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神々の国ご案内  
石見銀山は、1526年に九州博多の豪商神屋寿禎によって発見されて以来、1923年の休山まで約400年にわたって採掘された、日本を代表する鉱山遺跡です。2007年第31回のユネスコ世界遺産会議で世界文化遺産に登録されました。
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太鼓谷稲成神社 アクセス・宿泊情報はこちら !
朱の鳥居に朱の社殿、汽車の窓からいち速く目に入るのが稲成社杜である。

安永2年(1773)亀井7代藩主矩貞(のりさだ)が城の鎮護と領民の安泰とを祈願して、太鼓(たいこ)谷の峰に伏見稲荷を勧請した。

祭神は字迦之御魂(うがのみたま)神と伊弉丹命(いざなみのみこと)の二柱を祭り社格は別表神社(もとの官国幣社にあたる)で伏見系統の五大稲荷の1社である。

勧請以来藩主や領民の信仰を集めて来たが、明治末期に一時衰えた。しかし、大正期に入って神官、総代たちの努力によって信者を増し、大正11年の鉄道開通により信者の範囲が山陽、北九州へと拡大していった。

昭和15年、紀元2600年記念事業として参道の途中に宝物殿を建設し、郷土関係の資料が集められ、津和野郷土館と並んで津和野の歴史を知る大宝庫となった。

所蔵する堀田仁助(ほったにすけ)(数学の大家で幕府の天文方に仕えた)の天球儀、地球儀や伊能忠敬の測量をもとに作られた「日本地理測量之図」は県の文化財の指定を受けている。

なお、亀井家関係の武具その他や、お抱え絵師岡野洞渊、洞山その他名工の逸品が多い。

昭和26年には、養老文庫が宝物殿の北側に設けられ、椋木潜(ひそむ)、佐伯利磨、岡熊臣(くまおみ)ら大学者の和漢蔵書5000冊を蔵している。

昭和29年には、旧藩邸のお茶室の復元を期し裏参道の一角に茶室「半峯亭」が再築され、茶人たちによりこの道の精進がをされている。又、本殿、拝殿等の大造営が計画され、巨費を投じて昭和44年に完成された。

その際、高さにおいて日本で第3番という大鳥居が国道9号線より津和野への入口に建立になった。昭和48年の200年祭に際して豪華な楼門と新客殿及び車参道に大鳥居が建立された。

さらに昭和56年境内北側の斜面を造成して、これまた巨費を投じて鉄筋3階建ての豪華な儀式殿が建立になる。これは主として結婚式場として利用されている。

平成5年には鎮座220年の式年大祭が挙行になり、その記念事業として再び8億余円という巨費を投じて社務所、参集殿等の大増改築、新宝物殿の設置、それに角河貞雄宮司の執筆による「太鼓谷稲成神社誌」の刊行等大事業が完成し、この太鼓谷一帯は絢欄たる本殿を中心に荘厳なる大神域が形成されている。

参詣客は年間150万人を数えている。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
→お問い合わせ 津和野町観光協会 島根県津和野町後田イ71-2 tel.0856-72-1771  fax 0856-72-1191

 
   
 
弥栄神社と鷺舞(国指定重要無形民俗文化財)アクセス・宿泊情報はこちら !
弥栄神社が現在の地にまつられてから五百数十年になると言われるが、それは境内に残る欅の大木にもうかがえる。

初め祇園(ぎおん)社と言い、津和野城の鬼門に当たるこの地に、城の鎮護のために建てられたと言う。従って、吉見、坂崎、亀井各代の藩主の崇敬が厚かった。

この神社の例祭の御神事(7月20日)御還幸(7月27日)には鷺舞神事が行われる。

鷺舞は、天文11年(1542)吉見正頼(まさより)が病難よけ祈願のため山口の祇園会から移し入れた神事であったが、坂崎時代にすたれ、亀井初代藩主茲政(これまさ)の代に京都の祇園に人をやって技芸を習得させ、正保元年(1644)より復活させて今日に至ったものである。

