新羅の「ソシモリ」であった。
その「ソシモリ」は、今日「伽耶山=加羅山」といわれる「牛頭山=そしもり」である。
「くじふる=クシフル」とは、「奇しき峯=神聖な峯」と言う意味の韓国古語で、「ソシモリ」と同じ語源である。
話を本論にもどそう。
|
| |
|
記紀によれば、熊襲征伐のために九州へ向う途中の天皇は、仲哀二年六月には、今の下関市豊浦町に豊浦宮をたてて滞在していた。
そこで我々が見逃せないのは、天皇の一行が、下関から、わずか目と鼻の距離にある、対岸の博多に渡ったのが、何とそれから六年目の仲哀八年正月だったという記録だ。
熊襲反乱の報告を受けて、狩りの出先であった和歌山県を出発したのは仲哀二年の三月。
急速九州に赴いた天皇が、下関に到着したのは、三カ月あとの六月だ。
|
| |
|
その天皇が、博多へ渡るまで、六年もの長い間、豊浦の宮で待たなければならなかったからには、そこに、重大な理由がなければならない。
にもかかわらず、記紀は、六年もの長い間のできごとについて、何一つ語らず、固く沈黙を守っているばかりだ。
記紀の編纂者が敢えて書くことができなかった、豊浦宮滞在六年間のできごとは、言うまでもなく、天皇の前進を妨げる何事かでなければならない。
そしてそれは、天皇と皇后の身のまわりにおきたことに違いないが、それはいったいどんな事情だったのだろうか?
そのような我々の疑問に対する正解のヒントは、『日本書紀』にあらわれる、二つの、謎のような記事の行間から、見いだすことができる。
|
| |
|
まずその一つは、およそ次のような内容の、皇后に関する記事である。
『天皇からの連絡を受けて、敦賀から穴門へ向う途中の皇后は、「ヌナタノミナト」(今の福井県三方郡あたりの常神崎と立石崎近くの海岸か、と言う)まできた時、乗っている船の周囲に、多くの「たひ」が寄ってきた。皇后が杯で酒を「たひ」に注ぐと、酔った「たひ」が浮かんできた。たくさんの「たひ」を得た船員たちは、「皇后さまの賜わった魚だ」と大いに喜んだ』
このほかにも、記紀に描かれた神功皇后には、魚に関連づけられた説話が多い。
これが、その始まりである。
|
| |
|
それらの魚は、実際には魚そのものではなく、編纂者が、隠された目的のために利用した、あるもののシンボルであることは言うまでもない。
日本の学者のなかには、ここに見える「たひ」は、「黒鯛」のことだと、まことしやかに説明する方もおられるようだ(岩波書店の『日本書紀』参照)。
だが、このばあいの「たひ」は、「た=たっとい(尊い)」+「ひ=ひと(人)」で、「たひ=尊い人・貴人」を暗示するために使われた魚である。
|
| |
|
それを理解した上で、このところの記事をわかりやすく言い換えると次のようになる。
【皇后の船が、当時、「オホノクニ=須賀国」の領域だった三方郡あたりの海岸に泊まったとき、多くの貴人たちが、皇后を訪れた。皇后は、彼らに自ら酒を勧めたので、大勢が酔い潰れるほどの大酒宴となった。皇后を慕って集まった多くの貴人たちを目のあたりに見た乗組員たちは、皇后の慈しみの賜だと大いに喜んだ】
……となる。
|
| |
| 要するに、この記事は、「タケウチノスクネ=須賀国の貴人」が、天皇に合流する前の隙をねらって皇后に近付き、金銀宝物に満ちた新羅の話で、彼女を誘惑することに成功した場面を、ドキュメントで記録したものであることを、見抜かなければならない。 |
