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神話の世界として、古事記・日本書紀に誅殺された、古代日本のルーツを訪ねて。

出雲の国の心象
 
何が出雲の国なのかを明確にすることは難しい。

弥生時代、古墳時代を通じ、出雲地域が交易性をもって、ひろく各地と交流する地域であったこと、しかもその主要な範囲は、日本海側から九州だったことがうかがえる。

しかし、ほかの地域に出向いてとくに強力な植民地的地域を作ったようでもない。

しかも、交易の結果もたらされる文物、すなわち富とか新技術・思想は、拒まず受け入れるという性格の地でもあったといえる。

こうした点だけみると、きわめて進取的な風土の地と考えられるが、実はこうして導入されるものは、伝統のなかにすべて同化し吸収してしまい、独自の文化の糧とする。

しかも外に対しては、とくに古墳時代以降は、武力的にも文化的にも侵略的傾向をみせない。

しかし一たび出雲の地にはいれば、ゆたかで外来的な要素を多分にもちながら、一方他地域ではすでに失われた伝統や伝承が人びとの生活のなかに伝えられ、独自な文化をもつ次元のちがった世界、という印象を、近畿や近隣の国ぐにに与えていたのかも知れない。

祭りの世界では、遠い祖先の英雄たちや宝器などの伝承が生きていたり、方型の示す世界観が伝えられていたかもしれない。

また数多い横口の棺は、横穴石室の構造だけでなく、それに加えて、なお死者の国への道を外部の者に印象づけたかも知れない。

武力的ではないが、別次元までも包括したような重層した世界、こうした出雲の文化に接したほかの国ぐにの人間には、それは理由のわからない畏怖感となっていたかも知れない。

そのため出雲が別次元の国である黄泉国と結ばれたり、それを祭る葬祭にかかわる集団の出身地と考えられ、また、過去の神がみが生きつづける世界と考えられたのかもしれない。

しかも、きわめて新しい文物も受け入れており、その財力や海上・陸上を問わない遠隔地への行動力への畏れも加わって、すべての神がみの国という評価も生まれたのかもしれない。

出雲のこうした目にはみえないが、近隣への無言の圧力を加えうる力は、宇宙のなかにおける、ブラックホールのようにも思われる。

わが国の古墳時代、大和を中心に新しい社会秩序が形成される動向のなかで、大和・九州・吉備などの勢力がなお生臭く攻めぎあう世界にあって、出雲は各地の情報に通じながら武力的でない、

しかも次元の異なる伝統を隠然と伝え、何もかも吸収して行く力、それは近づくものにとっては直接的な攻撃や反撃としてあらわれないだけに、目にみえない畏れを感じさせる世界だったように思われるのである。

まさに古代の国が成立するとき、ほかに先んじた国だったことが、ブラックホール的世界を形成したのだとも思われるのである。

 
…上田正昭著「古代を考える 出雲」より
出雲の国の風土と神 神々の国観光
 

日本列島の中で、風土がもっともみごとにデザインされているところを探すとすれば、それはほかならぬ出雲だ。

空と陸と水とが互いに映えあうこの風土を背景に、出雲の神々は誕生し、活動した。

出雲の特色はまず自然の配置にある。

地図を展げて北から見てみよう。

出雲の国の日本海に面する部分、そこは『日本書紀』や『出雲国風土記』に「北の海」と呼ばれたところだ。そのむこうに隠岐島がある。

隠岐島と出雲の国との間を黒潮が西から東へと流れている。

冬期には朝鮮半島からの西北の季節風をまともに受けるきびしい国柄でありながら、出雲の風土にやさしさが宿っているのは、黒潮がもたらす南からの文化のせいだ。

古代の出雲びとの意識の奥には、隠岐島の存在がかくされている。

島根半島の千酌から隠岐への渡航船が通っていたことは出雲国風土記にも見えているが、隠岐は沖であり、奥であり、また身を隠すところでもある。

だから、出雲の国の北の果は、ただの荒涼とした海原ではない。

出雲の国でもっとも北にあるのは、いうまでもなく島根半島だ。

この半島は東西に長く伸びている。

半島の西の端に日御碕があり、そこに日御碕神社がまつられている。

石見の波子(はし)で聞いた話だが、そこの津門神社は日御碕神社を遥拝する場所であるという。

60kmの海上をへだててなお、日御碕は航行する船の目印となるとなるところだった。

日御崎神社が一名日沈宮(ひしずみのみや)とも呼ばれて古来夕陽をはなむけするところだったのに対して、島根半島の東の端の美保関は、朝日をむかえるのにふさわしい場所である。

しかも日御碕はその近くに、中世に海外との交易もおこなった宇龍港をひかえ、美保関もまた漁師に縁由のふかい美保関港をもつ。

このように島根半島の東西の端に二つの港と二つの神社のあることは、出雲の国柄の特徴をよく示している。

出雲の風光を賞でる者は、島根半島や湖沼や平野の神々だけを相手とすることが多いが、その背後によこたわる深い山地を忘れることはできない。

この山地は産物にとぼしい。しかし良質の砂鉄を産する。

八岐大蛇退治(やまたのおろちたいじ)の伝承は、鉄穴流(かんなながし)と呼ばれる砂鉄採集と関係がある。

スサノオやその末裔アジスキタカヒコの故事はそうした視点から見ていく必要がある。

これまで述べてきたように、出雲の国の自然は、北の方から半島・湖沼・平野・山地といった具合に順よく配置されていて、それらが互いに照応しあいながらふくざつな味をかもし出している。

出雲びとがその風土をデザインするのにたくみであったということは、国引きの伝承の中の次のすぐれた比喩によっていっそうたしかめられる。

すなわち、国引きのための綱は、神門水海の西がわの薗の長浜であるとされる。

そうして引いてきた国を動かないようにつなぎとめた杭は、三瓶山(佐比売山)であるという。

これは西側のばあいだが、東側では、引綱にたとえられたのは夜見島(弓ケ浜)であり、その引いてきた国をつなぎとめるのは大山(火神岳)である。

東西相称となるように、薗の長浜夜見島三瓶山大山とが対照的にとりあつかわれている。

それは文章の技法としてもみごとであるが、しかしそれだけに終るものではない。

これまでみたように、薗の長浜も夜見島も、外側の海に開いた出雲の人たちの意識を、内面化するのに重要な役割を果たしている。

外側の海の彼方には西には新羅があり、東には越の国があった。

出雲びとはそれらの文化をとり入れながらも、自分たちの独自の文化をそだてることを知っていた。

彼らは海彼の文化をひきよせて、それをにがさないようにつなぎとめた。

こうして古代の出雲びとの意識は風土の枠組を土台にして形成された。

出雲の風土の枠組は東西の線を基調として、半島、湖沼、平野、山地と重層化していた。

それに加えて南北の線がいくすじも走っている。

これらに着目したときに、出雲びとの想像力はそれに応じて大きく飛躍した。

出雲の神々も例外ではなかった。

なぜなら、造化の妙ともいうべき出雲の風土のデザインはまた神々のデザインでもあったからである。

 
…谷川健一著「出雲の神々」より
  
 
出雲神族の系譜
 
出雲は和名抄以豆毛と註し、国内に出雲郡出雲郷あり、蓋し国名の起原地ならむ。

出雲国には太古出雲神族あり、次いで一方に出雲臣ありて雄視す、

出雲神族は出雲を中心として、本州の西部、四国九州の北部にわたり、勢力を奮ひたる強族にして、記紀の神話の伝ふる処によれば、伊弉册尊、素戔嗚尊より大国主命に至り、全盛を極めしが、天孫降臨するに及び、所謂譲国して大和に移り、三輪山を中心とする三輪氏族となれりと。

日本書紀、古事紀、姓氏録、並に、風土記の類により、その神系図を作れば次の如し。

 
 
…太田亮著「姓氏家系大辞典」より
 
古事記のオロチ退治
 
スサノオという神は、高天の原神話では暴れん坊の破壊者として、手に負えない存在であった。

それが出雲の神話では、立役者として登場して、まず有名な「八俣の大蛇」退治という、勇ましくも華やかな活躍舞台を、繰りひろげていく。

そして、人びとに大きな危害を加えていたこの大蛇を退治して、苦難の底から救い出し、力と知と愛とを兼ね備えた英雄として、また出雲族の始祖として、その男性像をガラリと変える。

まことに、出雲神話の中では、スサノオは新しい文化の建設に邁進した、革新的な英雄として、尊愛の念をもって、大きくクローズ・アップされていくのである。

 

高天の原を追われたスサノオは、出雲の国の肥の河上にある鳥髪(鳥上)奥出雲町の地に、天降りしたのであった。

そして、肥の河(斐伊川)に沿って歩いていくと、折しも上流から箸が流れてくるのが、眼にとまった。

そこでスサノオは、「おお、この河の上流には、誰か人が住んでいるのに違いない。」と思って、河をさかのぼっていった。

すると、老夫と老女の二人が、乙女を中にしてサメザメと泣いているのを見かけた。

スサノオはやさしく、そのわけをたずねると、老夫はこういって答えた。

はい、わたしは国つ神(高天の原系の神を天つ神といったのに対して、国土に先住する神。)の、オオヤマツミノ神の子です。

わたしの名はアシナヅチ、妻はテナヅチ、娘はクシナダヒメと申します。

わしにはもと八人の娘がありましたが、越(古志)の国の八俣の大蛇が毎年やって来て、食べてしまいました。

今またちょうど、それがやってくる時期なので、こうして泣いているのです。

そこでスサノオは、「その八俣の大蛇というのは、どんな形をしているのか。」とたずねると、

老夫は、

目はまるで赤いホオズキのようで、からだ一つに八頭と八尾があります。

また、そのからだには、苔や桧・杉が生い、長は谷を八谷、峡は八尾にわたっていて、腹を見ればことごとくに常に血が爛れております。

これを聞くと、スサノオはいった。

よし、その八俣の大蛇は、わたしが退治してやろう。

この娘さんは、わたしにくれませんか。

はい、恐れ多いことですが、あなたのお名前は…。

わたしはアマテラス大神の弟です。

たった今、高天の原から降って来たばかりです。 

すると、老夫はいずまいを正して、「そうでしたか。それは恐れ多いことです。娘をさしあげましょう。」といって答えた。

スサノオはその娘を櫛の形に変えて、自分の髪に挿し、こういって指図をした。

あなた方は、強い洒(八塩折の酒)を醸し、また垣を作りめぐらして、八つの入口を作り、その入口ごとに八つの台を作って、その台ごとに酒樽をおき、それにその強い酒を盛って待ちなさい。

こうして、準備をととのえて待っていると、その夜半に果して八俣の大蛇が、すさまじい風雨を呼んであらわれた。

そして、はげしい雷鳴のとどろく中を、大蛇は八つの谷・八つの峡を越えてやって来たが、やがて樽に盛られた強い酒の香りを嗅ぎつけると、たちまち八つの頭を八つの酒樽につっこんで、一気に飲みはした。が、飲み終ると、一ペんに酔いがまわって、ぐったりと酔いつぶれてしまった。

スサノオはこの時とばかりに、腰の長剣を抜くと、大蛇をズタズタに切り散らした。

たちまちその血潮は、肥の河に流れ注いで、河は真っ赤に染まって流れたのである。

最後に大蛇の中の尾を割いた時に、剣の刃が少しこぼれた。

これはおかしいと思って、剣の先で割いてみると、その体内から一振りの大刀があらわれた。

スサノオはこの大刀を取り出して、ふしぎなものだと思って、アマテラス大神にその事を物語って献上した。

これが三種の神器の一つの、「天の叢雲の剣」後の「草薙剣」である。

この剣は後に、熱田神宮に祭られたのであった。

 
…古事記より
 
オロチ退治伝説の地 雲南市
 
 
スサノオ
 

日本神話に登場する神々の中で、スサノオほど数多くの議論の中心になった存在はない。

明治以来、日本神話を論じる者で、この神を研究しないものはないと言っていいくらい学界の関心は大きかった。

極論すれば、これが日本神話研究の出発点でもあると同時に、その解明が日本神話の謎を解きほぐすための重要な鍵であるかもしれないのである。

 
古代出雲王朝はないとする人でも、スサノオノ命の存在は認める。

延喜神名式に、備後国深津郡須佐能表(すさのお)神社、紀伊国在田郡須佐神社とあるように、この神の崇拝は古くから行なわれ、

また、八坂神社氷川神社(主祭神)等、全国的に広がっているため「否定したくても否定できない」というのが本当のところかもしれない。

 
スサ族はメソポタミアから朝鮮経由で渡来した。

スサノオの名が生まれたとする「スサ」の地名は、鹿児島、福岡、山口、兵庫、高知、和歌山、静岡、千葉、島根の各県に見出される。いわゆる黒潮ルートである。

そして、さらに黒潮を遡るとメソポタミアの「スサ」に突き当る。

 

スサノオの別名は牛頭(ごず)天皇(インド祇園精舎の守護神で除疫の神)という。

「牛冠をかぶった黄人」の意味である。

また、『日本書紀』崇神天皇の条に

任那(みまな)国がソナカシチを(わが国に)遣わして、朝貢した」と、

垂仁天皇の条には、

「御間城(みまき)(垂仁)天皇の世に額に角のある人が船に乗って、越国(福井県)の笥飯(けひ)(気比)浦にやってきた。

そこでこの地を名づけて角館(つぬが)(敦賀)という。

その人にどこの国の者かと尋ねたら、こう答えた。

オオカラ国任那加羅の王子で、名をツヌガアラシト、別名をウシキアリシチカンキという」とある。

 
ソナカシチは朝鮮語。ソは牛、ナカは出てくる、シチは尊称で、「牛のように角の出ている貴人」を意味する。

ツヌガアラシトは「角がある人」、ウシキアリは「額に角があること」を表わす。

これについて韓国の学者・リヘイトウ氏は韓国史の中で、

「角がある人というのは、弁韓および辰韓の人たちがかぶった冠の前面に、角状のものがついているのを見て、こう呼んだのである」と、述べている。

 
スサノオは、朝鮮とも関係が深い。
 
牛頭は朝鮮の地名で、向うではソシモリ(江原道春川府の牛頭州)という。

『日本書紀』にも、スサノオがソシモリへ行ったことが記されており、朝鮮の牛頭山には天主堂があった。

この神を祭神とする京都の八坂神社の社伝には、斎明天皇の二年(656)新羅の牛頭山におけるスサノオノ命の神霊を迎え祀る」と見える。

そして、勧請(かんじょう)したのは遣唐使吉備真備だとも、朝鮮人だとも伝えている。

石見(いわみ)で「韓」または「辛」と名のつく地名のところかならずスサノオ神話が伝承されているし、その子イソタケルを祀る神社にも「韓」の字が冠せられている。

島根県大田市の物部神社境外摂社の漢女(唐女)神社の祭神は、娘のツマヅ姫だ

 

さて、ツヌガアラシトたちの牛冠だが、それをかぶる習俗は古代オリエントに発祥している。

ナラム・シン王(アッカド王朝)の戦勝記念碑は、牛冠をかぶった王が太陽神に勝利をつげる姿を浮き彫りしている。

牛をトーテムとし、神=牛=王と考えたからである。

 
インドでもハラッパーの遺跡から角をはやした神像が発掘されており、インドラ(牛の主の意)やシヴァ、釈迦は、牛を神使としている。

仏足石には、牛を表わす絵文字が刻まれている。

そしてこの牛のマークは、熊本県の釜尾古墳の壁画などにも見られる。

ついでだが、兜の鍬型は牛冠が起源である。

 

これらの牛族は太陽神を奉じ、その象徴である「菊花紋」「木瓜紋」「十字紋」などを用いた。

スサノオの神紋も十字紋の変型である「祇園(ぎおん)守」と「木瓜」である。

スサノオは牛族であった、としてよいだろう。

スサノオはまた蘇民将来(出雲神楽)として信仰されているが、神代文字の研究家・吾郷清彦氏はこれに関して、次のように述べている。

巨旦(こたん)将来、蘇民(そみん)将来の将来は、アッシリア語の「王」で、サアルーがなまって将来になった。

コタンシュメール族の発生地である崖崙(こんろん)山の南ろくのコタンのこと。

ここがコタンの本拠地で、ソミンは朝鮮から満州、蒙古、新疆にまたがる地域に住んでいた、コタン族と同じ系統の民族だろう。

 
スサノオを奉じるスサ族は、はるかメソポタミアのスサに興り、朝鮮を経てわが国へ入ってきた。
 
記紀によるスサノオの神系は次のとおりである。

 

 
オオトシノ神の子、カラ神、ソフル神、シラヒ神の名からも、スサ族が朝鮮より渡来したことがわかる。
 
『播磨国風土記』餝磨(しかま)の郡の条にも「新艮訓(しらくに)と号(なづ)くる所以(ゆえ)は、昔、新羅の国の人、来朝(まいけ)る時、此の村に宿りき。故(かれ)、新羅訓(しらくに)と号く。山の名も同じ」とあり、ここの白国神社でも牛頭天皇(スサノオ)を祀っている。
 

スサ族を新羅系とする根拠は多いのである

早稲田大学教授の水野祐氏も、スサノオを新羅系の神とし、多くの人がこれに同調している。

そして、スサノオの幻影が大きすぎるため、出雲人全体をも朝鮮系としてしまう。

どうも日本の学者の思考は、朝鮮より先(メソポタミア)へは進まないらしい。

 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
紀伊は出雲民族の移住地
 
松前健氏は、「紀伊の海人がスサノオや熊野大神の信仰を出雲へ移した」と説く。

出雲王朝の存在を否定し、出雲を「裏日本」として把えているからである。

だが、上古の出雲は北九州と共に、大陸との貿易の中心地であった。

水野祐氏が言うように「表日本」とすべきなのだ。

 

大山は航海の絶好の目印となったし、美保関、中海は暴風雨をさける絶好の港であった。

室町時代、美保関は幕府の料地で、年々の公用金は五万両にものぼっている。

 
出雲神族の伝承には「大和や紀伊は、出雲の分国」とある。

オオクニヌシの婚姻話も示しているように、出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していたのである。

 
スサノオの天降ったところとして、出雲の斐伊川の川上の鳥髪、安芸の可愛の川上、新羅国のソシモリ、と三カ所があげられている。

紀伊国と関係が深いのは、スサノオではなくてその子イソタケルだ。

さて、スサノオはどこに降ったのか。「砂鉄を求めて」ということなら、これはもう鳥髪、すなわち今日の船通山(1143メートル)に間違いない。

周辺が大砂鉄地帯だからだ。

『出雲国風土記』にも「仁多郡の三処(みところ)、布勢(ふせ)、三沢、横田の各郷から出る鉄は、非常に堅くていろいろなものを作ることができる」と見える。

船通山の六合目の横田町現奥出雲町大呂には近年、鳥上木炭銑工場が復活し、砂鉄を木炭でとかし、銑鉄を作っている。

刀工が「よい日本刀を作るには、ここの砂鉄が不可欠だ」と懇願したからである。

 
『日本書紀』に「イザナミを紀伊国の熊野の有馬山に葬りまつる」とある。

こうしたことも、松前氏の考えを左右したように思える。

イザナミの神陵は、出雲にも七カ所、広島、鳥取、和歌山にそれぞれ一カ所ある。

出雲が群を抜いているのは、それだけイザナミの伝承が多いからである。

 

出雲の熊野では、紀伊有馬村の有馬氏に関して、次のように伝えている。

有馬氏は出雲の炭焼きを業とする集団であったが、縄文時代に大挙して木の国(紀伊国)へ移住した。

出雲の比婆山の祭祀(伊邪那美)や、熊野大神の信仰は、これら有馬氏が出雲からもたらしたものである。花窟神社 熊野那智大社 熊野速玉大社 熊野本宮大社

有馬の地名も、この氏族の名称である、と。

松前氏が誤りをおかしたのは、熊野大神が出雲神族の大祖神であることを知らなかったことによる。

 

…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より

 
熊野三山発行の神符と高句麗 高句麗と古代出雲
 
熊野三山が発行する神符がある。

これは厄除(やくよ)け、悪魔退散のお守り札の効能を持つものとされている。

この「神符」は「熊野牛王法印(くまのごおうほういん)」と呼ばれているが、牛王、牛黄(ごおう)、千羽鳥、御烏などとも言われている。

 

注目されるのは牛王法印のデザインである。

それには霊力を持つ神の使いである三本足の烏が層をなし、重なり、相村しながら結び合っている。

私は熊野の霊力を持つ神符は高句麗の太陽神である三本足の烏の霊力と深く関わっていると見ている。

三本足の烏は太陽を意味する日像であるから高句麗壁画古墳の天井の東側に必ず描かれる。

その反村の西側には月像が配置されるが、その中には象徴として蟾蜍、すなわちヒキガエルが描かれた。

この太陽を意味する三本足の烏は聖鳥であり、太陽神であり、神の使者でもあった。

 

太陽神を意味する三本足の烏は、高句麗王家の象徴であり、シンボルマークである。

三本足の烏といっても烏はカラスである。

どの民族であれ、高句麗王家のように烏を絶対化して尊崇し、最高の権威の象徴として見なすであろうか ?

 
ところで、人間の多様な感覚や人々の生活様式の違い、異なった信仰や風習、風俗のあり方から事は簡単ではなさそうである。

王家のシンボルとしてカラスは似合わないのではないか、だいいち不吉ではないのか、そんな声が聞こえそうである。

確かに最近のカラスの評判は芳しくない。

人の多い都会の繁華街だけではなく、住宅地のゴミ捨て場で食べ物を食い散らす。

黒色で突き裂くような大きな鳴き声、不気味な眼光は嫌な、見るからに不吉な印象を与える。

人の住むところでも繁殖し、その適応能力の高さは人を悩ます。

確かにその黒い姿と鳴く声はヨーロッパでも死と結びつけられ、死の兆し、呪われた人の姿として語られている。

ところが、人の住むところで人の暮らしに関わってきたカラスは吉と凶の二つの面で世界各地の民族の伝承、慣習、迷信のなかで息づいている。

 

北欧の神話では、カラスは神の使いであった。

中国や朝鮮をはじめとする各地の民族伝承でも同じように神の使いであり、道案内の鳥(道祖神=クナトノ大神と見なされたり、吉、幸運を招く鳥として喜ばれてきた。

神の意思を体現し、それを伝える聖鳥・三本足の烏は、日本ではどのように見られてきたのであろうか。

まず、このたび、蘇州(そしゅう)でのユネスコ世界遺産委員会で、世界遺産に登録された紀伊・熊野の古道と関わって考えてみたい。

 
江戸時代の頃、昔からの習いに従って熊野詣(もうで)の人々の列は熊野の険しい山間の古道を「蟻の渡り」のように延々と続いたという。

今日の熊野詣でも年間三百万人を数えるという。

「熊野三千六百峰」が重なり合う霊山、深山に鎮座するのは熊野三山である。

熊野三山とは熊野坐(くまのにます)神社(本宮大社)、熊野速玉(はやたま)大社(新宮)、熊野(なち)那智大社のことを言う。

 

熊野三山のシンボルは神の意思を伝える三本足の烏であった。

この三本足の烏は太陽の化身(けしん)である八咫烏(やたがらす)である。

この八爬烏と結びつくのが熊野三山で行っている神事としての「八咫烏神事」である。 →美保神社「青柴垣神事」

 
日本を建国したという神武(じんむ)天皇の東征の時、紀伊の国の熊野を無事に征服することができたのは三本足の烏の導きがあったからであるという。

日本の八百万(やおろず)の神の最高神である天照大神が神武天皇に八爬烏を遣わして道案内をさせたために建国できたと『日本書紀』巻第三の「神武天皇」の条は記している。

この時の霊鳥は神の使いとしての三本足の烏であった。

現代の人々にとっても三本足の烏の霊力に村する信頼、信仰はかなり強いのではないだろうか。

熊野詣に参加する人々のことを考えるならばなおさらである。

三本足の烏と深い関係のある安芸(あき)・広島の厳島神社、近江(おうみ)・滋賀の多賀大社、尾張(おわり)・名古屋の熱田(あつた)神宮(ヤマトタケルの父景行天皇は出雲国出身のアラカヤ大和王朝)などを考えると三本足信仰とその信頼の底辺は意外にも広いのではないだろうか。

 
…全 浩天著「世界遺産高句麗壁画古墳の旅」より →オロチのふるさと高句麗文化と古代出雲 →熊野信仰のルーツ「熊野大社」
 
……昔、神々は海から日本列島へやってきた。出雲の神々も米と鉄を携えて水平線の彼方からやってきた。大陸から最も近い出雲の国は、古代日本国家の形成にとって最も重要な出発点であった。……
 
スサノオは、朝鮮から砂鉄を求めて、出雲の須佐の港にやってきた。
 

『日本書紀』によれば素戔嗚尊(スサノオ)は息子の五十猛命(イタケル)、娘の大屋津姫命(オオヤツヒメ)、抓津姫命(ツマツヒメ)とともに新羅から出雲へと渡るが、その上陸地点は大田市の仁摩町(観光の見所として世界遺産に登録された石見銀山遺跡がある)から五十猛町にかけての海岸であった。

現在でも、大田市に「韓島」(仁摩町)や「韓郷山」(五十猛町)といった地名が残っており、五十猛町や大屋町の地名は五十猛命や大屋津姫命に因むものである。

また、静間町には国造りにおいて大国主命(オオクニヌシ)と少彦名命(スクナビコナ)が国造りの際に仮住まいとしたという静之窟大田市がある。

 
静之窟
 

ヒイ川の古志人が暴れ、出雲神族のテナヅチ、アシナヅチ(須我神社社家祖)が助けをもとめたので、スサノオがこれを制圧(オロチ退治)した。

スサノオはテナヅチの娘との婚姻によって出雲神族と習合した。

物部氏の直系を名乗る神魂(かもす)神社松江市の宮司・秋上(あきあげ)武雄氏(120代目)は、これに補足する。

出雲神族は弓が浜境港市)(米子市を拠点とし古志(越前〜越後)の人々を使って肥川を治水し、砂鉄を採っていた

古志人は、オオクニヌシの古志の八口(やくち)征伐の話でもわかるように、なかなかの暴れん坊だった。

鉄を求めてやってきたスサノオが、まず衝突したのはこれら古志人なんだ。

ついでだが、須佐神社出雲市は分家でね、このあたりでは須我神社雲南市にお参りすることになっている。

 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
鉄の道文化圏 …「鉄」をめぐる神話の里 →神々の国観光
 
メソポタミアで、青銅器の鋳造がはじめられたのは、紀元前3000年代の昔といわれる。

この鋳造法が中国にもたらされたのは、紀元前1500年代である。

また、ヒッタイトで、鉄器の鋳造が行われたのは、紀元前2000年代であり、これが中国に伝播したのは、紀元前500年頃であった。

中国に、西域あたりから鉄器文化をもたらしたのは、中央アジアの騎馬民族(突厥(とつけつ)族)といわれ、この民族によって、鉄文化は、その後次第に旧満州(現・中国東北区)から朝鮮半島を南下し、やがて日本に伝来することになるのである。

 
突厥族からは、その後「タタール」という部族が興るが、ここに「タトル」という言葉があった。

これが「猛火」を意味し、わが国における「たたら(和鉄)」の語源だといわれる。

そして、紀元二世紀になると、日本からも、「倭人」といわれる人たちが、南朝鮮に、海路鉄を求めて盛んに渡航するようになる。

福岡県添田町の庄原(しょうばる)遺跡から紀元前二世紀頃のものとみられる金属溶解炉跡が発見され、広島県三原市の小丸遺跡からも、三世紀末頃の築造と思われる製鉄炉跡が発見されたことなどをみれば、わが国における「製鉄史」の夜明けは、これまでの推定時期よりもかなり早い段階であったものと思われる。

最近になって、出雲では「鉄の道文化圏」協議会という機関が結成された。

これは、出雲において、古来から「鉄」の生産や輸送にあたり、それぞれ固有の「鉄文化」や神話、伝説などを持つとされる安来市、能義郡広瀬町(現安来市)、大原郡大東町(現雲南市)、仁多郡仁多町(現奥出雲町)、横田町(現奥出雲町)、飯石郡吉田村(現雲南市)の六市町村からなるものである。

安来市は、その昔から、近隣で生産される産鉄の積み出し港として繁栄したところであり、出雲国特有の「玉鋼(たまはがね)」の製錬地としてもよく知られている。

市内を流れる飯梨川からは、良質の砂鉄が採取されてきた。

 
また、飯梨川の中流域に位置する広瀬町には、古くから、全国の製鉄にたずさわる人びとから、「鉄の神」として尊崇をあつめてきた金屋子神社がある。

祭神は、金山彦(かなやまひこ)命と金山媛(かなやまひめ)命である。

「記・紀」では、イザナミが、火の神「カグツチ」を生んで病んだ時、その吐瀉物から、金山毘古神(「紀」では金山彦)、金山毘売神の両神が生れている。

これは、「火を防ぐ力を持つ神」で、何よりも「鉄の神」である。

 
元明四(1784)年に、伯耆国日野郡の鉄山師下原重仲によって完成された『鉄山秘書』という有名な著書がある。

これは、中国山地を中心に発達した古来より伝わる砂鉄製錬法、すなわち「たたら吹き」製鉄法の歴史と実際経営の記録を集大成した日本の製鉄史としては代表的な古典である。

 
この書によれば、この両神は、まず高天原から播磨(はりま)国宍粟(しそう)郡岩鎬(現・兵庫県宍粟郡千種町岩野辺)に天降りしたが、その後、白い鷺に乗ってこの広瀬町に飛来し、以来、山陰地方一円の製鉄業をつかさどった。

大原郡、仁多郡、飯石郡一円にもこの神を祀る神社は多い。

「鉄の道文化圏」のシンボルマークも、金屋子神社に飛来した白鷺が形どられている。

 

