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出雲の国の心象
 
何が出雲の国なのかを明確にすることは難しい。

弥生時代、古墳時代を通じ、出雲地域が交易性をもって、ひろく各地と交流する地域であったこと、しかもその主要な範囲は、日本海側から九州だったことがうかがえる。

しかし、ほかの地域に出向いてとくに強力な植民地的地域を作ったようでもない。

しかも、交易の結果もたらされる文物、すなわち富とか新技術・思想は、拒まず受け入れるという性格の地でもあったといえる。

こうした点だけみると、きわめて進取的な風土の地と考えられるが、実はこうして導入されるものは、伝統のなかにすべて同化し吸収してしまい、独自の文化の糧とする。

しかも外に対しては、とくに古墳時代以降は、武力的にも文化的にも侵略的傾向をみせない。

しかし一たび出雲の地にはいれば、ゆたかで外来的な要素を多分にもちながら、一方他地域ではすでに失われた伝統や伝承が人びとの生活のなかに伝えられ、独自な文化をもつ次元のちがった世界、という印象を、近畿や近隣の国ぐにに与えていたのかも知れない。

祭りの世界では、遠い祖先の英雄たちや宝器などの伝承が生きていたり、方型の示す世界観が伝えられていたかもしれない。

また数多い横口の棺は、横穴石室の構造だけでなく、それに加えて、なお死者の国への道を外部の者に印象づけたかも知れない。

武力的ではないが、別次元までも包括したような重層した世界、こうした出雲の文化に接したほかの国ぐにの人間には、それは理由のわからない畏怖感となっていたかも知れない。

そのため出雲が別次元の国である黄泉国と結ばれたり、それを祭る葬祭にかかわる集団の出身地と考えられ、また、過去の神がみが生きつづける世界と考えられたのかもしれない。

しかも、きわめて新しい文物も受け入れており、その財力や海上・陸上を問わない遠隔地への行動力への畏れも加わって、すべての神がみの国という評価も生まれたのかもしれない。

出雲のこうした目にはみえないが、近隣への無言の圧力を加えうる力は、宇宙のなかにおける、ブラックホールのようにも思われる。

わが国の古墳時代、大和を中心に新しい社会秩序が形成される動向のなかで、大和・九州・吉備などの勢力がなお生臭く攻めぎあう世界にあって、出雲は各地の情報に通じながら武力的でない、

しかも次元の異なる伝統を隠然と伝え、何もかも吸収して行く力、それは近づくものにとっては直接的な攻撃や反撃としてあらわれないだけに、目にみえない畏れを感じさせる世界だったように思われるのである。

まさに古代の国が成立するとき、ほかに先んじた国だったことが、ブラックホール的世界を形成したのだとも思われるのである。

 
…上田正昭著「古代を考える 出雲」より
出雲の国の風土と神
 

日本列島の中で、風土がもっともみごとにデザインされているところを探すとすれば、それはほかならぬ出雲だ。

空と陸と水とが互いに映えあうこの風土を背景に、出雲の神々は誕生し、活動した。

出雲の特色はまず自然の配置にある。

地図を展げて北から見てみよう。

出雲の国の日本海に面する部分、そこは『日本書紀』や『出雲国風土記』に「北の海」と呼ばれたところだ。そのむこうに隠岐島がある。

隠岐島と出雲の国との間を黒潮が西から東へと流れている。

冬期には朝鮮半島からの西北の季節風をまともに受けるきびしい国柄でありながら、出雲の風土にやさしさが宿っているのは、黒潮がもたらす南からの文化のせいだ。

古代の出雲びとの意識の奥には、隠岐島の存在がかくされている。

島根半島の千酌から隠岐への渡航船が通っていたことは出雲国風土記にも見えているが、隠岐は沖であり、奥であり、また身を隠すところでもある。

だから、出雲の国の北の果は、ただの荒涼とした海原ではない。

出雲の国でもっとも北にあるのは、いうまでもなく島根半島だ。

この半島は東西に長く伸びている。

半島の西の端に日御碕があり、そこに日御碕神社がまつられている。

石見の波子(はし)で聞いた話だが、そこの津門神社は日御碕神社を遥拝する場所であるという。

60kmの海上をへだててなお、日御碕は航行する船の目印となるとなるところだった。

日御崎神社が一名日沈宮(ひしずみのみや)とも呼ばれて古来夕陽をはなむけするところだったのに対して、島根半島の東の端の美保関は、朝日をむかえるのにふさわしい場所である。

しかも日御碕はその近くに、中世に海外との交易もおこなった宇龍港をひかえ、美保関もまた漁師に縁由のふかい美保関港をもつ。

このように島根半島の東西の端に二つの港と二つの神社のあることは、出雲の国柄の特徴をよく示している。

出雲の風光を賞でる者は、島根半島や湖沼や平野の神々だけを相手とすることが多いが、その背後によこたわる深い山地を忘れることはできない。

この山地は産物にとぼしい。しかし良質の砂鉄を産する。

八岐大蛇退治(やまたのおろちたいじ)の伝承は、鉄穴流(かんなながし)と呼ばれる砂鉄採集と関係がある。

スサノオやその末裔アジスキタカヒコの故事はそうした視点から見ていく必要がある。

これまで述べてきたように、出雲の国の自然は、北の方から半島・湖沼・平野・山地といった具合に順よく配置されていて、それらが互いに照応しあいながらふくざつな味をかもし出している。

出雲びとがその風土をデザインするのにたくみであったということは、国引きの伝承の中の次のすぐれた比喩によっていっそうたしかめられる。

すなわち、国引きのための綱は、神門水海の西がわの薗の長浜であるとされる。

そうして引いてきた国を動かないようにつなぎとめた杭は、三瓶山(佐比売山)であるという。

これは西側のばあいだが、東側では、引綱にたとえられたのは夜見島(弓ケ浜)であり、その引いてきた国をつなぎとめるのは大山(火神岳)である。

東西相称となるように、薗の長浜夜見島三瓶山大山とが対照的にとりあつかわれている。

それは文章の技法としてもみごとであるが、しかしそれだけに終るものではない。

これまでみたように、薗の長浜も夜見島も、外側の海に開いた出雲の人たちの意識を、内面化するのに重要な役割を果たしている。

外側の海の彼方には西には新羅があり、東には越の国があった。

出雲びとはそれらの文化をとり入れながらも、自分たちの独自の文化をそだてることを知っていた。

彼らは海彼の文化をひきよせて、それをにがさないようにつなぎとめた。

こうして古代の出雲びとの意識は風土の枠組を土台にして形成された。

出雲の風土の枠組は東西の線を基調として、半島、湖沼、平野、山地と重層化していた。

それに加えて南北の線がいくすじも走っている。

これらに着目したときに、出雲びとの想像力はそれに応じて大きく飛躍した。

出雲の神々も例外ではなかった。

なぜなら、造化の妙ともいうべき出雲の風土のデザインはまた神々のデザインでもあったからである。

 
…谷川健一著「出雲の神々」より
  
 
出雲神族の系譜
 
出雲は和名抄以豆毛と註し、国内に出雲郡出雲郷あり、蓋し国名の起原地ならむ。

出雲国には太古出雲神族あり、次いで一方に出雲臣ありて雄視す、

出雲神族は出雲を中心として、本州の西部、四国九州の北部にわたり、勢力を奮ひたる強族にして、記紀の神話の伝ふる処によれば、伊弉册尊、素戔嗚尊より大国主命に至り、全盛を極めしが、天孫降臨するに及び、所謂譲国して大和に移り、三輪山を中心とする三輪氏族となれりと。

日本書紀、古事紀、姓氏録、並に、風土記の類により、その神系図を作れば次の如し。

 
 
…太田亮著「姓氏家系大辞典」より
 
大蛇退治 →ハイビジョン撮影映像 雲南市 →奥出雲町
 
スサノオという神は、高天の原神話では暴れん坊の破壊者として、手に負えない存在であった。

それが出雲の神話では、立役者として登場して、まず有名な「八俣の大蛇」退治という、勇ましくも華やかな活躍舞台を、繰りひろげていく。

そして、人びとに大きな危害を加えていたこの大蛇を退治して、苦難の底から救い出し、力と知と愛とを兼ね備えた英雄として、また出雲族の始祖として、その男性像をガラリと変える。

まことに、出雲神話の中では、スサノオは新しい文化の建設に邁進した、革新的な英雄として、尊愛の念をもって、大きくクローズ・アップされていくのである。

 

高天の原を追われたスサノオは、出雲の国の肥の河上にある鳥髪(鳥上)奥出雲町の地に、天降りしたのであった。

そして、肥の河(斐伊川)に沿って歩いていくと、折しも上流から箸が流れてくるのが、眼にとまった。

そこでスサノオは、「おお、この河の上流には、誰か人が住んでいるのに違いない。」と思って、河をさかのぼっていった。

すると、老夫と老女の二人が、乙女を中にしてサメザメと泣いているのを見かけた。

スサノオはやさしく、そのわけをたずねると、老夫はこういって答えた。

「はい、わたしは国つ神(高天の原系の神を天つ神といったのに対して、国土に先住する神。)の、オオヤマツミノ神の子です。わたしの名はアシナヅチ、妻はテナヅチ、娘はクシナダヒメと申します。わしにはもと八人の娘がありましたが、越(古志)の国の八俣の大蛇が毎年やって来て、食べてしまいました。今またちょうど、それがやってくる時期なので、こうして泣いているのです。」

そこでスサノオは、「その八俣の大蛇というのは、どんな形をしているのか。」とたずねると、

老夫は、「目はまるで赤いホオズキのようで、からだ一つに八頭と八尾があります。また、そのからだには、苔や桧・杉が生い、長は谷を八谷、峡は八尾にわたっていて、腹を見ればことごとくに常に血が爛れております。」

これを聞くと、スサノオはいった。

「よし、その八俣の大蛇は、わたしが退治してやろう。この娘さんは、わたしにくれませんか。」

「はい、恐れ多いことですが、あなたのお名前は…。」「わたしはアマテラス大神の弟です。たった今、高天の原から降って来たばかりです。」 

すると、老夫はいずまいを正して、「そうでしたか。それは恐れ多いことです。娘をさしあげましょう。」といって答えた。

スサノオはその娘を櫛の形に変えて、自分の髪に挿し、こういって指図をした。

「あなた方は、強い洒(八塩折の酒)を醸し、また垣を作りめぐらして、八つの入口を作り、その入口ごとに八つの台を作って、その台ごとに酒樽をおき、それにその強い酒を盛って待ちなさい。」

こうして、準備をととのえて待っていると、その夜半に果して八俣の大蛇が、すさまじい風雨を呼んであらわれた。

そして、はげしい雷鳴のとどろく中を、大蛇は八つの谷・八つの峡を越えてやって来たが、やがて樽に盛られた強い酒の香りを嗅ぎつけると、たちまち八つの頭を八つの酒樽につっこんで、一気に飲みはした。が、飲み終ると、一ペんに酔いがまわって、ぐったりと酔いつぶれてしまった。

スサノオはこの時とばかりに、腰の長剣を抜くと、大蛇をズタズタに切り散らした。

たちまちその血潮は、肥の河に流れ注いで、河は真っ赤に染まって流れたのである。

最後に大蛇の中の尾を割いた時に、剣の刃が少しこぼれた。

これはおかしいと思って、剣の先で割いてみると、その体内から一振りの大刀があらわれた。スサノオはこの大刀を取り出して、ふしぎなものだと思って、アマテラス大神にその事を物語って献上した。

これが三種の神器の一つの、「天の叢雲の剣」後の「草薙剣」である。

この剣は後に、熱田神宮に祭られたのであった。

…古事記より

 

【八俣(やまた)の大蛇(おろち)】

『日本書紀』には、「八岐の大蛇」とある。

これは頭も尾も八つある大蛇という意であり、「オロチ」の「オロ」は、恐るべき意で、「チ」は神威などの発現の義である。

この物語には、さまざまな信仰や、習俗の要素がふくまれている。

つまり、クシナダヒメという名には、農耕祭儀による儀礼の反映が見られ、八俣の大蛇はもともと祭に臨む豊饒神の姿であって、クシナダヒメはこれに奉仕する巫女の姿であったろう。

したがって、大蛇とスサノオとは、元来が同一の存在に過ぎないともいわれる。

この伝説は、いわゆる怪物退治の物語として、古いものであって、大蛇が犠牲を求めていること、その犠牲となる乙女を救って妻とすること、英雄が霊剣を獲ることの、三つの要素が含まれている。

こういった武力や霊剣の威力で、悪神を征服する伝説には戸隠伝説羅生門大江山の鬼退治物語など、いろいろとあるが、このスサノオの物語の中で、注意すべきことの一つは、神剣の出現由来を物語っていることであろう。

【八塩折の酒】日本の酒造り発祥の地 山陰の酒

出雲地方は、山陰の中央部にあり、日本海を挟んで中国大陸に面して、古代から黒潮に乗って大陸から様々な文化、技術が伝えられてきた。

稲作文化も大陸から伝わり、日本酒造りの源流もともに渡来し、日本で黄麹菌を使用した独特の日本酒に変化したものと推定される。

古事記や日本書紀の出雲神話の中にやまたのおろちという大蛇退治の話が出てくる。

須佐之男命が出雲国で八塩折の酒を造り、大蛇を酔わせて退治した。

この大蛇を酔わせた八塩折の酒とは、いったん熟成したもろみを絞って濾別した酒でさらに仕込むいう作業を繰り返した酒で非常に高度な技術を要す。

当時の人たちはこうすることで、濃醇な酒ができることを知っていたことになる。

今日の出雲地方の酒も比較的濃醇であるという共通性に数千年の時代を超えた文化を感じさせるものがある。

出雲地方で酒神の祖として祭られているのが出雲国風土記に登場する佐香神社(松尾神社)である。

「出雲国風土記」には佐香に神々が集まり、飲食物を煮炊きする調理場を建て、酒を造り、半年にわたり酒宴をしたという記述がある。

この佐香神社は今日でも酒造りが行われており、毎年10月13日には10時から本殿横に設けられた祭壇で「湯立て神事」を行った後、出雲杜氏などから出陣式の祭典を受け、濁酒をいただき、その年の酒造りの安全と成功を祈願している。出雲市

【櫛】

これは髪に挿して飾りにしたり、髪をくしけずるための道具であるが、本来は神霊の占めたものを、他のものと区別したしるしであった。

したがって、櫛は神聖なものの標示とされて、邪霊をよける呪物とされた。神事に参与する者が、櫛を挿したのもこのためであった。

また、櫛を投げて、夫婦の縁切りの呪としたり、櫛をもらったり拾ったりすることを嫌ったのは、決してさし別れとか、九四(苦死)といった語呂からの、こじつけではない。

これは占有を放棄したり、みだりに占有されることを忌んだ一つの呪であった。

クシナダヒメの「クシ」も、単なる美称ではなく、ニニギノミコトの降臨した高千穂の「クシフルノ峯」の、「クシ」と同じように、神霊の占有を意味したもので、神に仕える女性であった。

平安時代に伊勢の斎宮になる皇女に対して、櫛を与えてこれを「別れの櫛」といっているが、これは俗縁を離れて神に仕える者となる女性としての、しるしであったわけである。

【草薙劔(くさなぎのつるぎ)】

「草薙の劔」というのは、後の章に掲げたように、ヤマトタケルの故事に基いた劔の名である。

ヤマトタケルが東征の折に、伊勢の斎宮であった叔母のヤマトヒメから、この劔を授かって、駿河の国で野の草を薙ぎ払って、賊の難を免れたので、この名があるという。

そして、東征の帰途に、ヤマトタケルは尾張の豪族の女のミヤスヒメのもとに、この劔を置いてきたので、これが縁となって劔は熱田神宮に祭られた。

この劔のことを、『古事記』には「草那芸の大刀」とあるが、『日本書紀』には『本の名は天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)』となっている。

これは『古語拾遺』に、「大蛇の上に常に雲気あり。故れ以て名と為す』と見えており、鳥上山の嶺(奥出雲町)が常に雲霧におおわれていることを、意味したものであろう。

【三種の神器(じんぎ)】

三種の宝物の意で、皇位のしるしとした「八咫鏡(やたのかがみ)」、「草薙劔(くさなぎのつるぎ)」、「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」の三種を指した。

これについては『古事記』によると、「鏡」はイシコリドメノ命の製作で、アマテラス大神天の岩戸から、誘い出した時に用いたもの。「劔」は八岐大蛇の尾から出た劔を、スサノオが献上したもの。

「玉」はタマノオノ命が作って、これも天の岩戸の行事に、八咫鏡と一緒に榊にかけたものとされる。

そして、この「三種の神器」を、天孫降臨の条では、アマテラス大神がニニギの命に賜わって、鏡については『専ら我が和魂として、吾が前を拝くが如、いつき奉れ』と、仰せられたとなっている。

こうした伝えによると、崇神天皇以降は、天皇と同殿に祀られたのは、曲玉のみであったが、天皇の御しるしとしては、別に鏡と劔とは模造されて奉祀された。

また、宝劔は安徳天皇が入水の折に、海底に沈んだので、清涼殿の御劔をもって当てたと、『禁秘抄』には見えている。

「三種の神器」の順位については、時代によって異なっており、後世になるはど鏡が重視されて、劔がこれに次いでいる。

しかし、三種はもともと、古代の祭司王の用いた一種の祭器で、神霊の「ヨリマシ」とされたものであったろう。

『日本書紀』の景行紀などによると、周芳の女豪カムナツシヒメなどが、榊にこの三種のものをつけて、天皇を迎えたこ、となどを見ると、これらは豪族の祭器であったことが察せられるのである。

…永田義直編著「日本の神話」より

 
スサノオ
 

日本神話に登場する神々の中で、スサノオほど数多くの議論の中心になった存在はない。

明治以来、日本神話を論じる者で、この神を研究しないものはないと言っていいくらい学界の関心は大きかった。

極論すれば、これが日本神話研究の出発点でもあると同時に、その解明が日本神話の謎を解きほぐすための重要な鍵であるかもしれないのである。

 
古代出雲王朝はないとする人でも、スサノオノ命の存在は認める。

延喜神名式に、備後国深津郡須佐能表(すさのお)神社、紀伊国在田郡須佐神社とあるように、この神の崇拝は古くから行なわれ、また八坂神社氷川神社(主祭神)等々、全国的に広がっているため「否定したくても否定できない」というのが本当のところかもしれない。

 
スサ族はメソポタミアから朝鮮経由で渡来した。

スサノオの名が生まれたとする「スサ」の地名は、鹿児島、福岡、山口、兵庫、高知、和歌山、静岡、千葉、島根の各県に見出される。いわゆる黒潮ルートである。

そして、さらに黒潮を遡るとメソポタミアの「スサ」に突き当る。

 

スサノオの別名は牛頭(ごず)天皇(インド祇園精舎の守護神で除疫の神)という。

「牛冠をかぶった黄人」の意味である。

 
また、『日本書紀』崇神天皇の条に「任那(みまな)国がソナカシチを(わが国に)遣わして、朝貢した」と、垂仁天皇の条には、「御間城(みまき)(垂仁)天皇の世に額に角のある人が船に乗って、越国(福井県)の笥飯(けひ)(気比)浦にやってきた。そこでこの地を名づけて角館(つぬが)(敦賀)という。

その人にどこの国の者かと尋ねたら、こう答えた。

オオカラ国任那加羅の王子で、名をツヌガアラシト、別名をウシキアリシチカンキという」とある。

ソナカシチは朝鮮語。ソは牛、ナカは出てくる、シチは尊称で、「牛のように角の出ている貴人」を意味する。

ツヌガアラシトは「角がある人」、ウシキアリは「額に角があること」を表わす。

これについて韓国の学者・リヘイトウ氏は韓国史の中で、「角がある人というのは、弁韓および辰韓の人たちがかぶった冠の前面に、角状のものがついているのを見て、こう呼んだのである」と、述べている。

 
スサノオは、朝鮮とも関係が深い。
 
牛頭は朝鮮の地名で、向うではソシモリ(江原道春川府の牛頭州)という。

『日本書紀』にも、スサノオがソシモリへ行ったことが記されており、朝鮮の牛頭山には天主堂があった。

この神を祭神とする京都の八坂神社の社伝には「斎明天皇の二年(656)新羅の牛頭山におけるスサノオノ命の神霊を迎え祀る」と見える。

そして、勧請(かんじょう)したのは遣唐使吉備真備だとも、朝鮮人だとも伝えている。

石見(いわみ)で「韓」または「辛」と名のつく地名のところかならずスサノオ神話が伝承されているし、その子イソタケルを祀る神社にも「韓」の字が冠せられている。

島根県大田市物部神社境外摂社の漢女(唐女)神社の祭神は、娘のツマヅ姫だ。

 

さて、ツヌガアラシトたちの牛冠だが、それをかぶる習俗は古代オリエントに発祥している。

ナラム・シン王(アッカド王朝)の戦勝記念碑は、牛冠をかぶった王が太陽神に勝利をつげる姿を浮き彫りしている。

牛をトーテムとし、神=牛=王と考えたからである。

 
インドでもハラッパーの遺跡から角をはやした神像が発掘されており、インドラ(牛の主の意)やシヴァ、釈迦は、牛を神使としている。

仏足石には、牛を表わす絵文字が刻まれている。

そしてこの牛のマークは、熊本県の釜尾古墳の壁画などにも見られる。

ついでだが、兜の鍬型は牛冠が起源である。

 

これらの牛族は太陽神を奉じ、その象徴である「菊花紋」「木瓜紋」「十字紋」などを用いた。

スサノオの神紋も十字紋の変型である「祇園(ぎおん)守」と「木瓜」である。

スサノオは牛族であった、としてよいだろう。

 
スサノオはまた蘇民将来(出雲神楽)として信仰されているが、神代文字の研究家・吾郷清彦氏はこれに関して、次のように述べている。

巨旦(こたん)将来、蘇民(そみん)将来の将来は、アッシリア語の「王」で、サアルーがなまって将来になった。

コタンシュメール族の発生地である崖崙(こんろん)山の南ろくのコタンのこと。

ここがコタンの本拠地で、ソミンは朝鮮から満州、蒙古、新疆にまたがる地域に住んでいた、コタン族と同じ系統の民族だろう。

 
スサノオを奉じるスサ族は、はるかメソポタミアのスサに興り、朝鮮を経てわが国へ入ってきた。
 
記紀によるスサノオの神系は次のとおりである。

 

 
オオトシノ神の子、カラ神、ソフル神、シラヒ神の名からも、スサ族が朝鮮より渡来したことがわかる。
 
『播磨国風土記』餝磨(しかま)の郡の条にも「新艮訓(しらくに)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、昔、新羅の国の人、来朝(まいけ)る時、此の村に宿りき。故(かれ)、新羅訓(しらくに)と号く。山の名も同じ」とあり、ここの白国神社でも牛頭天皇(スサノオ)を祀っている。

スサ族を新羅系とする根拠は多いのである。

早稲田大学教授の水野祐氏も、スサノオを新羅系の神とし、多くの人がこれに同調している。

そして、スサノオの幻影が大きすぎるため、出雲人全体をも朝鮮系としてしまう。

どうも日本の学者の思考は、朝鮮より先へは進まないらしい。

…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より

 
紀伊は出雲民族の移住地
 
松前健氏は、「紀伊の海人がスサノオや熊野大神の信仰を出雲へ移した」と説く。

出雲王朝の存在を否定し、出雲を「裏日本」として把えているからである。

だが、上古の出雲は北九州と共に、大陸との貿易の中心地であった。

水野祐氏が言うように「表日本」とすべきなのだ。

 

大山は航海の絶好の目印となったし、美保関、中海は暴風雨をさける絶好の港であった。

室町時代、美保関は幕府の料地で、年々の公用金は五万両にものぼっている。

 
出雲神族の伝承には「大和や紀伊は、出雲の分国」とある。
オオクニヌシの婚姻話も示しているように、出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していたのである。
 
スサノオの天降ったところとして、出雲の斐伊川の川上の鳥髪、安芸の可愛の川上、新羅国のソシモリ、と三カ所があげられている。

紀伊国と関係が深いのは、スサノオではなくてその子イソタケルだ。

さて、スサノオはどこに降ったのか。「砂鉄を求めて」ということなら、これはもう鳥髪、すなわち今日の船通山(1143メートル)に間違いない。

周辺が大砂鉄地帯だからだ。

『出雲国風土記』にも「仁多郡の三処(みところ)、布勢(ふせ)、三沢、横田の各郷から出る鉄は、非常に堅くていろいろなものを作ることができる」と見える。

船通山の六合目の横田町現雲南市大呂には近年、鳥上木炭銑工場が復活し、砂鉄を木炭でとかし、銑鉄を作っている。

刀工が「よい日本刀を作るには、ここの砂鉄が不可欠だ」と懇願したからである。

 
『日本書紀』に「イザナミを紀伊国の熊野の有馬山に葬りまつる」とある。

こうしたことも、松前氏の考えを左右したように思える。

イザナミの神陵は、出雲にも七カ所、広島、鳥取、和歌山にそれぞれ一カ所ある。

出雲が群を抜いているのは、それだけイザナミの伝承が多いからである。

 

出雲の熊野では、紀伊有馬村の有馬氏に関して、次のように伝えている。

有馬氏は出雲の炭焼きを業とする集団であったが、縄文時代に大挙して木の国(紀伊国)へ移住した。

出雲の比婆山の祭祀(伊邪那美)や、熊野大神の信仰は、これら有馬氏が出雲からもたらしたものである。花窟神社 熊野那智大社 熊野速玉大社 熊野本宮大社

有馬の地名も、この氏族の名称である、と。

松前氏が誤りをおかしたのは、熊野大神が出雲神族の大祖神であることを知らなかったことによる。

 

…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より

 
記紀の建国神話は出雲に伝わる「高句麗神話」を借用したもので、イザナミのルーツも高句麗にある。
 
鉄の道文化圏 …「鉄」をめぐる神話の里
 
メソポタミアで、青銅器の鋳造がはじめられたのは、紀元前3000年代の昔といわれる。

この鋳造法が中国にもたらされたのは、紀元前1500年代である。

また、ヒッタイトで、鉄器の鋳造が行われたのは、紀元前2000年代であり、これが中国に伝播したのは、紀元前500年頃であった。

中国に、西域あたりから鉄器文化をもたらしたのは、中央アジアの騎馬民族(突厥(とつけつ)族)といわれ、この民族によって、鉄文化は、その後次第に旧満州(現・中国東北区)から朝鮮半島を南下し、やがて日本に伝来することになるのである。

 
突厥族からは、その後「タタール」という部族が興るが、ここに「タトル」という言葉があった。

これが「猛火」を意味し、わが国における「たたら(和鉄)」の語源だといわれる。

そして、紀元二世紀になると、日本からも、「倭人」といわれる人たちが、南朝鮮に、海路鉄を求めて盛んに渡航するようになる。

福岡県添田町の庄原(しょうばる)遺跡から紀元前二世紀頃のものとみられる金属溶解炉跡が発見され、広島県三原市の小丸遺跡からも、三世紀末頃の築造と思われる製鉄炉跡が発見されたことなどをみれば、わが国における「製鉄史」の夜明けは、これまでの推定時期よりもかなり早い段階であったものと思われる。

最近になって、出雲では「鉄の道文化圏」協議会という機関が結成された。

これは、出雲において、古来から「鉄」の生産や輸送にあたり、それぞれ固有の「鉄文化」や神話、伝説などを持つとされる安来市、能義郡広瀬町(現安来市)、大原郡大東町(現雲南市)、仁多郡仁多町(現奥出雲町)、横田町(現奥出雲町)、飯石郡吉田村(現雲南市)の六市町村からなるものである。

安来市は、その昔から、近隣で生産される産鉄の積み出し港として繁栄したところであり、出雲国特有の「玉鋼(たまはがね)」の製錬地としてもよく知られている。

市内を流れる飯梨川からは、良質の砂鉄が採取されてきた。

 
また、飯梨川の中流域に位置する広瀬町には、古くから、全国の製鉄にたずさわる人びとから、「鉄の神」として尊崇をあつめてきた金屋子神社がある。

祭神は、金山彦(かなやまひこ)命と金山媛(かなやまひめ)命である。

「記・紀」では、イザナミが、火の神「カグツチ」を生んで病んだ時、その吐瀉物から、金山毘古神(「紀」では金山彦)、金山毘売神の両神が生れている。

これは、「火を防ぐ力を持つ神」で、何よりも「鉄の神」である。

 
元明四(1784)年に、伯耆国日野郡の鉄山師下原重仲によって完成された『鉄山秘書』という有名な著書がある。

これは、中国山地を中心に発達した古来より伝わる砂鉄製錬法、すなわち「たたら吹き」製鉄法の歴史と実際経営の記録を集大成した日本の製鉄史としては代表的な古典である。

 
この書によれば、この両神は、まず高天原から播磨(はりま)国宍粟(しそう)郡岩鎬(現・兵庫県宍粟郡千種町岩野辺)に天降りしたが、その後、白い鷺に乗ってこの広瀬町に飛来し、以来、山陰地方一円の製鉄業をつかさどった。

大原郡、仁多郡、飯石郡一円にもこの神を祀る神社は多い。

「鉄の道文化圏」のシンボルマークも、金屋子神社に飛来した白鷺が形どられている。

 

さらに、「風土記」には、仁多郡三沢郷現雲南市の条に、この地には、良質の鉄が産出することから、オオクニヌシの子神である阿遅須伎高日子(あじすきたかひこ)命という「鋤の神」が、神門郡高岸郷(現出雲市)からこの地に来向した旨の記載がある。

仁多町(現奥出雲町には優良な山砂鉄が産出されることから、アジスキは中国や朝鮮半島からの先進製鉄技術を携えて、神門地域から斐伊川を遡上し、この地で農耕具などの製作を指導したものであろう。

 
「風土記」仁多郡横田郷(現奥出雲町)の条にも、仁多郡の各郷から産出する鉄材は、その材質が固く、種々の鉄器具を作るのに適しているという注記がある。

横田町には、大峠製鉄炉跡があり、また、「日刀保たたら」といわれる製鉄場がある。

これは、往時の「靖国たたら」といわれたものを復元したものであって、現在、日本唯一の古来からの伝統を承継する「たたら吹き」製鉄法によって玉鋼(たまはがね)を生産する。

 
このような事情からも、「風土記」の当時、仁多郡一円では、すでに盛んに採鉄、製鉄が行われていたものと思われ、この地方は、古来からわが国における「たたら」製鉄の総本山となっていたのである。
 
また、仁多郡一円の産鉄については、これを輸送するため、古くから「鉄の道」があったものと思われるが、そのひとつが、斐伊川経由で杵築湾に向うコースであり、いまひとつが、飯梨川(布部川)沿いに、広瀬町経由などのルートで、安来地方に搬送されたものであろう。
 
さらに、広瀬町の近隣には大東町がある。ここには、その昔、「オロチ族」の製鉄基地があったと口伝される「清田(せりた)」という地区がある。
 

ここにも、良質の砂鉄を豊富に産出する「赤川」という川があり、古くから砂鉄の採取が盛んに行われていたものと思われる。

その産品もまた、古くから斐伊川経由で杵築湾に搬出される一方、広瀬町(現安来市)、八雲村(現松江市)経由などで、安来地方に搬送されていたものであろう。

 
この地は、「オロチ族」を退治した先進韓鍛冶(からかぬち)集団の首長スサノオが、愛后イナダ姫とともに住った「須賀」の宮の所在地でもある。
 
そして、吉田村(現雲南市)は、「風土記」にも記載のあるスサノオの本貫地「須佐(すさ)郷」(現出雲市)の近郷にある。

また、吉田村を流れる「飯石(いいし)の小川」については、「風土記」に鉄(まがね)(川砂鉄のこと)あり」という注記がある。

近くには、やはり「風土記」に「鉄(まがね)あり」と記されたの「波多(はた)の小川」も流れている。

ここは、文字どおりの「鉄(まがね)」の里であった。

さらに、吉田村には、「菅谷たたら」遺跡がある。

この遺跡は、中世以来、「たたら製鉄」で栄えた「奥出雲三名家」のひとつである「田部家」に伝わるものである。

一般に「たたら」というのは、砂鉄を原材料とする和鉄製造法をいうが、その用語の意味はまちまちであり、時には、砂鉄精錬場を総称する意味にも使われ、さらには、精錬場の「高殿」が「たたら」といわれることもある。