| |
|
豊浦宮での六年間の秘密を探るための二つ目のヒントは、仲哀が筑紫に渡ったときのできごとを記した、
およそ次のような記事である。
【八年正月、今の福岡県遠賀川河口まで到ると、にわかに船が進まなくなった。そこで天皇は、天皇に忠誠を誓った岡県主に尋ねた。「お前は、清い心をもって朕のために駆け付けてきてくれた者だ。だから、お前に尋ねるのだが、なぜ船が進まなくなったのか、ありのままの真実を言え!」。すると彼は、「船が進まないのは、私のせいではありません。実は、この浦のほとりに、男女二人の神がいます。その神たちのしわざなのです」と答えた。そこで天皇は、ヤマト人の国の「菟田(うだ)の人」を祝(はふり)として祭りをしたところ、船が進むようになった】
|
| |
|
この記事から、我々は、天皇の進軍を妨げているのが、男女二人のしわざであることと、その者どもを、なだめすかすためには、「菟田の人」の助力が必要だったこと……を知ることができる。
この場合の男女二人は、言うまでもなく、すでに共謀者となった「タケウチノスクネ」と皇后を指す。
その二人の妨害工作によって、船が進まなくなった天皇は、「菟田の人」の協力を得て、やっと前進することができたと言う。
その菟田は、今の奈良県宇陀郡である。
では、どうして、その地域出身の人が、天皇のために、妨害者である男女の説得に活躍することになったのだろうか?……が、さらなる疑問にならざるをえない。
|
| |
|
だが、その正解は、およそ次のような神武東征記録から、難なく見付けることができる。
『神武の軍勢は、浪速で遭遇した「ナガスネヒコ」との第一戦で、神武の兄、五瀬命が戦死するほど、散々な敗北を喫した。そこから一旦撤退した神武軍は、迂回して、紀伊国の熊野村に行き、そこで大熊、すなわち熊信仰族の村長に援助を乞うが断られたので大いに士気揃おちた。……中略「ヤタ烏」に導かれた神武軍は、ヤマトの宇陀郡に到着した。そこには「兄(え)うかし」と「弟(おと)うかし」が住んでいたが、「兄うかし」は、神武に従わなかった。だが、兄を裏切った「弟うかし」のおかげで、神武軍は、宇陀郡を手にいれることができた』
この記録からわかることは、神武東征のとき、熊野地方はすでに熊信仰がかなり浸透していたので、神武は彼らを頼りに、そちらへ軍を迂回させたこと、だが、熊信仰族ではあっても、神武に好意を寄せないものもいたこと、「ウガヤ」の最初の都であった「アスカ」近辺にある今の大菟田・菟田野地方にも、早くから熊信仰が浸透していたが、兄弟の間でさえ、意見の食違いがあったこと……である。
仲哀のために尽くした「宇陀の人」は、能信仰族とも、ある程度の関係をもっている者だったから、事を荒げることもなく、円満に解決することができたのだ。
つまり、新羅を討とうと企んでいる「タケウチノスクネ」と皇后にとっては、これから熊信仰族の協力が絶対に必要だった。
そのためには、「宇陀の人」に花を持たせて、彼らを抱き込んでおくことが上策だったわけである。
|
| |
|
このように、記紀のところどころに見え隠れする陰謀の裏話から、豊浦宮滞在の六年間は、熊襲を討とうとする天皇と、天皇に是が非でも新羅を攻撃させるよう説得したい皇后、そしてその皇后を陰であやつる「タケウチノスクネ」との間に、舞台裏での攻防が、果てしなく繰り返された歳月だったと推察できるではないか?