さらに、「風土記」には、仁多郡三沢郷(現奥出雲町の条に、この地には、良質の鉄が産出することから、オオクニヌシの子神である阿遅須伎高日子(あじすきたかひこ)命という「鋤の神」が、神門郡高岸郷(現出雲市)からこの地に来向した旨の記載がある。

仁多町(現奥出雲町には優良な山砂鉄が産出されることから、アジスキは中国や朝鮮半島からの先進製鉄技術を携えて、神門地域から斐伊川を遡上し、この地で農耕具などの製作を指導したものであろう。

 
「風土記」仁多郡横田郷(現奥出雲町)の条にも、仁多郡の各郷から産出する鉄材は、その材質が固く、種々の鉄器具を作るのに適しているという注記がある。

横田町には、大峠製鉄炉跡があり、また、「日刀保たたら」といわれる製鉄場がある。

これは、往時の「靖国たたら」といわれたものを復元したものであって、現在、日本唯一の古来からの伝統を承継する「たたら吹き」製鉄法によって玉鋼(たまはがね)を生産する。

 
このような事情からも、「風土記」の当時、仁多郡一円では、すでに盛んに採鉄、製鉄が行われていたものと思われ、この地方は、古来からわが国における「たたら」製鉄の総本山となっていたのである。
 
日刀保たたら
 
また、仁多郡一円の産鉄については、これを輸送するため、古くから「鉄の道」があったものと思われるが、そのひとつが、斐伊川経由で杵築湾に向うコースであり、いまひとつが、飯梨川(布部川)沿いに、広瀬町経由などのルートで、安来地方に搬送されたものであろう。
 
さらに、広瀬町の近隣には大東町がある。ここには、その昔、「オロチ族」の製鉄基地があったと口伝される「清田(せりた)」という地区がある。
 

ここにも、良質の砂鉄を豊富に産出する「赤川」という川があり、古くから砂鉄の採取が盛んに行われていたものと思われる。

その産品もまた、古くから斐伊川経由で杵築湾に搬出される一方、広瀬町(現安来市)、八雲村(現松江市)経由などで、安来地方に搬送されていたものであろう。

そして、吉田村(現雲南市)は、「風土記」にも記載のあるスサノオの本貫地「須佐(すさ)郷」(現出雲市)の近郷にある。

また、吉田村を流れる「飯石(いいし)の小川」については、「風土記」に鉄(まがね)(川砂鉄のこと)あり」という注記がある。

近くには、やはり「風土記」に「鉄(まがね)あり」と記されたの「波多(はた)の小川」も流れている。

ここは、文字どおりの「鉄(まがね)」の里であった。

さらに、吉田村には、「菅谷たたら」遺跡がある。

この遺跡は、中世以来、「たたら製鉄」で栄えた「奥出雲三名家」のひとつである「田部家」に伝わるものである。

一般に「たたら」というのは、砂鉄を原材料とする和鉄製造法をいうが、その用語の意味はまちまちであり、時には、砂鉄精錬場を総称する意味にも使われ、さらには、精錬場の「高殿」「たたら」といわれることもある。

この高殿に、炉が築かれ、これに砂鉄と炭を加え、加熱して熱湯とすることで鉄を選別するのである。

「たたら」は、狭義には高殿内にある送風装置のふいごを指すこともある。

この田部家の高殿は、高さ約8メートル、一辺が18.4メートルもある巨大な正方形のものである。

 
「菅谷たたら」は、ひとつの山に、一大総合精錬場を形成しているもので、山そのものが「たたら」と呼ばれているが、その山内には、この高殿を中心に、鍛冶場、鉄倉、たたら師の住居など多様な施設があり、現存する日本唯一の総合的「たたら」遺跡となっている。
 
なお、最近になって、吉田村では、出雲国古来の「たたら」製鉄法による「玉鋼(たまはがね)」の製法が復元され話題を呼んでいる。

ちなみに、「たたら」場と鍛冶場の両方を含めた総合経営者が「鉄師」と呼ばれたが、その経営には大変な財力を必要とした。

出雲国で特に「たたら」製鉄法による鉄の生産高が高かったのは、

日本国有数の山林王であり、また、大地主でもあった「糸原」、「桜井」、「田部」といった大きな経済力を持った名家が、これを経営したことによるとされている。

 
…和久利康一著「古代出雲と神楽」より
 
韓竃(からかま)神社 →神々の国観光 →出雲市 
 

延喜式神名帳(927年)には韓竃神社(からかまのかみのやしろ)と記されており、

延喜式よりも二世紀古い出雲国風土記(733年)にも記されていることから、創建不詳の非常に古い由緒を持つ神社である。

社名のカラカマは、朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされている。

即ち、これは、祭神の素盞鳴尊が御子神と共に新羅に渡られ、わが国に「植林法」を伝えるとともに、「鉄器文化」を開拓されたと伝えられていることと、関係があろう。

 

また、当社より奥部の北山山系が、古くから産銅地帯といわれ、金堀地区の地名や野タタラ跡、などがみられることと深い関係があるといわれている。

雲陽誌(1717年)によると、当社は素盞鳴尊を祀るとして、古老伝に、

 

素盞鳴尊が乗り給いし船なりとして二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。

この岩は、本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。

また、岩船のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸き立岩あり、これを「帆柱石」という。

社への入口は、横一尺五寸ばかり、高さ八尺ほどの岩穴となっており、奥の方まで二間ばかりあり、これが社までの通路となっている

 

と記されている。

韓竃(からかま)神社に行くには出雲市雲州平田駅から弁慶伝説で有名な鰐淵寺(がくえんじ)に向かう。

唐川の小学校の前を左折すれば鰐淵寺に行くが、そのまま唐川川(からかわがわ)沿いを直進する。

5、6分車で走ると右手に鳥居、左に唐川川に突き出た岩船を見ることができる。

 

苔むした石段の右側には転落防止のロープが張ってあり、社までの道程の険しさを想像させる。

スイッチバックのようにして高度を稼ぎ200mも登ると大きな岩がたちはだかる。

左から回り込むように登るが、ここはロープが無く非常に怖い。

岩の裏に回り込むと、想像を絶する光景に出会う。

何だこれは !!……目の前には斜めの光の線が……これが社の入口である。

太った人は通行不可能だ。

やっとの思いで入口の岩の切れ目を通過すると小さな社があった。

神社は大社造ではなく神明造である。

歴史が古いので創立当時の姿はわからないが、時代の変遷で今の姿になったのだろう。

大陸と最も近い出雲のこの地に、出雲神族の祖先となったスサノオが、岩船で天降りした。

そして、その神が全国の神社で祀られている。

正に日本文化のあけぼのがここにある。

 
韓竃神社(からかまじんじゃ)…地元の人は(かんかまじんじゃ)と呼んでいる
須我神社(スサノオとイナダヒメの新居)神々の国観光
 
八俣の大蛇を退治し、めでたくクシナダヒメ(出雲神族)を妻にしたスサノオは、いよいよ宮殿を造るべきところを求めて、須賀の地雲南市に至った。
 
そこは山は高く、水の清い地であったので、スサノオは思わず、「ああ、わたしはこの地に来て、やっと心もすがすがしい。」と、感歎の声を発した。

そして、ここに宮殿を造ってお住まいになったが、それからこの地を須賀というように、なったわけである。

こうして、スサノオはクシナダヒメを妃として、須賀の宮におられた時に、そこから雲が立ちのぼった。

これを見たスサノオは、

 
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
 
(雲までが八重に 湧き立ち 宮に八重垣を 作っている。 わたしたち二人を 寵らせようと 雲が立つのだ ああその八重の 瑞垣よ。)
 
という和歌をよんだ。

尊の姫への思いが伝わってくる作品である。

『古事記』はこれを日本最古の和歌だとする。

それから、クシナダヒメの父の、アシナヅチを召して、「そなたは、稲田の官主スガノヤツミミノ神と呼んで、この須賀の宮須賀神社雲南市の首長になりなさい。」と、仰せられた。

このようにして、クシナダヒメとの間に、ヤシマジヌミノ神以下の、たくさんの子を生んだ。

その子から順々に孫が生まれて、八代目の孫にオオクニヌシノ神が生まれた。

この神は別名を、オオナムジノ神、アシハラシコオノ神、ヤチホコノ神、ウツシクニタマノ神などといって、五つの名がある。

…古事記より

  

須我神社は古事記・日本書紀に顕われる、「日本初之宮」である。

そして、ここが「三十一文字和歌発祥の地」であり、この御歌の出雲が出雲の国名の起元でもある。

 

又須佐之男命と奇稲田比売命の間の御子神が清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)で、この三神が当社の主祭神である。

出雲風土記(天平五年、西暦733年)では、此処を須我神社、須賀山、須我小川等の名に表現され、風土記抄(天和三年、西暦1683年)には須我村とあり須我は広く此の地方の総称であつたことがうかがえる。

須我小川の流域に、曽つて12の村があつて、この須我神社は、この地方の総氏神として信仰されていたものである。

また、須我山(御室山、八雲山)の山ふところには巨岩夫婦岩並びに少祠があり、須我神社奥宮(磐座=いわくら)として祭祀信仰されている。

 

須我山の主峰八雲山は、眼下に中海や宍道湖を見おろし、島根半島から弓ヶ浜、東方遥かには出雲富士(伯耆大山)を望む景勝地で、

近年から頂上で盛大に行なわれる歌祭り(問0854-43-2906)をはじめ、四季にわたって全国各地から来遊の登山(参拝)者が多くなっている。

…須我神社由緒より
 
須我神社奥宮として三神を祀る岩座(通称夫婦岩)
  
しかし、スサノオが「八雲立つ」の歌を詠んで、イナダヒメ(出雲神族)と結婚したと伝えられる地は、まだ他にもある。
八重垣神社 →神々の国観光 松江市
 
世俗的に一番名高いのは、八重垣神社であろう。

この社は縁結びの神としても有名で、若い男女の参拝者が多い。

八重垣神社の名は「出雲八重垣」にちなむが、所在地は須賀ではなく松江市佐草町である。

社記は須賀から避難地であった佐草へ移って宮作りをされ、これを八重垣の宮と呼んだと伝える。

 
八重垣神社の奥の小径をたどると、佐久佐女(さくさめ)の森と呼ばれる一角に、清水の湧き出る池がある。

その池は小さいが、うす青い透明さをもっている。

小泉八雲はここを「神秘の森」と称揚した。池のそばに天鏡社が祀ってある。

伝説によると、八重垣姫はこの池を水鏡として、自分の姿を映したという。そこで姫が死んだのちも、たましいは池に残った。

姫の面影は沈み、ここをおとずれる人たちに、水の底から親しげに話しかけている思いがする

 
…谷川健一著「出雲の神々」より
 
佐久佐女(さくさめ)の森の池
 
近くに神魂神社があり、イザナミを合祀している。
 
神魂(かもす)神社 →神魂神社と日本書紀編纂 ! 神々の国観光
 

創建については詳らかではない。

出雲風土記にも延喜式にもこの社の名は見当たらないが、出雲の国造(こくそう)の祖神アメノホヒが、ここに天降りして創建したたといわれている。

本殿は最古の大社造で国宝に指定されている。

出雲国造家が祖神アメノホヒでなく、遠祖のイザナギでもなく、なぜ女神イザナミを祀ったのであろうか。

 

それは、出雲はスサノオのたどりついた根の国である。とする認識があって、

妣の国(ははのくに)根の堅州国(ねのかたすくに)に鎮まる神・イザナミの影が、古代中央の知識人の、心の奥深くに大きく暗く立ちはだかっていたのではなかろうか?

──その心の中の影が国造家にも色濃くわだかまっていた。

まず、根の国を支配する大神のみたまを鎮め、祭祀を厚くしなければ、古代人の心理としては安心して何もできなかったのであろう。

 
…小山 和著「古道紀行出雲路」より
 
神魂神社
  
日御碕神社 →神々の国観光 日御碕観光
島根半島の西端の、日本海の怒涛の打ち寄せる出雲市大社町日御碕に、鎮座する「日御碕神社」も有名である。
 
山裾の高低を利用して、上段にはスサノオを祭った上ノ宮、下段にはアマテラスを祭った下ノ宮がある。

社殿は江戸初期の権現造りである。

この社の西北方の、半島の突端には、東洋一といわれる有名な「日御碕灯台」が、そそり立っている。

そして、ここの展望台に立って見渡すと、北には隠岐、南には「国引き」の神話で名高い三瓶山大田市が、クッキリと望まれるのである。

風土記に美佐伎社、また御前社、御埼杜の三祠を記している。

伊勢神宮にたいして落日西海の方だから、日沈宮というと伝えられる。

下の宮はアマテラスをまつり、もと経島(ふみしま)に、上の宮はスサノオをまつりもとは今の社の後の隠丘にあったといわれる。

摂社にアメノフキネをまつる神社がある。

この神はスサノオがヤマタノオロチを退治して得た宝剣をアマテラスに献上した神ということになっているが、その子孫と称する小野家は日御崎神社の祭祀をつかさどる。

毎年大晦日の夜、斎主の宮司は、たった一人で神山(天一山)にのぼって、剣を天神にたてまつる秘事をおこなう。

この神事の夜は、雨雪がどんなに烈しくても、神事と共に空は晴れたわり、いまだかつて斎主の祭服をぬらしたことがないとされている。

 
…小山 和著「古道紀行出雲路」より
日御碕神社の祭神はよくわからない。

スサノオを祀る上ノ宮は、千木の上端を水平に切ってある女千木で、女神を祀る神社である。

アマテラスを祀る下ノ宮は、千木の上端を垂直に削いである男千木で、男神を祀る神社だ。

日御碕神社は出雲の要所に鎮座する、出雲族の祖神を祀る古い社である。

出雲人が、同じ太陽信仰族でありながら、裏切った天武天皇が作ったアマテラスを、祀るはずがない。

アマテラスを祭神とするのは、天武天皇が自政権の正当性を主張する為に、全国の神社を捏造改竄し、プロパガンダとして利用しているのを、具現化したものにすぎない。

出雲族の太陽信仰の象徴はスサノオである。

元宮が海にあった下ノ宮は、海の彼方から渡来した祖神スサノオを祀るに相応しい。

元宮が山にあった上ノ宮は、甘南備山として、母神イザナミを祀るに相応しい。

 
日御碕神社上ノ宮
 
須佐神社(スサノオ終焉の地に鎮座)神々の国観光
 

出雲市佐田町須佐にある須佐神社は、霊能をテレビなどで紹介された。

須佐神社のある須佐は山に囲まれた盆地である。

見るものすべての情景が重たく感じる。

山陰特有の湿った空気には、神々の霊が漂っているのだろう。

 

須佐神社は神の入り口(神戸川)を遡り、その支流を分け入った須佐川に鎮座している。

出雲国風土記によると、神須佐能袁命(かみすさのおのみこと)がこの地に来られて仰せられるには、

 

この土地は狭い土地であるけれども、好い住まい所である。

それゆえ自分の名は石や木に留めるようなことはしないで、この土地に名を留めよう。

 

と仰せられて、そのまま御自身の御魂をここに留めてお置きになった。

そして御言葉のとおり御名を留める御名代田(みなしろだ)として、大須佐田と小須佐田の御料田をお定めになった。

この由緒によって郷名を須佐というのである。

スサノオは奥出雲でオロチ退治をして、雲南市大東町にある須我神社に、稲田姫と新居を構えた。

全国各地に大陸からの文化を伝え、日本文化の礎を築き、そして「須佐の地」を終の住処とした。

 

佐田町には日本の原風景そのものの姿がある。

しかし、山陰特有の湿った、なにものかが存在するかのような、重たい空気が醸し出す風土は、神々の国特有のものである。

そこに、スサノオの御霊が永遠の眠りについている。

あなたが、この地に、スサノオに会いに訪れたとき、祖神スサノオは、きっと、あなたに何かを語りかけてくれるはずである。

神社の後ろに、樹齢1200年を超すという巨大な杉の神木がある

この杉は霊力を持つと言われ、そのパワーを貰いに撫でるので、根っこがツルツルに光っていた。

 
スサ族の地に鎮座する、全国のスサノオを祀る神社の総本社「須佐神社」
 
熊野大社(日本国一ノ宮)神々の国観光 松江市
 

歴史が古く、社格の高いのは、「熊野大社」である。

松江市大庭町から更に南の方約五キロほどの、八雲町に鎮座している。

社地は意宇川の上流、三方を山嶺に囲まれた渓流に面している、社殿は新しいが雄大だ。

紀の神代巻一書の五に「素盞鳴尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居しまして、遂に根国に入りましき」とある。

 

根の国は母なる国大地とも、海のむこうの霊地とも考えられているが、大国主が八十神の迫害を逃れてたずね入った根の国は、素盞鳴の住む冥界としてあつかわれる。

熊成が熊野であり、出雲族は祖神が根の国へ入られた熊野を聖地として素盞鳴を祀り、国造家が祭りを執り行なった。

 
静かな社前の左手に、古代家屋を思わせる鑽火殿(さんかでん)がある。

熊野大社は、延喜式に「熊野坐神社大名神」とある。

素盞鳴から天穂日へ鑽火、即ち火を鑽(き)る術が伝えられたとの伝承があり、毎年新嘗(にいなめ)の祭りには当社から火燧臼、火燧杵が出雲大社宮司、つまり国造へ授けられる。 

神魂神社との関係

鑽火殿はその聖火の殿堂なのである。

 
出雲ノ国一ノ宮は出雲大社ではなくて、当社であった。
 
…小山 和著「古道紀行出雲路」より
 
熊野大社は松江市八雲町熊野に鎮座し、杵築大社、即ち今の出雲大社と並んで出雲の二大社であった。

上述文徳実録仁寿元年(851年)の史実や、三代実録貞観九年(867年)四月の条に、「八日丁丑、(中略)出雲国従二位勲七等熊野神、従二位勲八等杵築神、並びに正二位を授く」とあるように、両社は常に並称せられ、両者のための神戸は、意宇・秋鹿・楯縫・出雲・神門の各郡に置かれて、特別な奉斎がなされていた。

熊野大社の祭神については、風土記の出雲神戸の条に、「伊弉奈枳乃麻奈子に坐す熊野加武呂乃命」、即ち伊邪那岐命の愛児である熊野の神様とだけ見えているが、出雲国造神賀詞には、「伊邪那伎乃日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」と見えている。

熊野大神の熊野坐大神は、熊野に御鎮座の大神の意、櫛御気野大神の櫛は奇の借字で神秘神聖な意。

御気は御食すなわち御食事、野は主に通じて主となって掌るをいう。

 
従ってこの神名は、伊邪那伎命の御愛息である神で熊野に御鎮坐の大神、神聖な御食事を掌られる神、奇御食主という意である。
これによって考えると、この神は出雲の最高の食糧神と考えられる。出雲大社歴史
この櫛御気野命という神名は他の古典に見えない神名である。

本居宣長古事記伝の出雲国造神寿後釈において、この櫛御気野神は須佐之男命御霊を称え奉った御名であると記され、現在でも祭神は須佐之男命とせられている。本居宣長の思想

しかし、出雲神族伝承では「クナトノ大神」を祀るとしている。
本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、学術的には偽書とされている先代旧事本紀・神代本紀「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から「櫛御気野命」が「素戔嗚尊」と同一視されるようになったことがわかる。
 
日本民族の大祖神「クナトノ大神」を祀る「熊野大社」
 
クナトノ大神(日本民族の大祖神)
 

出雲神族はシュメールを追われ、インド→ビルマ→タイ→中国江南→朝鮮→ソ連→カムチャッカ半島→千島列島→北海道→出雲へと渡来した。

日本の米は中国種である。

 
クナトノ大神は、「農耕を教えた」という。

中国の稲作は、縄文前期の紀元前4700年ごろに始まった。中国江南を通過する際、稲作を覚え、種子を日本にまで運んだのであろう。

クナトノ大神は食糧神という性格があるので、全国で神として祀られていたのであろう。

食糧は人々が生きていく根源的なものであるから、すべての神々の最高位の神とされたのである。

全国の食糧神を祀る神社の祭神の本性は、この神でなくしてはありえない。

熊野大社は全国の食糧神を祀る神社の総本社なのである。

伊勢神宮内宮が王家の祖神を祀り、出雲大社が日本民族の祖神を祀る神社とすれば、熊野大社は食糧神を祀る伊勢神宮外宮のような存在であるといえる。

 
出事大社は、クマノノ大神とオオクニヌシを主祭神とする。

これは封じ込め、鎮魂の神である。

オオクニヌシは、オオナムチ、ウツクシタマ、アシハラシコオ、ヤチホコ、オオモノヌシなど、数多くの名前を持っていた。

実は、オオクニヌシは代名詞であり、数代にわたって、何人もいた(十七代と伝える)のである。

上記の名前も実名ではない。

古代出雲において、オオクニヌシは重要な存在ではなく、その祭祀もなかった。

『熊野大社は「旧辞記」に「出雲国熊野杵築神宮」と見えている。

出雲大社が杵築へ移ったのは霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にあり、クナトノ大神を祀っていた。

 

日本書紀では、泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギ「これ以上は来るな」と言って投げた杖から岐神(ふなどのかみ)、来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。

古事記では、上述のイザナギの禊(みそぎ)の場面で、最初に投げた杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)が化生している。

 
後に、中国から伝来した道路の神である道祖神と習合した。また、仏教地蔵菩薩とも同一視された。
 

聖武〜桓武までの各天皇はクナトノ大神の力を恐れ、平安京長岡京、信楽(しがらき)京などではサイの大通りを作り、都の四隅に神社を建てて鎮魂の供養をした。

六月、十二月には道饗(みちあえの)祭を催し、祝詞(のりと)を捧げた。常磐国など東国はこの神が開拓したもので、香取神宮の主祭神普都(ふと)大神ともなっている。

 

私は出雲市を訪れたとき、ひょんな体験をした。

クナトノ大神を祀る出雲井神社(いづもいかみのやしろ)に寄ってみようと思い、出雲大社の社務所で道をたずねた。

ところが、なかなか教えてくれないのである。

うさん臭そうに、こちらの顔を眺めながら、「なぜ、そんなところへ行くんですか。小さな社がポッンと立っているだけで、なんにもありませんよ」と言う。

道順を聞き出すのに、五、六分も押し問答をしなければならなかった。

社家では出雲井神社と聞いただけで、神経をビリビリさせるのである。

社家にとって、出雲井神社を訪れる者は、危険人物なのであろう。

出雲井神社は、出雲大社の東、宇伽(うが)山のふもとの竹薮に、ひっそりと忘れられたように建っていた。

 
クナトノ大神を祀る出雲大社末社「出雲井神社」…地元では出雲井神社と言っても分からない、才の神さんと呼んでいる。
 
 
上記の系図を見て、ナガスネ彦が出雲神族であるのに驚かれたことだろう。

当然である。

富氏(出雲神族)から特に教えられたもので、歴史学者でも知っている人はいない。

そして、この一事が古代史を解く大きな鍵となる。

 
もっとも、「ナガスネ彦が出雲神族だった証拠でもあるのか」と、反発する向きもあろう。

これに関しては、神名をたどると割り出される。

 

諏訪神タテミナカタの正式名はタテミナカタノトミノ命であり、上下社はトミの上つ社トミの下つ社という。

トミノナガスネ彦の妹はトミヤ姫だ。

イセツ彦の後、伊勢・志摩を守っていたのはイサワトミノ命(伊雑(いさわ)宮旧記)であった。

『出雲秘文』や『九鬼文書』では、オオクニヌシの父にサオトミノ命を置いている。

これらのトミが、現代の富氏(出雲神族)につながるのである。

 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
 
妣(はは)の国物語
 

古事記』の創成神話では、まず高天の原にアメノミナカヌシノ神が生まれ、つづいてタカミムスピノ神・カミムスピノ神の三神が、単独神として現われた。

次に国土がいまだ出来たての状態で、水面に浮かんだ油や、海に漂っているクラゲのように、流動していた時に、泥の中から葦の芽のような、若く力たくましい物によって、ウマシアシカビヒコジノ神、アメノトコタチノ神が生まれる。

これについで、クエトコタチノ神、トヨクモヌノ神……と、男女の性別をもった双生神が生まれ、最後にイザナギノ神・イザナミノ神が生まれてくる。

イザナキ・イザナミは、葦原中国に降り、結婚して、大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。

国生みを終ったイザナギ・イザナミの両神は、つづいて神生みを行なうことになった。

そして、生まれて来たのは、岩石の神、土砂の神、家屋の神、風雨の神、海川の神、オオヤマツミノ神などの山野の神、草木の神、渓谷の神、アメノトリフネノ神などの船舶の神、それ豊穀の神などであった。

ところが、最後にヒノカグツチノ神という、火の神を生んだ時に、イザナミノ神は陰部に火傷を負って、頻死の床についてしまった。

イザナギノ神の祈りもついに空しく、イザナミノ神は火の神であるカグツチノ神を生んだために、死んでいった。

最愛の妻を失くしたイザナギノ神は、「いとしい妻よ、一人の子のために、そなたを失ってしまった」と、悲しみのあまりそのなきがらの枕もとや、足の方に這い臥して泣いた。

そして、イザナミノ神のなきがらは、出雲の国と伯耆の国との境にある比婆の山に、葬られたのである。

黄泉の国へ行ってしまった妻イザナミのあとを患って、イザナギはもう一度妻を現世に取り戻そうと、黄泉の国まで追っていき、御殿の石の戸口の前に立った。

イザナミは思いがけなく、夫に会うことができたので、喜んでその石の戸口まで出迎えてくれた。

イザナギは妻を見ると、口早にいった。

おお、いとしいわが妻よ。わたしとあなたが作った国は、まだ作り終ってはいない。さあ、一緒に帰っておくれ。

すると、─ イザナミは、

はい、でも、もう少しあなたが早く、迎えにおいで下されば、よかったのに……。

わたしはもう、この黄泉の国の不浄の火で、炊いた食物を食べましたので、からだが穢れてしまいました。

しかし、あなたがせっかくお出で下さったのですから、何とかして帰りたいと思います。

黄泉の国の神と、かけあってみましょう。

しかし、わたしが戻って来るまでは、決してわたしを見ないで下さい。

こういい残して、イザナミは御殿の内に入っていったが、いつまで経っても姿をあらわさなかった。

とうとうしびれを切らしたイザナギは、女神のいったいましめを忘れて、左の髪にさしていた櫛の歯を一本折り取って、火をつけた。

そして、中に入ってみると、そこにイザナミは横たわっていた。

そのさまを見ると、イザナミのからだには、何とまあ姐がわいて、ドロドロになり、しかも頭・胸・腹・陰部・両手・両足などには、その穢れから生まれた八柱の雷の神が、うずくまっていたのである。

こうした情景を見たイザナギは、びっくり仰天した。そして、一目散に逃げ出したが、イザナミは逃げていく男神の背に、浴びせかけるように叫んだ。

よくもまあ、わたしに恥をかかせましたのね。

さっそく、女神は黄泉醜女(よもつしこめ)というおそろしい女鬼に、その後を追わせた。

イザナギはこの醜女を追い払うために、髪につけていた黒い蔓草の輪をとって、投げつけると、それがたちまち野葡萄の実になった。

これを醜女がむさぼるようにして、食べている間に、イザナギは逃げのびた。

が、食べ終るとまた、醜女は追いかけて来たので、今度は右の髪に挿した櫛の歯を欠いて投げた。

すると、見事なタケノコが生えた。

醜女がそれを抜いて食べている問に、イザナギは逃げ去ったのであった。

こんどは女神の方では、そのからだから生まれた八柱の雷神に、黄泉の国のたくさんの軍勢をそえて、追わせて来た。

そこで、イザナギはせまってくる軍勢たちを、追い払うために、腰の十拳(とつか)の剣を抜いて、これを後手に振りながら逃げのびた。

それでもまだ、黄泉の国の軍勢たちは、黄泉比良坂の坂下まで追って来たので、イザナギはその傍らにあった桃の実を三つとって、投げつけると、とうとう黄泉の軍勢はことごとく逃げ還っていった。

そこでイザナギは、桃の実に向かって、「お前が今、わたしを助けてくれたように、この葦原の中つ国にすむすべての民草が、苦難に陥って憂え悩んでいる時には、助けてやってくれよ。」といって、その手柄を讃めたたえて、オオカムヅミノ命という名をつけたのであった。

最後には女神みずからが追って来た。

それを知ると、イザナギはそこにあった千引石(ちびきいわ)…千人もかかって引くほどの大きな岩石を、黄泉比良坂にふさいで、その石を中において向かいあい、絶縁のことばを交した。

すると、女神はその時、

「いとしいわが夫よ。それならわたしは、これからあなたの国の人たちを、一日に千人殺してやりますから。」というと、

イザナギはそれに答えていった。

いとしい妻の命よ。あなたがそうするならば、わたしはー日に千五百の産屋(うぶや)を、建てることにしょう。

そういうわけで、この世では一日に必ず千人はどは死に、また一日に必ず千五百人ほどは、生まれてくるのである。

こうしたことから、女神のイザナミを黄泉大神(よもつおおかみ)といい、また追いついたことから、道敷(ちしき)の大神ともいうようになった。

また、黄泉の坂をふさいでいた大岩を、道反(ちがえし)の大神とも、塞(さや)ります黄泉戸(よみど)の大神ともうようになった。

そして、この黄泉比良坂(よもつひらさか)は、出雲の国の伊賦夜坂(いふやさか)東出雲町のことであるといわれている。

死という穢れに触れて、黄泉の国から戻って来たイザナギノ神は、「わたしはほんとに、いやな穢い国へ行ったものだ。どーれ、禊でもして、からだを洗い浄めよう。」といって、九州の日向の橘の小戸(おど)のアハギ原へ、出かけていった。

そして、そこで杖・帯・袋・衣・褌(はかま)・冠・左右の腕巻などを、次々に投げすてると、それからさまざまな十二柱の神々が誕生した。

衝立船戸神(つきたつふなとのかみ、杖から生まれる)…クナトノ大神

道之長乳歯神(みちのながちはのかみ、帯から生まれる)

時量師神(ときはかしのかみ、袋から生まれる)

和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ、衣から生まれる)

道俣神(みちまたのかみ、袴から生まれる)

飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ、冠から生まれる)

奥疎神(おきざかるのかみ、左手の腕輪から生まれる)

奥津那芸佐毘古神(おくつなぎさびこのかみ、同上)

奥津甲斐弁羅神(おきつかひべらのかみ、同上)

辺疎神(へざかるのかみ、右手の腕輪から生まれる)

辺津那芸佐毘古神(へつなぎさびこのかみ、同上)

辺津甲斐弁羅神(へつかひべらのかみ、同上)

イザナギノ神は、こうしてその川の流れを見ながら、「どうも上っ瀬は瀬が速いし、下っ瀬は瀬が弱い。」と、流水のぐあいのちょうどいい中っ瀬におり立って、からだを洗ったが、その穢れから二柱のマガツヒノ神が現われた。

次にその二柱の神がもたらす禍を直そうとして、カムナオピノ神などの三柱の神が誕生した。

次に水底・水中・水面の順で、からだを洗うと、三柱のワタツミノ神と、三柱のツツノオノ神の誕生を見た。

この三柱のワタツミノ神は、安曇連(あずみのむらじ)などの祖先神として、いつも祭られる神で、安曇連はワタッミノ神の子の、ウツシヒガナサクノ命の子孫なのである。

また、三柱のツツノオノ命は、住吉神社に祭られている三座の神である。

こうして、一番最後に左の目を洗うと、うるわしく照り輝く神、アマテラス大神が誕生し、右の目を洗うとツキヨミノ命、鼻を洗うとタケハヤスサノオノ命が、現われたのであった。

こうして、イザナギの神の左右の眼と鼻から、三柱の神が出現すると、イザナギはたいへんに喜んで、

「わたしは次々に子を生んで、その最後に三柱の貴い子を得た。」といって、

玉の首かざりをはずし、美しい音をさせながら、これをアマテラス大神に授け、「あなたは高天の原を治めなさい。」と、神勅をくだした。そして、この首かざりの玉を、ミクラタナノ神といった。

また、ツキヨミノ命には、夜の世界を、スサノオノ命には海原(うなばら)を、治めるように命じた。

これによって、この三貴子の世界分治が決ったのである。

 
…古事記より
 
アマテラスはいなかった !
 