この高殿に、炉が築かれ、これに砂鉄と炭を加え、加熱して熱湯とすることで鉄を選別するのである。

「たたら」は、狭義には高殿内にある送風装置のふいごを指すこともある。

この田部家の高殿は、高さ約8メートル、一辺が18.4メートルもある巨大な正方形のものである。

 
「菅谷たたら」は、ひとつの山に、一大総合精錬場を形成しているもので、山そのものが「たたら」と呼ばれているが、その山内には、この高殿を中心に、鍛冶場、鉄倉、たたら師の住居など多様な施設があり、現存する日本唯一の総合的「たたら」遺跡となっている。
 
なお、最近になって、吉田村では、出雲国古来の「たたら」製鉄法による「玉鋼(たまはがね)」の製法が復元され話題を呼んでいる。

ちなみに、「たたら」場と鍛冶場の両方を含めた総合経営者が「鉄師」と呼ばれたが、その経営には大変な財力を必要とした。

出雲国で特に「たたら」製鉄法による鉄の生産高が高かったのは、日本国有数の山林王であり、また、大地主でもあった「糸原」、「桜井」、「田部」といった大きな経済力を持った名家が、これを経営したことによるとされている。

 
…和久利康一著「古代出雲と神楽」より
 
……昔、神々は海から日本列島へやってきた。出雲の神々も米と鉄を携えて水平線の彼方からやってきた。大陸から最も近い出雲の国は、古代日本国家の形成にとって最も重要な出発点であった。……

スサノオは、朝鮮から砂鉄を求めて、出雲の須佐の港にやってきた。

 

『日本書紀』によれば素戔嗚尊(スサノオ)は息子の五十猛命(イタケル)、娘の大屋津姫命(オオヤツヒメ)、抓津姫命(ツマツヒメ)とともに新羅から出雲へと渡るが、その上陸地点は大田市の仁摩町(観光の見所として世界遺産に登録された石見銀山遺跡がある)から五十猛町にかけての海岸であった。

現在でも、大田市に「韓島」(仁摩町)や「韓郷山」(五十猛町)といった地名が残っており、五十猛町や大屋町の地名は五十猛命や大屋津姫命に因むものである。

また、静間町には国造りにおいて大国主命(オオクニヌシ)と少彦名命(スクナビコナ)が国造りの際に仮住まいとしたという静之窟大田市がある。

ヒイ川の古志人が暴れ、出雲神族のテナヅチ、アシナヅチ(須我神社社家祖)が助けをもとめたので、スサノオがこれを制圧(大蛇退治)した。

スサノオはテナヅチの娘との婚姻によって出雲神族と習合した。

物部氏の直系を名乗る神魂(かもす)神社松江市の宮司・秋上(あきあげ)武雄氏(120代目)は、これに補足する。

出雲神族は弓が浜を拠点とし、古志(越前〜越後)の人々を使って肥川を治水し、砂鉄を採っていた。

古志人は、オオクニヌシの古志の八口(やくち)征伐の話でもわかるように、なかなかの暴れん坊だった。

鉄を求めてやってきたスサノオが、まず衝突したのはこれら古志人なんだ。

ついでだが、須佐神社出雲市は分家でね、このあたりでは須我神社雲南市にお参りすることになっている。

 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
韓竃(からかま)神社
 

延喜式神名帳(927年)には韓竃神社(からかまのかみのやしろ)出雲市と記されており、延喜式よりも二世紀古い出雲国風土記(733年)にも記されていることから、創建不詳の非常に古い由緒を持つ神社である。

社名のカラカマは、朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされている。

即ち、これは、祭神の素盞鳴尊が御子神と共に新羅に渡られ、わが国に「植林法」を伝えるとともに「鉄器文化」を開拓されたと伝えられていることと、関係があろう。

 

また、当社より奥部の北山山系が、古くから産銅地帯といわれ、金堀地区の地名や野タタラ跡、などがみられることと深い関係があるといわれている。

雲陽誌(1717年)によると、当社は素盞鳴尊を祀るとして、古老伝に、「素盞鳴尊が乗り給いし船なりとして二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。

この岩は、本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。また、岩船のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸き立岩あり、これを「帆柱石」という。

社への入口は、横一尺五寸ばかり、高さ八尺ほどの岩穴となっており、奥の方まで二間ばかりあり、これが社までの通路となっている」記されている。

韓竃(からかま)神社に行くには出雲市雲州平田駅から弁慶伝説で有名な鰐淵寺(がくえんじ)に向かう。

唐川の小学校の前を左折すれば鰐淵寺に行くが、そのまま唐川川(からかわがわ)沿いを直進する。

5、6分車で走ると右手に鳥居、左に唐川川に突き出た岩船を見ることができる。

苔むした石段の右側には転落防止のロープが張ってあり、社までの道程の険しさを想像させる。スイッチバックのようにして高度を稼ぎ200mも登ると大きな岩がたちはだかる。

左から回り込むように登るが、ここはロープが無く非常に怖い。岩の裏に回り込むと、想像を絶する光景に出会う。

何だこれは !!……目の前には斜めの光の線が……これが社の入口である。

太った人は通行不可能だ。やっとの思いで入口の岩の切れ目を通過すると小さな社があった。

神社は大社造ではなく神明造である。

歴史が古いので創立当時の姿はわからないが、時代の変遷で今の姿になったのだろう。

 
大陸と最も近い出雲のこの地に出雲神族の祖先となったスサノオが、天降りした。そして、その神が全国の神社で祀られている。正に日本文化のあけぼのがここにある。
 
韓竃神社(からかまじんじゃ)…地元の人は(かんかまじんじゃ)と呼んでいる
岩船 登口にある韓竃神社の鳥居 神社の境内への入り口
須我神社(スサノオとイナダヒメの新居)雲南市
 
八俣の大蛇を退治し、めでたくクシナダヒメ(出雲神族)を妻にしたスサノオは、いよいよ宮殿を造るべきところを求めて、須賀の地雲南市に至った。
 
そこは山は高く、水の清い地であったので、スサノオは思わず、「ああ、わたしはこの地に来て、やっと心もすがすがしい。」と、感歎の声を発した。

そして、ここに宮殿を造ってお住まいになったが、それからこの地を須賀というように、なったわけである。

こうして、スサノオはクシナダヒメを妃として、須賀の宮におられた時に、そこから雲が立ちのぼった。

これを見たスサノオは、

 
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
 
(雲までが八重に 湧き立ち 宮に八重垣を 作っている。 わたしたち二人を 寵らせようと 雲が立つのだ ああその八重の 瑞垣よ。)
 
という和歌をよんだ。

尊の姫への思いが伝わってくる作品である。『古事記』はこれを日本最古の和歌だとする。

それから、クシナダヒメの父の、アシナヅチを召して、「そなたは、稲田の官主スガノヤツミミノ神と呼んで、この須賀の宮(須賀神社雲南市の首長になりなさい。」と、仰せられた。

このようにして、クシナダヒメとの間に、ヤシマジヌミノ神以下の、たくさんの子を生んだ。

その子から順々に孫が生まれて、八代目の孫にオオクニヌシノ神が生まれた。この神は別名を、オオナムジノ神、アシハラシコオノ神、ヤチホコノ神、ウツシクニタマノ神などといって、五つの名がある。

…古事記より

  

即ちこの宮が古事記・日本書紀に顕われる「日本初之宮」である。

そして、ここが「三十一文字和歌発祥の地」であり、この御歌の出雲が出雲の国名の起元でもある。

 

又須佐之男命と奇稲田比売命の間の御子神が清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)で、この三神が当社の主祭神である。

出雲風土記(天平五年、西暦733年)では、此処を須我神社、須賀山、須我小川等の名に表現され、風土記抄(天和三年、西暦1683年)には須我村とあり須我は広く此の地方の総称であつたことがうかがえる。

須我小川の流域に、曽つて十二の村があつて、この須我神社は、この地方の総氏神として信仰されていたものである。

また、須我山(御室山、八雲山)の山ふところには巨岩夫婦岩並びに少祠があり、須我神社奥宮(磐座=いわくら)として祭祀信仰されている。

 

須我山の主峰八雲山は、眼下に中海や宍道湖を見おろし、島根半島から弓ヶ浜、東方遥かには出雲富士(伯耆大山)を望む景勝地で、近年から頂上で盛大に行なわれる歌祭りをはじめ、四季にわたって全国各地から来遊の登山(参拝)者が多くなっている。

…須我神社由緒より
 
須我神社奥宮として三神を祀る岩座(通称夫婦岩)
須我神社奥宮の禊場 須我神社拝殿 須我神社本殿
  
しかし、スサノオが「八雲立つ」の歌を詠んで、イナダヒメ(出雲神族)と結婚したと伝えられる地は、まだ他にもある。
八重垣神社 松江市
 
世俗的に一番名高いのは、八重垣神社であろう。

この社は縁結びの神としても有名で、若い男女の参拝者が多い。

八重垣神社の名は「出雲八重垣」にちなむが、所在地は須賀ではなく松江市佐草町である。

社記は須賀から避難地であった佐草へ移って宮作りをされ、これを八重垣の宮と呼んだと伝える。

この伝記は記紀にも風土記にもない。

 
八重垣神社の奥の小径をたどると、佐久佐女(さくさめ)の森と呼ばれる一角に、清水の湧き出る池がある。

その池は小さいが、うす青い透明さをもっている。

小泉八雲はここを「神秘の森」と称揚した。池のそばに天鏡社が祀ってある。

伝説によると、八重垣姫はこの池を水鏡として、自分の姿を映したという。そこで姫が死んだのちも、たましいは池に残った。

姫の面影は沈み、ここをおとずれる人たちに、水の底から親しげに話しかけている思いがする

…谷川健一著「出雲の神々」より

 
近くに神魂(かもす)神社があり、イザナミを、合祀している。
 

創建については詳らかではない。

出雲風土記にも延喜式にもこの社の名は見当たらないが、出雲の国造(こくそう)の祖神アメノホヒが、ここに天降りして創建したたといわれている。

本殿は最古の大社造で国宝に指定されている。

出雲国造家が祖神アメノホヒでなく、遠祖のイザナギでもなく、なぜ女神イザナミを祀ったのであろうか。

 

それは、出雲はスサノオのたどりついた根の国である。とする認識があって、妣の国(ははのくに)根の堅州国(ねのかたすくに)に鎮まる神・イザナミの影が、古代中央の知識人の、心の奥深くに大きく暗く立ちはだかっていたのではなかろうか?

──その心の中の影が国造家にも色濃くわだかまっていた。

まず、根の国を支配する大神のみたまを鎮め、祭祀を厚くしなければ、古代人の心理としては安心して何もできなかったのであろう。

 
…小山 和著「古道紀行出雲路」より
  
日御碕神社 日御碕観光
島根半島の西端の、日本海の怒涛の打ち寄せる出雲市大社町日御碕に、鎮座する「日御碕神社」も有名である。
 
山裾の高低を利用して、上段にはスサノオを祭った上ノ宮、下段にはアマテラスを祭った下ノ宮がある。

社殿は江戸初期の権現造りである。

この社の西北方の、半島の突端には、東洋一といわれる有名な「日御碕灯台」が、そそり立っている。

そして、ここの展望台に立って見渡すと、北には隠岐、南には「国引き」の神話で名高い三瓶山大田市が、クッキリと望まれるのである。

風土記に美佐伎社、また御前社、御埼杜の三祠を記している。

伊勢神宮にたいして落日西海の方だから、日沈宮というと伝えられる。

下の宮はアマテラスをまつり、もと経島(ふみしま)に、上の宮はスサノオをまつりもとは今の社の後の隠丘にあったといわれる。

摂社にアメノフキネをまつる神社がある。

この神はスサノオがヤマタノオロチを退治して得た宝剣をアマテラスに献上した神ということになっているが、その子孫と称する小野家は日御崎神社の祭祀をつかさどる。

毎年大晦日の夜、斎主の宮司は、たった一人で神山(天一山)にのぼって、剣を天神にたてまつる秘事をおこなう。

この神事の夜は、雨雪がどんなに烈しくても、神事と共に空は晴れたわり、いまだかつて斎主の祭服をぬらしたことがないとされている。

…小山 和著「古道紀行出雲路」より

 
須佐神社(スサノオ終焉の地に鎮座する)出雲市
 

出雲市佐田町須佐にある須佐神社は、霊能をテレビなどで紹介された。

須佐神社のある須佐は山に囲まれた盆地である。

見るものすべての情景が重たく感じる、山陰特有の湿った空気には神々の霊が漂っているのだろう。

 

須佐神社は神の入り口(神戸川)を遡り、その支流を分け入った須佐川に鎮座している。

出雲国風土記によると、神須佐能袁命(かみすさのおのみこと)がこの地に来られて仰せられるには、「この土地は狭い土地であるけれども、好い住まい所である。

それゆえ自分の名は石や木に留めるようなことはしないで、この土地に名を留めよう」と仰せられて、そのまま御自身の御魂をここに留めてお置きになった。

そして御言葉のとおり御名を留める御名代田(みなしろだ)として、大須佐田と小須佐田の御料田をお定めになった。

この由緒によって郷名を須佐というのである。

スサノオは奥出雲でオロチ退治をして、雲南市大東町にある須我神社に、稲田姫と新居を構えた。

全国各地に大陸からの文化を伝え、日本文化の礎を築き、そして「須佐の地」を終の住処とした。

 

佐田町には日本の原風景そのものの姿がある。

しかし、山陰特有の湿った、なにものかが存在するかのような、重たい空気が醸し出す風土は、神々の国特有のものである。

そこに、スサノオの御霊が永遠の眠りについている。

あなたが、この地に、スサノオに会いに訪れたとき、祖神スサノオは、きっと、あなたに何かを語りかけてくれるはずである。

神社の後ろに、樹齢1200年を超すという巨大な杉の神木がある。

この杉は霊力を持つと言われ、そのパワーを貰いに撫でるので、根っこがツルツルに光っていた。

 
スサ族の地に鎮座する、全国のスサノオを祀る神社の総本社「須佐神社」
須佐神社境内 須佐神社と霊力を持つ巨大な神木 撫でられてツルツルになった神木の根
 
熊野大社(日本国一ノ宮)松江市
 

歴史が古く、社格の高いのは、「熊野大社」である。

これは松江市大庭町から更に南の方約五キロほどの、八雲町に鎮座している。

社地は意宇川の上流、三方を山嶺に囲まれた渓流に面している、社殿は新しいが雄大だ。

紀の神代巻一書の五に「素盞鳴尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居しまして、遂に根国に入りましき」とある。

 

根の国は母なる国大地とも、海のむこうの霊地とも考えられているが、大国主が八十神の迫害を逃れてたずね入った根の国は、素盞鳴の住む冥界としてあつかわれる。

熊成が熊野であり、出雲族は祖神が根の国へ入られた熊野を聖地として素盞鳴を祀り、国造家が祭りを執り行なった。

 
静かな社前の左手に、古代家屋を思わせる鑽火殿(さんかでん)がある。

熊野大社は、延喜式に「熊野坐神社大名神」とある。

素盞鳴から天穂日へ鑽火、即ち火を鑽(き)る術が伝えられたとの伝承があり、毎年新嘗(にいなめ)の祭りには当社から火燧臼、火燧杵が出雲大社宮司、つまり国造へ授けられる。 神魂神社との関係

鑽火殿はその聖火の殿堂なのである。

 
出雲ノ国一ノ宮は出雲大社ではなくて、当社であった。
 
…小山 和著「古道紀行出雲路」より

松江市八雲町熊野に鎮座し、杵築大社、即ち今の出雲大社出雲市と並んで出雲の二大社であった。

上述文徳実録仁寿元年(851年)の史実や、三代実録貞観九年(867年)四月の条に、「八日丁丑、(中略)出雲国従二位勲七等熊野神、従二位勲八等杵築神、並びに正二位を授く」とあるように、両社は常に並称せられ、両者のための神戸は、意宇・秋鹿・楯縫・出雲・神門の各郡に置かれて、特別な奉斎がなされていた。

熊野大社の祭神については、風土記の出雲神戸の条に、「伊弉奈枳乃麻奈子に坐す熊野加武呂乃命」、即ち伊邪那岐命の愛児である熊野の神様とだけ見えているが、出雲国造神賀詞には、「伊邪那伎乃日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」と見えている。

熊野大神の熊野坐大神は、熊野に御鎮座の大神の意、櫛御気野大神の櫛は奇の借字で神秘神聖な意。

御気は御食すなわち御食事、野は主に通じて主となって掌るをいう。

 
従ってこの神名は、伊邪那伎命の御愛息である神で熊野に御鎮坐の大神、神聖な御食事を掌られる神、奇御食主という意である。
これによって考えると、この神は出雲の最高の食糧神と考えられる。出雲大社歴史
この櫛御気野命という神名は他の古典に見えない神名である。

本居宣長古事記伝の出雲国造神寿後釈において、この櫛御気野神は須佐之男命御霊を称え奉った御名であると記され、現在でも祭神は須佐之男命とせられている。 →本居宣長の思想

しかし、出雲神族伝承では「クナトノ大神」を祀るとしている。
本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、学術的には偽書とされている先代旧事本紀・神代本紀に「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から「櫛御気野命」が「素戔嗚尊」と同一視されるようになったことがわかる。
 
日本民族の大祖神「クナトノ大神」を祀る「熊野大社」
 
クナトノ大神(日本民族の大祖神)
 

出雲神族はシュメールを追われ、インド→ビルマ→タイ→中国江南→朝鮮→ソ連→カムチャッカ半島→千島列島→北海道→出雲へと渡来した。

日本の米は中国種である。

 
クナトノ大神は、「農耕を教えた」という。

中国の稲作は、縄文前期の紀元前4700年ごろに始まった。中国江南を通過する際、稲作を覚え、種子を日本にまで運んだのであろう。

クナトノ大神は食糧神という性格があるので、全国で神として祀られていたのであろう。

食糧は人々が生きていく根源的なものであるから、すべての神々の最高位の神とされたのである。

全国の食糧神を祀る神社の祭神の本性は、この神でなくしてはありえない。

熊野大社は全国の食糧神を祀る神社の総本社なのである。

伊勢神宮内宮が王家の祖神を祀り、出雲大社が日本民族の祖神を祀る神社とすれば、熊野大社は食糧神を祀る伊勢神宮外宮のような存在であるといえる。

 
出雲神族伝承は言う。
 
オオクニヌシは、古代出雲において重要な存在ではなかった。

『熊野大社は「旧辞記」に「出雲国熊野杵築神宮」と見えている。

出雲大社が杵築へ移ったのは霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にあり、クナトノ大神を祀っていた。

 

日本書紀では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。

古事記では、上述のイザナギの禊(みそぎ)の場面で、最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が化生している。

 
後に、中国から伝来した道路の神である道祖神と習合した。また、仏教地蔵菩薩とも同一視された。
 

聖武〜桓武までの各天皇はクナトノ大神の力を恐れ、平安京長岡京、信楽(しがらき)京などではサイの大通りを作り、都の四隅に神社を建てて鎮魂の供養をした。

六月、十二月には道饗(みちあえの)祭を催し、祝詞(のりと)を捧げた。常磐国など東国はこの神が開拓したもので、香取神宮の主祭神普都(ふと)大神ともなっている。

 

私は出雲市を訪れたとき、ひょんな体験をした。

クナトノ大神を祀る出雲井神社(いづもいかみのやしろ)に寄ってみようと思い、出雲大社の社務所で道をたずねた。

ところが、なかなか教えてくれないのである。

うさん臭そうに、こちらの顔を眺めながら、「なぜ、そんなところへ行くんですか。小さな社がポッンと立っているだけで、なんにもありませんよ」と言う。

道順を聞き出すのに、五、六分も押し問答をしなければならなかった。

社家では出雲井神社と聞いただけで、神経をビリビリさせるのである。

社家にとって、出雲井神社を訪れる者は、危険人物なのであろう。

出雲井神社は、出雲大社の東、宇伽(うが)山のふもとの竹薮に、ひっそりと忘れられたように建っていた。

 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
 
クナトノ大神を祀る出雲大社末社「出雲井神社」…地元では出雲井神社と言っても分からない、才の神さんと呼んでいる。
 
妣(はは)の国物語
 

古事記』の創成神話では、まず高天の原にアメノミナカヌシノ神が生まれ、つづいてタカミムスピノ神・カミムスピノ神の三神が、単独神として現われた。

次に国土がいまだ出来たての状態で、水面に浮かんだ油や、海に漂っているクラゲのように、流動していた時に、泥の中から葦の芽のような、若く力たくましい物によって、ウマシアシカビヒコジノ神、アメノトコタチノ神が生まれる。

これについで、クエトコタチノ神、トヨクモヌノ神……と、男女の性別をもった双生神が生まれ、最後にイザナギノ神・イザナミノ神が生まれてくる。イザナキ・イザナミは、葦原中国に降り、結婚して、大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。

国生みを終ったイザナギ・イザナミの両神は、つづいて神生みを行なうことになった。

そして、生まれて来たのは、岩石の神、土砂の神、家屋の神、風雨の神、海川の神、オオヤマツミノ神などの山野の神、草木の神、渓谷の神、アメノトリフネノ神などの船舶の神、それ豊穀の神などであった。

ところが、最後にヒノカグツチノ神という、火の神を生んだ時に、イザナミノ神は陰部に火傷を負って、頻死の床についてしまった。

イザナギノ神の祈りもついに空しく、イザナミノ神は火の神であるカグツチノ神を生んだために、死んでいった。

最愛の妻を失くしたイザナギノ神は、「いとしい妻よ、一人の子のために、そなたを失ってしまった」と、悲しみのあまりそのなきがらの枕もとや、足の方に這い臥して泣いた。そして、イザナミノ神のなきがらは、出雲の国と伯耆の国との境にある比婆の山に、葬られたのである。

黄泉の国へ行ってしまった妻イザナミのあとを患って、イザナギはもう一度妻を現世に取り戻そうと、黄泉の国まで追っていき、御殿の石の戸口の前に立った。

イザナミは思いがけなく、夫に会うことができたので、喜んでその石の戸口まで出迎えてくれた。イザナギは妻を見ると、口早にいった。

「おお、いとしいわが妻よ。わたしとあなたが作った国は、まだ作り終ってはいない。さあ、一緒に帰っておくれ。」

すると、─ イザナミは、

「はい、でも、もう少しあなたが早く、迎えにおいで下されば、よかったのに……。わたしはもう、この黄泉の国の不浄の火で、炊いた食物を食べましたので、からだが穢れてしまいました。しかし、あなたがせっかくお出で下さったのですから、何とかして帰りたいと思います。黄泉の国の神と、かけあってみましょう。しかし、わたしが戻って来るまでは、決してわたしを見ないで下さい。」

こういい残して、イザナミは御殿の内に入っていったが、いつまで経っても姿をあらわさなかった。

とうとうしびれを切らしたイザナギは、女神のいったいましめを忘れて、左の髪にさしていた櫛の歯を一本折り取って、火をつけた。そして、中に入ってみると、そこにイザナミは横たわっていた。

そのさまを見ると、イザナミのからだには、何とまあ姐がわいて、ドロドロになり、しかも頭・胸・腹・陰部・両手・両足などには、その穢れから生まれた八柱の雷の神が、うずくまっていたのである。

こうした情景を見たイザナギは、びっくり仰天した。そして、一目散に逃げ出したが、イザナミは逃げていく男神の背に、浴びせかけるように叫んだ。

「よくもまあ、わたしに恥をかかせましたのね。」

さっそく、女神は黄泉醜女(よもつしこめ)というおそろしい女鬼に、その後を追わせた。

イザナギはこの醜女を追い払うために、髪につけていた黒い蔓草の輪をとって、投げつけると、それがたちまち野葡萄の実になった。

これを醜女がむさぼるようにして、食べている間に、イザナギは逃げのびた。

が、食べ終るとまた、醜女は追いかけて来たので、今度は右の髪に挿した櫛の歯を欠いて投げた。

すると、見事なタケノコが生えた。醜女がそれを抜いて食べている問に、イザナギは逃げ去ったのであった。

こんどは女神の方では、そのからだから生まれた八柱の雷神に、黄泉の国のたくさんの軍勢をそえて、追わせて来た。

そこで、イザナギはせまってくる軍勢たちを、追い払うために、腰の十拳(とつか)の剣を扱いて、これを後手に振りながら逃げのびた。

それでもまだ、黄泉の国の軍勢たちは、黄泉比良坂の坂下まで追って来たので、イザナギはその傍らにあった桃の実を三つとって、投げつけると、とうとう黄泉の軍勢はことごとく逃げ還っていった。

そこでイザナギは、桃の実に向かって、「お前が今、わたしを助けてくれたように、この葦原の中つ国にすむすべての民草が、苦難に陥って憂え悩んでいる時には、助けてやってくれよ。」といって、その手柄を讃めたたえて、オオカムヅミノ命という名をつけたのであった。

最後には女神みずからが追って来た。

それを知ると、イザナギはそこにあった千引石(ちびきいわ)…千人もかかって引くほどの大きな岩石を、黄泉比良坂にふさいで、その石を中において向かいあい、絶縁のことばを交した。

すると、女神はその時、

「いとしいわが夫よ。それならわたしは、これからあなたの国の人たちを、一日に千人殺してやりますから。」というと、イザナギはそれに答えていった。

「いとしい妻の命よ。あなたがそうするならば、わたしはー日に千五百の産屋(うぶや)を、建てることにしょう。」

そういうわけで、この世では一日に必ず千人はどは死に、また一日に必ず千五百人ほどは、生まれてくるのである。

こうしたことから、女神のイザナミを黄泉大神(よもつおおかみ)といい、また追いついたことから、道敷(ちしき)の大神ともいうようになった。

また、黄泉の坂をふさいでいた大岩を、道反(ちがえし)の大神とも、塞(さや)ります黄泉戸(よみど)の大神ともうようになった。

そして、この黄泉比良坂(よもつひらさか)は、出雲の国の伊賦夜坂(いふやさか)東出雲町のことであるといわれている。

死という穢れに触れて、黄泉の国から戻って来たイザナギノ神は、「わたしはほんとに、いやな穢い国へ行ったものだ。どーれ、禊でもして、からだを洗い浄めよう。」といって、九州の日向の橘の小戸(おど)のアハギ原へ、出かけていった。

そして、そこで杖・帯・袋・衣・褌(はかま)・冠・左右の腕巻などを、次々に投げすてると、それからさまざまな十二柱の神々が誕生した。

衝立船戸神(つきたつふなとのかみ、杖から生まれる)…クナトノ大神→出雲神族の大祖神

道之長乳歯神(みちのながちはのかみ、帯から生まれる)

時量師神(ときはかしのかみ、袋から生まれる)

和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ、衣から生まれる)

道俣神(みちまたのかみ、袴から生まれる)

飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ、冠から生まれる)

奥疎神(おきざかるのかみ、左手の腕輪から生まれる)

奥津那芸佐毘古神(おくつなぎさびこのかみ、同上)

奥津甲斐弁羅神(おきつかひべらのかみ、同上)

辺疎神(へざかるのかみ、右手の腕輪から生まれる)

辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ、同上)

辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ、同上)

イザナギノ神は、こうしてその川の流れを見ながら、「どうも上っ瀬は瀬が速いし、下っ瀬は瀬が弱い。」と、流水のぐあいのちょうどいい中っ瀬におり立って、からだを洗ったが、その穢れから二柱のマガツヒノ神が現われた。

次にその二柱の神がもたらす禍を直そうとして、カムナオピノ神などの三柱の神が誕生した。

次に水底・水中・水面の順で、からだを洗うと、三柱のワタツミノ神と、三柱のツツノオノ神の誕生を見た。

この三柱のワタツミノ神は、安曇連(あずみのむらじ)などの祖先神として、いつも祭られる神で、安曇連はワタッミノ神の子の、ウツシヒガナサクノ命の子孫なのである。また、三柱のツツノオノ命は、住吉神社に祭られている三座の神である。

こうして、一番最後に左の目を洗うと、うるわしく照り輝く神、アマテラス大神が誕生し、右の目を洗うとツキヨミノ命、鼻を洗うとタケハヤスサノオノ命が、現われたのであった。

こうして、イザナギの神の左右の眼と鼻から、三柱の神が出現すると、イザナギはたいへんに喜んで、

「わたしは次々に子を生んで、その最後に三柱の貴い子を得た。」といって、

玉の首かざりをはずし、美しい音をさせながら、これをアマテラス大神に授け、「あなたは高天の原を治めなさい。」と、神勅をくだした。そして、この首かざりの玉を、ミクラタナノ神といった。

また、ツキヨミノ命には、夜の世界を、スサノオノ命には海原(うなばら)を、治めるように命じた。これによって、この三貴子の世界分治が決ったのである。

…古事記より

 
アマテラスはいなかった !
 

天皇家でも古くは、スサノオはむろんのこと、この神も祀ってはいなかった。

『延喜神名式』によると、宮中神祇官の西院(斎院)八神殿の神々は、タカミムスビ、カミムスビ、タマツメムスビ、イクムスビ、タルムスビ、オホミヤノメ、ミケツカミ、コトシロヌシである。

 

天皇家の氏神、守護神は、いわゆるムスビ系の神なのだ。

オホミヤノメは宮廷に仕える巫女の神格化、ミケツカミは稲の神、呪いを残して死んだ出雲の神コトシロヌシは封じ込めの神と考えられる。

 

アマテラスは、『祈年(としごいの)祭』『六月(みなつき)の月次(つきなみ)』『十二月(しわす)の月次』などの祝詞(のりと)に出てくるが、祭りの本質部分には登場しない。

最初に誦みあげられるのは上の八神で、アマテラスのほうは後半に「ことわきて伊勢にますアマテラス大神の大前に申さく」と、とってつけたように記されているだけだ。

 

太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によると、イザナギ、イザナミの七十六人の子のうち、アマテラスは六十六番目、スサノオは六十七番目の子になっている。

 
この二人は、余り者としか映らない。
 
『祭神紀』は伝える !
 