そして、ついに天皇を説得することを断念した二人が得た結論は、仲哀を暗殺することであった。
そのときのようすを記紀は次のように記録している。
|
| |
|
【仲哀八年(西暦361年)九月、天皇は、いよいよ熊襲討伐を開始するために、群臣と作戦会議をし始めた。すると皇后は、突然神がかりした。神は、皇后の口を借りて、「実のない熊襲を撃つことはやめて、黄金と珍しい宝で満ちあふれる新羅を征伐しなさい」と仲哀に告げた。ところが、仲哀はそれに応じょうとしないばかりか、でたらめなことを言う神だと罵った。すると神は、「債の言うことを聞き入れないお前には、死ぬよりほかに道は残されていない」と予言した。仲哀は、その予言どおり、まもなく急死した……】
これは、ちょっと見ただけでは、他愛もないお伽話のような話にすぎない。
|
| |
|
しかし、そのお伽話から、仲哀の后が、誰かにそそのかされて、「金銀珍宝に満ちあふれる新羅を征伐をするよう」しっこく天皇に嘆願したことと、それを聞き入れなかった仲哀は、欲に目が眩んだ后と、彼女に巧く取り入った陰の人物によって、あえなく殺された……事実を推察できるのだ。
そこで問題になるのは「后を唆して、新羅を討つよう、仲哀に迫ったのは誰か?」を突き止めることだ。
熊襲征伐を果たすために九州へやってきた仲哀に、「熊襲を討つことはやめて、新羅を討たないと命が危ないぞ」と脅しをかけた人物は、新羅に対して、よほどの恨みをもった人でなければならない。
とすると、新羅の王位から追われて出雲に帰ってきた「スクナヒコ」、彼以上に新羅に対する怨恨をもった人は他にない。
ところが、「スクナヒコ」の名は、后の周りに見当らない。
「天皇に新羅討伐を命じたり」、「さもなければ命があぶないぞ !」と、神がかりした后が口走ったとき、いつも彼女の側にいたのは「武内宿禰」である。
その「タケウチノスクネ」こそ、「スクナヒコ=須賀国(出雲国)の男」を代表する、「須賀国の尊氏」なのである。
須賀国の貴族であるタケウチノスクネは、金氏に奪われた新羅の王権を、いかなる手段をとってでも奪回しょうと決心したのである。
「スクナヒコ」が帰国して以来、機会のくるのをじっと待ち構えていたタケウチノスクネは、仲哀が、熊襲征伐のために九州へ向う絶好のチャンスをとらえて、后を物欲で垂恐したのである。
|
| |
|
『日本書紀』神功皇后九年二月条は、このところの経緯を「皇后は、天皇を死に到らしめた神を知ってから、財宝の国を求めることを望むようになった」と、
はっきり記している。そのような神功皇后の物欲願望は、ここでわざわざその詳細を言うことは避けるけれども、彼女が死ぬまで、毒して変わらなかったことを、神功紀のいたるところから窺い知ることができる。
|
| |
|
皇国史観に染まった人々が、「神功皇后の三韓征伐」と称している〈倭〉の半島出兵事件は、夫を殺した貪欲の皇后が、その直後、九州南部の熊襲の支援を受けておこしたものである。
日本の学者はそれを「三韓征伐」と名付けるとともに、その勝利によって、日本の植民地である「ミマナ=任那」が、韓半島南部に存在するようになったと主張している。
だが、その事件の実体は、九州南部の熊信仰族の支援を受けた「タケウチノスクネ」が、新羅の王権を取り戻すために、百済と協力しておこした「新羅討伐」戦争だったのだ。
|
| |
|
結局、新羅の救援に駆け付けた高句麗の好太王(広開土大王)の軍勢によって熊信仰族は撃退された。
中国の集安で発見された好太王碑文にもあるように、(倭)は、高句麗軍によって、西暦404年と407年には再起不能の惨敗を蒙ったために、日本列島へ引き上げたのである。
その(倭)が、敗退した地域に、その頃から、「任那」という名の植民地を、半島内のウガヤが新羅に降伏した西暦562年にいたるまでの、ほぼ二百年間、経営していたと主張するのは、どう考えても論理にあわない。
「それは確かにそうだ。だが、「任那」という名の地域は、記紀ばかりでなく、韓国の『三国史記』にもあらわれているではないか?」と反間する読者も居られるに違いない。
そのとおり、「任那」の名は、韓国の史書にもたびたび見受けられる。
その地域は、今の高霊であり、昔、「ウガヤ=上伽耶」の根拠地だったところである。
記紀の場合は、「ウガヤ=上伽耶」の根拠地ばかりでなく、今の金海地方を含む加羅の全域を「任那」といっている。
|
| |
|
だが、何よりも重要なことは、「任那」の名が韓国の史書に初めて登場する年代である。
「任那」は、何と紀元前157年、馬韓の恵王元年に朝貢しているのだ。
なお、韓国の文献によれば、「任那」はその後も、紀元前87年、馬韓の孝王二十七年に、「一本に十の枝が生えている珊瑚をもって朝貢したので、それを瑞宝として、祖廟に捧げた」と記されている。
このような事実から推して、紀元前157年にあらわれた「任那」の記事が誤記である可能性は、まったくない。
となると、「ウガヤ=上伽耶」の地域にあった「任那=ミマナ」の正体は何だろうか?