その構成は、鷺2羽、棒振り2人、カッ鼓2人で舞い、太鼓2人、鐘2人、笛2人、鼓2人で囃(はや)し、唄(うたい)方数人でうたう。

それに当屋2人、警讃2人、小鷺鉾(ほこ)12人、大傘鉾を6人で持って従う。

唄方の「橋の上におり−た鳥はなあんど−り…」とうたうのに合せて鐘、太鼓で囃すなかで、鷺が白い羽根を開いたり、すぼめたりして典雅なシーンを繰り広げて行く。

津和野川を大きく跨ぐ大橋の左岸沿いに伝統的景観にさらに新しい魅力の創出をめざして「であいのゾーン」が整備され、そこに近接して鎮座になる弥栄神社の神事(国指定重要無形民俗文化財)鷺舞のモニュメントがその中央に設置になり、歴史の町のシンボルとして大きく息づいている。(彫刻製作者、倉揮実氏、「島根大学教育学部教授」)

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
→お問い合わせ 津和野町観光協会 島根県津和野町後田イ71-2 tel.0856-72-1771  fax 0856-72-1191

 
 
津和野町殿町通り アクセス・宿泊情報はこちら !
静かな山懐に抱かれた津和野は、城下町として七百年の伝統を持ち、その面影が昔ながらの街並みに今も息づく古き佳き町。上に石見瓦、下半分がなまこ壁のしっくいの白さもまぶしい土塀が両側に続く殿街通りは、津和野の中でも特に景観に優れ、江戸時代さながらの町並みとなっています。

カトリック教会、郡庁跡、藩校養老館跡、家老多胡家表門など数多くの史跡が集まっており、弥栄神社、太鼓谷稲成神社の参道にも通じ、郷土館にも近いこの通りは、津和野のメインストリートです。

白壁、格子戸の前を流れる堀割に色とりどりの鯉がのどかに泳ぎ、初夏は菖蒲が咲き乱れる津和野ならではの風情は訪れる人々の目を楽しませてくれます。

私たち日本人がいつからか忘れ去ってしまった「心のふるさと」が生きている津和野。この街並みは国土庁の「伝統的文化都市環境保存地区」に指定され、町の人々によって大切に守られています。

→お問い合わせ 津和野町観光協会 島根県津和野町後田イ71-2 tel.0856-72-1771  fax 0856-72-1191

 
 
津和野カトリック教会 アクセス・宿泊情報はこちら !
この聖堂は神より大いなる栄光と、乙女峠16人の殉教者の遺徳をしのびたたえるため、1931年建てられました。長崎の日本26聖人の保護のもとにおります。

建築様式は新ゴシックにして、正面レリーフ(紋)はフラシスコ・ザビエルの属していた修道会が16世紀より使っている紋をかたちどったものです。

堂内の中央祭壇は20世紀のはじめにつくられた大浦天主堂とおなじ様式です。そして周囲の絵は西暦紀元はじめにキリストのエルサレムにおける受難の時の十字架の道行きの14留(場)が描かれています。

乙女峠の36人の殉教者に對する信念は、ビリオン神父によってはじまり、次に岡崎裕次郎神父(ネーベル)が25有余年熱心に力を盡くされ、乙女峠記念堂を建てました。

この場所は明治のはじめ建てられた旧藩時代の町年寄堀家の邸であって、殿町通りに向かっている格子窓は茶室の一部でした。現在まで庭園の池のほとりには西郷従道卿・乃木希典大将の手植えの記念樹が育っています。

→お問い合わせ 津和野町観光協会 島根県津和野町後田イ71-2 tel.0856-72-1771  fax 0856-72-1191

 
 
国家老多胡家表門(県指定文化財)アクセス・宿泊情報はこちら !
津和野の殿町通りは一番古いたたずまいを残している所であるが、その中心は多胡家の表門と藩校養老館であろう。

多胡家は代々城代家老を勤めた家で、その表門は県の文化財に指定されている。古色蒼然としたこの大門、向って右端に門番の部屋があり、左端に突き出て格子のついた部屋は、催し物をどを見物した物見の部屋である。

嘉永6年(1853)の津和野大火後この大門が建てられた。当時4万3千石の大名の家老門としては分不相応というので、公儀からとがめはないかと心配した人たちもいたという。