アマテラスと倭(やまと)の大国魂の二神を八神殿に並べて祀ったところ、天孫系と出雲系の祖霊神は共に住むことを好まず、天災地変が起り、疫病が流行した。

そこで二神とも宮殿より出し、大国魂(オオモノヌシノ神)はオオタタネコを祭主として大和の三輪山に祀った。

アマテラスは笠縫村などにいたが落ち着かず、結局、大和を離れて遠く丹波に行き、あちこち放浪したのち、伊勢に移らざるを得なかった。

 
伊勢神宮において、もっとも重要な新嘗(にいなめ)祭の祭儀は、トヨウケノ神を祀る外宮優先だ。明治天皇も伊勢参拝の折、アマテラスを祀る内宮ではなく、外宮から詣でている。
 

アマテラスが伊勢の神となったのは、かなり後世のことである。

伊勢大神宮の形を整えたのは、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で戦勝した感謝の気持から社殿を造営したのに始まる。

しかし、伊勢神宮を創建した天武天皇は、天皇家の菩提寺には祀られていない。

大和岩雄氏によると、天皇家の菩提寺、泉涌寺では、天智からすぐ光仁、桓武と続き、天武系は除外されている。

 

滋賀県大津市は三井寺のそばに、門跡寺円満院がある。昔は格式が高く、俳聖芭蕉でさえ入ることを許されなかった。

美しい鶴亀式の池があり、これに連なる掘割に橋がかけられその先に天皇家代々の位牌を安置する位牌堂が建っている。ご門跡の三浦道明氏は、「当院にも、天武系の位牌はない」と言う。

 
伊勢神宮の祭神である天照大神は、宮中の八神殿に祀っていない。
 

明治まで歴代の天皇の伊勢神宮参拝はなかった。

天智系の皇室(熊襲朝廷)にとって、壬申の乱で敗れ、大海人皇子(天武天皇)が戦勝の感謝の気持ちから創建した伊勢神宮は、参拝する神社ではなかったのではないか。天武王朝は神武天皇(熊襲)が滅ぼした太陽信仰の「ウガヤ王朝」の子孫である。熊信仰と太陽信仰は相容れない両極であり、天照大神が太陽信仰を神格化したものとすれば、熊襲朝廷である天皇家は天照大神を祀らないし、参拝するはずがない。

 

しかし、明治政府は慶応4年(1868)〜明治5年の短期間に集中的に神道国教化政策を実地し、伊勢神宮を天皇の宗廟として位置付けた。

一方、近世以来氏神を祀り、民の心のふるさとであった村鎮守の由来と祭神を改ざんし、伊勢神宮の末社の役割を演じさせ、天皇制思想の強制化をはかった。

 
戦後国家神道の呪縛から解放されたかに見えるが、伊勢神宮は神社庁の支配により、神社を通して、我々の意識下で大きな影響力を持ち続けている。」
 
伊勢の古代信仰の地は、志摩の磯辺であり、この地に伊雑(いさわ)宮が鎮座している。

志摩の要(かなめ)は伊雑の宮よ

お伊勢さまへと末開き

磯部伊勢宮が神宮になると

磯の松風音ばかり

馬がものいうた 内宮の馬が

もとの磯部へかえりたい

 
こうした俗謡が残っているように、伊雑(いさわ)宮こそが本家であった !

 

現在、祭神はアマテラスの御魂とされているが、裏山に小さいながら磐座(いわくら)があり、出雲との結びつきを感じさせる。

付近の人は、「岩に座ったりすると、崇りがある」とか「お腹が痛くなる」と言って、子供たちを近づけない。

『伊雑宮旧記』によると、当社は竜宮で、的矢湾の入口の海底深くには、神代の昔から石の鳥居がある、と信じられていた。

 
また、ヤマト姫がアマテラスの御魂を奉じて当地を訪れたとき、彼女を迎えたのは出雲神族の伊雑のトミノ命であった。

上古には、出雲系の神が祀られていたと見るべきだろう。

松前健はこう主張する。

 
宮中のアマテラス祭祀は、固有と思われるものは一つもなく、みな後世、それもずっと後の平安時代になって初めて、神話の影響や、それに基づく伊勢などの祭祀の取り入れによって、成立したものである。
 
それではアマテラスに当てはめられる神はなかったのかといえば、あることはある。
 
『延喜神名式」に大和国城下郡の鏡作坐(かがみつくりにます)天照御魂神社、城上郡の他田坐(おさだにます)天照御魂神社、山城国葛野(かどの)郡の木島坐(このしまにます)天照御魂神社、久世郡の水主(みぬし)神社十座の中に水主坐神社、摂津国嶋下郡の新屋坐(にいやにます)天照御魂神社、丹波国天田郡の天照玉神社、播磨国の揖保坐(いいほにます)天照御魂神社、対馬国下県郡の阿麻氏留(あまてる)神社などが見える。
 
だが、これらは男性神で、伊勢の女神アマテラスとは関係がない。
 
対馬のアマテル神社(祭神ほアメノヒタマノ命)を除くと、ほとんどが尾張氏およびその同族とされる丹波氏の祖神を祀っている。

祭神は、アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノ命である。

ニギハヤヒは出雲神族のナガスネ彦の妹トミヤ姫を妻とし、物部氏の祖ウマシマジをもうけたことになっているが、ニギハヤヒは尾張氏の祖神で、物部氏とは無関係なのだ。

物部神社の主祭神もニギハヤヒではなく、ウマシマジである。

 
いずれにせよ、
アマテラスなどという女神は存在しなかった !
 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
伊邪那美大神
 
日本書紀の一書(あるふみ)の第五は、「紀伊国の熊野の有馬ノ村に葬りまつる」と書き、熊野に伊邪那美神陵と伝える花の窟花窟神社がある。

古事記は比婆の山に葬った、と書く。

中国山脈の尾根筋に比婆山(1225m)があって、山項に三丘二庭の伊邪那美神陵伝承地が大切に保存され、イチイの老木に囲まれている。但し、ここは島根・広島県境で記伝に合わない。

私は紀伊を出雲族の移住地と考える立場から、二つの伊邪那美神陵に出雲族が祖神素盞鳴の母神を非常に大切に祀っていた そのことの反映が二つの神陵伝承を生み、記紀に採録されたという印象を持つ。

 

伯太川の中流、横屋という小集落の南西の山麓に、久米神社安来市がある。

東南の上ノ台の丘上に上ノ台古墳群があり、上ノ台緑の村となっている。

『古事記』に、「故、その神避(さ)りし伊邪那美神は出雲ノ国と伯伎(ははき)ノ国の堺の比婆の山に葬りき」としるされた比婆の山が、久米神社と伝承されているのである。

比婆山は古来多くの文人が尋ね求めたが、古事記伝の著者本居宣長も、ついに「今詳(いまつまびらか)に知れず」と、所在をつきとめることができなかった。

 
神話の古墓を探すのは民話の里にその跡を探すような想いもあるが、国生みの祖神の墓が出雲にあるとする伝承に、私はこの国の開拓の古さを改めて痛感するのである。

記に、素盞鳴命が父の神伊邪那岐の指示に従わず、髭が長く胸前へ垂れるまで泣き叫んだ話がある。

何しろ「青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉(ことごと)に泣き乾しき」というから凄い。

父神が「どうして、そんなに泣くのだ」とたずねたところ、「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅州(かたす)国に行こうと欲う。

だから哭(な)くのだ」と答えた。父神は大変怒って、「それなら、お前はこの国に住むな。勝手に行け」と追放した−その素盞鳴が出雲へ来て、出雲神族の祖となった。

 

そしてここに、神々の母、伊邪那美の神陵と伝える古塚がある。

本居宣長は、伯耆ノ国人の物語として次のような話を伝えている。

出雲と伯耆の国堺に近い山間安来市に、たわの内という所がある。

そこに伊邪那美の神陵といって、小竹など生繁っているが、此の塚の草などを牛馬に与えても食わず、牽いて来て草を飼おうとしても塚のあたりへは牛馬が寄りつかない。

又、塚の竹を杖に突いて行くと、蛇の類が寄りつかない。

蛇の居る所へ杖を突き立ると、疎(すく)んで動けなくなる……と。

 
撓(たわ)は峠の古語である。

撓の内は峠の麓の内懐のようなところであろう。

横屋のわずか上流に峠之内の地名が残り、10km足らずも南下すれば伯耆との国界、寺谷坂(峠)安来市だ。

伊邪那美神陵は久米の社の古塚かもしれない。

そう思いながら、私はやはり神話の上へ透明なシートに印刷した地図をかぶせ、神話の語りの遺跡を探しているような、妙に熱心な自分をもう一人の自分が遠くから観察しているような−そんな複雑な心理状況にはまり込んでいた。

神話の世界へさまよい込むと、面白いけれどもなかなか出口が見つからないのだ。

…小山 和著「古道紀行出雲路」より

 
伊邪那美の神陵(比婆山・久米神社)安来市
 
山陰自動車道を安来ICで降り、安来市の伯太町にむかう。

道路標識は日南方面である。久米神社は、車で20分ばかり走った峠之内地区にあるが、目印がないので、道中の安来市伯太支所で尋ねた方がよい。

久米神社を遥拝する神明造」の久米下神社は地図に記載されているが、久米神社はない。

案内標識もないのは、あまり観光客に来てもらいたくないのだろう。

出雲人の気持ちとしてわかるような気がする。

峠之内の公会堂前に、遥拝する小さな社がある。左手に山に登る道があり、頂上まで960mとある。

途中まで車で行けるが、後は獣道に近い。勾配が緩やかになると、あちこちに不思議な岩が鎮座している開けた場所に出る。

ここは県の天然記念物に指定されている珍しい陰陽竹の群生地だ。

陰陽竹はイザナミを両性具有の神として連想させ、興味を引かれる。

左手に社が見える。社の周りはよく手入れがされており、大切に祀られているのがよくわかる。

正面に拝殿があり、続いて大社造」の本殿がある。

本殿の後ろには透塀に囲まれた神陵があった。

神陵の中は木々や陰陽竹が生茂り、何とも言えない雰囲気がある。

古事記伝の著者の本居宣長も、この神陵を見たら、「今詳(いまつまびらか)に知れず」と言わなかっただろう。

何々神宮や何々大社にお参りするよりは、何倍もご利益があると思いながら、手を合わせた。何しろ国生みの神のお墓である、どんな神様もかなわない。

 
伊邪那美(イザナミ)の神陵
比婆山 久米神社 久米神社左から見た神陵 陰陽竹に見守られる神陵
 
黄泉(よみ)の国
 

「よもつくに」ともいわれて、闇黒の世界であり、死の国を指していった。

『日本書紀』には、根国(ねのくに)とあり、祝詞(のりと)には、根国底国(ねのくにそこのくに)。

『古事記』にはまた、根堅洲国(ねかたすくに)とも見えている。

これは古代の人たちが、この現世を顕国と呼んで、太陽のかがやく光明の国であり、善神の支配する楽土であると信じていたのに対して、死者の赴く地下の国を黄泉(よみ)の国といった。

ここは日を仰ぐことのない闇黒の世界で、悪神のはびこる汚れの国であり、あらゆる忌むぺきことが、この国に属していた。

また、黄泉の国を「下(しも)つ国」ともいったのは、天上に対して地下や遠く離れた地に、この国があるものと信じたためであった。

「黄泉の国」はおそろしい死の国であり、穢(けが)れの国であった。

そして、死者はその死の国へ赴いても、なお生活を営み、活動をつづけるものと考えられた。

だからこそ、イザナギノ神は女神をもう一度、顕国へ取り戻そうとしたのである。

…永田義直編著「日本の神話」より

 
黄泉比良坂(よもつひらさか)古事記においては東出雲町 出雲国風土記においては出雲市
死の国と現世との境にあると想像された坂で、この二つの世界は、容易に越えることができないと、考えられていた。

こういった思想は、多くの民族にあって、仏教では三途の川や死出の山に、なぞらえられている。

この比良坂については、『出雲風土記』の「出雲国」の条に、(出雲郡宇賀郷、今の出雲市の宇賀に)、

北の海の浜に磯あり。名を脳の磯といふ。高さ一丈ばかりなり。……磯より西の方に窟戸あり。高さ広さ各 六尺ばかりあり。窟の内に穴あり。人入ることを得ず。深浅を知らざるなり。夢にこの磯の窟の辺に至る者は、必ず死ぬ。故、俗の人、古より今に至るまで、黄泉(よみ)の坂、黄泉の穴と号(なず)けいへり。と見えている。

これによると、この黄泉の坂や、黄泉の穴が、地下にある黄泉の国へ通ずる洞窟のようなものと、考えていたようである。

また、美保湾と中海との間にある「夜見ガ浜」境港市)(米子市は、古いころから「黄泉の島」であって、死者の住むところであると、信じられていたといわれる。

…永田義直編著「日本の神話」より

 
伊賦夜坂(いふやさか)東出雲町
 
東出雲町の中心、揖屋の旧街道沿いに意宇六社の一つ揖屋(いや)神社があり、意東川左岸、小さな丘に伊賦夜坂がある。

前出、『古事記』の黄泉比良坂である。

この「坂」は坂道というほかに、境界の意を持つ。

たずねてみた伊賦夜坂は、小さな山坂の根に小池があり、池堤の奥に黄泉比良坂神跡碑と、黄泉の国の出口を塞いだと伝承にある千引の石(と称するもの)があった。

千人で引くほどの大岩ではない。折角来たのだ、坂を越えてみよう、と細い草道へ踏み込んでみた。

雑木の繁るその坂は、あっけなく項上へ着いた。

着いたとたんに、冷たい風がやや強く吹き登って来た。

一息ついて又吹き登る。冷風の塊が連続して押し寄せる印象だった。

草道は五月というのに、去年の落葉がまだ積もって、林の中へ消え入るように下っている。

寒気団の南下を承知していなかったら、私は驚き、立ちすくんだかもしれない。

出雲には黄泉の国の出入り口が二つあったのである。

さきの星上山周辺と、この伊賦夜坂と……。この国は限りなく黄泉の国、地下の他界と近いようだ。

…小山 和著「古道紀行出雲路」より

 
黄泉(よみ)の穴…大国主が殺された洞窟か ? 出雲市
 

この大洞窟は猪目湾の西端に位置し、凝灰岩の海蝕によって造られ、東方に開口している。

古く出雲風土記の「黄泉の穴」に当たると推定され、数々の怪談が伝えられていた。

去る昭和23年に船揚げ場の拡張工事をしたときに、凝灰石の微砂、石片、石塊などの堆積層から多数の人骨や遺物が出土した。

出土品は弥生時代から古墳時代にかけてのもので人骨は十数体あり、屈葬と伸展葬の両式が見られ、腕にはめた貝輪やたかつき、大小のつぼ等の副葬品が多数あった。

又、多くの木器、貝類、鳥獣魚骨、其の他、稲もみ、木の実、海藻類、更に炉の跡、木炭等、従来の生活を物語る貴重な遺物が発見された。

昭和32年国の史跡に指定されている。尚、下記写真左の堆積層は何か埋葬されている可能性が高いといわれている。

出土品は出雲市大社支所に隣接する、猪目洞窟遺物包含層出土品収蔵庫に保管されている。見学される場合は、庁舎二階の企業振興課に申し出てください。→Tel.0853-53-4441(詳細な説明が必要であれば出雲市文化企画部文化財課→Tel.0853-21-6893にお問い合わせ下さい。)

地元の人はこの洞窟を「皇泉の穴」と言っている。

発掘当時を知る地元の人は、「初めに七体半の人骨が出てきた、半というのは一体は完全ではなく半分の骨しか無かった。

性別は五体が男性で二体が女性、性別不明が一体であった。

1体「第14号人骨」は身長が2mを超す大きな男で、腕にはフイリッピン産の貝(ゴボウラ貝)で造った腕輪をしていた」という。

帝国大学の先生が調査にきて、これはオオクニヌシの骨ではないかと話していたという。

現在も全国から学者や神職がよく訪れるという。(…神職というのは気になる、神社関係では何か言い伝えがあるのだろうか?)

出雲神族の伝承では、出雲大社の裏山(カツ島)の鷺鵜(うさぎ)峠に「神がくれの岩屋(洞窟)」があり、オオクニヌシが幽閉されて死んだと伝えている。

ここは猪目と鷺鵜の町境にある。神がくれの洞窟がどこにあるかはいろいろな説があるが、すく近くの鷺鵜の海岸から1kmも入った所に、今は使用されていない銅鉱山があり、近くに神隠れの洞窟があるという。

 
出雲大社の近くに、国譲りとは異なる「神がくれの岩屋」の言い伝えがあることは、興味を引かれる。
 

「27代出雲国造広嶋」が編纂し、出雲国風土記に記載した「黄泉の穴」が、なにか重要な史実を示唆しているのではないのか…?

出雲国風土記には次のように記載されている。

『磯の西のほうに岩穴がある。この洞窟のなかには人の出入りはできない。どの位の深さがあるかも知られていない。この磯の岩穴のあたりにいった、と夢に見るとその人はかならず死ぬ。それで世人は昔からここを黄泉の坂といい、また岩穴を黄泉の穴と名付けている』

風土記はこのあたりは、脳磯(なづきのいそ)と呼ぶと記しているが、脳髄がむき出しになったように、でこぼこした海岸の風景だから、そういうのであろうという説がある。

たしかなことはもとより、分からないが、脳磯という言葉はどこかぶきみだ。

それはさきほどの夢の話があるからだろうか。

洞穴は高さ12m、幅36mの右を斜辺とした直角三角形で、奥へしだいに小さくなって37mにもおよぶ。

その先はとなり部落の鷺浦につづくと思われている。

1948年にこの奥から、縄文、弥生、古墳期の遺物と共に、人骨十数体が出土し、黄泉の穴がたんなる伝承の場所ではなかったことが判明した。

母の胎から出たものは母の胎にかえるということから、沖縄では、墓は女陰をかたどったものとされている。

三角形はふつう女陰の象徴である。

そういえば、いまは舟庫となっているこの黄泉の穴のまわりにも、打ち消しがたい陰気さがただよい、日蝕のときに吹き起るような薄気味わるい冷風がとりまいている。

万葉集の中の「袖の下をつかませるから黄泉の国の使者よ、背負っていってくれ」とか、「金を出すからちゃんと、黄泉の国への道を知らせてくれ」とかいった歌の実感がひしひしと迫るところだ。

…谷川健一著「出雲の神々」より

出雲大社からは、大駐車場を入らないで直進すると神楽殿の横を通り山手に向かう道がある。

この道は鷺峠を越えて日本海(記紀でいう北ノ海)に出る、海岸沿いを走れば「皇泉の洞窟」は通り道にある。

日御碕を観光されるのであれば、日御碕の手前から右折しても行ける。こちらの方が新しく開通した道で走りやすい。

 
出雲市猪目町の猪目洞窟(黄泉の穴、別名皇泉の穴)
貝輪着装人骨 (ゴボウラ貝)輪六個 猪目洞窟遺物包含層出土品収蔵庫に保管
 
真名井神社(出雲族祖神・伊差奈枳命)松江市観光
 

社殿は本殿、中門、拝殿、神楽殿、境内社から成る。

本殿は大社造り檜皮葺きで周囲に透塀をめぐらす。

祭神は伊差奈枳命 、天津彦根命(山代直の祖)。

当社は出雲国風土記にいう「真名井社」、延喜式に記す「真名井神社」で古い歴史をもつ意宇六社の一社である。

背後の山は神名樋(かんなび)山で出雲国内四神名樋山の一つで東南麓に真名井の滝を存す。

中〜近世は伊弉諾社として知られていたが、明治以後は旧号に復し村社に列せられていた。

現本殿は、寛文二年(1662)の建立で、内殿は正面に向かっている。

殿内には彩色絵がある。拝殿は昭和九年に新築された土間床の造り。境内社には末那為神社(向って右)児守神社(向かって左)宍道若宮社、山代神社、荒神社が合祀してある。

なお、神紋は出雲大社の神紋と同じ、二重の亀甲に「有」の字である。

この社は出雲の祖神を祭る神名樋山(天孫族には山に神を祀る風習はない)に、鎮座している。

加藤義成氏の研究によれば、この社はもと神名樋野の北側にあたる間内の地にあったと思われ、風土記抄にも「伊弊奈枚社の東の滝の下の社なり」とあり、近世ここに移されたものであろう、とされている。

周囲は出雲王国時代の遺跡が集中している出雲の聖地である。そこに国生みの神「イザナギ」が鎮座している。

 

出雲の中心にある「神名樋山」の主神はいったいなにものであろうか ?

神名樋山は山全体を神体とする神社における最古の形式を遺している。

縄文時代いや太古時代か、いずれにせよ、「大和王国」が成立する前の、遥か昔から「出雲神族」の「祖神」として祀られていたのであろう。

そして、その神は全国の神名樋山にも祀られている。(紀伊熊野三山三輪山巌鬼山=岩木山出羽三山の月山神社の祭神「月読命」は出雲国風土記の嶋根郡の条に、伊佐奈枳命の御子として「都久豆美命」の神名で登場する。)

神の名は、「神名樋山」に鎮座する「真名井神社」の祭神「イザナギ」。

国生みの神の「イザナギ」は、出雲神族の大祖神であった ! 

 

朝鮮から最も新しく渡来(3〜4世紀)した天孫族に、日本神話と呼べるものなどあるはずがない !!

日本原住民族である出雲神族の歴史を横領し、捏造した「記紀」の「イザナギ神話」と出雲系「イザナギ神話」は区別すべきである。

 
消された多氏(おうし)古事記 !
 

最古の神社形式「神名樋山」に鎮座する、出雲の祖神を祀る真名井神社。

 
日本民族の歴史
 
原日本人について !
 
わが国の人類の歴史は、約50万年前の旧石器時代に始まる、と言われている。

十数万年前には牛川人、5〜6万年前には三力日人、浜北人が現われた。

もっとも、これらは旧人類と呼ばれ、類人猿に近かった。

 

人間らしい人間が生活を始めたのは、早期縄文時代(紀元前7500年ごろ)からである。

不整形だが、竪穴住居も営まれている。

どういう人種であったのか明らかでないが、一般に北方民族のギリヤック人、南方系のクマソ、それにアイヌサンカが古族とされている。

紀元前2000年前後には出雲神族が渡来し、豊富な知識で彼等を指導し、まとめていった。

 
一部の地域では平地住居が始まり、黒曜石、硬玉などの交易も行なわれるようになった。

当時のわが国は、平和であったらしい。

 

やがて中国における戦乱が朝鮮半島などに波及し、楽浪(らくろう)四郡、これに続く馬韓弁韓辰(秦)韓などの人々がやってくる。

南方からも、船で流れついた。さらに時代が下ると、多数の新羅人や百済が移住した。

 
原日本人とは、さまざまな人種の混成によって成っていた。

種族が異なれば、当然、主導権争いが起きる。中世までの歴史を眺めると、それは種族間の闘争でしかない。

したがって、原日本人(さまざまな人種の混成)から現日本人になるには、長い年月が必要であった。

 
出雲神族はシュメールからやって来た。

出雲神族の伝承は、東北の山や湖に関するものが多い。

ベーリング海を渡り、北海道、東北、そして出雲へとやってきたのだろう。

 
だが、出雲神族は北方民族ではない。

上古、竜蛇神を信仰したのは、エジプト、シュメール、インド(ドラヴィダ人)、中国(夏人)の四カ国であった。

シュメールドラヴィダ人は、牛をトーテムとするウル人やアーリア系のインド・イラン人に追われた。

一部は残留したが、多くは山中に隠れたり、南方の海上に逃れたりした。

台湾のヤァミ族は典型的な竜蛇族で、蛇のトーテム・ポールや楯を作り、蛇の入墨をする。紋章の流れをみると、披等はインドネシア方面から流れ着いたらしい。

高砂(たかさご)族の研究家として知られる国立台湾大学大学院長の陳奇祿氏にお尋ねすると「マレー半島あたりから渡来したと考えて、間違いありません。言語もほとんど同じです」と答えた。

夏人は、ツバメをトーテムとする殷(中国では商という)に滅ぼされた。

もっとも、前漢あたりまでの祭器に竜蛇があしらわれているから、全滅したわけではない。

本土に残った者や、朝鮮方面へ避難した者もいるはずである。

 
それでは、出雲神族はどの竜蛇族に属し、どこからやってきたのだろうか。まず、竜蛇族の紋章から考えてみる。
 
彼等は主として、亀甲紋、巴紋、三引竜紋を用いた。

発祥地の四カ国と、に近い朝鮮と台湾に存在した紋章は、次の通りである。

 
エジプト    巴、亀甲

シュメール   亀甲

インド     巴、三引竜(亀甲)

中国      巴、三引竜

台湾      巴、三引竜

朝鮮      巴

 
インドの亀甲は、紋章であるとの確認はできなかった。
 

残るのはエジプトとシュメールだが、出雲神族に風葬があったこと、拝火の習俗が残ること(大神神社にも御神火拝戴祭、ご神火祭りがある)などを考えると、シュメールということになってしまう。

次に、出雲神族が神宝とした勾玉から考える。

勾玉は朝鮮からも出土し、そうしたことから、出雲神族朝鮮系説が出るのだが、これは出雲から輸出した、と考えたほうがよさそうだ。

 
紀元前3000年ごろから、わが国では黒曜石、硬玉の交易を盛んにやっていた。

勾玉は世界の各地で発掘され、一番古いものは15000年前まで遡れる。

 
出雲神族はシュメールを追われ、インド→ビルマ→タイ→中国江南→朝鮮→ソ連→カムチャッカ半島→千島列島→北海道→出雲へと渡来したのではないだろうか。
 
日本の米は中国種、昔の台湾の米はインド種であった。

台湾のヤァミ族は、インド系竜蛇族と考えたほうがぴったりくる。

 

クナトノ大神は、「農耕を教えた」という。

中国の稲作は、縄文前期の紀元前4700年ごろに始まった。

中国江南を通過する際、稲作を覚え、種子を日本にまで運んだのかもしれない。

 
「大きな氷の山を越えて」というのは、ソ連領に入ってからのことだろうか。

それとも、氷河期の移動を示すものだろうか。

 
いずれにせよ、出雲神族は、はるか彼方のオリエントの地からやってきたのだ。
 
アイヌは謎の民族とされ、現在でも北方民族説と南方民族説が対立している。

そして、前波氏は言語学の立場から、次のように述べている。

「シュメール人には、Sumer(シュメール)-Ku(ク)とSumer(シュメール)-sal(サル)があり、その方言を話す種族をEmi(エミ)-sal(サル)(田舎者)といった。アイヌをシュメール語に直すと、Ai(アイ)-nu(ヌ)(異なる方言を話す民)となる。アイヌはエミサルに間違いない」

シュメール王国(ウルク王朝アッカド王朝ウル王朝)のあったチグリス、ユーフラテス河畔は「肥沃なる三日月地帯」と呼ばれ、農耕だけでなく、漁業にも適していた。

それだけに外敵から狙われ、ナラム・シン王(在位紀元前2254〜2218年)の時には、ザクロス山岳地帯に住んでいた破壊的なグティ人が、続いて四方からセム系のアムル人、東からはエラム人が侵入を開始した。

そして、ウル王朝第五代のイビ・シン王(在位紀元前2028〜2004年)がエラム人の捕虜となり、東方山中に連れ去られると、シュメール人の時代が終りをつげる。

もっとも、楔形文字の変化の過程をみると、その後もシュメール人はメソポタミアに居住していたものと思われる。

彼等を完全に駆逐したのは、セム系遊牧民族のアッシリア人である。

その性は残酷で征服地を徹底的に破壊した。

住民を強制的に移住させ、反乱を起こす者は皮剥ぎ、串刺しなどの酷刑に処した。

アッシリア古バビロニアを征服して、オリエントを統一したのは紀元前670年だが、これも同612年に滅亡。

続く新バビロニア、エジプト、リディア、メディアの四国もペルシア(紀元前525年に全オリエントを統一)に下り、ペルシアもまたギリシア戦争の後、アレクサンダー大王の東征によって亡びた。時に紀元前330年。

こうして楔形文字も世界から消え去った。

シュメール人がどういう種族であったのか明らかでないが、古バビロニア人と共に農耕、漁業を盛んに営んでいたことは、粘土版に書かれた文書から知ることができる。

ビールとブドウ酒を愛し、イカ、タコ、キュウリの酢の物なども食べていたらしい。

馬にひかせる戦車には乗ったが、騎馬の習慣はなかった。

どちらかといえば、海洋的な性格の強い民族である。

ところで、これらの人々はどこへ行ったのだろうか。

東西から攻められれば、逃れる道は南方の海上しかない。

 

そして、紋章の流れから見ると、彼等がインド、インドネシア、マレーシア方面に安住の地を求めたことは確かである。

そして、ある者は海流に乗って直接、またある者は島や陸地つたいに、混血を重ねながら日本へたどり着いたと推測される。

『古事記』序文の後半に、おおむね次のようなことが記されている

和銅四年(711)9月18日、安万侶稗田阿礼(ひえだあれ)の誦(よ)むところの帝皇日継と先代旧辞を、お仰せのように細かな点まで記録しました。

しかし、上古の言葉を漢字で書き表わすことは困難でした。

訓で書き表わすと意味がぴったりせず、訓ばかりで書くと文章が長たらしくなります。

そこで、ある文章には音訓を交えて用い、またある文章にはすべて訓を用いました。

また、岩波書店版『古事記祝詞』を校注した倉野憲司も、その書にこう述べている。

 
「古事記のような変態の漢字で記された散文を、どう訓(よ)み下すかということは、極めて困難な問題であって、これを成し遂げることは、まことに容易な業ではない。一概には決定しかねることも多く、動かし難い結論を得ることは、将来においても恐らく不可能であろう。従来それが定訓のように考えている人も多い古訓本(或いは古事記伝)の訓法にそのまま従えば、事は甚だ容易であるがその訓法には不備欠点も多く、とうていそのままには従い難いことは言うまでもあるまい」
 

言い換えれば、上古の日本で用いていた言語と、安万侶時代の言語とは違っていたのである。

日本の古語は、いったいどういうものだったのか。

日本語のルーツは北方系のウラル・アルタイ語、というのがこれまでの定説だった。

しかし、国語学の第一人者であり、稲荷山鉄剣文の解読などで有名な大野晋学習院大教授は、最近の研究で、インド南部に住むドラヴィダ人の一方言であるタミル語に、日本の古語と対応する単語を続々と発見、「日本語のルーツはタミル語だ」という新説を打ち出して話題を呼んだ。

渡来ルートについては──

アーリア民族に圧迫されたドラヴィダ人が、アジア大陸の照葉樹林帯を焼き畑農耕を行ないながら移動し、中国では漢民族かなんかに攻められて押し出され、イカダで海を渡って日本の九州や、朝鮮半島の南部へ入った。

一部は海路をとり、沖縄などを中継してやって来ている。その時期は、縄文時代の中期か、後期ではないかと考えられると言う。

ドラヴィダ人は、竜蛇神を信奉するシュメール人の一支族である。

そして、前出の前波(まえば)教授は、そのシュメール語で記紀を読破したのだった。

前波氏は苗族がシュメール語を日本に伝えたとし、それに関して次のように説いている。

 
上古、アジア大陸では諸民族が共存していた。

しかし、あるものは強敵の攻撃におびえ、またあるものは日照りに悩まされ、安住の地を求めて移動を開始していた。

西へ向った民族はバルカンに入り、南するものはインドに走り、その東するものはやがて黄海、潮海、日本海を渡て、わが国へ流れてきた。

苗種の「Saur(サウル)-mhot(ミヤオ)」つまり中国の史書に見える三苗(湖の苗族の意味)は、黄河の上流は青海に起った民族である。

彼らは突厥(とつけつ)族に追われて、斉魯(さいろ)あたりに移ったが、ここでも支那族の攻撃にあい、また海に逃れて、わが南九州は薩摩の坊津にたどりついた。

苗「Mhot」は、また「Bhot」とも称したところから、その「Bhot」苗の渡来し、居ついた所を坊「Both」津といったのである。

以来、坊津は大陸への交通港として賑(にぎ)わっていた。

なお、『魏書』倭人伝の設馬(サルメ)国は「Saur-mhot」のあて字で、これが奈良時代に地名は好字を選べとの勅命から「薩摩」になった。

バビロニア文化を生成したのは、アラブ出のアッカド族と、アフガン国人のシュメール族だが、後者はバビロニアの滅亡に際し、その末期の文化を北支那に伝来し、流布した。

苗族がシュメール語を話すのは、こうしたことによる。

さて、この苗族の後を追って、宿敵の突厥族の「Kuman(クマン)-Siv(シブ)」 熊襲(くまそ)も渡来した。

はじめ薩摩の久米「Kuman」 に入り、前住の苗族を降伏させ、いうことをきかない苗族は大隅へと放逐した。

やがて「Kum」の久米部は熊本の球磨川地方を本拠地として、「Siv」は薩摩の川内(せんだい)川の河上に居ついた。

彼等の旧跡が、いまの隈之城で、土地の人々はクマノシロではなく「Kuman-Siv(クマンシュウ)」と呼んでいる。

「Kuman」の「an」は「之」にあたる辞である。

熊襲は、付近一帯の地を平定して、王子を置いた。

そこを「Noyon」というが、「Noyon」とは「王子」の意味で、いまの野依村が旧跡である。

こちらもノヨリ村ではなく「ノヨン村」と称している。

彼等は、やがて大隅の姶良(あいら)郡は霧島山の麓へと進攻して、その山を「Siv」襲の「Tag」と名づけ、隣りの山を「Kara-kul-taga」といった。

日本の古史では「韓国嶽」の字を当てているが、その意味ほ「乾れた湖」つまり、噴火が衰えたあとにできた「火山湖」である。

いまも山にたつ天の逆鉾は、神武天皇の東征の際、熊野の山法師が誦(よ)みあげた、熊取り(アイヌ)の寿詞にも見るように、突厥族が征戦の門出に、剣を逆さにして地に立て、祖先に勝利を祈る吉礼となっていたものだ。

ところが、この「Kuman-Siv」の久米部は、やがて神武天皇の東征に従い、九州を去る。

したがって以後の九州における異族の動乱は、いつも「Siv」の襲族が起している。

「Siv」は、中国史の蚩尤(シブ)または祝融で、後代の周の嶽狗「Siv-i」でi、漢の匈奴(シウト)「Siv-t」も熊襲の襲「Siv」と同類である。

やがて、そこへ北九州に本拠地を持っていた海洋民族の「Gug」黒黄人が押し寄せてきて、一時すこぶる勢力を張ったが、これはやがて祟神天皇の頃にすべて駆逐されてしまった。

苗族、突厥族の二種族が、同時、同所に雑居していたことは『古事記』上代のところに、シュメール語とチュルケ語(トルコ語の古語)が併用されているのをみてもわかる。

 

こういった黒黄種、苗族、熊襲族の相次いで渡来した地へ、そして、当時にしてはかなり高い文化を有している地へ、天孫族が進攻してくるのである。

 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
 
消されたウガヤ王朝史
 
日本という国は、一口にいえば、「謎に包まれた国」といって過言ではない。
 
人類の起源はもとより、その発達と移動など、人類学のすべての分野で、撤密な科学的調査や研究が進んでいる今日、先進国のなかでも、もっとも先頭を走っていると自他が認めているこの国が、いまだに、自民族のルーツも、言葉のルーツも不明だというのだから、こんな不思議な国はいくら探してもほかにあるまい。

日本の政治家が、念仏のように繰り返し叫んでいることの一つは、日本の国際化問題だ。

日本の国際化とは、地球村といわれるほど狭くなった国際社会において、諸外国との間に、日本のありのままの姿を紹介することによって、相互の理解を深めてゆこうとする動きである。

だが、そのような動きは、最初から大きな壁にぶつかっていて、実現は、今のままでは、とうてい、不可能だとしかいえない。

 
というのは、みずからが「誰であり、どのような素性のものか」をいえない日本人を、外国の人びとは、怪しいとまではいわなくても、理解し難い民族だと考えるだろうからである。
 
人文・科学のいかなる分野でも、だんぜん群をぬく優秀な能力を発揮している日本人が、いったいなぜ、自身のことに関するかぎり、盲目同然の状態におかれるようになったのだろうか?
 