天皇家でも古くは、スサノオはむろんのこと、この神も祀ってはいなかった。

『延喜神名式』によると、宮中神祇官の西院(斎院)八神殿の神々は、タカミムスビ、カミムスビ、タマツメムスビ、イクムスビ、タルムスビ、オホミヤノメ、ミケツカミ、コトシロヌシである。

 

天皇家の氏神、守護神は、いわゆるムスビ系の神なのだ。

オホミヤノメは宮廷に仕える巫女の神格化、ミケツカミは稲の神、呪いを残して死んだ出雲の神コトシロヌシは封じ込めの神と考えられる。

 
アマテラスは、『祈年(としごいの)祭』『六月(みなつき)の月次(つきなみ)』『十二月(しわす)の月次』などの祝詞(のりと)に出てくるが、祭りの本質部分には登場しない。
 

最初に誦みあげられるのは上の八神で、アマテラスのほうは後半に、「ことわきて伊勢にますアマテラス大神の大前に申さく」と、とってつけたように、記されているだけだ。

 
太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によると、イザナギ、イザナミの七十六人の子のうち、アマテラスは六十六番目、スサノオは六十七番目の子になっている。

この二人は、余り者としか映らない。

 
『祭神紀』は伝える !
 
アマテラスと倭(やまと)の大国魂の二神を八神殿に並べて祀ったところ、天孫系と出雲系の祖霊神は共に住むことを好まず、天災地変が起り、疫病が流行した。

そこで二神とも宮殿より出し、大国魂(オオモノヌシノ神)はオオタタネコを祭主として大和の三輪山に祀った。

アマテラスは笠縫村などにいたが落ち着かず、結局、大和を離れて遠く丹波に行き、あちこち放浪したのち、伊勢に移らざるを得なかった。

 
伊勢神宮において、もっとも重要な新嘗(にいなめ)祭の祭儀は、トヨウケノ神を祀る外宮優先だ。

明治天皇も伊勢参拝の折、アマテラスを祀る内宮ではなく、外宮から詣でている。

 

アマテラスが伊勢の神となったのは、かなり後世のことである。

伊勢大神宮の形を整えたのは、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で戦勝した感謝の気持から社殿を造営したのに始まる。

しかし、伊勢神宮を創建した天武天皇は、天皇家の菩提寺には祀られていない。

大和岩雄氏によると、天皇家の菩提寺、泉涌寺では、天智からすぐ光仁、桓武と続き、天武系は除外されている。

 

滋賀県大津市は三井寺のそばに、門跡寺円満院がある。

昔は格式が高く、俳聖芭蕉でさえ入ることを許されなかった。

美しい鶴亀式の池があり、これに連なる掘割に橋がかけられその先に天皇家代々の位牌を安置する位牌堂が建っている。

ご門跡の三浦道明氏は、「当院にも、天武系の位牌はない」と言う。

 
伊勢神宮の祭神である天照大神は、宮中の八神殿に祀っていない。

明治まで歴代の天皇の伊勢神宮参拝はなかった。

 

しかし、明治政府は慶応4年(1868)〜明治5年の短期間に集中的に神道国教化政策を実地し、伊勢神宮を天皇の宗廟として位置付けた。

一方、近世以来氏神を祀り、民の心のふるさとであった村鎮守の由来と祭神を改ざんし、伊勢神宮の末社の役割を演じさせ、天皇制思想の強制化をはかった。

 
戦後国家神道の呪縛から解放されたかに見えるが、伊勢神宮は神社庁の支配により、神社を通して、我々の意識下で大きな影響力を持ち続けている。」
 
伊勢の古代信仰の地は、志摩の磯辺であり、この地に伊雑(いさわ)宮が鎮座している。

志摩の要(かなめ)は伊雑の宮よ

お伊勢さまへと末開き

磯部伊勢宮が神宮になると

磯の松風音ばかり

馬がものいうた 内宮の馬が

もとの磯部へかえりたい

 
こうした俗謡が残っているように、伊雑(いさわ)宮こそが本家であった !

 

現在、祭神はアマテラスの御魂とされているが、裏山に小さいながら磐座(いわくら)があり、出雲との結びつきを感じさせる。

付近の人は、「岩に座ったりすると、崇りがある」とか「お腹が痛くなる」と言って、子供たちを近づけない。

『伊雑宮旧記』によると、当社は竜宮で、的矢湾の入口の海底深くには、神代の昔から石の鳥居がある、と信じられていた。

 
また、ヤマト姫がアマテラスの御魂を奉じて当地を訪れたとき、彼女を迎えたのは出雲神族の伊雑のトミノ命であった。
 
上古には、出雲系の神が祀られていたと見るべきだろう。
 
松前健はこう主張する。
 
宮中のアマテラス祭祀は、固有と思われるものは一つもなく、みな後世、それもずっと後の平安時代になって初めて、神話の影響や、それに基づく伊勢などの祭祀の取り入れによって、成立したものである。
 
それではアマテラスに当てはめられる神はなかったのかといえば、あることはある。
 
『延喜神名式」に大和国城下郡の鏡作坐(かがみつくりにます)天照御魂神社、城上郡の他田坐(おさだにます)天照御魂神社、山城国葛野(かどの)郡の木島坐(このしまにます)天照御魂神社、久世郡の水主(みぬし)神社十座の中に水主坐神社、摂津国嶋下郡の新屋坐(にいやにます)天照御魂神社、丹波国天田郡の天照玉神社、播磨国の揖保坐(いいほにます)天照御魂神社、対馬国下県郡の阿麻氏留(あまてる)神社などが見える。
 
だが、これらは男性神で、伊勢の女神アマテラスとは関係がない。
 
対馬のアマテル神社(祭神ほアメノヒタマノ命)を除くと、ほとんどが尾張氏およびその同族とされる丹波氏の祖神を祀っている。

祭神は、アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノ命である。

ニギハヤヒは出雲神族のナガスネ彦の妹トミヤ姫を妻とし、物部氏の祖ウマシマジをもうけたことになっているが、ニギハヤヒは尾張氏の祖神で、物部氏とは無関係なのだ。

物部神社の主祭神もニギハヤヒではなく、ウマシマジである。

 
いずれにせよ、
アマテラスなどという女神は存在しなかった !
 
…吉田大洋著「謎の出雲帝国」より
  
伊勢神宮の実体はいったい何だろう ?

創建が、壬申の乱の勝利を感謝してのものであり、国家・国民の安寧のためなどと、大意をもって建てられたものでもない。

現在の大きな姿になったのは、捏造された記紀による皇国史観が、民衆の心に深く植えつけられ、

皇室の祖神を祀ってある神社だということを、信じたればこそである。

伊勢神宮と皇室の関係が明らかにされ、

皇室の祖神を祀る神社ではないと、一般に認識されはじめた今日、この神社の存在する意義はいったい何なんだろうか ?

アマテラスは古代からの太陽信仰を、神格化したものであろう、しかし、天武が創作したものを太陽神として崇めよといわれても……

伊勢神宮の実体は、捏造された記紀により形づくられた、天武個人の為のプロパガンダといえるのではないか。

歴史から見る社格は、出雲大社に比ぶべくもない。

伊勢志摩の地は、元は出雲の神が祀られていた。

出雲大社と天孫族の関係は、出雲大社の神事、「亀太夫神事」に、端的に示されている。

この神事は、天孫族に対し、原住民族の大神の神意を下したものである。

捏造された記紀を根源とする神学論争や、著作物などは、「砂上に楼閣を築く」ようなものだ。

皇国史観から脱却しなければ、日本の国の真実の姿も、日本人の真のアイデンティティーも、見えてはこないだろう。

 
サルタヒコの実体 →猿田彦神社
 

ニニギが天降った時、先導をつとめた神をサルタヒコと言った。

サルタヒコについて、『日本書紀』は、目玉が赤くてまん丸で、鼻が長く、顔や尻が赤く艶(つや)を帯びていたとする。

 
『これは捏造正史「日本書紀」傑作の一つ ! 』
 
中国の伝書が犬のような鼻をしていると描写する猿の一種「猩々」を彷彿とさせるものであり、サルタヒコを猿神として把えている。

しかし、このサルタヒコ神が、何処の神であったか、如何なる素性の神であるかなど、神格属性を一切説明していない。

一方『上記』は、このサルタヒコについて次のような物語を載せている。

 

サルタヒコの父で、オオトシの神の子・ククキワカムロツナネは、カミムスビの娘・キサガヰ姫を妻としたが、所持していた黄金の弓矢を紛失してしまった。

やがてキサガヰ姫はサルタヒコを出産するが、ツナネは、紛失した黄金の弓矢を持った子でなければ自分の子と認めないと言う。

この時、川に角製の弓矢が流れて来たが、これを見たサルタヒコは、まだ生後二百日にも満たない赤児であったにもかかわらず、これは自分の弓矢ではないと言う。

これに続く部分を次に引用しよう。

 

「ここゆ 母の御祖の命 又 願(ね)ぎ申す時に 黄金の弓矢 川の瀬に浮(う)かみて 浮き越し来る。

放れ 生れませる御子 真受けに取りて こほ吾が弓矢なり 母の命 憂くな思ゐましそとてその弓矢を取らして宣りたまわく ここは 暗き厳(いわを)なるかもと宣りつつも 弓矢引きまかなゐてその厳を射通しましし時に こちこちに照り輝けり」

 
ところで、『出雲風土記』島根郡加賀の神崎のところには、次の伝説が語られている。
 
「いわゆる佐太の大神の産生れませる処なり 産生まさむとせし時に 弓箭亡(ふ)せましき その時 御祖神魂の命の御子 枳佐加地売の命 願ぎたまひしく 吾が御子 ますら神の御子にまさば 亡(う)せたる弓箭出で来と願ぎましき その時 角の弓箭 水のまにまに 流れ出でけり その時これを取りて 子に詔りたまひしく こは非(あ)らぬ弓箭なりと詔りたまひて 擲(な)げ癈(う)て給ひき また 金の弓箭流れ出来つ すなはち 待ち取りまして闇(く)らき窟(いわや)なるかもと詔りたまひて 射通しましき すなはち 御祖支佐加地売の命の社 ここにいます」
 
『上記』と『出雲風土記』の記事を並べて見ると、同じ伝説であることはあきらかである。
 

『風土記』が、「佐太の大神」としているのが、『上記』のサルタヒコに対応している。

佐太神を祭る神社は、今の島根県下の佐太神社であるが、地元には、佐太神をサルタヒコとする根強いフォークロアがみられる。

 
つまり、『記紀』をはじめとする官制的伝承が、その土着性を抹殺し、奇怪な怪神に変質させたサルタヒコは、

『上記』が語っているように、実は、出雲の土着神であったのである。

それは、『出雲風土記』の国引き神話に登場する「狭田の国」につながる出雲勢力の祖神であった。

 
…田中勝也著「異端日本古代史書の謎」より 
 
全国の猿田彦という名のつく神社は、基は当地の氏神を祀る鎮守の森であったはず……

出雲人の氏神「サルタヒコノ神」を、天孫降臨の小使人のように捏造し、さらに、全国各地の氏神を抹殺した。

出雲の神は神格を抹殺され、天武と、たかが3〜4世紀からの歴史しかない熊襲朝廷のために、徹底的に利用され、シャブリ尽くされた。

出雲の大きな神社の由来・祭神は、記紀により、すべて捏造・歪曲されている。

記紀のエゲツなさには、怒りを覚える。

伊勢において、神格を抹殺された出雲の神「サルタヒコ」が、伊勢神宮と共に祀られ、記紀のシナリオどおりの姿で鎮座しているのは、真に興味深い。

捏造された記紀神話の、正にシンボルといえる。

 

加賀港から観光船に乗り潜戸鼻へ。そして洞窟へと入った。

潜戸は新旧二つあり、新潜戸の洞窟で佐太大神は誕生したという。

『風土記』にはこの岩穴について、

「高さ十丈ばかり、周り五百二歩ばかりなり、東と西と北とに通う」と記し、「今の人、この窟の辺を行く時は、必ず声とどろかして行く。もし密かに行かば、神現れて、つむじ起こり、行く船はかならず覆える」と潜戸を説明する。

日本海の荒波が打ち寄せる波音が響き、こだまをかえす様は、まさしく神秘の窟であり、この岩穴へ光を通し神が現れるという説話、この地で誕生したという大神への畏怖と、その説話を通しての信仰が生まれ、出雲人の聖地として崇められてきたのも不思議ではない。

この窟の中に身をおき、白い鳥居と小網を見上げてたたずんでいるとき、古代・出雲人の神に対する思念、想いが私のからだの隅々まで満ち溢れてくるようであつた。

 

佐太大神は佐太=狭田(細長い田)の神であつて、海から来臨する神でもあつた。

佐太大神の誕生渾には、母神の蚶貝比売命(キサカヒメ)が、弓矢をなくし、「もしわたしの子(佐太大神)が夫であるマスラ神(男神)の子であるなら、なくなつた弓矢がでてくるように」と願うくだりがある。

角の弓矢が流れてきた。しかしこの弓夫、「なくなつた弓矢ではない」といつて投げすてると、今度は金の弓矢が流れてきた。そこでこの弓矢をとって「なんとくらい岩穴であることよ」といい放って、射通したという。

この海にのぞむ岩穴に御生(みあ)れした佐太大神は田の神とあおがれた。

海から来訪する農耕神の南方的な姿がほうふつとしのばれる。

サダノオオカミは、秋鹿郡の神名火山・朝日山の麓、鹿島町佐陀宮内の佐太神社に祀られている。

母神キサカヒメは「神皇産霊神」の娘で、オオクニヌシを大火傷から救った神として、出雲大社本殿横の天前社に、姉妹神の蛤貝比売命とともに祀られている。

 
平田篤胤の『古史伝にも、オオトシノ神の子の、オオツチノミオヤノ神の一名を「佐太大神」というので、この神は佐太大神で、出雲の国意宇郡佐太から出た名であるとしている。
 
…上田正昭著「日本神話・国つ群像」・江原 護著「出雲の神々に魅せられて」より
 
 
佐太神社(出雲国二ノ宮)マップ →松江市
 
当社は出雲国風土記に「カンナビヤマの麓に座す」佐太大神社(さだおおかみのやしろ)或いは佐太御子社(さだみこのやしろ)と見え、

延喜式(えんぎしき)には出雲国二ノ宮と称され、出雲国三大社の一つとして杵築(きずき=出雲大社)、熊野、鎌倉時代においても杵築、日御崎とともに「佐陀大社」と称えられた御社です。

 
中世には伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、

この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。

盛時には神領7千貫・神職224人を有し、年間七十余度祭禮が行われていたと云いますが、太閤検地で領地を減じられ神職75人となったと云われています。

江戸時代を通じて出雲國10郡のうち佐陀触下(さだふれした)と呼ぶ秋鹿(あいか)・島根(しまね)・楯縫(たてぬい)・意宇(おう)西半の3郡半の神社を支配下に置き、

歴代藩主の信仰も厚く、出雲國内でも重要な地位を占めてきました。

 
また、旧暦8月24日・25日の御座替祭(ござがえさい)にはこの佐陀触下の神職・巫女が参集奉仕する慣わしで、

この祭で舞われる神事舞が出雲国内をはじめ他の里神楽に大きな影響を与えたとされ「出雲神楽の源流」とも云われています。

 
平成22年9月世界遺産登録『佐陀神能』
 
明治3年、神社制度の改革が行われこの触下制度は廃止となります。

51社あった末社もそれぞれが村々の氏神として独立し20ばかりとなり、神領、神職とも大幅に減じ著しく衰退しました。

しかし、佐陀宮内の氏子はじめ神領6ヶ村の旧氏子、その他多くの崇敬者による復興運動により、昭和3年国幣小社に列せられました。

 

戦後は佐陀宮内地区の氏神社となっていますがその由緒・歴史から近郷諸所の惣氏神としてはもとより全国各地から広く信仰を集めています。

様々な歴史的困難にもかかわらず、本殿三社をはじめ、国・県の指定文化財も多数有し、古伝の祭祀を守り受け伝えている点において神道学、民俗学等の面からも注目を置かれているところであります。

 
出雲国二ノ宮「佐太神社」
 
導きの神「佐太大神」
 
主祭神である佐太大神の「サダ」とは伊予国の佐田岬、大隅半島の佐多岬等の地名にみられる岬の意味で、

島根半島一円、いわゆる『狭田国(さだのくに)』の祖神であり、出雲国における最も尊く、古い大神のうちの一柱であります。

 
出雲の国には『大神』と呼ばれる四柱の神がおいでになり、杵築・熊野・能義、そしてこのこの佐太大神が出雲四大神とされています。

佐太大神の御誕生秘話は出國風土記に見え、当社から約10キロばかり離れた日本海に面するかか加賀の潜戸(かかのくけど 松江市島根町)と呼ばれる神埼の窟(いわや)に金の弓矢を射ってお生まれになりました。

そして、その窟が光り輝いたので「加賀(かか)」と呼ばれるようになったと記されています。

母神は支佐加比賣命(きさがいひめのみこと)で加賀神社に御祀されています。

 
佐太大神は、世に云う猿田毘古大神(さるたひこおおかみ)であり、
 
除災、招福、長寿の神で、海陸交通守護、地鎮、縁結び、安産の神として、

人々が日々楽しく豊な生活が送れますように「おみちびき」いただける大神であります。

 
…佐太神社由緒より
 
加賀の潜戸
 
伊邪那美大神
 
日本書紀の一書(あるふみ)の第五は、「紀伊国の熊野の有馬ノ村に葬りまつる」と書き、熊野に伊邪那美神陵と伝える花の窟花窟神社がある。

古事記は、「比婆の山に葬った」と書く。

中国山脈の尾根筋に比婆山(1225m)があって、山項に三丘二庭の伊邪那美神陵伝承地が大切に保存され、イチイの老木に囲まれている。

但し、ここは島根・広島県境で記伝に合わない。

私は紀伊を出雲族の移住地と考える立場から、二つの伊邪那美神陵に出雲族が祖神素盞鳴の母神を非常に大切に祀っていた ─ そのことの反映が二つの神陵伝承を生み、記紀に採録されたという印象を持つ。

 

伯太川の中流、横屋という小集落の南西の山麓に、久米神社安来市がある。

東南の上ノ台の丘上に上ノ台古墳群があり、上ノ台緑の村となっている

『古事記』に、「故、その神避(さ)りし伊邪那美神は出雲ノ国と伯伎(ははき)ノ国の堺の比婆の山に葬りき」としるされた比婆の山が、久米神社と伝承されているのである。

比婆山は古来多くの文人が尋ね求めたが、古事記伝の著者本居宣長も、ついに「今詳(いまつまびらか)に知れず」と、所在をつきとめることができなかった。

 
神話の古墓を探すのは民話の里にその跡を探すような想いもあるが、国生みの祖神の墓が出雲にあるとする伝承に、私はこの国の開拓の古さを改めて痛感するのである。

記に、素盞鳴命が父の神伊邪那岐の指示に従わず、髭が長く胸前へ垂れるまで泣き叫んだ話がある。

何しろ「青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉(ことごと)に泣き乾しき」というから凄い。

父神が「どうして、そんなに泣くのだ」とたずねたところ、「僕(あ)は妣(はは)の国根の堅州(かたす)国に行こうと欲う。だから哭(な)くのだ」と答えた。父神は大変怒って、「それなら、お前はこの国に住むな。勝手に行け」と追放した−その素盞鳴が出雲へ来て、出雲神族の祖となった。

 

そしてここに、神々の母、伊邪那美の神陵と伝える古塚がある。

本居宣長は、伯耆ノ国人の物語として次のような話を伝えている。

『出雲と伯耆の国堺に近い山間安来市に、たわの内という所がある。

そこに伊邪那美の神陵といって、小竹など生繁っているが、此の塚の草などを牛馬に与えても食わず、牽いて来て草を飼おうとしても塚のあたりへは牛馬が寄りつかない。

又、塚の竹を杖に突いて行くと、蛇の類が寄りつかない。

蛇の居る所へ杖を突き立ると、疎(すく)んで動けなくなる……と。』

 
撓(たわ)は峠の古語である。

撓の内は峠の麓の内懐のようなところであろう。

横屋のわずか上流に峠之内の地名が残り、10km足らずも南下すれば伯耆との国界、寺谷坂(峠)安来市だ。

 

伊邪那美神陵は久米の社の古塚かもしれない。

そう思いながら、私はやはり神話の上へ透明なシートに印刷した地図をかぶせ、神話の語りの遺跡を探しているような、

妙に熱心な自分をもう一人の自分が遠くから観察しているような─そんな複雑な心理状況にはまり込んでいた。

神話の世界へさまよい込むと、面白いけれどもなかなか出口が見つからないのだ。

 
…小山 和著「古道紀行出雲路」より
 
伊邪那美の神陵(比婆山・久米神社)神々の国観光
 
山陰自動車道を安来ICで降り、安来市の伯太町にむかう。

道路標識は日南方面である。久米神社は、車で20分ばかり走った峠之内地区にあるが、目印がないので、道中の安来市伯太支所で尋ねた方がよい。

久米神社を遥拝する神明造」の久米下神社は地図に記載されているが、久米神社はない。

案内標識もないのは、あまり観光客に来てもらいたくないのだろう。

出雲人の気持ちとしてわかるような気がする。

峠之内の公会堂前に、遥拝する小さな社がある。左手に山に登る道があり、頂上まで960mとある。

途中まで車で行けるが、後は獣道に近い。

勾配が緩やかになると、あちこちに不思議な岩が鎮座している開けた場所に出る。

 

ここは県の天然記念物に指定されている珍しい陰陽竹の群生地だ。

陰陽竹はイザナミを両性具有の神として連想させ、興味を引かれる。

左手に社が見える。社の周りはよく手入れがされており、大切に祀られているのがよくわかる。

正面に拝殿があり、続いて大社造」の本殿がある。

本殿の後ろには透塀に囲まれた神陵があった。

神陵の中は木々や陰陽竹が生茂り、何とも言えない雰囲気がある。

古事記伝の著者の本居宣長も、この神陵を見たら、「今詳(いまつまびらか)に知れず」と言わなかっただろう。

何々神宮や何々大社にお参りするよりは、何倍もご利益があると思いながら、手を合わせた。

何しろ国生みの神のお墓である、どんな神様もかなわない。

 
伊邪那美(イザナミ)の神陵
比婆山 久米神社 久米神社左から見た神陵 陰陽竹に見守られる神陵
 
黄泉(よみ)の国
 

「よもつくに」ともいわれて、闇黒の世界であり、死の国を指していった。

『日本書紀』には、根国(ねのくに)とあり、祝詞(のりと)には、根国底国(ねのくにそこのくに)

『古事記』にはまた、根堅洲国(ねかたすくに)とも見えている。

これは古代の人たちが、この現世を顕国と呼んで、太陽のかがやく光明の国であり、善神の支配する楽土であると信じていたのに対して、死者の赴く地下の国を黄泉(よみ)の国といった。

ここは日を仰ぐことのない闇黒の世界で、悪神のはびこる汚れの国であり、あらゆる忌むぺきことが、この国に属していた。

また、黄泉の国を「下(しも)つ国」ともいったのは、天上に対して地下や遠く離れた地に、この国があるものと信じたためであった。

「黄泉の国」はおそろしい死の国であり、穢(けが)れの国であった。

そして、死者はその死の国へ赴いても、なお生活を営み、活動をつづけるものと考えられた。

だからこそ、イザナギノ神は女神をもう一度、顕国へ取り戻そうとしたのである。

 
…永田義直編著「日本の神話」より
 
黄泉比良坂(よもつひらさか)マップ 東出雲町 出雲市
死の国と現世との境にあると想像された坂で、この二つの世界は、容易に越えることができないと、考えられていた。

こういった思想は、多くの民族にあって、仏教では三途の川や死出の山に、なぞらえられている。

この比良坂については、『出雲風土記』の「出雲国」の条に、(出雲郡宇賀郷、今の出雲市の宇賀に)、

 
北の海の浜に磯あり。名を脳の磯といふ。高さ一丈ばかりなり。……磯より西の方に窟戸あり。高さ広さ各 六尺ばかりあり。窟の内に穴あり。人入ることを得ず。深浅を知らざるなり。夢にこの磯の窟の辺に至る者は、必ず死ぬ。故、俗の人、古より今に至るまで、黄泉(よみ)の坂、黄泉の穴と号(なず)けいへり。と見えている。
 
これによると、この黄泉の坂や、黄泉の穴が、地下にある黄泉の国へ通ずる洞窟のようなものと、考えていたようである。

また、美保湾と中海との間にある「夜見ガ浜」境港市)(米子市は、古いころから「黄泉の島」であって、死者の住むところであると、信じられていたといわれる。

 
…永田義直編著「日本の神話」より
 
伊賦夜坂(いふやさか)マップ →東出雲町
 
東出雲町の中心、揖屋の旧街道沿いに意宇六社の一つ揖屋(いや)神社があり、意東川左岸、小さな丘に伊賦夜坂がある。

前出、『古事記』の黄泉比良坂である。

この「坂」は坂道というほかに、境界の意を持つ。

たずねてみた伊賦夜坂は、小さな山坂の根に小池があり、池堤の奥に黄泉比良坂神跡碑と、黄泉の国の出口を塞いだと伝承にある千引の石(と称するもの)があった。

千人で引くほどの大岩ではない。

折角来たのだ、坂を越えてみよう、と細い草道へ踏み込んでみた。

雑木の繁るその坂は、あっけなく項上へ着いた。

着いたとたんに、冷たい風がやや強く吹き登って来た。

一息ついて又吹き登る。

冷風の塊が連続して押し寄せる印象だった。

草道は五月というのに、去年の落葉がまだ積もって、林の中へ消え入るように下っている。

寒気団の南下を承知していなかったら、私は驚き、立ちすくんだかもしれない。

出雲には黄泉の国の出入り口が二つあったのである。

さきの星上山周辺と、この伊賦夜坂と……。この国は限りなく黄泉の国、地下の他界と近いようだ。

 
…小山 和著「古道紀行出雲路」より
 
黄泉の穴…大国主が殺された洞窟か ? 神々の国観光
 
この大洞窟は猪目湾の西端に位置し、凝灰岩の海蝕によって造られ、東方に開口している。

古く出雲風土記の「黄泉の穴」に当たると推定され、数々の怪談が伝えられていた。

 

去る昭和23年に船揚げ場の拡張工事をしたときに、凝灰石の微砂、石片、石塊などの堆積層から多数の人骨や遺物が出土した。

出土品は弥生時代から古墳時代にかけてのもので人骨は十数体あり、屈葬と伸展葬の両式が見られ、腕にはめた貝輪やたかつき、大小のつぼ等の副葬品が多数あった。

又、多くの木器、貝類、鳥獣魚骨、其の他、稲もみ、木の実、海藻類、更に炉の跡、木炭等、従来の生活を物語る貴重な遺物が発見された。

昭和32年国の史跡に指定されている。

尚、下記写真左の堆積層は何か埋葬されている可能性が高いといわれている。

 
出土品は出雲市大社支所に隣接する、猪目洞窟遺物包含層出土品収蔵庫に保管されている。見学される場合は、庁舎二階の企業振興課に申し出てください。→Tel.0853-53-4441(詳細な説明が必要であれば出雲市文化企画部文化財課→Tel.0853-21-6893にお問い合わせ下さい。)
 

地元の人はこの洞窟を「皇泉の穴」と言っている。

発掘当時を知る地元の人は、「初めに七体半の人骨が出てきた、半というのは一体は完全ではなく半分の骨しか無かった。

性別は五体が男性で二体が女性、性別不明が一体であった。

1体「第14号人骨」は身長が2mを超す大きな男で、腕にはフイリッピン産の貝(ゴボウラ貝)で造った腕輪をしていた」という。

帝国大学の先生が調査にきて、これはオオクニヌシの骨ではないかと話していたという。

現在も全国から学者や神職がよく訪れるという。(…神職というのは気になる、神社関係では何か言い伝えがあるのだろうか?)