この門を入って道路をはさんで多胡家の本邸がある。昭和28年産業道路(現高岡通り)が開通し、門と本邸を切ってしまった。

さて、この多胡家から古来幾多の俊才が輩出したので、それらをあげてみよう。

先ず殖産家の多胡主水(もんど)がある。

多胡家には通称主水が多く、兄主水実益(さねます)、弟主水真武(さねたけ)の業績が一しょになって主水の業績として伝えられ、荻生阻来(おぎゅうそらい)の「政談」やその弟子太宰春台(ださいしゅんだい)の「経済録」にのせられて全国的に有名になった。

その施策は、天和から元禄にかけて行われた。

すをわち開墾(各地に主水畑と称する地名がのこっている。)干拓(大字笹山の湖水干拓)造林、製紙及びその販売、製茶等の奨励につとめて実績をあげ藩の財政を豊かにし、とくに紙を専売制にし当薄の外貨獲得の資源とした。

主水の弟に外記真蔭(げきさねかげ)があり、江戸詰め家老として吉良上野介の藩主茲親(これちか)に対する虐待を慮りこれを善処し、赤穂藩のようを悲運から救った大人物で、仮名手本忠臣蔵に加古川本蔵として扱われている。

幕末に家老だった丹波は逸斎と号し、谷文晁、桜間青崖に絵を学び、渡辺華山、椿椿山と交わって文人画の大家となった。

兎波真強は、明治元年有栖川宮熾仁親王の御東征に従い、藩兵60名をひきいて錦旗を守護して東下した。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
→お問い合わせ 津和野町観光協会 島根県津和野町後田イ71-2 tel.0856-72-1771  fax 0856-72-1191

 
 
藩校・養老館(県指定史跡)アクセス・宿泊情報はこちら !
殿町通りの側溝に花菖蒲の白黄紫の花が白い土塀を背景にして咲きだす。その花蔭を色とりどりの鯉が悠々と群れ泳ぐ姿はまことに優雅そのものであり、“鯉の町津和野”のこよなき景観として旅人の心を洗っている。

この流れに面して白壁に格子窓の古いたたずまいを見せて藩校養老館の武道教場が残っている。

門を入って右側の教場を町立図書館に、左側の教場を民俗資料館に使用している。その正面奥に森鴎外の遺言碑を前にして養老館の御書物蔵がある。これらが藩校養老館の貴重を遺構である。

かっての養老館はこのほかに文学教場、塾(寄宿舎)武器工場弾薬庫等の建物があり、また、広い馬場や調練場もあって、今の幼花園から大橋北詰までの広い境域をもっていた。

養老館という名称から養老院を連想するが、それは錯覚である。この名の起りは養老館長山口剛斎の書いた養老館記によると、孟子の中にある「我が老を老として以って人の老に及ぼす」という儒教。の人道を説いたところからとったものである。

歴代の津和野藩主は教育に意を用いたが、とくに亀井8代藩主短賢(のりかた)は天明6年(1786)大阪から山崎闇斎(あんさい)の流れをくむ山口剛斎を迎えて養老館を開設した。当時は森村の下中島に在り、儒学を主としていたが、後に医学、礼学、数学、兵学を加えていった。11代藩主茲監はその充実と改革にとくに力をいたし、嘉永2年(1849)新たに国学や医学の中に蘭医学科を設け内容の刷新を図った。

なお、国学科の新設に伴い、国学者同熊臣に養老館学則を作らせた。この学則は皇国史観に立つ人間修養を説いたものであり、その後の津和野藩学のよりどころとした。津和野の国学は大国隆正により本学と称した。嘉永6年(1853)津和野の大火で養老館は類焼に遇い、安政2年(1855)殿町に再築されたのが現養老館である。

教授陣は、儒学に山口剛斎の子孫である省斎、重山、憤斎、鼓渓など大儒がつづき、幕末には西周(にしあまね)も教授とをった。国学には岡熊臣、大国隆正、福羽美静があり、数学(和算)には木村俊左工門、桑本才次郎、蘭医学にシごボルトの弟子吉木蘭斎、緒方洪庵門下の進藤世咲らそうそうたる教授が揃い心骨を傾けて教育に当った。