この疑問に対する答えは、「日本の国民は、生まれたときから、『記紀』による国史教育を受けてきたからである。

712年に完成した『古事記』と、その8年後に完成した『日本書紀』は、日本国の歴史の上限を、わずか紀元前数百年としていて、それ以前は、まったくの暗やみにしてしまっている。

そればかりではない。日本人は、「神の子孫」であると「記紀」は教える。

「記紀」の成立以来、今日にいたるまでのほぼ千三百年間、子孫代々が、このように教えられてきた日本人は、皇国史観という、ほかに例のない思想の持ち主に育てられた。

 
それによれば、神国である日本列島には、他の民族とは何の関わりもない「ヤマト民族」が住んでおり、彼らは、外国のどの言葉とも語源の違う、この島国に自然発生した「ヤマト言葉」を使っているというのだ。
 
今でもそのような紹介を著書で紹介している皇国史観にかぶれた、著名な学者がいる !
 
個人個人は、無類の誠実さで知られている日本人だから、国際社会に出て、教わったとおりの自己紹介をするよりほかない。

だが、諸外国の人びとが、自身を「神の子孫」という日本人を、どのような目で見るだろうかに思いがいたれば、日本の国際化運動の将来は、まったく暗澹たるものだといわざるをえまい。

 
このように、日本人の前途に、大きな影をおとしてしまったことの責めは、『古事記』と『日本書紀』を編纂した天武王朝(伊勢神宮も創建)に問わなければならない。
 
なぜなれば、「記紀」編纂の目的は、壬申の乱という、日本史上最大の革命戦争によって皇位を纂奪した天武天皇が、自身を、正統な皇位継承者であると民に認めさせることによって、万世に揺るがない天武王朝を確立しようとするものであったからだ。
 

そのような目的を達成するために、諸豪族に伝承されてきた多くの文献が抹殺された。

その結果、日本人は、国史に関するかぎり、暗やみにたたされることになったのだ。

 

だが、日本人にとって幸いなことに、「記紀」に真っ向から対抗する古文献がいくつか見つかっている。

それは、次のような古文書の内容である。

 
上記(うえつふみ)
 
むかし、記憶や口諦によって、共同体にまつわる系譜や説話などの伝承にたずさわる人々がいた。それが「語部(かたるべ)」である。

語部は、古代、といっても平安中期ころまでは「部(べ)」(特殊技能集団)として朝廷にも仕えていた。

すなわち、天皇即位後の最初の新嘗(にいなめ)祭であり、一世一度の大祭にあたる大嘗(だいじょう)祭には、伴宿禰(とものすくね)と佐伯宿禰とに率いられた語部(各15名)が「古詞」を奏したという。

なお、この語部(計30名)は、905年に成立した律令施行細則の集大成である延喜式(えんぎしき)によれば、美濃・丹波・丹後・但馬・出雲・淡路から集められたとある。

ちなみに、これらの国々は、淡路一国をのぞき、すべて先住民系の「山の民」に縁の深い地域である。

さて、この語部が天皇の一世一度の大祭に奏したという「古詞」の内容は不明であるが、おそらく出雪国造(いずものくにのみやっこ)が代々、天皇に服属の意の表明として奏した「出雲国造神賀詞」的性格のものだったのではあるまいか。

その朝廷(天皇)御用の語部のもっとも有名な人物は、日本最初の史書とされる古事記の成立に大きくかかわった舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだのあれ)であろう。

この猿女君(さるめのきみ)氏出身の天才が誦習した帝紀・旧辞を太安万侶(おおのやすまろ)が撰録したのが古事記とされている。

しかし、語部のすべてが体制側に属していたとは考えられない。

各地の豪族にはそれぞれ語部がいたはずである。

それらの語部のなかには、古代の苛烈な政争に敗れた豪族に属するものもいたにちがいない。

 
古事記以前の書といわれる古史古伝の成立に、これらの語部が果した役割は大きかった思われる。
 
竹内文書・九鬼文書・宮下文書・物部文書・秀真伝・東日流外三郡誌などは、いずれも敗北者側の語部の口調してきた伝承を、後世、撰録文書化したもので、本書でとりあげる『上記』(うえつふみ)(以下ウエツフミと記す)もその一つである。
 

さて、このウエツフミの伝承を伝えた語部は、かつて『サンカ』と称された「漂泊の山の民」であったというのが本書の仮説である。

いや、ウエツフミだけではない。

 
竹内文書・九鬼文書・宮下文書──いずれも記紀では一代かぎりのウガヤフキアエズ王朝を数十代の連続王朝としている──の三文書も、古代山の民系の語部であるこの漂泊の山の民集団が大きくかかわっている。

そこから、この三文書(ウガヤ文書ともいう)を、サンカ文書」として一括する人もいる。

 
では、なぜ、この漂泊の山の民が、まつろわぬものの怨念の歴史である古史古伝の語部となったのであろうか。
 

このサンカと称された漂泊の山の民集団が日本列島に、いつ渡来したかについては、正確なことは分らない。

だが、彼ら自身の伝承に出雲的カラーがきわめて濃いことから考えて、縄文晩期ごろではないかと推定される。

 
したがって彼らは、三〜四世紀ごろ渡来した天孫族と称する集団からみれば先住民ということになる。
 
だが、彼らはながい大陸での漂泊の旅の経験をもっていたため、弥生革命にも生き残り、その共同体的アイデンティティを失うことなく、いわゆる大和朝廷という名の支配機構が確立されたあとも、まつろわぬ者として征討の対象ともならずにすんだ。

それは、彼らがそのながい漂泊の中に身につけたいくつかの特技によって有力各氏(豪族)に巧みに食い込めたからである。

そして、その豪族が政治闘争で敗れたとき、そのままでは勝者によって消されるその氏族の伝承を語り継ぐ役割を担うことになった。

いわゆサンカ文書は、この「漂泊の山の民」の語部が口諭し、後世、文書化したことからの命名である。

 

もともとウエツフミは、大和朝廷成立以前に滅亡した出雲王朝の挽歌であった。

それを記憶し、口誦してきたのは、九州の「漂泊の山の民であった。

 
彼らは、出雲王朝を開いたスサノオノミコトの集団とともに日本列島に渡来した。

それだけに天孫族に「国譲り」を強制され、やがて大和朝廷に滅ぼされたこの王朝にとくに深いかかわりをもっていたのであろう。

 

また、ウエツフミが九州豊後の「山の民」の伝承であるにかかわらず、東北地方をのぞく、ほぼ全地域にわたる古代(神武以前)の情報を網羅しているのは、各地の山の民の語部たちの協力があったからであろう。

だが、この「漂泊の山の民」が伝えた古伝承──原(プロト)ウエツフミ──は、大友(よしなお)能直によって現在のウエツフミに改変されてしまった。

したがって、そこにはまつろわぬ者の栄光と悲惨についての記述はみごとに消し去られてしまっている。

にもかかわらず、私たちは、その現存ウエツフミからでさえ、在りし日の弥生(出雲)王朝についての貴重な情報を詳細に読みとることができるのだ。

それだけでも私たちは、2000年にわたって、私たち先住民系の祖先の伝承を語り伝えてくれた、この漂泊の山の民の語部に深く感謝すべきであろう。

 
タブーとしての出雲王朝
 
日本神話を読めば、「高天原」の最大のライバルが「出雲」であったということが分かる。

事実、記紀神話を貫く一本の赤い糸は、高天原勢力に対する葦原の中つ国勢力のチャンピオン、出雲勢力の抵抗と敗北の歴史である。

 
おそらく古史古伝に残る「出雲王朝」こそ、かつての原(先)住民の黄金時代についての記憶の唯一の投影であろう。
だが、本来は反体制文書であるはずの古史古伝のなかでも、この「出雲王朝」の存在を記しているのは、わずかに九鬼文書(はっきり出雲王朝を正統としている)とこのウエツフミ程度であるのはどういうわけか?

ここに古史古伝の成立と継承の謎がある。

私は、この種の謎について、かつて古史古伝の写本者の体制の圧迫に対する偽装(カモフラージュ)論としてとらえたことがある。

 

すなわち、いわゆる畿内(大和)朝廷にとり、出雲王朝の存在は最大のタブーだったはずである。

なぜなら、彼ら(畿内=大和朝廷)は、自分たちの日本列島支配の正統性の主張をくつがえす最大の危険が、民衆のあいだに潜在的に記憶されている出雲王朝のイメージであることを知っていたからだ。

 
事実、そのため彼らは、出雲の服従の誓いともいうべき「出雲国造神寿詞(いずものくにのみやっこのかむすごと)」を出雲国造に代々奏上させたくらいである。
 
その行事は天長十年(833年)まで記録されているが、驚くべきことに第二次大戦後の昭和23年(1948年)、83代千家尊祀国造のとき復活しているのだ。
 
出雲国造神寿詞は、日本列島の先住民勢力が大和王朝に服属する必然性を主張するために設けられたものであり、いわゆる「出雲」とは、現在出雲大社がある山陰の一地方の呼称ではなく、高天原勢力に抵抗した私たちの大部分の祖先である先住民勢力の集約的表現であるからである。

さて、出雲王朝にもどろう。

いま述べたような記紀の出雲(神話)観にもとづけば、古史古伝といえども、うっかり、その出雲王朝の存在を打ち出すことが、いかに危険であるかがお分かりいただけるかと思う。

したがって、九鬼文書やウエツフミが、このタブーの先住民王朝の存在を記しているということは、それだけでも偽書として抹殺される可能性をもっていることである。

 
それは、いわば、発見され次第、爆発させられる(弾圧・抹殺される)時限爆弾をかかえ込んでいると同じである。

そこで、そのような伝承全体をも破壊されてしまう危険な爆弾を自らの手で解体しょうと考えた古史古伝の継承者(つまり筆写者)がいたとしても不思議ではあるまい。

この自発的?な爆弾解体作業は、一見、偽装と似ているが、偽装よりも質的には後退である。

 

また、こうした偽装したり、解体せざるをえないような危険な情報は「出雲王朝」だけでなく、古史古伝にはいくつもある。

だが、私たちの祖先は、それらをすべて解体するということはしなかった。

偽装を施して、しかもある一つの鍵を用いれば分かるような形でそのような危険な情報を継承してきた。

それが現存の古史古伝であり、ウエツフミもその一つであったのである。

 

…佐治芳彦著「謎の上記」より

 
『上記』は、13世紀に源頼朝の庶子で豊後太守に封じられた大友能直の撰になるとされる。

いわゆる神代文字、つまり異体仮名の一種によって書かれているものであり、上古の王朝とされる伝説的ウガヤフキアエズ朝の歴史を綴ったものである。

『上記』は、幕末、今の大分県大分市に住んでいた国学者・幸松葉枝尺(さちまつはえさか)によって発見された、いわゆる宗像本と大友本との二種類がある。

宗像本は、今の大分県大野郡大野町の地に居住していた宗像良蔵という人物が、はじめ所蔵していたもので、艮蔵の死後、妻が実家に持ちかえっていたが、この女性が幸松の姻戚関係にあったことから、幸松の手元に移り、幸松によって実検された。

これが宗像本の発見であり、天保九年(1839)のことであった。

その後、幸松によって、異体文字からの解読が行われ、同時に、原本の写本が作製されて、時の大分県令を務めていた岡山県出身の森下景端の仲介で、明治7年、明治新政府に進上された。

現在、幸松が監修した一本の他、あわせて三部が内閣文庫に保存されている。

一方、大友本は、今の大分県臼杵市の地に住んでいた大友淳という人物が所蔵していたもので、当時の記録によると、はじめこの書が、当局に没収されることを恐れた大友は、これを深く秘め隠していた。

先の森下景端をはじめ、周囲の人々のすすめで結局、世に出すことになったが、はじめ差し出したのは、真本でなく、異本であり、真本は、後に大友家が没落した時、大友家から佐々木千尋という人物に売却された。

佐々木は現在、国会図書館に一部現存する大友本の筆録者の一人であり、佐々木が入手した大友本は、後に、佐々木から大分県庁に納められ、現在、県立大分図書館に収蔵されている。

宗像本・大友本とも、五十文字の異体仮名で全編書かれているが、この文字が何時、どこで、どのような人々によって何のために用いられたかは不明である。

筆者は、古代の語り部の流れを組む人々によって受けつがれて来たある種の語り部文字でほなかったかとの仮説を抱いている。

『上記』は、序文によれば、源頼朝の庶子で豊後太守・大友能直の手によって1233年編纂されたものと伝えられているが、その真偽は確認出来ない。

内容は、日本列島の創世から、ニニギ王朝、山幸彦王朝、これに続く73代に渡るウガヤフキアユズ王朝の歴史を紀伝体で綴ったものである。

『記紀』にあっては、神武は山幸の子、ウガヤフキアユズの子とされるが、『上記』では、山幸の子である初代ウガヤ王と神武との間に71代のウガヤ王が介在し、神武は、73代ウガヤ王とされる。

又、ニニギ王朝の成立に先行してスサノヲによって開かれた出雲7代の王歴が存在し、7代目オオクニヌシの国ゆずりによって、ニニギ朝が成立する。

この出雲7代については『古事記』は、その神名系譜のみを挙げているが、『上記』は、それらの神名系譜に対応した一個の継続王朝を語っている。

こうした王歴伝説に交じって、民話、天文、暦制、医学、国制、産業など広範囲に博物誌的な記事を散在させている。

初代ウガヤに至るくだりは、出雲王朝部分を除くと、殆ど『記紀』に重なる内容である。

文体、文章、語句の上からは、『古事記』との関連が著しい。

 
『東日流外三郡誌』
 
『東日流外三郡誌』は、中世初頭11世紀半ごろ発生した、いわゆる前九年の役の敗北者、陸奥・安倍氏の末裔、安東一族の歴史と伝承とを編集したものである。

民族学的に言って安倍氏というのは、所謂蝦夷(えぞ)族(アイヌ族が主要な勢力)と、所謂倭人との混血によって成立した勢力の代表的氏族であった。

安倍氏と並んで後三年の役で亡んだ出羽・清原氏も同様な氏族であった。

前九年の役というのは、安倍頼時とその子貞任・宗任らが大和王権に対抗して自立し、その勢力が強大となったため、源頼義・義家父子を中心に東国武士団がこれを討ち、戦争となったものである。

敗北者となった安倍氏・安東氏の一族はその後、全国に分散して拡がったが、畿内・大和王権に対して陰然と敵対心を保ちつづけていた。

江戸末期に入り、安東一族の後裔である秋田・土崎の秋田孝季と、縁者で津軽・飯詰の和田長三郎が、寛政元年(1789)から文政五年(1822)まで三十有余年にわたり、日本全国を廻り、安倍氏の始族とされる、いわゆる荒吐をはじめ、安倍氏・安東氏等が維持し続けていた様々の伝承・口碑や記録を収集し編纂した。

これが『東日流外三郡誌』の原典である。

全368巻の長大な書であり、内容は始祖伝承から、江戸時代までの事蹟を含み、特に大和王権に対する怨念ともいうべき氏族感情、敵慢心が赤い糸のように貫いている。

原本は、もともと秋田孝季家に伝存し、その写本が和田長三郎家に残されていたが、火災で秋田家の原本が焼失したため、今は和田家にのみ写本が残っている。

和田家では歴代にわたり、写本などでこの書の保存につとめて来たが、最後の写本は明治10年代になって成立したものである。

しかし、大和王権に敵対的内容を含むため、吾が奪われたり、一族に危難の及ぶことをおそれてか、一族以外のものの他見を許さず、又、他言をも許さずに最近に至っていた。

しかし、昭和50年になって、青森県市浦村が『市浦村史資料編』として一部発表し、はじめて一般の目にふれ得るところとなった。

 
『九鬼文書』
 
『九鬼文書』は、現在、和歌山県・能州野本宮大社宮司・九鬼宗隆氏の家伝として逼る文書である。

九鬼家は、その系譜によれば、中臣氏(藤原氏)の系累であり、後白河天皇の代に教真という人が、はじめて、熊野別当(神仏習合で成立した神宮寺の司官で祭祀長)に任じられ、以後、熊野神社と由緒深い家柄である。

教真以来八代にわたり熊野別当職をつとめた。

九代目・隆真は、後醍醐天皇を背におぶって吉野に逃亡し、ここに南朝が興った。

この功により、隆真は、九鬼姓を与えられたという。

近世になってからは、丹波・綾部藩、摂津・三田藩の藩主となり、明治新政府のもとで、子爵に叙せられた。

当主・宗隆氏の父で、先代・隆治は、大正年間、皇道宣揚会を設立し、神道の宣布に当った。

宗隆氏は、現在、熊野本宮大社宮司である。

『九鬼文書』は、九鬼家々譜に至る中臣(藤原家)の神代からの系図を揚げ、神代の神々の系譜を載せている。

又、神武以後、後醍醐天皇に至る天皇歴代の簡単な略史が設けられている。

更に九鬼文字と称される異体仮名文字が紹介され、九鬼神道ともいうべき教義及び祭祀・呪法などが書かれている。

この書のいわば根幹となるものは、「天地言文」(アメツチノコトアヤと訓むか)であり、中臣氏の祖神天児屋根の子孫・天種子が後世に伝え残したものという。

これは、『秀真伝』が天種子の編述になるとするのと同じである。

 
『富士高天原朝史』
 
『富士宮下文書』というのは、現在、山梨県富士吉田市大明見在住の宮下義孝氏が保存している古文書である。

文書目録によれば、『記紀』の神代志に対応する部分、いわゆる神皇代に対応する部分、神武以後の人皇歴代に対応する部分など、皇統譜伝承をはじめとして、飛鳥・奈良以降の甲州富士浅間神社一円関係の世俗文献など、ざっと745点からなる一大古文書群である。

このうち、神祇・神皇関係の記録は、秦の始皇帝によって仙人の国を求めて東海に派遣されたといわれ、伝説によれば、日本に到来したという徐福及びその子孫が編纂撰録したものとされる。

又、歴代天皇や源頼朝、北条泰時など時の支配者の直筆書とされる文献なども含まれている。

『富士宮下文書』は、甲州(山梨県)富士山麓の富士山阿祀谷元宮小室浅間太神宮という神社に代々継承・保存されて来たもので、この神社は現在、富士吉田市大明見にある富士山北東本宮・小室浅間神社の一つの前身と目される。

『延喜式』「神名帳」には、八代郡に浅間神社を載せている。

『清和実録』にも、貞観七年(865)、八代郡に浅間明神嗣を建立したとある。

地理的近接性からして、『延書式』『清和実録』の浅間神社が小室浅間神社にあたるのであろう。

大正時代、皇統譜及びその伝説を中心として『富士宮下文書』を整理・ダイジェストして世にあらわした三輪義熙の『神皇紀』及び小室浅間神社の現宮司・宮下荘一氏によれば、この文書は、第26代宮司の時、阿祖谷小室浅間神社から相模(神奈川県)寒川神社に移され、49代宮司の時、これを複写して阿租谷に持ち帰ったという。

こうして二種類の『富士宮下文書』が甲斐に残り、保存されていたが、寒川神社のものは、後に水害に遭って亡び、甲斐・阿租谷に残ったものが、今日まで伝存しているものであるという。

更に、『神皇紀』によれば、第77代宮司となった宮下義興が14才の時、文久三年(1863)11月の事であるが、宮司家の居館が火災にあい、古文書も類焼の危険にさらされた。

義興は祖先の遺訓を守って、これを保守するため火中に飛び入り、古文書を持ち出したという。

その後、明治16年(1883)になって義興は、小室浅間神社の神官・宮下荘斉と相談して、文明開化の今日だから厳秘を命じた祖先の遺訓を破って、古文書の箱を開けてもよいのではないかとして、これを開封し、『富士宮下文書』は永い眼りからさめ、世の光にあてられることになったという。

現在、古文書を保存している宮下義孝氏にとって義興は四代前の先祖であり、現・小室浅間神社宮司の宮下荘一氏にとって荘斉は三代前の曽租父に当るという。

宮下義孝氏の家では、一族相図って、文書を永代保存するため、邸宅の一画に一間四方ほどの小さいながら堅固な土蔵造りの保存庫を造り、文書はこれにおさめられている。

 
『竹内太古史』
 
この文書は、太平洋戦争中、『記紀』にあらわれている伝説的人格、武内宿禰(孝元天皇の曽孫で景行から仁徳に至る五朝に仕えたといわれる)の65代目の子孫で、竹内赤地三郎衛門という人物の養子となった、茨城県磯原(今の北萩城市)の武内巨磨(おおまろ)によって、代々竹内家に伝存して来た神典として公にされたものである。

巨磨の実父は、庭田重胤という人物で、幕末に従一位大納言の位を朝廷から与えられており、しばしば、伊勢神宮へ勅使として派遣されたという。

母は、藤原奈保子といい、伊勢神宮の神官・従二位参議・大中臣光忠の娘であった。

奈保子は、明治八年、従者三人を連れて桜の花見に出かけた帰路、動機は不明だが、加賀前田家の家臣ら七人の暴漢に襲われ、従者二人を殺され、自分も自刃したという。

残された子供は長男の重正、次男の重文、三男の重直、四男の重蠻(しげたか)の四人で、この中の末子・重蠻が後の巨磨であったという。

巨磨は竹内家の養子になったことから、養父・三郎衛門に、竹内家伝来の神宝を相続され、世の中が平和になったら、これを天皇に御覧に入れよと遺言されたという。

後に巨磨は神宝に含まれていた『竹内文書』と神骨神体と呼ばれた神像76体の存在を世に公表した。

竹内家の伝説によれば、『竹内文書』は、はじめ、いわゆる神代文字(異体仮名)で書かれていたが、雄略天皇の時代に、勅令で、竹内宿禰の孫、平群真烏が五世紀ごろ漢字と普通の仮名とを併せ用いて、書き改めたといわれる。

いわゆる普通仮名の成立は、奈良時代以後であるので、この伝説はあてにならない。

真鳥は、武烈天皇の時代に国政を専断し、日本の国主になろうとしたとして、天皇氏の軍隊に討伐され、滅ぼされた。

竹内家の伝説では、神体は76体の他、もう2体あったという。一体は、崇神の代に、大和・笠縫神社(アマテラス降臨の地とされる)に、他の一体は、丹後、輿謝神社(今の龍神社又は元伊勢神社・伊勢トユケ神の元宮)に安置されたが、次の垂仁の代に、それぞれ、伊勢・五十鈴川の宮と山田の原宮とに遷祀され、これが内宮、外宮の由来であるという。

…田中勝也著「異端日本古代史書の謎」より

 
日本の学者らは、それらを偽書だとして無視する傾向にある。

しかしそれらはけっして偽書ではない。

ただ、それらが公表されるようになる過程において、官権による改竄がなされたために、信憑性の疑わしい記述が挿入されているのは事実だ。

 
これらは、いずれも由緒正しい家中に伝わってきた古文書である。

同じ時期に同じ場所で発見されたものではなく、それぞれ異なった年代に、かなりかけ離れた場所で見つかったものである。

 
これらの文書が公開されるまでには、官憲から我々の想像を遥かに越える干渉と圧迫があったであろうことは、言わずもがなである。

なぜなら、これらの古文書には例外なく「ウガヤ」王朝が神武王朝以前に存在したと明記されているばかりでなく、

それが73代続いていたという一致した内容になっているからである。

 
『上記』『竹内文書』『東日流外三郡誌』などなどの古文書の証言によれば、日本列島に進出した「ウガヤ=上伽耶」が、「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」を率いて、第一期ヤマト王朝をたてたのは、神武王朝より1200年以上も前、すなわち、今からほぼ3200年前のことだ。
 

アイヌは日本列島の原住民であることに、異議を挿む学者はあまり見受けられない。

この「アイヌ」は古代日本原住民の殆どであり、九州南部に若干の南方系種族がいたと思われる。

従って、この当時(紀元前1500−前1000年頃)の日本列島の住民は「古モンゴロイド」であったと言える。

ところが、ちょうどこの頃、地球の寒冷期があり、民族の大移動があって、北方アジア人が南下したのが、いわゆる弥生人の日本列島開拓だと考えられる。

中央アジアから大移動を始めた太陽信仰族の一部は、朝鮮半島の背骨といわれる太白山脈の東側(日本海側)をつたって、洛東江流域を通り、ついには日本列島に移動してきた。

これが弥生人であり、第一期ヤマト王朝を建てた「ウガヤ」の人たちである。

 
彼らは当然のことながら、アイヌよりは新モンゴロイドであったはずである。

彼らは、南・北九州一帯は勿論のこと、山陰・山陽地方の区別なく、だんだんと東北に進みながら、アイヌとの混血をしていった。

水田稲作の日本列島への伝来を、今から、3500年から4000年前と見る立場から判断すれば、伽耶族の渡来も、それと同じ時期だったと見るのが、自然である。

地球上のすべての民族に伝わる神話や伝承を見ると、上古の人類は、程度の差はあるが、皆「太陽」を神と崇めていたことがわかる。

なかでも、太陽を「ラ」と名付けたエジプト人は、王さまを太陽神の権化と信じていたし、インドの太陽国アユディアの王さまも「ラマ=太陽神」と呼ばれていた。

中国の建国神話に出てくる炎帝も太陽神であるのは周知のこと。

 

さて、今日の我々に「加羅=カラ」の名で知られている部族名は、前に述べたように「太陽」または「太陽の国」、あるいは「王さま」という意味の韓国古語である。

洛東江両岸の肥沃な地域に定着した加羅族(伽耶族)は、本家が統括する地域と分家が治める地域に区分され、本家のほうは「ウカヤ=上伽耶」、分家のほうは「アラカヤ=下伽耶」といわれていた。

韓半島南部で、本家の「ウカヤ=上伽耶」が都していたところは、今の慶尚北道の高霊(コリヨング)を中心とした地域にあたるが、またの名を、「弥烏邪馬国=ミオヤマト」といっていた。

「ミオヤマト」とは、「神聖で偉大なるヤマト」という意味である。

 
「ミ=弥」は、日本語でも、「神酒=みき」・「神魂=みたま」・「海神=わたつみ」と使われていることからわかるように、「神・神聖」を意味し、「オ」は「大」をあらわす。

次の「邪馬=ヤマ」は、『魏史』(倭人伝)に出てくる国号、邪馬台のそれと同じだから、その読み方に疑問をはさむ余地がない。

あとは、「国」をなぜ「ト」と訓むかだけが、問題としてのこる。

そこで思い出して頂きたいのは、「あなたの国はどこ?というときの「国」は、「生まれた土地」をさすということだ。

その「土地」や「跡」のことを韓国語で「ト」という。

『万葉集』に「跡」を「ト」と訓ませている歌が多いのは、周知のとおりだ。

これを踏まえて、日本の学者のなかには、「ヤマト」の語源は、「ヤマ=山」の「ト=処」だと言っている人も少なくないが、それはこじつけに過ぎない(『大日本地名辞書』「国号篇」参照)。

 

このようにして、「ウガヤ国」のまたの名「弥烏邪馬国」は、「ミオヤマト」と読むもので、その意味は「神聖で偉大なる太陽の本拠」であることがはっきりわかる。

つまり、「ヤマト=日本」の元祖は、伽耶の本家の「上伽耶=ウガヤ」であることが、明らかになった。

今まで日本の国号として知られていた「倭=ハ」を始め、「ヤマト」や、漢字で表記された「日本」も、すべてが「太陽の国=カラ(加羅)」という意味の言葉であることが、突き止められたわけである。

 
明治の著名な学者等が、「『日本』の国号は韓国に始まった」と喝破したのは、このことを指して言っていたのだ。
 
ちなみに、伽耶の分家である「アラカヤ=下伽耶」の数は、当然のことながら、年代が下がるにつれて増えていった。

したがって、韓国の史書には、「伽耶は、六つ(または五つ)の部族国家によって成立していた」と書かれている。

だが、じつさいには、その数、十あまりにのぽったと見え、『日本書紀』には、西暦532年以前に滅びたものが三カ国、そのあと562年までに滅ぼされたのが十カ国となっている。

また、伽耶琴を初めてつくった「ウガヤ=上伽耶」末期の楽師「ウルク」が、伽耶12国を歌に詠みこんで残していることからも、「アラカヤ=下伽耶」の数は、少なくとも12以上あったであろうことを推察できる。

 

そのような初期「アラカヤ=下伽耶」のなかで、もっとも強大な勢力をもっていたのは、今の慶尚南道の咸安(ハマン)地域に栄えた「安羅伽耶=アラカヤ」であった。

そして、「アラカヤ=下伽耶」のなかで、もっとも最後まで頑張っていたのが、「金海伽耶=キムヘカヤ」、つまり、『魏志』(倭人伝)に「狗邪韓国」と記されたところである。

 
この国は『日本書紀』(欽明二年条)には、「南加羅」と表記され、「アリヒシノカラ」と訓がほどこされているし、別のところでは「下韓」と書いて「アルシカラクニ」と訓ませている。

そのばあいの「アリ」または「アル」は、「アラ=下」がなまったもので、「下韓=アルシカラクニ」とは、いうまでもなく「下伽耶=アラカヤ」のことだ。

「下伽耶=アラカヤ」は、本家「上伽耶=ウガヤ」の南の方に位置していたことから、「南加羅」とも表記されていた。

 

韓半島における最後の「下韓=アルシカラクニ」は、今日の韓国では、「金官伽耶=クムカンカヤ」とも呼ばれているが、『日本書紀』に明記されているように、西暦532年に新羅に降伏している。

その「金官伽耶=クムカンカヤ」は、日本の皇室と密接な関係にあるが、そのことについては、あとで詳しく説明することにして、先へ進むことにする。

だが、その前に、ここでもう一つ西暦940年頃に編纂された『旧唐書』を覗いて、「ヤマト=日本」が、「ウガヤ=上伽耶」と「アラカヤ=下伽耶」を指す「倭」の名であることを確かめておこう。

 

『旧唐書』に、次のような記録が残されている。

『日本はもと小国だったが「倭」を併合した(大きくなった)』

日本は倭国の別種である。その国は日の辺にあるので、日本をもって名とした』

 
『旧唐書』にあるこのような記事は、「倭は日本の称号だ」とばかり信じている人々には、まったく不可解な謎であり、その意味を解明できた学者は一人もいない。

だが、「倭」と「日本=ヤマト」が、韓民族の自称であることに気が付けば、その解釈は、いとも簡単である。

 
すなわち、「小国だった日本が倭を併合して大きくなった」というのは、半島南部の狭い地域にあった『日本=ヤマト』、つまり、『ウガヤ=伽耶』が列島に進出して、当時「倭」といわれていた地域を併合して大きくなったという意味である。

今まで目隠しされたまま過ごしてきた日本人にとっては、びっくり仰天するような、信じ難い話だが、この史実は、「神武天皇以前の日本列島に、「ウガヤ王朝」が七十数代続いていた」と記録している『東日流外三郡誌』『上記』『九鬼文書』『竹内文書』『宮下文書』などが裏付けている。

 
ところが、『古事記』や『日本書紀』に見える日本建国神話によれば、神武天皇が東征に成功して、最初の都を定めたところも、「ヤマト」の橿原、すなわち、今の奈良県橿原市であった。

韓半島内に存在するウガヤ=上伽耶の、もう一つの名であるはずの「ヤマト」が、なぜ、記紀の神武神話に、傾国の土地として登場したのだろうか ?