出雲神族の伝承では、出雲大社の裏山(カツ島)の鷺鵜(うさぎ)峠に「神がくれの岩屋(洞窟)」があり、オオクニヌシが幽閉されて死んだと伝えている。

ここは猪目と鷺鵜の町境にある。神がくれの洞窟がどこにあるかはいろいろな説があるが、すく近くの鷺鵜の海岸から1kmも入った所に、今は使用されていない銅鉱山があり、近くに神隠れの洞窟があるという。

 
出雲大社の近くに、国譲りとは異なる「神がくれの岩屋」の言い伝えがあることは、興味を引かれる。

「27代出雲国造広嶋」が編纂し、出雲国風土記に記載した「黄泉の穴」が、なにか重要な史実を示唆しているのではないのか…?

出雲国風土記には次のように記載されている。

『磯の西のほうに岩穴がある。

この洞窟のなかには人の出入りはできない。

どの位の深さがあるかも知られていない。

この磯の岩穴のあたりにいった、と夢に見るとその人はかならず死ぬ。

それで世人は昔からここを黄泉の坂といい、また岩穴を黄泉の穴と名付けている』

 

風土記はこのあたりは、脳磯(なづきのいそ)と呼ぶと記しているが、脳髄がむき出しになったように、でこぼこした海岸の風景だから、そういうのであろうという説がある。

たしかなことはもとより、分からないが、脳磯という言葉はどこかぶきみだ。

それはさきほどの夢の話があるからだろうか。

洞穴は高さ12m、幅36mの右を斜辺とした直角三角形で、奥へしだいに小さくなって37mにもおよぶ。

その先はとなり部落の鷺浦につづくと思われている。

1948年にこの奥から、縄文、弥生、古墳期の遺物と共に、人骨十数体が出土し、黄泉の穴がたんなる伝承の場所ではなかったことが判明した。

母の胎から出たものは母の胎にかえるということから、沖縄では、墓は女陰をかたどったものとされている。

三角形はふつう女陰の象徴である。

 

そういえば、いまは舟庫となっているこの黄泉の穴のまわりにも、打ち消しがたい陰気さがただよい、日蝕のときに吹き起るような薄気味わるい冷風がとりまいている。

万葉集の中の「袖の下をつかませるから黄泉の国の使者よ、背負っていってくれ」とか、「金を出すからちゃんと、黄泉の国への道を知らせてくれ」とかいった歌の実感がひしひしと迫るところだ。

 
…谷川健一著「出雲の神々」より
 

出雲大社からは、大駐車場を入らないで直進すると神楽殿の横を通り山手に向かう道がある。

この道は鷺峠を越えて日本海(記紀でいう北ノ海)に出る、海岸沿いを走れば「皇泉の洞窟」は通り道にある。

日御碕を観光されるのであれば、日御碕の手前から右折しても行ける。こちらの方が新しく開通した道で走りやすい。

 
出雲市猪目町の猪目洞窟(黄泉の穴、別名皇泉の穴)
貝輪着装人骨 (ゴボウラ貝)輪六個 猪目洞窟遺物包含層出土品収蔵庫に保管
 
太古の日本列島住民
 
太古の民族移動は、中央アジアのメソポタミア地方から始まった。

そこから西へ移動した集団は、今の西洋人となり、東へ移動した群れは、今日東洋人といわれる人々の遠い先祖となった。

東に移動した群れは、まずインドあたりから、北東へ向う群れと、東南へ向う群れに別れ、それぞれ東南アジア系民族と蒙古系民族の分派を作った。

日本列島に到達した集団の主流は、北回りをした蒙古系と韓半島を経由した蒙古系集団であった。

だが、日本列島に先着したのは、東南アジア系で、彼らは、中国の南部から、沖縄諸島を島伝いの最短経路を通って南九州に上陸した。

少数であった彼らは、北回りをした蒙古系集団と合流して、本州の東北・津軽地方に定着した。

かれらが、アイヌと呼ばれる人々である。

韓半島から日本列島に流入した集団は、圧倒的に多勢で、九州から関東地方の広域に定住するようになった。

これが、縄文中期までの、日本列島パノラマである。

 
縄文後期以降の日本列島
 
それでは、縄文後期がはじまる紀元前2000年、すなわち、今からほぼ四千年前の日本列島の姿を蘇らせて見ることにしよう。

いわゆる縄文土器の発達は、多くの考古学者が指摘しているように、東北地方を中心として行なわれた。

先に調べてきたとおり、日本列島に移住してきた集団のなかで、圧倒的な多勢をしめていたのは、韓半島からの人々であった。

にもかかわらず、半島族がより多く定着した九州から西日本にいたる地域よりも、北方から流れこんできた人々が主に定着していた地域である東北地方で、土器の生産が、目立って活発だったのだ。

 

つまり、縄文土器文化の舞台では、北方系種族が主役だったわけである。

いったいそれは、なぜだろうか

その正解は、北からの人々は、(火)のコントロールに長けていた、である。

 
土器は、粘土で形を作ったあと、火で焼きあげる方法で生産されるものであった。

すなわち、比較的に温暖な地方で暮らす人々よりも、酷寒のなかで生きぬかなければならない運命をせおってきた北の人々のほうが、(火)との付き合いは密接であり、その取り扱い方に熟達していたのは、むしろ当然な結果であろう。

 
東北地方の土器が、縄文中期頃から、多様な形態と文様をみせるようになったのは、熱処理技術の向上なくしては、考えられない現象であるが、そのような高度の熱処理技術は、当時すでに金属製錬技術をも身につけていた、大陸の「オロ族」や「粛慎族」が、海を越えて持ち込んだのである。

東北地方で、奇想天外な模様をした縄文土器の生産が最盛期にたっした縄文中期の紀元前3000年頃(今から五千年前頃)、稲作技術をもった集団が、韓半島の洛東江あたりから、海を渡って九州にやってきた。

 
洛東江流域の肥沃な平野は、水利がよいばかりでなく、稲作に最適の温暖な気候に恵まれていたので、水田による稲作は、早い時期から、この一帯に普及していた。

ちなみに、稲作は、中国の南部地方から、黄海をへだてた山東半島の対岸、今の仁川(インチョン)地方に伝来したと考えられる。

その時期は、中国の水田稲作が始まったと思われている紀元前5000年から、あまり遅れない頃であっただろう。

このような推定の根拠は、米の生産地として古くから知られている、ソウル近郊の金浦(キンポ)平野遺跡から発掘された稲の炭素化物鑑定結果である。

話をもどそう。

洛東江流域は、太陽信仰をあくまで守り続けてきた加羅(=伽耶)族の領域である。

つまり、九州地方に水田の稲作技術をもって渡ってきたのは、伽耶族であり、慶尚南道の洛東江中流地方に位置していた「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」、すなわち今の咸安(ハマン)地域の人々が、その実質的担い手だったはずである。

韓半島の南玄関である今の金海(キムヘ)飛行場一帯は、昔から米の宝庫として知られており、後期の「アラカヤ=下伽耶」、すなわち、金官伽耶王国の都があったところなのだ。

食糧の確保は、今も昔も変わらない人類の最大課題である。

稲作の伝来は、人々の生存がかかったこの最大問題を、完全に解決することはできなかったかも知れない。

だが、少なくとも、そのような可能性に対する希望を、当時の住民たちに与えるに十分なインパクトをもたらしたに違いない。

 

九州に伝わった水田稲作技術が、東北の果て、津軽地方にまで波及したのは、いつ頃なのか、まだわかっていない。

だが、青森県田舎館村垂柳(たれやなぎ)遺跡からは、ほぼ1900年前のものと見られる稲のプラントオパール(稲科植物に多く含まれるガラス質の細胞)が発見されているし、弘前市砂沢遺跡では、今から二千年以前に、水田による稲作が行なわれたと思われる形跡が残されているという。

寒さに耐える稲の改良種がなかったあの時代に、北の地方まで水田稲作が普及するには、かなりの苦労と時間が要求されたに違いない。

したがって、南国の九州に上陸した水田稲作技術の北上は、北に行けば行くほど、スピードは落ちてきただろう。

ということは、逆に言うと、津軽地方に届く前の地域、たとえば、能登半島から、今では米の名産地となった新潟県あたりまでは、意外と早い時期に水田稲作技術がおよんでいた可能性が高いということになる。

 
ちなみに、1985年、大阪の茨木市牟礼遺跡の発掘調査の結果、この地方で水田稲作が行なわれたのは、今からほぼ三千年前のことであることが明らかになった。

さらに1992年3月21日、岡山県古代吉備文化財センターは、「総社市南溝手遺跡から発見した稲の籾跡つき土器を検査したところ、現在日本で栽培されている稲の品種と似ている稲のものであることがわかった」と発表したことによって、少なくとも、今からほぼ三千年前には、水田稲作が、関西地方にまで普及したことを裏付けている。

 
さて、水田稲作の技術が、東北の〈コシ=越〉の国地方にまで波及したとき、神を祭る祭器としての土器、あるいは、それ以上に、木の実や、陸海でとれた食物を保存したり、煮炊きをするための土器生産に没頭していた人々は、どのような反応を見せただろうか?
 
三内丸山遺跡は語る
 

近来、津軽地方の、いわゆる「三内丸山遺跡」の発掘調査報告は、考古学界を大いに沸かせた事件として広く喧伝されている。

だが、実を言うと、それはただ単なる、考古学界の一大事件ではないのだ。

なぜなれば、「三内丸山遺跡」は、日本古代史から完全に消されてしまった歴史の真相を、現代の我々に語りかけているからである。

では、長い眠りからやっと目覚めた「三内丸山遺跡」の物語を聞いて見よう。

まず、その物語の前座を務めるのは、『東日流外三郡誌』だ。

『東日流外三郡誌』によると、津軽地方の「アソベ族」は、やがて「ツボケ族」によって滅ぼされた。

その「ツボケ族」は、「つがる」を「チンパル」または「チパンル」と発音するばかりでなく、「十三浦」を「スーサンポー」と発音する「支那か韓民族の一群の人々」であったと云う。

 
「ツガル」を「テンパル」 または「チパンル」と発音するのは、先に述べたように「サハル=太陽の土地」からの音韻変化結果であるし、「十三浦」を「スーサンポー」と発音するのは、「十三浦」の韓国発音「シブサンポ」が託ったものである。
 

このような言葉を使う「ツボケ族」は、縄文中期頃、沿海州からサハリンに渡来してきた部族であり、言ってみれば「アソベ族」の後続北方系移民集団なのだ。

『東日流外三郡誌』は、なお、次のように証言している。

「ツボケ族」が「アソベ族」を征服することができたのは、「ツボケ族」が、新たに移住してきた「アラバキ族」と混血して、「アラバキ族」化したからであった。

なぜなれば、「アラバキ族」は、勇猛であったばかりでなく、知恵も「アソベ族」や「ツボケ族」より、はるかに勝れていたからである。

こうなると、『東日流外三郡誌』に「勇猛であり、しかも知恵者である」と記されている「アラバキ族」とは、いったい誰だったろうか?、が気にならざるをえない。

 
しかし、ここまで読んでくださった皆さんのなかには、「あっ、そうか!」と膝を叩くかたも、少なくないだろう。

すなわち、「アラバキ族」とは、『日本書紀』 の欽明紀二年七月条に「アルヒシノカラ=南加羅」または「アルシカラクニ=下韓」と記されている金官伽耶族のことだろう!……と。

そのようにお考えの読者は「すばらしい!」と、ほめられる資格十分だ。

だが、残念ながら満点までは届かない。

 

なぜなれば、金官伽耶地方が「アルシカラクニ=下韓」と言われるようになったのは、伽耶の筆頭分家「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」の勢力が衰退したあとのことであるからだ。

いずれにしても、津軽地方にあらわれた「アラバキ族」は、金海の伽耶族と見るよりは、「アラカヤ=安羅伽耶」と呼ばれていた咸安(ハマン)地域からの人々であったと考えるのが妥当である。

さて、ついでに、「アラバキ」の語源を調べておこう。

 
「アラバキ」の「アラバ」は「アラハ=下のところ」が連濁されたかたちで、『日本書紀』に南加羅(アリヒシカラ)と記されているものである。

また、「キ」は「シラギ=新羅」の「き」と同じ意味の「者」の意であるから、「アラバキ」とは「南の所の者・下の所の者」ということで、「アラカヤの者=下伽耶の者」を指す呼称だったのである。

 

この当時、日本列島内では、伽耶の本家である「ウガヤ=上伽耶」は、今の奈良県の斑鳩を中心に勢力をひろめていたし、

分家の「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」は、出雲地方を根拠地として、日本海沿いに北方へ北方へと勢力を伸ばしていた。

そのような「アラカヤ」の北方進出実態を物語ってくれるのは、

「コシのヌナカワ姫」に求婚するために越国(こしのくに)まで出向いた大国主命の話を伝える「因幡の白兎神話」と、

「コシの珠洲」、すなわち今の能登半島から土地の塊を引っ張ってきたという『出雲国風土記』の「国引き神話」である。

 

では、「アラバキ族」、すなわち「アラカヤ=下伽耶」族が津軽地方まで勢力を伸ばしたのは、いつ頃のことだろうか?、を考えて見よう。

 
以下は、読者の理解を助けるために、学習研究社の『謎の東北王国・三内丸山』からの引用を要略したものだ。
 
青森県の三内丸山に古代の遺跡があることは、江戸時代初期から、地元の人の間で知られていたが、江戸時代後期の菅江真澄が著した風俗書に載せられたことによって、世の注目を受けるようになった。

しかし、これが縄文中期の歴史を塗り替えるほど有名になったのは、青森県の運動公園整備事業計画の予備調査が始まった1992年である。

この地域の発掘調査は、1996年現在、まだ五分の一程度しか終わっていないけれども、三内丸山遺跡をとりまく周辺領域は、おそらく七百ヘクタールにも達するだろうというのが、調査団の推定である。

三内丸山湾の岸辺に、惑星の周りを回る衛星ででもあるかのように、縄文時代前期から中期にかけての遺跡が、14も集まっている。

これについて、三内丸山遺跡対策室の岡田康博氏は「東北北部から北海道南部にかけて、共通点の多い集落跡が少なくない」といっている。

その共通点とは、それらの地域から「円筒土器」が多く出土されることで、そのような地域は、いわば「円筒土器文化圏」とも言える。

このような「円筒土器文化圏」の範囲は、北は、札幌市の北・石狩川河口付近から、南は、富山県の氷見市や能登半島にまでたっしている。

 
このような事実は、能登半島一帯から、北海道南部までの東北地域に、

能登半島より南の地域とは、性格が多少異なる文化が存在していたことを裏付ける。

そして、北の方にいた、そのような異質文化の担い手こそ、誰あろう、「コシの人々」、

すなわち「アラ蝦夷」と、後日の第二期ヤマト朝廷から呼ばれた人々であったのだ。

 
さて、洛東江流域に定着した伽耶族は、『三国史記』に記されているように、分家の数が五つに増えて、六部族に分かれるようになった。

それは、金官伽耶の始祖、首露王が即位した西暦42年をもって金官伽耶の建国年としている『三国史記』の記録から推して、今からほぼ二千年前のことだと考えられる。

言うまでもなく、伽耶も、もとは本家だけだったから、ただの「伽耶」で総称されていた伽耶族は、年代が下がるにつれて、「ウガヤ=上伽耶」の本家と、「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」の二つに分かれた。

この当時、韓半島内では、伽耶族の分家は、「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」の名が示しているように、「ウガヤ=上伽耶」の中心地であった高霊(コリヨング)よりも、洛東江下流、すなわち南に位置する今の咸安(ハマン)地域を根拠地としていた。

その地域には、今も移しい数の古墳が、累々と残されていて、古代の栄華を語り続けている。

「ウガヤ=上伽耶」の勢力がまだ強かった頃の伽耶族は、「アラカヤ=安羅伽耶」は、分家として、「ウガヤ=上伽耶」に従属する位置にあった。

しかし、分家の数が増える一方、「ウガヤ=上伽耶」の勢力が弱化するようになるのが、韓半島内での、後期伽耶族の姿である。

 

『上記(うえつふみ)』・『竹内文書』・『東日流外三郡誌』などなどの古文書の証言によれば、日本列島に進出した「ウガヤ=上伽耶」が、「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」を率いて、第一期ヤマト王朝をたてたのは、神武王朝より1200年以上も前、すなわち、今からほぼ3200年前のことだ。

だが、「ウガヤ=上伽耶」が、日本列島に到来して、ただちに王朝を建設したと考えるのは無茶な話だ。

伽耶族が、先住民である南方系部族やアイヌ族と、あるいは戦い、あるいは、混血融合をするために必要だった歳月も考慮しなければならない。

そうすると、水田稲作の日本列島への伝来を、今から、3500年から4000年前と見る立場から判断すれば、伽耶族の渡来も、それと同じ時期だったと見るのが、自然である。

 
つまり、「アラバキ族」が、三内丸山地方にやってきたのは、おそらく、今からほぼ3500年から4000年前頃だったと見てよいことになる。

さて、三内丸山遺跡の本格的発掘調査は、古代の東北文化に、新しい照明をあてさせる契機をつくった。

この道跡地域の完全な発掘調査が終わるまでには、まだ大分時間がかかりそうだ。

しかし、今までの調査で明らかになったことだけでも、従来の純文学説をひっくりかえすようなことが、かなり
出てきている。

だが、そのようなことについては、それぞれの分野の専門家たちのリポートに詳しいことが記されているから、ここでとやかく言う筋合いではなかろう。

 

ただ、この時点で我々が見逃せないことは、この地域に住んでいた人々が、「今からおよそ3500年から3300年前頃に、この地を去ったと思われる」という、安田喜憲氏の証言である(『縄文文明の発見』参照)。

氏のこのような年代推定は、三内丸山遺跡から大量に発掘された木片や炭片などの炭素値測定を根拠にしているもので、その信憑性は甚だ高い。

つまり、氏は、この地域に、今からほぼ5500年ほど前から、ある部族集団が定住していたが、今から3300年前に、2200年の間住みついていたこの地を捨てて、どこかへ移住したと言うのだ。

先に述べてきたように、この地域に住んでいた部族は、少数の南方系を含む、北方から日本列島に流れこんできた人々であった。

その彼らが、なぜここを離れたのだろうか?

 
ある人は、火山の噴火や、地震・津波などの災難が原因だったかも知れないというし、また、ある人は、疫病などの蔓延によって、全滅状態になったのではないかともいう。

しかし、いかなる災難があったとしても、全住民が死滅したとは考えにくい。

そして、ごく少数であっても、生き延びた者は、この地をそう簡単に捨てて、よそへ移住するようなことはしない。

そのよい例が、関東大震災や阪神・淡路大震災、それに、九州でおきた雲仙普賢岳の大噴火に続く火石流の被害にあった人々である。

彼らは、そのような被害にあいながらも、あいもかわらず、その土地に新しい家を建てて暮らしつづけているではないか。アメリカでも同じだ。

竜巻のルートは、きまってアメリカの中東部からフロリダをつなぐ線である。

毎年くりかえしおきる竜巻のために、家や家族を失う人々は多いし、一生に二度も三度も、同じように惨惰たる経験をする人さえいる。

しかし、それでもなお彼らは、その地域を離れない。

今日の我々が目のあたりに見た、神戸地域の震災被害者もそうであったし、雲仙普賢岳の被害者もそうであった。

 

このようなことから推して、彼らがこの土地を離れたのは、災害を受けたからと考えるよりは、背に腹はかえられない、万止むをえない事情に強要されて、より住みよい条件の土地を求めて移動したと考えるのが順当である。

主に、狩猟生活をしながら、土器を生産していた彼らにとって、長い間住みなれた津軽を捨てるより仕方がないと思い詰めるほど「より住みよい条件の土地」は、どんな条件を満たしてくれる土地だっただろうか。

それは、一族の食糧問題を解決することができると思われる土地でなかっただろうか。 

つまり、「アラカヤ族」がもってきた水田稲作技術を生かすことのできる土地、すなわち、津軽より暖かい気候と水利の豊かな土地でなかっただろうか。

三内丸山地方に住んでいた人々は、「越国」と翡翠(ひすい)の交易をしていた証拠があると、発掘調査団の報告は言っている。

因幡の白兎神話や出雲国風土記の「国引き神話」を見てもわかるように、「アラカヤ=下伽耶」の勢力が、「越国」におよんだのは、かなり早い時期であると考えられる。

 
しかも、「因幡」の文字が当てられている地域は、実は「稲場=稲所」であり、今の米子である。

「米子」とは、「米(よね)」の「こ=ところ」、つまり「米ところ」という意味なのだ。

三内丸山の地域の人々は、食糧対策として、栗や稗を栽培していたと思われる証拠が見つかっている。

だが、鹿や猪などのような、大きな動物の骨は少なく、おもに、兎やムササビなどの小さな獲物に頼っていたと考えられる。

このことは、大型の獲物はすでに取りつくしてしまったことを意味する。

 

このように悪化一路の当時の食糧事情から推して、増加する人口を抱える彼らの焦眉の問題は、「食物をどうすれば確保できるか」であったはずだ。

水田稲作の知識をもった「アラバキ=アラカヤ族」は、なんとかして、この地方でも稲作を可能たらしめようと努力したに相違ない。

だが、陸稲の栽培はなんとか辛うじて、できそうではあったが、当時の技術をもっては、寒冷な気候での水田稲作は、しよせん無理だと諦めざるをえなかっただろう。

日増しに増え続ける人口と、限られた食糧源に、板挟みされた津軽地方の人々が、水田稲作の可能な土地を目指して、三々五々、しだいに南下を始めた。

 
…朴 炳植著「ヤマト渡来王朝の秘密」より
 
ナガスネ彦、ヤスビ彦を型どったというアラバキノ神
 
消されたウガヤ王朝史
 
日本という国は、一口にいえば、「謎に包まれた国」といって過言ではない。
 
人類の起源はもとより、その発達と移動など、人類学のすべての分野で、撤密な科学的調査や研究が進んでいる今日、先進国のなかでも、もっとも先頭を走っていると自他が認めているこの国が、いまだに、自民族のルーツも、言葉のルーツも不明だというのだから、こんな不思議な国はいくら探してもほかにあるまい。

日本の政治家が、念仏のように繰り返し叫んでいることの一つは、日本の国際化問題だ。

日本の国際化とは、地球村といわれるほど狭くなった国際社会において、諸外国との間に、日本のありのままの姿を紹介することによって、相互の理解を深めてゆこうとする動きである。

だが、そのような動きは、最初から大きな壁にぶつかっていて、実現は、今のままでは、とうてい、不可能だとしかいえない。

 
というのは、みずからが「誰であり、どのような素性のものか」をいえない日本人を、外国の人びとは、怪しいとまではいわなくても、理解し難い民族だと考えるだろうからである。
 
人文・科学のいかなる分野でも、だんぜん群をぬく優秀な能力を発揮している日本人が、いったいなぜ、自身のことに関するかぎり、盲目同然の状態におかれるようになったのだろうか?
 
この疑問に対する答えは、「日本の国民は、生まれたときから、『記紀』による国史教育を受けてきたからである。

712年に完成した『古事記』と、その8年後に完成した『日本書紀』は、日本国の歴史の上限を、わずか紀元前数百年としていて、それ以前は、まったくの暗やみにしてしまっている。

そればかりではない。日本人は、「神の子孫」であると「記紀」は教える。

「記紀」の成立以来、今日にいたるまでのほぼ千三百年間、子孫代々が、このように教えられてきた日本人は、皇国史観という、ほかに例のない思想の持ち主に育てられた。本居宣長の思想

 
それによれば、神国である日本列島には、他の民族とは何の関わりもない「ヤマト民族」が住んでおり、彼らは、外国のどの言葉とも語源の違う、この島国に自然発生した「ヤマト言葉」を使っているというのだ。
 
今でもそのような紹介を著書で紹介している皇国史観にかぶれた、著名な学者がいる !
 
個人個人は、無類の誠実さで知られている日本人だから、国際社会に出て、教わったとおりの自己紹介をするよりほかない。

だが、諸外国の人びとが、自身を「神の子孫」という日本人を、どのような目で見るだろうかに思いがいたれば、日本の国際化運動の将来は、まったく暗澹たるものだといわざるをえまい。

 
このように、日本人の前途に、大きな影をおとしてしまったことの責めは、『古事記』と『日本書紀』を編纂した天武王朝(伊勢神宮も創建)に問わなければならない。

なぜなれば、「記紀」編纂の目的は、壬申の乱という、日本史上最大の革命戦争によって皇位を纂奪した天武天皇が、自身を、正統な皇位継承者であると民に認めさせることによって、万世に揺るがない天武王朝を確立しようとするものであったからだ。

そのような目的を達成するために、諸豪族に伝承されてきた多くの文献が抹殺された。

その結果、日本人は、国史に関するかぎり、暗やみにたたされることになったのだ。

 

だが、日本人にとって幸いなことに、「記紀」に真っ向から対抗する古文献がいくつか見つかっている。

それは、次のような古文書の内容である。

 
上記(うえつふみ)
 
むかし、記憶や口諦によって、共同体にまつわる系譜や説話などの伝承にたずさわる人々がいた。それが「語部(かたるべ)」である。

語部は、古代、といっても平安中期ころまでは「部(べ)」(特殊技能集団)として朝廷にも仕えていた。

すなわち、天皇即位後の最初の新嘗(にいなめ)祭であり、一世一度の大祭にあたる大嘗(だいじょう)祭には、伴宿禰(とものすくね)と佐伯宿禰とに率いられた語部(各15名)が「古詞」を奏したという。

なお、この語部(計30名)は、905年に成立した律令施行細則の集大成である延喜式(えんぎしき)によれば、美濃・丹波・丹後・但馬・出雲・淡路から集められたとある。

ちなみに、これらの国々は、淡路一国をのぞき、すべて先住民系の「山の民」に縁の深い地域である。

さて、この語部が天皇の一世一度の大祭に奏したという「古詞」の内容は不明であるが、おそらく出雪国造(いずものくにのみやっこ)が代々、天皇に服属の意の表明として奏した「出雲国造神賀詞」的性格のものだったのではあるまいか。

その朝廷(天皇)御用の語部のもっとも有名な人物は、日本最初の史書とされる古事記の成立に大きくかかわった舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだのあれ)であろう。

この猿女君(さるめのきみ)氏出身の天才が誦習した帝紀・旧辞を太安万侶(おおのやすまろ)が撰録したのが古事記とされている。

しかし、語部のすべてが体制側に属していたとは考えられない。

各地の豪族にはそれぞれ語部がいたはずである。

それらの語部のなかには、古代の苛烈な政争に敗れた豪族に属するものもいたにちがいない。

 
古事記以前の書といわれる古史古伝の成立に、これらの語部が果した役割は大きかった思われる。
 
竹内文書・九鬼文書・宮下文書・物部文書・秀真伝・東日流外三郡誌などは、いずれも敗北者側の語部の口調してきた伝承を、後世、撰録文書化したもので、本書でとりあげる『上記』(うえつふみ)(以下ウエツフミと記す)もその一つである。
 

さて、このウエツフミの伝承を伝えた語部は、かつて『サンカ』と称された「漂泊の山の民」であったというのが本書の仮説である。

いや、ウエツフミだけではない。

 
竹内文書・九鬼文書・宮下文書──いずれも記紀では一代かぎりのウガヤフキアエズ王朝を数十代の連続王朝としている──の三文書も、古代山の民系の語部であるこの漂泊の山の民集団が大きくかかわっている。

そこから、この三文書(ウガヤ文書ともいう)を、サンカ文書」として一括する人もいる。

 
では、なぜ、この漂泊の山の民が、まつろわぬものの怨念の歴史である古史古伝の語部となったのであろうか。
 

このサンカと称された漂泊の山の民集団が日本列島に、いつ渡来したかについては、正確なことは分らない。

だが、彼ら自身の伝承に出雲的カラーがきわめて濃いことから考えて、縄文晩期ごろではないかと推定される。

 
したがって彼らは、三〜四世紀ごろ渡来した天孫族と称する集団からみれば先住民ということになる。
 
だが、彼らはながい大陸での漂泊の旅の経験をもっていたため、弥生革命にも生き残り、その共同体的アイデンティティを失うことなく、いわゆる大和朝廷という名の支配機構が確立されたあとも、まつろわぬ者として征討の対象ともならずにすんだ。

それは、彼らがそのながい漂泊の中に身につけたいくつかの特技によって有力各氏(豪族)に巧みに食い込めたからである。

そして、その豪族が政治闘争で敗れたとき、そのままでは勝者によって消されるその氏族の伝承を語り継ぐ役割を担うことになった。

いわゆサンカ文書は、この「漂泊の山の民」の語部が口諭し、後世、文書化したことからの命名である。

 

もともとウエツフミは、大和朝廷成立以前に滅亡した出雲王朝の挽歌であった。

それを記憶し、口誦してきたのは、九州の「漂泊の山の民であった。

 
彼らは、出雲王朝を開いたスサノオノミコトの集団とともに日本列島に渡来した。

それだけに天孫族に「国譲り」を強制され、やがて大和朝廷に滅ぼされたこの王朝にとくに深いかかわりをもっていたのであろう。

 

また、ウエツフミが九州豊後の「山の民」の伝承であるにかかわらず、東北地方をのぞく、ほぼ全地域にわたる古代(神武以前)の情報を網羅しているのは、各地の「山の民」の語部たちの協力があったからであろう。

だが、この「漂泊の山の民」が伝えた古伝承──原(プロト)ウエツフミ──は、大友能直(よしなお)によって現在のウエツフミに改変されてしまった。

したがって、そこには「まつろわぬ者」の栄光と悲惨についての記述はみごとに消し去られてしまっている。

にもかかわらず、私たちは、その現存ウエツフミからでさえ、在りし日の弥生(出雲)王朝についての貴重な情報を詳細に読みとることができるのだ。

それだけでも私たちは、2000年にわたって、私たち先住民系の祖先の伝承を語り伝えてくれた、この漂泊の山の民の語部に深く感謝すべきであろう。

 
タブーとしての出雲王朝

日本神話を読めば、「高天原」の最大のライバルが「出雲」であったということが分かる。

事実、記紀神話を貫く一本の赤い糸は、高天原勢力に対する葦原の中つ国勢力のチャンピオン、出雲勢力の抵抗と敗北の歴史である。

おそらく古史古伝に残る「出雲王朝」こそ、かつての原(先)住民の黄金時代についての記憶の唯一の投影であろう。

 
だが、本来は反体制文書であるはずの古史古伝のなかでも、この「出雲王朝」の存在を記しているのは、わずかに九鬼文書(はっきり出雲王朝を正統としている)とこのウエツフミ程度であるのはどういうわけか?