藩主も時々その学習を親しく見て激励した。

このようを学究的を雰囲気の中で塾生たちは天性を磨き見事に開花したのである。

 
すをわち、西周、森鴎外、福羽美静、山辺丈夫、小藤文次郎、高岡直吉など日本が誇る多くの俊才を輩出したのである
 
…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
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津和野郷土館 アクセス・宿泊情報はこちら !
郷土館は駅から歩いて約10分、大橋を渡った津和野川のほとりにある。津和野の歴史探訪はまずここを訪うことからはじまる。

昭和15年紀元2600年記念に建てた木造モルタル造りの2階建て1棟と、昭和48年郷土館開館50周年記念に建てた鉄筋コンクリート2階建て新館の2棟である。

この郷土館は、大正9年、時の町長が郷土が生んだ先哲偉人の業績をしのび、郷土を語る歴史資料や文化遺産を永く保存して後世に伝え、更に新しい文化の創造発展に資したいという目的をもって「藩校養老館」の一部を「津和野郷土館」として大正10年(1921)1月その誕生をみた。

藩政史料展示場(旧館2階)

まず、正面に津和野城下絵図がある。この絵図は旧津和野藩士栗本格斎の描いたものを模写したもので、(原図は貴重をものであるため汚損を防ぐため収納している。)幕末から明治初年ごろの津和野の城下町形態をうかがうことが出来る貴重をものである。

その前にある平面ケースには、右田静男作の200分の1の津和野城復原模型があり、その右側最初のケースに吉見時代の輪旨(りんじ)(勅命を受けて出した辞令)さらに吉見頼行在銘香炉や陶(すえ)が獄(だけ)のふもとから出た陶軍の茶釜がある。

次に坂崎氏のはかない生涯を語る年表があり、亀井氏関係のものには、8代矩貞の作ったお庭焼、最後の藩主茲監の廃藩建白書や天保年間に作られた城下絵図、津和野城絵図、藩邸図、江戸藩邸図その他遺墨等学術研究上貴重な資料を展示している。

先哲遺品遺墨展示場(旧館1階)

旧館正面の中段の壁に、山田静水の描いた7枚の肖像画がある。津和野藩最後の名君亀井茲監を中心に、国学者で幕末明治の功労者福羽美静、大国隆正、岡熊臣と明治の先覚者西周、山辺丈夫ら郷土の生んだ先哲偉人たちである。

大正中期の名女優伊沢蘭奢(らんじゃ)、校正の神様神代種亮(たねすけ)、さらに津和野に祖先をもつロシヤ語学者八杉貞利、文化功労章を受けた法学者恒藤(つねとう)恭などの貴重な遺品遺墨を展示している。

藩校養老館史料展示場(新館1階)

多くの先哲偉人を輩出した藩校養老館に関係した史料として、初代館長山口剛斎(ごうさい)の持来した孔子像、岡熊臣の養老館学則、養老館参考図書である内治全書、解体新書(銅版)解剖図絵など教育内容を知る資料を展示している。

郷土関係美術工芸品、乙女峠殉教史料展示場(新館2階)

藩政時代の美術工芸家たち(画家の多胡逸斎、山本琴谷(きんこく)、彫刻家大島松渓(しょうけい)、漆器の松澗(かん)斎、松甫(ほ)斎、名刀工竹中祐信(すけのぶ))を中心に作品を展示している。

右側の展示ケースには乙女峠殉教史料を展示している。この展示品は津和野旅情に哀愁の花を添えている。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
→お問い合わせ 津和野町観光協会 島根県津和野町後田イ71-2 tel.0856-72-1771  fax 0856-72-1191

 
 
森鴎外旧宅(国指定史跡)上記写真は森鴎外の勉強部屋 アクセス・宿泊情報はこちら !
 