それを知るためには、まず「任那=ミマナ」の語源から調べなければならない。
|
| |
|
「ミマナ」とは、「ミ=天皇」+「マ=真」+「ナ=国・地」「ミマナ=天皇の真の国」、つまり、「天皇の本国」を「ミマナ」と言うのである。
それに使われた漢字も「任=君・天皇」+「那=国・地」で、「ミマナ」と同じ意味をあらわすために使われている。
|
| |
|
そこで、「なぜ『ウガヤ』の根拠地をもって『天皇の本国』と言ったのだろうか?」という疑問が浮かんでくる。
その正答は、もちろん、「日本列島内の『ウガヤ』、すなわち『ヤマト』の本国は、韓半島内の『ウガヤ=ミオヤマ』であったからだ」……である。
|
| |
|
いわゆる神功皇后の三韓征伐が行なわれたのは、仲哀が殺された西暦362年よりあとのことだ。
つまり、多くの日本の学者が主張する、「任那」という名の半島内の植民地は、四世紀後半から存在したことになるのだが、それよりも、ざっと五百年以前から「ウガヤ」の地域に存在した「任那」を、彼らは何と説明できるのだろうか?
|
| |
| 日本列島内の〈ウガヤ=ヤマト)は、紀元前157年より以前に建国されたもので、彼らの本国は、韓半島内の「ウガヤ=上伽耶」であったから、そこを『ミマナ=天皇の本国』の名をもって呼ぶようになった。
日本列島では、西暦362年におきた仲哀天皇の暗殺によって、「ウガヤ王朝」の歴史は、最後の幕がおりようとしていた。
朴 炳植著「ヤマト渡来王朝の秘密」より
|
| |
| 東日流(つがる)外三郡誌 |
| |
| 鳥越氏は、初代から第九代開化に至る天皇の宮と御陵が、葛城山から畝傍(うねび)山にかけて集中的に見られることから、神武系の実在を論じ『葛城王朝』の名を付した。
その治世期間も、弥生後期から前期古墳にわたるとみる。
|
| |
|
これとても、古墳に振り回された説でしかない。
同時に、大きな誤りもおかしている。
トミノナガスネ彦を物部氏の祖と解したのだ。
|
| |
| 天孫族(神武)対出雲神族(トミノナガスネ彦)の戦いは、天孫族対物部氏の戦いだ、というわけである。
甲南大学教授の畑井弘氏もほぼ同意見で、ナガスネ彦を物部氏の祖におき、物部氏蛇族を打ち出した。
|
| |
| しかし、石上神官をはじめとする物部氏系の神社で、竜蛇にまつわる祭祀を見聞したことがない。
物部氏の系図は、次の通りである。
|
| |
 |
| |
|
出雲神族の伝承では、「トミノナガスネ彦は神武に反撃を試みたが抗しきれず、大和をゆずって出雲にしりぞき、そこで他界した」ことになっている。
この時、天孫族は和平の条件を持ち出した。
出雲神族の分散である。
彼等は、遠く関東から東北にまで追われた。
東国に出雲系の国造や神社が多いのは、こうしたことによる。
国造は24人中11名、神社は全体で約34パーセントにものぼる。
特に下野国(栃木県)の約64パーセント、武蔵国の約45パーセントが群を抜いている。
ナガスネ彦と兄のヤスビ彦を津軽の王とする奇書『東日流(つがる)外三郡誌』は、こうした背景のもとに書かれたものだ。
その中から「古代東日流外三郡暦」の一節を紹介しよう。
|
| |
| 東周平王帝の頃(紀元前770年に遷都)日本国に於ては日向族にわかに勢を起し、猿田一族を亡(ほろ)ぼして、筑紫の平野に日向一族は起きる。
この一族を統率せるは、一族の予言者に、「比味子」と称す女にて一族はこれを天より降りし神と崇め、その親族を皆神とし、高千穂の峰に降臨したる天国(高天原)より来る神と信じ、諸族は先を争って日向一族に味方し、忠誓を以て死をも怖れぬ諸国侵征の基をなせり。
時に支那国に桓王帝の世代(紀元前651年に覇者となる)にて、庚午年、日本にては日向族に神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)誕生し、日本君主のうぶ声ありける。
(中略)