ここに古史古伝の成立と継承の謎がある。

私は、この種の謎について、かつて古史古伝の写本者の体制の圧迫に対する偽装(カモフラージュ)論としてとらえたことがある。

 

すなわち、いわゆる畿内(大和)朝廷にとり、出雲王朝の存在は最大のタブーだったはずである。

なぜなら、彼ら(畿内=大和朝廷)は、自分たちの日本列島支配の正統性の主張をくつがえす最大の危険が、民衆のあいだに潜在的に記憶されている出雲王朝のイメージであることを知っていたからだ。

事実、そのため彼らは、出雲の服従の誓いともいうべき「出雲国造神寿詞(いずものくにのみやっこのかむすごと)」を出雲国造に代々奏上させたくらいである。

 
その行事は天長十年(833年)まで記録されているが、驚くべきことに第二次大戦後の昭和23年(1948年)、83代千家尊祀国造のとき復活しているのだ。
 
出雲国造神寿詞は、日本列島の先住民勢力が大和王朝に服属する必然性を主張するために設けられたものであり、

いわゆる「出雲」とは、現在出雲大社がある山陰の一地方の呼称ではなく、

高天原勢力に抵抗した私たちの大部分の祖先である先住民勢力の集約的表現であるからである。

さて、出雲王朝にもどろう。

いま述べたような記紀の出雲(神話)観にもとづけば、古史古伝といえども、うっかり、その出雲王朝の存在を打ち出すことが、いかに危険であるかがお分かりいただけるかと思う。

したがって、九鬼文書やウエツフミが、このタブーの先住民王朝の存在を記しているということは、それだけでも偽書として抹殺される可能性をもっていることである。

 
それは、いわば、発見され次第、爆発させられる(弾圧・抹殺される)時限爆弾をかかえ込んでいると同じである。

そこで、そのような伝承全体をも破壊されてしまう危険な爆弾を自らの手で解体しょうと考えた古史古伝の継承者(つまり筆写者)がいたとしても不思議ではあるまい。

この自発的?な爆弾解体作業は、一見、偽装と似ているが、偽装よりも質的には後退である。

 

また、こうした偽装したり、解体せざるをえないような危険な情報は「出雲王朝」だけでなく、古史古伝にはいくつもある。

だが、私たちの祖先は、それらをすべて解体するということはしなかった。

偽装を施して、しかもある一つの鍵を用いれば分かるような形でそのような危険な情報を継承してきた。

それが現存の古史古伝であり、ウエツフミもその一つであったのである。

 

…佐治芳彦著「謎の上記」より

 
『上記』は、13世紀に源頼朝の庶子で豊後太守に封じられた大友能直の撰になるとされる。

いわゆる神代文字、つまり異体仮名の一種によって書かれているものであり、上古の王朝とされる伝説的ウガヤフキアエズ朝の歴史を綴ったものである。

『上記』は、幕末、今の大分県大分市に住んでいた国学者・幸松葉枝尺(さちまつはえさか)によって発見された、いわゆる宗像本と大友本との二種類がある。

宗像本は、今の大分県大野郡大野町の地に居住していた宗像良蔵という人物が、はじめ所蔵していたもので、艮蔵の死後、妻が実家に持ちかえっていたが、この女性が幸松の姻戚関係にあったことから、幸松の手元に移り、幸松によって実検された。

これが宗像本の発見であり、天保九年(1839)のことであった。

その後、幸松によって、異体文字からの解読が行われ、同時に、原本の写本が作製されて、時の大分県令を務めていた岡山県出身の森下景端の仲介で、明治7年、明治新政府に進上された。

現在、幸松が監修した一本の他、あわせて三部が内閣文庫に保存されている。

一方、大友本は、今の大分県臼杵市の地に住んでいた大友淳という人物が所蔵していたもので、当時の記録によると、はじめこの書が、当局に没収されることを恐れた大友は、これを深く秘め隠していた。

先の森下景端をはじめ、周囲の人々のすすめで結局、世に出すことになったが、はじめ差し出したのは、真本でなく、異本であり、真本は、後に大友家が没落した時、大友家から佐々木千尋という人物に売却された。

佐々木は現在、国会図書館に一部現存する大友本の筆録者の一人であり、佐々木が入手した大友本は、後に、佐々木から大分県庁に納められ、現在、県立大分図書館に収蔵されている。

宗像本・大友本とも、五十文字の異体仮名で全編書かれているが、この文字が何時、どこで、どのような人々によって何のために用いられたかは不明である。

筆者は、古代の語り部の流れを組む人々によって受けつがれて来たある種の語り部文字でほなかったかとの仮説を抱いている。

『上記』は、序文によれば、源頼朝の庶子で豊後太守・大友能直の手によって1233年編纂されたものと伝えられているが、その真偽は確認出来ない。

内容は、日本列島の創世から、ニニギ王朝、山幸彦王朝、これに続く73代に渡るウガヤフキアユズ王朝の歴史を紀伝体で綴ったものである。

『記紀』にあっては、神武は山幸の子、ウガヤフキアユズの子とされるが、『上記』では、山幸の子である初代ウガヤ王と神武との間に71代のウガヤ王が介在し、神武は、73代ウガヤ王とされる。

又、ニニギ王朝の成立に先行してスサノヲによって開かれた出雲7代の王歴が存在し、7代目オオクニヌシの国ゆずりによって、ニニギ朝が成立する。

この出雲7代については『古事記』は、その神名系譜のみを挙げているが、『上記』は、それらの神名系譜に対応した一個の継続王朝を語っている。

こうした王歴伝説に交じって、民話、天文、暦制、医学、国制、産業など広範囲に博物誌的な記事を散在させている。

初代ウガヤに至るくだりは、出雲王朝部分を除くと、殆ど『記紀』に重なる内容である

文体、文章、語句の上からは、『古事記』との関連が著しい。

 
『東日流外三郡誌』
 
『東日流外三郡誌』は、中世初頭11世紀半ごろ発生した、いわゆる前九年の役の敗北者、陸奥・安倍氏の末裔、安東一族の歴史と伝承とを編集したものである。

民族学的に言って安倍氏というのは、所謂蝦夷(えぞ)族(アイヌ族が主要な勢力)と、所謂倭人との混血によって成立した勢力の代表的氏族であった。

安倍氏と並んで後三年の役で亡んだ出羽・清原氏も同様な氏族であった。

前九年の役というのは、安倍頼時とその子貞任・宗任らが大和王権に対抗して自立し、その勢力が強大となったため、源頼義・義家父子を中心に東国武士団がこれを討ち、戦争となったものである。

敗北者となった安倍氏・安東氏の一族はその後、全国に分散して拡がったが、畿内・大和王権に対して陰然と敵対心を保ちつづけていた。

江戸末期に入り、安東一族の後裔である秋田・土崎の秋田孝季と、縁者で津軽・飯詰の和田長三郎が、寛政元年(1789)から文政五年(1822)まで三十有余年にわたり、日本全国を廻り、安倍氏の始族とされる、いわゆる荒吐をはじめ、安倍氏・安東氏等が維持し続けていた様々の伝承・口碑や記録を収集し編纂した。

これが『東日流外三郡誌』の原典である。

全368巻の長大な書であり、内容は始祖伝承から、江戸時代までの事蹟を含み、特に大和王権に対する怨念ともいうべき氏族感情、敵慢心が赤い糸のように貫いている。

原本は、もともと秋田孝季家に伝存し、その写本が和田長三郎家に残されていたが、火災で秋田家の原本が焼失したため、今は和田家にのみ写本が残っている。

和田家では歴代にわたり、写本などでこの書の保存につとめて来たが、最後の写本は明治10年代になって成立したものである。

しかし、大和王権に敵対的内容を含むため、吾が奪われたり、一族に危難の及ぶことをおそれてか、一族以外のものの他見を許さず、又、他言をも許さずに最近に至っていた。

しかし、昭和50年になって、青森県市浦村が『市浦村史資料編』として一部発表し、はじめて一般の目にふれ得るところとなった。

 
『九鬼文書』
 
『九鬼文書』は、現在、和歌山県・能州野本宮大社宮司・九鬼宗隆氏の家伝として逼る文書である。

九鬼家は、その系譜によれば、中臣氏(藤原氏)の系累であり、後白河天皇の代に教真という人が、はじめて、熊野別当(神仏習合で成立した神宮寺の司官で祭祀長)に任じられ、以後、熊野神社と由緒深い家柄である。

教真以来八代にわたり熊野別当職をつとめた。

九代目・隆真は、後醍醐天皇を背におぶって吉野に逃亡し、ここに南朝が興った。

この功により、隆真は、九鬼姓を与えられたという。

近世になってからは、丹波・綾部藩、摂津・三田藩の藩主となり、明治新政府のもとで、子爵に叙せられた。

当主・宗隆氏の父で、先代・隆治は、大正年間、皇道宣揚会を設立し、神道の宣布に当った。

宗隆氏は、現在、熊野本宮大社宮司である。

『九鬼文書』は、九鬼家々譜に至る中臣(藤原家)の神代からの系図を揚げ、神代の神々の系譜を載せている。

又、神武以後、後醍醐天皇に至る天皇歴代の簡単な略史が設けられている。

更に九鬼文字と称される異体仮名文字が紹介され、九鬼神道ともいうべき教義及び祭祀・呪法などが書かれている。

この書のいわば根幹となるものは、「天地言文」(アメツチノコトアヤと訓むか)であり、中臣氏の祖神天児屋根の子孫・天種子が後世に伝え残したものという。

これは、『秀真伝』が天種子の編述になるとするのと同じである。

 
『富士高天原朝史(宮下文書)
 
『富士宮下文書』というのは、現在、山梨県富士吉田市大明見在住の宮下義孝氏が保存している古文書である。

文書目録によれば、『記紀』の神代志に対応する部分、いわゆる神皇代に対応する部分、神武以後の人皇歴代に対応する部分など、皇統譜伝承をはじめとして、飛鳥・奈良以降の甲州富士浅間神社一円関係の世俗文献など、ざっと745点からなる一大古文書群である。

このうち、神祇・神皇関係の記録は、秦の始皇帝によって仙人の国を求めて東海に派遣されたといわれ、伝説によれば、日本に到来したという徐福及びその子孫が編纂撰録したものとされる。

又、歴代天皇や源頼朝、北条泰時など時の支配者の直筆書とされる文献なども含まれている。

『富士宮下文書』は、甲州(山梨県)富士山麓の富士山阿祀谷元宮小室浅間太神宮という神社に代々継承・保存されて来たもので、この神社は現在、富士吉田市大明見にある富士山北東本宮・小室浅間神社の一つの前身と目される。

『延喜式』「神名帳」には、八代郡に浅間神社を載せている。

『清和実録』にも、貞観七年(865)、八代郡に浅間明神嗣を建立したとある。

地理的近接性からして、『延書式』『清和実録』の浅間神社が小室浅間神社にあたるのであろう。

大正時代、皇統譜及びその伝説を中心として『富士宮下文書』を整理・ダイジェストして世にあらわした三輪義熙の『神皇紀』及び小室浅間神社の現宮司・宮下荘一氏によれば、この文書は、第26代宮司の時、阿祖谷小室浅間神社から相模(神奈川県)寒川神社に移され、49代宮司の時、これを複写して阿租谷に持ち帰ったという。

こうして二種類の『富士宮下文書』が甲斐に残り、保存されていたが、寒川神社のものは、後に水害に遭って亡び、甲斐・阿租谷に残ったものが、今日まで伝存しているものであるという。

更に、『神皇紀』によれば、第77代宮司となった宮下義興が14才の時、文久三年(1863)11月の事であるが、宮司家の居館が火災にあい、古文書も類焼の危険にさらされた。

義興は祖先の遺訓を守って、これを保守するため火中に飛び入り、古文書を持ち出したという。

その後、明治16年(1883)になって義興は、小室浅間神社の神官・宮下荘斉と相談して、文明開化の今日だから厳秘を命じた祖先の遺訓を破って、古文書の箱を開けてもよいのではないかとして、これを開封し、『富士宮下文書』は永い眼りからさめ、世の光にあてられることになったという。

現在、古文書を保存している宮下義孝氏にとって義興は四代前の先祖であり、現・小室浅間神社宮司の宮下荘一氏にとって荘斉は三代前の曽租父に当るという。

宮下義孝氏の家では、一族相図って、文書を永代保存するため、邸宅の一画に一間四方ほどの小さいながら堅固な土蔵造りの保存庫を造り、文書はこれにおさめられている。

 
『竹内太古史』
 
この文書は、太平洋戦争中、『記紀』にあらわれている伝説的人格、武内宿禰(孝元天皇の曽孫で景行から仁徳に至る五朝に仕えたといわれる)の65代目の子孫で、竹内赤地三郎衛門という人物の養子となった、茨城県磯原(今の北萩城市)の武内巨磨(おおまろ)によって、代々竹内家に伝存して来た神典として公にされたものである。

巨磨の実父は、庭田重胤という人物で、幕末に従一位大納言の位を朝廷から与えられており、しばしば、伊勢神宮へ勅使として派遣されたという。

母は、藤原奈保子といい、伊勢神宮の神官・従二位参議・大中臣光忠の娘であった。

奈保子は、明治八年、従者三人を連れて桜の花見に出かけた帰路、動機は不明だが、加賀前田家の家臣ら七人の暴漢に襲われ、従者二人を殺され、自分も自刃したという。

残された子供は長男の重正、次男の重文、三男の重直、四男の重蠻(しげたか)の四人で、この中の末子・重蠻が後の巨磨であったという。

巨磨は竹内家の養子になったことから、養父・三郎衛門に、竹内家伝来の神宝を相続され、世の中が平和になったら、これを天皇に御覧に入れよと遺言されたという。

後に巨磨は神宝に含まれていた『竹内文書』と神骨神体と呼ばれた神像76体の存在を世に公表した。

竹内家の伝説によれば、『竹内文書』は、はじめ、いわゆる神代文字(異体仮名)で書かれていたが、雄略天皇の時代に、勅令で、竹内宿禰の孫、平群真烏が五世紀ごろ漢字と普通の仮名とを併せ用いて、書き改めたといわれる。

いわゆる普通仮名の成立は、奈良時代以後であるので、この伝説はあてにならない。

真鳥は、武烈天皇の時代に国政を専断し、日本の国主になろうとしたとして、天皇氏の軍隊に討伐され、滅ぼされた。

竹内家の伝説では、神体は76体の他、もう2体あったという。一体は、崇神の代に、大和・笠縫神社(アマテラス降臨の地とされる)に、他の一体は、丹後、輿謝神社(今の龍神社又は元伊勢神社・伊勢トユケ神の元宮)に安置されたが、次の垂仁の代に、それぞれ、伊勢・五十鈴川の宮と山田の原宮とに遷祀され、これが内宮、外宮の由来であるという。

…田中勝也著「異端日本古代史書の謎」より

 
日本の学者らは、それらを偽書だとして無視する傾向にある。

しかしそれらはけっして偽書ではない。

ただ、それらが公表されるようになる過程において、官権による改竄がなされたために、信憑性の疑わしい記述が挿入されているのは事実だ。

 
これらは、いずれも由緒正しい家中に伝わってきた古文書である。

同じ時期に同じ場所で発見されたものではなく、それぞれ異なった年代に、かなりかけ離れた場所で見つかったものである。

 
これらの文書が公開されるまでには、官憲から我々の想像を遥かに越える干渉と圧迫があったであろうことは、言わずもがなである。

なぜなら、これらの古文書には例外なく「ウガヤ」王朝が神武王朝以前に存在したと明記されているばかりでなく、

それが73代続いていたという一致した内容になっているからである。

古文書の記録の中に疑わしい記事が混ざっているというだけで、その内容全体を偽書だと否定してしまうことができるだろうか。

もしもそうならば、『古事記』や『日本書紀』も偽書だと言わざるを得なくなる。

というのは、記紀は歴史の年代記録が矛盾だらけであるばかりか、記事の内容そのものも歪曲されていることが、今日までの研究によって判明しているからである。

中には、記紀が偽書だと主張する学者もいないわけではないが、一部に矛盾があるからといって、記紀の内容すべてを事実に反するものとまでは言えないはずである。

古文書の内容には、編纂者が意図的に改竄した部分や、長く伝承されているうちにもとの内容が誤って伝えられた部分がほとんど例外なく含まれている。

このような実態をまず認めなければ、私たちは古文書を正しく読むことはできない。

そのうえで、周囲の関連文献を虚心坦懐(きょしんたんかい)に読み、比較検討していくことが必要である。

『上記』『竹内文書』『東日流外三郡誌』などなどの古文書の証言によれば、日本列島に進出した「ウガヤ=上伽耶」が、「アラカヤ=安羅伽耶=下伽耶」を率いて、第一期ヤマト王朝をたてたのは、神武王朝より1200年以上も前、すなわち、今からほぼ3200年前のことだ。

アイヌは日本列島の原住民であることに、異議を挿む学者はあまり見受けられない。

この「アイヌ」は古代日本原住民の殆どであり、九州南部に若干の南方系種族がいたと思われる。

従って、この当時(紀元前1500−前1000年頃)の日本列島の住民は「古モンゴロイド」であったと言える。

ところが、ちょうどこの頃、地球の寒冷期があり、民族の大移動があって、北方アジア人が南下したのが、いわゆる弥生人の日本列島開拓だと考えられる。

中央アジアから大移動を始めた太陽信仰族の一部は、朝鮮半島の背骨といわれる太白山脈の東側(日本海側)をつたって、洛東江流域を通り、ついには日本列島に移動してきた。

これが弥生人であり、第一期ヤマト王朝を建てた「ウガヤ」の人たちである。

 
彼らは当然のことながら、アイヌよりは新モンゴロイドであったはずである。

彼らは、南・北九州一帯は勿論のこと、山陰・山陽地方の区別なく、だんだんと東北に進みながら、アイヌとの混血をしていった。

水田稲作の日本列島への伝来を、今から、3500年から4000年前と見る立場から判断すれば、伽耶族の渡来も、それと同じ時期だったと見るのが、自然である。

地球上のすべての民族に伝わる神話や伝承を見ると、上古の人類は、程度の差はあるが、皆「太陽」を神と崇めていたことがわかる。

なかでも、太陽を「ラ」と名付けたエジプト人は、王さまを太陽神の権化と信じていたし、インドの太陽国アユディアの王さまも「ラマ=太陽神」と呼ばれていた。

中国の建国神話に出てくる炎帝も太陽神であるのは周知のこと。

 

さて、今日の我々に「加羅=カラ」の名で知られている部族名は、前に述べたように「太陽」または「太陽の国」、あるいは「王さま」という意味の韓国古語である。

洛東江両岸の肥沃な地域に定着した加羅族(伽耶族)は、本家が統括する地域と分家が治める地域に区分され、本家のほうは「ウカヤ=上伽耶」、分家のほうは「アラカヤ=下伽耶」といわれていた。

韓半島南部で、本家の「ウカヤ=上伽耶」が都していたところは、今の慶尚北道の高霊(コリヨング)を中心とした地域にあたるが、またの名を、「弥烏邪馬国=ミオヤマト」といっていた。

「ミオヤマト」とは、「神聖で偉大なるヤマト」という意味である。

 
「ミ=弥」は、日本語でも、「神酒=みき」・「神魂=みたま」・「海神=わたつみ」と使われていることからわかるように、「神・神聖」を意味し、「オ」は「大」をあらわす。

次の「邪馬=ヤマ」は、『魏史』(倭人伝)に出てくる国号、邪馬台のそれと同じだから、その読み方に疑問をはさむ余地がない。

あとは、「国」をなぜ「ト」と訓むかだけが、問題としてのこる。

そこで思い出して頂きたいのは、「あなたの国はどこ?というときの「国」は、「生まれた土地」をさすということだ。

その「土地」や「跡」のことを韓国語で「ト」という。

『万葉集』に「跡」を「ト」と訓ませている歌が多いのは、周知のとおりだ。

これを踏まえて、日本の学者のなかには、「ヤマト」の語源は、「ヤマ=山」の「ト=処」だと言っている人も少なくないが、それはこじつけに過ぎない(『大日本地名辞書』「国号篇」参照)。

 

このようにして、「ウガヤ国」のまたの名「弥烏邪馬国」は、「ミオヤマト」と読むもので、その意味は「神聖で偉大なる太陽の本拠」であることがはっきりわかる。

つまり、「ヤマト=日本」の元祖は、伽耶の本家の「上伽耶=ウガヤ」であることが、明らかになった。

今まで日本の国号として知られていた「倭=ハ」を始め、「ヤマト」や、漢字で表記された「日本」も、すべてが「太陽の国=カラ(加羅)」という意味の言葉であることが、突き止められたわけである。

 
明治の著名な学者等が、「『日本』の国号は韓国に始まった」と喝破したのは、このことを指して言っていたのだ。
 
ちなみに、伽耶の分家である「アラカヤ=下伽耶」の数は、当然のことながら、年代が下がるにつれて増えていった。

したがって、韓国の史書には、「伽耶は、六つ(または五つ)の部族国家によって成立していた」と書かれている。

だが、じつさいには、その数、十あまりにのぽったと見え、『日本書紀』には、西暦532年以前に滅びたものが三カ国、そのあと562年までに滅ぼされたのが十カ国となっている。

また、伽耶琴を初めてつくった「ウガヤ=上伽耶」末期の楽師「ウルク」が、伽耶12国を歌に詠みこんで残していることからも、「アラカヤ=下伽耶」の数は、少なくとも12以上あったであろうことを推察できる。

 

そのような初期「アラカヤ=下伽耶」のなかで、もっとも強大な勢力をもっていたのは、今の慶尚南道の咸安(ハマン)地域に栄えた「安羅伽耶=アラカヤ」であった。

そして、「アラカヤ=下伽耶」のなかで、もっとも最後まで頑張っていたのが、「金海伽耶=キムヘカヤ」、つまり、『魏志』(倭人伝)に「狗邪韓国」と記されたところである。

 
この国は『日本書紀』(欽明二年条)には、「南加羅」と表記され、「アリヒシノカラ」と訓がほどこされているし、別のところでは「下韓」と書いて「アルシカラクニ」と訓ませている。

そのばあいの「アリ」または「アル」は、「アラ=下」がなまったもので、「下韓=アルシカラクニ」とは、いうまでもなく「下伽耶=アラカヤ」のことだ。

「下伽耶=アラカヤ」は、本家「上伽耶=ウガヤ」の南の方に位置していたことから、「南加羅」とも表記されていた。

 

韓半島における最後の「下韓=アルシカラクニ」は、今日の韓国では、「金官伽耶=クムカンカヤ」とも呼ばれているが、『日本書紀』に明記されているように、西暦532年に新羅に降伏している。

その「金官伽耶=クムカンカヤ」は、日本の皇室と密接な関係にあるが、そのことについては、あとで詳しく説明することにして、先へ進むことにする。

だが、その前に、ここでもう一つ西暦940年頃に編纂された『旧唐書』を覗いて、「ヤマト=日本」が、「ウガヤ=上伽耶」と「アラカヤ=下伽耶」を指す「倭」の名であることを確かめておこう。

 

『旧唐書』に、次のような記録が残されている。

『日本はもと小国だったが「倭」を併合した(大きくなった)』

『日本は倭国の別種である。その国は日の辺にあるので、日本をもって名とした』

 
『旧唐書』にあるこのような記事は、「倭は日本の称号だ」とばかり信じている人々には、まったく不可解な謎であり、その意味を解明できた学者は一人もいない。

だが、「倭」と「日本=ヤマト」が、韓民族の自称であることに気が付けば、その解釈は、いとも簡単である。

 
すなわち、「小国だった日本が倭を併合して大きくなった」というのは、

半島南部の狭い地域にあった『日本=ヤマト』、つまり、『ウガヤ=伽耶』が列島に進出して、当時「倭」といわれていた地域を併合して大きくなったという意味である。

今まで目隠しされたまま過ごしてきた日本人にとっては、びっくり仰天するような、信じ難い話だが、

この史実は、「神武天皇以前の日本列島に、「ウガヤ王朝」が七十数代続いていた」と記録している、

『東日流外三郡誌』『上記』『九鬼文書』『竹内文書』『宮下文書』などが裏付けている。

 
ところが、『古事記』や『日本書紀』に見える日本建国神話によれば、神武天皇が東征に成功して、最初の都を定めたところも、「ヤマト」の橿原、すなわち、今の奈良県橿原市であった。

韓半島内に存在するウガヤ=上伽耶の、もう一つの名であるはずの「ヤマト」が、なぜ、記紀の神武神話に、傾国の土地として登場したのだろうか ?

しかも、『魏志』(倭人伝)によれば、「ヒミコは、邪馬壱(ヤマト)の女王だったが、西暦278年頃死亡し、その後を即(つ)いだのは、女王壱与(トヨ)である」と明記されでいる。

『魏志』(倭人伝)や記紀の記録が誤ったものだと言うなら、話は別になるが、それらが事実だと認めざるを得ない現状では、およそ西暦300年頃の奈良県内に、「ヤマト」という名の国が存在していたことを何人も否むことができないのだ。

 

奈良県にあった「ヤマト」と、韓半島にあった「ヤマト」、つまり、「ウガヤ=上伽耶」とは、どんな関わりをもっているのだろうか ?