文豪森鴎外は文久2年(1862)1月19日津和野町大字町田字横堀のこの家で生まれた。

この辺りを横堀というのは寛永年間亀井氏の造成した城の外堀が、大橋から南へ1キロばかり国道の西側に沿って進み、鴎外旧居近くで右折して旧居の前を横に通っていたのでこの名が付せられた。今は埋められているが、旧居前をよく見ると両岸のあとが大体わかる。

鴎外の生家は土塀をめぐらし、門構えの士族屋敷としての格式をもった家であったと彼の著書に書き残している。

屋敷内に入ると左側に詩碑が建っている。これは鴎外が日露戦争後軍中に作った「うた日記」の中の「扣鈕(ぼたん)」の詩を佐藤春夫の揮毫したものを鋼板としたものである。

 
鴎外の家は代々藩の内科医で80石取りであった。祖父伯仙が、その弟子の中から娘峰子の婿に選んだのが、三田尻(現山口県防府市)の吉次家の次男静男であり、鴎外はその長男である。

医家であるから玄関向って左の三畳は薬の調合室であり、その奥の四畳半が鴎外の勉強部屋であった。

母峰子はかねてから鴎外の学問的な成長に願いを込めて、自らもその母について勉強し学力を養い、鴎外が勉強を始めると、その復習を懸命にみてやったという。

母子ともにこの部屋で勉強に励んだ様子がほうふつとして目に浮ぶのである。

鴎外は明治5年11歳の時父とともに上京し、長じて東大医科に学び軍医とをった。明治17年ドイツに留学し、帰朝後軍医として精励し、日清、日露の戦役に従軍、明治40年軍医総監とをった。

一方文学にも励み、医博に加えて文学博士号も得た。彼が世に発表した数々の名作は今も燦として光彩を放ち、世界の文豪として仰がれていることはあまりにも有名である。

彼は11歳で出郷以来、ついに津和野に帰る機会がなかった。「鉄道が開通したらぜひ帰る」といいながら果さず、大正11年7月9日(1922)死去した。

その遺言の一節に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と言った辞世の一句は、われら郷党の心を深く打つものがある。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
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西 周(あまね)旧居(国指定史跡)アクセス・宿泊情報はこちら !
 
西周は文政12年(1829)2月3日、津和野町大字森村字堀内で生れた。(現津和野小学校々門附近)そして天保3年(1832)彼が4歳の時杉片河(すぎかたこう)の今の旧居へ移った。

西家は代々蒲の外科医を勤め100石をもらっていた。周は4歳の時から祖父時雍(ときやす)に孝経を、6歳で四書を教えられたというから、早教育を受けた天才児だったのだろう。

天保11年12歳で藩校養老館に入って勉強を始めた。その精励ぶりはすばらしいものだったという。勉強部屋は土蔵階下の西側3畳の暗い部屋であった。「今日はこの本を」と思ったら部屋を出て食事をする時間も惜んで母に握り飯をつくってもらいがんばったと言われる。

 
その勉強一辺倒は、世間の人びとからは狂人的に見えたようである。時には片手に書物、片手に油徳利をぶらさげてぼくりと下駄を片々にはいたお使い姿は物笑いの種になったという。

また米をつかせると本を読みをがらつくので、その方に熱中して米が小米にをってしまったといいふらす者もいたという。これが他日日本の学界をリードする大学者として活躍した周の少年時代であった。

周の才能と勉学は藩主の認めるところとをり、嘉永元年(1848)彼が20歳の時、一代還俗(げぞく)(医者をやめる)を命ぜられ儒学に専念することにをった。

数年を経て養老館の教師に採用され、その間に大阪、同山に遊学して学問を深めた。25歳の時生家を出て江戸へ行った。

江戸では洋学の研究を始め、26歳の時思うところがあって脱藩して洋学に専念する。やがて幕府に認められて蕃書調所(ばんしょちょうしょ)の教師とをり更に続いて幕府に抜擢されてオランダ留学を命ぜられた。