しかも、『魏志』(倭人伝)によれば、「ヒミコは、邪馬壱(ヤマト)の女王だったが、西暦278年頃死亡し、その後を即(つ)いだのは、女王壱与(トヨ)である」と明記されでいる。

『魏志』(倭人伝)や記紀の記録が誤ったものだと言うなら、話は別になるが、それらが事実だと認めざるを得ない現状では、およそ西暦300年頃の奈良県内に、「ヤマト」という名の国が存在していたことを何人も否むことができないのだ。

 

奈良県にあった「ヤマト」と、韓半島にあった「ヤマト」、つまり、「ウガヤ=上伽耶」とは、どんな関わりをもっているのだろうか ?

それを調べる順序としてまず「ウガヤ」の建国時期から追求して行こう。

 

『古事記』や『日本書紀』は、「アマテラス大神」と「スサノオノミコト」は、同じ父母から生まれた姉弟だとしながら、姉のアマテラス大神は、「高天原」、すなわち古代ヤマト地方を治める一方、弟のスサノオノミコトは、「根の国」、すなわち、出雲の国を治めていたと記されている。

同じ記紀の記録のなかで、ややもすれば見過ごされやすい部分は、『アマテラス大神は、出雲の国のスサノオノミコトが、高天原に攻め込んでくるのではないか……と心配していた』というくだりだ。

 

だが、このようなアマテラス大神の、出雲の国に対する恐怖と憂いは、神代の話、すなわち、神武以前の状況を表現したものではない。

実際には、「国譲り神話」として記紀に伝えられている事件、つまり、大国主命から、出雲国を奪ったあとの第二期ヤマト政権の心理を描いたものである。

言い換えると、『上記』や『東日流外三郡誌』などの古文書が伝えるウガヤ王朝(上伽耶王朝=第一期ヤマト王朝)時代には、弟、すなわち、分家であるアラカヤ(下伽耶)は、文字どおり、「ハラカラ=一つの加羅」の認識が強く、共存共立の信頼関係が維持されていたのだ。

したがって、ウガヤ王朝は、「アラカヤ」を配下にもつ統一伽耶王朝だったわけである。

そのような「ウガヤ」と「アラカヤ」の、血族としての連帯関係を裏付けているのが、『日本書紀』の仲哀二年二月の記録だ。

それによると、「ウガヤ王朝」最後の王であった仲哀天皇は、即位した翌年の二月に、新妻をつれて、今の敦賀にでかけ、そこに行宮をたてて滞在していたという。

出雲国風土記の国引き神話にも明記されているように、能登半島は、出雲国、すなわち、「アラカヤ」の領域だったのだから、敦賀は当然のこととして「アラカヤ」の領内である。

もしも「アラカヤ」が「ウガヤ」と対抗関係にあったとしたら、「ウガヤ」の新婚ほやほやの天皇夫妻が、「アラカヤ」の領内に、行宮(かりのみや)をたてて滞在することなど、可能だったはずは毛頭ないのだ。

そのようなウガヤ王朝の成立は、水田稲作技術の波及と同じ歩調で進行したと考えなければなるまい。

『上記』や『東日流外三郡誌』のような古文書は、神武王朝以前の日本列島に、ウガヤ王朝が73代続いたと言う。

これは、一代を30年と見た場合、ほぼ、2200年に相当するから、ウガヤ王朝の創建は、今から4000年以上もまえのこととなる。

だが、古文書のなかには、神武王朝より1200年早かったと記しているものもある。

もしも皇室がいっているように、西暦1940年が、神武王朝が始まってから、二千六百年目にあたる年であるなら、ウガヤ王朝の成立は、それに1200年を加えて、今から3860年ほど前だったということになる。

 
だが、今では、終戦前の日本政府が吹聴していた「西暦1940年は皇紀2600年」説を信ずる古代史学者は、ほとんどいないし、日本政府が言っていた年数から、660年を差し引かなければならないと考えている学者のほうが多いのが現状のようだが、それはまちがいである。

私の場合、後でおいおい説明することになるが、ウガヤ王朝の滅亡時期は、仲哀天皇が殺された西暦362年だと考えているから、神武王朝は、今の皇室を、その正統な後継者と看做すばあい、1998年現在まで、ほぼ1636年間(1998-362年=1636年)続いているという計算になる。

それに、神武以前に73代、ほぼ1200年を加えると2836年前だったのだ。

 
つまり、第一期ヤマト王朝(ウガヤ統一王朝)の建国は、今からほぼ2836年前だったのだ。
 

1994年、縄文後期(今からほぼ3500年前)の岡山・津島遺跡、南溝手遺跡で出土した土器の中から、陸稲と見られる稲のプラントオパールが検出されたという。

稲を日本列島に持ち込んだ伽耶族が、水田稲作を吉備やヤマト地方で成功させたのは、第一期ヤマト王朝が建国された時期と前後しただろうと考えて、間違いはなかろう。

さて、神武天皇は、最初の都を橿原に定めたというが、第一期ヤマト王朝(ウガヤ王朝)の都は、どこだっただろうか?

 
有難いことに、この質問には、記紀が正解をあらかじめ準備しておいてくれた。

だが、せっかく準備されたその正解だが、それを理解するには、地名の語源を調べる必要がある。

では、しばらく頭の体操をして頂くことにしよう。

ちょっとした工夫、すなわち、

 
橿原(かしわら)の語源
 

まず、日本列島で起きた、最初の武力革命に勝利した第二期ヤマト王朝側の都、「橿原」の地名語源から調べるのが順序かも知れない。

『日本書紀』の神武東征記によれば、神武天皇の軍勢に手強い抵抗を最後まで続けた「ヤソタケル」は、ヤマトの高尾張にいた。

そしてその最後の砦(とりで)があったのが、磐余(いわれ)、今の高市郡である。

神武天皇は、ここでの決戦で最終的勝利を得たあと、畝傍(うねび)山の東南の地を橿原と名付けて都と定めたのである。

 

だが、地元の人は、第一期ヤマト王朝を倒してこの地に居座った神武の率いる軍勢を「今来=いまき」すなわち、新参者だと軽蔑した。

そのような理由から、神武の都「橿原=かしはら」は、しばらくのあいだ、「今来郡=いまきこほり」と呼ばれていたのだが、こんな事実を知っている人は、あまり多くないようだ。

 

なお、『古事記』には、「橿原=かしはら」が「白梼原」と記されている。

それに注目した学者らが、この地域の発掘調査をしたところ、このあたりに昔「白梼=いちいがし」の林があったことがわかった。

そんなことから、日本の学者は、「白梼=いちいがし」原が「橿原=かしはら」の地名語源だと考えているようだ。

しかし、「橿原=かしはら」の地名が、東征以前からあったのならいざ知らず、いやしくも、新しい王朝が生まれ、その最初の都の名を定めるのに、畝傍山に生えている木の種類名をもってしたと考えるのは、ちょっと味気なさすぎはしないだろうか ?

しかも、漢字がまだ日本列島に伝わっていなかった神武東征の頃に、樹の名などを漢字で表記できた訳がない

だとすれば、橿原の「カシ」は、樹の名だとするよりは、ヤマト言葉の表記に使われた当字だと見るほうが順当だろう。

そのような論理から、私は、その場合の「カシ」は、「尊い・偉い・最高」を意味するヤマト言葉だと考えている。

したがって、「カシハラ」とは、「カシ=最高の・尊い」+「ハラ=土地・ところ」、すなわち「最も偉い人の住む土地・首都」という意味で使われた地名だと見るのが正しい。

新しい王朝を始める神武天皇の都を「最も偉い人の住む土地・首都」と名付けたことは納得しやすい。

なお、「カシラ」が、「最高の者・首領・頭」を意味するヤマト言葉であることが、それをさらに裏付ける。

 
葛城(かつらぎ)の語源
 

今の奈良県に葛城という歴史の古いところがある。

皆さんのなかには、この地域のまたの名が、尾張(=おはり)であることを、知っておられる方もおられるはずだ。

その葛城は、第一期ヤマト王朝最後の王であった仲哀を、その妻の神功皇后と共謀して殺害した武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫が、蘇我一族と云う名のもとに、三百年間の栄華を欲しいままにした根拠地でもある。

 

『日本書紀』には、「蘇我の権勢がその絶頂にたっしていた頃、蝦夷大臣が、この地域の高丘宮に祖廟(そびょう)をたてたばかりか、天皇だけが舞うことになっている『やつら』を舞った」と記されている。

しかも、その父、馬子大臣は、推古天皇に「葛城の郷は、もともと私の本居であり、蘇我氏は、その地名をもっ
て葛城氏とも名乗ってきた故に、その地を私に払い下げてください」と申し出たが、天皇に断られたという。

そこで我々は、「なぜ蘇我一族は、葛城の地域にそれだけの執着をもっていたのだろうか?」という疑問にぶつかる。

しかも、『日本書紀』の景行天皇三年条によれば、武内宿爾が生まれたのは、紀国(きのくに)(今の和歌山県)となっているから、「葛城の郷は、もともと私の本居(うぶすな=生まれた地)である」という主張は、なおおかしいではないか?

だが、馬子大臣が葛城を蘇我氏の本拠地だと主張したからには、そこに何らかの裏話がありそうな気がしてならない。

 

いったい葛城にまつわる蘇我一族との隠された緑は何だろうか?

なぜ蝦夷大臣は、葛城の丘に祖先を祭る廟を建てたか? 

なぜ、祖廟を葛城の丘に建てた時に、天皇のみに許される『やつら』を舞ったのか?

なぜ、朝廷にまつろわぬ逆賊の呼称と言われる「エミシ」をもって自らの名としたのか?

──などなど、葛城と蝦夷大臣にまつわる疑問は、次から次に湧いてくるばかりだ。

そこでまず、葛城の地名から、謎を解く糸口を探して見よう。

 

葛城のまたの名は、尾張、あるいは高尾張とも言っていた。

先に挙げたように、『日本書紀』の神武東征記によれば、神武天皇の軍勢に手強い抵抗を最後まで続けた「ヤソタケル」は、ヤマトの高尾張(たかおはり)にいた。

つまり、第一期ヤマト王朝の根拠地がまさにこの葛城だったのだ。

そしてその最後の砦があったのが、磐余(いわれ)、今の高市郡だ。

 
第一期ヤマト政権の主人公は、加羅の本家である「ウガヤ=上伽耶」だった。

神武天皇は、「ウガヤ=上伽耶」を倒して、自らが拓いた新しい王朝の都を、「天皇の住む所」という意味で、「橿原=かしはら=尊い土地」と名付けた。

なれば、「ウガヤ=上伽耶」の人々は、彼ら自身の本拠地を、なぜ「葛城=かつらぎ」と名付けたのだろうか?

 

その解答を得るには、まず、「葛城=かつらぎ」の「かつ」が、「葛」と記された漢字の韓国音読であることを見抜かなければならない。

「葛」の韓国音を仮名で表記すると「カル」となる。

ところが、漢字の「日=ニル(イル)」・「達=タル」などの韓国音は、日本語では「にち・につ」・「たち・たつ」になる。それと同じ音韻変化法則によって、韓国音の「カル」は、日本語では「かつ」と発音されたのだ。

ちなみに、この「かつ」は、年代が下がるにつれて、母音交替をおこし、「くづ(くず=葛)」・「かど(葛野=かどの)」などとも発音されるようになったことを、『大日本地名辞書』で確かめることができる。

さて、現代韓国語では「カル」と発音される「葛」だが、記紀や 『万葉集』が編纂される以前の韓半島では、「カラ」という韓国語を表記するために使われていた。

たとえば、『三国時期の吏読に対する研究』によると、前期新羅時代に、王位に登らぬままなくなった王族には「葛文王」の名を追封して、「カラモン王」と発音していたし、同じく前期新羅時代の地名「葛谷」は「カラシル」とよばれていた。

このようなことがわかると、「葛城=かつらぎ」の本来の発音は「カララギ」であったことを突き止めることができる。

その場合の「葛=カラ」は、もちろん「加羅(伽耶)」に対する当字である。

そして、「かつらぎ」の「ら」は、「ハ=大きな・広い」+「ラ=場所・土地」「ハラ=原・広い場所・大きな土地」の場合に使われた「ラ」と同じで、「場所・土地」を意味する接尾語だ。

さらに、古代韓国語で「城」のことを「キ・サシ・サ」と言うが、日本語でも同じだ。

これを総合すると、葛城の語源は、「カララキ→カルラギ→カツラギ=加羅の土地の城」という意味であることが浮かび上がってくる。

つまり、第一期ヤマト王朝、すなわち、加羅の王城のあったところだから、葛城と呼ばれていたのだ。

その事実をさらに裏付けるのが、「おはり=尾張」という、この地の別名で、「お」に尾の字を宛てたのはあやまりなのである。

このばあいの「オ」は、「大きい・上・本」を意味するもので「う=上」の母音交替形である。たとえば、岐阜県の方言では「本家」のことを「おりいえ」と言うし、淡路島でも「母屋」のことを「おりえ」と言う。

「大人=おとな」を、記紀・万葉時代に「うし」と呼んでいたことは周知のとおり。

「おはり」の「はり」は、「はら=太陽・太陽の土地」から母音交替した形で、先に述べたように「カラ=太陽・太陽の土地」の原形である。

つまり、「おはり」は「うはら=おはり」と変化したものであり、その意味は「うはら=うから(上加羅)=ウガヤ」で、「加羅の本家」のことだったのである。

その「おはり=尾張」を「たかおはり=高尾張」とも呼んだのは、「たか=高い・尊い」+「おはり=うはら=うがや」「尊いウガヤ」という意味の敬称に由来する。

「ウガヤ」が、韓半島では「ミオヤマト=神聖で偉大なるヤマト」と呼ばれていた事実は、日本列島で「高尾張=尊いウガヤ」と呼ばれた由来を証言していると言えよう。

このような地名語源は、神武東征が行なわれた当時の葛城の地が、「ウガヤ」最後の都だったことを物語ってくれる。

 
斑鳩(いかるが)の語源
 
日本の学者のなかには、この地域に、昔、「いかるが」と呼ばれる鳥が多く住みついていたから、この地名がつけられたと言う方もいるようだが、そのような話は、冗談の部類に属するとしか言いようがない。

「斑鳩」は、「山鳩=やまはと」の漢字名である。

したがって、本来ならば、「やまはと」と訓まなければならないのに、なぜ「いかるが」と訓んだのか?を解いてゆかなければならない。

そこで、皆さんに、まず思い出して頂きたいのは、「隼人=はやと」である。

「だしぬけに隼人(はやと)を思い出せとは……?」と訝しがる方もおられるだろう。

だが「隼人」は元来、「隼=はや」+「人=ひと」やひと」と読むへきなのに 実際には「はやと」と訓むことに 誰も異存をはさまなし「斑鳩」の場合も、本来ならば「山鳩=やまはと」と発音されるべきだが、「は行音」の脱落により、「やまと」という言葉の表記に使われたのである。

 

つまり、「斑鳩」は、「ヤマト」を表記するために使われた当字なのである。

だとすると、当然ながら、「なぜそれを(いかるが)と訓むようになったのか?」という疑問が湧いてくる。

 
そうなると、「うごく=動く」を「いごく」と発音する方言の出番だ。

すなわち、「うごく」を「いごく」と発音するのと同じ母音交替が起こつた結果、「うから=上加羅(ウガヤ)」は「いかる」と発音されるようになったのである。

その「いかる」に、「すみか=住みか」・「ありか=在るところ」に使われたのと同じ「か=ところ・土地」が結ばれて成立したのが、「いかるが=ウガヤの地」である。

 
つまり、「いかるが」は、「ウガヤの地=ヤマト」であったわけである。
 

「いかるが」が「ヤマト」の別名であることをさらに裏付けるのは、『和名抄』・『霊異記』などの資料である。

それらの記事を総合すると『斑鳩は平群郡(へぐりこおり)の夜摩郷(やまのさと)である。斑鳩は、鵤(いかるが)とも表記する』となっている。

その「夜摩郷」こそ、とりもなおさず、『古事記』や『日本書紀』に記された「夜麻止・野摩等・夜麻登=ヤマト」であること、あまりにも明らかだ(『大日本地名辞書』参照)。

 
私は、この斑鳩は、「ウガヤ=ヤマト」が、葛城に遷都する前の都だったのではなかろうか?と考えている。
 
『魏志』(倭人伝)に、「投馬国(出雲)から、女王ヒミコが都としているところまで行くには、水路で十日行ったあと、さらに陸路で三十日かかる」と記されている。

そこが、「夜摩郷」、すなわち斑鳩であったのだ。

つまり、『魏志』が編纂された三世紀後半には、魏の使節が、ここまで足を運んでいたことを知り得るのである。

 
なお、「ウガヤ」には、斑鳩以前に、最初の都としていたところがあると思われる。そこが、飛鳥(あすか)だ。
 
飛鳥(あすか)の語源
 
先に述べてきたように、「ウガヤ」が統一加羅王朝、すなわち、第一期ヤマト王朝を建てた時期は、今からおよそ2800年前頃のことであったと思われる。

この数字は、現在の西暦年数から、ウガヤの最後の王、仲哀天皇が殺された西暦三六二年を差し引いた数字に、神武王朝以前に千二百年間続いたという「ウガヤ王朝」の暦年を加算した数字だ(1998-362+1200=2836 ほぼ2800年)。

 

その時から、神武東征が始まったときまでの1200年間、「ウガヤ」の都は、少なくとも三度替わったのではないかと考えられる。

そして、彼らが、最初の都に定めたところは、飛鳥だった可能性が高い。

私がそのように推定する根拠は、大陸における韓民族の建国時期と、その最初の都の名である。

 
三国遺事によれば、古代朝鮮の建国について、親書には、およそ次のような記録が残されているという。

【尭が即位したのと同じ時期に、檀君王倹と称する人が、「阿斯達=アサタル」に都を定めて国を創建し、朝鮮と号した】

中国の歴代年表によれば、尭帝の即位は、紀元前2357年である。

つまり、朝鮮の建国は、西暦に2357年を加えた年だということだ。

さらに、同じ三国遺事には、「韓国の古文書によれば、檀君王倹が即位したのは、尭帝の即位から50年あとだったと記されている」と添え書きがされている。

いずれにしても、ここで我々が注目しなければならないことは、二つだ。

まず第一は、古代朝鮮の建国時期が、今からほぼ4300年前であり、それは加羅族が、日本列島に進出したときより、およそ1000年前だということ。

第二には、朝鮮最初の都の名が「アサタル」であったこと……である。

韓民族最初の都だった「アサタル」は、松花江沿岸にある旧満州の「ハルビン」地域だと推定される。

そのような判断は、後日、彼らが同じ松花江沿岸の「扶余=ブヨ」に遷都し、扶余の名が、今も、そこの地名として残っていることで裏付けられる。

このようなことから、中国の東北部、今の黒竜江と松花江の流域に産声をあげた韓が、海をへだてた日本列島に国をたてるまでには、およそ1000年の月日がたったことを知ることができるのだ。

我々は、そのように長い月日がたったにもかかわらず、韓は、日本列島においても、最初の都の名を、中国大陸で命名したのと同じ意味の「アサカ」としたことを見逃してはならない。

「アサカ」とは、「アサタル」と同じく、「光輝くところ=非常に良いところ」という意味だ。

もう少し具体的に説明しよう。

この場合の「アサ」は、「あざやか」の「あざ」と同じ語源であり、日本語の「あさ=朝」・韓国語の「アザギ=朝」とも通じる言葉なのである。

韓民族の国号を、漢字で「朝鮮」と表記するのは、ずばり「アサタル」に由来する。

その場合の「タル」は、「カ」と同じく、「土地・ところ」という意味だ。結局、「アサタル」と「アサカ」は、ともに、「光明の土地・非常に良いところ」という意味でつけられた地名で、太陽信仰に徹底した民族の特徴が躍如とする命名であることがわかる。

その「アサカ」は、年代が下がるにつれて、母音交替をおこしたので、現在の「アスカ」に変化した。

だが、「アスカ」を「明日香」と表記する場合もあることから、もともと「アサカ」と言われていたことを知り得る。

言い換えると、「アサ」と「アス」が同じ語源の言葉であることは、「朝」と「明日」は、古くから、ともに、「アシタ」と言われていたことで立証できる。

 

先にも指摘したように、太陽信仰に徹していた加羅族は、彼らが定住しようと心に決めた土地には、いつも「アサタル・アサカ・アスカ・アス」の名を好んでつけた。

『大日本地名辞書』をちょっと覗いただけでも、次のようなところが目に飛び込んでくる。

 
アス(阿須)……………………対馬
アス(阿須)……………………武蔵
アスカ(飛鳥・明日香)………大和
アスカ(飛鳥)…………………河内
アスカ(飛鳥)…………………美濃
アスカ(飛鳥)…………………羽前
アスカ(飛鳥)…………………陸奥
アスカ(安宿)…………………河内
アスカ(安宿)…………………安芸
アサカ(安坂)…………………信濃
アサカ(阿坂)…………………伊勢
アサカ(浅香)…………………和泉
アザカ(呰鹿)…………………伊勢
アサカ(安積)…………………岩代
アサカ(浅嘉)…………………武蔵
 
ちなみに、「アスカ」・「アサカ」を「安宿」・「安積」などと表記するのは、その文字の音借だが、「飛鳥」 の表記は、訓と音を混用したものだ。

ところが、「飛鳥」をなぜ 「アスカ」と訓むのかについては、日本の学者のあいだに、いろいろと面白い学説が乱れ飛んでいる。

たとえば、本居宣長は、『(アスカ)を(飛鳥)と表記するのは、「飛ぶ鳥の明日香」と歌に詠まれたことに由来する』と言うが、それは、後で説明するように、本末転倒と言わなければならない。

また、ある学者らは、『「アスカ」と言う鳥の名に由来する』とも言っているが、なぜ鳥の名をもって、そのところの地名にしたのかについては、口を閉ざしている。

「飛鳥」の「飛」を「ア」と訓ます正しい根拠は、「ア」に「高い・上」の意味があるからだ。

「あたま=頭」・「あがる=上がる」などに使われる「ア」が、それである。

また、「鳥」の韓国訓は「サ」だが (現代韓国語では(セ=州))、日本の音読では「チョウ」のほかに「シャク」または「サク」ともいう。したがって、「飛鳥」と表記して、訓読の場合は「アサ」となり、訓音混合の場合には、「アシャク」・「アサク」と読むことができることがわかる。

そうなると、「安宿」の場合、「アシュク」と読むべきを「アスカ」と訓み、「アセキ」と読むべき「安積」を、「アサカ」と訓むのと同じ理由で、本来なら「飛鳥」は「アシャク」または「アサク」と読むべきだが、母音交替した形の「アスカ」を表記するために使われたことを突き止めることができるのだ。

「アスカ」を「明日香」と表記するようになったのは、「飛鳥」より年代が下がってからのことだからこそ、「飛ぶ鳥」という詞は、「明日香」を思い起させるための歌詞 (うたことば=枕詞)として使うことができたのである。

 

こうして、「飛鳥」は、「ウガヤ王朝」の都のあったところであることが明らかになった。

このあたりで、蝦夷大臣は、なぜ葛城の丘に祖先を祭る廟を建てたか?

なぜ、祖廟を葛城の丘に建てた時に、天皇のみに許される『やつら』を舞ったのか?

なぜ、朝廷にまつろわぬ逆賊の呼称といわれる「エミシ」をもって自らの名としたのか?を解いてみることにしよう。

 

蘇我一族は、その出自から深い霧につつまれている。

なぜなれば、『新撰姓氏録』によれば、蘇我氏は、武内宿禰の子孫となっているが、その武内宿禰なる人物自体が、謎だらけだからだ。

 
武内宿禰は、景行天皇三年二月に生まれて、仁徳天皇の時代まで、300歳の長寿をしたばかりか、『新撰姓氏録』に載っている27姓氏の始祖となっていることから見ても、実在した、個人の名でないこと明らかである。
 
日本の学者らも、武内宿禰の素性について、いろいろな学説を発表している。

岩波書店発行の『日本書紀』上巻、595ペ=ジ、補注7−三に、その詳しいことが記されているが、そのなかでもっとも有力なのは、『武内宿禰なる人物像は、七世紀前半以降に作られた架空のもので、その属性の特徴は、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」として描かれている』という説だとしている。

 

要するに、武内宿禰は、個人の名ではなく、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」を象徴化して指す呼称なのだ。

しかし、そうなると、二つの疑問が湧いてくる。

その一つは、記紀には、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」が一人や二人ではない。

とすれば、そのなかのどの部類に属する人を、特に「タケウチノスクネ」の名で呼んだのか?である。

二つ目の疑問は、仁徳朝以降の『日本書紀』にも、「大臣、または、天皇の側に仕える忠臣」の数は、決して少なくない。

にもかかわらず、仁徳朝以降に「タケウチノスクネ」と呼ばれた人は一人もいない。

それは、どうしてか?である。

「タケウチノスクネ」の「タケウチ」は、「尊氏=尊い氏族の人」という意味であり、「スクネ」は、「(スク)+(ナ)=スクナ」の母音交替形である。

「スクナ=スクネ」は、「スガ(須賀)」の「ナ=土地・国」、つまり、「須賀国」ということだ。

その「須賀国」とは、「スサノオノミコト」によって、「スガ=須賀」と呼ばれるようになった、出雲国である。

 
結局、「タケウチノスクネ」とは、「須賀国の尊い氏族の人」という意味の呼称であるから、他地方の人には、その名で呼ばれる対象はいなかったのだ。

疑問第二に対する正解は、仁徳朝以降は、「タケウチノスクネ」のかわりに、同じ意味をあらわす「ソガノスクネ」の名が使われるようになったからだ。その「ソガ」は、「そ=高い・聳える・そそりたつ」+「か=家中・氏族」「そが(そか)=高い氏族(尊い氏族)」のことで「タケウチ」と同じ意味なのだ。

なお、その場合の「か(が)」は、現代韓国語の「朴カ=朴氏族」・「金力=金氏族」に使われる「カ=氏族」と同じであること、言うまでもない。

こうして見ると、「タケウチノスクネ」と「ソガノスクネ」は、まったく同じ意味をあらわすために作られた姓氏であるから、「タケウチノスクネ」に替わる「ソガノスクネ」の名が、仁徳朝以降に登場したことを知るのだ。

さて、蘇我一門の三百年にわたる栄華は、「ウガヤ王朝」の滅亡と密接に絡み合っている。

したがって、蘇我一族にまつわる謎を解くには、「ウガヤ王朝」最後の王であった仲哀天皇のことを調べなければならないが、

まず、「ウガヤ王朝」衰退の歴史を振り返っておくことにしよう。

 

太古の日本列島に流入した種族のなかで、「北西からの人々」は、「オロ族」や粛慎族と呼ばれる群れである。

彼らは本来同じ民族で、後日、高句麗を建てた人々の遠い祖先でもある。

そのなかで、大陸から切り離された日本列島に、後世まで引き続き大きな影響を及ぼしたのは、「オロチ=オロ族」と呼ばれた部族であった。

 
粛慎(しゅくしん)族は、太古のロシア沿海州から中国東北地方の広大な大地を領域とし、黒龍江省と吉林省の両省は古代には『粛慎(しゅくしん)地』、漢代には扶余地と呼ばれたという。

越国に移住したツングース族の中心分子は、粛慎に当たる。

粛慎の名称は、隋・唐時、先秦時期に東北地方に居住した民族を呼称する総称である。

8世紀、粛慎の子孫、靺鞨族が台頭し始めた。

靺鞨人は、元々黒龍江流域に在住し、温暖な地を求めて、朝鮮半島の高句麗に進入した。

北海道、又は日本東北地方に移住した者は粛慎と称され、高句麗に移住した者は靺鞨と称された。

「オロチ」とは、「オロの人」という意味だが、岩手県の方言では「オロッペ」、仙台方言では「オリベ」と言う。その「オロッペ」・「オリベ」の根拠地は、越の国だったから、「越中ふんどし」のことを、今でも「オロッペふんどし」・「オリベふんどし」と言う。

越の国が、彼ら「オロチ」の根拠地になったのは、沿海州や韓半島北部に住んでいた彼らは、船に乗ると、北上する対馬暖流の影響で、ほとんどの場合、能登半島に到着したからである。
 