それを調べる順序としてまず「ウガヤ」の建国時期から追求して行こう。

 

『古事記』や『日本書紀』は、「アマテラス大神」と「スサノオノミコト」は、同じ父母から生まれた姉弟だとしながら、姉のアマテラス大神は、「高天原」、すなわち古代ヤマト地方を治める一方、弟のスサノオノミコトは、「根の国」、すなわち、出雲の国を治めていたと記されている。

 

同じ記紀の記録のなかで、ややもすれば見過ごされやすい部分は、『アマテラス大神は、出雲の国のスサノオノミコトが、高天原に攻め込んでくるのではないか……と心配していた』というくだりだ。

だが、このようなアマテラス大神の、出雲の国に対する恐怖と憂いは、神代の話、すなわち、神武以前の状況を表現したものではない。

実際には、「国譲り神話」として記紀に伝えられている事件、つまり、大国主命から、出雲国を奪ったあとの第二期ヤマト政権の心理を描いたものである。

言い換えると、『上記』や『東日流外三郡誌』などの古文書が伝えるウガヤ王朝(上伽耶王朝=第一期ヤマト王朝)時代には、弟、すなわち、分家であるアラカヤ(下伽耶)は、文字どおり、「ハラカラ=一つの加羅」の認識が強く、共存共立の信頼関係が維持されていたのだ。

 
したがって、ウガヤ王朝は、「アラカヤ」を配下にもつ統一伽耶王朝だったわけである。
 

そのような「ウガヤ」と「アラカヤ」の、血族としての連帯関係を裏付けているのが、『日本書紀』の仲哀二年二月の記録だ。

それによると、「ウガヤ王朝」最後の王であった仲哀天皇は、即位した翌年の二月に、新妻をつれて、今の敦賀にでかけ、そこに行宮をたてて滞在していたという。

雲国風土記の国引き神話にも明記されているように、能登半島は、出雲国、すなわち、「アラカヤ」の領域だったのだから、敦賀は当然のこととして「アラカヤ」の領内である。

もしも「アラカヤ」が「ウガヤ」と対抗関係にあったとしたら、「ウガヤ」の新婚ほやほやの天皇夫妻が、「アラカヤ」の領内に、行宮(かりのみや)をたてて滞在することなど、可能だったはずは毛頭ないのだ。

そのようなウガヤ王朝の成立は、水田稲作技術の波及と同じ歩調で進行したと考えなければなるまい。

『上記』や『東日流外三郡誌』のような古文書は、神武王朝以前の日本列島に、ウガヤ王朝が73代続いたと言う。

これは、一代を30年と見た場合、ほぼ、2200年に相当するから、ウガヤ王朝の創建は、今から4000年以上もまえのこととなる。

だが、古文書のなかには、神武王朝より1200年早かったと記しているものもある。

もしも皇室がいっているように、西暦1940年が、神武王朝が始まってから、二千六百年目にあたる年であるなら、ウガヤ王朝の成立は、それに1200年を加えて、今から3860年ほど前だったということになる。

 
だが、今では、終戦前の日本政府が吹聴していた「西暦1940年は皇紀2600年」説を信ずる古代史学者は、ほとんどいないし、日本政府が言っていた年数から、660年を差し引かなければならないと考えている学者のほうが多いのが現状のようだが、それはまちがいである。

私の場合、後でおいおい説明することになるが、ウガヤ王朝の滅亡時期は、仲哀天皇が殺された西暦362年だと考えているから、神武王朝は、今の皇室を、その正統な後継者と看做すばあい、1998年現在まで、ほぼ1636年間(1998-362年=1636年)続いているという計算になる。

それに、神武以前に73代、ほぼ1200年を加えると2836年前だったのだ。

 
つまり、第一期ヤマト王朝(ウガヤ統一王朝)の建国は、今からほぼ2836年前だったのだ。
 
…朴 炳植著「ヤマト渡来王朝の秘密」より
 
ヤマタノオロチの正体
 

日本の正史である記紀によれば、具体的な歴史の叙述は「スサノオノミコト」を「高天が原」から追放する場面から始まる。

そして「高天(たかま)が原(はら)」を追放された「スサノオ」は五十猛(いそたける)の神々をひきつれてまず「新羅(しんら)」にくだり、それから「出雲」にやってくる。

「スサノオ」は簸川(ひのかわ)の上流で、「ヤマタノオロチ」を退治し、その後、出雲に定住するようになった。

 

ところが、肝腎の『出雲国風土記』は、その大事件について、一言半句も触れていない。

記紀にあれだけ書きのこされた古代出雲の一大ロマンについて、ひとことも言わない地元の人たちが、

『出雲国風土記』の中でもっとも強調したのは「国引(くにび)き」であった。

 

『出雲国風土記』に他のなによりも強調されている「国引き」は、「八雲たつ出雲の国は、狭布のわが国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」といった「ヤツカミヅオミツノミコト」の言葉に始まった。

つまり支配地城の拡張作業といえよう。

それにたいする「ヤマタノオロチ退治」も、農民を苦しめる「ヤマタノオロチ」を「スサノオ」が退治して、それにとってかわって、その地域を支配することになったという物語である。

その点で、両者には一致するものがある。

「ヤツカミヅオミツノミコト=八束水臣津野命」という神名は、水利潅漑技術にたけた人に付けられた名であると考えれば、国土拡張事業の内容も納得できないこともないが、「ヤマタノオロチ退治」となると、まったくおとぎ話になりかねない。

 
しかしながら、《いやしくも日本国の正史に》あれだけ克明に書きのこされた記述を、単なる作り話であると一笑に付することはできない。

ならば、この「ヤマタノオロチ」とはいったい何者であろうか。

 

隠岐(おき)の島にのこされていた古文書『伊未自由来記(えみじゅらいき)』に、この島が「オロチ族」によって長い間苦しめられたという記録がある

「ヤマタノオロチ」の実体は「ヤマタ=アマタ=数多い、大勢の」+「オロチ」の意である。

 

「ア」音が「ヤ」音に発音されるのは、「アジア」と書いて「アジヤ」と読む人のいることからも理解していただけるだろう。

しかも「ア」も「ヤ」も「非常に、多くの」を意味する接頭語であることも見逃してはならない。

残るは「オロチ」であるが、これは「オロチ族」とあることから、ある「集団」の名称でなければならない。

 
日本列島の開拓者には「伽耶(かや)(のちに新羅となる)族と「百済(ひゃくさい)」の遺民のほかに、「高句麗(こうくり)」からの人々がいたことが、」記紀の記録や地名などから明らかである。
 
だが、韓半島の南部に位置していた新羅や百済からは、近距離の北九州に渡来することは比較的容易であったであろうが、

韓半島の北部に存在した高句麗の場合には、新羅や百済を通らない場合、日本海を横断して渡って来なければならない。

 
彼らの到着地点は今の能登半島を中心に島根県の中部にいたる海岸線であったことは記紀や『続日本紀』の記録から知ることができる。

「弥生時代」と呼ばれている古代には、文明の波は大陸や半島から日本海を隔てた「於投馬=出雲」の海辺を潤したはずである。

つまり、出雲国のほうが後日の大和国よりも、はるかに先進した文明の地となっていたであろう。

それだからこそ、記紀には「出雲は大和根(ね)の国」と記録されているのである。

さて能登半島を中心とした島根の中部地域一帯まで根をおろしたはずの高句麗族の記録も、記紀や出雲史にのこっていなければならないのだが、どこにもそれらしきものが見当たらないのはどうしたことなのか。
 
「オロチ」=「高句麗」
 

高句麗の名が史書に初めて現われたのは、班固(はんこ)が著した『漢書』である。

その後、笵嘩(はんよう)の編纂になる『後漢書』にも見えるが、それには「高句驪」または「句驪」と表記されている。

年代がさがって隋、唐の時代になると、「高麗」と呼ばれるようになり、それを「KAULI=カウリ」と発音したのが、現代の英語「KOREA=コリア」となった。

古代日本では「コリョ→コラ→コナ→コマ」と変化して、「高麗」と表記しながらも、これを「コマ」と発音していたから、「コマイヌ」「コマ神社」などの呼称が今ものこっている。

中国人が「高麗」と表記した高句麗の、韓民族固有の名称は「サハラ→ソハロ→ソハリ→ソホリ」であり、それは古代朝鮮の都の名である「アサタル」や奈良の「アサカ→アスカ」と同じく「非常に良いところ」という意味である。

 
「アサカ」の原形は「ア=非常に」+「ス+ア=サ=より一層よい」+「カ=所」であるが、「所」をあらわす「カ」の原形も「ハ→カ=辺、場所」であることに注目すべきである。

「ハ」→「カ」の音韻変化が「サハラ」に生じると「サカラ」となり、消滅しやすいラ行音がこれから脱落すると「サカ」になり、それに最上級接頭詞の「ア」がついて「アサカ」「アサタル」となったことを知る。

ところが「サハラ」から、これも消失性の高い「ハ」が脱落した「サラ」は「カラ」に変わりやすい(サ行音→カ行音韻変化、例‥側=ソバ→ガワ、車=シャ→キョ、コ)。

 

このことから「伽羅(のちの伽耶)」族と「高句麗」族の祖先が同一であることを知るのである。

また両者が太陽信仰神話を持つことからも理解できる。

 
安来は原出雲国の都 安来市
 
中国内陸奥深くまで、広い範囲の領土をもっていた高句麗は、韓半島の百済や新羅よりかなり早い時期から、中国の進んだ文化を吸収していたところであるから、その地から渡来してきた「オロチ」族が、この列島に先住していたとはいえ発展途上にあった「伽耶」族を、かなり長い間支配していたであろうことは想像に難くない。

彼らが残した弥生時代の遺跡や前期古墳(高句麗式方墳、前方後方墳)が、日本全国のどこよりも、安来を中心とし、松江との間に存在しているということは、当時の支配者の居住地がそのあたりに密集していたことを裏づけるもので、後代における「王都」の形式はまだ持たなかったにしても、そこが支配者の居住地だったという意味で、安来は原出雲国の都だというにふさわしいところである。

出雲の主人公は、やがて「オロチ」を退治して新しい実力者「スサノオノミコト」になったが、「大国」「オウ」「オウナ」などの呼称は、とりもなおさず「オロ→オノ→オナ」と変化したもので、「オウノクニ=大国」の意味に解釈されるようになったのである。

安来が支配者らの居住地の中心となった理由の背後には、今日「米子=ヨナゴ」と呼ばれている穀倉地帯がひかえていたことを見逃すことができない。

「ヨナゴ」と呼ばれている地名の語源は、「コメカ→コメコ→ヨナゴ=米どころ」である。米子市

 
古代出雲王国があらゆる大陸文化の上陸地であり、大和国にさきだつ先進国であったことは、記紀の神代条に五穀や蚕の発祥が豊葦原の中津国=出雲国であると書かれていることが証明している。
 
そればかりでなく、『播磨国風土記』にも仁徳天皇が隠岐、出雲、伯耆、因幡、但馬の五国から国造(やっこ)を召したところ、彼らが召使らを水夫に仕立てて回航してきたのは不届きであると口実をつけて、彼らを播磨にとどまらせて田作りをさせたという記事も、稲作の伝達過程を暗示している。
 

因幡をイナバというのも、この地が「稲場=稲ところ」であることをしめしているが、因幡国は持統天皇のころまでも(それ以後もそうであったろう)天皇家の先祖の祭り事に使う米をおさめる土地であったと書紀に書きのこされている。鳥取市

 
「ヤスギ」の語源
 

「ヤスギ」の原形は「アサカ」である。

これが「アサカ→ヤスコ→ヤスギ」と変わったものである。

「ア→ヤ」(アジア→アジヤ)「サ→ス」(母音交替と濁音転化)の音韻変化の結果が現在の「ヤスギ」になっている。

 
大和国の都の名に「アスカ」が使われたのも、「大和根の国=出雲」の都の名をそのままなぞったものであること、あまりにも明々白々である。
 

安来市が、原出雲の国の都であることが分かってきたけれど、読者のなかには当然ながら次の二つの疑問をいだく方もおられるだろう。

一つは「安来」が「アサカ→ヤスギ」と変わったものだとしても、日本全国にはそれに似た地名のところがほかにもある。それらは、すべて昔の都の地と考えることはできない。

「安来」だけを取り上げて「都」というのはおかしいのではないか。

二つ目は、出雲国の都であれば、今日「出雲市」と呼ばれているところがそれであると考える方が順当ではないか。

そのような疑問には以下のように答えたい。

 
日本各地の「アサカ」と「アスカ」
 
アサカ

安坂 長野県東筑摩郡坂井村安坂

ここは麻績(あずみ)村と接しているところで、もとは麻の産地であったから、「アサカ=麻処」と呼ばれたとみられる。

浅香 境市浅香山町のあたり

ここはもと「オオヨサミ」といわれたところ。

「オホ→ア=大いに」+「ヨサ→サ=より一層良い」十「ミ→カ=もの、ところ」と変化して「アサカ」の名に変わったとみられる。

阿坂 松阪市大阿坂町または小阿坂町、もと一志郡阿坂村

浅香城のあるところで、「ア=高い」+「サカ=坂」「アサカ=高い坂」である。

安積 郡山市の北部、もと安積郡

ここは「山道の要所で必争四戦の地なり」と古書にあることからしても、「アサカ=高い坂」の意味である。

 
アスカ
 
飛鳥 奈良県高市郡明日香村

大和の国の都。

はじめ允恭(いんぎょう)天皇と顕宗(けんぞう)天皇が各一代ずつ、その後推古天皇により都が造営された。「アスカ=非常によいところ」であるから、ここを都と定められた。

飛鳥 羽曳野市飛鳥

昔の駒ケ谷村に属するところ。

ここは履仲(りちゅう)天皇ゆかりの土地で天王宮と称されるものがあるなど、皇室とのつながりのあったところなのでこの名で呼ばれたのであろう。

飛鳥 各務原(かがみはら)市蘇原(そばる)飛鳥町

ここは「蘇原=ソパル」という名から、出雲の「園浜=ソノハマ」とおなじく「アハン→アサ=初めの」+「カ=地」が、「ソ=初」+「パル=原、土地」と後代に呼ばれるようになったと思われる。

ちなみにここは「古市場」とも呼ばれるところで、古い昔から人が定着したところと推察される。

飛鳥 弘前市堀越

ここには「町居飛鳥殿」というのがある。

これは『東日流外三郡誌』とも関係のあるところで、私は大和王朝に追われた「アラカヤ」の人たち(いわゆるアラエミシ)がここに新しくささやかな都を定めたと思いたい。

これらの地名のうち「都」であったと思われる条件がそろっているところ、つまり宮殿跡があったり、古代の遺跡や前期古墳が周囲にたくさんあるなどしているところは、やはり大和の飛鳥と出雲の安来以外には見当たらない。
 
 
飛鳥とは
 
もとは「アサカ」で「アスカ」と読むようになったのは後代になってからである。

「飛ぶ」ことは「高くあがる」ことで、それは「アハル→アガル=上になる、アになる」こと。「ア」とは「高、上、貴い、美しい」という意味で、「飛」の古代朝鮮語訓は「ア」であり、「鳥」の古代訓は「サ」で現代韓国語の「セ」の原形である。

「ス=より一層」+「ア=上、飛」「スア→サ=より一層高くなる、より一層高く飛ぶ」ものが「鳥」であることに由来する。

つまり「飛鳥」は「アサ」としか読めないもので、古人はそれを知っていたから、「アスカ」の表音を「明日香」としたのである。

にもかかわらず、「飛鳥」を「アスカ」と読ませたのは音がよく似ているほかに理由があった。

「鳥」を意味する「サ」は同時に「東」とか「明るい太陽」を意味した。

 

古代の「鳥」をトーテムとする信仰は、実は太陽信仰そのもので、「サ」とは「熊信仰」(百済の民族信仰)に対立する伽耶古代太陽信仰のシンボルだった。

太陽信仰族が自分たちの都「アスカ」に「飛鳥」の字を当てたのはこのような理由による。

 

なお「東風」のことを古代韓音では「サシ」という。

「シ」はあらしの「シ」で風のことである。

サ行音がカ行音に変化し、さらに母音交替して「サシ→カシ→コシ」となり、「シ」が「チ」に転じて、「東風」は古代ヤマト言葉の「コチ」となっている。

 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
日本のなかの高句麗
 

紀元前の早い時期から中国の文化を吸収して当時の先進国となっていた高句麗の人々は、中国で長く続いた「春秋戦国時代」の戦乱の被害者でもあった。

戦乱から逃れようとする人々は、陸続きの新羅や百済に、難民として次々と流入したであろう。

だが、新羅や百済と絶え間ない戦争を続けていた高句麗の支配階層は、新羅や百済といった敵地に逃れることは死地にみずから赴くことを意味した。

彼らに残されたただひとつの生き残りの道は、海のかなたに希望をかけることであった。

危険な試みではあったであろうが、座して死を待つよりは、命をかけた冒険の道を選んだ多くの高句麗人がいたことであろう。

彼らが海流と北西風の力を借りてたどりついたところが日本海沿岸、それも能登半島を中心とする地域であったろうことは、記紀や『続日本紀』の記録からも推察できよう。

彼らは新天地に自分たちの故郷の名をつける。

 
宗教的迫害を逃れて、英国から新大陸に渡った人たちがニューイングランドやニューヨークと命名したように、高句麗の人たちも自分たちの到着した土地を「高句麗」と名づけたことであろう。

現在能登半島と呼ばれるところは、このようないきさつから「オロ半島=高句麗」と名づけられたが、「ア」行音と「ラ」行音の交替性のために「オロ→ロロ」となった後、さらに「ラ」行音と「ナ」行音の交替性の影響をうけて「ロロ→ノロ」と変化した。ところが、「ラ」行音は、日本語においては「タ」行音に変化しやすい。

 

その結果「ノロ」が「ノト」と発音されて「能登」と表記されるようになった。

「鳥取」という地名も高句麗族の住んでいた土地であることを示している。 環日本海日朝国際交流会議

「オロ族=オロリ=ロロリ=トトリ=トットリ」と変化した結果である。

日本史の陰の暗闇に微かに見え隠れしながらも、一度も歴史の表舞台に登場することのなかった、

謎の古代氏族鳥取氏の由来もこれで理解できるのである。

 

福井県から鳥取県中部にいたる地域に、数多い弥生遺跡や前期古墳(方墳、四隅古墳)を残した「オロチ族」(高句麗族)は、北方系の麦、粟、稗などの農耕技術をもたらしている。

一方、韓半島の南部、伽耶の地から渡来していた人たちは稲作にたけていた。

 
当時すでに鉄を使いこなしていた「オロチ」族は、まだ青銅器しかもたなかった「伽耶」族から、米を収奪しながら、都をいまの「安来」に定めて長い間君臨することになる。
 

彼らが、鉄剣をふるって周囲の人々を征服したばかりか、乱暴な振る舞いで住人を苦しめたことが「スサノオ」の「オロチ退治」物語の背景となった。

隠岐の古文書『伊未自由来記』は、「オロチ族がそれほどの猛威をふるったのは、彼らが鉄の刀をもっていたから」だとはっきり指摘している。

 
「スサノオ」が「オロチ」から入手した劔(つるぎ)は、もと天叢劔(あまのむらくものつるぎ)といい、後代の日本武尊(やまとたけるのみこと)東国遠征のときに草薙劔(くさなぎのつるぎ)とあらためられた。

この劔は「スサノオ」の手から「天つ神」の手にわたる。

そして天孫降臨によって筑紫の地にくだり、皇室の三種の神器の一つとなったことはあまりにも有名である。

その後、草薙劔は日本武尊とともに東国を一周し、いま尾張国の熟田神宮にあると『日本書紀』は伝えている。

「スサノオ」が「オロチ」を斬った劔は、蛇(おろち)の灑正(あらまさ)といい石上(いそのかみ)神宮にあるとも、また韓鋤劔(からさびのつるぎ)といい吉備神社にあるとも伝えられている。

 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
伽耶族の影
 
日韓古代史を解明するうえで大きな支障となっていることの一つに、

韓半島の南端にあって早い時期に滅びた伽耶(=伽羅)族の歴史が正しく伝えられていないことがある。

後日、韓半島を統一した新羅も、もとをただせば伽耶族の一員であった。

 

伽耶族の歴史は、残念ながら韓半島を統一した新羅の王家によって抹殺されてしまい、今日のわれわれは、『三国史記』(1145年、金富軾編纂)や『三国遺事』1285年、僧一然編纂)に、わずかにのこされている史料や『日本書紀』などに断片的に記述されている史実から窺い知り得るのみである。

これらの史料にしか頼れない伽耶の歴史ではあるが、韓国の東南部、慶尚道を縦断して流れる洛東江(らくとうこう)の両岸流域に、稲作と青銅器文明の花を咲かせた伽耶は、五ないし六の部族国家から成り立っていたという。

伽耶には上伽耶(うがや)と呼ばれる本家と、それから分家した多くの群小諸国があった。

年代が下がるにつれて分家の数は多くなるから、正確に伽耶族の分家がいくつになったかは知るすべもない。

初め、本家と分家は、兄弟の国として血縁の絆は強く認識されていたはずであるが、分家の数が増えるにしたがい、同じ伽耶族の分家同士でも一族としての自覚を失い、赤の他人と同じ関係になってしまう。

ついには本家と分家の間でも同族としての認識はなくなり、同じ血族でありながら数多い小国に分裂しつつ、たがいに相手より上に立とうとして熾烈に争うようになり、歴史に血生臭い足跡を残している。

 

独立した伽耶族の分家は、それぞれが独立した部族国家として『日本書紀』にその名を記された。

欽明紀二十三年春正月条には次のような記事がのこされている。

「新羅(しんら)、任那(みまな)の宮家(みやけ)を打ち滅ぼしつ。ある本(ふみ)にいわく、二十一年に任那滅ぶという。すべては任那といい、別(わ)きては、加羅国(からのくに)、安羅国(あらのくに)、斯二岐国(しにきのくに)、多羅国(たらのくに)、卒麻国(そちまのくに)、古嵯国(こさのくに)、子他国(したのくに)、散半下国(さんはんげのくに)、乞嵯国(こちさんのくに)、稔礼国(にむれのくに)という、あわせて十国なり」

卒麻はもちろんのこと、安羅、多羅、末羅など、そのまま日本の地名になっているものが多い。

これらの国名や地名の中にある「羅」とは、太陽をさす「ラ」の漢字による表現である。

なお、「魏志倭人伝」には帯方郡(京城の西北方にあった中国の直轄領)から女王卑弥呼の国、耶馬壹(やまと)国に行く行程が記されている。

それを見ると「韓国(かんこく)を歴(つた)いながら東南の方へ七千里行くと、倭の北岸である狗邪韓国(くやかんこく)に至る」とある。

その狗邪韓国とは今日の慶尚南道金海にあたるところで『日本書紀』に南加羅とされている土地に相当する。

この土地が『日本書紀』に「ありしひのから」と訓を付けられているのは、

列島に渡ってきた多くの伽耶族の中で金海の金首露王を祖と仰ぐ人たちの故地であったからである。

西暦532年、南加羅は新羅に併合され、伽耶族の本家ウガヤの故地高霊(こうれい)も562年に陥落した。

…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
末廬国の存在
 
洛東江の流域で稲作に成功した伽耶族たちは、急激に増加した人口を養うために新天地を開拓する必要に迫られる。

韓半島の北半分は今でも稲作の難しい気象風土であるから、彼らの目標は当然のことながら緑の森林と葦の原野の広がる温暖な列島に向けられた。

彼らは思い思いの土地へ進出して大小の分国を形成していった。

佐賀県一帯に進出した「末廬(まつら)」は、そこに「松浦」という地名をのこしているし、卒麻国が現在の鹿児島県に進出したことも、薩摩半島という地名で知ることができる。

 

このような地名の例は日本列島には数え切れないほどあるが、早い時期に出雲や玄界灘沿岸に進出したアラカヤ(=下伽耶)は、伽耶族の中でも古い方の分家である。

西暦57年に、後漠の光武帝より「漠倭奴国王」の金印を授けられた王は、玄界灘沿岸の「奴国(なこく)」の王であるとするのが通説である。

 
そして倭人伝に、代々「王」がいたと記されている「伊都国(いとこく)」も玄界灘沿岸である。

しかし西暦107年に、生口160人を献じて後漠の皇帝に拝謁を願い出た「倭面上国王帥升(わめんじょうこくおうすいしょう)」が、どこの国の王様であったのかは明らかでない。

「倭面上国王」を文字どおりに読み取れば、倭の方面の上位の国王という意味であるから、北部九州の連合王国の代表としての末廬国王が中国の天子に面会したとするのが有力である。

  
狗邪韓国から対馬、一支を経て末廬国にやってきた魏の使節は、この国のことを

「四千余戸あり、山が海に迫り草木が生い茂っていて、歩くにも前の人が見えない。人々は海にもぐり魚や貝をとる」

と記すものの、不思議なことに王の有無、官の有無などは記されていない。

 

ところが吉野ヶ里遺跡が発掘されてみて、末廬国は使節が通過した玄界灘側よりも有明海側の方がはるかに発展していたことが判明した。

初め、現在の唐津市周辺に上陸した開拓者たちは、その土地に故郷と同じ地名、末廬を命名した(現在の松浦)。

そして後背地の豊かな佐賀平野を得て連合王国の代表に選ばれる力を得たものであろう。

 
佐賀県の末廬国の祖国が、現代韓国の慶尚南道の密陽(みつよう)にあった国だという証拠は、音韻の変化によっても証明できる。

「末=マツ」が「密=ミツ」に変化したであろうことは、「目」が「マ(まなこ)」から「メ」「ミ(見る)」に変わったことや、「水=マ」が「ミ(みず)」に変わることでも理解される。

また、古代朝鮮語では太陽のことを「ラ」といい、「羅」と表記したが、時代により場所によって「良」「陽」の文字が用いられている。

 
以上のような推論により、私は、吉野ヶ里の王家は、慶尚南道密陽から列島にやってきた、太陽紋章をシンボルとする伽耶族であったと考えている。
 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
太陽紋章の行方
 

太陽信仰の具体的な内容については、私の専門ではないが、日本国神道の源流をなしたものであろうことはいうまでもない。

そして、弥生時代の水田稲作の普及と前後して列島に広まっていったに違いない。

ということは、吉野ヶ里が栄えた時代は、考古学的事実からみると耶馬台国卑弥呼(やまとこくひみこ)女王の時代より少し前までということになる。

それでは、吉野ヶ里の王家はどこへいってしまったのか。

私の推論を続けてみよう。

太陽紋章(いわゆる巴型銅器)の鋳型が吉野ヶ里遺跡から発掘されたことに、私は最も注目していると申し上げた。

太陽信仰のシンボルともいうべきこの銅器の鋳型の破片が、吉野ヶ里遺跡の環濠の中に捨てられていたということは、ここが太陽信仰の本拠の一つであったことの証明である。

吉野ヶ里遺跡発掘の結果、この遺跡の墳丘墓に埋葬された王家の人々の年代は弥生時代の後半で、下っても二世紀の中ほどまでということが判明した。
 
ここにきわめて興味深いデータがある。

日本全国の弥生時代の遺跡からは巴型銅器が全部で26個発見されている。

内訳は西の方から、対馬1、佐賀県6、福岡県3、熊本県2、広島県1、香川県8、大阪府1、滋賀県1、長野県1、群馬県1である。

これらは日本国の中央を横に貫くように分布しているが、吉野ヶ里のある佐賀県に中心をおいていた勢力が弥生
時代に次第に周辺へ拡大していったように見える。

ただし、香川県の8個は一つの穴にまとめて埋められていたもので、王族の墳墓に副葬されたものとはニュアンスを異にする。

古墳時代(四世紀以降)に入ると遺跡からの太陽紋章の出土も増えてくるが、弥生時代とは地域が異なってくる。

西から福岡県2、山口県7、岡山県12、鳥取県1、大阪府3、奈良県17、滋賀県3、三重県7、岐阜県7、静岡県3、山梨県1、群馬県2、その他8、計73個である。

ヤマト国の都がおかれた奈良県が最も多く、次いで西方の有力国であった吉備国の岡山県に多い。

そして東国までかなりの広がりを見せている。

 
銅器は持ち運ばれるものであり、伝世されるものであるから、銅器の出土数だけで歴史を語ることはできないのであるが、
 

少なくとも現在までの考古学的成果に従えば、太陽紋章の出土地域が、弥生時代の九州西北部中心から、古墳時代には大和中心に移っていることは認めざるを得ない。

弥生時代に、吉野ヶ里にあった倭国のある勢力が、弥生時代の終わり頃、西の方にも勢力を残しながら、吉備、大和から東国にかけて勢力の過半を移動した跡を読み取ることができる。

 

これとは別に、同じ太陽信仰の伽耶族でも出雲に進出したアラカヤの勢力には、太陽紋章を用いた形跡はなく、島根県、兵庫県、京都府にはほとんど見られない。

したがって、太陽紋章は伽耶族のすべてに共通するシンボルではないけれど、ヤマト国の中央勢力の一部を形成した有力な氏族の紋章であったと見て間違いない。

 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
倭国大乱の真相
 
弥生時代の終末期にあたる180年前後に、倭国に大きな内乱のあったことを記す中国の記録がある。

『後漢書』東夷伝の中に「桓霊間倭国大乱(かんれいかんわこくたいらん)」の記述がある。

「桓」と「霊」とは後漠の皇帝の名で桓帝は146〜67年、霊帝は167〜79年の在位であるから、二世紀の中頃から終わりにかけて倭国の伽耶族の間では長期の内戦が繰り広げられたことを示している。

 
瀬戸内海の沿岸づたいに中国、四国地方から大阪にかけて、弥生時代に築かれた高地性集落の遺跡が点々と続いている。

朝鮮式の山城ともいうべきこれらの集落は、周囲を深い環濠で囲み、外敵から攻撃をうけた場合にこの中に籠城して抵抗できるように設計されている。

弥生時代は稲作の普及によって豊かになった代わりに、その収穫を狙った争い、あるいは勢力を拡大するための土地争いが伽耶族同士間に発生したことを示すものであろう。

これらの高地性集落は、特に九州方面からの勢力が船団を組んで瀬戸内、畿内へ進出してくるのに備えたものであろうか。

「魏志倭人伝」もこの時期の倭国の内乱について触れて、「其国亦男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼……」と記している。

この部分は普通、次のように読まれている。

「その国はまた男子をもって王とす。とどまること七、八〇年、倭国乱れ、たがいに攻め合うこと歴年。すなわち一女子を立てて王となす。名は卑弥呼という……」

倭国に男王が70〜80年在位後、何年かにわたり内乱が続き、結局、一女子をたてて国王となし国内が治まったというものである。

しかし、私は『後漢書』の記述からみて、倭人伝の「住七八十年」は計算の起算日の記載がないので、「往七人十年」の誤りではないかと思う。

魏の使節が倭国を往復したのは240〜250年代であるから、それからさかのぼること70〜80年前の160年代から180年前後にかけて倭国内に歴年にわたる内乱が続いたと考えている。

 
内戦の収束は、伽耶族の有力な諸国の王たちの話し合いによるのであるが、群小の伽耶諸国がたくさんある中で、

当時最大の勢力を持っていたアラカヤの出雲国の王(昔氏)が倭国の諸王たち、とくに北部九州の諸王を説得したからである。

この国では神代には毎年陰暦の10月になると国々から八百万(やおろず)の神々が出雲に集まって談合する習わしがあったという。神在祭

男子の王を立てたのではまとまらない伽耶族の部族長たちが、納得することのできた女王「卑弥呼」とは、どのような存在だったのだろうか。

まず、自分たちに固有の太陽信仰の巫女たり得る人物で、伽耶の本家である上伽耶(=ウガヤ)の血筋であった。

伽耶族の本家が王位に就くのであれば、分家諸国は異論をはさむことができないからである。

そして新しく建国されたこの国の名をミオヤマ国(上伽耶の別名で、聖なる太陽神の国の意)を基(=台=ト)にして建国されたので、ヤマト国と名づけた。

新しい女王の都はウガヤがすでに進出していた土地、今日の大和といわれるところの夜摩郷(ヤマ郷)に定められた。

そこを斑鳩=イカルガというのは「ウカラガ」つまり「上伽羅=上伽耶」の「郷=処」という意味である。

その結果、九州の諸王家はこぞって新しい都である大和の地に移ることとなった。

北部九州の地名と奈良県内の地名には極端に同じものが多いのはそのためである。

吉野という有名な地名が奈良県にあるのもその一例である。

 
手薄になった北部九州を抑えるために、ヤマト国は「伊都国」に「一大卒(いちだいそつ)」という検察機関をおいて、諸国を監督したと倭人伝は伝えている。
 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
女王卑弥呼の出現
 