2年半余大いに研さんを重ねて帰朝し開成所(蕃書調所の後身)の教師とをった。15代将軍慶喜の信任がとくに篤かったという。

維新後、明治政府は当時沼津兵学校長の職にあった西周を徳川氏より譲り受けて兵部省に採用した。

その後兵部省が陸軍省に改まっても引緯き勤め軍の諸制度をつくった。軍人勅諭は彼の起草といわれる。

この間文部省にも兼任していた関係請われて東京高等師範学校初代校長に就任した。退任後は元老院議官、貴族院議員をども勤め国政に参与した。

一方、福沢諭吉らと明六社をつくって西洋の学問思想の紹介、啓もうに努めた。さらに学界最高の学術団体である東京学士院会長にも選ばれた。

哲学の語を始め、哲学、心理学をどの用語の中には、彼の訳によるものが多い。

明治31年1月31日69歳で死去した。功により正三位勲一等男爵を授けられた。また鴎外とともに文化切手に載せられ今にその光彩を放っている。

旧居の母屋は嘉永6年の大火で焼失し、安政初年に再建したものである。

幸い土蔵は類焼を免れ周が4歳の時に移った当時のまま現在に保存されている。

母屋の要人、土蔵の平入構造ともに珍しいものといわれる。この旧居は昭和46年修復工事を行い往時の姿に復元し一般に公開している。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
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永明寺全景 森鴎外の墓 李龍眠様
 
覚皇山永明(ようめい)寺(県指定史跡)アクセス・宿泊情報はこちら !
永明寺の参道をしばらく登って行くと、山門としては少し風変りを大きを門が建っている。これは殿町角にあった総門を持って釆たのだと言われ、明の帰化憎心越禅師(水戸光圀の師)の筆にをる「覚皇山」の大額がかかげられている。

この山門を入ると、右手に鐘楼と正面に中門が見え、その奥に本堂が見える。七堂伽藍がそれぞれ程好く納まっている。

この覚皇山永明寺は曹洞(そうとう)宗の禅寺で、応永27年(1420)津和野城主吉見頼弘(よりひろ)が創建したものである。開山は本山永平寺を開いた道元禅師の法孫月因和尚(おしょう)である。

以来、この寺は吉見氏、坂崎氏、亀井氏と各藩主の菩提寺として栄え、既に550年を越えている。江戸時代には石見一円の禅寺を総括して末寺70数力寺を擁し、また、禅道場としても名高く、修行僧200人を越え、寺領として特に虹が谷で100石を領していた。

寺は度々火災に遇ったが、現在のものは享保14年(1729)の火災後に建てられたもので、仮普請のままではあるが、畳数400枚を越える一大巨利である。

中門を入った中庭の左手、今梅林にをっている所は座禅堂の跡である。

裏の庭園は林泉配石美しく、春の新緑、夏の水蓮、秋の紅葉等その時々の風情がある。殿様お成りの節使用された書院から窓越しに静かにそれををがめると、にわか大名にをったようを気分にをり趣き一入である。

寺宝館には、県文化財の指定を受けている「室町初期写李龍眠(りりゆうみん)様羅漢像」、兆殿司(ちょうでんす)の捏磐像、亀井茲矩(これのり)の守り本尊だった大日如来(鎌倉時代の彫刻でもと後醍醐天皇の御持仏だったと伝える)をどがあり、また本寺には大島松渓(しょうけい)、岡野洞山をど本蒲の名工たちの絵画、彫刻を数多く蔵している。

境内には山門を入って左手の墓地に文豪森鴎外(おうがい)の墓(東京三鷹より分骨し、墓石も三鷹のものにそっくりに造ってある)が青野山を背にし建てられている。

本堂左手の小道を登ると、悲運にも千姫事件に滅んだ坂崎出羽守の墓があり、訪う人をして勇将の末路を悲しませる。

なお、その上方の墓地には亀井の分家、高崎亀井の墓地があり、大きを墓石が立ち並んでいる。さらにその上段には城代家老多胡家の墓地があり、多胡外記、多胡逸斎らが静かに眠っている。

参道を下った右側の墓地には「井伊大老の死」「剃刀」をど幾多の名作をのこした劇作家中村吉蔵夫妻の墓がある。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
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乙女峠・マリア聖堂 アクセス・宿泊情報はこちら !
 