十五歳にして神日本磐余彦皇太子と相成り、支那にては釐王帝の世となり、
日本にては倭の国に邪馬台(やまと)五畿七道に安日(やすび)彦長髄(ながすね)彦の兄弟君臨、筑紫の日向一族の挙動に備えて、兵を諸国に巡らしめたり。
(中略)
神武帝は長髄彦、安日彦の君臨せる耶馬台国に日月を惜(おし)まず攻めて侵領せり。
長髄彦の軍は吉備にて八年の歳月を費(ついや)して戦い、高島に三年の苦戦をせり。
苦闘に苦闘をなして東に向う日向軍は難波の浪速に至り、舟にて淀川をのぼり、河内国草香むらの白肩の津に至り、
夏四月九日に、武具をととのえて龍田へ進軍せしも、路険阻にて変じ、生駒山を越え大和に入らんとせるに、大挙せる長髄彦の軍にさんざん敗僕し、五瀬命は討死せり。
大敗せる日向一族の軍は迂回(うかい)し、南の和泉に至り、
その海辺に軍を休むる時、亦(また)も長髄彦一族の軍に襲われて稲飯(いない)命は滄海に討死、渟麻(ぬま)命(ミケヌノ命のことらしい)は捕われ何処(いずこ)かに流刑されにしも、神武帝の率いる日向軍は草香の津にて軍に新手を加え、五月五日茅渟(ちぬ)の山城水門にて髄彦の軍を敗りたり。
六月二十三日、日向軍は名草のむらに攻め、邪馬台族の長たる名草戸畔(とべ)を誅し、遂に狭野(さぬ)を越え、熊野のむらに至り、
吉野川下流に越え、大和の宇陀に至り、畝火(うねび)山に赴(おもむ)き、安日彦、長髄彦の耶馬台国の両君は遂に故地を失いて、安日彦は越に、長髄彦も重き傷を病み乍(なが)ら東北に落たり。
そして、会津にて安日彦と合軍し、更に東北の津軽に安住を求めて落忍(おちの)び、荒吐(あらびき)一族に迎えられて、茲(ここ)に荒吐族五王に君臨し、日向二族必滅の一念に忍世せり。
神武帝は耶馬台一族より戦利せる宝物を神器として、大和橿原に日本国の君主として即位せり。
然(しか)る殺伐は、日向一族の身に絶えず襲いて、神武帝の入滅後、天皇の空位、年を徒(いたず)ら延ばししめたり。
|
| |
|
寛政庚申年
秋田孝季・和田長三郎共著の『東日流外三郡誌』は丈夫な箱に収められ、五所川原市に住む和田喜八郎氏の天井裏に永いあいだ眠っていた。
この箱を開いたのが、昭和32年の春。
全360巻で、いずれの巻頭にも「此の書巻は藩許得難く、他見に及しては死罪を招く事あり、依(よっ)て他見に及すべからず。門外不出を旨とせよ。秋田孝季」と記されていた。
|
| |
| 和田氏は一時、鎌倉幕府の重臣だった桓武平氏和田義盛の一族。
寛政二年(1790)長三郎が孝季の妹・りく姫を娶り、両家は親族関係を結んだ。
そうした縁で、二人は『東日流外三郡誌』の編纂に着手、一族の歴証を永代に残した、と伝える。
秋田氏は、一般に孝元天皇─大彦命……安倍比羅夫……安東氏……秋宙氏、とされるが、実はヤスビ彦、ナガスネ彦の末裔だという。
『会津旧事雑考』にも「崇神帝の朝、蝦夷(えぞ)強大にして乱をなす。帝、オオヒコ命の子安倍河別命を将軍となして征せしむ。毎戦利なし。安東なる者請(こ)うて曰く、我れ是れ宇摩志麻治(うましまじ)命の臣・安日の裔なり。遠祖罪を先帝に得、東辺に蟄し、竟に赦免なし。願わくは今赦しを得、命を委(ゆだ)ねられて先鋒たらんと。河別奏請、安東を以って先鋒となし、大いに功績あり。故に安倍姓を授け、且つ将軍の号を賜ひ、東北の夷狄(いてき)を守防せしむ。是(これ)奥州安倍氏の祖なり。後安東氏と称するは、始祖の名に因る也」とある。
系図は、次のようになる。
|
| |
 |
| |
|
『東日流外三郡誌』は、孝季、長三郎の二人が、寛政元年(1789)から文政五年まで33年にわたって調べた資料をもとに書いたものである。
史実に反する記述があるのも、いたしかたのないことかもしれない。
第一に、ヤスビ彦、ナガスネ彦を安倍氏→安東氏→秋田氏の祖としたところに無理がある。
出雲で死んだ者が、津軽に行けるはずがない。
|
| |
| だが、『東日流外三郡誌』に書かれている祭祀、祭神などは、完全に出雲系である。 |
| |