日本の学者にはあまり知られていないことであるが『三国史記』新羅本紀には173年に倭国の女王卑弥呼が使節を送ってきたとの記録がある。

ただ、新羅(しんら)がこの史実を自国の歴史に取り込んでしまったので、今日の韓国の正史としては朴氏に代わって昔氏が新羅の王位に就いたことになっている。

これが新羅昔氏王朝の始りで184年のこととされている。

 
新しい伽耶族の王国邪馬台(やまと)を建てた功績として、出雲王の昔(せき)氏は朴(ぱく)氏に代わって半島の上伽耶(ウガヤ)の王位に就く。
 

この時代の新羅史は年代が正確とはいえないが、邪馬台国の王位に就いた卑弥呼が挨拶の使者を送ってきたものである。

この記録や倭人伝の記述から推理すると、邪馬台国の建国年代は西暦170年代から180年前後のことである。

そして、上伽耶の王位を昔氏に譲ることとなった王家の朴氏の朴とは「ハク=白」を表す「日、明」のことである。

女王卑弥呼について、倭人伝は「鬼道(きどう)につかえ、能(よ)く衆を惑わす……男弟ありて補佐して国を治める……」と記している。

しかし、卑弥呼のつかえた「鬼道」が太陽神と祖霊の崇拝であることを理解されている学者は少ない。

「鬼」が死者の霊であることは辞書にあるとおりとすれば、鬼道とは祖霊崇拝のことである

から、祖霊を祭ることがなぜ太陽信仰と結びつくのか。

それを解くヒントが、実は『古事記』と『日本書紀』の建国神話にある。

「天地(あめつち)初めて開けし時、高天原(たかまがはら)になれる神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かみむすひのかみ)……」(『古事記』)

「天地(あめつち)初めてわかるときに、……天之御中主尊(あめのみなかぬしのみことと)と曰す。次に高皇産霊尊……(たかみむすひのかみ)、次に神皇産霊尊(かみむすひのみこと)……」(『日本書紀』一書第四)

それぞれ三例の神々のうち、二例までもが「ひのかみ」「ひのみこと」としている。

これらは「日の神」のことで、ヤマト国は太陽の神々によって建国されたことを意味する。

さらに記紀神話には「ヒボコ=日の子」「ホホデミ=日火の聖神」など「日」のついた神々が大勢登場し、その神たちの子供は男ならば「日子(ひこ)=彦」女子ならば「日女(ひめ)=姫」と名づけられた。

ヤマト国の女王の名「卑弥呼」も「ヒミコ=日の御子」を漢字をもって表現したものである。

こうして見てくると、ヤマト民族(伽耶族)は太陽神の子孫ということであるから、祖霊を祭るということは取りも直さず太陽信仰であったことが理解される。

「カヤ=カラ」という言葉自体が「太陽神の土地」という意味であることも、読者の皆様はご存じのはずである。

ところで高天原なる土地が、どこを指すのかをご存じの方が読者の中におられるだろうか。

神話では天孫が雲を踏み分けて天上から地上に降りてきたことになっているが、これは現実性のある話ではない。

実は「タカマ」とは慶尚南道にある「高霊」の韓国音による読みなのである(霊を韓国語でマと読む)。

結局、高天原とは高霊(タカマ)の土地ということで、上伽耶のあったところ、『日本書紀』にいう伽羅国のことである。

 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
熊信仰王朝の誕生
 
韓民族の思想の中に、太陽信仰と熊信仰の二つの大きな流れの対立のあることは、本書でも既述したとおりである。

大雑把に言えば、太陽信仰の伽耶と熊信仰の百済(ひゃくさい)の対立である。

 
韓半島の中で百済の勢力が強まるにつれて、百済の熊(クマ=黒)信仰が韓民族の間に広まるようになった。

『日本書紀』に南伽羅(ありしひのから)とされる慶尚南道金海を本貫とする、金首露王の王家について、『三国遺事』におもしろい記事がのこっている。

「首露王の妃は大きな熊を夢見て男の子を生んだ。すなわち、居登王(ことおう)である」

首露王は金官伽耶(きんかんかや)族の祖とされる王様で、その代までは太陽信仰を守ってきたのが、その次の居登王の代から熊信仰に宗旨変えをしたことを示す記録である。

このようにして太陽信仰の伽耶族の中に熊信仰の王朝が出現することになった。

つまり、この時期には百済の熊信仰が韓半島の南端にまで及んだことを示すもので、これを裏づける記録が『三国遺事』にある。

「伽耶が和を請うてきた」という201年の新羅国の記録である。

百済の圧力に耐えきれなくなった下伽耶(アラカヤ)が新羅に助けを求めたものであろうが、この当時の新羅はまだ国力がついていなかったから肋けることができず、熊信仰の浸透を防ぐことはできなかった。

居登王の在位は199年から253年となっているから、伽耶族であった首露王家が熊信仰に転向したのはおよそ三世紀の初めからである。
 
金海金氏の祖、金首露主にまつわる謎の一つは、その系譜にのこされている説話である。

1914年に発行された金氏の系譜には次のような記述が見える。

 
「首露王と王妃許黄玉との間には11人の男子が生まれた。長男は太子となり次男と三男は許姓を名のるようになった。四男から十男までの7人は厭世上昇(世を嫌い天に昇った)し、十一男は居添君に封じられた。首露王が崩御した後、太子が即位して居登王となったが、その王子も、世が衰えているのを悲しんで神女と共に雲に乗って国を離れた」

首露王の七人の王子たちと居登王の一人の王子は果たしてどこへ行ったのか。

私は、彼らもかつての伽耶族と同じように、新天地を開拓するため、列島へ向かったと見ている。(天皇家のルーツ)

金海金氏の系譜は、1915年、なぜか朝鮮総督府の命令によって発行禁止の処分を受けている。

 
狗奴国(天皇家のふるさと)
 

倭人伝には、邪馬台国の女王卑弥呼がその南にあった狗奴国の男王と仲が悪く、両者の間は、三世紀の中頃においてつねに戦争の絶えない関係であった様子が記されている。

太陽の神を祭る邪馬台国と「素(もと)より和せず」とまで表現された狗奴国とは、どのような国であったのだろうか。 

 

女王卑弥呼の邪馬台国は北部九州の末廬国(まつら)から、伊都(いと)国、奴(な)国、不弥(ふみ)国をへて出雲国から瀬戸内、大和、さらに東国までを統括した国であるから、

この南にあって女王に服さなかったという狗奴国といえば、南九州の地域にあった国ということになる。

狗奴国の勢力は、現在の熊本県、鹿児島県、宮崎県を含む地域で、『古事記』『日本書紀』で天孫降臨の地と記されている土地、すなわち、日向(ひゅうが)のことである。

日向の意味するところも「日に立ち向かう」ということで、卑弥呼の太陽(日)信仰に対立する熊(クマ=黒)信仰の土地を意味する。

 

ちなみに日立とは日の土地を意味する。

南伽羅(ありしひのから=現在の慶尚南道金海)にあった金氏の王朝が、熊信仰に転向したのは三世紀の初め頃であったから、

太陽信仰の邪馬台国と対立した狗奴国は南伽羅の狗邪(くや)国につながるのではないかと考えられる。

しかし、そのように断定する前に確かめておかなければならないことは、慶尚南道金海にあった狗邪国と南九州の狗奴国の名が酷似している点である。

金海の狗邪国とは一名「金官伽耶」とも言われたところで、「狗邪」は「伽耶」と同一国なのである。

 

「狗=ク」の母音は「伽=カ」の母音が「ア→ウ」と交替したもので、伽耶(カヤ)→狗邪(クヤ)と表記が変化しただけでいずれも同一国を表す。

ところで、、ヤ行音とナ行音とは「否=いナ」が「いヤ」とも言われるように、たがいに交替しやすいので「耶=ヤ」は「奴=ナ」とも変化する。

 
つまり、伽耶(カヤ)→狗邪(クヤ)狗奴→(クナ)と表記の変化だけで三者は同一国なのである。

すなわち、南九州の狗奴国は南伽羅の狗邪国と同一国名なのである。

本来は伽羅と呼ばれていたこの国が、年代によっては加良、加那、加奴などと表記されていたこともあるし、半島の弁辰諸国の一つであった欒羅国の名も柴良または欒奴と表記されたことがある。

高名な歴史学者である井上光貞氏も言われるように、古代においては「羅」「那」「耶」などの文字は同じ音で発音されていたのである。

それでは、韓半島の南端にあった狗邪国と南九州の狗奴国とが同一国名とすると、二つの国はどのようにつながるのか。

それは卒麻(そちま)と薩摩(さつま)の関係と同じように、狗奴国は狗邪国の人たちが開拓した土地なのである。

そして狗邪国の王家は熊信仰に転向した「金」王朝であり、その二代目の「居登王」が即位した200年頃、七人の王子が「嫌世上昇」したという伝説は、

彼らが新しい開拓地を求めて狗邪国を去ったという意味に解すべきであろうから、彼らが多くの同胞とともに三世紀の初め頃、南九州に狗奴国を建てたのである。

すでに熊信仰に染まっていた彼らは、太陽信仰族が開拓していた北部九州を避けて、土地が痩せてあまり先住者がいなかった南九州の大隅半島のあたりに上陸し(鹿屋(かのや)という地名がある)、噂唹(ソオ=初めて来たの意)と名づけて住み着いた(現在の曽於(そお)郡)。

そこからあまり遠くないところに高千穂連峰の韓国岳(からくにだけ)や、宮崎県側に七熊山(しちくまやま)などの地名が残るのは、七人の王子の厭世上昇の伝説との偶然の一致とは言えまい。

 
日と熊の戦い
 
稲作のできる土地を求めて、鹿児島県北部から宮崎県、熊本県へと勢力を拡大した彼らは、やがて熊本平野あたりで先住の太陽信仰族の国ヤマト国の勢力と衝突する。

230年代からのことである。

一方、狗奴国の熊信仰は海岸づたいに邪馬台国の南岸へ、現在の和歌山県、三重県あたりまで浸透してきたので、たまりかねた邪馬台国は戦闘の有り様を魏朝に報告し、それに対する魏の朝廷の対応が倭人伝に記されている。

「景初二年(238)年6月、倭の女王は大夫難升米(たいふなんしょうまい)らを遣わし、郡に詣り、天子に朝献したいと求めてきた」とある。

 
当時、韓半島に覇を唱えていた公孫(こうそん)氏も、魏軍に追いつめられて滅亡寸前にあったとはいえ、邪馬台国の使節が狗奴国を支援する百済(ひゃくさい)の土地を通って帯方郡に行くことはできなかったであろうから、道案内を昔氏王朝の新羅に頼ったことであろう。

郡より魏の都までは魏朝の役人が護衛している。

 

12月、倭国の使節に面会した魏の明帝はいたく感激し、女王からの貢ぎ物が貧弱であったにもかかわらず、「親魏倭王」の金印のほか返礼として絹織物、剣、銅鏡などたくさんの品物を与えるとの紹を出す。

ところが翌年正月初めの明帝の急死によって、魏朝からの贈り物の引き渡しはさらに次の年(正始元年)の魏からの使節に委ねられた。

正始四年(243年)には、ふたたび女王は使節を魂朝に送っている。同六年にいたり、ようやく魏の皇帝の軍旗ともいうべき黄幢(こうどう)を下賜してもらうことができたのであるが、邪馬台国は、皇帝の権威の象徴である黄幢を手に入れて狗奴国との戦いを有利に導こうと策していたのである。

黄幢そのものは魏朝にとっても軽率には扱えないものであったから、同八年、帯方郡の太守が赴任してようやく邪馬台(やまと)にもたらされたのである。

しかし、そのとき80歳をはるかに越えていた卑弥呼はすでに他界していた。

「径(けい)百余歩の大きな塚をつくり奴婢(ぬひ)の殉葬者は百余人」であったという。

この塚の所在地がわからないばかりに、邪馬台国論争は江戸時代から今日まで300年にわたって続いている。

卑弥呼の死後、男の王が立つものの、国中がこれに従わず、ふたたび内戦となり、卑弥呼の宗女で31歳の「壹与(とよ)」を女王として立てたところ国中が泊まったとある。

このことは、伽耶族の本宗家である上伽耶(うがや)の権威も太陽信仰もまだ健在であったことを示す。

 

新しい女王の名、壹与の「壹」も「臺」の誤記として「臺与」とし、「トヨ」と読むとするのが多数説であるが、すでに解説したのと同じように「壹与」のままで「トヨ」と読むことができる。

266年、魏の滅びた後の西晋朝に倭国の王(女王壹与と思われる)が使節を派遣してきたとの記録があるだけで、その後100年以上にわたり、倭国の記録は中国の歴史書には登場しなくなる。

 
魏朝の黄幢が邪馬台国に下賜されて、狗奴国がその権威を認めている間は両者の間の戦いは一時的に治まったと見ることができよう。
 
景行天皇と倭建命
 
日と熊の戦いは、日本の歴史書では、大和国と熊襲(くまそ)の戦いの形で語られている。

熊本県の球磨(くま)郡の「クマ」と鹿児島県の曽於(そお)郡の「ソ」との合成語であるとするのが日本での通説とされ、多くの人たちはこのことになんの不審も抱かない。

たしかに球磨郡を開拓した人たちも曽於郡を開拓した人たちも、同じ熊の神を信仰する熊信仰族であった。

しかし、熊襲とそれだからといって「クマ」と「ソオ」をつないで「クマソ」とし、辺境の蛮人のごときイメージを持ってしまうと、それから後の歴史の理解を大きく間違えてしまうことになる。

熊襲とは熊族という意味である。

すなわち、熊の神を信仰する氏族ということである。

 
熊襲の名が初めて歴史に現われるのは『古事記』中巻、倭建命の西方への遠征の条である。

景行天皇はその子小碓命(おうすのみこと)に「西の方に熊曽建(くまそたける)二人有り……その人等(ひとども)を取れ、と命じて小碓命を遣わした」とある。

小碓命は叔母の倭比売(やまとひめ)命の衣服を借り、懐に剣を入れて熊曽建の家に行ってみると、家の周囲を軍勢で固めてこれから宴会を始めようとしているところであった。

宴会の日に小碓命は、童女の姿に髪の形を変えて女人の中に交じって室の中に入った。

熊曽建二人、その乙女姿の命を二人の間に坐らせて盛んに楽しむうちに、宴たけなわの頃、命は剣を取り出して兄のほうを刺し殺した。

弟建(おとたける)は逃げ出したが、つかまえられて尻から剣を突き刺された。

弟建は死ぬ前に「西の方には我ら二人を除いて建き男はいないはずなのに、あなたはいったい誰ですか」と問う。

小碓命が「われは纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)におられる大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)の子、倭男具那王(やまとおぐなおう)」と答えると、弟建は「今より後、あなたを倭建御子(やまとたけるのみこ)と称え申すべし」と言って死んだ。

小碓命はそのときから倭建命と名を変えられたという。

 

纒向の日代宮にあって大八島国を統治していた景行天皇の名を検証してみよう。纒向(まきむく)遺跡

「オオタラシヒコオシロワケ」とカタカナで並べてみると、なんとも長たらしく意味不明のように見えるが、私には次のように解ける。

すなわち「オオタラシ=大国の」「オシロ=大きい土地」「ワケ=分け」であるから、大国の日子で大きな土地をもらって分家した人という意味である。

大国とはいうまでもなく出雲のことである。

重要なことはこの王朝が出雲系の太陽信仰であるということと、王家がウガヤ本宗家ではなく、アラカヤ(分家)に代わったことである。

 
ところが『日本書紀』になると「熊襲そむきて朝貢たてまつらず」の事態に、景行天皇がみずから熊襲征伐に出かけている。
 

筑紫に向かった天皇は周芳国(すわのくに)(防府市佐波)にいたり、「南のほうを見ると煙がたくさん立ちのぼっている。賊は必ずそちらにいるであろう……」と考えたとあるから、熊襲はやはり九州の南部にいたのである。

景行天皇はまず日向の熊襲を討った後、夷守(ひなもり)(宮崎県小林市)から熊の県(あがた)(熊本県球磨郡・人吉市)に入ってその地の熊津彦(くまつひこ)の弟である弟熊(おとくま)を殺したと記されている。

 

実は、この遠征は七年を要した難事業であった。

にもかかわらず、八年後またまた、「熊襲そむきて辺境を侵すことやまず」の情況となり、16歳の日本武尊に熊襲を討たせている。

 

その詳しい内容は『日本書紀』を見ていただくとして、ヤマトの国にとっては景行天皇の時代から熊襲の抵抗が
強くなってきたのである。

 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
太陽王朝の系譜
 
12代景行天皇の和風諡号(しごう)「オオタラシヒコオシロワケ」を「大国の人で大きな土地を分けてもらって分家した人」と解説したが、読者の中にはすぐに理解できぬ方もおられるであろうから、そのあたりの事情をもう少し詳しく説明してみよう。

この国の史書によると、天皇の年齢と在位年数は神代に近づくにつれて現実離れしてくるので当てにならないが、ただひとつ偽りのないものは歴代天皇の尊称(和風諡号)である。

初代神武天皇は、熊信仰族の第二期ヤマト王朝によって後から第1代として入れ替えられたものであるから、第2代の天皇からその尊称を検討する。

  
第2代綏靖(すいぜい)天皇=カムヌナカワミミ
 
カム=神、ヌナカワ=ナナカワ=那中辺=中つ国=出雲、ミミ=貴人と解されるから、「神代の出雲国の貴人」という意味になる。
 
中つ国が出雲を指すことは『日本書紀』の記述によって理解できる。

書紀神代第五段(一書第十一)に「天照大神、天上にましましてのたまわく『葦原(あしわら)の中つ国に保食(うけもつ)神ありと聞く。いまし、月夜見命(つきよみのみこと)行きて見よ』とのたまう……」とあり、この場合の天上とは高天原(たかまがはら)のことを言い、高天原とは、慶尚南道高霊のことであることはすでに述べた。

葦原の中つ国と呼ばれた土地が出雲を指すことは、書紀神代第九段の記述で証明される。「天照大神……ニニギノミコトを立て葦原の中つ国の主とせむと欲す……吾、葦原の中つ国のあしき鬼をはらいむけしめむと欲(おも)う……」として天穂日命ら諸神を「オオアナムチ」が支配している国に派遣している。

 
「オオアナムチ」とは国議り神話にあるとおり、いうまでもなく大国主命のことであるから、オオアナムチが支配していた国、すなわち出雲国とは葦原の中つ国のことである。
 
第3代安寧(あんねい)天皇=シキツヒコタマテミ
 
シキツヒコ=非常に貴い日子、タマテ=真に高い国=ウガヤ、ミ=神、すなわち「ウガヤの神である非常に貴い人」の意である。
 
第4代懿徳(いとく)天皇=オオヤマトヒコスキトモ
 
オオヤマトヒコ=ミオヤマトヒコ=ウガヤ日子、スキトモ=セキ卜者=スクナ国の者。

すなわち「ウガヤの日子であり、スクナ国(昔国=出雲)の人」の意である。

 
第5代孝昭(こうしょう)天皇=ミマツヒコカエシネ
 
ミマツヒコ=ミマナ日子=ウガヤ日子、カエシネ=帰りし人、と解されるから「ウガヤから帰りきた人」の意味である。
 
第6代孝安(こうあん)天皇=ヤマトタラシヒコクニオシヒト
 
ヤマト=ウガヤ、タラシヒコ=国の日子、クニオシヒト=国の頭の人、と解されるから「ウガヤ国王」の意である。
 
第7代孝霊(こうれい)天皇=オオヤマトネコヒコフトニ
 
オオヤマトネコヒコ=ミオヤマトの所(コ)の日子、フトニ=貴い方、と解されるから「ウガヤの日子で貴い方」の意である。
 
第8代孝元(こうげん)天皇=オオヤマトネコヒコクニクル
 
クニクル=ここにくる、と解されるから「ウガヤの日子でこちらへ来た人」の意である。
 
第9代開化(かいか)天皇=ワカヤマトネコヒコオオヒヒ
 
ワカヤマトネコヒコ=若いヤマトの日子=アラカヤの日子、オオヒヒ=大きい日、と解されるから「アラカヤの日子で偉い人」の意である(ワカヤマトとは弟ヤマトすなわちアラカヤを言う)。
 
第10代崇神(すじん)天皇=ミマキイリビコイニエ
 
ミマキ=ミマナ(キ=所=国)、イリヒコ=入り日子、イニエ=非常に貴い日(人)。すなわち「ウガヤから入った人で非常に貴い人」の意である。
 
第11代垂仁(すいにん)天皇=イタメイリビコイサチ
 
イタメ=非常に大きな山=ミオヤマ=ウガヤ、イリビコ=入り日子、イサチ=非常に善い貴人。すなわち「ウガヤからきた人で非常に善い貴人」の意である。
 
第12代景行(けいこう)天皇=オオタラシヒコオシロワケ
 
すでに説明のとおり「出雲の日子で、大きい土地をもらって分家した人」の意である。
 
第13代成務(せいむ)天皇=ワカタラシヒコ
 
「アラカヤの日子」の意である。
 
第14代仲哀(ちゅうあい)天皇=タラシナカツヒコ
 
「国の中の日子、すなわち、中つ国の日子(出雲の人)」の意である。
 
第15代神功(じんぐう)皇后=オキナガタラシヒメ
 
戦前戦中の教育を受けた人ならば誰ひとりとして知らぬ人はないオキナガタラシヒメとは、「近江の国の日女(ひめ)」という意である。「オキナガ」とは「大きな水のところ」を意味する。
 

以上の天皇の王朝を私は第一期ヤマト王朝と呼んできているが、

伽耶族の本家である上伽耶(ウガヤ)と弟分の下伽耶(=安羅伽耶=アラカヤ)による王朝であった。

重要なことは、12代景行天皇からは出雲アラカヤの王家となっていることで、

実力者武内宿祢(蘇我氏の祖)が登場し、政務の実権を握ったことである。

 
…朴 炳植著「日本古代史を斬る」より
 
金氏熊襲王朝(第二期ヤマト政権)の誕生
 
朝廷にまつろわぬ逆賊として我々が教えられてきた熊襲は、『日本書紀』の景行天皇十二年に、初めて登場する。

『日本書紀』によれば、景行天皇十二年八月に、熊襲の反乱を平定するために筑紫へ出掛けた天皇は、その時から、景行十九年九月に都へ戻るまでのほぼ七年間、熊襲との戦いに明け暮れねばならなかった。

そのとき、すっかり討伐されたはずの熊襲だが、それから八年後の景行二十七年八月になって、ふたたび反乱をおこしたので、こんどは、息子の日本武尊を、九州南部に派遣して、その討伐にあたらしめなければならなかったと『日本書紀』は伝えている。

そして、朝廷のそのような苦心にもかかわらず、反乱をくりかえしてきた熊襲は、ついに仲哀天皇の死を招くにいたった。

 

ところが、ここに信じられない奇跡が起こった。

奇跡をもたらした主人公は、ほかならぬ神功皇后その人であり、起こった奇跡とは、熊襲が自ら皇后に服従を誓ってきたことである。

それも、仲哀が死んでからたった1カ月あとの、西暦362年(仲哀九年三月)のことだと『日本書紀』は記録している。

そればかりか、それほどの長い年月にわたり、反乱を繰り返しつつ、朝廷を苦しめてきた熊襲の名が、

記紀から忽然と姿を消し、二度とあらわれなくなったのも、この時からである。

 
記紀の記録を鵜呑みにする人々にとっては、これこそ、「熊襲征伐を止めて新羅を討て!」という神のお告げに従った皇后のお手柄だと言いたいところだろう。

だが、それらの記録の行間に隠されている真実が見える我々の目には、古代史上類いを知らない大陰謀が、そこに存在していたことに気付くのだ。

すなわち、仲哀が死んだ直後に、熊襲が自ら服従してきたばかりでなく、それを起点として、記紀から熊襲の名が消え失せたという不可思議きわまる謎に照明をあてると、タケウチノスクネ・皇后・熊襲の三者間に交わされた密約の内容が、X線に写しだされた悪性腫瘍のように浮かび上がってくるのである。

 

密約の内容は、ざっと次のようである。

タケウチノスクネは、皇后に、仲哀を殺し、熊襲と手を結んで新羅を討伐する代償として、新羅の金銀宝物を約束すると同時に、一生の栄華を保証した。

新羅の王権を取り戻したいタケウチノスクネは、新羅攻略の軍勢派遣を熊襲に要請し、熊襲はそれを了承した。

熊襲は、半島出兵の代償として、ウガヤ(第一期ヤマト)の熊信仰化に協力することを要求、皇后とタケウチノスクネは、それに同意した。

熊襲は、ヤマトの主権を手中に入れたあかつきには、タケウチノスクネ及びその子孫に、世襲大臣の椅子を与えることを保証する。

このような密約は、仲哀が豊浦宮に滞在した六年間に、そのための隠密な協議と合意がなされたと見て、間違いない。

そして、その密約は、西暦362年の初めから行動に移され、まず、仲哀の暗殺が行なわれた。

 
仲哀が死んだことを確かめた熊襲は、約束どおり、新羅討伐のための兵力を、皇后に提供することになったが、熊襲はその時、抜け目のない、用心深さを見せた。
 
そのときの事情を、『日本書紀』は、およそ次のように語ってくれる。

仲哀九年(西暦362年)九月、新羅討伐のために兵力を募集したが、なかなか集まらないので、神に刀と矛を奉ったところ、軍勢が自ら集まった。

ここに見える「神に刀と矛を奉ったところ、軍勢が自ら集まった」という謎めいた話は、熊襲が、皇后とタケウチノスクネに対して、約束の履行を促した場面である。

つまり、ウガヤ王国(第一期ヤマト)の熊信仰化に協力することを約束した皇后とタケウチノスクネに対して、

熊襲は、「新羅攻撃の軍勢提供に先だって、まず(ウガヤ)を攻撃するに必要な武器を提供せよ!」と迫ったので、

皇后側は、熊襲側の要求を満たすことによって、はじめて、兵力の供給を受けることができたと、そのときの事情を描いていることがわかる。

 
神功皇后の謎
 
さて、神功紀の最大の山場は、兵力を手に入れた直後の記録に集中されている。
 

摂政前紀(仲哀九年)九月条には、次のような文句が、さりげなく挿入されている。

これは、神功皇后が、自ら男装して、討伐軍の先頭にたつ時のようすを記したもので、この記事を根拠にして、軍船の舶先にたった彼女の凛凄しい武者姿を描いた読本は、戦前の小学生の間に広く宣伝されたものである。

……そこで皇后は、石を腰の間に挿み、新羅討伐を終えたあと、ここに戻って子を生めるようにと神に祈った。

この時は、ちょうど皇后の産月にあたっていた。
 
だが、この一見たわいない短い作文は、熊信仰族による、ウガヤ王権奪取と言う、実に恐ろしい陰謀を、実践に移すために設けられた、隠れ蓑だったことを、一般大衆は知る由もなかった。
 
この文章のなかで、まず、我々一般大衆の注目を引きやすい部分は、「皇后は、石を腰の間に挿み、新羅討伐を終えたあと、ここに戻って子を生めるようにと神に祈った」というところだ。

誰が考えても、臨月の女性が、石を腰に拝んだからとて、月が満ちた子の出産を遅らせることなど出来るはずはないからだ。

だが、これに気を取られてしまえば、編纂者の思う壷にはまるのだ。

 

編纂者は、そんな見え透いたデタラメを言うことによって、「皇后の妊娠」そのものは、既定の事実として認識させる心算だったのである。

言い換えると、妊娠していなかった皇后を、出兵を目前にして困惑している臨月の女性のように見せ掛けた。

そうすることによって、新羅討伐の直後、生まれるはずのない皇太子の誕生物語を、もっともらしく見せ掛けるところに、編纂者の狙いがあったということである。

 
『日本書紀』によると、仲哀天皇が亡くなったのは、西暦362年で、天皇が52歳の時である。
 

ということは、天皇が生まれたのは西暦311年ということだ。

彼は、成務天皇48年に立太子しているが、そのとき31歳だったと、仲哀紀に書かれている。

つまり、彼の生まれと死亡の年代は、記紀が確認しているから間違いない。

 
神功皇后は、仲哀が亡くなったあと、死ぬまでの69年間摂政を続けた。

摂政六十九年、皇后が亡くなったとき、彼女は百歳だった。

皇后の六十四年には、百済の枕流(トムル)王が即位した。

これは、『三国史記』によれば、西暦384年のことである。

皇后の六十五年には、百済の枕流王がなくなった。

『三国史記』によれば、これは西暦385年のことである。

応神紀八年条に、百済の阿花王が、「王子を人質によこしてきた」と見える。

これは『三国史記』に、西暦397年の出来事として記録されているから、皇后の死後八年目であること確かだ。

つまり、応神天皇の即位年代は、『三国史記』の年代と一致する。

神功紀に記されている百済に関する史実の年代は、『三国史記』の記録と一致する。

以上の事実確認から、皇后が亡くなったのは、西暦389年であること間違いない。

したがって、仲哀が亡くなった西暦362年、皇后は、73歳だったということになる。

 
このように、神功紀や応神紀の記録を、『三国史記』や中国の史書と照らしあわせて確かめた結果、

仲哀が亡くなった西暦362年、73歳の皇后が妊娠していたということになるのだが、そんな話は、医学的に例外があるのかどうかわからないが、

一般常識としては、無理が過ぎるというほうが順当だ。

こうなると、ちょっと考えただけでも、次のような新しい疑問が浮上してくる。

仲哀が亡くなったのは、彼が52歳のときだ。

 
ということは、彼の后は、彼より21も年上だったことになるが、古代の男女関係、特に記紀に見える天皇の女性関係から推して、そんなことは、ありえないのではないか。
 
仲哀が亡くなったとき、すでに73歳だった皇后が、自ら新羅討伐軍の先頭にたって、海を渡ることができただろうか ?