年代がさがってから、大陸のその地域に建国した勃海国からの使節は、「博多から入国してくれるように……」
という、日本朝廷の重なる要請があったにもかかわらず、難破した船の乗組員までが、能登半島に漂着した。

やがて朝廷も、そのやむをえない実情を了解せざるをえなくなり、桓武天皇時代の西暦804年には、能登国に勃海使を迎えるための能登客院をたてた事実があるほどだ。

 
しかし、後世のような国交があったはずのない「ウガヤ王朝」の時代には、能登半島から上陸してくる「オロチ」は、頭痛の種そのものだった。

そのときの記憶を、『上記』は、およそ次のように記録している。

 
第四代ウガヤ王56年、(こしのくに)に、オルシ国王(アカスヒテ)の使者(ユテル)が、大きな船にのってやってきて、穀物を差し出すよう強要した。

それから三年後の59年に再びやってきて、その時も糧穀を要求した。

明くる年の60年には、オルシ国王(アカスヒテ)が、みずから三千の兵力を率いて侵入し、穀物を毎年貢ぐよう強制したので戦いになり、ウガヤは、オルシ国王を生け捕って追放した。

第五代国王の時には、オルシ国の(クリクノ)なる者が、皮船にのって、(はくいこほり=羽咋郡)に到来し、稲穂を掠奪して逃げた。

その後、オルシ王(キカザユズテレ)が大船百隻を率いて佐渡島を侵略した。

(キカザユズテレ)は、その後(こしのくに)に上陸したが、撃退された。第37代王のときには、オルシ王(コムリキ)が、大船50隻を率いて(こしのくに)に侵入し、その時も糧穀を要求した

 
この記録に見える(オルシ)は、「オロチ」の音韻変化形であること、二言を要しない。

隠岐島に伝わっている『伊未自由来記(いみじゆらいき)』にも、およそ次のような記録が残されている。

 
隠岐島は、もと小斯凝呂島(おしころしまと)と呼ばれていたが、それは「小さな島の集団」という意味だった。

なぜなれば、北に大きな島があって、於母島(おもしま)と言い、南には、三つ子島と呼ばれた三島からなりたっていたからである。

出雲の国が『於漏智=オロチ』に奪われてから、小斯凝呂島へも彼らが襲来して、財宝を奪ったり乱暴をしたりしたので、三つ子島の人々は、於母島へ逃げ移った。

すると、(於漏智=オロチ)たちは、於母島の東の大津を襲うようになった。

三つ子島は完全に占領されたが、於母島は、長い間の苦戦にもかかわらず何とか守ることができた。

しかし、三つ子島に居座った(於漏智=オロチ)の勢力は日増しに強くなっていった。

元来、(於漏智=オロチ)は、鉄を生産して、それをもって、鎧兜や盾と剣をつくっていたから、数は少なくても、戦いには強かった。

隠岐島で米作が始まったのは、この頃である……

 
このような『上記』や『伊未自由来記』の記録は、

穀物の栽培が難しい、寒い地方に住んでいる「オロ族」が、すでに稲作が始まっていたウガヤ王国に度々侵入して、食糧を強要・強奪していったようすを、克明に伝えてくれると同時に、「オロチ」が製鉄の技術をもっていたことを強調している。

そして、そのハイライトが、ほかならぬ「オロチ退治神話」である。

記紀にあるその神話の内容をわかりやすく整理すると、ざっと次のようである。

「スサノオノミコト」が、韓から新羅を経て、出雲の斐伊川のほとりまで渡ってきた。

そのとき、彼は、「こしのくに」から、ヤマタ(大勢)の「オロチ」が、毎年同じ時期にやってきて、斐伊川流域で水稲作をしていた人々が、娘のように大事に育てた稲を、強奪してゆくという苦情を聞いた。

そこで彼は、計略を用いて「オロチ」を退治することに成功し、人々を「オロチ」の乱暴から救いだした。

このとき、「スサノオノミコト」の刀は鋼製であったために、「オロチ」のもっていた鉄製の剣にふれて、刃こぼれがした。

そのときに、救出された娘の名は「クシイナダ姫=非常に良い稲田の娘」である。

「オロチ」がもっていた鉄製の剣は、貴重なものであったから、「スサノオノミコト」の五代孫(または六代孫)の手によって天照大御神に差し上げられた。

このような「オロチ」との戦いの記録は、皮肉にも「ウガヤ」の勢力が、次第に衰退してゆく姿を描いている。
 
なぜなれば、まず第一に、「オロチ」を屈伏させたのは、「ウガヤ」ではなく、出雲国の名を「スガ=須賀」に改名させた「アラカヤ」の「スサノオノミコト」だったことと、

第二には、「ウガヤ王国」には、鉄製の剣がなかったので、「スサノオノミコト」が「オロチ」から手に入れた草薙剣は、天皇家の手に渡り、国の三大神器の一つとなったというからだ。

つまり、その剣は、「オホクニヌシの国譲り」のときに、滅ぼされた「アラカヤ」の手から、第二期ヤマト政権(熊信仰族)の手に渡ったのである。

そのことは「スサノオノミコト」の五代孫(または六代孫)の手によって天神に捧げられた、と記している『日本書紀』が立証してくれる。

 
今日、天皇の即位儀式に欠かせない、もっとも重要な手続きが、このときの草薙剣の伝授であることは、皆さんも周知のはずである。
 

このように、新しい文明は、海の向こうから出雲地方に上陸したことによって、出雲の「アラカヤ」は先進国になる一方、

東の「ウガヤ」は、新しい文明の波にとり残される後進国に成り下がっていった。

これが「ウガヤ王朝」の衰退に繋がったことは言うまでもなかろう。

 

記紀に見える神話のなかには、現実に在った事実が、編纂する側の、ありのまま記述することを避けたい隠密な事情のために、ことさら神秘化された例が、かなりある。

なかでも、天皇家の先祖が韓から海をわたってきて、今の鹿児島県川辺郡にある笠沙の浜に上陸した事実を隠すために、でっちあげられた高千穂峯の天孫降臨神話と、

「スサノオノミコト」が、韓から新羅を経由して、今の島根県の斐伊川河口に上陸したあと、「オロ族」との戦いで勝利を収めた事実を神秘化した「オロチ退治神話」

それに、「スクナヒコナ神」が、新羅から帰ってきたときのことを記した神話は、

その三大傑作と言うべきものである。

 
さて、記紀に「スクナヒコナ神」の名が初登場するのは、大国主命(オホクニヌシノミコト)が、島根県の稲佐浜(いなさのはま)で、「海の向こうから帰ってくる神」に出会うシーンである。
 
記紀によれば、「オホモノヌシノミコト」や「タケミカヅチノミコト」が上陸(降臨)したところも、この稲佐浜である。

日本の学者は、もろもろの神が、この地に上陸した理由として、ミアレ=神の誕生」の地であったからだと説明してはばからない(岩波書店の『日本書紀』ページ参照)。

「神の誕生する地」というすばらしい表現には、思わず微笑を誘われるが、どう見ても、学者の科学的説明とは受けとめ難い。

 

それは、実際に、稲佐浜が「神の誕生する地」になる所以は、こうである。

まず、国譲り神話の「タケミカヅチノミコト」が、稲佐浜に上陸したのは、砦のような中国山脈に囲まれた出雲国を、陸路から攻略することができなかったために、第二期ヤマト政権側の水軍が、瀬戸内海から日本海へ迂回して、出雲国の心臓部と言える出雲市の背後から、奇襲上陸作戦を敢行したからであった。

また、「オホモノヌシノミコト」は、「オホクニヌシノミコト」とも言われる神だが、「オホアナムチノミコト」の別名の一つである。そしてその「オホアナムチノミコト」は、韓神、すなわち、韓半島から渡来した神だと、国語辞典を含むもろもろの辞典に解説されている。

と言うことは、「オホモノヌシノミコト」や「スクナヒコナ神」のように、韓半島から渡来する神々(人々)は、韓半島から出航した船が、北上する対馬暖流の影響で、稲佐浜が寄り付きやすい地域であったために、ここに上陸したのである。

 
そのようなことを知らないはずのない日本の学者らだが、良心の目をつぶって、「稲佐の浜は(神々の誕生の地)だ」と、青少年たちに真実を教えないまま今日に至っているのが現状である。

だが、情報伝達手段の多様化と普遍化が特徴となる21世紀には、そのような目隠し教育は、もはや通らなくなること必定だ。

世界を一つにつなぐ、あらゆる情報ネットワークのおかげで、嘘の教えから真実に目覚めるようになる日本の青少年たちは、日本国民を愚民政策で愚弄してきた皇室や、その周囲で、権力にしがみつきながら、二千年の長い間、嘘の教育を強要してきた政治家と学者等を、どのような目で見るだろうか〜

日本の指導者は、今のうちから、などの読み直しをしておく必要があるのではなかろうか?

 
それはともかく、目下我々の関心は、「スクナヒコナ神」は、どのような素性の神だったのか?にある。

その謎を解く鍵は、「海の向こうから帰ってきた」という記録から、たやすく見いだすことができる。

「海の向こう」とは「海の向こうにある国」という意味だが、島根県から見る海の向こうには、韓の新羅国があった。

なお、その「スクナヒコナ神」は、もともと新羅の人ではなく、出雲国(島根県)から、新羅へ出掛けていた人であることも、「帰ってきた」という表現で察知できる。

しかも、記紀によれば、地元では、彼のことを覚えている人がほとんどなく、古老の証言で、やっと、彼が出雲生まれの男であることが判ったという。

つまり、彼が韓に渡ったのは、遠い昔のことなのだ。

 
そこで、こんどは、韓側の伝説を調べて見る必要がでてくる。
 
さっそく『三国史記』と『三国遺事』を覗くと、そこには、「海の向こうから船にのって渡来した男」の話が、それも、記紀のそれより、いっそう具体的に記されているではないか!

それは、新羅第四代目の王「昔脱解=スクダルヘ」にまつわる、およそ次のような内容の伝説である。

新羅の第四代王「昔脱解=スクグルヘ」は、もともと、海の向こうからやってきた少年である。

大きな方舟(はこぶね)にのってきた彼は、初め、今の金海地方にあった金官伽耶に着いたが、そこに上陸することを嫌い、最終的には、新羅の、今の迎日湾の浜に上陸したという。

そのとき彼は、「私は、(倭)の東北千里にある多婆国の王子だが、私に危害を及ぼそうとする者どもの手を逃れてここへきた」と言った。

多婆国は、またの名を花厦国とも言う。

韓半島から見た(倭)は、九州に始まる。

九州から東北へ、韓国の尺度で千里(四百キロ)行くと、そこは出雲の国だ。

そうなると、倭の多婆国は、丹波を表記したものであり、花厦は、「ハハの国」といわれていた出雲国のことである可能性が高いではないか?

 
ここで読者の皆さんには、出雲は、「スサノオノミコト」によって、「スガ=須賀」と呼ばれるようになったという記紀の記録を思い出して頂きたい。

その「スガ」の母音交替した形が、「スク」であり、それを漢字で、韓国音表記すると「昔=スク」となる。

つまり、「スクナヒコ」とは、「スク(昔)」+「ナ(土地)」+「ヒコ(彦)」「スクナヒコ=昔国の男=須賀国の男」のことであることがわかる。

一方、彼の韓国名「スクグルヘ」の「ダル」は、「ナ」と同じく「土地・国」のことであり、「へ(訓)」は「日」で、太陽信仰族が「人」をさして言う言葉である。

たとえば「アヘ」は「こども」のことであり、「アンヘ」は、「内の人・家内」のことだ。

最後に、「スタナヒコナ」の語尾に使われた「ナ」は、所有代名詞「の」の母音交替形で、「カカタ=あちらパ方=彼方」・「コカ夕=こちらパ方=此方」に使われた「ナ」と同じ言葉である。

 
こうして見ると、「スクナヒコナ神」とは、「須賀国の男の神」であることが明らかになる。

学問の神様として祭られている「菅原道真=すがはらみちざね」の先祖は、垂仁天皇の時代に、埴輪を作らせるために出雲から動員されて上京した、出雲の土師(はにし)であったことから、長い間「土師氏」を名乗っていた。

それが、西暦781年以降、土師宿禰古人(はにしのすくねのふるひと)の要請により、先祖の出身地である「スクナ=須賀の土地=菅原」の名をとって、「菅原氏」に改姓することを許されたことは、皆さん周知のことだろうから、出雲が「スガ=須賀」の地であることは、納得されやすいだろう。

「スクナヒコナ神」は、なぜ新羅から帰ってきたのだろうか?

 
それを知るためには、まず、「スクナヒコ」は、個人の名前ではなく、「須賀国の男」という語源が示すとおり、「須賀国の血筋の男」に対する総称であることから確かめておかなければならない。

こうなると、読者のなかには「ハ、ハーン……!」と領く方も多いはずだ。

そう、その通り。「スクナヒコ」の「スクナ」は、「武内宿禰」や「蘇我宿禰」の「スクネ」と同じ意味で、ともに、「須賀国」を指す言葉なのである。

 

前記の三国史記』や『三国遺事によれば、「スクナヒコ」は、新羅の始祖、朴赫居世(パクヒョコセ)が即位(紀元前57年)してから39年目の、紀元前18年に新羅に渡来した。

聡明な青年に成長した彼は、二代目の南海王の娘婿になり、62歳の時には、先代王の遺言によって、四代目の王位に登った。

その後、彼の子孫は、第9代から第16代までのあいだ(第13代を除いて)、前後8代、172年の間、新羅の王権を掌握していた。

ところが、西暦356年には、太陽信仰族から熊信仰族に宗旨替えした金奈勿(キムナムル)に王権を奪われることになり、そのとき以来、新羅は「金氏=キムし=熊族」王朝に変革されたのである。

始祖以来、ずっと「朴」と「昔」であった新羅国王の姓氏は、金奈勿王以来「金」に替わってしまった。

この時の王姓革命について、三国史記は、「第十六代の王に子供がいなかったから……」と、さりげない記述をしているだけだが、それは、新羅史の編纂が、金氏王家の手でなされたからで、本当は、この時から、新羅も熊信仰国となったのである。

 

ここまで読んだ読者のなかには、首を傾げる方もおられるだろう。

 

神功皇后の三韓征伐という笑い話まででっちあげた記紀の編纂者であるにもかかわらず、韓国では(スクダルヘ)、記紀では(スクナヒコ)と呼ばれる(須賀国の男の神)が、新羅の昔氏王家の始祖となった大事件については、たったの一言も触れようとしないのは、どうしてだろうか?

その質問に対する正解は、こうである。

記紀は、自らも「オホ氏」でありながら、壬申の乱によって政権を奪取したあと、「オホ氏」を裏切った天武天皇の指示によって編纂された。

自分の子孫が治めるべき国は、「オホノクニ=須賀国」、つまり「アラカヤ=安羅伽耶」に限られるのではなく、「ウガヤ=上伽耶」をも含む「ヤマト国」でなければならない。

その「ヤマト国」の権威を維持するためには、「偉大なるオホノクニ」の歴史は抹殺しなければならない……という天武天皇の意志を実現したのが、記紀であったのである。

したがって、新羅の王権まで掌握していた輝かしい「須賀国の歴史=多氏古事記」は、天武王家の手で抹殺されたのだ。

しかし、後世の我々にとって幸いなことには、輝かしかった「須賀国」の片鱗を伝えてくれる『出雲国風土記』が残されている。

 

『出雲国風土記』は、西暦722年、朝廷の命令を受けて編纂に着手したが、完成したのは西暦733年、ざっと20年もあとのことである。

このことは、着手から編纂が終わるまで、ほぼ30年もかかった『古事記』の場合と同様、表面にあらわれなかった難関が、編纂事業の裏にあったことを示唆するものである。

金太理という韓国名の人が編集し、出雲国の国造の名で提出された『出雲国風土記』は、朝廷の気に入るようになるまで、その内容が書きなおされながら歪められた。

しかし、それでも、「須賀国」、すなわち出雲の歴史の真相を解く鍵は、ところどころに隠されていて、我々が気付くのを待っている。

近ごろ発掘されて古代史を再検討させる契機をつくった、大量の銅剣・銅鐸や銅矛なども、その一部である。

 
なかでも、「国引き神話」は特に有名だが、それは、出雲国が、南北と海の彼方にまで領域を拡大しながら、「オホノクニ=大国」となった過程を記録したものであることは、今更言うまでもなかろう。

だが、その短い文章のなかに、「乙女の胸鋤取らして……三つ撚りの網打ち掛けて……国来国来と引き来……」という興味深い表現が、四度も繰り返し使われている異常な書き方から、自分たちの栄えある歴史をありのまま伝えることのできない「須賀国=出雲国」の無念さを窺い知ることができる。

 

その国引き神話の最初に出るのが、「出雲の国は初め小さな国であった。それを大きくしようとして、新羅の岬を見ると、国の余りがあったから、それを引き寄せて国を広めたが、そのときに使った引き綱は(園長浜=そのながはま)である」という説話だ。

海の向こうにある新羅の土地を引っ張り寄せて出雲の一部にしたという話は、とりもなおさず、新羅が出雲国の一部になったという認識から生まれた話でなくて何だろうか?

しかもそのとき使った綱が「園長浜=そのながはま」だったというが、「スクナヒコ」が帰国したときの上陸地点である稲佐浜は、「園長浜=そのながはま」の一部なのだ。

 

このように、日韓両サイドの文献を正しく読み、そしてそれを、すなおに理解することこそ、21世紀の皆さんにやって貰わなければならない、重要な課題だと、私は信じている。

そうすることによって、初めて、日本人の真のアイデンティティを解明することができるだろうし、そればかりか、日本人を、本当の「地球村人」に同化させる道だと思うのだが、はたして皆さんのお考えはいかがだろうか ?

 

それはさておき、伽耶族(加羅族)は、「カラ=太陽の国」という国号が示しているように、太陽信仰族であったから、その属性である「白=バルク=明るいもの=朴」を姓氏としていた。

だが、能…信仰族は、それと反対の「黒=カマ=くま=金」をもって姓氏としたのである。

もちろん、伽耶族であった日本列島の「ウガヤ=上伽耶=ヤマト」や「アラカヤ=下伽耶=出雲」地方の人々も、「朴=バルク」をもって姓氏としていたことは言うまでもない。

「スサノオノミコト」によって、出雲の国名が「スガ=スク」にかわったので、「スタナヒコ」は「スクナ=昔国=須賀」を名乗るようになりはしたものの、出雲の人々は、やはり太陽信仰を捨てるようなことはしなかった。

驚くべきことに、古代出雲国の遺民は、能信仰族の第二期ヤマト政権に滅ぼされた「オホクニヌシノミコトの国譲り」神話の時から、21世紀を目前にした今日に至ってもなお、太陽信仰に生きぬいている。

能宿仰族の世になったあと、今なお、ありとあらゆる侮蔑と差別に耐えながら生活しなければならない、太陽信仰族の涙ぐましい話については、拙著『出雲族の声なき絶叫』(新泉社)に載せた、「サンカの素性」を読んで頂きたい。

ところで、記紀には、「朴」の名で呼ばれる物や人がいたるところに出てくる。

たとえば「朴=エの木」・「朴井=エのゐ」・「朴市=エのち」・「朴室=エむろ」などであるが、すべての場合「エ」と訓がふられている。

ところが、どの漢和辞典を見ても、「朴」には、「エ」の訓が見当らない。

にもかかわらず、記紀にはなぜ「エ」と訓まれているのだろうか?

結論から言うと、それは、記紀の「朴=え」が、韓国語の「イェ=昔」を意味するからである。

だからこそ、第二期ヤマト朝廷は、昔のヤマト王朝に従う者たちを、「エミシ」と呼び、朝廷にまつろわぬ者の呼称としたのである。

つまり、「エミシ」とは、「エ=昔の」+「ミ=天皇・貴人」+「シ=族」「エミシ=昔の天皇族」という意味なのである。

記紀の「え」が韓国語の「イェ=昔」を意味するものであることは、通常「はい」と同じ意味に用いられる現代日本語の「え」が、韓国語の肯定詞「イェ」と、同じ発音であることで裏付けられる。

ともかく、このような韓国側の史書の記録は、熊信仰族の「金氏」によって、新羅の王位から追放された「スタナヒコ」が出雲に帰ってきたのは、金奈勿(キムナムル)が即位した西暦356年より一、二年前、すなわち西暦355年前後であることを示唆してくれる。

さて、「オホノクニ」とよばれていた出雲国に戻ってきた「スクナヒコ」は、「オホクニヌシノミコト」、すなわち、「オホノクニ」の国王の国造りに協力したと記紀は記している。

それはともかく、ここで我々が見落としてはならないのは、『日本書紀』仲哀二年(西暦三五五年)三月条にあらわれる次のような記録である。

『三月に、天皇は、数百ばかりのお伴を率いた軽い出で立ちで、狩りをされながら、和歌山県の「ところつ宮」というところに到った。すると、そこへ、九州の熊襲が背いて貢を納めないという報告が届いた。天皇は、早速、そこから船に乗って、山口県の穴門に向かいながら、おりしも敦賀に留まっていた皇后に、ただちに穴門にくるよう連絡した』

新羅で、熊信仰族が王権を奪う革命が起こっていた丁度その年に、景行天皇の時代から度々反乱をおこしてきた九州南部の熊襲が、またもや朝廷に反旗をかかげたというこの記録を、ただの偶然の一致だと見過ごして良いのだろうか?

 
元来、熊信仰は、新羅の長年の宿敵だった百済の宗旨である。

西暦355年頃、ついに、新羅の王室にまで能信仰を浸透させることに成功した百済は、その勢いにのって、大隅半島一帯を根拠に勢力を張っていた熊襲に働きかけて、景行天皇時代からの宿願になっていた、「日本政権の熊信仰化」を達成するための、共同作戦を展開させ始めた。

『日本書紀』仲哀二年(西暦三五五年)三月条に突如あらわれた熊襲の反乱は、その先触れであったのだ。

この地域の熊襲は、日本国民が、天孫降臨神話で教えられてきた「ニニギノミコト」の後裔であり、神武天皇の先祖なのだ。

その熊襲たちが、根拠地として住んでいたところは、今、「七隈(ななくま)の里」として知られている。

「七隈の里」とは、「七人の金が住んでいる里」という意味であるが、その「七人の金」こそ、金海地域にあった金官伽耶の始祖、金首露王の七人の息子たちだった。

金海金の系譜には、「首露王には十人の息子がいたが、そのうちの七人が、世の有様を悲観して、雲に乗って昇天した」と記されている。

つまり、韓から昇天した(?)七人の金(クマ)が、天孫として高千穂の峯に降臨し、定住したところを、「七人の金が住んでいる里」と名付けたわけである。

 

「そんな大それた話をする根拠は何か?」と、びっくりする読者のために、一言付け加えておこう。

日本が朝鮮を併合してから五年目の1915年6月29日、日本政府は、朝鮮総督府の警務令と称する布告をもって、金海を本貫とする金氏の族譜発行を禁止させた。

そのとき、日本政府は、金海金氏の族譜発行禁止の理由を「治安に差し支えがあるからだ」と説明している。

韓国には、およそ274の姓氏がある。

その中の一つである金氏には、285の本貫があるのだから、金海金氏は、韓国姓氏のなかで、僅か七万八千九十分の一を占める氏族に過ぎない。

そのように微々たる存在である金海金氏の族譜が、なぜ大日本帝国の政治の妨げになると言うのだろうか?

 

誰の目から見ても、「金海金氏の族譜発行禁止」に関する日本政府の本音は、別のところにあること、あまりにも明らかだった。

結局、その処置は、天皇の先祖をめぐる極秘が一般に知られるのを恐れての緊急手段であったことを、日本政府が公に認める逆効果を生んだのである。

今も、総務庁の官報書庫に秘蔵されているはずの、この布告は、裏を返すと、皇室は勿論のことだが、当時の日本政府の閣僚のなかにも、天皇家や、日本民族のルーツの真相を知っている人が、少なくなかったことを雄弁に証言しているのだ。

 

ついでに、記紀に見える天孫降臨神話の書き方について、少し考えてみよう。

『古事記』

高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りしたニニギノミコトは「ここは韓国に向かい、笠沙の崎を通って、朝日のさす国、夕日の照る国だから、非常に良いところだ」と言って、そこに定住した…

『日本書紀』

ニニギノミコトが天から降ったのは、日向の高千穂の(添山峯=そほりやまたけ)と言う。吾田の笠狭の御崎に到って結婚した…

この二つの記事は、ニギノミコトが定住したところを「笠沙(笠狭)」とする点で一致する。

「韓国に向かい」という表現から、祖国を偲ぶニニギノミコトのようすを窺い知るが、その「笠沙(笠狭)」は、薩摩国阿多郡加世田港、今の鹿児島県川辺郡笠沙町だとされている(笠沙町教育委員会の郷土誌参照)。

その一方、『古事記』は「高千穂の久士布流多気に天降りした」とするに対し、『日本書紀』は「高千穂の(添山峯=そほりやまたけ)に天降りした」と言うが、どちらが正しいのだろうか?

岩波書店の『日本書紀』校注者(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋)は、「〈そほり〉は、新羅の王都(そぼる)を音訳したものであろうという」と説明しているが、ニニギノミコトが降りた場所を「新羅の王都にある山」だと考えるのは、論理の飛躍といわなければならない

彼らが、このように、論理にあわない解釈をした背景は何だろうか?私が考えるに、おそらくそのように無理な発想をさせたのは、『古事記』の「ここは韓国に向かい」という表現の影響でなかっただろうか ?

つまり、校注者たちの脳裏には、「神武天皇の先祖であるニニギノミコトは、韓から渡来してきた人だ」という認識があったからこそ、このような、理屈にあわないミステークを犯したのだと、私は考えている。

 

『日本書紀』の言う「高千穂の〈添山峯=そほりやまたけ〉」の「そほり」は、文面から見ても、新羅の都と関係があろうはずはない。

その場合の「そほり」は、「添ふ辺」を意味するもので、原形は「そはり=添ふ辺」だ。

同じような日本語に「まはり=物の辺・物の周囲」がある。

その場合「ハリ」は、「ホリ」の原形だ。

それをさらに裏付けているのが、『日本書紀』に使われた漢字表記〈添山峯=そほりやまたけ)だ。

高千穂に寄り添う山岳は、今も「韓国岳」の名で知られている山である。

 

学校では、今まで、高千穂の峯をもって天孫降臨の場所と教えてきたが、それは、『古事記』の「高千穂の(くじふるたけ)に天降りした」という記録を根拠にしたもので、『日本書紀』は、明らかに「高千穂の(添山峯=そほりやまたけ)」、とりもなおさず「韓国岳」を天孫降臨の場所と伝えているのだ。

神話に無理はつきものというかも知れないが、「韓国岳」が、「高千穂の峯」より高いことは、それを物理的に裏付けると言えよう。

なお、「オロチ退治神話」も、記紀の言う天孫降臨の場所(?)が「韓国岳」であることの傍証である。

なぜなれば、『日本書紀』の一書(第四)によれば、スサノオノミコトが高天原を追われて、最初に降りたったのは、新羅の「ソシモリ」であった。

その「ソシモリ」は、今日「伽耶山=加羅山」といわれる「牛頭山=そしもり」である。

「くじふる=クシフル」とは、「奇しき峯=神聖な峯」と言う意味の韓国古語で、「ソシモリ」と同じ語源である。

話を本論にもどそう。

 

記紀によれば、熊襲征伐のために九州へ向う途中の天皇は、仲哀二年六月には、今の下関市豊浦町に豊浦宮をたてて滞在していた。

そこで我々が見逃せないのは、天皇の一行が、下関から、わずか目と鼻の距離にある、対岸の博多に渡ったのが、何とそれから六年目の仲哀八年正月だったという記録だ。

熊襲反乱の報告を受けて、狩りの出先であった和歌山県を出発したのは仲哀二年の三月。

急速九州に赴いた天皇が、下関に到着したのは、三カ月あとの六月だ。

 

その天皇が、博多へ渡るまで、六年もの長い間、豊浦の宮で待たなければならなかったからには、そこに、重大な理由がなければならない。

にもかかわらず、記紀は、六年もの長い間のできごとについて、何一つ語らず、固く沈黙を守っているばかりだ。

記紀の編纂者が敢えて書くことができなかった、豊浦宮滞在六年間のできごとは、言うまでもなく、天皇の前進を妨げる何事かでなければならない。

そしてそれは、天皇と皇后の身のまわりにおきたことに違いないが、それはいったいどんな事情だったのだろうか?

そのような我々の疑問に対する正解のヒントは、『日本書紀』にあらわれる、二つの、謎のような記事の行間から、見いだすことができる。

 

まずその一つは、およそ次のような内容の、皇后に関する記事である。

『天皇からの連絡を受けて、敦賀から穴門へ向う途中の皇后は、「ヌナタノミナト」(今の福井県三方郡あたりの常神崎と立石崎近くの海岸か、と言う)まできた時、乗っている船の周囲に、多くの「たひ」が寄ってきた。皇后が杯で酒を「たひ」に注ぐと、酔った「たひ」が浮かんできた。たくさんの「たひ」を得た船員たちは、「皇后さまの賜わった魚だ」と大いに喜んだ』

このほかにも、記紀に描かれた神功皇后には、魚に関連づけられた説話が多い。

これが、その始まりである。

 

それらの魚は、実際には魚そのものではなく、編纂者が、隠された目的のために利用した、あるもののシンボルであることは言うまでもない。

日本の学者のなかには、ここに見える「たひ」は、「黒鯛」のことだと、まことしやかに説明する方もおられるようだ(岩波書店の『日本書紀』参照)。

だが、このばあいの「たひ」は、「た=たっとい(尊い)」+「ひ=ひと(人)」で、「たひ=尊い人・貴人」を暗示するために使われた魚である。

 

それを理解した上で、このところの記事をわかりやすく言い換えると次のようになる。

【皇后の船が、当時、「オホノクニ=須賀国」の領域だった三方郡あたりの海岸に泊まったとき、多くの貴人たちが、皇后を訪れた。皇后は、彼らに自ら酒を勧めたので、大勢が酔い潰れるほどの大酒宴となった。皇后を慕って集まった多くの貴人たちを目のあたりに見た乗組員たちは、皇后の慈しみの賜だと大いに喜んだ】

……となる。

 
要するに、この記事は、「タケウチノスクネ=須賀国の貴人」が、天皇に合流する前の隙をねらって皇后に近付き、金銀宝物に満ちた新羅の話で、彼女を誘惑することに成功した場面を、ドキュメントで記録したものであることを、見抜かなければならない。
 

豊浦宮での六年間の秘密を探るための二つ目のヒントは、仲哀が筑紫に渡ったときのできごとを記した、

およそ次のような記事である。

【八年正月、今の福岡県遠賀川河口まで到ると、にわかに船が進まなくなった。そこで天皇は、天皇に忠誠を誓った岡県主に尋ねた。「お前は、清い心をもって朕のために駆け付けてきてくれた者だ。だから、お前に尋ねるのだが、なぜ船が進まなくなったのか、ありのままの真実を言え!」。すると彼は、「船が進まないのは、私のせいではありません。実は、この浦のほとりに、男女二人の神がいます。その神たちのしわざなのです」と答えた。そこで天皇は、ヤマト人の国の「菟田(うだ)の人」を祝(はふり)として祭りをしたところ、船が進むようになった】

 

この記事から、我々は、天皇の進軍を妨げているのが、男女二人のしわざであることと、その者どもを、なだめすかすためには、「菟田の人」の助力が必要だったこと……を知ることができる。

この場合の男女二人は、言うまでもなく、すでに共謀者となった「タケウチノスクネ」と皇后を指す。

その二人の妨害工作によって、船が進まなくなった天皇は、「菟田の人」の協力を得て、やっと前進することができたと言う。

その菟田は、今の奈良県宇陀郡である。

では、どうして、その地域出身の人が、天皇のために、妨害者である男女の説得に活躍することになったのだろうか?……が、さらなる疑問にならざるをえない。

 

だが、その正解は、およそ次のような神武東征記録から、難なく見付けることができる。

『神武の軍勢は、浪速で遭遇した「ナガスネヒコ」との第一戦で、神武の兄、五瀬命が戦死するほど、散々な敗北を喫した。そこから一旦撤退した神武軍は、迂回して、紀伊国の熊野村に行き、そこで大熊、すなわち熊信仰族の村長に援助を乞うが断られたので大いに士気揃おちた。……中略「ヤタ烏」に導かれた神武軍は、ヤマトの宇陀郡に到着した。そこには「兄(え)うかし」と「弟(おと)うかし」が住んでいたが、「兄うかし」は、神武に従わなかった。だが、兄を裏切った「弟うかし」のおかげで、神武軍は、宇陀郡を手にいれることができた』

この記録からわかることは、神武東征のとき、熊野地方はすでに熊信仰がかなり浸透していたので、神武は彼らを頼りに、そちらへ軍を迂回させたこと、だが、熊信仰族ではあっても、神武に好意を寄せないものもいたこと、「ウガヤ」の最初の都であった「アスカ」近辺にある今の大菟田・菟田野地方にも、早くから熊信仰が浸透していたが、兄弟の間でさえ、意見の食違いがあったこと……である。

仲哀のために尽くした「宇陀の人」は、能信仰族とも、ある程度の関係をもっている者だったから、事を荒げることもなく、円満に解決することができたのだ。

つまり、新羅を討とうと企んでいる「タケウチノスクネ」と皇后にとっては、これから熊信仰族の協力が絶対に必要だった。

そのためには、「宇陀の人」に花を持たせて、彼らを抱き込んでおくことが上策だったわけである。

 

このように、記紀のところどころに見え隠れする陰謀の裏話から、豊浦宮滞在の六年間は、熊襲を討とうとする天皇と、天皇に是が非でも新羅を攻撃させるよう説得したい皇后、そしてその皇后を陰であやつる「タケウチノスクネ」との間に、舞台裏での攻防が、果てしなく繰り返された歳月だったと推察できるではないか?