|
(1)主祭神は大国主命である。
(2)熊野神社、宗像神社、鴨神社など、出雲系の神を祀る。
(3)厳鬼(いわき)山(岩木山)を父とし、石神を信仰する。
(4)拝火教を思わせる「神招火炉」を祭壇にすえる。
(5)人間は海藻から生まれ、海藻にかえるとし、祭祀にも海藻を用いた。
(6)竜蛇神の崇拝(熊野神社、荒磯神社、浜明神など)が多い。
(7)語部がおり、その末裔がイタコになった。
(8)勾玉を王のしるしとした。
(9)津軽の夕タラ師は、出雲で修練した。
(10)ナガスネ族にも、出雲の諜報機関であったサンカ的な風魔族がいた。
|
| |
|
などである。
津軽のタタラ師は歌う。
ただらァー 三年(みとせ)出雲にならい 宇蘇利(うそり)みやまに 黒鉄づくりー
泣けて別れた 東日流の里を 今はわすれて ただらやれ
ただら なんでやめぞよ このただら
また、ナガスネ彦とヤスビ彦を型どったというアラバキノ神(遮光器土偶)は、川崎真治氏が指摘するように、蛇神である。
安倍氏には、タテミナカタの後商・諏訪神家一族があり、宗任の暮は宗像三女神の一人イチキシマ姫を祀る中津宮にある。
|
| |
|
出雲神族伝承は『東日流外三郡誌』についてこう語る。
出雲神族は、東北から出雲の地へ西下してきた。そのとき津軽に残った人々や、神武東征時に追放された人々が、ナガスネ彦の話や出雲系の祭祀を伝えたのだろう。
さて、神武天皇は大和を征服すると、橿原で即位した。
「即位」は、出雲系の言葉である。
諏訪神社で行なわれる神主の世嗣(よつ)ぎ式は、即位式と呼ばれる。
つまり、神武の即位は、ナガスネ彦の服属を表わしているのである。
|
| |
|
ナガスネ彦を出雲系とみた人は、私の知っている限りでは、司馬遼太郎氏ただ一人だ。
大和人であり、肌でそれを感じたのかもしれない。
|
| |
| 司馬氏は『歴史の中の日本』に「生きている出雲王朝」と題し、富氏、秋上氏(神魂神社)、大社社家などの伝承をとりあげながら、次のように書いている。 |
| |
| 国譲りののち、天孫族と出雲王朝との協定は、出雲王は永久に天孫族の政治にタッチしないということであった。
哀れにも出雲の王族は身柄を大和に移され、三輪山のそばに住んだ。
三輪氏の祖がそれである。
この奈良県という土地は、もともと、出雲王朝の植民地のようなものであったのだろう。
神武天皇が侵入するまでは、出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ない。
滝川政次郎博士によれば、この三輪山を中心に出雲の政庁があったという。
神武天皇の好敵手であった長髄彦も、出雲民族の土酋の一人であった。
|
| |
|
私は少年時代、母親の実家である奈良県北葛城郡磐城(いわき)村竹内(たけのうち)という山麓の在所ですごした。
この村には、長髄彦の暮と言い伝えられる古墳がある。
むろん、長髄彦の年代(?)は、古墳時代以前のものであるから妄説にすぎまいが、大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい。
|
| |
|
現に、わが奈良県人は、同じ県内にある神武天皇の橿原神宮よりも、三輪山の大神神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先や」という。
かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか。
|
| |
|
ついでながら、三輪山は、山全体を神体とする神社神道における最古の形式を遺している。
こういうものを甘南備山(かんなびやま)という。
出雲にも甘南備山が多い。『出雪国造神賀詞』にはカンナビの語がやたらと出る。ツングースも蒙古人も山を尊ぶが、そこまで飛躍せずとも、出雲民族の信仰の特徴であるといえるだろう。
|
| |
| …吉田大洋著「謎の出雲帝国」より |