津和野駅の裏手に大定院と光明寺の二寺が並んでいる。

この間の谷あいの小径を約100米ばかり登ると中腹に至り、その山蔭に十字架を頭にいただいた「マリア堂」がある。

ここが「浦上四番崩れ」で捕えられた長崎浦上のキリスト教徒が明治元年から6年まで幽閉され、迫害の鞭により36人の殉教者を出した聖地乙女峠である。

ここはかつて廃寺光琳寺跡であり、ここを竹矢来で囲み急造の牢獄とした。

ここへ第一次流罪の浦上きっての信仰堅固な高木仙右エ門、守山甚三郎など隠れキリシタンの精鋭28人を収容し、改宗転向のための迫害が展開される。

翌明治2年(1869)キリシタン徒総涜罪の大弾圧により、さらにその家族たち125人を収容し第一次にもまさる迫害はまさに近代日本の残酷物語であうた。

ここに当時の苛酷を迫害状況を回想し殉教者の霊を慰めたい。

その一つは「食責め」である。1日におかゆのようを麦飯にわずかを味噌と塩が添えてあるだけというきびしい食責めの鞭である。

その二はマリア堂正面の絵画の通り竹縁に全裸にして坐らせ両手を柱に縛って打叩するという拷問である。

当時14歳の少年裕次郎がこの拷問に付せられ、じつと耐えをがら、ふと向いの屋根を見ると一羽の親雀がえさを小雀の口に入れてやる。裕次郎はこれをみて雀でさえ吾児を大事に育てている。私もきっとイエス様が救いに来てくださるのだと思うと勇気百倍して耐えることができたと、死の直前ひそかに肉親に洩らしたという。

少年裕次郎の健気を姿が瞼に浮ぶのである。

その三は「水責め」である。凍てつくようを氷の張りつめた池に酷寒のある日、仙右エ門と甚三郎は裸にして突き落され頭から冷水を浴びせるという拷問である。残虐の絶頂ともいうべきものである。

これらの拷問にもなお屈しをい者はその罰則として「三尺牢」入牢の拷問が課せられる。この三尺牢は文字通り縦横高さ共に三尺(約90cm)四方の牢であり、ここに押し込め身動きもできをい責苦を課すのである。

このような拷問を繰り返えされをがらも信仰堅固な甫上の精鋭であり、よく艱難辛苦に耐えて信仰を守り抜いたのである。

さて、キリシタン迫害事件後幾星霜を経てビリヨン神父は、はじめて津和野へ巡礼の一歩を踏み入れ往時を偲び殉教者の霊に深い祈りを捧げた。そして水責めの池のほとりに「信仰の光」の石碑を建て殉教精神を顕彰した。

昭和23年(1948)ネーベル神父により聖母マリアと36人の殉教者に捧げる聖堂「マリア堂」が建立され、昭和26年(1951)その献堂式を挙げた。

翌27年5月3日第1回の「乙女峠まつり」が挙行され、以来若葉かおる5月3日を例祭日として全国の信者数千人が集い厳粛をまつりが挙行される。

さらにネーベル神父は昭和43年聖母出現100年を記念して浮き彫り鋼根碑を建立し殉教者の霊を慰めた。

このように殉教者の顕彰に大きを足跡を残したネーベル神父は昭和47年病床の姉を見舞うため母国西ドイツに一時帰国中のところ、不幸病魔の襲うところとなり昭和51年8日今一度津和野に帰りたいというせつない望郷の心を抱きをがら80歳の天寿を全うし再び帰らぬ旅路に出立になる。

さて、キリシタン弾圧のための流罪地は全国38か所に及んでいるが往時のままの姿で残っているのはこの乙女峠ただ一か所である。

この「乙女峠」の細い山道を歩きをがらありし日の殉教者の面影に思いをめぐらせることも、津和野旅情にさらに哀愁の花を添えてくれることであろう。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
→お問い合わせ 津和野町観光協会 島根県津和野町後田イ71-2 tel.0856-72-1771  fax 0856-72-1191

 
 
蕪坂(かぶらざか)の追福碑 アクセス・宿泊情報はこちら !
永明寺参道の右下、畑迫方面に行く蕪坂の道をしばらく登って行くと、俗に千人塚と呼ぶ万霊塔(天保の飢饉で餓死した人たちの墓)の奥に境域を設けて石碑が建っている。

これは乙女峠に幽閉されて殉教した36名の遺がいを納めて、ビリヨン神父によって建てられた追福碑である。碑の表に「為義而被害者乃真福」とあり、真に「明治二十四年八月」とある。

なお、その碑の左に殉教者たちの名を刻した石碑が、昭和49年3月長崎の遺族たちによって建てられ、その信仰をたたえている。

…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
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