そして、ついに天皇を説得することを断念した二人が得た結論は、仲哀を暗殺することであった。

そのときのようすを記紀は次のように記録している。

 

【仲哀八年(西暦361年)九月、天皇は、いよいよ熊襲討伐を開始するために、群臣と作戦会議をし始めた。すると皇后は、突然神がかりした。神は、皇后の口を借りて、「実のない熊襲を撃つことはやめて、黄金と珍しい宝で満ちあふれる新羅を征伐しなさい」と仲哀に告げた。ところが、仲哀はそれに応じょうとしないばかりか、でたらめなことを言う神だと罵った。すると神は、「債の言うことを聞き入れないお前には、死ぬよりほかに道は残されていない」と予言した。仲哀は、その予言どおり、まもなく急死した……】

これは、ちょっと見ただけでは、他愛もないお伽話のような話にすぎない。

 

しかし、そのお伽話から、仲哀の后が、誰かにそそのかされて、「金銀珍宝に満ちあふれる新羅を征伐をするよう」しっこく天皇に嘆願したことと、それを聞き入れなかった仲哀は、欲に目が眩んだ后と、彼女に巧く取り入った陰の人物によって、あえなく殺された……事実を推察できるのだ。

そこで問題になるのは「后を唆して、新羅を討つよう、仲哀に迫ったのは誰か?」を突き止めることだ。

熊襲征伐を果たすために九州へやってきた仲哀に、「熊襲を討つことはやめて、新羅を討たないと命が危ないぞ」と脅しをかけた人物は、新羅に対して、よほどの恨みをもった人でなければならない。

とすると、新羅の王位から追われて出雲に帰ってきた「スクナヒコ」、彼以上に新羅に対する怨恨をもった人は他にない。

ところが、「スクナヒコ」の名は、后の周りに見当らない。

「天皇に新羅討伐を命じたり」、「さもなければ命があぶないぞ !」と、神がかりした后が口走ったとき、いつも彼女の側にいたのは「武内宿禰」である。

その「タケウチノスクネ」こそ、「スクナヒコ=須賀国(出雲国)の男」を代表する、「須賀国の尊氏」なのである。

須賀国の貴族であるタケウチノスクネは、金氏に奪われた新羅の王権を、いかなる手段をとってでも奪回しょうと決心したのである。

「スクナヒコ」が帰国して以来、機会のくるのをじっと待ち構えていたタケウチノスクネは、仲哀が、熊襲征伐のために九州へ向う絶好のチャンスをとらえて、后を物欲で垂恐したのである。

  

『日本書紀』神功皇后九年二月条は、このところの経緯を「皇后は、天皇を死に到らしめた神を知ってから、財宝の国を求めることを望むようになった」と、

はっきり記している。そのような神功皇后の物欲願望は、ここでわざわざその詳細を言うことは避けるけれども、彼女が死ぬまで、毒して変わらなかったことを、神功紀のいたるところから窺い知ることができる。

 

皇国史観に染まった人々が、「神功皇后の三韓征伐」と称している〈倭〉の半島出兵事件は、夫を殺した貪欲の皇后が、その直後、九州南部の熊襲の支援を受けておこしたものである。

日本の学者はそれを「三韓征伐」と名付けるとともに、その勝利によって、日本の植民地である「ミマナ=任那」が、韓半島南部に存在するようになったと主張している。

だが、その事件の実体は、九州南部の熊信仰族の支援を受けた「タケウチノスクネ」が、新羅の王権を取り戻すために、百済と協力しておこした「新羅討伐」戦争だったのだ。

 

結局、新羅の救援に駆け付けた高句麗好太王(広開土大王)の軍勢によって熊信仰族は撃退された。

中国の集安で発見された好太王碑文にもあるように、(倭)は、高句麗軍によって、西暦404年と407年には再起不能の惨敗を蒙ったために、日本列島へ引き上げたのである。

その(倭)が、敗退した地域に、その頃から、任那という名の植民地を、半島内のウガヤが新羅に降伏した西暦562年にいたるまでの、ほぼ二百年間、経営していたと主張するのは、どう考えても論理にあわない。

「それは確かにそうだ。だが、任那という名の地域は、記紀ばかりでなく、韓国の三国史記にもあらわれているではないか?」と反間する読者も居られるに違いない。

そのとおり、任那の名は、韓国の史書にもたびたび見受けられる。

その地域は、今の高霊であり、昔、「ウガヤ=上伽耶」の根拠地だったところである。

記紀の場合は、「ウガヤ=上伽耶」の根拠地ばかりでなく、今の金海地方を含む加羅の全域を「任那」といっている。

 

だが、何よりも重要なことは、「任那」の名が韓国の史書に初めて登場する年代である。

「任那」は、何と紀元前157年、馬韓の恵王元年に朝貢しているのだ。

なお、韓国の文献によれば、「任那」はその後も、紀元前87年、馬韓の孝王二十七年に、「一本に十の枝が生えている珊瑚をもって朝貢したので、それを瑞宝として、祖廟に捧げた」と記されている。

このような事実から推して、紀元前157年にあらわれた「任那」の記事が誤記である可能性は、まったくない。

となると、「ウガヤ=上伽耶」の地域にあった「任那=ミマナ」の正体は何だろうか? 

それを知るためには、まず「任那=ミマナ」の語源から調べなければならない。

 

「ミマナ」とは、「ミ=天皇」+「マ=真」+「ナ=国・地」「ミマナ=天皇の真の国」、つまり、「天皇の本国」を「ミマナ」と言うのである。

それに使われた漢字も「任=君・天皇」+「那=国・地」で、「ミマナ」と同じ意味をあらわすために使われている。

 

そこで、「なぜ『ウガヤ』の根拠地をもって『天皇の本国』と言ったのだろうか?」という疑問が浮かんでくる。

その正答は、もちろん、「日本列島内の『ウガヤ』、すなわち『ヤマト』の本国は、韓半島内の『ウガヤ=ミオヤマ』であったからだ」……である。

 

いわゆる神功皇后の三韓征伐が行なわれたのは、仲哀が殺された西暦362年よりあとのことだ。

つまり、多くの日本の学者が主張する、「任那」という名の半島内の植民地は、四世紀後半から存在したことになるのだが、それよりも、ざっと五百年以前から「ウガヤ」の地域に存在した「任那」を、彼らは何と説明できるのだろうか?

 
日本列島内の〈ウガヤ=ヤマト)は、紀元前157年より以前に建国されたもので、彼らの本国は、韓半島内の「ウガヤ=上伽耶」であったから、そこを『ミマナ=天皇の本国』の名をもって呼ぶようになった。

日本列島では、西暦362年におきた仲哀天皇の暗殺によって、「ウガヤ王朝」の歴史は、最後の幕がおりようとしていた。

朴 炳植著「ヤマト渡来王朝の秘密」より

 
東日流(つがる)外三郡誌
 
鳥越氏は、初代から第九代開化に至る天皇の宮と御陵が、葛城山から畝傍(うねび)山にかけて集中的に見られることから、神武系の実在を論じ『葛城王朝』の名を付した。

その治世期間も、弥生後期から前期古墳にわたるとみる。

 

これとても、古墳に振り回された説でしかない。

同時に、大きな誤りもおかしている。

トミノナガスネ彦を物部氏の祖と解したのだ。

 
天孫族(神武)対出雲神族(トミノナガスネ彦)の戦いは、天孫族対物部氏の戦いだ、というわけである。

甲南大学教授の畑井弘氏もほぼ同意見で、ナガスネ彦を物部氏の祖におき、物部氏蛇族を打ち出した。

 
しかし、石上神官をはじめとする物部氏系の神社で、竜蛇にまつわる祭祀を見聞したことがない。

物部氏の系図は、次の通りである。

  
 

出雲神族の伝承では、「トミノナガスネ彦は神武に反撃を試みたが抗しきれず、大和をゆずって出雲にしりぞき、そこで他界した」ことになっている。

この時、天孫族は和平の条件を持ち出した。

出雲神族の分散である。

彼等は、遠く関東から東北にまで追われた。

東国に出雲系の国造や神社が多いのは、こうしたことによる。

国造は24人中11名、神社は全体で約34パーセントにものぼる。

特に下野国(栃木県)の約64パーセント、武蔵国の約45パーセントが群を抜いている。

ナガスネ彦と兄のヤスビ彦を津軽の王とする奇書『東日流(つがる)外三郡誌』は、こうした背景のもとに書かれたものだ。

その中から「古代東日流外三郡暦」の一節を紹介しよう。

 
東周平王帝の頃(紀元前770年に遷都)日本国に於ては日向族にわかに勢を起し、猿田一族を亡(ほろ)ぼして、筑紫の平野に日向一族は起きる。

この一族を統率せるは、一族の予言者に、「比味子」と称す女にて一族はこれを天より降りし神と崇め、その親族を皆神とし、高千穂の峰に降臨したる天国(高天原)より来る神と信じ、諸族は先を争って日向一族に味方し、忠誓を以て死をも怖れぬ諸国侵征の基をなせり。

時に支那国に桓王帝の世代(紀元前651年に覇者となる)にて、庚午年、日本にては日向族に神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)誕生し、日本君主のうぶ声ありける。

(中略)

十五歳にして神日本磐余彦皇太子と相成り、支那にては釐王帝の世となり、

日本にては倭の国に邪馬台(やまと)五畿七道に安日(やすび)彦長髄(ながすね)彦の兄弟君臨、筑紫の日向一族の挙動に備えて、兵を諸国に巡らしめたり。

(中略)

神武帝は長髄彦、安日彦の君臨せる耶馬台国に日月を惜(おし)まず攻めて侵領せり。

長髄彦の軍は吉備にて八年の歳月を費(ついや)して戦い、高島に三年の苦戦をせり。

苦闘に苦闘をなして東に向う日向軍は難波の浪速に至り、舟にて淀川をのぼり、河内国草香むらの白肩の津に至り、

夏四月九日に、武具をととのえて龍田へ進軍せしも、路険阻にて変じ、生駒山を越え大和に入らんとせるに、大挙せる長髄彦の軍にさんざん敗僕し、五瀬命は討死せり。

大敗せる日向一族の軍は迂回(うかい)し、南の和泉に至り、

その海辺に軍を休むる時、亦(また)も長髄彦一族の軍に襲われて稲飯(いない)命は滄海に討死渟麻(ぬま)命(ミケヌノ命のことらしい)は捕われ何処(いずこ)かに流刑されにしも、神武帝の率いる日向軍は草香の津にて軍に新手を加え、五月五日茅渟(ちぬ)の山城水門にて髄彦の軍を敗りたり。

六月二十三日、日向軍は名草のむらに攻め、邪馬台族の長たる名草戸畔(とべ)を誅し、遂に狭野(さぬ)を越え、熊野のむらに至り、

吉野川下流に越え、大和の宇陀に至り、畝火(うねび)山に赴(おもむ)き、安日彦、長髄彦の耶馬台国の両君は遂に故地を失いて、安日彦は越に、長髄彦も重き傷を病み乍(なが)ら東北に落たり。

そして、会津にて安日彦と合軍し、更に東北の津軽に安住を求めて落忍(おちの)び、荒吐(あらびき)一族に迎えられて、茲(ここ)に荒吐族五王に君臨し、日向二族必滅の一念に忍世せり。

神武帝は耶馬台一族より戦利せる宝物を神器として、大和橿原に日本国の君主として即位せり。

然(しか)る殺伐は、日向一族の身に絶えず襲いて、神武帝の入滅後、天皇の空位、年を徒(いたず)ら延ばししめたり。

 

寛政庚申年

秋田孝季・和田長三郎共著の『東日流外三郡誌』は丈夫な箱に収められ、五所川原市に住む和田喜八郎氏の天井裏に永いあいだ眠っていた。

この箱を開いたのが、昭和32年の春。

全360巻で、いずれの巻頭にも「此の書巻は藩許得難く、他見に及しては死罪を招く事あり、依(よっ)て他見に及すべからず。門外不出を旨とせよ。秋田孝季」と記されていた。

 
和田氏は一時、鎌倉幕府の重臣だった桓武平氏和田義盛の一族。

寛政二年(1790)長三郎が孝季の妹・りく姫を娶り、両家は親族関係を結んだ。

そうした縁で、二人は『東日流外三郡誌』の編纂に着手、一族の歴証を永代に残した、と伝える。

秋田氏は、一般に孝元天皇─大彦命……安倍比羅夫……安東氏……秋宙氏、とされるが、実はヤスビ彦、ナガスネ彦の末裔だという。

『会津旧事雑考』にも「崇神帝の朝、蝦夷(えぞ)強大にして乱をなす。帝、オオヒコ命の子安倍河別命を将軍となして征せしむ。毎戦利なし。安東なる者請(こ)うて曰く、我れ是れ宇摩志麻治(うましまじ)命の臣・安日の裔なり。遠祖罪を先帝に得、東辺に蟄し、竟に赦免なし。願わくは今赦しを得、命を委(ゆだ)ねられて先鋒たらんと。河別奏請、安東を以って先鋒となし、大いに功績あり。故に安倍姓を授け、且つ将軍の号を賜ひ、東北の夷狄(いてき)を守防せしむ。是(これ)奥州安倍氏の祖なり。後安東氏と称するは、始祖の名に因る也」とある。

系図は、次のようになる。

 
 

『東日流外三郡誌』は、孝季、長三郎の二人が、寛政元年(1789)から文政五年まで33年にわたって調べた資料をもとに書いたものである。

史実に反する記述があるのも、いたしかたのないことかもしれない。

第一に、ヤスビ彦、ナガスネ彦を安倍氏→安東氏→秋田氏の祖としたところに無理がある。

出雲で死んだ者が、津軽に行けるはずがない。

 
だが、『東日流外三郡誌』に書かれている祭祀、祭神などは、完全に出雲系である。
 

(1)主祭神は大国主命である。

(2)熊野神社、宗像神社、鴨神社など、出雲系の神を祀る。

(3)厳鬼(いわき)山(岩木山)を父とし、石神を信仰する。

(4)拝火教を思わせる「神招火炉」を祭壇にすえる。

(5)人間は海藻から生まれ、海藻にかえるとし、祭祀にも海藻を用いた。

(6)竜蛇神の崇拝(熊野神社、荒磯神社、浜明神など)が多い。

(7)語部がおり、その末裔がイタコになった。

(8)勾玉を王のしるしとした。

(9)津軽の夕タラ師は、出雲で修練した。

(10)ナガスネ族にも、出雲の諜報機関であったサンカ的な風魔族がいた。

 

などである。

津軽のタタラ師は歌う。

ただらァー 三年(みとせ)出雲にならい 宇蘇利(うそり)みやまに 黒鉄づくりー

泣けて別れた 東日流の里を 今はわすれて ただらやれ

ただら なんでやめぞよ このただら

また、ナガスネ彦とヤスビ彦を型どったというアラバキノ神(遮光器土偶)は、川崎真治氏が指摘するように、蛇神である。

安倍氏には、タテミナカタの後商・諏訪神家一族があり、宗任の暮は宗像三女神の一人イチキシマ姫を祀る中津宮にある。

 

出雲神族伝承は『東日流外三郡誌』についてこう語る。

出雲神族は、東北から出雲の地へ西下してきた。そのとき津軽に残った人々や、神武東征時に追放された人々が、ナガスネ彦の話や出雲系の祭祀を伝えたのだろう。

さて、神武天皇は大和を征服すると、橿原で即位した。

「即位」は、出雲系の言葉である。

諏訪神社で行なわれる神主の世嗣(よつ)ぎ式は、即位式と呼ばれる。

つまり、神武の即位は、ナガスネ彦の服属を表わしているのである。

 

ナガスネ彦を出雲系とみた人は、私の知っている限りでは、司馬遼太郎氏ただ一人だ。

大和人であり、肌でそれを感じたのかもしれない。

 
司馬氏は『歴史の中の日本』に「生きている出雲王朝」と題し、富氏、秋上氏(神魂神社)、大社社家などの伝承をとりあげながら、次のように書いている。
 
国譲りののち、天孫族と出雲王朝との協定は、出雲王は永久に天孫族の政治にタッチしないということであった。

哀れにも出雲の王族は身柄を大和に移され、三輪山のそばに住んだ。

三輪氏の祖がそれである。

この奈良県という土地は、もともと、出雲王朝の植民地のようなものであったのだろう。

神武天皇が侵入するまでは、出雲人が耕作を楽しむ平和な土地であったに相違ない。

滝川政次郎博士によれば、この三輪山を中心に出雲の政庁があったという。

神武天皇の好敵手であった長髄彦も、出雲民族の土酋の一人であった。

 

私は少年時代、母親の実家である奈良県北葛城郡磐城(いわき)村竹内(たけのうち)という山麓の在所ですごした。

この村には、長髄彦の暮と言い伝えられる古墳がある。

むろん、長髄彦の年代(?)は、古墳時代以前のものであるから妄説にすぎまいが、大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい。

 

現に、わが奈良県人は、同じ県内にある神武天皇の橿原神宮よりも、三輪山の大神神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先や」という。

かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか。

 

ついでながら、三輪山は、山全体を神体とする神社神道における最古の形式を遺している。

こういうものを甘南備山(かんなびやま)という。

出雲にも甘南備山が多い。『出雪国造神賀詞』にはカンナビの語がやたらと出る。ツングースも蒙古人も山を尊ぶが、そこまで飛躍せずとも、出雲民族の信仰の特徴であるといえるだろう。

 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
国史捏造の企み
 
壬申の乱の戦後処理のなかでもっとも頭の痛い問題は、こちらへ刃を向けた敵方の者どもを、どのように罰するかよりも、勝利をもたらすために手柄を立てた味方のものへ、どのように論功行賞を行なうかであった。
 

いかに公正な評価をしたつもりでも、評価を受ける側の思惑と、評価をする立場の考え方が、かならずしも一致しないところに、その難しさがある。

そのことによって、ややもすれば、不平・不満が生まれ、ひいては、大きな紛争を醸し出す要因ともなりかねない。

そのような頭痛の種を抱えながら、西暦673年、大海人皇子は即位して天武天皇と名乗るようになった。

父の「高向王」と吉備国出身の母「宝皇女」の一生をかけた、「オホの国=スクナ=昔氏国」再興の遠大な夢は、ここに実現されたのである。

 

「スクナヒコナ=昔脱解」が出雲から新羅へ渡り、新羅の国王となったのは、西暦57年のことだった。

それから8代にわたり、172年間守っていた新羅の王座を、金奈勿王に奪われた「スクナヒコナ(の子孫)」が出雲に帰ってきたのは、西暦355年前後である。

その時から「スクナ族」は、新羅の王権を奪回するために、あえて熊信仰の熊襲と提携した「タケウチノスクネ=蘇我氏」と、それでもなお太陽信仰を捨てなかった「オホの臣派」とに分裂した。

稲佐の浜に奇襲上陸した金氏ヤマト朝廷の軍勢に屈伏したことによって、国を奪われた大国主命こそ、「オホの臣派」の代表者だったのである。

 

熊襲(金氏)と手を結んだ蘇我一族が、金氏ヤマト政権のもとで栄華を謳歌している間、太陽信仰を守り通しながら、金氏ヤマト朝廷に抵抗した「オホ族」は「アラエミシ」と軽蔑されながら、さんざんな苦しみを味わわなければならなかった。

高向出身の継体天皇の即位によって、「オホの国」再興の光が見えそうになったこともあったが、それも束の間、天皇の後継ぎが皆殺しの悲運に見舞われたことによって、無残に踏み踊られたこともある。

大海人皇子の即位した日は、実に、「スクナ=オホの国」遺民の、長年の悲願が成就された慶祝日であったのだ。

だが、もっとも嬉しいはずの天武天皇は、うっかり他人には洩らせない深い悩みに頭を痛めていた。

それは、新しく出帆する王朝の舵取りをしてくれる人材が、彼の周囲に見つからないからである。

それもそのはず。彼を支持してくれた吉備・筑紫や東国の豪族たちは、天武天皇自身も含めて、武勇こそ勝れていたものの、朝廷の中心部からは遠ざけられていたために、国家政策の構想や、その運営の妙などになると、まったくの門外漢であったからだ。

 

「大国主命の国譲り」から三百年近い艱難の歳月をへて、ようやく手に入れた王権である。

これを子孫万代に揺るがぬものにして伝えねばならない。

 

そのためには、まず堅固な王朝の基礎を築かなければならないのだが、どこからどう始めたら良いのか、見当だにつかない状態であった。

だからといって、このようなことは、誰とでも相談できる性質の話でもない。

天武天皇が、思案のあげく、白羽の矢を立てたのは、決死の覚悟で、大友皇子を最後まで護衛していた物部連麻呂である。

己れの命を懸けてまで、主君を最後まで護衛し続けた彼の忠節を高く買ったのだ。

それに、「敵方の武将であった俺を罰しないばかりか、新しい政権の重要なポストに起用してくれるとは……!」と、感激するに違いないという計算があったかも知れない。

新しい王朝造りについて、天武天皇と麻呂との間に、どのような密議がなされたのか、『日本書紀』は口を噤んで話さない。

だが、天武四年正月条には、「占星台を初めて立てた」と、出し抜けに記されている。

これは、天文観測台だが、新羅の古都、慶州には、西暦647年に築かれた高さ9メートルの「瞻星台」が保存されており、東洋最古の天文観測台として、韓国の国宝31号に指定されている。

しかも、天武五年の10月には、麻呂は大使として、新羅に派遣されており、それから間もなく、『古事記』 の編纂が始まっている。

このような一連の出来事から、天武天皇の内密な諮問を受けた麻呂は、「新羅は、百済や高句麗を滅ぼして、韓半島の主人公になって間もない。その新羅に、統一王朝の基礎造りの手本を見いだせるのではないか?」と、進言しただろうと推察できる。

 
新羅が初めて国史を編纂したのは、国力が強大になりつつあった西暦545年である。

その国史の中で、伽耶(加羅)の小部族国家にすぎなかった新羅は、「百済や高句麗の建国は、新羅より遅かったのだ」と、嘘を並べているばかりでなく、自分の宗主国であったウガヤ(上伽耶)の始祖、「朴赫居世」を、あたかも新羅の始祖であるかのようにでっちあげることによって、ウガヤの歴史を横領したのである。

天武王朝の手に成った『古事記』『日本書紀』は、73代前後も続いたと言われるウガヤ王朝を横領し、「ウガヤフキアヘズノミコト」なる架空の人物を作り上げて、神武天皇の父だとしている。

つまり、抹殺した長いウガヤ王朝の歴史のシンボルとして、神武天皇の先代に「ウガヤフキアヘズノミコト」なる人物がいたことにしたのである。

このような記紀編纂の手法は、韓半島のウガヤ(上伽耶)の歴史を抹殺して、その始祖を、己れの始祖として祭り上げた新羅の手法を、そっくり真似たものであることは、あまりにも明らかである。

 

とまれ、敵方の護衛武将に過ぎなかった麻呂は、後日、石上朝臣の姓を許され、天皇の次の位である左大臣にまで昇進した。

天武天皇が崩御した折には、法官のことを霊前で誄申し上げていることも注目すべきである。

養老元年、彼は78歳で亡くなったが、生前には、壬申の乱の一等功臣、多臣品治よりも高い冠位に昇ったばかりか、死んだあとにも、朝廷は臨時の公休日を宣布して深い弔意をあらわすなど、特別な待遇をしている。

それにくらべると、命を懸けて大海人皇子のために戦った多臣品治と、その長男で、『古事記』の編纂者でもある太安万侶は、あまり適切な評価を受けていない。

新しい王朝の礎石を築いた麻呂の功績は、「オホ族」の壬申の乱での働きより、はるかに高い評価を受けたのだ。

 
そして、日本最初の国史を編纂した太安万侶が冷遇されるようになったのは、皮肉にも、彼が『古事記』に「因幡の白兎神話」を挿入したことに始まったことを、見破らなければならない。
 

その経緯については、おいおい説明させて頂くことにしよう。

天武天皇時代に着手された『古事記』が完成されたのは、持統天皇・文武天皇の時代が過ぎたあと、元明天皇の代に入った和銅五年正月28日(西暦712年)であった。

ということは、『古事記』を完成させるために、おどろくなかれ、ざっと30年以上も費やされたことになる。

 
ちなみに、岩波書店発行の日本古典文学大系の本と同じサイズにしたら、『古事記』の原文は、150ページ分にも満たない分量である。

資料がまったく準備されていない状態から編纂を始めたのならいざ知らず、底本の帝紀と本辞がすでに揃っているにも拘らず、たったそれだけの分量を完成させるのに、30年以上もかかったということは、その編纂にあたって、現代の我々の想像をはるかにこえる難関があったということを、証言していると言わなければならない。

 

『古事記』の序文によれば、元明天皇が、太安万侶に、稗田阿礼が読んで憶えた帝紀と本辞を撰録するよう命じたのは、西暦72年9月18日だ。

それを受けて『古事記』が出来上がったのは、明くる年の正月28日であった。

 

つまり、命令を受けた太安万侶は、たった130日ほどで『古事記』を書き上げたのであるから、『古事記』の完成に30年以上もかかった裏の事情は、よほど込みいったものがあったであろう。

その「裏の事情」は何だったのか?

