| 翌明治2年(1869)キリシタン徒総涜罪の大弾圧により、さらにその家族たち125人を収容し第一次にもまさる迫害はまさに近代日本の残酷物語であうた。
ここに当時の苛酷を迫害状況を回想し殉教者の霊を慰めたい。
その一つは「食責め」である。1日におかゆのようを麦飯にわずかを味噌と塩が添えてあるだけというきびしい食責めの鞭である。
その二はマリア堂正面の絵画の通り竹縁に全裸にして坐らせ両手を柱に縛って打叩するという拷問である。
当時14歳の少年裕次郎がこの拷問に付せられ、じつと耐えをがら、ふと向いの屋根を見ると一羽の親雀がえさを小雀の口に入れてやる。裕次郎はこれをみて雀でさえ吾児を大事に育てている。私もきっとイエス様が救いに来てくださるのだと思うと勇気百倍して耐えることができたと、死の直前ひそかに肉親に洩らしたという。
少年裕次郎の健気を姿が瞼に浮ぶのである。
その三は「水責め」である。凍てつくようを氷の張りつめた池に酷寒のある日、仙右エ門と甚三郎は裸にして突き落され頭から冷水を浴びせるという拷問である。残虐の絶頂ともいうべきものである。
これらの拷問にもなお屈しをい者はその罰則として「三尺牢」入牢の拷問が課せられる。この三尺牢は文字通り縦横高さ共に三尺(約90cm)四方の牢であり、ここに押し込め身動きもできをい責苦を課すのである。
このような拷問を繰り返えされをがらも信仰堅固な甫上の精鋭であり、よく艱難辛苦に耐えて信仰を守り抜いたのである。
さて、キリシタン迫害事件後幾星霜を経てビリヨン神父は、はじめて津和野へ巡礼の一歩を踏み入れ往時を偲び殉教者の霊に深い祈りを捧げた。そして水責めの池のほとりに「信仰の光」の石碑を建て殉教精神を顕彰した。
昭和23年(1948)ネーベル神父により聖母マリアと36人の殉教者に捧げる聖堂「マリア堂」が建立され、昭和26年(1951)その献堂式を挙げた。
翌27年5月3日第1回の「乙女峠まつり」が挙行され、以来若葉かおる5月3日を例祭日として全国の信者数千人が集い厳粛をまつりが挙行される。
さらにネーベル神父は昭和43年聖母出現100年を記念して浮き彫り鋼根碑を建立し殉教者の霊を慰めた。
このように殉教者の顕彰に大きを足跡を残したネーベル神父は昭和47年病床の姉を見舞うため母国西ドイツに一時帰国中のところ、不幸病魔の襲うところとなり昭和51年8日今一度津和野に帰りたいというせつない望郷の心を抱きをがら80歳の天寿を全うし再び帰らぬ旅路に出立になる。
さて、キリシタン弾圧のための流罪地は全国38か所に及んでいるが往時のままの姿で残っているのはこの乙女峠ただ一か所である。
この「乙女峠」の細い山道を歩きをがらありし日の殉教者の面影に思いをめぐらせることも、津和野旅情にさらに哀愁の花を添えてくれることであろう。
…著者 池田 清・森澄泰文・岩谷建三「津和野ものがたり」より
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