『日本書紀』は、皇后は、亡くなった摂政六十九年に百歳だったというが、仲哀が亡くなった西暦362年に、皇后が73歳であったなら、142歳で死亡したことになる。

 

この違いはどうしてか……などがそれである。

これらの疑問に対する正答は、次のようである。

 

皇后が亡くなったのは、西暦389年に間違いないから、いわゆる神功摂政は、仲哀が亡くなった362年(皇后73歳)から、27年間行なわれた。

だからこそ、『日本書紀』は、皇后が百歳で亡くなったとして、つじつまをあわせているのだ。

実際には27年間続いた摂政を、69年続いたと『日本書紀』の編纂者が無理をしなければならなかったのは、『日本書紀』の初頭に挿入した神武紀77年間の処理に困ったからである。

 
神武の東征とは、南九州日向の熊襲、つまり熊信仰族を先頭にした皇后の軍勢が、ヤマト(ウガヤ)へ進攻した事実を物語るもので、それが行なわれたのは、仲哀が亡くなったあとのことだ。

したがって、いわゆる「神武東征記」は、神功摂政紀に記載されるべきなのである。

神功紀そのものは、『日本書紀』の初頭に挿入してしまった77年間にわたる神武紀を埋めるために捏造されたものだ。

だから、神功紀の年代は、ほとんどがでたらめだ。

たとえば、『魏志』(倭人伝)には、女王ヒミコの使者が、初めて中国に派遣されてきた年を景初三年(西暦239年)六月だと記している。

これを、『日本書紀』は神功皇后摂政三十九年、すなわち西暦401年のこととしながら、

あたかも神功皇后が女王ヒミコであるかのように見せ掛けている。

また実際には、西暦418年に訪日した新羅の「モマリシテ=朴堤上」のことを、神功紀は摂政五年、すなわち、西暦367年のこととするなど、支離滅裂である。

 
日本の学者の中には、『日本書紀』の年代は、実際のそれに120年を加算したものであるとする、いわゆる「干支二運加算説」を唱える方が少なくない。

だが、それはまったくの当てずっぽうで、当てにならない学説である。

もちろん、なかには、それにあてはまるケースもなくはない。

だが、女王ヒミコの使節が初めて中国に派遣されたのは、景初三年(西暦239年)であるのに神功紀は、摂政39年、すなわち西暦401年のこととしているから、162年も実際より後のこととなる。

また新羅の「モマリシテ=朴堤上」の場合は、先に述べたように、実際は418年におきたことを、神功紀は、367年のこととしているから、実際より51年前におきたことになる。

なお、新羅は、西暦390年、奈勿王の第三子「未叱貴(=微叱己)」を人質として、〈倭〉に和を申し入れたと『三国遺事』が伝えているに対して、神功紀は、これを、仲哀が亡くなった西暦362年のこととしているから、29年も実際より繰り上げているのだ。

このような『日本書紀』の書き方から判断すると、『日本書紀』の年代記録には、日本の学者が言っているような一定の基準は、見当らないのである。

 

それが、応神天皇時代に近付くときから、かなり実際の年代に合わせられている。

つまり、神武紀と神功紀の造作による皺寄せが、神功紀の終わり頃から、次第に正常化されていくことを察知できるのだ。

 

要するに、神武紀は、神功紀に含まれるべきもので、応神天皇から、新しい熊信仰王朝が始まったのである。

神功皇后のあとをついだことになっている天皇を、「応神」と名付けたのは、「熊神の指示に応じて天皇になった」ということを示唆している。

もちろん皇后は、妊娠していなかったばかりでなく、後継ぎの皇子もいなかったし、半島にも渡っていない。

 

こうなると、最後まで解けない謎が、もう一つある。

仲哀紀によれば、即位前の仲哀天皇には二人の妃がいた。一人は従妹で、「カゴサカの皇子」と「オシクマの皇子」の母になった大中姫(オホナカツヒメ)であり、もう一人は大酒主(おほさかぬし)の娘で、「ホムヤワケの皇子」を生んでいる。

皇子を生んだ二人の女性がいたにもかかわらず、即位から二年目の正月に、「オキナガタラシ姫」をもって皇后とした。

これが後の神功皇后である。

 
即位前から側に侍らしていた皇子たちの母らを顧みず、新しい女性を皇后に入れたこと自体については、我々が口を挿む筋合いではなかろう。

だが、その新しい女性は、天皇より21も年上であるばかりでなく、記紀の計算だと、皇后になったとき、天皇は44歳なのに対して、彼女はすでに65歳だったことになる。

いくら物好きであっても、65歳の女性を皇后に迎えたという記紀の話を、文面どおり納得する人は、はたして居るだろうか?」……である。

 

記紀の編纂者が、このように常識離れな書き方をしなければならなかった理由は、いったい何だったのだろうか。

神功皇后なる女性自体が、秘密のベールに包まれた人物で、彼女の年齢に信憑性はまったくない。

そして、「ホムヤワケノミコ(誉屋別皇子)を生んだ〈弟媛=オトヒメ〉」とだけ記されている女性こそ、実在した神功皇后のモデルであると思われる。

したがって、彼女が生んだ「ホムヤワケノミコ(誉屋別皇子)」は、応神天皇を指す。

はっきり言って、神功紀そのものは、神武紀と同じく、実際に起きた事実を取り混ぜて、編纂者がでっちあげた作文であるのだ。

 
それを裏付ける事実を挙げると、次のようである。

弟媛が生んだ皇子の名「ホムヤワケノミコ(菅尾別皇子)」は、神功皇后の子である応神天皇の幼名「ホムヤワケノミコ(誉田別皇子)」と酷似している。

 

二者の違いは、ただ「ヤ=屋」と「ダ=田」だが、関西弁の「そうや!」が、関東では「そうだ!」と言われるのでもわかるように、「ヤ」と「タ」は相互交替する関係にある。

つまり「ホムヤワケノミコ(誉屋別皇子)」と「ホムダワケノミコ(誉田別皇子)」は同じ名であることを察知することができる。

 

弟媛は、「来熊田造(ククマダノミヤッコ)の先祖である大酒主の娘」だと仲哀紀に書かれている。

だが、『旧事紀』や『天皇本紀』には「天熊田造」となっている。

「天熊田」とは「天熊田=アマノクマダ」であり、「天孫である熊=金」たちが住んで居る土地のことで、天孫が降臨したと言われる鹿児島県の「七隈の里=七人の金が住んでいる里」を暗示する。

 

神功皇后は、大中姫の生んだ「カゴサカの皇子」と「オクシマの皇子」を騙し討ちにしたにもかかわらず、弟媛が生んだ「ホムヤワケの皇子」には、何の危害も加えていない。

そればかりでなく、この母子は、二度と記紀に姿を見せていない。

岩波書店の『日本書紀』校注者も、「弟媛のことは詳らかでない」と、さじをなげている。

『日本書紀』は、各天皇の在位中に起きた出来事を記述したものだが、架空の人物のことになると、何事も記されず、年代だけが過ぎてしまった例が目立つ。

神武紀の場合は、神武四年から三十一年までの27年間と、三十一年から四十二年までの11年間、さらに、四十二年から七十六年までの34年間、合わせて、実に72年間の空白がある。

そして、神功紀の場合は、摂政三年から十三年までの10年間と、十三年から三十九年までの26年間、合わせて、36年間がブランクになっている。

 
このように、神武天皇と神功皇后の時世に空白期間が極端に多いことは、この二人が架空の人物であることを雄弁に証言している。

「昼が夜のように暗くなった」話

 
『三国史記』によれば、熊襲から兵力の支援を受けた(倭)の大軍が新羅に進攻したのは、仲哀が亡くなってから二年後の西暦364年である。

この時の(倭軍)は、新羅の奇計にはまって、大敗したが、それ以来ほぼ40年間、百済と(倭)の連合軍は、新羅に対する攻撃の手を緩めようとしなかった。

『三国遺事』によれば、たまりかねた新羅は、西暦390年、奈勿王の第三子「未叱責(=微叱己)」を人質に差し出して、(倭)に和を申し入れざるをえなかったほどである。

神功紀にも、この事実は記されているが、それを西暦362年のこととしている点が違うだけだ。

新羅はその後、危機を逃れるために、高句麗に援軍を頼んだ。

それを受けて、高句麗の好太王が、直接大軍を率いて応援にかけつけ、百済と(倭)の連合軍を撃破したのは、西暦396年のことであると、中国の集安にある好太王碑文は伝えている。

 

その一方、武内宿禰(タケウチノスクネ)と皇后は、太陽信仰のヤマト政権をたおして、熊信仰王朝を建てることに協力するという、熊襲との約束を果さなければならなかった。

その第一歩が、仲哀の遺児、「カゴサカの皇子」と「オクシマの皇子」を殺すことであった。

危機を察知した皇子たちは、仲哀の血筋で、日本武尊の後裔である「クラミワケ」と「イサチノスクネ」の協力を得て、東国から兵力を動員して防衛に努めたと、神功紀は語る。

これに対する皇后の攻撃軍は、「タケウチノスクネ」と「武振熊=タケフルクマ」が率いる軍勢だ。

「武振熊=タケフルクマ」は、この時まで一度も出たことのない名である。

ここでだしぬけに、皇后軍の指揮官として登場した「武振熊=タケフルクマ」とは、いったい何者だろうか? 

彼は、その名が暗示しているように、熊信仰族、すなわち、熊襲のなかで、武勇が勝れた男なのである。

 
「ヤマトタケル=日本武尊」が、「ヤマトの武勇に勝れた男」の名であり、「クマソタケル」と「イヅモタケル」が、それぞれ、「熊襲の武勇に勝れた男」・「出雲の武勇に勝れた男」の名であったことは、『日本書紀』を読んだ人の周知するところである。
 
この時から、ウガヤ打倒の軍勢は、神功紀では「タケウチノスクネ」と「武振熊=タケフルクマ」、神武紀では、「大来目=オホクメ」と呼ばれる熊襲の将軍によって指揮されるようになったことを見落としてはならない。
 
神武紀は、神武の率いる軍勢を(来目=クメ)としながら、その頭領を(大来目=オホタメ)としている。

そのばあいの(来目)は、本来(クマ)と読まれるべきものだ。

なぜなれば、「目」の古い訓が「マ」であったことを、「目蓋=マぶた」・「目眩しい=マぶしい」・「目なざし=マなざし」・「目なこ=マなこ」などで確認できるからだ。

したがって、(来目=クメ)は「クマ=熊」であり、(大来目=オホタメ)は「大熊=オホクマ」、すなわち、熊襲の将軍であることが明らかになる。

 

さて、皇后が、熊信仰族を率いて太陽信仰族の打倒を目指して進撃し始めたのは、摂政元年(西暦363年)二月のことである。

皇后の軍が勝てば、これからの日本列島は、「白色」を崇拝する太陽信仰から、「黒色」を崇拝する熊信仰に宗旨替えすることになる。

『日本書紀』の編纂者は、この大変革の進行事実を、巧妙な手法を使って、この月の条に、次のような言葉で書き残してくれている。

この時にあたりて、昼の暗きこと夜の如くして、すでに多くの日を経ぬ

 
この短い記事は、昼で象徴される太陽信仰(=白色信仰)社会が、暗やみで象徴される熊信仰(=黒色信仰)社会に変わってゆく様子を、見事に描写しているではないか!
 
それはともかく、「オシクマの皇子」の防御線に到達した皇后は、

「私は、天下を我が物にしようとする大それた考えなど、毛頭もっていない。皇子が天皇の位につけば、私は、あなたの命令に服従するばかりだ」

と、巧く取り繕って、皇子軍の武装を解除させたのち、一気に攻撃を加え、編し討ちに成功したと、『日本書紀』は記している。

 

このところで我々の注目を惹くのは、逃げ場を失って、瀬田川に身投げした「オシクマの皇子」の溺死体を、自分の目で確かめるまで気を緩めなかったという、タケウチノスクネの執念深さである。

百済と倭軍の連合作戦によって、新羅の王権回復を目前にしながらも、高句麗の介入に阻まれ、ついに、王位へ復帰しょうとする念願の達成を諦めなければならなかったタケウチノスクネである。

後のなくなった彼にとっては、熊襲のウガヤ政権奪取成功だけが、一族の栄華を保証する、たった一つ残された道だった。

それだけに、この宗旨革命戦争の始めから終わりまでの、タケウチノスクネの働きぶりは、緻密周到そのものにならざるをえなかったのだろう。

 

仲哀の遺児たちを除去することに成功したタケウチノスクネには、熊襲の血筋を皇位の正統な後継者にしたてなければならない、大事な締め括りの仕事が残されていた。

『古事記』の編纂者は、その難しい手続きを、次のような神のお告げを利用することによって、見事に演出している。

 

(摂政十三年)タケウチノスクネは、仲哀の遺児たちを討伐したことによって生じた汚れを清めるために、皇太子をつれて、敦賀に行って泊まった。

すると、その夜、その土地の神「イササワケ大神」が、タケウチノスクネの夢にあらわれて、「皇太子の名と私の名を交換したい」と告げた。

タケウチノスクネが、「神様の御意にしたがいます」と答えたところ、神は、「明日の朝、浜辺にゆきなさい。

名を交換してくれたお礼のものを進ぜよう」と言った。

あくる朝、言われたとおり浜辺に出ると、「鼻が毀れた入鹿魚(いるか)」が打ち上げられていた。

 
このような『古事記』の記事について、日本の学者の中には、「神が皇太子の名を貰うというのは、おかしなことで、私の名をあなたに差し上げて、あなたの名にしたいということではなかろうか ?」と言う方もおられる(岩波書店の『古事記』校注者)。
 

論理的にいえば、たしかに「神が自分の名を皇太子にさずけるという話」のほうが、説得力がある。

しかし、そうなると問題になるのは、「神が自分の名を皇太子にさずけるという話」を、現実的にどう理解したら良いのだろうか ?……でなければならない。

いったい、『古事記』の編纂者は、何が言いたかったのだろうか ?

ここでまず考えなくてはならないことは、「楔(みそぎ)」をするためなら、なぜ、「いはれ」の都から、ほど近い距離にある、奈良県の四大神山(天香具山・耳成山・畝傍山・三輪山)などに出掛けないで、交通の不便な古代には、気が遠くなるような距離の、敦賀くんだりまで足をはこんだのか?……である。

そういえば、即位直後の仲哀が、新妻の神功皇后と出掛けたのも敦賀であったし、仲哀と合流するために九州へ向かう前まで、皇后は、敦賀に留まっていたではないか ? そのようなことを思い合わせると、「敦賀」と呼ばれるところは、彼らにとって特別な意味をもった場所に違いないと、推察できるのだ。

そうすると、気になるのは、「敦賀」の地名由来を伝える、崇神紀六十五年条と垂仁紀二年条の記録だ。

 

それによれば、「敦賀」の古名は「笥飯浦=ケヒノウラ」であったが、崇神天皇の六十五年に、「額に角の生えた人」が船に乗ってここへ着いたので、そのときから、このところを「角賀=つぬが」と呼ぶようになった。

今日、「ツルガ」と言うのは「ツメガ」が訛ったものであるという。

もとより、「額に角の生えた人」が実在したはずはない。そこで、本居宣長は「それは角ではなく、頭に被ったものが角のように見えただけである」と、彼の『古事記伝』で説明している。

このような本居宣長の見解は、さすがに当を得ている。

なぜなれば、伽耶・新羅(=弁辰国)の貴人が被る冠(帽子)には、額の部分に角のような装飾がついていたことを、その地方から発掘された帽子や冠から確かめることができるからだ。

 
さらに、崇神紀六十五年条と垂仁紀二年条に見える、およそ次のような内容の記事にも、注目しなければならない。
 

(崇神紀六十五年条)任那が、「ソナカシチ」を遣わして、貢ぎ物を捧げてきた。任那は、筑紫から海をへだてて、北へ二千里離れたところ、鶏林の西南にある

(垂仁紀二年条)額に角の生えた男が言うところによれば、彼は「大加羅」の王子で、その名を「ツヌガアラシト」、または「ウシキアリシチカンキ」だという

崇神紀の言う「鶏林」は、新羅の別名だから、その西南にある「任那」は、今の金海地方にあった金官伽耶を指したものであること明らかだ。

垂仁紀は、彼が「大加羅」の王子だと言うが、それは、勢いが盛んであった頃の金官伽耶の呼称である。

 
そこで、こんどは、彼の名についても考えておこう。

「ツヌガアラシト」の「ツメガ」は、「ソナカシテ」の「ソナカ」が託ったものであると、日韓学者の意見が一致しており、その原形と意味は「ソナカリ=貴人の冠・尊い帽子」である。

「ソノカシチ」の「シチ」は、韓国の古語「臣智=シテ=大臣・貴人」であり、「アラシト」の「シト」は、その音韻変化形だ。

また、「アラ」は「アラカヤ=下伽耶」の「アラ」で、彼が金官伽耶からの男であることをあらわしている。

残りの「カンキ」は、「貴人」という意味の韓国古語だ。

こうしてみると、結局彼の個人名は、垂仁紀に見える「ウシキ」であって、あとは皆、彼の身分と素性を描写した修飾語であることが明らかになる。

 

つまり彼は、「ウシキ」という名の人だが、「任那」と言われていた「大加羅=金官伽耶」から来た男で、「貴人の帽子」を被った「貴人」であったのである。

この男は、今も『延喜式』に見える、能登国羽咋郡の「クマカブツアラカシヒコ神社(久麻加天津阿良加志比古神社)」と、能登郡の「カブトヒコ神社(加夫刀比古神社)」・「アラカシヒコ神社(阿良加志比古神社)」及び「アラカシヒコ神社(荒石比古神社)」に祭られているが、石川県鹿島郡熊木村にある「クマカブツアラカシヒコ神社(久麻加夫津阿良加志比古神社)」の本像は、国宝に指定されているほどである。

 

その神社名の一つに見える「クマカブト」の「クマ」は、「神聖な・尊い」を意味する古代韓国語「カマ=神」の母音交替形であること言うまでもない。

「カブト」の語源は「カブルモノ」であるから、「クマカブト」なるものは、「ソナカシテ」 の「ソナカ=貴人の冠・尊い帽子」と同じ意味の言葉であること、明らかである。

 
要するに、敦賀の地名由来の源となった「ソナカシチ」なる男は、『延喜式』の神社に祭られるほど、当時の社会に大きな影響力をもっていたことを知り得る。
 

つまり、敦賀は、太陽信仰族であった加羅の人たちが渡来する神聖な場所であったわけである。

タケウチノスクネは、神功皇后の子であるはずのない、熊信仰族の子を連れて、「楔(みそぎ)」を受けるために太陽信仰族の聖地にやってきた。

そのばあいの「楔(みそぎ)」は、何を意味したのか ?

それに答えるのが「皇太子の名を私の名に替えたい」という、神のお告げである。

すなわち、「神のお告げによって、熊信仰族の子の名を、太陽信仰族の名に替えた」というシナリオなのである。

この楔(みそぎ)によって、熊襲は、「ウガヤ=第一期ヤマト王朝」の正統な後継者となり、

新しく創める熊襲国でありながらも、従来と同じように「ヤマト=太陽の国」と名乗ることができたのだ。

 
このように抜け目のないタケウチノスクネの働きは、実に熊襲建国の一等功臣と言われるに十分であった。

彼はその報いとして、「イルカ」で象徴される永代の食封をうけた。

そこがとりもなおさず、葛城であったのである。

蘇我蝦夷大臣が、「葛城は、本来、蘇我一族の本拠地であるから返して欲しい」と推古天皇に申し出たばかりでなく、そこの丘に、祖廟を築いた。

そうした彼の行動の裏には、蘇我一族が、葛城の地を食封として受け取ったタケウチノスクネの後裔であることに、その正当性を主張する論拠があったわけである。

「しかし、タケウチノスクネの食封を、なぜ他ならぬ葛城にしたと言えるのか?」と尋ねる読者も居られるだろう。

神武は、最後の決戦で勝利を収めたとき、都を橿原に定めた。おそらく滅びたウガヤの都であった葛城を、不吉な処として、忌み嫌ったためだろう。

だが、タケウチノスクネの考えは、その逆であった。

 

蘇我一族は、もとを糾せば、れっきとした太陽信仰族であるばかりか、新羅の王座を172年間維持してきた輝かしい歴史を持つ氏族である。

残念ながら、新羅の王権を奪回しようとした夢は、とうとう叶わなくなったけれども、いつの日かかならず、子孫たちには、ヤマトの主人公になって欲しいと願う気持ちは捨てきれなかった。

ウガヤ最後の都であった葛城は、そのようなタケウチノスクネの夢を育むに、最も適した土壌だったのだ。

タケウチノスクネのそのような悲願は、蘇我大臣が、自分の名を「エミシ=昔の天皇族」と名乗ったときから、露骨的に表面化された。

そして、葛城の丘に祖廟をたてて、天皇だけに許される「やつらの舞」を舞ったときには、ちょっと伸ばせば手が届きそうなところまで、宿望の皇座に近付いていた。

しかし、皇座を我が物にしようとする蘇我一族の野望成就は、一歩寸前のところで破綻した。

 
それと同時に、栄華の絶頂にあった蘇我一族は、一瞬のうちに、奈落の底に転落する惨劇に見舞われたのである。

この予想もしなかった蘇我一族の没落を招いた張本人は、蘇我大臣の長男、入鹿だった。

タケウチノスクネが、神の名を皇太子の名にした報いとして、敦賀の浜辺で神から授けられたものは、「イルカ=入鹿魚」で象徴された食封だった。

それからほぼ三百年後、横暴と倣慢なふるまいを重ねたあげく、神に与えられたその報酬を、一朝にして、はかない水の泡にしてしまったのは蘇我「イルカ=入鹿」だったと記紀は言う。

「(イルカ=入鹿魚)と(蘇我イルカ=入鹿)……? 奇妙な符合もあるもんだなあ……!?」と、感じた読者はいなかっただろうか?

天武王家の手によって完成された記紀が語るこの奇妙な一致を、ただの偶然だと考えるのは、ナイーブと言われても仕方あるまい。

 

横暴をきわめ続ける蘇我一族の頭上に、鉄槌をくだすための計画を、極秘のうちに推進してきたばかりか、蘇我入鹿を大極殿で斬り殺した現場にいたのは、藤原一門の始祖、中臣鎌子だった。

自ら弓矢をもって潜伏し、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)(後日の天智天皇)の後盾(うしろだて)の役割を演じた暗殺共犯である中臣鎌子こそ、記紀の編纂に多大な影響を及ぼしたと見られる、藤原不比等の父なのである。

しかも、ここで見逃すことができないのは、『古事記』が編纂された時期である。

なぜなれば、その時期は、文武天皇の夫人で、不比等の娘である「宮子」が生んだ首皇子(おびとのみこ)(後日の聖武天皇)が、母と共に、不比等の自宅に引き取られて育っていた時だという、動かせない事実があるからだ。

 
飛ぶ鳥も落とすほどの絶大な権力者であるばかりでなく、誰の目にも、行く行くは、天皇の外戚になること間違いない運命の人物だった藤原不比等。

蘇我一族は、その藤原一族と、不倶戴天の関係にあった。

そのような状況のもとで『古事記』を編纂していた人は、太安万侶だ。

彼自身が、不比等に阿(おもね)る筆の動かしかたをしたのか ?

それとも、本来の『古事記』に筆を加えた人たちが、そうしたのか?……は、定かでない。

だが、『日本書紀』の至る所に、不比等に諂(へつら)う編纂者の姿勢を窺わせる文章が見当る。

そのような事実から推して、『古事記』に見える「浜辺に打ち上げられた、鼻の破れたイルカ(入鹿魚)」という表現は、大極殿で、めった斬りにされたあと、「庭に投げ出されて、おりから降りしきる雨に濡れている蘇我イルカ(入鹿)の屍」を連想させるために、編纂者が意図的に盛り込んだものである可能性が高い。

蘇我イルカ(入鹿)が殺されたのは西暦645年であり、『古事記』の編纂は西暦712年に終わっている。

したがって、編纂者は、蘇我イルカ(入鹿)が暗殺された時の状況を十分知った上で『古事記』を書いたのだ。

つまり、波打ち際に横たわる傷ついたイルカ(入鹿魚)は、屍を雨に打たれる、見窄らしい蘇我イルカ(入鹿) の末路を嘲笑うために、編纂者によって準備された伏線だったと考えるのが、自然な論理である。

ましてや、日本の俗言に、「高慢の鼻をへし折る」というのがある。

これらを総合すると、「鼻が破れたイルカ(入鹿魚)」という話は、「倣慢不遜な蘇我イルカ(入鹿)の鼻が破れた」ことを象徴したもので、蘇我一族の没落を招いた高慢者を描写する、痛烈なアイロニーだったことに気付くのである。

 

ともあれ、摂政三年(西暦365年)、「ホムタワケノミコ」を皇太子を立てた皇后は、「磐余=いはれ」に都を定めた。

その一方、神武紀は、ナガスネヒコを破るのに成功した神武天皇が「磐余=いはれ」に都を定めたので、天皇の名を「イハレヒコ」と言うと伝えている。

こうして、神武紀と神功紀の話は、やっと同じところに落ち着いたわけである。

神武東征紀の証言
 
さて、『日本書紀』が伝える神武東征の経過に、ざっと目を通すと、およそ次のようである。
 

ウガヤフキアヘズノミコトの第四子は、実名を「ヒコホホデミ」という。彼は十五歳の時に皇太子となった。

日向で結婚した彼は、四十五歳になったときのある日、東征の志をたてた。

「先祖以来長い間、我々は西の片隅で暮らしてきた。聞くところによると、天から船にのっておりてきた「ニギハヤヒ」という者がいる。彼が住んでいる東の地域は、国の中央に違いないから、国を治めるに適している。そこへ行って都を造ろう!」。

こうして、十月十日に日向を出発した神武の一行は、豊予海峡を経て、十一月九日、岡水門(今の福岡県遠賀郡遠賀河口付近)に着いた。

十二月二十九日、今の広島県安芸郡府中町あたりを経由、吉備に行き、そこで三年留まりながら兵糧軍船を整えた。難波に上陸した・神武軍は、ナガスネヒコとの第一戦に破れた。

そこから撤退した彼らは、迂回して、今の新宮市にあった熊野の神村についた。

そこで神の助けを受けた神武軍は、磐余の地で、ついにナガスネヒコを破ることができた。

「ニギハヤヒ」は、ナガスネヒコの妹の夫である。

日向を出発してから、東征が終わるまで、ほぼ七年かかった

 
一方、『古事記』には、今の福岡県遠賀郡遠賀河口付近にあった岡田宮で1年、安芸国では7年、吉備国でも8年、滞在したとなっており、結局、東征が終わるまで、合計16年の歳月が必要だったと記されている。
 

いうまでもなく、神武東征は、天皇家の始まりを記録した、もっとも重要な記述であるはずだ。

にもかかわらず、このように9年もの違いが記紀にあることから推しても、神武天皇と神功皇后に関する記事が、どれほどの無理をおかして捏造されたものであるかを、十分察知できるではないか!

あまつさえ、『日本書紀』は、「神武は15歳の時に皇太子となった」と言って慣らない。

初代天皇である神武以前の日本列島には、天皇が居るはずがない。

それなのに、九州南部の日向で、彼が皇太子になったということは、神武の父とされる「ウガヤフキアヘズノミコト」が天皇であったと、『日本書紀』が認めたことになる。

つまり、「神武は十五歳の時に皇太子となった」という二言によって、「ウガヤフキアヘズノミコト」という人名で象徴されたウガヤ王朝の存在を、はからずも認めてしまったのである。

 
なお、『日本書紀』の編纂者が、「神武が皇太子となったのは、15歳の時だった」と記していることも、見落とし難い謎の一つだ。

皇太子であるはずのない少年を、皇太子に祭り上げた時の年齢を、なぜわざわざ「15歳」にしたのだろうか?(注…『日本書紀』の年齢は、すべて数え歳)。

そこで思い出すのは、皇太子だった応神天皇が、タケウチノスクネに連れられて、敦賀へ楔(みそぎ)を受けるために出掛けた時の年齢である。

『日本書紀』によれば、応神天皇が生まれたのは、仲哀天皇が亡くなった西暦362年(仲哀九年)だ。

敦賀へ出掛けたのは、西暦375年(神功十三年)だから、その時の応神天皇は、数え歳の15歳である。

神功皇后の皇太子が、神の名を貰ったのも15歳の時であり、日向生まれで、ウガヤフキアヘズの子とされる少年が、皇太子に立てられたのも15歳の時だ……???

これが偶然の一致だろうか!

 
『日本書紀』の編纂者は、敦賀で楔(みそぎ)を受けた少年が、神武天皇という架空の人物のモデルであるということ、そして、それと同時に、彼こそ仲哀の後を継いだ応神天皇であることを、ここに暗示しておいたのだ。
 
さて、多少こまかい話になるが、神功皇后と熊襲、つまり、神武の軍が、仲哀の二人の皇子を討ち殺すための軍勢を整えたところは、どこだっただろうか ?

私は、岡水門(おかのみなと)(今の福岡県遠賀郡遠賀河口付近)こそ、その場所だと考えている。

私が、そのように推察する理由は…

 

記紀共に、神武の軍が、岡水門に留まった後、安芸国へ向かったとしていること。

しかも、『日本書紀』と違い、『古事記』は、岡水門に一年滞在したと言う。

仲哀紀には、熊襲征伐に向かおうとした天皇の船が、不思議にも、岡水門に至って、突然進まなくなったが、それは、男女二人の神の崇りだったと記されている……ことなどである。

 
ともかく、このようにして、日本列島の朴氏ウガヤ王朝は滅び、金氏の熊襲王朝が誕生した。

これが第二期ヤマト政権樹立の真相である。

しかし、ウガヤ王朝の実在を、今尚否定し続けている日本政府は、「神武東征紀のナガスネヒコ討伐までが、ヤマト政権樹立の過程であり、そうして成り立った国が、唯一無二の(ヤマト)である。今日の皇室は、その時の勝者、神武天皇の直系子孫である」と、今まで国民に教えて来た。

問題は、21世紀にはいっても、日本の青少年が、そのように見え透いた嘘を、はたして、今までのように信じてくれるだろうか ?

 
…朴 炳植著「ヤマト渡来王朝の秘密」より
 
アラカヤ(安羅伽耶)の滅亡