私は、それを大きくわけて、次の二つだったに違いないと睨んでいる。

その一つは、壬申の乱に成功した大海人皇子は、政権を手に入れたあと、自分を支持してくれた背後勢力である豪族たちの期待を裏切って、みずからの直系家族中心の王権樹立を企んだ。

 

天武天皇が皇位にいるあいだ、一人の大臣も朝廷におくことなく、すべての政を自身の皇子たち中心にとり行な
っていたことは、『日本書紀』の記録から広く知られていることである。

 

つまり、『古事記』の編纂は、大海人皇子一家とその子孫たちの万世の繁栄をはかるための、確固たる王権基盤をつくる目的で、着手されたのである。

そのためには、まず、天武天皇の即位は、武力による政権奪取によるものではなく、大海人皇子が、天智天皇の正統な皇統後継者であったかのように見せ掛ける、嘘の系図を作っておく必要があった。

なぜなれば、「皇位は武力で強奪してもかまわない」という伝統を残すことは、子孫たちの将来に、大きな不安を残すことになることを、誰よりも天武王朝の主人公みずからが知っていたからである。

そこで、舒明天皇の血筋とはまったく関係のない大海人皇子を、中大兄皇子(のちの天智天皇)の弟にしたてたのだ。

 
そのおかげで、今日の学者のあいだに、「大海人皇子と中大兄皇子は、ほんとうに血肉を分けた兄弟だったのか? 兄弟ならどちらがいくつ年上だったのか?」などと、二人の関係に関する論争が、いまだに続いているのは、皆さんもご存じのところである。
 

大海人皇子を押し立てて、日本史上初めてのクーデターをおこした勢力は、『日本書紀』にも明記されているように、多臣品治を中心とする、東北地方の豪族たちである。

その彼らが最終目標としたのは、神武天皇に乗っ取られた「オホノクニ=大国」の再建であった。

ところが、オホ氏の一族の代表であるべき大海人皇子は、「オホノクニの再建」という彼らの期待を裏切って、神武政権の後継者になりすますほうが、手っ取りばやく一家の基盤を固める道だとの結論に到達した。

これは、ウガヤの一部族国家であった新羅が、ウガヤの歴史そのものを己れのものにしたのと同じ手法である。

その結果、天武天皇は、(オホ氏=おお氏)一族の念願を踏みにじったばかりでなく、今では天武王朝の脅威になってしまった彼らの勢力を弱化させて押さえこむ手段をとるようになった。

 

東北の大国であった「越国=こしのくに」を、小さく分割して統治し始めたのは、天武天皇その人であった事実を見過ごしてはならない。

すなわち、越国が、若狭・越前・越中・越後・佐渡の五カ国に分割されたのは、天武天皇の末期から持統天皇の初期の出来事である。

ちなみに、天武天皇が(オホ氏)の一族である証拠は、いろいろあるが、そのなかで、もっともわかりやすいことは、天皇が亡くなったとき、一番最初に弔いの言葉を述べたのが、大海人皇子を養育した部族の代表(オホシアマノスクネアラカマ)だったという『日本書紀』の記事である。

それでもなお、「やぶから棒に、大海人皇子が(オホ氏=おお氏)一族とは、どういうことだ?」と不審に思われる読者もおられることだろう。

だが、そこのところは、このあとで、おいおい説明する機会もあるだろうから、しばらく、このまま先に進むことにしよう。

『古事記』の完成に30年もの時間がかかった二つ目の理由は、天武王朝の政権強化にそれだけの歳月が必要であったことである。

つまり、政権を手に入れて間もなかった当時は、古い豪族たちの反発や圧力を跳ね返しながら、自力を強化するのがやっとのことだった。

天武天皇時代に起きた諸豪族の反発を証言しているのは、次のような記録である。

天武四年四月、「小錦上当摩公広麻呂(タキマノキミヒロマロ)と小錦下久努臣麻呂(クノノオミマロ)の二人を、朝礼に参加させぬよう命じた」。

この二人は、その名前から推して、当摩公広麻呂は、大友皇子の刺客に殺された吉備国の当摩公広嶋に緑のあるものであり、久努臣麻呂は、駿河国出身の武将だが、共に壬申の乱の勇者であると思われる。

彼らに出仕することを禁じた理由は記されていないけれども、おそらく論功行賞に対する不満を洩らしたに違いない。

同じく天武四年四月、「三位麻続王(ヲミノオキホミ)が罪を犯したので因幡に流した」。

天武四年十一月、「夜中に王宮の東の丘に登って妖しい言葉を吹聴した者がいた。

彼は、みずから首をはねて死んだが、その夜に当直した者たちは、皆一階級特進の恩典にあずかった」。

天武五年九月、「筑紫の大事で、三位の冠位にあった屋垣王が罪を犯したので流罪に処した」。

天武六年四月、「史の名倉が、天皇を誹ったので、流罪に処した」。

 
これらの出来事が、皆、新しい王朝が始まって間もない時期におこっていることと、また、罪人たちのすべては、壬申の乱に功労のある者・王族、そして、歴史の記録に携わる人であったことを思い合わせれば、『古事記』の編纂が、思いどおりに進まなかった理由が浮かび上がってくる。
 
それが、元明天皇の時代になると、それらの豪族に、あまり遠慮しなくてもよいほど、かなりの自力がついてきたし、そのあいだに、諸豪族たちの領域は、つぎつぎに分断されながら弱小化したので、皇室の意図どおりの 『古事記』編纂を強行するにいたったのだ。
 

ここで見逃せないのは、元明天皇が、『古事記』の編纂を太安万侶に命じた、狡猾な苦肉の知恵である。

太安万侶は、壬申の乱がおきたとき、大海人皇子がもっとも頼りにした一等功臣、多臣品治の長男で、「オホ氏 (註…大氏・多氏・太氏とも表記されている)」の嫡孫だ。

先祖代々、武門の誉れは高いが、文臣ではない太安万侶に、『古事記』の編纂を命じた裏には、皇室にとって、いまだにもっとも煙たい存在である「オホ氏」の族長に、この難事を任せることによって、その反発を未然に押さえこもうという狙いがあったと思ってよい。

 

元明天皇の命令を受けた太安万侶の悩みは、我々の想像をはるかにこえる深刻なものだった。

なぜなれば、勅命をうけたからには、天皇の希望にそった嘘の歴史を編纂することは、とうてい避けられないことと覚悟はしたものの、

 

「オホ氏」の族長である太安万侶には、どうしても皇室の注文に従えないことが、二つあった。

その一つは、大海人皇子が「オホ氏」の一族であるという事実を隠すこと。

二つには、「大国=オホの国」の歴史を抹殺すること、だった。

悩みぬいたあげく、太安万侶は、これら二つの難題を解決する方法として、つぎのような道を選ぶ知恵を得た。

まず、大海人皇子による武力革命事実は、序文に挿入するに留め、天武天皇の出自に関する具体的な話には一切触れないことにした。

その結果、『古事記』には、推古天皇までの歴史が記されることになり、舒明天皇から文武天皇までの記録は除外されたのである。

 

当時の今上天皇である元明天皇は、まだ生存中だから、遠慮するのは当然だとしても、『古事記』の編纂を初めて指示した天武天皇の記録が除外されている事実は、このような太安万侶の知恵のたまものであった。

つまり、舒明天皇とその皇后であった宝皇女のことを載せるためには、宝皇女、すなわち、後の皇極天皇(=斉明天皇)が舒明天皇に嫁ぐまえに、高向王と結婚して、漢皇子を生んだ事実関係も記さなければならなくなる。

そうなると、大海人皇子の出自も明かさなければならない。

 

大海人皇子、すなわち、天武天皇の血筋のことを隠したい皇室側の意向に沿いながらも、大海人皇子が「オホ氏」の一族であることを明らかにしなければならない立場の太安万侶は、舒明天皇以降の歴史に触れないことで、逃げ場を見いだすことができたのだ。

次に問題だったのは、「大国=オホの国」の歴史を抹殺しようとする皇室側と、そんなことは、どのような犠牲をはらっても、させてはならない、(オホ氏)族長太安万侶の立場だ。

太安万侶は、この難題も、「因幡の白兎」という奇想天外な神話を作りあげて、『古事記』に挿入することによって、見事に解決した。

だが強気の元明天皇は、そのような『古事記』に不満だった。

日本の正史と言えば、誰もが『古事記』と『日本書紀』をあげるに違いない。

ところが、「正しい国史・真の国史」は、どの国を見ても一つであり、二つあるのは日本だけだ。

 

いや、実を言うと、日本にも二つあるはずはないのだ。

なぜなれば二つのうちの、どちらか一つは「真でない歴史・偽史」でなければ論理にあわないから……。

『古事記』と『日本書紀』のうち、皇室が正史と決めたのは、『古事記』が完成してから二年後、ただちに編纂が始められた『日本書紀』でなければならない。

もしも皇室が『古事記』をもって正史と認めたならば、30年もの長い歳月をかけてやっと完成した『古事記』があるのに、その完成から、たった二年後、「和銅七年(714年)、紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂に国史を撰ばしめた」はずはない。

元明天皇に、『古事記』をすてて、新しい国史の編纂をするように決心をさせたのは、いったい『古事記』のどの部分だったのだろうか?

それを知る方法は簡単だ。なぜなら、『古事記』と『日本書紀』の記事を読んだうえで、その相違点を探せばよいに決まっているからである。

 

そこで記紀を詳しく読んで見ると、相違する部分は少なくない。

だが、なかでも、とくに我々の目を惹くのは、二つである。

 

その一つは、太安万侶が記録することを避けた、舒明天皇から天武天皇・持統天皇までの歴史を、『日本書紀』に取り入れたことだ。

そしてその二つは、『古事記』に、あれだけの分量を割いて書かれている「因幡の白兎神話」が、『日本書紀』には、その片鱗さえ見えないよう抹殺されたことである。

そうすることは、伽耶族を標榜する皇室による高句麗討伐の輝かしい物語を、子孫万代に言い伝えることになる。

記紀にあんなに詳しく記載している「オロチ退治」がなぜ「出雲国風土記」に記載されていないのであろうか?

出雲の地方では、その後、高句麗族との混血が円満に進み、高句麗と伽耶の両部族は「オウ」と称するようになった。

それは「オロ」の「ロ」が、「ウ」に変化したからであった。

天武王朝は高句麗討伐の輝かしい物語を、子孫万代に伝えるために記紀に記載したが、今は身内になった高句麗と伽耶の人々、つまり、出雲の人々は「オロチ退治」の物語を出雲国風土記に入れたくはなかった。詳細は消された多氏古事記

 

先にも述べてきたように、『古事記』編纂の本来の目的は、大海人皇子の即位を、武力による皇位の奪取ではなく、正統な皇位継承者による、天意に叶った行為だったと言い繕うことにあった。

だが、太安万侶には、そのような大それた嘘を歴史に書き残すことはできなかったので、舒明天皇以降の記録に手を染めなかった。

 

いっぽう、天折した天武天皇の皇太子、草壁皇子の妃であった元明天皇は、どのようなことをしてでも、新しい王朝の基礎を打ちたてた天武天皇の輝かしい業績を歴史に残したかった。

かなり安定してきた政権の実力を背景にして、強気の元明天皇は、多少の無理は承知のうえで、大海人皇子を舒明天皇の皇子に仕立てるシナリオをつくらせ、中大兄皇子の弟として登場させた。

 
広く知られているように、明治時代の施政基本方針は「臣には知らすべからず」という、愚民ないしは偽民政策に絞られていた。

その一環として、『日本書紀』を「聖典」と位置付け、その内容に疑いを挿むことを固く禁じた明治憲法のもとでは、元明天皇の強気になる『日本書紀』のシナリオの矛盾性は、正面切っての挑戦をうけないまま、どうにか隠し通すことができた。

 

だが、戦後の言論自由化の波は、古代史学の世界にもおしよせ、恐々ながらも、真実を語る勇気を、学者の間に呼び起こすまでにいたった。

「皇室の先祖は、韓半島から渡来した騎馬民族だ」という爆弾宣言を発表した江上波夫氏を筆頭に、「天皇家は万世一系だという従来の話は嘘で、本当は三つの王朝が交替しながら今日に至ったのだ」という水野祐氏など、雨のあとの筍のように、多くの学者から多くの学説が、噴き出始めた。

そこで浮き彫りになったのが、大海人皇子に関するミステリーだ。

そのなかの一つが、[『日本書紀』に出てくる中大兄皇子(=天智天皇)の年齢と、『日本書紀』以外の資料、たとえば『皇胤紹運録』・『扶桑略記』・『帝王系図』・『神皇正統記』などにあらわれる中大兄皇子の年齢は、まちまちで、それらを、同じ資料の中に見える大海人皇子(=天武天皇)の年齢とくらべると、大海人皇子のほうが、中大兄皇子よりも、二つか三つ年上、または同じ年齢になる。

ということは、大海人皇子をもって、中大兄皇子の弟としている『日本書紀』の記事に、無理があるのではないか?]という日本の学者たちの声である。

そこで考えさせられるのは、斉明即位前紀に挿入されている天皇の初めの夫「高向王」のことだ。

すでに何度か指摘してきたように、斉明天皇(=宝皇女)は、先の皇極天皇である。

「彼女のことを初めて紹介した皇極紀のところに、当然出てこなくてはならないはずの、初婚の相手の名や、その間に生まれた子供の話が、なぜ斉明紀になって、突然挿入されたのか?」という疑問を抱かざるを得なくなるのは、私だけではなかろう。

ひょっとすると、大海人皇子の出自の謎をとく鍵は、宝皇女の初婚の相手、高向王がもっているのではなかろうか ?

そうすると、大海人皇子に関する真実を知るためには、高向王の素性を洗ってみる必要が出てくる。

記紀に見える古代の王名・皇名は、その人物に関係ある地名に由来している場合が多い。

たとえば、「ヤマトイハレ(磐余)」の地で即位した神武天皇の名は「かむヤマトイハレひこ」であった。

ということから、「高向王」は、「高向」地方の豪族の王であったと考えて無理はないはずだ。

「高向」の名が初めて登場するのは、『日本書紀』の継体紀である。

それによると、継体天皇の母(フル姫)は、夫の彦主人王が亡くなったあと、幼子をつれて、実家のある「高向」に帰ったとしながら、「高向」は越前国の地名だと言う。

さっそく、その地名を『大日本地名辞書』で調べると、越前国坂井郡高向郷なるものが載っており、「オホドノオホキミ=男大迹王」と呼ばれた、後日の継体天皇は、そこで育ったと説明されている。

その「高向」地方に、今も、前方後円墳14基のほか、ほぼ百基の円形古墳が散在しているという事実から、この地方に有力な豪族が勢力を張っていたことを窺い知ることができる。

継体天皇は、天皇になる前には、「オホドノオホキミ=男大迹王」と呼ばれ、即位後には「オホドノスメラミコト=男大迹天皇」と呼ばれている。

この場合の「おほど」は、この天皇の出身を裏付ける地名であること明らかだ。

「オホド」の「ド」が、「ヤマト」の「ト」と同じく、韓国語の「引=ところ」であるならば、「オホ」こそ、この地方の呼称であるということになる。

その「オホ」位する前の天武天皇の名「オホシアマミコ」の「オホ」と同じだということが分かれば、大海人皇子の出自は越前、つまり、越国ということが明るみにでる。

これは、宝皇女と高向王との間に生まれた「漢皇子」が、大海人皇子である証拠の一つだ。

そこで、大海人皇子のことを「漢皇子」と書いて「アヤノミコ」の訓(よ)ませるのはどうしてだろうかを考えて見よう。

まず漢字の「漢」は、韓国音読で「ハン」である。

韓国語の「ハン」には、「大きい・長い・強い」などの意味がある。

つまり、漢皇子の「漢」は、大海人皇子の「大」の当字に使われたものであることがわかる。

日本では、その「漢」を中国の国名としながら「アヤ」と訓むけれども、中国には「アヤ」という名の国があった例しはないのだ。

「漢」を「アヤ」と訓むのは、「アラ=安羅」から「ラ行←→ヤ行変化」(例…加羅=かラ→伽耶=かヤ 歩=あルみ→あユみ)したもので、「アラ=安羅」こそ、「アラカヤ=下伽耶」なのだ。

その「アラ=アヤ」に「漢=ハン=大」を当てたのは、「アラカヤ」が強大になって、「オホアラ=大安羅」と呼ばれるようになったからで、このことについては、「因幡の白兎神話」のところで、もう一度触れることになる。

 

つまり、大海人皇子を「漢皇子=アヤノミコ」と呼ぶのは、「大アラカヤの皇子」という意味からだったのだ。

高向地方(今の福井県坂井郡)は、大国主命が国を奪われたあと、「アラカヤ」の根拠地になっていたから、このように名付けられた。

今敦賀には、式内の「久麻加布都阿羅加志彦神社」・「阿羅加志彦神社」など古い神社がある。

そこに祭られている「アラカヤ」の「カシヒコ=貴人である男」なのである。

 

「阿羅加志彦=アラカシヒコ」は、ついでに、「高向=たかむく」と「漢=あや」の関係を裏付ける証拠を、もう一つ挙げておこう。

それは、推古天皇の時代、唐に留学し、舒明天皇12年10月に帰国した学僧、高向漢人玄理の名に見いだすことができる。

つまり、「高向=たかむく」には「漢人=あやひと」、すなわち「アラカヤ」の人が多く住んでいたことを、このような人名からも確認できるのである。

先にも言ったように、「漢人=中国人」を「あや人」と呼ぶことは、中国の歴史を学んだ人には出来ない相談なのだ。

ちなみに、『東アジアの古代文化』(昭和51年10月25日発行)に載せられた「継体天皇の出自」という論文のなかで、佐野仁応氏が、継体天皇の母「振姫=フルヒメ」と、天皇の母方の祖父「乎波智=コハチ」が、安羅・新羅系だといったのは、継体天皇の出自を的確にとらえたものという意味で評価されるべきだ。

それは、「高向王子」と「アラノミコ=アヤノミコ=オホシアマミコ」の等式関係を示すものでもある。

 
記紀を読んだ人の中には、「『古事記』には、あれだけ克明に書かれている(因幡の白兎神話)が、『日本書紀』には、なぜまったく度外視されているのだろうか?」と訝しく思う方も少なくないはずだ。
 

その疑問に答える前に、念のため、まずその神話のあらましを、さらっておく必要がありそうだ。

出雲の国でオロチを退治したスサノオノミコトは、クシナダヒメと結婚した。

その六代目の孫を(オホナムヂ)と言う。

彼には、このほかに〈アシハラシコヲ〉・〈ヤチホコ〉・〈ウツシクニダマ〉・〈オホクニヌシ〉など、四つの別名がある。

彼には、腹違いの兄弟が八十(やそ)いたが、彼らは、出雲の国の統治権を、(オホナムヂ)に譲った。

その理由は、こうである。

〈オホナムヂ〉は、意地の悪い兄弟たちに翻弄されて苦しんでいた白兎を救けたことによって、美しい因幡の女性と結ばれた。

それを妬む兄弟たちが、ありとあらゆる手段をもって〈オホナムヂ〉を殺そうとしたにもかかわらず、その危機を立派に克服した上、始祖〈スサノオノミコト〉の住んでいるあの世に潜入して、その娘と結婚した。

そのあと、〈スサノオノミコト〉の苛酷な試練を突破して、この世に生還することになるが、(スサノオノミコト)の追跡を振り切って、あの世とこの世の境まで逃げ延びた時、彼は、(スサノオノミコト)から、「今後は、出雲の国の統治者として〈オホクニヌシ=大国主〉の称号を名乗るよう」許されたのである

はなはだ大雑把だが、これが『古事記』に載せられている「因幡の白兎神話」の内容である。

〈スサノオノミコト)の名は、「スサノ=もっとも先の」+「オノミコト=おほの国の神」を意味するもので、彼が、「大国主命=おほの国の神」の六代祖であることを裏付けている。

この神話の中で見逃してはならないことは、次の三つである。

 

オホナムヂには、合わせて五つの名(『日本書紀』は七つとなっている)がある。

オホナムヂの成功は、「白兎」を救けたことに始まった。

出雲国は「おほの国=大国」である。

出雲国が「おほの国」であることは、『出雲国風土記』に記されている、およそ次のような「意宇郡」の地名由来によって、さらに裏付けられている。

出雲の国は、もともと小さな国であったが、(ヤッカミヅオミヅヌノミコト)が、能登半島や新羅など、いろんなところから余った土地を引っ張ってきて縫い付けたので、大きな国(=オホノ国)になった

では、(オホナムヂ)の五つの名の由来から調べて見ることにしよう。

 
オホナムヂ
 

この名は、『古事記』には「大穴牟遅」、『日本書紀』には「大己貴」となっている。

本来なら、「穴」の訓は「あな」であり、「己」の訓は「あれ(吾)」であるはず。

それを、共に「な」と訓ませたのは、「己」の韓国訓が「ナ」であるからであるが、それより古い「己」の訓は「アラ」だ。

「穴=あな」は、その「アラ」が、「ラ行←→ナ行変化」(例…私=ラ=隠岐方言→ナ=万葉訓・ながラへ→ながナヘ)をした形であり、「アラ(吾)」は「アラ」の母音交替形である。

つまり、もとの音は「オホアラムヂ」であったのが、「オホアナムヂ」に変わった後、「アナ」の代わりに「ナ (吾・己れ)」が使われるようになったことがわかる。

この場合、原形の「オホアラムヂ」は、「オホ=大」+「アラ=安羅(アラガヤ)」+「ムヂ(ムチ)=貴い人・王」、すなわち「大安羅王」が原意だったのだ。

 
アシハラシコヲ
 

この場合の(アシハラ)は「葦原」で、出雲国、または、日本列島全域を指す。

「シコ」は、慶尚道方言で「強いもの」であり、「ヲ」は「オ」の誤りで「男」のこと。

すなわち、〈アシハラシコオ〉とは、「出雲国(日本国)の強い男」のことだ。

 
ヤチホコ
 

この場合の「ヤチ」は「八千」であり、「多い」をあらわす。

「ホコ」は、「矛」であり、「武器」意味する。よって、〈ヤチホコ〉とは、「多くの武器をもった人・多くの戦いをした人・強い人」を意味する。

 
ウツシクニタマ
 

「ウツシ」は、「美しい」であり、「クニタマ」をは、「国の玉」。

この名を「スサノオノミコト」から受け継いだことによって、出雲で生産される神宝「勾玉」の支配権を認められたのだ。 

 
オホクニヌシ
 

これは、あらためて言うまでもなく「大国の主人(王)」を意味する。

『日本書紀』は、この他に「大物主=オホモノヌシ」と「大国玉=オホクニタマ」の名が加えられているが、「大物主=オホモノヌシ」は「大国主」と同じ意味であり、「大国玉=オホクニタマ」も「ウツシクニタマ」と同じ意味をあらわす。

要するに、これらの名前は「大国主命=オホクニヌシノミコト」と呼ばれる人物の属性を説明したもので、中で何よりも重要なことは、「オホノクニ」は、「大安羅=オホアラ」と呼ばれていた事実である。

このことは、伽耶の分家である「アラカヤ=下伽耶」が、本家である「ウガヤ=上伽耶」よりも強大になり、「ウガヤ」が衰退してからは、本家に代わって日本列島の主人公になっていたことを裏付けるものだ。

このように、『古事記』に記された「因幡の白兎神話」は、「金氏王族(天皇家)に奪われる前までの日本列島は(オホの国)のものであり、(オホ族=大氏・多臣)こそ、真の皇族である」ことを闡明しているのである。

 

天武天皇は、「オホ族」であるから、その流れを汲む元明天皇は、本来ならば、「因幡の白兎神話」を誇りとすべきであった。

ところが、天武天皇を正統な皇統継承者に仕立てようとする彼女の立場から見れば、(オホ族=大氏・多臣)の偉大さを強調し、そして、真の皇族は(オホ族=大氏・多臣)であることを表面に打ち出せば、壬申の乱の主導者であった多氏の鼻息を、益々強めることになること必定である。

そうなれば、天武天皇一家の影は薄くならざるを得なくなり、天武王朝の礎石は、いつまでもぐらつくようになること目に見えている。

 

事実、天武王朝が始まってから、すでに40年あまり過ぎた和銅五年(西暦712年)になっても、出雲国の朝廷に対する態度は、他の諸国に比べて不遜そのものであった。

『古事記』が完成した時点には、「もはや出雲国の増長をこのまま野放しにしていくことは危険だ!」と痛感していた元明天皇は、オホ族(=大氏・多臣)の偉大さを記した『古事記』を破棄して、あらたに『日本書紀』を編纂させることを決意したのである。

そして、そのような朝廷の方針に反発する「オホ族」の気配をすばやくキャッチした元明天皇は、霊亀二年(西暦716年)から、出雲国の代表者に、朝廷に参上して不変の忠誠を誓うよう厳しく命じた。

これが世に言う出雲国国造の神賀詞奏上の始まりである。

元明天皇が、「因幡の白兎神話」を『日本書紀』に載せなかった背景には、もう一つ、見逃すことのできない動機があった。

 

それは、その説話に出てくる「白兎=しろうさぎ」の意味を解くことで窺い知ることができる。

まず、説話の中の「白兎=しろうさぎ」は、「白い兎」に喩えられた「斯盧人=新羅から来た人」であることから見破らねばならない。

新羅は、昔「斯盧=シロ」・「斯羅=シラ」と言われていたことは周知のとおり。

「うさぎ」の語源は、古代韓国語「オサカ=烏斯含」だが、母音交替により「オサキ→うさぎ」といわれるようになった。

ところが「オサキ」の「オサ」は、韓国の丁寧語「おいでになる……」と同じ発音であり、「キ(ギ)」は「物・者」をあらわす接尾語である。

たとえば、「かつぎ」は「担ぐ」の活用形であると同時に「担ぐ人・担ぐこと」を意味するのと同じで、「斯羅=シラ=新羅」を「シラギ=新羅と言われるもの」というのも、これに所以する。

 

すなわち、説話の中の「白うさぎ」は、動物に喩えられているけれども、実は「新羅からおいでになった人」なのである。

「オホアナムヂ」は、彼の優しさに感動した「新羅からおいでになった人」の助言によって、「オホクニヌシ=大国主」に成り得たというのが、この説話のポイントなのだ。

 

すでに述べてきたように、天武天皇は、親新羅の天皇として知られている。

だが、新しい王朝が始まってから16年すぎた西暦689年頃には、新羅との関係が次第にぎくしやくしたものになりつつあった。

持統三年五月条に、新羅からの使節の冠位が低いことを厳しく非難した記録が見えるのは、そのあらわれの一つだ。

それからさらに時が流れ、『古事記』が成立した元明天皇の時代になると、表面上はまだ友好をよそおっていたけれども、新羅との関係はかなり悪化し、ヤマト朝廷では、勃海や中国との国交を始める気運がたかまっていた。

親新羅政策を伝統にしてきたヤマト朝廷で、「新羅を討つべし」の議論が公にされるようになったのは、西暦759年のことである。

 

このようにして、『古事記』と『日本書紀』が捏造されたことによって、ウガヤ王朝の歴史は抹殺され、その結果、日本の本来の国号「ヤマト」の由来までも後世に伝わらなくなった。

なお、『古事記』には、「黄金の輝くすばらしい国」と描写されている新羅が、「因幡の白兎神話」を削ったあとの『日本書紀』には、「野蛮な国」と蔑視されている理由も、これではっきり納得できるというものだ。

 
百済を滅ぼした新羅に対する憎悪に端を発した嫌韓思想は、光仁・桓武の両天皇を動かした百済女性によってアクセレートされ、ついには、日韓の血縁さえ否定されるところにまで至った。
 
このような極端な動きは、平城天皇の代に絶頂に達したが、天皇の寝室から、百済女性の影響が薄らいでゆくにつれ、皇室の対韓感情は正常にもどっていった。
 

後醍醐天皇の建武年間に、宮中で行なわれた行事を記録した文献には、「天皇が建武二年(西暦1335年)2月11日に、韓神祭りを行なった」と明記されている。

 

周知のように、毎年の2月11日は、今日でも、日本の建国記念日として国の祭日に指定されている。

この日、皇室によって祭られる韓神は、「オホナムチ」と「スクナヒコナ」であるが、この二神は、韓半島から渡来した神であると、日本の国語辞典にも記されている。

「オホナムチ」は、「オホクニヌシノミコト=大国主命」の別名であり、「スクナヒコナ」は、韓半島から出雲国へ帰ってきた昔氏王族であること、すでに繰り返し述べてきたとおりである。

この二神は、『日本書紀』にも記されているように、「葦原の中つ国を建てた」建国神である。

 
このことから推しても窺えるように、日本列島の元来の主人公は、加羅(韓=伽耶)であることを、皇室はつぶさに知っているのだ。
 
すなわち、光仁天皇の時代から復活した金氏ヤマト朝廷で、あれだけ憎悪された韓国ではあるが、やがて、先祖を否定し続けることはできないことに気付き、冷静さを取り戻した皇室では、日韓の血縁を確認する行事を営んできたのである。
 

しかし、韓国とヤマトとの関係は、もはや捏造に歪曲が重なった『古事記』や『日本書紀』の影響を免れることはできなくなっていた。

とくに、江戸時代の賀茂真淵(西暦1697−1769年)によって強調され始めた国学至上主義は、いわゆる皇国史観の基礎となった。

その弟子だった本居宣長は、徳川将軍家の指南を勤める位置にあったので、彼の皇国史観は、朝野に大きな影響を及ぼした。

 
同じ時代に生きた新井白石は、そのような国学至上主義に振り回される学者たちの姿を憂え、「この頃、口癖のように、国学を盛んに唱えている学者が多いが、外国書籍の重要さを忘れては学問にならない」と、彼が残した手紙のなかで警告を発しているが、権力におもねる学者らの動きをとめることはできなかった。
 
そのため、明治以来、『日本書紀』に疑問を挟むことを厳しく禁じられてきた今日の日本社会は、いまだに目隠しされたままの状態におかれていると言っても過言ではない。
 
朴 炳植著「ヤマト渡来王朝の秘密」より
 
オロチのふるさと 高句麗文化と古代出雲
 
「因幡の白兎」伝説の舞台と言われる鳥取市の白兎(ハクト)海岸、紺色にはえる日本海の波は、はるか朝鮮半島へ連なっています。

白兎(シロウサギ)がワニを欺いて淤岐島(オキノシマ)から気多前(ケタノサキ)へ渡るという『古事記』に記されたこの伝説は、高句麗の始祖と言われる東明王朱蒙(トンミンワンチュモン)の建国神話に何故か似ています。

 
広開土王(クワンゲトワン)の陵碑に刻まれた建国神話によりますと、追手に追われた朱蒙が川を渡ろうとしたところ舟がありません。

とっさに天の神と川の神に祈るが早いか、亀やすっぼんが川面に現われ、朱蒙はその背を渡って向こう岸へ逃れました。

 

海に浮かぶ淤岐島(オキノシマ)は島根県の隠岐島(オキトウ)と同じく古代朝鮮の地名であるキンキとキンオキに由来していると言われ、左に見える気多前(ケタノサキ)は海の神である気多神(ケタジン)が朝鮮半島から渡ってきて地名になったと伝えられています。

白兎海岸のうしろ、小高い砂山の麓にある白兎神社、地元では「兎(ウサギ)の宮」とも呼ばれ大国主命に助けられた白兎が祭神です。

その白兎が故事に言う八上姫(ヤガミヒメ)の化身であったにせよ、「因幡の白兎」伝説は古代出雲と朝鮮半島、とりわけ高句麗との関わりを何となく暗示しているようです。

 
高句麗は紀元前1世紀頃、それまでの古朝鮮の領土であった鴨緑江(アムロクガン)の中流域で興ったとされていますが、後の高麗時代に書かれた三国史記は、建国の時期を紀元前37年だとしています。

高句麗族はもともと扶餘族の系統で、始めは卒本(チョルボン)いまの中国遼寧(リャオニン)省にある桓仁(ホワンイン)が都でしたが、紀元前1世紀末には国内城(クンネソン)、今の吉林(チーリン)省集安(チーアン)に都を移しました。

そして強大な軍事力を背景に着々と領土を広げていくなかで最も国の威力を高めたのは、第19代とされる広開大王(クワンゲトワン)の時代でした。

三国史記によりますと広開大王(クワンゲトワン)は391年に即位し、412年に亡くなっていますが、国土を大いに広げたことから広開大王と言われました。

その功績をたたえた高さ6メートルあまりの陵碑がおよそ1800字の銘文とともに、今も集安の地に建っています。

そして光り輝やく交流の証しが高句寮独自の墓と言われる將軍塚や積石塚として、鴨緑江の中流域に数多く残っており、このところ相ついで発掘されています。

…日朝国際交流会議「古代朝鮮文化と山陰」より

 
李 定男(朝鮮社会科学院考古学研究所)
 

雲坪里(ウンピヨンリ)と呼ばれる地域で、私たち朝鮮考古学研究所が高句麗時代の古墳、即ち積石塚の発掘にたずさわったのは1987年からでした。

そのきっかけは、雲坪里地区が高句麗発祥の地、桓仁と集安の中間にあり、しかも二つの町から共に50キロ以内という近い所だったからです。

そして今一つは、桓仁と集安で今までに数万にものぽる積石塚が発掘されていたためです。

ですから、雲坪里にも積石塚があるものとして私たちは発掘にあたりました。

高句麗初期の積石塚のなかで、特に注目されるのが、三年前に朝鮮の慈江道楚山郡(ヂャガンドチョサングン)で発掘された。

蓮舞里(リヨンムリ)二号墳です。

蓮舞里二号墳は、基壇、つまり壇の形をした基礎の無い積石塚で、四角に近い形をした四つの隅にそれぞれつき出た部分が認められました。

 
高句麗初期の積石塚で四隅が突き出た墳墓が見つかったのは、この蓮舞里二号墳が初めてですが、日本では1969年、昭和44年に島根県の瑞穂町(現邑南町)で発見され、その独特な形から四隅突出型古墳又は「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれるようになりました。

これまでに島根県で16、鳥取県と広島県でそれぞれ7つなど、合わせて34基の四隅突出型墳丘墓が見つかっていますが、ほとんど日本海に面した古代出雲に限られており、とりわけ出雲市安来市周辺に集中しています。

 
…日朝国際交流会議「古代朝鮮文化と山陰」より
 
東森市良(島根考古学会副会長)
 
このような古いのが出ているのは皮肉にも中国山地でございまして、島根県の場合も「四隅突出型」というのは邑智郡瑞穂町(現邑南町)、ですから江川支流の山の中でございます。

中国山間地でまとめることができるのですが、そういうところで作られ始めたものが、弥生中期の後葉、三世紀の半ばくらいでしょうか、そこで発達をするわけです。

四隅を作るそういう集団が、この地域にいたということです。首長といいますか、そういう集団がいたということが考えられるわけです。

安来市の西赤江(ニシアカエ)にあるこの宮山四号墓も、古墳時代の初期に作られたといわれる典型的な四隅突出型墳丘墓です。

 
規模は突き出した部分を含めて東西が20メートル、南北が30メートル、突き出した部分は長さおよそ7メートルで、幅がもとのところで5.5メートル、端(ハシ)のところで7メートルとなっています。
 
これら出雲タイプといってよい四隅突出型古墳は弥生時代の後期にあたる3世紀の半ば以降に作られており、紀元前とみられる朝鮮の蓮舞里二号墳とは大よそ四百年の隔たりがあるとみられます。

しかし蓮舞里二号墳を四隅突出型古墳のルーツの一つではないかとする見解もあり、引き続き研究の成果が待たれるところです。

…日朝国際交流会議「古代朝鮮文化と山陰」より
 
李 定男(朝鮮社会科学院考古学研究所)
 

古代から